恋人との同居が手放しでイイものだとは、水瀬名雪は思っていない。メリットには同じかそれ以上のデメリットがあるものだ。少なくとも、羨ましがられるほどのことではないと思う。
 そういうと、なんだかんだ言ってそれって同棲だろう、なにが悪いんだ? と不可解に思われてしまうことが多いのだが、名雪から言わせれば大きな間違いだ。同棲というのは、ちゃんとそれ相応の付き合う期間を置いて互いの意志で同じ屋根の下、生活を共にすることを決めて実行する事を言うのであって、自分達のように付き合う前から同じ家に家族として住んでいたのとは根本から違っている。大体、親兄弟だって一緒に住んでいるのだ、恋人同士になったからといって本来の定義による同棲生活みたくベタベタ出来るものではないのだ!(注1)

「大体ね、一緒に暮らしてたら大変だよ。見られたくない所だって見られちゃうし」
「たとえばー?」
「た、たとえ……涼子ちゃん、察してよ」

 谷本涼子のあまりにもあっけらかんとした問い掛けに答えを窮して、名雪は眉を傾けた。生憎とそんな話をぶっちゃけられるほど名雪は開けっ広げな性格ではない。

「ああ、それは私もあるな。分かる分かる。私の場合大概なら平気だが、鼻毛を抜いているのを見られたときはさすがに気まずかった」

 だが、名雪はそうでなくても、世の中ぶっちゃけて泰然としていられる人はいるものだ。狭いテントの中、ちんまりしているサイドテール娘・御子柴浅霞の隣であぐらを掻いているTシャツにスパッツという寝間着姿の女もその一人のようだった。
 氷屋千歳――軟式野球同好会所属の二回生で、前髪に赤いメッシュを入れ、その上金色に髪を染めた派手な雰囲気の女だ。ただ、その鼻先には野暮ったい黒縁眼鏡が乗っていて、派手という印象が妙な方向にずらされてしまっている。名雪と同様、恋人関係にある男と同居しているという経歴の持ち主だった。それだけならただの同棲で何の問題もないのだが、その恋人というのが彼女の高校生の弟という事実が総てをぶち壊しにしている。本人が言うには血が繋がってないからいいのだそうだが、現実そういう問題ではない。
 ともあれ、その男前な性格から会長や副会長とは別の意味で皆から支柱と頼みにされている人物だ。

「そそ、それは恥ずかしかったのですね、名雪さん」
「さもわたしも鼻毛抜いてるとこ見られたみたいに言わないでー」

 口振りだけは同情的だが、言ってる口許はすんげえ楽しそうな御子柴浅霞。急いで否定する名雪に、金髪眼鏡の女は腕組みをして鷹揚に頷きながらしたり顔で口にした。

「じゃあ下の毛か」

 キャーと興味津々で耳をそばだてていたほかの面々が黄色い声をあげた。恥ずかしいやら呆れるやらで頬に朱を散らしながら名雪はハァと溜息をついた。こりゃ、何を言ってもダメだ。

 修学旅行だろうと合宿だろうと、夜更けに女所帯で集まればテンションは際限なくあがっていく。
 四つ張ったテントの一つに集まった女性五人のパジャマトーク。繰り広げられるのは枕投げならぬ体裁を排した告白タイムだ。勿論題材は主として男関係。夜更けの寝床ともなれば、真昼の喫茶店ではちょっと言葉に出来ないような猥褻領域を容易に踏み越えるのが常。

「でもー、下の毛って時々俺が剃るーって人いますよねー」

 なんて危ないネタもシレっと受け入れられてしまう。

「う、わぁ、なにそれ? そういう趣味の男の人っているの?」

 ちょっと引き気味に引き攣った半笑いを浮かべる名雪に、ネタを振った涼子は屈託なく答えた。

「やー、いますよー、いるんです、これが。というか、毛がないのが好きなのかしら?」
「なにやらその言い草、経験者のようだな、谷本」
「はー、ぶっちゃけ前の前の彼氏がそんな感じで。相沢くんは違うんですかー?」
「ゆ、祐一?」

 そういう発想のなかった名雪は、目を白黒させながら首をひねった。

「毛を剃ってくれなんてこと、言われたことないんだけどなあ」
「言われたことがないからその欲望を持たないとは限らないぞ、水瀬」

 過去の一時期、酷く荒れた生活を送っていたという氷屋千歳が真面目な顔をしていった。

「本人に自覚がなくても、男は様々な種類の欲望を秘めているものだ。そんな趣向を引き出してやるのも、女の甲斐性というものだぞ」
「そういうものですか」
「そういうものですねー、甲斐性という言葉には抵抗ありますけど、色々試すのは楽しいですよ」

 一人の男としか恋愛もセックスもした事の無い女にはちょっと反論出来ない類の説得力あるご意見に頷くしかない名雪。

「うーん、今度聞いてみようか」
「きっ、聞くのですか? 具体的にはどのようにして?」

 さっきから熱心にメモを取っていた浅霞がインタビューの矛先を名雪に向ける。参考にするらしい。

「そ、そうだね。祐一ってパイパン好き? って感じかな?」

 にぎゃーっ!! とサイドテール少女は頭を抱えて倒れ伏した。気絶した兎のようにピクピクと痙攣しながら魘されている。

「身も蓋もないのです、情緒もへったくれもないのです」
「そうかなー? 男心にグッとこない?」

 心外そうな名雪の言葉に、浅霞はピョコンと起き上がって言い放った。

「きません。皆無です」
「きっぱり言い切りますねー。浅ちゃん男心が分かるんですか?」

 からかうように言った涼子を、浅香はグッと睨みつけた。睨んでるといっても気弱な仔犬が一生懸命気を張ってるみたいな可愛げしか窺えない顔だけれど。

「わ、わかるのです。涼子さんみたいに十何人もの男の人と付き合ったことはありませんけど――」
「ま、そんなに沢山の人と付き合ってませんよ。せいぜい片手の指+αで足ります」
「はうっ!? 充分多いのです!」
「そうですかー?」

 不思議そうに他の女性会員を見渡すと、コクコクと首を縦に振る人と、そうでもないぞと小首を傾げる人との半分に割れた。

「恋愛経験は多い方がいいと思うんですけどね。人に強制するつもりはありませんけどー。でも名雪ちゃんみたいに、一人一殺っていうのは稀少な方じゃないですかー?」
「ひ、一人一殺って」
「何気に含蓄のある表現だな」
「び、微妙に涼子さんの恋愛観が垣間見えた気がしました」
「はー、そうなんですか?」

 妙に納得した風に頷いてる面々に、涼子は独り不思議そうに目を瞬いた。

「だが谷本の言う通り、水瀬のように一人の男に一筋というのは今時珍しいのは確かだな」
「珍しいのですか? わたしは素敵だと思うのです」
「いや、少し言い方を間違えたな。男性経験が初めて付き合った男とだけというのが珍しいと言いたかった。だいたい、このままだとその一人で終わりそうじゃないか。それは詰まらないだろう。人生の潤いが足りん。どうだ水瀬、火遊びしたいようなら私がなんとか見繕うが?」

 あまりにも何気なく言われたので、名雪は一瞬言われるがまま頷きそうになり、危うく血相を変えて両手を振りまわした。

「み、見繕うって何をですかーっ!?」
「後腐れの無い男のことだが」
「けっこうです! わたしは祐一以外の男の子には興味ないのです、うにゅ!」
「と言う女ほど後々浮気に溺れやすいのだがな」
「なんでーっ!」
「一人しか男を知らんと言う事は、時として他の男を未知であるがゆえに魅力的に感じてしまう傾向があるのだ。一歩踏み外すと深みに嵌りやすい。だから今のうちに幾人か種類の違う男を経験しておくのが将来的には吉と出るぞ」
「うーー」

 顔を顰めて唸る名雪の向かいで、御子柴浅霞は酸っぱくなった漬物を飲み込んだような顔をしてうめいた。

「話が生々しすぎるのです」

 それを聞きとがめた涼子がふいっと浅香を見やり、舐めるように視線を這わせた。そして数式の計算値を確認するかのような口調で言った。

「浅ちゃんは処女ですか?」
「ぎにゃ!? どどどどうしていきなり話がそっちに飛ぶのですか!?」
「えーと、なんとなくそうかなー、と」
「涼子さんの眼は節穴です。私は既に清らかではないのです」
「ぬぁ、なんですってーーっ!!?」

 ガヤガヤと騒がしかった場が一瞬にして静まった。
 みなが振り返る視線の先で、一人早々と歓談の輪から外れて寝袋に潜り込んでいたはずの柊琴夜がゴジラのように飛び起きる。そのまま鳴門の大渦のような髪を振り乱しながら、大声にびっくりして失神しかかっている浅香の肩へと掴みかかった。

「じょじょ、冗談も程々になさいな、御子柴さん! あああ貴女のような方までが背伸びをしてはしたない話題に付いて行こうなど、無理をしてはいけません、性行為の経験の有無だけが大人の証明ではありませんのよ。ご自分の品位を貶めるような真似はよしなさい!」
「うう、嘘じゃないのです! 浅香には恋人がいるのです! ……できたのは最近ですけど」
「御子柴さん…………わたくし、嘘は嫌いですの」
「ぎにゃーーっ!? どこから金属バットが出てきたのですか!?」
「髪の毛の中から取り出したように見えましたねー」
「え? わたしは背中からにみえたよ」
「馬鹿者、バットなら枕もとに置いてあっただろう」

 いい加減な事を好き勝手言ってる後輩たちを一睨みし、氷屋千歳は激昂している琴夜から浅香を背後に庇った。

「落ち着け、琴夜。御子柴に恋人がいるのは事実だ。私が保証する。性交渉の有無は知らないが」
「おほほほほほほ、認めませんわ認めませんわ」

 目が血走ってます。

「はぁ、だいたいお前、今日は疲れたから先に寝てたんではなかったのか?」
「うえ!? そ、それは、そのあの」
「まあいい。起きてたんなら話に加われ。ちょうど盛り上がっていたところだ」
「さあ、明日も早いですし、皆さんも早く寝床につくことをお勧めしますわ。では、おやすみなさいませ」
「待て」

 千歳の合図とともに、浅香以外のメンバーが一斉に琴夜の手足を拘束した。

「ななななんですの!? 皆さん、無礼ですわよ、お放しなさい!」
「そう嫌がるな、密かに安全パイだと認識していた御子柴が、実は既に彼氏持ちだと知ってショックのあまり寝たふりをしながら聞き耳を立てていたのを忘れてしまった柊琴夜(処女)、いいからこっちにきて座れ」
「ち、ちとせーーっ!」

 暴れる琴夜だったがさすがの会長も二人がかりで組み付かれては振り解くに振り解けず、千歳の前に引っ立てられる。

「さあ、これから我が同好会会長殿への質問タイムだ。会員諸君、思う存分吐かせたまえ。琴夜、回答拒否は許さんぞ。会員への説明責任は会長としての義務だと同好会規約にもきっちり明文化されているからな」
「説明責任の意味が違います!!」
「却下だ」
「嫌です、わたくしは寝ます、放しなさい! こんな、こんな下品で女性としての慎みに著しく欠けた会話に加わる口をわたくしは持ちません! だいたい貴女たちっ、ししし下の毛だの胸で挟むだの野外プレイだの、言ってて恥ずかしくねえのかよ!? あからさま過ぎんだよ、生々しすぎるんだよ、引くだろうがよっ、もっと控えめにしろよっ、それでも女かーーっ!!」

 途中から完全に人格が変わって喚いてる会長を、涼子がむしろ感心した様子でこぼした。

「女のくせに女に幻想を抱いてるなんてー、珍しい人ですね」
「修学旅行やキャンプの夜には猥談と暴露話が基本なのです。大学生にもなって今更怒られても困るのです」
「でも、わたしも昔はそういう話題は苦手だったから気持ちはわかるよ」

 やや同情の仕草を見せる名雪。だが、助ける様子をまるでみせず、率先してきっちり腕を決めているところなぞけっこう酷い。

「さて、誰からでもいいぞ」
「はーい、では私から」

 ピョコンと手を挙げたのは谷本涼子だ。怯えたケモノのように唸り声を立てて威嚇する琴夜に、動じた風もなく屈託なく品を作る。

「会長はやっぱり処女なんですかー?」
「いきなりそれかよっ!! こほん……そ、そんなわけないじゃないですか」
「じゃあお尻でしたことはありますかー?」
「お尻?」

 フランス料理店のメニューにもんじゃ焼きの項目を見つけてしまった客のような困惑顔をしている琴夜に、ごにょごにょと千歳が耳打ちする。ふむふむと頷いていた琴夜だったが、突然耳まで赤くなって千歳を突き飛ばした。

「じょじょ冗談じゃねぇぇぇ! そんなこと、経験あるわけないでしょう!!」
「えー、でも普通は初体験の前にお尻でするものなんですよー」
「うえ?」
「するものなんですよー」

 涼子さんリピート。
 途端、頭に言葉の意味が浸透した琴夜はムンクになった。

「ぬええええええええええええええ!!? そそ、そうだったんですの!?」
「つまりお尻でしたことのない会長は、やっぱりしょ――」
「あ、ああ、そうでしたわ、うっかり忘れていました。お尻も当然、経験済みですのよ」

 おほほほほほ、と手の甲を口許に当てて笑う琴夜の後ろで、名雪たちが顔を寄せ合う。

「えーっと、あれって涼子ちゃん、嘘だよね。わたし、はじめてのときにお尻でなんかしなかったよ」
「浅香が聞いたことのない慣わしです。私もしてないのです、というかまだしたことないのです」
「あれに騙されるのか、琴夜は。相変わらず面白い女だ。これは本当の初体験の際が見ものだな、実際見物できるものではないが。あ、私はあるぞ」

 こそこそと脇で物騒な内緒話をしている面々を他所に、涼子の尋問は続く。

「それは幸いでしたねー。先にお尻でしておかないと、初体験ってとてつもなく痛いそうですから」
「へっ、先にお尻でしていたら痛くないのですか?」
「ええ、全然痛くありませんよー、痛くなかったでしょ?」
「お、おほほほほ、そうでしたかしらねー」

 空笑いしながら、勉強になった、と脳内メモリーにしっかと刻み込んでるお嬢様。

「それで、相手は誰だったんですか? やっぱり柴崎さんですよね」
「じょ、冗談ではありませんわ。どうしてそこで柴崎の名前が出てくるんですの?」
「えっ? 柴崎さんは会長の恋人さんではないんですかー?」
「違います、失敬な!」
「好きな人でもないんですか?」
「柴崎はただの腐れ縁の幼馴染です。それ以上でもそれ以下でもありません」

 一瞬、朗らかな涼子の笑みが呆れと感嘆の入り混じった複雑な苦笑に彩られる。
 腐れ縁の幼馴染って、そんなステロタイプな答えを実際に耳にすることがあるとは思いませんでした。凄いですねーほんと。

「でも顔とか格好いいですよー。寡黙なところも渋いですし」

 はん、と琴夜は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「谷本さん、貴女は本当に目が節穴ですわよ。あんな顔、平凡でせいぜい並みがいいところではありませんか。だいたい、あのズボらな男の何処を見て渋いなどという言葉が出てくるのか信じられませんわ。このわたくしを目覚まし扱いするわ、脱いだ服は散らかしたままほったらかしだわ、偏食だわ、三日も掃除して差し上げなければ部屋がゴミで埋まってしまうわ、わたくしがせっつかないと一週間お風呂に入浴しなくても平然としているわ、とにかく男としてという以前に人として如何かと思うような男ですのよ。いえ、あれは人というより猿でけっこうですわ、猿猿猿」
「はー、会長は柴崎さんのこと、あんまり好きじゃないんですね」
「当たり前です。あんな男、面倒なだけですわ」
「じゃ、私、柴崎さんとお付き合いしてもいいですよね」

 居丈高にツーンと逸らされていた顎が、留め金の外れた蓋のようにカクンと落ちた。
 口をパクパクさせている琴夜に限界まで見開いた目を向けられた涼子は、可愛らしく首を傾け鳥の羽先でうなじを擽るような口振りで琴夜に告げた。

「以前からちょっと気になっていたんですよー。会長に遠慮して憚ってたんですけど、会長がそう仰るのなら遠慮なく明日、告白してみます」
「…………だ」
「だ?」
「ダメーーーーーーーっ!!」
「そうですか。じゃあやめときます」

 速攻で駄目出しが受け入れられてしまい、血相を変えてテントを突き破らんばかりに勢い良く立ち上がった柊琴夜はその勢いのまま引っくり返った。

「ふふふ、会長はかわいいですねー。可愛すぎてお持ち帰りしたくなっちゃいますー」
「あぅあぅあぅあぅ」

 蛙のように這いつくばってあぅあぅと喘いでいるお嬢様の頬っぺたを、屈みこんでプニプニと突付いてニコニコ笑っている谷本涼子。
 この場の様々な要素をごちゃ混ぜに突っ込んだ果ての縮図のような光景だった。

「っていうか、幾らなんでも琴夜先輩は分かり易すぎです! 分かり易すぎて見てるこっちがいたたまれないのですっ」

 酸欠みたいな顔をして目をバッテンにしているサイドテールの少女に相槌を打って名雪が苦笑をこぼす。

「ほんと、根っからご存分に弄んでくださいってキャラだよね」
「琴夜もそうだが、谷本は谷本でえぐい女だな、あれは」
「でもちぃさん、琴夜さんはあれでいいとして、柴崎副会長の方はどうなんですか?」
「タケは琴夜をどう思ってるかってことか?」

 周囲には自分のことを「ちぃ」と呼べと強要している金髪の女は、名雪の質問に意表を突かれたように目を瞬くと、困ったように眼鏡の弦を摘んで外し、唇に含んで眉根を寄せた。

「良く分からん。お前も知ってのとおり、あの男は外見からは何を考えてるかさっぱり分からないやつだからな。まんざらではないと思うんだが、いささか自信がない」
「おお応援とか、してあげませんですか?」
「応援? 気が進まないな。他人の関係に首を突っ込んでもろくでもない結果に終わるのが関の山だ」

 勢い込んだ浅霞の発言だったのだが、それを耳にした途端目の前の出来事すべてに興味を失ったように千歳は醒めた顔になり、指で摘んでクルクルと回転させていた黒縁眼鏡を鼻先に乗せた。

「さて、そろそろ就寝しないと明日が辛くなる時刻だ。谷本、そのへんにしておいてやれ」
「はーい、それじゃあ名雪さん、私たちのテントに戻りましょうか」
「あ、うん」

 ここは会長と千歳、それに浅霞の三人にあてがわれたテントだ。名雪と涼子のテントは別に用意されている。

「それじゃあ、おやすみなさい」
「失礼しまーす」
「おう」
「お二人とも、おやすみなさいです」
「谷本〜、あしただ〜、あした覚えてろよ〜」

 二人分の見送り+怨念の篭った恨みの声を背に、名雪と涼子は都会から遠くはなれた山奥特有の、肌が引きつるような静寂が張り詰めている夜の中へと這い出した。

「あーあ、いいの涼子ちゃん。あんまりからかうから琴夜先輩本気で恨み節入ってたよ、あれ」
「女は恨まれてナンボですよ、名雪さん」
「それは初耳の格言だよ。それに、微妙に意図されてる意味と使い方が違う気がする」
「気にしないことです。気にすると女の子でも禿げますよ。だからと言ってこのおでこは禿げたんじゃなくて元々ですから勘違いしないでくださいねー。でも元々というのもそれはそれで腹が立つといいますか」
「はあ」

 おでこが広いのを名雪は可愛いと思っているのだが、本人はいたく気にしているらしい。でも気にすると禿げるなら逆効果じゃないだろうか。ところで女の子って禿げるの?

「それにしてもこんなキャンプ地で、明日の朝、先輩はあの髪をどうやってセットするんでしょうねー、気になります」

 そう言って、涼子はそちらの疑問の方が深刻だと言いたげに難しい顔をしてみせた。

「星が綺麗だねー」
「あからさまに直前と会話が断裂してるんですけどー」
「気にすると禿げるよ」
「何気に人の気持ちを逆なでする人ですねー、名雪さんは」
「最近良く言われる。性格悪くなったって。なんでだろう?」

 テントが別々と言っても、個々に離れて点在しているわけもなく、名雪たちのテントが設置してある場所は会長のテントの隣。歩いて十秒も掛からない。だが、星が綺麗なのは本当で、夜の冷たい空気が美味しいのも真実で、このまますぐにテントにもぐりこんで眠ってしまうのも勿体無く、「ちょっとおしゃべりしませんか」という言葉に乗って、名雪は涼子と連れ立ってキャンプ場の外周をしばらく散歩することにした。

「やっぱり恋人の影響じゃないんですかー? 特に一緒に暮らしてると段々似てくるって言いますし」
「えーー。それはヤダな」
「どうしてですか? 恋人の色に染められるというのは名雪さんみたいな人だと嬉しいんだと思ってましたけどー」
「ふーん、わたしってそういう風に見えるんだ」

 コツンと足元の石を蹴り、名雪は積んである丸太の上に腰掛けた。追って涼子も隣に座る。

「確かに自己主張が強いタイプじゃないって自覚はしてるけどね」
「そういう意味じゃないですよー。名雪さん、ふわふわしてるようで中心線はビシッと通ってて揺るがない人ですしー、つまり頑固」

 確信を込めて言い切られてしまった。咄嗟に違うよと反論しようと思ったものの、説得力のある反証が思い浮かばずごにょごにょと言葉を濁してしまう。

「譲らないところがあるから、その他の部分を恋人に染められても余裕でいられるっていうか。そんなように見えるんですよー。その点、私なんかそういう余裕全然なくって、相手に全部預けきっちゃうか、それとも相手を自分の思うとおりに染め上げちゃうかしないと落ち着かないんですよねー。そういうのって、やっぱり上手くいかないことが多くって」
「別れちゃうの?」
「別れちゃうんです」

 間隔を置いてポツリポツリと立っているだけの薄暗い外灯は、深い山の夜を照らし出すほどの光を与えてはくれない。だが、闇に翳って朧にしか見えない涼子の横顔には屈託はなかった。

「付き合う回数は多いんですけど、やっぱり本気の恋愛って早々出来ないんですよね。ああ、これはダメだなーってなんとなく分かっちゃう。で、なるべく穏便なうちに別れちゃうんです。だから回数ばかり多くなっちゃって」
「そう、なんだ。涼子ちゃんは、恋多き女ってイメージだったよ」
「なんですか、それ」

 おかしそうにケタケタと彼女は笑った。

「まあ外れてはいないですよ。実際恋はよくしますもん。恋愛はドキドキワクワクして楽しいです。酷い目にも何度か合いましたけどね、それでも恋をしたいっ! って気持ちは全然消えないんですよね、不思議なことです」
「はー」
「でも、なかなか本気になれるような人にはたどり着けなくて。だから、一発で本物を引き当てた名雪さんは、私とっても羨ましいなーって思ってるんですよ」
「そ、それはどうも」

 言い方はあれなのだが、思わず照れてしまう名雪であった。
 面白そうに頬を染める名雪を見ていた涼子だったが、おでこにひっついた前髪を鬱陶しそうに払いのけ、笑んでいた口許をふと真面目に引き締めた。

「一度聞いてみたかったんです、良いですかねー」
「え? なんだろう、わたしでよければ答えるよ」
「じゃあ遠慮なく。恋は熱しやすく冷めやすいと言いますよね。名雪さんは怖いと思わないんですか?」
「怖い?」
「名雪さんは、今本気ですよね。後ろを全然顧みない、自分の全身全霊を見境なく炉に投げ打ってるみたいな本気。怖いじゃないですか。それって保険も命綱もつけてなくて、失敗すれば人生そのものが台無しになってしまうみたいで」

 どちらかといえば熱の篭らない淡々とした言葉。だが、名雪は夢うつつの状態から不意に我に返った時のようにスッと冷たいものを胃の腑に感じた。思わず苦笑いが浮かぶ。なるほど、確かに本気の恋愛なんて命綱なしでのバンジージャンプみたいなものなのかもしれない。下で相手が受け止めてくれなければ潰れてグシャリ。場合によっては受け止められても二人でグシャリ。

「怖いね、うん、きっととても怖いと思ってる」
「そうですかー」

 それ以上深く聞き込むようなこともせず、涼子はそれだけ口にして言葉を閉ざした。ただ、一瞬口を噤んで地面に視線を落とす直前、納得したような、安心したような、彼女はそんな気の抜けた顔を見せた。
 だからだろうか、名雪はそこで話を終わらせるのが酷く勿体無いような気がして、先を続けた。思いついたことをそのまま口に出す。

「人間ってほんと厄介だよね」
「え?」

 名雪から話しかけてくるとは思っていなかったのか、痙攣するかのように顔をあげた涼子に向かって、名雪はしたり顔をしてみせた。

「ほら、どうしようもなく、怖いもの好きなんだもん。怖いなら近づかなきゃいいのにねー」

 涼子はほけーッと名雪の顔を見つめていた。不意に、プッと空気が抜ける。

「ふ、ふふっ、なんですかーそれ。お化け屋敷やジェットコースターじゃないんですから」
「似たようなものなのかもね。ホラー映画を見たがる心理とあんまり変わらないのかもしれないよ」
「あは、ははは、そうかもしれませんねー、ふふっ、あははは。そうかー、ホラー映画と同じですかー」

 なにかツボに嵌ったようだ。笑う門には福来るというわけでもあるまいが、彼女の中に凝っていた檻を吹き飛ばすように涼子はおなかを抱えて笑い転げた。あんまり笑い続けるので、わたしってギャグを言ったんだっけ、と名雪が首を傾げだした頃、ようやく笑い声が止んだ。はぁーー、と大きな深呼吸。足りなくなった酸素を取り戻し、涼子は名雪に向き直った。

「名雪さん、北川くんって、どうして落ち込んでるんですか?」
「え? ええっ? き、北川くん? い、いきなり話が飛びすぎだよ。なに? 北川くん、落ち込んでるの?」

 唐突過ぎる話題の転換に面食らいながら、名雪は片方の眉を傾けた。北川潤が落ち込んでる? そんなの、初耳だ。

「違うんですか? 私にはそう見えてたんですけど」
「……わたしは、知らないよ。態度だって別に変わった様子もないし」
「そうですか……」

 見当違いだったかな、と呟きながら口許に手を当てて俯く涼子に、名雪は重ねて問いかけた。

「聞いていいかな。涼子ちゃんがそう思うようになったのっていつから?」

 もしかしたら、自分たちが気づかない変化を彼女は見抜いていたのかもしれない。そんな見抜くほど彼女と北川に接触があったようには思えないんだけど。
 すると、涼子はなんでもないことのように答えた。

「初めて会ったとき、というか見かけたときからですよー。4月の下旬くらいだったかな?」
「……へ?」
「あ、言いたいことはわかります。初対面の癖になんで落ち込んでるとか分かるんだって言いたいんでしょ? 私、なんとなくそういうのって分かっちゃうんですよ。当の本人が気づいていなくっても、なんとなく」
「いや、でも、そんな」
「私が惹かれる人って、だいたいそうでしたから、多分そうじゃないかなーって」
「…………」

 名雪は意味も分からず圧倒されて言葉を失った。いや、ちょっと待って。それってつまり。でも、北川くんが落ち込んでるって、そうなの? どうして?

「そういえば……北川くん、大学に入ってから何となく気が抜けた感じで。ううん、でも元気が無いって風でもなかったし、無理してるようでもなかったし。第一理由が……」

 顎に手を当てて考え込む。理由といえば想像できるのは、そう、栞ちゃんと別れたことだろうけど……いや、多分違う、あの時は北川くんははっきり落ち込んでたし、それはすぐに元に戻ってた。少なくとも大学に入るまで、春休みなんかは祐一までも引っ張る勢いで遊びまわってた。多分、栞ちゃんとの件は関係ないはず。じゃあなんだろう。本人さえも気づいてない原因? そんなものがあるのだろうか。勢い、勢いか。確かに言われてみれば以前のように率先して周りを引っ掻き回すような勢いが北川くんには感じられない。でもそれはおかしいことだろうか。祐一だって、大学に入って以降からはわりと落ち着いてきたし。環境の変化は容易に人を変化させる。香里に比べれば、北川くんの変化なんて気にすることのないくらい些細な…………。

「…………え?」
「どうしました?」
「…………」
「名雪さーん?」
「あ、ううん、なんでもない」

 まさか、ね。
 浮かんだそれを北川が落ち込んでいるかもという説とまとめて一蹴し、名雪はにんまりと意地の悪そうな笑みを貼り付けた。

「それより、さっき聞き捨てなら無いこと、聞いたような気がしたんだけど、涼子ちゃん」
「え、えーっと、なにか言いましたっけ?」
「言いましたーーっ!」
「うきゃーーーっ、勘弁してくださいよーー」
「だめーー、はっきり白状せーい」

 逃げ出だそうとする涼子だったが、元陸上部に逃げ足で敵うはずもない。すぐに捕まって名雪屋に手篭めにされてしまう。

「きゃーきゃーきゃーー!!」
「よいではないかよいではないか」
「だぁぁぁぁ!! おまえらっ、ぎゃーぎゃーうるせえぞっ!!!」

 真夜中を劈くように響いた女二人の嬌声は、青筋立てた祐一が怒鳴り込んでくるまで続いたのであった。




















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(注1:あくまで水瀬名雪当人の見解であり、客観的事実とは著しく異なる側面があることをご了承ください)

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