―――雨天行路
8月の雨。
それも風の無い日に降る雨は、どこか心地良い。
雑然とした騒々しさを押し流し、ただ静々と涼みを与えてくれる。
水色のカットソー。その上に一枚薄手の上着を羽織った今の服装にはちょうど良い心地。
美坂香里は濡れた足音を乱さぬままに、小気味の良いスタッカートを刻む頭上を見上げた。
傘の表面を軽く打ち据えた雨粒たちが、なだらかな丘陵を流れていく。やがて滴は縁へと辿り着き、ポタリと落ちる。
ポタリ――ポタリ
「おーい、みっさかー」
無想にも似た心地の中に飛び込んできた自分の名前。弾むような声に美坂香里は足を止め、傘の縁を少しだけ上げた。
「呼んだ? 北川君」
「おー、呼んだ呼んだ」
雨音に馴染むように交わされる会話。
傾けた目線に映った光景は、店の軒先で雨宿りをしているらしい友人の底の抜けたような笑顔。
「こんな所で会うとは奇遇だなぁ」
「そうね」
我ながら情感の篭もらない声だと香里は少しだけ思った。
ただ、今は。
感情全てが雨に流されてしまったかのように何も感じない。
北川潤は何に納得しているのか目を閉じ、腕組みをしながら何度も上下に頭を動かしていた。
香里は雨の景色を見るように、ぼんやりとピコピコと動くアンテナを立ち尽くしたように見つめていた。
「それでだ」
瞬きを一つ。
驚いたわけではない。
香里が変わらずぼやりと見つめている先で、首肯するのを止めた北川がこの雨の中で独り快晴のように破顔した。
「奇遇ついでに相合傘でもしようじゃないか」
傘の上を弾んでいく声。
香里は涼雨の静穏に流されるように北川から視線を外すと、まどろみから覚めるように傘の縁から空を見上げた。
立ち込める雲は厚みが足りないのか、陽光を透かし仄かに光を放っている。
滲むような明るさの中で、たゆたう雨のスクリーン。
こんな静かな雨の中だと、怖いぐらいに意識が冴え渡っていく。
でも、冴えた心地が逆に沈むような眠りにも似ている。
そう、思った。
ふと、思い出し、再び首を傾ける。
そこには、変わらず雨に溶け込むように晴れ渡りながら此方を眺めている少年が独り。
飽きもせずにニコニコと自分を眺めている。
「傘、無いの?」
問われて少年は思索に耽るように腕組み。
しばらく待つと、フムと頷き彼は云う。
「どう思う? もしかしたら、持ってるかもしれない。でもやっぱり、持ってないかもしれない」
「なにそれ」
肩から下げたカバンを叩き、少年は少しだけ目を細めた。
「もしかしたら、美坂が通りかかったらいいなあ、と思いながら此処でぼんやりしてたのかもしれないなぁというお話」
「そうだとしたら」
美坂香里は欠伸をするように言った。
「随分と暇なことね」
「そうだなあ」
アハハ、と少年は笑った。
そんな少年の笑顔に――
フワリと影が差す。
差し出された傘に、北川は小首を傾げた。
香里はやれやれと息をつく。
「あたしに持たせる気?」
「あいや、これはこれは気がつかずに失礼しました」
演技めいた仕草で大仰に一礼し、少年は恭しく傘を受け取った。
姫君を敬うように、改めて少女の頭上に傘を掲げる。
一段、高さを増した傘の下には、人影が二つ寄り添う。
重なる足音のステップが、雨に濡れたアスファルトの鍵盤を奏ではじめる。
「さあ、どこに行こうか、美坂。望むならば何処なりとも〜」
「帰るところだったんだけどね」
「あらま」
傾く傘をチラリと見上げ、美坂香里は口ずさむ。
「まあ、でも、そうね、もう傘を預けたんだから――」
湿気に濡れた髪の毛が、滴るようにウェーブを描く。
そんな髪を撫でつけながら、彼女はやっぱり欠伸をするように言った。
「エスコートはお任せしたという事になるんじゃないかしら」
「うぃ、りょーかい」
ポタリポタリと傘の縁から掠める雫。
サワサワと薄い雲から降り注ぐ雨粒。
吸い込む空気は水に濡れ。
ざわめきは雨音に溶け込んでいく。
とても静かな真夏の午後。
それきり途切れた二人の会話。
とても静かな雨の午後。
不思議と心地も穏やかな――それは二人の雨天行路。
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