―――それからと、これから






「飲み会?」
「そっ、飲み会。忘れてたんでしょ、香里」

そういえば、課の連中と呑みに行くって話、今日だったっけ。
昼食のお弁当も食べ終わって、午後から使う資料の準備をしていたあたしはしまったなと、会議用書類を挟んだフォルダでポムポムと頭を叩いた。

その仕草を見て、腰に手を当てた晴香さんはニヤニヤと笑う。

「もうボケてきた?」
「あたしより三つも上の人が何を言いますやら」
「あ、それ嫌な感じ。そんなに若さを強調したいものかしらね」
「あんたまだ28でしょう」
「もう28よ」

口ではそう言いながらも、表情は余裕めかして微笑み、晴香さんはスタスタと自分のデスクに戻っていた。
どうやら付き合っていた男にようやく結婚を約束させたとの噂は本当のようだ。ちょっと前までは年齢云々は禁句だったはずなのに。
まあ、まだ二十代でピリピリするほどの事は無いと思うのだけれど……と、また考えてしまった。以前に今みたいな事を後輩の詩子に言ってみたら怒られてしまったんだった。
彼女曰く、香里先輩はそこらへんの切羽詰った女心がわかっていないんだそうだ。そりゃ、わかんないわよ。あたしはもうとっくに結婚しちゃってる訳だから。

「おーい、香里。ちゃんと旦那に連絡しときなさいよ。怒られちゃうわよ」

二つ離れたデスクから晴香さんが上機嫌に大声で仰ってくる。余計なお世話だ。パタパタと手で纏わりつく視線を追い払う。
ま、確かに言われることは尤もだ。出かけるときに今日は帰るって言っちゃたのよね。あいつは怒りはしないけど、拗ねるからねえ。
とはいえ、連絡しないとさすがにあいつも怒るだろうし、ちょっと電話しておこうか。まだ昼休みが終わるまでに間があるのだし。




香里が電話している様子を仕事もせずにニヤニヤと眺めている晴香の眼前に、いきなりニョキっと顔が現れた。

「うひゃぁ!」
「わっ、そんな大声ださないでくださいよ。びっくりした」
「び、びっくりしたのはこっちよ」

まだドキドキしている心臓を抑えながら、晴香は飄々と後ろに手を組んで傍らに立っていた詩子を睨みつけた。
そのキツイ視線を毛ほども感じていないのか、その小柄な女性はニコニコと笑みを崩さず訊ねてくる。

「なにニヤニヤしてるんですか。まさか、香里先輩に気があるって話、ホントだとか」
「誰よ、そのふざけた噂してるヤツは」
「あっ、あたしですよー」

寿退社する前にいっぺんシメたらなあかんな、コイツ。と、何故か関西言語で思考しながら、晴香は目に入りかけた髪の毛を払う。

「別にそんなんじゃないわよ。ただ、相変わらずあのコは旦那と仲がいいなと思ってね」
「はぁ、そうなんですか!?」

詩子は心底驚いたように素っ頓狂な声をあげて、香里の方を振り返った。
そちらでは、なにやら電話口に向かって文句を言っている香里の姿があった。

「えー、でも香里先輩って旦那さんの事しゃべり出したら、全部愚痴と文句とどれだけ馬鹿か力説してばっかりじゃないですか。
あたし、てっきりもうヤバヤバ。離婚間近なのかと思ってましたよ」
「はぁー、若いわねー、柚木も」

晴香はやれやれと肩を竦め、自分のデスクに向き直りながら欠伸みたいな口調で言った。

「あれ、全部惚気てんのよ。あいつ、あれで旦那にベタ惚れなんだから」
「へー、あのクールな先輩がねえ」

感心してチラリと香里の方を窺ってる詩子に、晴香はまた椅子を回転させて向き直り、

「クールなのは見た目だけだって。騙されるヤツも多いけどさ。そういや、柚木が此処に来る前にあんたみたいに惚気を勘違いした男が居てさ」
「ふんふん」
「香里に随分と迫ったのよ。しかも、旦那の悪口を言いまくりながら」
「悪口ですか」
「そう、会った事も無いのに、仕事がどうの、性格がどうのってまあ言いたい放題」
「はー」

何故か嬉しそうに語ってる晴香に、詩子はちょっとワクワクしながら訊ねてみた。

「で、その人を香里先輩が殴っちゃったとか?」

だが、予想に反して晴香は首を振った。

「いいえ、何週間もけっこうしつこかったけど、最後まで笑顔でいなしてたわね」

別に面白くも何とも無い話だと、ちょっと詩子は白けた。だが、そんな話をこの先輩が嬉しそうに話すはずが無いと思い直し、腰を落ち着けて黙って聞く。
案の定、さらに晴香の笑みがニタリと歪んだ。

「でも、笑顔の下で怒り狂ってたみたいよ。あいつ、本気でぶち切れた時は満面の笑みになるのねー。最後、笑顔貼り付けながら『殺す』って囁いたの聞いた時にはもう背筋がゾクゾクってなったわよ」

何故喜ぶんだ?
この人も物騒&厄介だなと思いつつ、詩子は肝心の事を聞いてみた。

「で、結局どうなったんですか?」

晴香はヒョイと肩を竦めた。

「その言い寄ってた男、前のこの課の課長だったんだけど、最悪なヤツでさ、みんなから嫌われてたのよね」
「今、いないですね。どこかに転勤したとか?」
「刑務所にね」
「……は?」

詩子は目が点になった。

「そいつ、麻薬に手出してたり、盗撮やってたり、裏で色々やってたみたいなのよ。いきなり警察にお縄」
「はぁ」
「でさ、香里にその事知らせたらあいつ何て言ったと思う?」
「なんていったんですか?」
「『ホント、馬鹿な男。真っ白だったら飛ばされるだけで済んだのに』ですって」
「……え?」

詩子は、表情を凝固して晴香の言葉を反芻し、絶句する。

「あの、それって、まさか」
「さあね。そこは想像にお任せするわ。ま、噂では色々と変な所に交友関係があるとか無いとか。でも柚木、これだけは覚えときなさい」

晴香はスッと詩子の顔に口を寄せて囁いた。

「この会社で一番誰を敵に回したらいけないかって事はね」
「…うい、肝に命じておきますよ」

ホールドアップと両手をあげた詩子の頭を、ポムポムと晴香は叩き、苦笑しながら、

「ま、よっぽどの事しなけりゃあいつは優しいし面倒見良いし、普通にしてりゃ大丈夫よ」
「そりゃ、知ってますけどね。そんな事聞かされると……」

詩子はソロリとまだ電話している香里を窺った。


「いいから拗ねるなッ、12時までには帰るから。美織によろしくね、うんうん。分かってるってうるさいなあ。うん、じゃあね」

ガシャンと荒っぽく受話器を置いた香里は、ふと視線に気がつき詩子を見る。
「ん?」と小首を傾げる香里に、詩子はブンブンと首を振って視線を逸らして頬を染めた。

「うーん、惚れちゃいそう」
「……あんたも変なコだわ」

晴香は苦笑を浮かべて、視線を壁の時計に向けた。
ちょうど昼休みが終わる時間だった。









§  §  §  §









酒は飲んでも呑まれるな。

実に含蓄のある言葉だと、深と静まり返った深夜の住宅街を歩きながら香里は思う。
そんな標語を地で行くのが自分という女で、酒の味を知ってからこの方、酔いつぶれたという事は数える程しか無い。
その数える程というのも友人宅や自宅で飲んだ時のもので、外では決して醜態を見せる事はなかった。

その割に、別に好きって訳でもないのよねえ。

飲み会という場の雰囲気は楽しいと素直に思うが、酒自体はどうでもいいというのが自分のスタイル。あまり、得にはならないスタイルだ。

同僚たちに付き合って、しこたま呑んだというのに、香里の足取りはやや陽気という程度でしっかりしていた。
歩きなれた道をリズム良く進んで行くと、自宅のマンションが見えてきた。腕の時計を見ると、11時を回った所。思ったよりも早く帰ってこれたみたいだ。

我ながら生意気にも最上階にある自室への玄関へと辿り着き、ノブを捻る。
まあ、生意気って言っても此処は結婚する前からの旦那の家なんだけど。

「ただいまー」
「あ、おかえりー」
「ん?」

中から帰ってきたのは旦那のちょっと少年じみた能天気な声でも、勿論5歳になる娘の舌っ足らずな声でもない。
ちょっとだけ子供っぽさの残った妙齢の女性の声。多分、あたしが誰よりも良く知ってる声だった。
「遅かったね、お姉ちゃん」
「栞、来てたの」

リビングから顔を覗かせたのは、今年で24歳になる我が愛しの妹君――美坂栞であった。
高校を卒業した頃から伸ばし始めた髪の毛を肩に流しながら、タオルで手を拭いている。エプロンをしている所を見ると、洗い物でもしていたらしい。

「ちょっと晩御飯をお相伴させてもらいにね」
「で、本来あたしが食べるはずだった夕食をあんたが食べちゃった訳ね」

栞はクスクスと笑うと「相変わらず美味しかったですよ」と云った。
そんな事は毎日いただいている自分が一番良く知っている。あたしは上着を脱ぎながら訊ねた。

「婚約者君はどうしたのよ」
「うん、今日は夜勤」
「ふーん、警察官は大変ね」

先月以来会っていない、あと数ヶ月もすれば自分の義弟となる男のコの顔を思い出す。
ああ、もうさすがに男のコとは呼べないか。初めて会った頃は可愛かったんだけどなあ。最近じゃあウチの旦那の方が童顔に見えてしまう。

「そういやあいつは?」
「お兄ちゃん? お風呂入ってるよ」
「そう」

お風呂と聞いて思い出す。そういやちょっと汗かいたみたいだ。なんか感触が気持ち悪い。

「美織ちゃんは寝てるから」
「顔見に行ったら起きちゃうかしら」
「んー、大丈夫だと思うけど」

ちょっと考え込むようにそう云って、栞はエプロンを脱いでキッチンの方に戻っていった。
そしてエプロンを置いて再びリビングに戻ってきたものの、座る様子が無い。

「帰るの?」
「うん、これ以上遅くなってもいけないからね。あ、そうだ。祐一さんと佐祐理さんがまた来てたみたいだよ」
「またあの話?」
「うん、みたいだね」

あたしはちょっと凝っている首を回しながら、うーんと唸った。
以前から相沢くんたちに、自分たちの会社を手伝ってくれと何度か誘われている。事務の方の手が足りてないそうだ。本当を言えば、大学を卒業した際にも佐祐理さんたちに誘われたのだが、自分は断ってしまったという経緯がある。あの頃は先に不安があったし、自分にもそこまで自信がなかった。
じゃあ今は? と考えてみると……。
今、務めている会社の仕事自体は嫌いじゃないのだけれど、最近会社の雰囲気が何となく気に入らないのも確かだ。どうにも居心地が悪い。同僚には恵まれてると思うのだけれど、晴香さんも結婚したら辞めてしまうとの事だし……。

「そろそろ考えてもいいかな」
「ま、好きなようにするとイイと思うよ」
「そうかしら」

旦那の収入も最近ではそれなりに安定してるし貯金は……うん、なかなか。躊躇う理由はあまり無いかもしれない。

「まあね、じっくり考えてみるわ」
「うん」
「じゃあね、お休み。気をつけて帰りなさいよ」
「うん、大丈夫だって」
「そう。あ、鍵閉めといてくれるとありがたいんだけど」
「はいはい、わかってます」

やれやれと言わんばかりの顔をする栞をそのままリビングに残して、あたしは風呂場へと向かった。
何せ汗が引っ付いた服が気持ち悪いし、風呂が空くまで待っていられない。うん、そのまま入ってしまうとしよう。





栞は置いていたハンドバックを手にとった所で、聞こえてきた「キャア」という男の悲鳴に苦笑を浮かべた。

「キャアって……あの人は」

相変わらず愉快な夫婦だと、一しきり笑う。
そして、なにやら風呂場で楽しげに悶着している声を背中に聞きながら、美坂栞は足取りも軽やかに北川家を後にした。





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