―― Uusioperhe ――






 これは、たとえばの話だけど。
 五年や十年もの間、恋人でもない男のことをずっと好きで居続ける女がいると思うか、なんて質問をされたとしたら。
 あたしは笑って「んな物好き、いるわけないでしょ」と答えるだろう。それが死に別れたとか、不可抗力で離れ離れになってしまったという特殊な状況ならまだ理解できないでもない。だけど、その男が他の女性と一緒になって、ちゃんと幸せになっているというのに、それを横から指を咥えて「それでもあなたのこと、ずっと好きで居続けてます」みたいな想いを守り続けているやつは、もう危ない人でしかない。後ろ向きにも程があるだろう。未練がましいったらありゃしない。前を向け、前を。
 で、その未練がましい後ろ向きで危ない女があたしだ、って話じゃ勿論無い。いや、本当に。
 藤林杏はもうとっくにあいつ――岡崎朋也のことは割り切っていたんだから。そりゃあ好きだったよ。とても好きだった。結局、想いも伝えられないまま片思いで終わってしまったことは、あとでどれだけ後悔したか。ショックだったな、朋也があの子と付き合いはじめたのを知ったときは。ショックだった。陰では随分と泣いたものだ。朋也には意地でもそんな顔、見せなかったけど。
 それでも、高校を卒業するころには我が大いなる失恋も、もう苦い味のする少女時代の思い出ってやつになっていた。と、言い切るにはまだ多少は引きずっていたかもしれないけど。でも、うん。思い出、にはなっていたと思う。過去のこととして。痛みの記憶は引きずっていても、想いそのものに未練がましくしがみつくような真似はしなかった。と、それだけは胸を張って言い切れる。
 現に、短大に行ってからは他に好きになった相手もできたし、歳相応の交際だって経験した。
 現在進行形じゃなくて過去形なのは察してちょうだい。なんで振られたのか、ですって? なんであたしがフラレたのが前提なのよ! その通りなのがまたムカつく!
 ともかくっ!
 あたしの恋愛遍歴はどうでもいいのよ。ともかく、あたし、藤林杏にとって岡崎朋也という男は、昔好きだったことのあるしばらく音信の途絶えてた旧友。長らく、表裏なしでそういう認識の相手だった、それは間違いない。断言できるわ。ほんとよ?
 うちの保育園に預けてられた園児の一人――岡崎汐ちゃんの父親が、あいつ、岡崎朋也だと知るまでは。
 前置きが長くなったけど。つまり言いたいのはこういうこと。今、あたしが抱いているこの気持ちは、高校時代のあの頃の想いをズルズルと引きずったものじゃなくて、一度終わってそしてまた始まった、きっと二度目の新しい恋なのよ。
 と、そこまでグチグチと屁理屈めいた思考を捏ねくりまわしていた私は、突然胃にシクシクとした疼きを感じて、思わず鳩尾のあたりを押さえてうめいた。
 ……こ、恋? 言うに事欠いて恋? 恋って杏さんよ。もうすぐあれよ、四捨五入したら三十路になろうって女がイイ歳をして、なに臆面なく恥ずかしいこと言ってるのよ。うー、あー、嫌だ嫌だ。あたしってば何考えてんだろう。自分に言い訳するみたいにさ。ばっかみたい。ほんと、ばっかみたい。

「先生、どうしたの? お腹痛い?」

 と、心配そうに覗き込んできたのは、隣で使い終わったサラダボウルを一生懸命布巾で拭う作業に没頭していた汐ちゃんだった。あたしは我にかえって、

「ああ、違う違う。何でもないわよ。ほら、もうすぐ出来るから、とも……お父さんと一緒にお皿並べておいてちょうだいな」
「うん」

 なんだか気合たっぷりにグーにした拳を揃えて、汐ちゃんはパタパタと駆けていく。
 かわいーなー、と表情がふやけるのを自覚しながらぼんやり思う。可愛い。あの子の可愛さはなんなんだ、異常じゃないのか? 時々、理性が吹き飛んでしまうのか、無意識にギューって抱き締めて頬っぺたスリスリしてしまっている自分がいる。それぐらい可愛いのだ。
 預かってる他の園児たちときたらクソ生意気で人の言うことなんかまったく聞こうともしないガキんちょばかりだというのに、あの子と来たら素直だし頑張り屋だし健気だし、ほんとにあの朋也の子供かと疑いたくなるのはあたしだけではあるまい。
 やっぱり、渚に似たんだろう。

「……ふう」

 言い知れぬ感慨が去来して、ふと溜息がこぼれた。
 トコトコと鍋の中で煮物が芳しい匂いを醸しだし始めている。傍から見れば、それは何処にでもある小さな家庭のありふれた夕食前の風景。でも、違う。それは違うのだ。
 あたしは本来此処に立っているべき存在じゃない。あたしは、こんな風に我が物顔で岡崎家の台所に立っていていい人間ではない。あたしはこの家にとってしょせん部外者で、異邦人なのだ。
 だから、ふとした瞬間、この場所の居心地の良さに、苦しくてたまらなくなる。いたたまれなくなってしまう。
 時々、今日みたいに朋也の部屋にお邪魔して晩御飯を振舞ってあげるようになったのは何時からだったか。そう、あれは確か、たまたま朋也の仕事が遅くなってしまって汐ちゃんが最後まで残ってしまい、ようやく迎えにきたあいつが随分疲れてるみたいだったのを見て、「ちょっと、あんた汐ちゃんにちゃんとしたもの食べさせてるんでしょうね」なんて言ってしまったのが始まりだったような記憶がある。
 それがどうしてか喧喧諤諤の言い争いに発展し、気がついたらあたしが岡崎家の台所に立って二人のために包丁をふるっていた、というわけだ。
 それが一度で済まず、こうして恒例行事になってしまったのは、やはり朋也の馬鹿が案の定栄養価などを考えたちゃんとしたものを汐ちゃんに食べさせていなかった所為でもあるが、それよりむしろあたしの晩御飯を食べた汐ちゃんの第一声が、

「…………ぱ、パパのご飯も好きだよ」

 だったのが致命的だった。朋也、固まってたし。時に優しさや気遣いは残酷な仕打ちとなるのだ、うん。
 で、帰り際に朋也がこっそりと、「良かったらでいいんだが、また今度汐に飯作ってやってくれないか」と言ってきたわけだ。あの時の朋也は敗北感に打ちひしがれてて哀れだった。素直に敗北を認める様はなかなか可愛くもあったけどね。
 うん、こう一事を思い出してみただけでも、朋也は昔と変わったなあと実感させられる。以前の彼なら、もう少しつまらない意地を張っていたように思う。ただ、それは単純に朋也が素直になったというのとは少し違っていて、まず汐ちゃんのことを第一に考えるようになったというか……、つまり、なんのことはない、すごくいいパパになったんだね。
 そうした点も踏まえて、朋也は男としても余裕が出てきて、昔よりも魅力的になったと思う。彼に惚れてしまった女から見た贔屓目じゃなしに。
 そんな風にこいつを変えてしまったのは古河渚。あたしの友達。何もせずに愚図愚図していたあたしから、彼を浚っていってしまった女。そして、汐ちゃんを産んで亡くなってしまった朋也の奥さん。
 その渚が朋也と二人で夫婦として、家族として暮らした部屋に、あたしはずかずかと入り込んでいる。そう思うと改めて後ろめたさに気が引ける。あたし、何やってんだろう。
 あたしの現況を客観的かつ端的に要約してみよう。

  ――保育園の先生という立場を利用して汐ちゃんに取り入りながら、奥さんを亡くして傷心の昔好きだった男に粉かけてる(もうすぐ)四捨五入すると三十路になってしまう侘しい女(もち独身、ちなみに妹はとっくの昔に嫁ぎ済み)――

「……ぬぎゃあっ!」
「ぬわっ、なんだなにごとだ。どうした杏、指切ったかっ? 火傷か? 大丈夫か!」

 頭抱えて仰け反ったあたしの様子に、朋也と汐ちゃんが血相を変えて寄ってくる。

「ぎにゃ? あは、あはは、なんでもない」

 ちょっと自分の心臓にざっくりと包丁を突き刺してしまっただけだ。心配顔の二人を追い返し、煮立った鍋のコンロを止めながら、あたしは内心で重い重い溜息をついた。
 こいつは我ながら何とも悲惨な話じゃないか。
 どよんと落ち込みながら、煮汁を味見。うん、美味しい。子供の口にも合うしっとりとした甘味がちゃんと出ている。だいたい朋也は子供の食べる料理に塩入れすぎなのよ。こんな小さな時から塩分取りすぎなんて将来どう影響出てくるかわからないんだから。

「やっぱり朋也に任せておくのは心ぱ……」

 心配だな。脳裏を過ぎった言葉を奥歯で噛み潰す。ああ、やだ。またこれだ。言い訳のしようがない。認めよう、あたしはいつだって、こんな風にここに来て良い理由を作り出そうとしている。ほかの誰でもない、自分に対して正当性を訴えようとしている。
 まったく、これじゃあ昔と何にも変わってないわ、あたし。自分の中だけでグルグル回ってるだけで前にも後ろにも進めない。いっそ溶けてバターにでもなってしまえば誰かの役に立つかもしれないのに。

「ったくっ!」

 あたしはお玉を持った手でコツンコツンとこめかみを叩いた。そうやって、際限なく滑落を始めようとする気分の襟首を掴まえ、引き摺りあげる。
 はあ、止めだ止めだ。いつまでもウジウジしてないで気を取り直していこう。晩御飯も準備できたし。みんなで食べるご飯は楽しく美味しく食べないと。うん、ろくでもない事ばかり考えながら作ったというのに、今日は普段よりも上手く出来てしまった。はて、あたしってば心と体が乖離してるのかしら?

「よし、出来た。さあ出番よ汐ちゃん。急いで先生に煮物を乗せるお皿を渡してちょうだい」
「うん、わかった」
「おい、俺は?」
「あんた邪魔。ていうか目障りだから、トイレにでも篭ってなさい」
「おひ、俺、家主。家主に邪魔って、目障りって」
「稼ぎが少ないくせに威張るな、甲斐性なし」
「ぐあっ、それを言われると反論のしようが……」

 しょぼんと肩を落として落ち込む朋也。そのままよろよろとほんとにトイレに篭もってしまう。まあ毎度の事だけど。
 と、クイクイと服の裾を引っ張られる。汐ちゃんが上目に此方を見上げていた。

「先生、あまりパパをいじめちゃだめ」

 ああ、マジ可愛いわ、この娘。
 あたしは汐ちゃんの目線にまで屈み込むと、彼女の肩を抱きながら穏やかに説明した。

「汐ちゃん、これは苛めてるんじゃないの。汐ちゃんのパパはMだから、意地悪なこと言われるほどパパは嬉しいのよ」
「……そうなんだ」
「こらっ、てめえ杏、汐に嘘八百教えるんじゃねえっ! 汐も素直に信じるな」

 トイレの中から聞いていたのか、怒鳴りながら飛び出してくる朋也。でも、汐ちゃんは不思議そうに首を傾げて、

「でも、先生のいうとおり、パパは嬉しそう」
「嬉しくないぃ!」
「――ッ!」

 ビクッと身体を縮込ませる汐ちゃんを後ろに庇って朋也を睨みつける。

「こら、なに怒鳴ってんのよ朋也っ! 汐ちゃんを苛めるな!」
「うっ…………うわぁぁぁん、俺が悪いのかぁぁぁ」

 ちょっと泣き入りながら朋也は部屋を飛び出していってしまった。

「……パパ、行っちゃった」

 あっきーみたい、と呟く汐ちゃんの頭に手を乗せながら、あたしはやれやれと首を回した。

「御飯冷めないうちには帰ってくるでしょ。準備してよ、汐ちゃん」
「うん」

 なんて素直でいい子なんだろう。た、たまんないわ。あたしはデレデレと相好を崩しながら、我慢できずに汐ちゃんの頭を撫でまわした。




   ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 あたしは夢を見ているつもりなのかもしれない。
 あたしと汐ちゃんと朋也。初夏の夜半、開け放たれた窓から吹き込むまだ涼しい夜気と扇風機の風で涼を取る小さなアパートの一室。三人で賑やかに食卓をぐるりと囲み、あたしの作ったご飯を食べながら色んなことをおしゃべりして笑いあう。
 保育園であったこと、友達と遊んだこと、仕事先でヘマしたこと。話題は事欠かず、笑いも絶えない。
 ほら、本当の家族みたいだ。
 でも、それは仮初め。決して本物の家族ではない。
 あたしの居る場所は本来は渚の場所。私が座っているこの席は、本当なら渚が座っている席。居なくなったのをいい事に渚の場所にあたしが割り込んでいるだけだ。ここにあたしの居場所はない。朋也とも汐ちゃんとも家族ではないのだから当然だ。いや、家族でないからこそこんな風に渚の場所に座っていられる。あたしはあくまで客人だから、家族である渚と居場所が重ならないからこそ、渚の場所に座ることを許されているのだ。もし、あたしが家族である事を望んだ時、朋也も汐ちゃんも果たして今まで通り、あたしが此処に座るのを許してくれるかどうか。
 自信がない。それどころか、あり得ないとさえ思う。
 朋也の中で、渚の存在は今なおとてつもなく大きい。渚を知らないはずの汐ちゃんの中でも、渚という母親は特別な意味を持って存在している。
 勝てるとか勝てないという話以前の問題だ。私と彼女では、そもそも勝負にならない。

「悪いな、いつもいつも」

 トントンと爪先を叩き、踵をパンプスに押し込みながら、素っ気無く言い返す。

「べつにいいって。うちで預かってる子が幼くして成人病になるのをむざむざ見逃すわけには行かないでしょう」
「成人病っておまえな」
「なによ、今時は小さい子だって油断できないのよ、そういうの。反論できる?」

 朋也はひどく情けない顔になって頭を掻いた。

「いや、面目ない」
「あたしに謝ってどうするのよ」
「そうだな。まあ今更だけど、俺ももうちょっと料理勉強するよ。汐には……あの子には健康に育って欲しいからな」

 朋也は遠い目をする。この瞬間、彼の意識は遥か彼方のあの人の…渚のもとにいる。それはあたしに妬心すら抱く余地を与えてくれない純粋な思いだ。
 あたしは表情を緩めて右手を腰に当てた。

「そうね。もうちょっと勉強した方がいいのは確かね。別に子供だけじゃなくて、あんな炒飯とかばっかり食べてるのは大人のあんたにだって良くないんだから。体が資本の仕事なんだから、体壊しちゃ意味ないでしょ」
「そうだな。頑張るよ。おまえにいつまでも甘えられないし」
「…………」

 朋也が何気なく発しただろう言葉に、あたしは表情をゆがめそうになった。ひきつりかけた頬に、咄嗟に笑みを貼り付ける。
 甘えてられない、か。
 結局あたしが部外者なのを思い知るのはこんなときだ。寂寥を押し込め、あたしは言った。

「朋也」
「あん?」
「あんた、いい父親だと思うわよ」
「は? なんだよ、突然」
「べつに。ただ、ろくなものを汐ちゃんに食べさせてなくても、あんたは汐ちゃんのお父さんとしてよく頑張ってるって言いたかっただけ」

 玄関から通路に出て、わざと弾みをつけて振向く。

「そりゃ、料理は出来た方がいいけど、無理はしなくてもいいよ。晩御飯くらいならあたしが幾らでも作ってあげる。その……あんたたちが迷惑じゃないんだったらね」
「迷惑って、そんなわけないだろう。その、なんだ。杏には、すごく助けられてる。助かってる」
「ほんと?」
「嘘ついてどうするよ」
「うん、それはそうだけど。もしかしたら、あたしお邪魔じゃないかなって……」
「……杏?」

 朋也が訝しげな顔をするのを見て、あたしは自分の病気が顔をのぞかせかけていたのに気づいた。自己嫌悪に胸を掻き毟りたくなる。思わせぶりな態度で気を引いて、言質を引き出して、またあたしは……。ここに来て良い理由を、この二人の家族の真似事をしていい理由をかすめ盗ろうとしてしまう。なんて浅ましい。恥ずかしくてたまらない。あたしは今、どんな媚びた顔をして、渚の居場所に居座ろうとしていた?
 あたしは、どうしてこんなっ。こんなにっ!
 惨めで胸を掻き毟りたくなるような思いを噛み殺し、胸から押し出すように明るい声をひねり出す。

「あはっ、ごめん、なんでもない。あー、あたし帰るわ。うん、帰るね」
「あ、ああ」
「…………」 

 踵を返すつもりだったあたしの足は、どうしてか前へと踏み出した。二人の距離が縮まる。おかしな態度を見せてしまったあたしに困惑している朋也の顔が、思いのほか近くに……。
 目と目が合った瞬間、バチンと頭の奥で火花が散った。途端、必死に押し殺していたあたしの心が爆発した。自分でも信じられない激しさで感情が沸騰する。ずっと押さえ続けていた箍が、この瞬間だけどこかに消え失せてしまったようだった。
 わけがわからなくなる。ただ、泣きだしそうだった。すがりついて、しがみついて、朋也を感じたかった。それが許されないことだと知りながら。いや、知っているからこそ、自分に言い聞かせ続けていたからこそ、今この瞬間の私は壊れていた。
 限界だった。

「とも……」

 そのままもう一歩前に出て、少し背伸びをすれば届くかもしれない。それはとてつもなく甘美な想像で、あたしは何も考えられないまま熱に浮かされたように身を乗り出し、

 朋也の肩越しに此方をじっと見つめている汐ちゃんと目が合った。

「――ッ!」

 突き飛ばされたみたいに、踏み出しかけた足を後ろに引く。全身から汗が吹き出した。あれほど意識を焼き尽くす勢いだった激情の炎が、冷や水を浴びせられたみたいに消え去っていた。ただ、燻ぶった煙のような熱の残響が、細く立ち昇っている。
 我に返った私は、数瞬前の自分の有り様を前に、呆然とした。安堵と、なぜか失望が胸の奥を通り過ぎていく。
 薄く、薄く、苦い笑いが口端を震わせる。完全に冷静さを取り戻してしまった自分が、ひどく惨めだった。目が合ったからだろう、小さく手を振ってさよなら、と唇を動かす汐ちゃんに落ち着いて手を振り返し、あたしはもう朋也の顔を見ないように目を伏せながら、今度こそ後ろへと一歩下がった。

「じゃあ、おやすみ」
「……おう、また明日の朝な」
「寝坊して汐ちゃん遅刻させないでよ」
「しねーよ、ばかたれ」

 軽口混じりの別れを告げて、あたしは今度こそ朋也から遠ざかった。
 家族でもないあたしがこの部屋に居続ける理由はなく、恋人でもないからさよならのキスも交わさない。
 階段を降りる途中でドアが閉まる音を背中に聞き、あたしは誰も居ない夜道を歩き出した。静かだ。夜はなんの音もしない。だから、ドアの閉まるあの断絶に似た旋律が、いつまでも掻き消されずに心の中で延々と反響し続ける。
 何もかもが中途半端だ。あたしは何がしたいのだろう。いや、なにがしたいのかは決まっている。決まっていないのは覚悟だけだ。誰にも嫌われず、拒絶されず、綺麗なままで居たいという欲求をねじ伏せる覚悟。自分の汚れを曝け出す覚悟。
 もしかしたら、この労せず手に入れてしまった仮初めの家族を失ってしまうかもしれない。それでも本物の家族になりたいのだと覚悟を決める事が、あたしにはまだ出来ない。このままずっと出来ないのかもしれない。

「何年経っても成長ないよね、あたし」

 なにもせずにいたとしても、所詮は仮初め。いつまでも続きはしない。汐ちゃんが小学校にあがってしまえばもうあたしと彼らを繋ぐ接点はなくなってしまう。昔のように、手の届かない場所に行ってしまうだろう。それをあたしは分かっているのに。一度経験しているというのに。
 坂道の麓で、じっと頂きを見つめたまま動こうとしない足。坂を上ろうと促がしてくれる人はいない。その人はもうとっくの昔に坂の頂きに立っていて、その先を見つめている。追いつきたいのなら、自分で歩き出さなければいけないのだ。自分の足で、自分の意志で、坂道を上りはじめないといけない。
 坂を上りきったとき、もうそこにあの人がいないかもしれないのだとしても、歩き始めなければ届くかもしれないというIFすら与えられないのだから。
 だから藤林杏は坂道を上りださなければならない。
 あたしは、四方から団欒の光が漏れ出し足元に落ちる住宅地の十字路、その真中で立ち止まり、ジャケットのポケットに両手を突っ込み、目を眇めてグルリと周囲を見渡した。

「坂道って、どこにあるんだろう」

 どちらにもそんなものはないと知っている。その道は、この地面を踏みしめている足で上れる類のものじゃないのだから。ただ、目に視える坂道なら上りやすいのにと、あたしの視線は絶対にない坂道を探して、追い求め続けた。
 今のあたしには、あの父娘がいるだろう坂の頂に挑むどころか、その坂の場所すら見つけていない。見えていない。その坂道は、あたしのこの足元から伸びているはずなのに。続いているはずなのに。





       ◇  ◇  ◇  ◇  ◇





 ……で、だ。
 懊悩の挙句、こんな所に来てしまっているあたしがいる。
 少女時代からまるっきり成長のないあたしは、結局誰かに背を押してもらわなければ火中へと踏み込む勇気が持てない。情けないとは思うものの、これが藤林杏という人間だ。だから、此処に来た。あたしの背中を押してくれる人の所に。

 目の前にはよく手入れの行き届いたお墓。此処に、岡崎渚が眠っている。

 休みの日、妹夫婦に遊びに来るようにと誘われていたのを急遽断って、あたしは花屋で見繕ってもらった花を手に霊園を訪れていた。藤林家はお墓参りという日本伝統の行事にはまったく興味を示さない家だったので、墓地に実際に足を踏み入れるのは生まれて初めてだった。一通りお墓周りの掃除を終え、花立てに持参した花を供えたあたしは、手にしていた桶を足元に置き、改めてゆっくりとあたりを見回した。
 一歩足を踏み入れた時から感じていたことだけど、こうして落ち着いてこの雰囲気に身を置いてみると、墓地、という場所にあたしが漠然と抱いていたイメージと、実際に立ったこの場所とはあまりに違っていたことに気づかされる。
 三方を緑の山に囲まれた山麓に、この霊園は拓かれている。緑涼やかな地に空から初夏特有の眩いばかりの日差しが降り注ぎ、涼やかな風が吹き抜けていく。その心地よさに自然を目を細めながら、丁度、墓石に背を向ける位置まで首を巡らしたとき、視線が釘づけになった。

「ああ、そうか」

 何故渚の両親が彼女の眠る場所をここにしたのかが、一目でわかる光景が、そこに広がっていた。

「……あたしたちの、街だ」

 渚が眠るこの場所からは、眼下に街が一望できた。人々の息づく気配が、眩いほど一面に広がっていた。世界が、広がっている。街が、色づいている。素晴らしくも、ありふれた光景があたしの前に広がっていた。
 渚はここから、自分の生きていた街とそこで今なお暮らしている彼女の愛した人たちを今でも見守りつづけているのだ。いや、渚だけじゃない。この墓所に眠る人々すべてがこの街を温かく見守っている。街の住人達を見続けている。
 山肌に沿って降りてきた颪が墓地で渦巻き、あたしの髪を撫でるように梳いて行った。そうして、街へと駆け下りていく。まるで、この場所で受け取った何かを、送り届けるようにして。
 なんて優しい場所なんだろう。あたしは逆巻く髪を押さえながら、湧きあがってきた思いに呆けたような吐息を零した。この地に込められた想いの温かさに胸を突かれる思いだった。
 墓地なんてただ寒々しい寂しいだけの場所なんだと思っていた。死んでしまった人たちの名残を集めた陰気な所なのだと思い込んでいた。過去の幻影に縋りつき、涙を流して凝ってしまった哀しみを発散するための場所なのだと。
 違った。全然違ったよ。
 此処は亡くなってしまった人たちが安らかな眠りにつく事を、生きている人たちが願って作った場所。故人を懐かしみ、思い出を語り合い、未来を報告する場所。眠る人々が自分達を見守っているのだと信じる拠り所。そんな場所が淋しくあるはずがない。哀しみだけがこびりついているわけがない。
 此処は故人への優しさと、残されてしまった人への優しさが込められた、そんな場所。

「久しぶり、渚。来るの、初めてだよね」

 周囲を掃除している間もなんとなく気も漫ろで、意識を向けることを心の何処かで避けていたあたしは、今ようやくこの渚が眠る場所に向き合うことができたようだった。ただの冷たい石の塊にしか思えなかった墓石に、あのいつもポワポワと優しい笑顔を浮かべていた友人の存在を感じる。今更のように語りかける最初の言葉はあいさつから。でも、そこであたしは言葉に詰まってしまった。渚に話そうと思っていたことは、この場所に渚の存在を実感してしまったことで、逆に頭の中から流れ落ちていってしまったようだった。
 だって、気づいてしまったから。自分のやろうとしていたことに。
 この優しい世界であたしがしようとしていることは、酷く場違いに思えた。自分が渚の所に来た理由、それが今更のように下らなく馬鹿馬鹿しくなって途方に暮れてしまった。
 あたしは、選りにもよって渚に背中を押してもらいに此処に来た。行き詰ってしまったあたしを救い出してくれるのは、きっと彼女しかいないと、そう思ったから。その考え自体は間違っていないはずだ。
 でも、それって滅茶苦茶惨いことじゃないのか、と遅ればせながら気付く。あまりに自分本位。独り善がりの傲慢な所業なんだって、今更のように気づいてしまった。
 だって考えても見なさいよ。これじゃあ、どう言い繕っても恋敵に頑張れって後押しして貰いに来てるのと同じじゃない。決して長くも濃くもない付き合いだったが、渚がどういう娘だったかはそれなりにわかってる。彼女は自分の居た場所を明渡す事を、きっと手放しで応援してくれるだろう。私の代わりに朋也くんを幸せにしてあげてください、って。汐ちゃんを頼みますって、何の屈託もなく言ってくれるだろう。あたしは彼女がそう言ってくれるだろうことを期待して、此処を訪れたのだ。そうして、渚の許しを免罪符にしようとしている。
 あたしは慄然としながら唇を噛み締めた。
 恥を知れ、あたし。幾らなんでも図々しすぎると思わないのか。卑怯だと思わないのか。
 渚に許しを得るのは、全部自分で、自分の力で朋也と汐ちゃんを手に入れてからが筋じゃないのか? まだ自分で何もしていないうちから、あなたの家族が欲しいんです、だからあたしを応援してくださいってねだるのってすごく恥ずかしい事ではないだろうか。
 考えれば考えるほど、こうして臆面もなく渚の前にいる事が恥ずかしくなってくる。
 あたしは渚の前で膝を抱えて座り込むと、小さく口許を歪め、笑って見せた。

「渚、あたしって友達甲斐ないよね。今頃気付いた」

 一方的に寄りかかる関係を友達なんて言いたくない。もしあたしの方が墓の中にいて、同じような事を頼みにこられたら、憤然と怒鳴りつけてるだろう。

『知るか、そんなこと。なんであたしが応援しなきゃならないのよ! 欲しければまず自分でなんとかしなさい、この大馬鹿もんがっ!』

 と、こんな風、に……ん、んんん。い、いや、そこまで言うかなあ。あたしだって鬼じゃないんだからもうちょっと優しく本当は応援してるんだよ、みたいなニュアンスを含めて…………。
 あー、ともかくだ。渚の人の良さに付け込んで、望んだ返事を引き出させて、それってやっぱり卑怯に思える。これじゃあ胸を張って渚の居た場所をあたしの場所になんか出来ない。ずっと負い目を感じる事になる。
 そう、あたしはまだ、此処に来てはいけない人間だったのだ。

「ごめん、渚。来て早々なんだけど、あたし帰るわ」

 冷たい石面をそっと撫で、あたしは立ち上がった。
 その時だ、そっけないだけの墓石に、あたしは不意に渚の笑顔を幻視した。ほわほわと曖昧なようでいて、奥に硬い芯を秘めたあの懐かしい笑顔が網膜に焼きつく。
 彼女の幻影に見惚れていたあたしは、不意に、結局、自分は渚に背中を押してもらってしまったのだ、と思い至った。渚の幻影に縋るような真似はせずに済んだとはいえ、自覚すべきことを教え諭してくれたのは間違いなくこの場所だ。渚が眠るこの場所だ。
 あたしは自嘲を浮かべながら、沸々と胸に湧き上がる思いをそのまま口にする。

「貴女と向き合うと、なんだか自分自身と向き合わされる気がする。それは貴女がもういない人だから? 死んでしまった人だから? どうかな、違う気がするわ。貴女が生きていたとしても、貴女と向き合っていたら自分を省みないと済まなくなったんじゃないかな。渚、貴女のそういう所が、朋也を変えたんでしょ?」

 目尻から、涙が少し溢れ出したのを感じた。
 お葬式でも泣いたはずなのに、なんだか自分が今、初めて渚が死んでしまったことを悲しんだような気がする。生きている彼女ともっと話をしたかった。渚ともっともっと深く友達になってみたかった。
 そうしていたら、あたしも朋也みたいにもっと違った人間になっていたのだろうか。
 彼女はもう亡くなってしまった、その事実が無性に遣る瀬無く、悲しかった。
 いずれにせよ、過去はもう過ぎ去ってしまった現在だ。取り戻す事も書き換える事も出来ない。彼女はもうこの世にはおらず、各々の心の中にしか残っていない。あたしの中には、生きていたとしても、死んでしまっていても、どちらにしても渚には敵わないと、そう思わされる今が残留している。
 果たして、此処にいるあたしは朋也や汐ちゃんの中にいる渚に勝てるのだろうか。まるで自信が得られず、自分が無残に玉砕しようとしているとしか思えない。

「……ん、じゃあ帰るね、渚」

 このまま此処にいたら、また渚に縋りつこうとしてしまいそうな弱気が膨れ上がっていくばかりなので、あたしはクルリと踵を返した。逃げ出すみたいだな、と内心で苦笑しながら、あたしは街を見守る人々の眠る安らぎの地をあとにした。
 勇気も許しも得られなかった。手にしたのは、欲しいものがあるなら自分でなんとかしなければならないという当たり前の現実だけだ。それはそれで前進と言えるだろうけど、あたしは後ろに後退ってしまっていたのだから、その分を帳消しにしただけだとも言える。
 肝心の一歩を踏み出すのは、本当に難しい。





    ◇  ◇  ◇  ◇  ◇





 朋也はあれで仕事先では信頼されているらしい。信頼されるという単語からは程遠い人間だったのはやはりもう昔の話でしかない。いや、周囲が――本人も含めて――岡崎朋也は信じるに足らない人間だと思い込んでいただけで、彼は昔から受けた信頼に対してちゃんと誠意で応える人間だった。勿論、いい加減なやつだったのもまた真実ではあるが。
 ん、話が逸れた。本題に入ろう。実は最近、朋也の職場に新人が加わったのだそうだ。朋也はその新人の指導を任されている。それも押し付けられたのではなく、自分から指導役を引き受けたのだそうだ。ただ、その所為で最近ちょくちょくと残業が多くなっている。新人とは、赤ん坊が生まれた時に「おぎゃあ」と泣くのと同じくらい当たり前にミスをするナマモノだ。そのフォローは必然的に指導役の朋也がする事になる。畢竟、汐ちゃんを迎えに来る時間が遅くなる日も多くなるというわけだ。汐ちゃんと一緒に過ごす時間が削られてしまうことを朋也は真剣に悩んでいるようだったが、同時に自分のやっている事を非常に遣り甲斐のある事だと感じている。

「なかなか仕事と家庭の両立は難しいのよねえ」
「そうなんだ」
「だから汐ちゃん、秋生さんみたいなのは例外よ、例外。パパと一緒にしたらパパが可哀想なのよ」
「うん、あっきーは特別」

 手を繋いだ先で、汐ちゃんが何故か自慢げに述懐した。あたしと汐ちゃん、二人の繋いでいない方の手には丸々と膨らんだ買い物袋が握られている。
 朋也の帰りが遅くなるという事は、畢竟、あたしが汐ちゃんのお世話を焼いてしまう機会も増えてしまうという事でもある。やり方があざといようで気も引けるのだが、邪まな考え抜きに、朋也にはようやく得たものを大事にして欲しいし、汐ちゃんには朋也の仕事が原因で寂しい思いをさせたくないとあたしは思っている。それもまた、所詮は言い訳だろうか。

「だから、忙しいパパが帰ってくるまでにご飯作って待ってよう」
「うん。頑張る」

 その意気や良し。頑張る分担の9割9分があたしの受け持ちであろうとそれはそれ、これはこれだ。此処で肝心なのは意志と行動、加えてひたむきさと愛情だ。

「でも帰ってくるのが遅かったら、先に食べちゃおうか」
「…ダメ。パパが帰ってくるまで待つ」
「えー、待つの?」
「うん、待つ。でも、先生は先に食べてていいから」

 ああ、この歳にしてこの気配り。この優しさ。思わず感動してしまうあたし。この子、将来反抗期とかあるんだろうか、なさそうよねー。正にお買い得。

「あーもうもうっ。愛いやつめー」

 道端にも関わらず、思わずあたしはしゃがんで小さな頭を抱きかかえた。そのままグリグリ撫で回す。たいていの子はこうすると大げさに喜ぶかムズガるかするのだけど、汐ちゃんはわりと無表情のまま為すがままにされていた。嫌がっていないのは確かなのだけど、淡々と好きにさせているといった感じだ。この歳でそういう反応はちょっと、なんだ……。この妙な愛想の無さは父親の方の遺伝だろう。おのれ朋也め。でもまあ、汐ちゃんの場合は仕草の端々から健気さや素直さ、微笑ましさが伝わってくるので、逆に愛想の無さが可愛げになっているのだけれど。……ふむ、待てよ。これがあたしと朋也の子供だったら、そうよねえ、愛想が悪いわ態度は素っ気無いわ、それでいて仕草の端々からガサツさや大雑把さが伝わってくるような見るからに可愛げのなさそうなガキに……って、全然ダメじゃん!

「って、うああ、なに考えてんのよ、あたしは!」

 頭を抱える。うじうじ悩んでいるくせに妄想ばかり先走らせてどうするんだ。だいたい、妄想なら妄想らしくもっと自分に好都合なものを抱けばいいものを、なにゲンナリするような事を思い浮かべているのだか。アホか、あたしは。ああ、マジやばい。へたれ一直線直滑降じゃない、これじゃあ。

「先生、痛い」
「わ、ああ、ご、ごめん!」

 困ったような汐ちゃんの声に我に返る。慌てて抱え込んでいた汐ちゃんの頭を離し、あたしは目を丸くした。綺麗な汐ちゃんのおかっぱ頭が知らないうちに三日間ジャングルを彷徨い歩いたかのようにグチャグチャに乱れている、というか爆発している。

「あら、どうしたの、その頭」
「先生が……」
「あたしかい」

 そう言えば、汐ちゃんの頭、延々とグリグリ撫で回し続けてました。もはや掻き混ぜると言った方がいいくらい。素直にペコリと謝る。

「……ごめんなさい」
「うん」

 怒った様子もなく、ペタペタと手で撫で付けて髪を整えていく汐ちゃん。相変わらずマイペースだ。

「汐ちゃん、うしろ、跳ねてるよ」
「……?」
「ああ、違うそっちじゃなくて。ん、先生がやってあげる」
「うん」

 カバンから櫛を取り出し、跳ねた部分だけでなく全体を整えてあげる。梳かしながら気づいた。ぼけっと見ていないで最初からやってあげれば良かった。

「はい、出来た」
「ありがとう、先生」
「いえいえ、どうしたしまして」

 元はといえばあたしがやったんですものね。
 道端で何時までもこんな事をしているのも間抜けなので、さっさと櫛を仕舞い、あたしは汐ちゃんと手を繋いで歩き出した。
 もうアパートの近くまで帰ってきていたらしい。顔をあげれば、決してお洒落とは言いがたい慎ましやかな佇まいが通りの向こうに姿を見せていた。
 肝心の一歩を踏み出すのが難しい、か。
 この子と手を繋ぐのも、一緒に歩き出すのもこんなに簡単なのに、どうして心理的な一歩はこんなにも踏み出すに勇気がいるのだろうか。
 小さい手だ。繋いだ汐ちゃんの手を握り直し、今更のように実感する。保育士になって間もない頃は、幼い子供の手が驚くほど小さくて柔らかいことに、毎日のように感動を覚えていた。さすがに今はもう小さい子たちと手を繋ぐことにいちいち大きな感慨を抱くことはない。子供達をどれだけ愛しく思い、慈しんでいても、こればかりは致し方ないことだ。慣れてしまうという事は、時に寂しいものでもあるんだ、とふと思うこともあった。
 でも、あたしは再び新鮮な感慨を抱いている。それも、かつて抱いた子供という存在に抱いた感動とはまた色合いの違った感慨だ。
 汐ちゃんと触れ合うたびに、あたしの心は激しく踊り弾み高鳴る。あたしは、この子のことがどうしようもなく可愛い。汐ちゃんが愛おしい。
 このざわめくような感情を抱くたびに、あたしは安堵を覚えるのだ。この感情を抱いている間は、自分が、この子を朋也に近づくために利用しているんじゃないんだという事を確認できるために。
 あたしは、純粋にこの子が好きだ。心から、この子の家族になれたらと、願っている。

「…………」

 あたしは唐突に耐え難い渇きに襲われた。喉をかきむしらんばかりの渇きに、息が詰まる。偽ってどうする、おためごかしの嘘をついてどうする。これはもう『願っている』なんて生易しい気持ちじゃないだろう? これは渇望だ。あたしは飢えているんだ。あたしは、あの二人が欲しい。あの二人を自分のものにしたい。そう、あたしは朋也が好き。そして、汐ちゃんが好きだ。二人が好きなんだ。だから、あたしは二人の家族になりたい。あたしは、あの二人の本当の家族になりたいんだ。やっぱり、嫌。このままじゃ嫌だ。もうあたしは、今の仮初めの関係に満足できなくなってきている。そして怖くてたまらないんだ。不安で仕方ないんだ。何の裏打ちもなく、ふとしたことで最初から何もなかったように消え去ってしまうだろう今の自分の立場のあやふやさ、心もとなさが。あたしは、朋也と汐ちゃんにとって、本当はただの他人にすぎないから。

 部屋の鍵を開け、ドアノブに手を掛けたまま動かなくなったあたしを、汐ちゃんが不思議そうに見上げている。

「汐ちゃん」
「……?」

 今なら、最初の一歩を彼らに向かって踏み出せそうな気がした。立ち止まっていられる気のしない心急いたこの瞬間なら、怖れに目を瞑って前に踏み出す事が出来ると。だって、あたしはもう、今のままじゃ……。

「汐ちゃんは新しいママって、欲しいと思わないかな?」

 藁に縋るような問いかけ。思えば恐る恐る顔色を見るようなそれは、切り出し方としては最悪の類だったのかもしれない。
 汐ちゃんは一拍キョトンと目を瞬くと、何の躊躇も無く首を横に振った。

「ううん、いい。べつにママはいらない。ママはママだけだから」





     ◇  ◇  ◇  ◇  ◇





 気がつくと、あたしは何故か朋也の部屋ではなく自分の家の自分の部屋にいた。枕に埋めていた顔をあげ、キョトンと周囲を見渡す。

「え……と」

 いったい、どうしたんだっけ。
 枕元に転がったペンギンを模した時計に一瞥を向けると、時間はもう午後十時を半分回っている。その瞬間、硝子の曇りを拭い去ったかのように、空白の時間の記憶が甦ってきた。
 そう、あれからあたしは普通に汐ちゃんと部屋の中に入って、何時ものように二人で晩御飯を用意して、普段と変わらぬ調子で汐ちゃんとおしゃべりしながら朋也の帰りを待って、帰ってきた朋也と軽口を叩き合って、ご飯を食べて、片付けて、おやすみと二人に告げて、帰ってきた。  何時ものように帰ってきたのだ。

「あ、はは、き……つう」

 半面に掌を押し当て、あたしは乾き切った苦笑いに肩を弱々しく震わせた。まったく、我ながら大したものだと思う。よくもまあ、あんな状態で普段と変わらぬ外面を保てたものだ。意識の方は完全に魂の抜け殻みたいなみたいな有様だったというのに。人間、まともな意識が残っていなくても普段どおりを装えるらしい。オートパイロットシステムでも搭載してるんだろうか。

「ふっ……く、ふふ」

 いや、それにしても参った。まずは様子見と繰り出したジャブだったのに、返ってきたのはいきなりの必殺ブローのカウンター。試合開始三秒でノックアウトされた気分だ。
 ようやく勇気を振り絞り、恐々と一歩目を踏み出したと言うのに、踏み出したそこからガラガラと崩れ落ちて、あたしは谷底に真ッ逆さま。
 こいつは正直イイのを貰いすぎた。谷底から這いあがれたとしても、あたしはもうこれ、二度とあの二人の方へ踏み出す勇気を出せないんじゃないだろうか。
 坂道はさながら断崖絶壁の如く、而して頂上は遥かに遠い。
 汐ちゃんにとって、パパとは朋也のことで、ママとは渚のこと。それは神聖不可侵の事実で真実。あの子の家族は、その二人だけなのだ。やっぱり、渚じゃないとダメなんだ。他のなんびとも、渚の居場所を奪えない。ましてや、あたしみたいな女には。

『ママは、ママだけだから』

 至言じゃないか。聞く立場が違ったら感動に打ち震えただろう。でも、あたしの立場だと素直に感動というわけにはいかない。ショックだった。やっぱり、渚には敵わない。自分じゃ、届かないのだと、思い知らされたみたいだった。

「ふふっ……ふ、ふっ、ふえぇ、ええ」

 嗚咽に喉が詰まった。目に涙が溜まりだし、視界が滲む。みっともなく泣けてくる。やだな、朋也にも汐ちゃんみたいな反応されたらと思うと、もうダメだ。足が竦む。朋也相手には、汐ちゃんにしたみたいに感触を確かめるなんて中途半端なことは出来ないだろう。今の関係が決定的に変わってしまう覚悟を決めないと。でも、仮初めでも二人の傍に居られたのに、近づこうとして拒絶されたら、もう傍に居られない。そう思うと、怖くて好きだなんて言い出せない。
 片膝を抱え込み、額を押し当てる。
 苦しいなあ、と涙を堪えながら嘆息する。こんなに苦しくなるほど、自分は本気だったわけか。そして、この苦しさを何とかするには、結局前に踏み出すしかないのだ。それでこの苦しさから救い上げてもらえるのか、それともトドメを刺されてしまうのか。汐ちゃんへの感触からして、とてもじゃないが希望を抱く気分にはなれなかった。
 あたしじゃきっと、汐ちゃんの中の渚にも、朋也の中の渚にも、勝てない。勝てない、勝てっこない。
 あたしはきっと、ズケズケと家族の中に踏み込んでくる外敵になってしまう。
 二人に、敵と思われてしまう。邪魔者だと思われちゃう。やだ、やだよ。そんなの、やだよぉ。
 コンコンとドアがノックされたのはその時だった。

『お姉ちゃん、帰ってるんでしょ。お風呂あいたけど、入る?』

 あたしはビクリと顔をあげた。廊下から呼びかけてくる声には勿論聞き覚えが、ってお姉ちゃん? あれ? 椋はもう家を出てて……。

『あの、お姉ちゃん? 寝てるのかな、入るよ』

 恐る恐るドアを開けて覗き込んで来たのは、既に実家を出て久しいはずの妹の椋だった。

「あ、起きてたんだ。お姉ちゃん、お風呂……あの、どうしたの?」
「え? はれ? なんで椋が家にいるの?」
「なんでって、今日はいつもの顔を出す日でしょ」

 あ、そうか。よほどテンパっていたらしい。今日は半月に一度、妹夫婦が両親に顔を見せに来る日だった。尤も、顔を見せに来ると言ってもそれは勝平くんと二人揃っての話で、椋が単身で実家に帰ってくるのはさほど珍しくはない。

「勝平くんも来てるんだ」
「うん、下にいるけど……お姉ちゃん、どうしたの? 泣いてるみたいだけど」
「え……あ、その」

 慌てて目元をゴシゴシと擦るが、後の祭りだ。自分では分からないが、きっと眼は真っ赤になっているんだろう。
 上手い答えを探しあぐねているあたしを、しばらく心配したように見つめていた椋は、やがて後ろ手にドアを閉めると、入ってくるなと止めるタイミングも見つけられないくらい自然な動作で、枕元に腰掛けてきた。

「椋、あたし……」

 口篭もるあたしを制し、椋は訥々とした口調で何の前触れもなく核心を抉ってきやがった。

「お姉ちゃん、前のお休みのとき……ほら、あたしたちとの約束、用事があるって断った日があったでしょう。あの日、お姉ちゃん、お墓参りに行ってたんだってね」
「なん――」

 なんでそれを知ってるのよ。
 絶句するあたしに、椋は友達が霊園の方に行くお姉ちゃんを見かけてたんだ、と言って、参ったよ、と小さく苦笑した。今でもあたしと椋は良く間違えられるので、その辺に絡んで何か一悶着あったみたいだ。

「お参り、渚ちゃんのお墓?」
「…………」

 この子は、もしかして全部お見通しなのか? 
 昔のどこか自信なさげで引っ込み思案だった頃と違い、今の椋は看護士という仕事柄なのか、それとも勝平くんと結婚したからなのか随分と落ち着きを増していた。貫禄めいたものまで備えている。未だ少女気分の抜けないあたしと裏腹だ。敵わないと言えば、最近のこの子にも敵う気がしない。この調子だと、きっとあたしが朋也の所に出入りしている事も、あたしの気持ちも全部知られているんじゃないだろうか。

「岡崎くんの所に出入りしてるのは知ってるよ」
「なっ、なっ」

 なんで? まさか心を読まれた?
 顔色を赤やら白やらに点滅させたあたしに、椋は慌てて付け加えた。

「あ、えっと……まさか全部お見通しなの? って顔してたから」

 大当たり。だめだ、こりゃ。あたしって分かり易すぎ?
 手間の掛かる患者に向けるような目でじっと見詰め、椋は相変わらずの悪気なさげな口振りで小首を傾げた。

「話を聞くぐらいならするよ。お姉ちゃん、独りで思いつめるの好きみたいだけど、そういうのはあまり良くないと思うの、私」
「いや、別に好きってわけじゃ……」

 誰が好きだってのよ、そんなの。やっぱりちょっとズレてるよ、この子。
 とは言え、言わんとしている事は尤もで、加えて大方の事情は把握されてしまっているみたい。元々この妹に押されると大して抗いも出来ずに寄り切られてしまうのはあたしの常。結局、あたしはゴニョゴニョと口篭りながらも、洗いざらい椋に吐かされてしまったのだった。

「お姉ちゃんは、少し勘違いしていると思う」

 現況から自分の気持ちから汐ちゃんにきっぱりと言い切られた内容まで見事に根こそぎ白状させられたあたしに向けて、椋が発した第一声がそれだった。

「勘違い?」

 ムカッときた。言うに事欠いて勘違い? そりゃ、恋は所詮錯覚だとは言うけれど、それを勘違いなどと言われてしまうのは心外なんだけど。
 という主旨の表現をかなり感情的にアレンジして椋にぶつけた。あたしの剣幕に驚いた椋はキョトンと目を丸くして、
「ううん、勘違いってそういう事じゃなくて」

 椋は少し口許に手を当てて「どう言ったらいいのかな」と呟きながら考え込み、やがてふと目線を上げて下から覗き込むようにあたしの瞳を見据えた。釣り込まれるように見つめ返したあたしに、椋は、

「お姉ちゃんは、どういうつもりなのかなって。結局どうしたいのかなって」
「……?」

 キョトンと目をしばたくあたしに、椋は「つまり…」と前置きして一旦窺うように言葉を切ると、

「お姉ちゃんは、岡崎くんや汐ちゃんの心の中から、渚ちゃんの居場所を奪いたいと思ってるの?」
「――っ! ……あ、あたし」

 前振りもなく訊ねてくるにはあまりに辛辣な言葉に、あたしは言葉を失った。奪う、そうなのか? いや、言われてみれば確かにそうだ。だから、あたしは負い目を感じていて、汐ちゃんや朋也に拒絶されるんじゃないかと怯えている。
 でも、あの二人の家族になるって、そう言うことじゃないの? 朋也の奥さんになりたい、汐ちゃんの母親になりたい。それは、渚の場所を奪うという事じゃないのか。

「そう、だと思う」

 だから、あたしは躊躇いながらもそう答えた。椋はどこか得心したように微かに首肯しながら、尚も畳み掛けるように訊ねてきた。

「それってつまり、岡崎くんや汐ちゃんから、渚ちゃんの事を消してしまいたいの?」
「それは、そんなっ」
「奪うって、そういう事じゃないのかな?」

 消してしまう? あの二人の中から渚の面影を? 思わぬ椋の言葉に、あたしは絶句した。ちょっと、待ってよ。そんな馬鹿な、違う。あたしは、そこまでしたいとは思ってない。そんな大それた事、思ってない。それは間違ってる。渚は二人にとって掛け替えの無い大切なものなんだ。それを消してしまうなんて。いやだ、それはあたしもいやだ。違うよ。それは違う。

「ちが、違うわよ。そうじゃない。奪うって言っても、それはあの家族の中で渚が居るべきだった場所の事で……。消しちゃうなんて、だって、そんな」
「でも、居場所を奪うって、消しちゃうってことなんじゃないかな」

 感情的にまくしたてるあたしと違って、淡々と重ねて言い募る椋に、あたしは愕然としたまま違うとダダを捏ねるように首を振った。それは、論理の飛躍だ。奪う事と消してしまう事はイコールじゃない、そのはずだ。

「じゃあ、聞き方を変えるね。お姉ちゃんは、岡崎くんと汐ちゃんの一番にならないと、我慢できない?」
「一番って……それ、そんなの、あたしは」
「渚さんに勝つとか勝たないとか。つまりそれは、岡崎くんと汐ちゃんにとっての一番になりたいって事じゃないの? 今、二人にとっての一番である渚ちゃんを押し退けて」
「…………」

 そんな事はない、とあたしは心の中で呟いた。あたしは、あたしは二人の家族になりたいだけだ。渚を押し退けて前に出たいわけじゃない。ただ、二人と一緒に居たいだけで。
 あの二人から、渚の場所を奪い去りたいわけじゃない。況してや消し去ってしまいたいなんて大それた事、思ってない。そうよ、あたしは……あの二人の一番なんかじゃなくていい。一番なんかじゃなくたって。

「あたし、ただ……好きだから、あの二人が。だから一緒に居たいって、そう思ってるだけで」
「そう。じゃあ、お姉ちゃん。そもそも、渚ちゃんに勝つとか、負けるとか、そう考えるのって間違ってるんじゃないのかな」
「……え?」
「お姉ちゃんは、少し勘違いしてると思う」

 椋は先ほどと同じ言葉を繰り返し、無表情だった面にほんのりと微笑みを浮かべると小首を傾げた。

「もう居なくなってしまった人と、同じ場所の取り合いなんてできっこないよ。だって、居なくなってしまった人は、残された人の心の中の、特別な場所に仕舞われちゃうんだから。その時点でもう、同じ場所には立てないんだよ。お姉ちゃんは、生きていて、渚ちゃんはもういない。そんなの、勝つとか負けるとか、場所を奪うとか、そんな風には噛み合わないよ。噛み合うものじゃないの」

 ぽかんと表情を弛緩させたまま、あたしは力なく口端に引き攣れた笑みを浮かべた。あたし、多分頭が悪い。だって、妹が何が言いたいのか、よく分からない。

「……ごめん。あのさ、椋。つまり、なにが言いたいの? あたしにどうしろって言うのよ」

 吐き捨てるような質問に、妹は素っ気無いほどあっさりと答えて見せた。

「盗らなくても、もうきっとお姉ちゃんの場所は出来てると思うの。あとは、そう。岡崎くんと汐ちゃんだけじゃなくて、渚ちゃんとも一緒の家族になるって、そう考える事じゃないかな」

 なによ、それ。やっぱり訳が分からずに困惑するばかりのあたしに、椋はふっと笑って「怖がらないで」とだけ言った。それは、傷の奥に指を突っ込んで薬を塗るかのような、どこか容赦ない優しい声音だった。
 このまま逃げ出すことを許してくれそうにない、なんだかちょっと怖い笑みだった。





     ◇  ◇  ◇  ◇  ◇





「怖がるなって言われてもねえ」

 あたしは湯船の縁にだらしなく顎を乗っけながら、憂鬱な溜息混じりに独りごちた。そうはいかないから困っているわけで。というか、怖がらずにどうしろって言うんだ、椋は。やっぱり、当たって砕けろって事なのかな。勘弁して欲しい。
 ボケーっとさっきから一生懸命頭を洗っている汐ちゃんを鑑賞する。この年齢で一人で頭を洗えるというのは実は凄いんじゃないだろうか。キュッと必死に目を瞑っている姿は実にかわいらしい。
 汐ちゃんに新しいママなんて要らないとキツい一言を頂いてから一週間。表向きは相変わらずの関係が続いている。まあ、汐ちゃんはあたしにキツい一撃を食らわしたなんて意識はないだろうから、変化なんて無くて当たり前なんだけど。
 ベトベトと湿気のキツい夜。朋也はまたぞろ遅くなるとの連絡があった。いい加減頭にきてるらしいのが電話越しにも伝わってきていた。今ごろ、新人くんは怒られてるんだろうなあ、と苦笑が滲む。ミスを叱るならいいけど、あの調子だと八つ当たりしてるんじゃないだろうか。昔とは変わったとはいえ、それじゃあまだまだ人間が出来てないぞ、岡崎朋也。
 朋也の方はそれでいいとして、で、問題はあたしらの方だ。なんであたしが朋也の家で汐ちゃんとお風呂に入っているかというと、この家にはクーラーという文明の利器がなく、扇風機でさえ一台しかないのが原因だった。
 こんな蒸し暑いのに、キッチンに立って料理をしていたら汗だくになるってば。
 あまりにベトついて気持ち悪かったので、完成した晩御飯をいただくのは後回しにして、先にお風呂を頂くことにしたのだ。幸い、朋也が帰ってくると言っていた時刻にはまだだいぶ間があった。さすがに、あいつがいる前でお風呂を頂く勇気は今の自分にはない。何しろ、この部屋、洗面所との敷居がカーテンしかないものね。
 しかし、朋也め。シャンプーが大人の男性用のトニックしか置いてないってのはどういう事よ。汐ちゃんぐらいの歳の子にそんなもの使わせるんじゃないわよ、まったくこれだから男親ってやつは細かいところに気が回らなくて困るのよね。はあ、明日、子供用のシャンプー買ってこよう。

「汐ちゃん、洗えた? そろそろお湯かけるわよ」
「うん、洗えた。あ」
「あ? あってなに?」
「目に入った。痛い」
「痛いって、そんな淡々と! 早く濯がないと。お湯お湯。ああっ、擦っちゃだめ!」

 汐ちゃんが目を手で擦ろうとするのを、慌てて湯船から身を乗り出して掴みとめ、ザバンと頭からお湯を被せる。いきなりの乱行に汐ちゃんがびっくりしている間に、今度は洗面器に満たしたお湯を汐ちゃんの顔に浴びせ掛ける。

「わ、ぷ」
「大丈夫? 目が痛いのは無くなった?」
「…………」

 汐ちゃんは答えずに、何故か頬っぺたを膨らませ、珍しく恨みがましい目つきであたしを見つめた。いきなり二度も頭からお湯をぶちまけたため、ご機嫌を損ねてしまったらしい。素直で聞き分けのいいこの子には滅多にない反応だ。でも、普段見ないこの子の姿を見れたのがなんだか嬉しくて、あたしは思わず身体を折り曲げて笑ってしまった。

「あはは、ごめんごめん。でも、痛いのはどっか行っちゃったでしょ?」
「…………」

 笑った事で余計怒らせてしまったみたいだ。
 汐ちゃんはプイとそっぽを向くと、トテトテと足早にお風呂から飛び出して行ってしまった。

「あ、ちょっとこら。まだお湯に浸かってないでしょ! 汐ちゃん、百数えるまで出ちゃだめよ、汐ちゃん。おーい待てっ、逃げるなーー」

 さあ、ここは保育士としてのプライドに掛けて逃がすわけにはいかない。あたしは袖を捲くりながら――裸だけど――湯船に立ち上がると、汐ちゃんを追いかけてお風呂を大股で飛び出し、

「おーい、待ちなさいよ汐ちゃ……」

 洗面所をさえぎるカーテンを引っぺがして飛び出したところで、誰かとドスンとぶつかった。

「った!?」

 尻もちをつきそうになったところを、伸びてきた腕が支えてくれる。あたしも、咄嗟に相手の体にしがみつき、なんとか転ばずに踏みとどまることができた。ほう、と安堵の吐息をついて、

「あ、ありが……」

 顔をあげると、物凄い至近距離で見知った顔と目が合った。それこそ、以前発作的にキスしてしまいそうになったときよりも間近に。強張った朋也の顔が。朋也の薄く開いた唇から、吹きかけられた吐息が鼻をくすぐる。それくらい近い距離に、あいつの顔が。
 頭が、真っ白になった。

「……き、杏?」
「とも…わっ、ご、ごめん」

 抱きつくみたいにして朋也の胸元にしがみついている自分の体勢に気づき、顔が真っ赤になる火照った感覚に襲われながら、あたしは慌てて子供みたいに一生懸命に掴んでいた朋也の作業服の胸元を離して、彼の腕の中から飛びのいた。

「あ、あはは、ご、ごめんね。まさかあんたが帰ってるとは思わなくって。ぬ、濡れちゃったわね、服。あ、ああどうしよう、タオル持ってくる? というか、さっき電話で帰ってくるまでまだ掛かるって言ってなかったっけ?」

 抱きついてしまったのを誤魔化すように、空笑いを浮かべて濡れて顔やら首に張り付く髪をまとめながら、あたしは捲し立てた。朋也は混乱しきった様子で視線を天井に泳がせながら、溺れてるみたいな早口で、

「あ、う、いや、先輩が手を貸してくれて、思ったよりも早く済んだんだ。だから急いで帰って……いや、ちが、そうじゃなくて、うっ。あ、それ、それより杏、お、おま、おまえ、その、いいから早く隠せって」
「へ? ――――っ!」
「あ、う、お前の胸がデカイってのは良く分かった。分かったから――」

 絶叫するように明後日の方角を睨みながら、朋也が叫んだ。動転しきっていたあたしは、その叫びにようやく自分が今、どんな格好をしているのかを思い出した。
 タオル一枚ひっかけてすらいない、生まれたままの姿で突っ立っている自分の格好を。

「わ、わざと見せてるみたいに言うなーーっ!」

 滅茶苦茶に狼狽えながら失礼な事をほざく朋也を蹴り飛ばし――裸で蹴りというのは拙かったと後で反省した――、あたしは茹蛸のようになりながらお風呂場に逃げ戻った。
 そのまま、タイルの上にへたり込む。み、見られた。見られてしまった。初心な小娘じゃあるまいし、裸を見られたくらいでこんなに動揺するのは馬鹿みたいなんだけど、ダメだ、物凄く恥ずかしい。
 頭を抱えて突っ伏するあたしの耳に、外から二人の話が聞こえてきた。

『……パパ、先生の胸ってママよりも大きいの?』
『あ、あ? な、渚とか? ああ、杏の方がありゃ大きいと思う。ああ、大きいな。うああ、大きいなあ、オイ、どうすりゃいいんだ!』

 ここまではっきりと聞こえるほど大声で、大きい大きいと連呼している。朋也もよほどパニックに陥っているようだった。というか、そんな大声で叫んだら、隣に丸聞こえでしょうが。このアパート、壁薄いんだぞ!

「こ、こら、ちょっと朋也! なに錯乱してんのよ!大声でヘンなこと口走るな!」
『だ、だって大きいし!』
「う、うるさい! 黙って落ち着きなさいよバカ!」

 もう、誰か何とかしてッ。





     ◇  ◇  ◇  ◇  ◇





 当然の如く、その日の晩御飯は気まずいものになってしまった。元々ご飯の席で一番喋っているのはあたしで、無口幼女の汐ちゃんや、無愛想な上に仕事で疲れている朋也は主に聞き役なので、あたしが黙ってしまうと食卓は妙に静かになってしまう。普段はあたしが一時黙っても会話は途切れないのだが。
 カチャカチャと箸の奏でる音色と扇風機の回る駆動音だけが、静かな夏の夜に染み渡っていた。
 ……どうしよう。ほんとに気まずい。
 煮魚を箸でつつきながら、あたしは密かにこめかみを滴る汗を拭った。本当ならあのまま逃げ出してしまいたかったのだけれど、それだと明日以降余計に気まずくなりそうに思えたのだ。こんな事で場の雰囲気どころか関係そのものまで気まずいものになってしまい、この部屋に出入りできなくなってしまうのは嫌だったので、我慢してなんでもない振りを装ったのだけど。さすがにこの微妙な空気は居心地が悪かった。
 朋也もあたしと同様なのか、さっきからあからさまに目が泳いでいる。チラチラと此方を窺っているくせに、目が合いそうになると二人して露骨に視線を逸らしている始末だ。それでいて、やたらと視線があたしの胸元に向けられる。完璧に無意識らしく、自分が胸元を凝視しているのに気づくと、見ていて溜息をつきたくなるほど自己嫌悪丸出しの顔になって横を向いてしまうのだ。もっとさりげなく視線をそらすとか、出来ないのだろうかこの男は。
 いつもみたいに軽口を叩いて大した事じゃないって雰囲気に持っていけたら良かったのだが……今のあたしには無理な相談だった。朋也に対しての好意の向け方に思いあぐねている現状のあたしにとって、素肌を見せてしまったという事態はやはりかなり重たい事なのだ。それを自分から有耶無耶に誤魔化して無かった事にしまうのは、自分の気持ちそのものを無いものとして処理してしまうのと同じように思えてしまって、どうしても口を開けなかった。
 まったく、あたしがダメなら朋也の方から誤魔化してくれればいいものを。お前胸デカすぎだなとかそういう下ネタまがいの軽口でもいいのに。そうしたら、あたしもガーッと怒って見せて、その場はそれで笑い話で収まるだろうに。気心の知れてる朋也なら、そうすれば場を取り成せるって分かってるはずなのに。なのに、朋也はあたしが風呂場に逃げ込んだ時は錯乱気味に戯けた事を口走っていたくせに、いざあたしが着替えて出てきたら、あたしと同様完全に口篭もってしまいやがった。それが余計にこの気まずさを増幅させてしまっているのに、いったいなにを考えてるのよ。

「杏、おい杏」
「な、なによ。大声出さないでよ。聞こえてるって」

 物思いに耽っていたところを、突然大声で呼びかけられ、あたしはムッとなりながら顔をあげた。

「お前、そのまま食べると、喉に刺さるぞ」
「…………」

 手元に目をやり、あたしは目を瞬いた。いそいそと箸で摘み上げて齧り付こうとしていた魚の背骨を皿に戻す。

「……そういうあんたこそ、味噌汁にポテトサラダ浸けて食べるのは感心しないわよ」
「……げ」

 味噌汁の椀にさっきから自分でポテトサラダを浸していた事に気付き、朋也は渋面になった。

「待ちなさい。ムキになって食べようとしないの!」
「うっ、いや……むう」

 あたしはしかめっ面をして、口をへの字に曲げてポテトサラダ入り味噌汁を掻きこもうとする朋也を制止した。さすがにそんなものを食べさせるのは作った者として気が引けるし、なにより汐ちゃんの教育に悪いではないか。
 朋也の手から椀をもぎ取り、洗い場に持っていく。

「すまん」
「はぁ、別にいいわよ。あんたにお腹壊されても困るし。まあ元々胃の中では一緒になるんだから、お腹壊れはしないだろうけどさ」

 さっと後処理を終えて食卓に戻ってきたあたしに、朋也は湯飲みに顔を埋めながら、ぼそりともう一度付け加えるように謝った。

「杏、あの、だな。さっきのあれも、悪かった」
「……いいわよ、別に。あれは事故で、あんたが悪いんじゃないし。別に見られてへ、減るもんじゃなし」

 だから、そんな真剣に謝られても困るのだ。気まずさは増すばかりでさっぱり晴れない。一層先ほどの羞恥が思い出され、あたしは顔を真っ赤にしながら黙々と箸を動かす事に意識を向けようと努めた。
 しかし、さっきから汐ちゃん静かよね。無口は無口だけど、いつもは全然喋らないってわけじゃないのに。雰囲気に中てられたのかしら。
 不思議に思って汐ちゃんの方へと顔を向けると、汐ちゃんは箸を握り締めたまま、コクリコクリと舟を漕いでいる。

「汐ちゃん、眠いの?」
「……」

 呼びかけられ、一瞬ハッと目を開けた汐ちゃんだったけど、頷くように首を動かした瞬間、またカクんと糸が切れ、夢の中へ引き摺り込まれてしまった。

「いつも風呂入ったあとにすぐ寝るからな」

 朋也が呆れたような、でも優しい目をしながら言う。このぐらいの年齢の子供は、普段の生活リズムに肉体が逆らえない面がある。お風呂の後はすぐに寝るという習慣が、眠気を催してしまったのだろう。
 あたしは子供特有の微笑ましさに目元を緩めながら、腰に手を当てて息をついた。

「お布団、敷かないとね」
「そうだな」

 食器に顔を埋めてしまいそうだった汐ちゃんを寝かせ、ちゃぶ台に乗った食器類を片付ける。ちゃぶ台そのものも脇に避けなければならない。狭いこの部屋では、布団を敷くのに様々なものを片付けなければいけないのだ。けれど、此処には狭いが故の一体感が横たわっている。あたしはそれを羨ましいと、素直に感じる。でもまあ、子供は大きくなったら感傷なんか脇に置いて自分の部屋が欲しいと主張し出すんだろうけれど。汐ちゃんならもしかして言わないかもしれないけど、あたしとしては汐ちゃんにはそこまで聞き分けのイイ子にはなって欲しくない気持ちもある。って、またあたしは勝手に汐ちゃんの家族みたいなことを考えて……。憂鬱だった気分がさらに重たくなる。

「布団、これでいいの?」
「ああ、そうだけど。ちょっと待て、俺が出すって」
「いいって、これくらい」

 ちゃぶ台を畳んでいる朋也に止められるが、あたしは構わず押入れからこの家の匂いが染み付いた布団を抱えて引っ張り出した。
 と、後退った瞬間、置いてあった座布団を踏んづけて足を取られる。

「あ、っとっと」

 これでも運動神経には自信があるので、そのまま引っくり返るような無様な真似だけはせずに済んだものの、よろけて尻餅をつきそうになる。
 だが、お尻を床にぶつけそうになった瞬間、あたしは後ろから朋也に抱き抱えられ、スッポリと腕の中に収まった。

「おいおい、大丈夫かよ」
「あー、うん、お陰さまで」

 驚きに麻痺している声帯を何とか震わせて答えたあたしは、次の瞬間朋也に抱かれた自分の格好を自覚して、全身から力という力がストンと抜け落ちた。あれ? と思う間もなくまるで軟体動物になってしまったかのように体中がふにゃふにゃになった。あたしは、ポカンと呆けながら、自分のお腹に回された朋也の腕をじっと見つめる。図らずも、さっきと似たような体勢。違うのはあたしが服を着ていることと、抱き合うのではなくあたしの体を朋也が一方的に抱きしめているという、ただそれだけ。それなのに、さっきよりもよっぽど朋也の肌の温もりとか、心臓の鼓動が伝わってくるのはどうしてだろう。さっきですら、自分が裸だってことを忘れてしまうくらいに、朋也の腕に抱きしめられる感覚はとてつもないものだったのに。今のこれは、まるで甘美な溶岩の中に突き落とされたようだった。気が、遠くなる。意識も、理性も、何もかもが溶けて流れてこぼれていく。
 何故か、二人の動きは止まったまま時間が流れていく。扇風機が淡々と唸る。他に聞こえるのは汐ちゃんの寝息と、耳を擽る朋也の吐息。あたしは、微かに震える声で訴えた。

「朋也……痛い。離して」
「あ、ああ。すまん」

 朋也の声も揺れていた。狼狽えている。声の調子から慌てて飛び跳ねるように離れる、そう思ったのも束の間、朋也はあたしに回した腕を外そうとしなかった。それどころか、朋也の手は上着の裾をつかみ、ゆっくりと服の下に忍び込んでくる。
 朋也の手の甲が、肌に触れる。掌が翻り、指の感触がお腹をこする。あたしはビクリと体を震わせた。トクトクトク、と心臓が早鐘を打ち鳴らしていた。朋也の腕は紙の鎖だ。振り解こうとすれば、すぐに解ける。でも、あたしの身体は完全に弛緩してしまって、頭で思う通りにまったく動こうとしてくれない。鉄の鎖で雁字搦めにされたように身動きできなかった。
 この空気、この雰囲気は……。あたしは喉を鳴らして唾を飲んだ。ヤバい。双方向から青信号になってしまっている。分かりやすく言うと、二人ともにスイッチが入ってしまった。さっき裸を見せてしまったのがやっぱり拙かった。二人の間を流れていた気まずい空気もトリガーを引く要因になったんだろう。下拵えさえしてあれば、スイッチが入るための後押しなど小さなきっかけで充分なのだ。こうなると男と女は止まれない。好きだ嫌いだという感情も、それぞれの立場も、普通の友達同士という間柄も何もかもが拭い去られて、只の男と女になってしまう。
 鼓動が早くなるに連れてリズムが乱れていく息を整えながら、あたしは必死に熱を帯びていく身体を宥め、拡散していく理性を掻き集めた。このまま済し崩しに関係を持ってしまうのは、あたしにとって望む所かもしれない。でも、場の雰囲気に流されてあたしを抱いたら、朋也はきっと後悔する。渚を愛している朋也は、絶対に後悔する。責任感の強い朋也は、手を触れてしまったあたしの事をそのままずっと抱きとめてくれるかもしれない。でも、心の中には消えない澱が積もってしまう。抜けない棘が刺さってしまう。そんなのは嫌だ。藤林杏は、そんなのは嫌なんだ。

「朋也。あたしがあんたのこと、好きだって言ったら、怒る?」

 だから、あたしは冷や水のような言葉を、朋也に浴びせた。そのまま済し崩しに関係を持つ事を許さない一言に、上着の裾をたくしあげて胸の膨らみに触れようとしていた朋也の手が止まった。理性が、飛び起きたのだろう。あたしは安堵とともに痛切な寂しさを感じた。そうよ、朋也。それでいい。火遊びで自分の心を傷つけちゃいけない。キュッとあたしは自分の身体を縮込ませた。急に怖くなったのだ。朋也の理性を取り戻させるためとはいえ、本当の気持ちを告げてしまった。でも仕方ない。こんな形で告白するはめになるとは思っていなかったけど、こうなってしまったのは自業自得だ。
 あたしは、拒絶されるだろう。
 その場の雰囲気であたしを抱いてしまいそうになった以上、二度と今まで通りにあたしを近づけまい。友達としての関係を維持するためには、距離を置かないといけないから。
 だからもう、家族ごっこはこれでお終い。

「……なんで怒るんだ?」

 そう、覚悟を決めた所だったから、朋也の台詞にあたしは虚を突かれた。

「なんで、俺がお前の事怒らないといけないんだ?」

 首を捻って背後を振り返ると、心底不思議そうな朋也の顔が間近にあった。あたしはこいつの鈍さ加減に呆気に取られながら、ムキになって言い募った。

「だって、あたし。朋也に世話やいてたのも、汐ちゃんの相手してたのも、あんたが好きだからで。晩御飯作ってあげてたのも、仕事忙しいあんたの代わりに汐ちゃんの傍にいてあげてたのも、純粋な好意なんかじゃなくて……下心ばっかりだったのよ?」
「……汐の事は、本当はどうでも良かったのか?」
「それはちがっ!」

 大声をあげかけたあたしの口を、朋也は慌てて手で塞いだ。目配せで寝ている汐ちゃんを差す。彼女を起こすわけにはいかず、あたしはシュンと肩を落とした。朋也は僅かに困った風に視線を泳がせ、

「じゃあ、俺が怒る理由、どこにもないじゃないか」
「…あんた、あたしの言う事ちゃんと聞いてたの?」

 嘆息。それから朋也は上目になって口を尖らし、

「お前な、それじゃあ俺の方が怒られて然るべきじゃないか」
「は?」
「考えても見ろよ、下心も何も無し。純粋な好意だけで人にこんなに世話して貰っておいて、それが当然みたいな顔してる奴なんてろくでもないだろうが」

 そりゃまあ、言われてみればそうだけど。あたしと朋也は一度離れると、額を突き合せるように座った。朋也は頭を掻きながら苛立たしそうに言った。

「お前だから、甘えてた」
「え?」
「甘えちゃいけないとか何度も言ってた癖に、甘え続けてたのは、お前だからなんだよ、杏」
「あたしだからって、なに言ってんの?」
「ああもう、察し悪いな」
「それ、あんたにだけは言われたくないんだけど」

 ムッとなって言い返すと、朋也は恨めしそうに目を眇め、大きく息を吸い、吐き出した。そして、むくれたような表情で、でもまっすぐにあたしを見つめて、こう言ったのだ。

「俺も杏が好きだって言ってるんだ」
「……は?」
「は? じゃなくて。だから、俺もおまえが好きだって言ってるんだよ! はぁ、畜生、もっとちゃんと言うつもりだったのに、なにやってんだ、俺は……ったく」
「…………」

 きっと、吸血鬼が心臓に杭を刺された時の気分ってこんなものなんだと思った。そりゃ灰にもなる。こんな衝撃に魂が耐えれるはずがない。

「だっ、え? だ、そ、あ、あんた、でも渚の事が」

 朋也は目を伏せようとして、耐え切った。苦渋を噛み潰したような顔をして、あたしを真っ直ぐに見ながら言う。

「ああ、そうだよ。俺はまだ渚の事を愛してる。だからおまえに対してちゃんとできないでズルズル来ちまってた。あのな、杏。告っといて厚顔無恥も甚だしいが、俺はお前より渚が好きだ。俺にとって、汐とあいつは特別なんだ。一番掛け替えない存在なんだ。だから、ずっと悩んでた」

 朋也が浮かべた表情は、半分泣いた笑顔だった。

「だってお前、こんな事言えるか? 俺は渚の方が好きで愛していて特別大切で一番大事だけど、お前も好きだ、なんてふざけた事。俺だったら殴るぞ」
「……朋也」

 そうか、あたしは自分独りで思い悩んでいたと思っていたけれど、朋也も悩んでいたんだ。尤も、中身は全然違う。自分が大事で悩んでいたあたしと違って、朋也はあたしの事を考えて苦悩してくれていたんだ。自分は二の次だと言われたも同然なのに、あたしは嬉しくて涙が出そうになった。
 俯いて肩を震わせ出したあたしを見て、朋也は諦めと自責を和えたような苦しげな、寂しげな顔になり、ポツリとつぶやく。

「……やっぱ、怒ったか」

 だからあたしは、嗚咽をかみ殺して言ってやった。

「ちがう。嬉しくて」
「……なっ!? なんで?」
「なんでって、そんなの決まってるでしょ!」

 決まってると言いながら、あたしはそれ以上朋也に答えを教えてやるつもりは毛頭なかった。それは、きっと口にして伝えるべき想いじゃないと思ったから。
 あたしのそれは、朋也からすれば思いもかけぬ言葉だったのだろう。朋也の声は完全に裏返っていた。その後、ボソボソと「あ、あいつの言った通りかよ。うう、女って分からん」と首を捻りながら呟く声が聞こえてきたが、あたしはそれどころじゃなく、込み上げてくるものを堪えるのに必死だった。だって、朋也があたしの事を好きって……。好きだって、はっきりと。

「ともかく杏、俺はまだ渚の方を愛してる。でも、お前と再会して、こうやって会ううちに、いつの間にかお前に惹かれてた。好きになってたんだ。勝手な言い分で、杏には失礼な話なんだけどな」
「朋也、あたしは……」

 なんでもいい、とにかく何か言おうと口を開いたあたしを制して、朋也はきっぱりとこう言った。

「すまん。悪いと思ってる。でも、これだけは言わせてくれ、杏。もうお前がいないこの家なんて考えられないんだよ」
「――――ッ!」

 それは、その言葉は、今のあたしにとって愛してると言われるよりも、朋也に言って欲しい言葉だったのかもしれない。だって、それはあたしを失いたくない本当の家族の一員だって求めてくれてる事だから。そして、本当の意味で家族になって欲しいと、言ってるのと同じ事だったから。
 でも、心を染め尽くすような熱い歓喜が迸った瞬間、汐ちゃんの寝顔が視界の端に映った。思い出す。汐ちゃんの悪意の無い、だからこそ真実の思いが篭った一言を。一気に熱が失せていく。

「ともや、朋也、あたしうれしいよ。朋也にそう言って貰って。でもね、でもダメだよ。汐ちゃんは朋也みたいに思ってくれないよ。あの子にとってあたしは先生でしかないんだから。汐ちゃんのお母さんは、渚だけだもの」
「そんな事ないさ。汐はお前の事、渚と同じくらい慕ってるぞ」
「だって、あたし……」

 あたしは、汐ちゃんと交わした会話を朋也に伝えた。朋也は何故か困惑や苦渋を浮かべずに、少し驚いた後、ニヤリとほくそえむような顔をしてみせた。

「朋也?」
「実はな、俺も少し前に汐に直接聞いたんだよ。新しいママが出来てもいいかって」
「――――っ!」

 言葉を失うあたしに、朋也は得意げに続ける。

「そしたら汐はそりゃもうキッパリと『わたしのママは、ママだけだから』って言うんだよ」

 あたしの時と同じだ。汐ちゃんの真っ直ぐな渚への想いに、あたしの上に敗北感が圧し掛かってくる。だが、そんなあたしに苦笑を投げかけながら朋也は、

「でもな、俺がそうかって言葉失ってたら、汐のやつちょっと考えてから付け加えやがったんだ。何て言ったと思う?」
「え?」
「汐のやつな、『でも、お母さんなら、ちょっと欲しい』って言ったんだぜ」

 あたしは、息を詰まらせた。眩暈のような感覚に冒されながら、それでも朋也の声ははっきりと、

「でな、あいつ、最後に珍しく笑いながらな、言ったんだ」


『杏せんせーがお母さんなら、うれしい』


 聞いた瞬間、心の中で絡まり縛られていた総てが弾けとんだ。口許を覆う。言葉の代わりに嗚咽が溢れ出す。

「汐……ちゃん」

 不意に椋が言ってくれた言葉が思い出された。

『盗らなくても、もうきっとお姉ちゃんの場所は出来てると思うの』

 あんたの言う通りだったよ、椋。朋也も、汐ちゃんも、ちゃんと新しく用意してくれてたんだ。怖がらなくて、良かったんだ。伸びてきた手に掴まれて、胸の中に引き寄せられる。そうしてあたしは朋也に抱き締められた。津波のように、温かな感情が押し寄せてきた。あたしは愛してる。朋也を、汐ちゃんを、藤林杏は何よりも愛してる。

『あとは、そう。朋也さんと汐ちゃんだけじゃなくて、渚さんとも一緒の家族になるって、そう考える事じゃないかな』

 そして、ようやく椋の言葉が理解できた気がした。朋也と汐ちゃんの中では渚はちゃんと生きていて、これからもずっと彼女は二人の家族なんだ。あたしも家族となる以上、二人の中の渚とも家族になる。これから一緒に付き合っていく、そういう事だ。
 渚という不思議な友達と、もっと深く付き合えていたら、と後悔した事があった。彼女がもう死んでしまっている事実が無性に悲しく思えた日があった。でも、今からでも遅くないのだと、あたしは気付いた。だって朋也と汐ちゃんの中には確かに渚が息づいている。彼らを通じて、あたしはまだあの優しくはにかむ少女を感じる事が出来るんだ。だって、あたしたちは、これから家族になれるんだから。
 ごめんね、渚。勝手に割り込んできちゃってさ。でも遠慮はしないから。だからこれからよろしくね。


 ところで、さっきからカチャカチャと必死にあたしのズボンのベルトを外そうとしているこの男をあたしはいったいどうしたらいいんでしょう?

「朋也……なにしてんの?」
「なにって、脱がそうとしてるに決まってるだろ」
「……そうだったの? いや、手際が悪いからなにやってるんだろうと思ってたんだけど」
「わ、悪かったな」

 朋也はムッとしたのか口をへの字に曲げると、あたしの唇を奪って舌を差し入れてきた。朋也との初めてのキス。七年越しの初めてのキス。キスなんて何度もしたけど、知らなかった。キスって、こんなに気持ちいいものだったんだ。火の玉を飲み込んだみたいに、ものすごく身体が熱くなってくる。
 たっぷり三分はお互いを舐めまわし、朋也は抱き締めていたあたしを引き剥がして床に押し付ける。

「悪いけど止まらないからな。お前に触ってから、制御効かねえんだ。なんせ久々だから」

 制御効いてないのはこっちも一緒だ。今のキスで一気に身体の芯が火照ってきた。さっき無理してねじ伏せて燻ってた分だけ、息が荒くなっていく。それでも素直に受け入れるのが癪だったので、抗ってみる。

「汐ちゃん、起こしちゃうわよ」
「じゃあ、静かにやろう」

 あはは、いや、それは無理。まず無理です。

「あの……言っとくけどさ。今のあたし、声出すの我慢出来る自信ないわよ」
「……仕方ない、起きたら起きたでその時だ」

 完全に目の据わってる朋也の姿に、あたしは口許をひくつかせながらも全身の力を抜いて、観念した。まあ、あたしにとっても今更止められるのは拷問みたいなものだし。ああもう、分かったわよ。こうなりゃ意地だ。朋也なんかに易々と啼かされる杏さまじゃないっての。耐え切ってみせようじゃないの!
 と、意気込んだ瞬間、朋也の手が乱暴に下着の下に潜り込んできて肌をまさぐりだす。こ、こいつほんとにキレちゃってる!?

「ひんっ、ちょっと最初からいきなりどこ触って、そんな、あっ! ふぁっ」

 あはは、やっぱ無理っぽいです。





 数時間後。結局、事の真っ最中を、目を覚ました汐ちゃんにバッチリ見られ「なにしてるの?」と不思議そうにされてしまったあたしたちであった。

「だから程々にしとこうって言ったじゃないか」
「ぬわっ、何よその言い方。そりゃもう一回する? とか聞いたのはあたしだけどあんたもやる気満々だったじゃない。実際やったし! 五回って何よ、五回って。あんたケダモノかっ、しかも全部ナマ!」
「なっ、まだいけるでしょとか言って煽ったのは誰だよ、おいっ。大体な、最後まで足絡めて離さなかったお前がそういう風な口聞くのか、え?」
「ああ? 後ろからした時抜かなかったのあんたの方でしょうがっ! このすけべ親父っ!」
「な、なにをっ、この乳でかエロ女がっ!」

 目を擦って眠そうにしている汐ちゃんの前で、些か情操教育と品性に問題ありげな雑言を吐きながら取っ組み合い直前の喧嘩を繰り広げるあたしと朋也。
 早々から前途多難な様相を呈する家族像であった。







     ◇  ◇  ◇  ◇  ◇





 後日明らかになった事なのだが、実は朋也はあたしが渚の墓にお参りに行った日に、椋にあたしとの事を相談していたらしい。道理で椋ったら全部お見通しだったわけだ。なんだかんだで思い切るきっかけをくれた椋にはあたしも朋也もしばらく頭が上がらないだろう。しばらくどころか一生かもしれない。
 半年後、あたしと朋也は正式に婚姻を結び、あたしは朋也と汐ちゃんの家族になった。渚の両親である早苗さんと秋生さんには、また家族が増えたととても喜んでもらえた。

「こいつ、ろくでもねえうえに救いようのねえクソ馬鹿野郎だがよ、どうか愛想尽かさねえでやってくれ。うちの息子、よろしくたのむわ」

 ボカボカと座布団でも叩くみたいに朋也の頭を叩いていた秋生さんが、あたしに向かって深々と頭を下げたその姿を、あたしは一生忘れないだろう。そして、自分を娘と呼んで、汐ちゃんと一緒に抱きしめてくれた早苗さん。ただ祝福してくれただけじゃない、あたしを古河家の一員として迎えてくれたんだ、この二人は。朋也と汐ちゃんだけでなく、さらに掛け替えのない家族を、両親を、あたしは得ることができたのだった。
 だからと言って、身内だけでひっそりと行った結婚式にて、自分の両親そっちのけで早苗さんと秋生さんに泣きついてしまったのは、少々お父さんに悪かったなと思っているけど。







 ――――そして現在――――





「お母さん、動いた?」
「うん、動いた。今、ポンってお腹蹴った」

 興味津々の汐の手を掴んですっかり大きくなったお腹に導いてあげる。

「あっ、動いた」

 目を丸くして驚く我が娘を、あたしは笑いながら撫でまわす。くすぐったそうに目を細める彼女と、元気にお腹の中で動き回る赤ちゃんの感触に、あたしは染み渡るような幸せを実感する。
 もうすぐ岡崎家に加わる新たな家族が、汐ちゃんにとっての弟になるか妹になるかは、産まれてからのお楽しみだ。








< Uusioperhe ――再生家族――> Fin.














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