鳳華女学院分校。
 豊かな自然に囲まれた風光明媚な環境などという謳い文句を掲げつつ、その実、僻地と呼ぶのが妥当な人気も疎らな半島の果てに建つこの女学院にも、夏が訪れようとしていた。
 七月も中旬。
 この学院に放り込まれた生徒たちの多くは、それぞれが抱えた事情から帰るべき家を持っていない。そんな彼女たちにとっては、迫り来る夏季休暇なんてものへの期待や感心など、俗世の学生たちが抱くそれとは比べるべくもなく低調だ。文字通り敷地の外に出ることも侭ならない、監獄に等しいこの分校にとっては、夏休みなどただ受ける授業がなくなる期間にすぎないのだった。むしろ、暇をもてあまして屈託を溜め込んでいる生徒を見かけることの方が多くなる。
 それが、例年における鳳華女学院の夏の風景だった。

「まあそれをどうにかするのが、理事長の腕の見せ所なわけだ」

 西洋風の巨大で豪奢な屋敷の如き学び舎の最奥。とても校舎とは思えない文化財級の格調高い内装。その中でも一際、堅牢で居丈高で偉そうな扉があつらえられた部屋がある。そこはこの学院の最高権力者の執務室。中をのぞくとそこには一人の少女がいた。エボニー製の見るからに品の良さそうな、それでいてやたらと大きい執務机に半ば埋もれるようにして、彼女はなにやら書類の束と格闘を繰り広げていた。
 まだ幼げで、いたいけな少女である。
 まあ実年齢は外見よりも相応に上なのだが。

「風祭みやびっと」

 さらさらっと万年筆でサインを書き込み、鳳華女学院理事長・風祭みやびは書類の束を整え、ほっと一息ついた。

「んし、あともう一頑張りだ」

 背中を逸らして筋を伸ばし、凝り固まった体の筋肉を解すと、みやびは鼻息荒く気合を入れなおすと、脇に押しやっていたノートパソコンを手元に引き寄せ、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
 そこに、軽いノックを伴って、一人の女性が扉を開けて現れる。

「ただいま戻りました」
「おかえり、リーダ。頼んだ資料、あった?」
「はい、どうやら第四書庫の方に紛れていたようです」

 何冊かの分厚い書籍やバインダーを抱えて理事長室に入ってきたリーダは、抱えた荷物の重さを感じさせない澱みのない足取りで広々とした理事長室を横断すると、執務机の端に持ってきた資料を置き、顔もあげずに液晶画面と睨めっこしている小さな主人を心配そうに窺った。

「お嬢様、そろそろ休憩なさってはどうですか? 朝から一度も小休止を取っていらっしゃらないでしょう?」
「うーん、もうちょっとで今度の理事会用のプレゼンの概要に一区切りつきそうだから、それが済んだら」
「そうですか、わかりました。ですが、あまり根を詰めすぎないようにしてくださいね」
「大丈夫だって」

 新年度に入り、みやびはかつての泥沼でもがくようなそれとは決定的に違う、新たな戦いに挑んでいた。
 学院の成り立ちに起因する、生徒たちへの厳格すぎる拘束を旨とする慣習を改善し、この鳳華女学院を生徒に未来と希望を与える場にしようという、ささやかな、だが立場の違いによっては大それたと感じるであろう変化を得るための戦いだ。
 この戦い、敵は果てしなく多い。学校という存在の本来あるべき姿を求めることを、この学院を取り巻く理不尽な世界は許そうとはしないのだ。世界は、風祭みやびがこよなく愛するこの楽園に、あくまで牢獄であることを求めている。
 当然、将来的に世界を征服する予定の風祭みやび様にとって、こんなろくでもない上に自分の庭を土足で荒らすような押し付けは蟻の行列を踏み潰すように蹴散らさなければならない。そりゃあもう、けちょんけちょんにしてやるんだからなっ、てなもんだ。
 これまでちょっと若くて綺麗で美人で天才な美少女が理事長になったからといって僻み根性丸出しで色々とネチネチ苛められてきた連中が相手なわけだし、怨念が凝り固まりすぎてこんにゃくゼリーが作れそうなほどになっているみやびにとっては、この戦い、ただ勝つだけでなく完膚なきまでの完勝でなくてはならないのだ。
 しかして、再来週から始まる夏休みを彼女は最初のステップにする目算でいる。具体的には夏休み期間中、教師を随伴しない形での学院外の外泊が出来るようにしたり、以前行なった集団での小旅行をもう少し参加人数を大きくして行なうつもりでいた。案の定、理事会はいい顔をしない気配を見せているので、こうして此方の意見をねじ通す準備を整えているわけだ。
 ここで一度大きな前例を作っておけば、それを取っ掛かりとして平時の要項改変についてもかなり容易になるはず。先々の事を考えても、この件に関しては是非とも理事会を通し、その上で大々的な企画の成功を謳わなければならなかった。

「そのためには、なるべくたくさんの生徒に参加してほしいんだけど。うちは出不精が多いからなあ。事情が事情だから仕方ないんだが。場合によっては旅行は行く先を幾つか分けて、それぞれが行きたいところに参加してもらう方が、結果的に全体の参加率はあがるかもしれないなあ。でも、なるべくみんなで、ってのも捨てがたいし」

 特に意見を求めていたわけではなく、単純に相槌でも打ってもらって頭の中を整理しようという程度のつもりだったみやびだったのだが、思いがけずリーダが「それでしたら――」と口を開いた。

「んむ? なにかあるの、リーダ」
「はい。いえ、何かというほどの意見ではないのですが」
「前置きはいいから」
「ええ。御嬢様、今回は参加率を重視する事にして、たくさんの人たちでというコンセプトの方は秋にでも本格的な修学旅行的なものを企画するという形ではいかがでしょう」
「修学旅行?」

 それまで机から顔もあげずに気難しげに組んでいた腕を解き、みやびは目を丸くして声の主であるリーダを探した。彼女が助言をくれることはあってもこうして具体的な提案を述べてくるのはなかなか珍しいのだ。彼女のメイドは、マイセンの茶器を載せたお盆を手に、理事長室の脇に設置してある炊事場から現れた。

「はい、実は先日、司様が是非この学院の生徒の皆様に――」
「あー、はいはい。なんだ、リーダが珍しいと思ったら司の希望ね。まあ、あいつが何を言ってたかだいたい想像はつく。というか、表情まで思い浮かぶ」

 うんざりしたような、それでいて嬉しそうな複雑な面持ちで頬杖をつく。

「にしても、司のやつ。どうしてリーダにばっかりそういう話するかなあ」
「はい? なにかおっしゃいましたか?」
「なんでもなーい」

 みやびはちょろっと舌を出しリーダと、そして一瞬頭を過ぎった思いを誤魔化した。そう。ちょっと妬ける、なんて口にするのもバカらしい。
 こればっかりは女の器の問題だ。まだまだ自分には、司に何の思惑も抱かせずに胸のうちを引き出させて聞き役に徹するなんてことが出来る懐の広さが足りていないだけの話だ。
 司に甘えるのは得意だけれど、甘えさせることに関しては今のところ全然リーダには敵わない。別に、だからどうだ、ということはなんにもないのだけれど。でも、自分を高めることには限りなく貪欲なのが風祭みやびという女なのである。いつまでも甘えるだけの小娘でいるのは女としてのプライドが許さない。
 いつか、リーダに負けないような、司が甘えてくるような女になってみせるんだから。

「お嬢様、あまり根を詰めすぎないようにしてくださいね」

 気合を入れなおしているのを何か違う風に受け取ったらしく、リーダは少し心配そうにしている。みやびは敢えてリーダに合わせて、

「でもなー、この案件は夏休み前に片付けておかないと意味ないし。それに、早いところ夏場の仕事には目処を付けておかないと」

 理事長であると同時に、まだ生徒でもあるみやびさまだ。夏休みは若い娘として満喫したいのが心情だった。というか、計画だって色々もう立てている。遊びに行く場所はもう梅雨の頃からピックアップ済みだ。司とリーダを引っ張りまわし、この夏は徹底的に遊びまくる所存なのである。
 その為には、スケジュールを確保するために予定されている仕事は早めに片付けておかなければならない。その胸に輝く理想とはまた別に、実に即物的な方向からも、みやびには仕事に励まなければならない理由があるわけだ。
 人間、理想だけじゃあ食ってけないのである。
 しかして、この七月に入ってから、みやびは寝食を惜しんで理事長職の執務に取り組んでいるのであった。

「そうは仰いますけれど。御嬢様……」

 胸元を僅かに握り締め、リーダが声を潜めて言った。

「昨晩も遅くまで起きていらっしゃった御様子ですし」

 え? とみやびは首を傾げた。

「そうだったっけ? えーっと、昨日の晩は司も疲れてたみたいだから一度はいい雰囲気になったんだけど結局早い目に……って、ぶっ、わああああ!」

 自分が何を口走っているのかに思考が追いついたみやびは、ガシャンと頭をキーボードに打ち付けてしまい、画面に得体の知れない文字列が大量に記入されてしまう。何かものすごく嫌な感じの汗をかきながら恐る恐る顔をあげたみやびが見たものは、普段と変わらぬ穏やかな笑顔でカップにお湯を注いでいるリーダだった。

「左様で御座いますか。それならばよろしいのですが」
「…………」
「どうぞ、御嬢様」
「……ありがと」
「あとでチョコムースもお出ししますね」

 大人しくカップを受け取り、みやびは上目でリーダを窺いながらズズズと馨しいミルクティーを啜った。どうやら、本当に、これっぽっちも……リーダには何の含みもないらしい。単純にみやびの寝不足を心配しただけのようだった。
 それはそれで……。

「納得いかん」

 リーダはもうちょっと、こう、あたしたちのことについて……ねえ?

「むー」
「御嬢様、なにをむくれてるんですか?」
「いや、あのな。リーダ、これは別にむくれてるんじゃなくて、って、なにしてんの?」

 リーダの声は何故か背後から聞こえた。人が物思いに耽っているうちに移動していたらしい。みやびの背後に回りこんでいたリーダは、なにやら窓の取っ手に手を伸ばしているようにみえた。素直に見たままを受け取るのなら、窓を開けようとしているように見える。
 現在の時刻は午前十時十七分。七月中旬ともなれば、もはや外は耐え難い灼熱地帯と化しているはず。そんな地獄の流入を健気に防いでいるフィルターを、このメイドさんときたら無体にも引っぺがそうとしていらっしゃるのだ。

「わーっ、わーっ、なにしてるんだリーダ! 窓なんか開けたら焼け死んじゃうじゃないかー!」
「死にません。御嬢様、幾らなんでも冷房を利かせすぎですよ。なんですか、15度って」

 既に二十度に設定しなおしてあるリモコンの液晶画面を指差して、リーダは眉をひそめた。

「だ、だって、暑いんだもん」
「……なんの捻りもない答えですね」
「うわぁ、リーダがキツい」
「御嬢様、冷房を使うなとはさすがに言いませんけれど、あまりに極端がすぎます。この手の機械の使い過ぎは身体に悪いと何度も言わせていただいたつもりだったのですが、まだまだご理解いただけていなかったようですね」
「ふ、ふん。何度繰り返されたって聞く耳は持てないな。何故なら、風祭の息女たるもの多少の健康の害など耐え忍んででも無駄な贅沢を極限まで甘受しなければならないという宿命をもって生まれてきた存在だからだ! これをものすごく端的に略して言い換えるなら――『だって偉いんだもん!』」

 どうだ、と言わんばかりに薄い胸を張るみやび。

「……御嬢様、申し訳ありませんが、わけがわかりません」

 みやび専属メイドは深々とため息を零すと、清々しいほど躊躇いなく理事長室の大窓を全開にした。

「ぐあああああっ!」

 流れ込んでくる熱風に、オキシジェンデストロイヤーを喰らったゴジラのように断末魔の悲鳴をあげる鳳華女学院理事長(代理)。

「しぬぅぅぅぅ!」

 煮立った鍋の中に放り込まれた泥鰌のようにのた打ち回るこの学校で一番偉い人。

「死にません。大げさですよ、御嬢様」
「あぁぁつぅぅいぃぃ、しぃぃめぇぇてぇぇぇ」
「もう少し空気を入れ替えたら閉めますから、しばらく我慢して下さい」

 暴れすぎてチェアーから転げ落ちそうになっている主を支え、リーダはきっぱりと窘めた。あうあう、とへちゃむけているみやびに、リーダはしっかりしてください、と言い聞かせている。その表情は困った方ですと潜められているのだけれど、目尻や口元には押さえきれない愛情が垣間見えていた。
 そのやり取りは主人とメイドのそれなのか。それとも、やんちゃで聞き分けのない妹としっかりものの姉のそれか。
 その両方のようでもあり、どちらとも違うような、それは不思議な関係で。
 この二人が培ってきた関係は、単純な構図で言い表せるようなものではないのかもしれない。

「リーダぁ、実はあたし、体感温度が18度を越すと仕事の能率が80パーセントダウンする仕様なんだよ」
「まあ、欠陥品?」
「うおい!」
「はいはい、わかりました。そろそろ室温も適度にあがったようですし、今閉めますか……きゃっ?」

 リーダの小さな悲鳴が響いた。
 ほのかに苦笑を浮かべながら窓の桟に手を掛けたリーダの眼前を、外から飛来した何かが掠めたのだ。驚いてたたらを踏んだリーダの脇をすり抜け、理事長室を物凄い勢いで飛び回る飛行物体。

「な、なんだっ!? なんか飛び込んできたぞ!?」
「セミです、御嬢様、セミです、アブラゼミ?」

 鈍い羽音を立てながら、理事長室の中空を旋回している飛行物体は、確かにリーダの指摘するとおりアブラゼミのようだった。

「こらぁ、セミ! ここはあたしの部屋だぞ。ムシケラの分際であたしの断りもなく勝手に入ってくるな! とっとと出てけ!」
「御嬢様、セミにそのようなことを言っても通じないのでは?」
「あははは、リーダ。確かに常識的にはその通りかもしれない。だが、そこはあたしの内から迸る生まれながらの高貴な絶対権力オーラが虫ケラの生存本能を刺激して自然とひれ伏させ、ついで種族の枠を超えてあたしの命令を遂行させるのだ!」
「…………御嬢様、セミにそのようなことを言っても通じないのでは?」
「ぬがあああ、何事もなかったかのように6秒ほど時間を巻き戻すのはやめれっ!」

 と、出口を探すように天井に激突を繰り返していたセミが、不意に飛行軌道を変えた。軌道の延長線上には、ちょっと涙目になって喚いているちびっこがいた。

「御嬢様、危ない!」
「え、なに? ひゃあ!?」

 唸りを上げて顔面めがけて飛んできた飛行物体を、みやびは辛うじて回避した。代わりにチェアーごと後ろに転倒して、

「ぐえ」

 プルプルと震えつつ、床にぶつけた後頭部を抱えて蹲るみやびさん。

「こ、ここここのやろう、あたしを襲ってきやがったぞ。さてはこいつ、理事会の刺客だな!?」
「なるほど、御嬢様を仕留めるなど、アブラゼミで充分というわけですね」
「ふん、理事会もこのみやびさまを舐めてくれたものだ。って、このあたしを倒すのにセミごときで充分とはなにごとだーっ! ふざけんなーっ! ってか、そんなわけあるかーっ!」
「はい、そんなわけがあるはずもありません」

 しれっと受け答えする専属メイドに、みやびは一瞬へこんだ顔になるが、すぐさま倣岸不遜な態度に戻り、

「ふんっ、どこの莫迦が送り込んだかは知らないけど、このみやびさまの麗しいご尊顔に吶喊を仕掛けるとは無礼千万、手打ちにしてくれるわっ! リーダ、蝿叩きもってきて!」
「セミを蝿たたきで落とすつもりなんですか? それは幾らなんでも、御嬢様、セミが可哀相ですよ」
「じゃあ新聞紙を丸めたのを持って来ーい!」
「ですから、蝿やゴキブリと同等に扱うのはセミが可哀相です」
「なに? じゃあなにか、リーダはセミは可哀相だっていうのに、蝿やゴキブリは蝿たたきや新聞紙で叩き潰されるのは別に構わないっていうのか!?」
「全然構いませんけど」
「なんだとーっ!? ば、バカなっ、信じられんン、本気なのかリーダ!?」
「え、えっと。私、何かおかしいことを言いましたっけ?」
「……おや? んー。いや、全然。今のは何となく話の流れから言ってみただけで。……あれ? 何の話してたんだっけ?」

 二人が、というかみやびが一方的に意味不明な論争を繰り広げている間に、セミは壁に掛けられた先代理事長の写真にぴたりと張り付き、実にセミらしい発声で、ミーンミーンと喚き始めた。いかな広いとはいえ、理事長室は四方を壁に囲まれた密閉空間だ。セミの鳴き声は乱反射し高周波兵器さながらに室内に響き渡る。

「うがぁぁ、うるさあああい! リーダぁ! これ、うるさい! これじゃあ仕事になんないよ」
「すみません、御嬢様。なんとか捕まえて、外に逃がします」

 一応、セミが飛び込んできたのは自分が窓を開けたせいである。ミスというほどのことではないが、原因は原因だ。リーダは神妙な顔でセミを捕獲しようと、鳴いているセミへと忍び寄った。

「……届きませんね」

 急遽椅子を踏み台代わりにして手を伸ばしたリーダだったが、あと少しのところでセミに手が届かない。

「じゃあやっぱり蝿たたきで――」
「いけません」

 殺る気満々でぶんぶんと手を振り回すみやびを、リーダは軽く窘めるように睨んだ。

「無益な殺生ですよ、御嬢様。それに、肖像写真が汚れてしまいます。それ以前に、私はやりたくありません」
「リーダに殺れとは言ってない。あたしが仕留めてくれるわっ!」
「私が届かないのに……」
「あっ、あっ、今リーダ、何言おうとした!? 物凄く失礼なことを言おうとしなかった? しかも高いところから見下ろしながら!」
「いえいえ、そのような。こほんこほん」
「は、蝿たたきの分高いところまで届くもん!」
「はあ、いえ、その、それでも……ねえ?」
「ねえ、じゃねーー!!」

 放っておくとみやびが自分で蝿たたきを取ってきてしまい、過酷な現実を突きつけられて心に大きな傷を作ってしまいそうな気配だったので、リーダは急いで妥協案を提示した。

「では、ホウキではたいて追い出しましょう」
「ダメだ、理事長室を侵略した上に、このあたし、このあたし、このあたしの美しい顔を傷物にしようとしたんだぞ! 生かして返すなど罷りならんわ! 死刑だ極刑だ、チョロQで車裂きの刑に処してやる!」
「わかりました。今、ホウキを取ってきますね」
「うわっ、完膚なきまでにスルーされた!?」

 改めてこの椅子より高い踏み台を持ってくるより、掃除用具入れからホウキを持ってきた方が手軽だろう。リーダがそう考え、足を踏み外さないように気をつけながら椅子から降りようとしたその時。

「ありゃ、なんの騒ぎだ?」
「司さま」

 扉を開けた態勢のまま、キョトンと中を覗き込んでいる青年。本校の世界史教師にして、理事長秘書。そして風祭みやびとリーダことリーリア・イリーニチナ・メジューエワの運命の人、滝沢司その人である。

「どうしたんだ、司。もう次の担当授業が始まる時間じゃないのか」
「いや、今朝こっちに授業で使う資料を置きっぱなしにしちゃっててさ、取りにきたんだけど」

 執務机の上に四つんばいになって乗っかっているみやびに、椅子に乗って何かを取ろうとしているリーダ。二人を順繰りに見やり、壁にはりついたセミの鳴き声にどうやら状況を把握したらしい司は、そのままスッと靴を脱ぎ捨てる。そうして、みやびが口を挟む間もリーダが止める間もなく、既にリーダが乗っている椅子にひょいと飛び乗った。

「はぅ」

 そのまま片手でリーダが落ちないように抱きかかえ、もう片方の手で司はひょいとセミを捕まえたのだった。

「はい、捕獲完了」
「あ、あの、司さま」
「ああ、ごめんごめん。リーダさん、大丈夫?」

 元より狭い椅子の上。抱き寄せられて否応なく司の胸に顔を埋める形になったリーダは、顔を真っ赤に染めながらも、大人しく司の腕の中に収まっている。いや、ここで身動ぎをすると椅子から足を踏み外すかもしれないので、大人しくするのは当然なのだけれど。
 ぽかんと成り行きを見守っていたみやびは、怒りも興奮も一挙に醒めてしまい、頭をかきながら執務机の上で胡坐を組んだ。

「んーもう、リーダったら」

 パチパチとまばたきを繰り返しながら、司のスーツをギューと掴んでいるリーダ。そのまま倒れてしまわないかと心配なくらいに、動悸が激しそうである。その様子を見る限り、たとえそれが不安定な椅子の上でなかったとしても、リーダは大人しく司の腕の中に収まっていたに違いない。
 まったくリーダったら、ポーッとしちゃってさぁ。

「ん? なにニヤケてるんだ、みやび」
「べっつにー。あたしのこの眉目秀麗な美顔のどこがニヤケてるっていうんだ。それより、危ないから早く降りろ。リーダが怪我をしたらどうするんだ」
「おっと、確かに。はい、リーダさん」

 先に下りた司から差し伸べられた手に、そっと手を添え、リーダも椅子の上から降りてくる。

「申し訳ありません、マイロード。お手を煩わせてしまって」
「いやいや、大したことじゃありませんから」

 窓の外にセミを逃がした司は、恐縮しているリーダに屈託ない笑顔を向けた。

「それじゃあ、僕は急いで戻るよ。最近、生徒のみんな、教師の遅刻にうるさくってね」
「あ、お待ちください」

 部屋を出て行こうとする司に駆け寄ったリーダは、自分が掴んでしまったために皺になっているスーツを前に、唇を噛んだ。リーダの視線ではじめて皺に気がついた司は、慌てて、

「ああ、いや、気にしないでよリーダさん。これぐらい、大したことないし。元はといえば僕がリーダさんの邪魔を――」
「いいえ、マイロード。我が主にこのような皺だらけのスーツで教壇に立っていただいては、貴方様のメイドとして合わす顔がございません。ましてや、私自身のミスともなれば、到底許されざることでございます」
「そ、そんなたいそうなことじゃないって。もちろん、リーダさんのプロのメイドとしてのプライドは理解してるつもりだけど、ええっと、もう授業が始まっちゃう時間のような、その」

 腕時計に目をやり、司は焦った様子で言葉を濁した。

「司様。30秒、いただけませんでしょうか」
「さ、さん? それくらいな、え? さ、三十秒?」

 そんな短時間でこのくっきりと浮いてしまった皺が取れるのだろうか。面食らう司に、だが許可を得たと判断したリーダは有無を言わせずジャケットを引っぺがすと、一瞬逡巡した後、

「司様、ズボンの方もお預け願えないでしょうか」
「こ、これ?」
「はい」
「ちょ、ちょっと待って。それは、どうかな、っていうか恥ずかしいような」
「リーダ、許す。引っぺがせ」
「了解しました、御嬢様」
「ぼ、僕の許可は!?」

 司の抗議はきっぱりと無視し、リーダは魔法のような手際で司からズボンを抜き取る。慌ててトランクス一枚になってしまった下半身を隠そうとしている司の襟元から、最後にネクタイまで外して奥へと引っ込んでしまった。

「え……と」

 救いを求めるように此方を見つめてきた司に、みやびはフンと鼻を鳴らした。

「黙ってそこで突っ立ってろ。リーダが三十秒って言ったのなら、三十秒でどうにかなるもんなの」
「……うう、でもこの格好は」

 リーダさんに見られたぁ、とかなんとか唸りながら、司は所在無さげに立ち尽くしている。そうしているうちにも三十秒が経過し、リーダが戻ってきた。司は目を丸くした。リーダが手にしているのは、彼女が司から脱がして持っていったものとは違うスーツが掛かったハンガーだった。

「もしかして、リーダさん。僕用のスーツ、用意してあるの?」

 奥の控え室は、使用人が使う部屋であり、いわばリーダの部屋だ。そこから新しいスーツを持って現れるということは、彼女は一緒に暮らしている邸宅だけではなく、学院の方にも司用の衣服を準備している事になる。いや、彼女のことだから身の回りのもの、必要なものはあらかた常備してあるに違いない。
 リーダはほのかな微笑で司の疑問に答えると、明らかに高級そうな生地や仕立ての、だが根っからの庶民である司が気後れしないような素朴な着心地のジャケットを司に羽織らせ、ズボンに足を通させた。

「私がスーツに皺を寄せてしまっておいて、こんなことを言うのは大変恐縮なのですけれど」

 いそいそとベルトを締めなおしている司に向かって、リーダはプロのメイドとも年相応の少女らしいともどちらとも取れる愛らしい笑みを浮かべて言った。

「前々から司様に着て頂きたいと思っていたジャケットをお着せすることが出来て、私、ちょっと喜んでしまっています」
「……うぁ」

 金縛りにあったようだった。身動ぎも出来ず、案山子のように立ち尽くしてしまう。あまりに眩しいリーダの笑顔を直視できずに司は目を泳がせた。

「少し屈んでいただけますか?」
「……は、はい」

 言われた通りに腰を屈めた司に、まるで抱きつくようにリーダが首に手を回してくる。

「り、リーダさん!?」
「ダメですよ、司様。じっとしていてください」

 抱きついてきた、というのは司の早とちりのようだった。リーダは何度も練習したかのような手馴れた手つきで、手にしていた新しいネクタイを司の襟元に結び始める。

「先ほどのネクタイでは、どうしてもこのジャケットとは合いませんので」
「え? そ、そうかな?」
「そうなんです」

 言葉と共に下から見上げるビシッとした目線でも言い切られ、司は頭を掻いた。着るものには無頓着な司にはよくわからないのだけれど、彼女が言うのならそうなのだろう。

「はい、出来ました」

 仕上げとばかりに、キュッと結び目を締め、リーダは満足そうに頷いた。そうして、ふと自分と司の距離の近さを自覚したように間近から司の顔を見上げた。

「ん、よし。ありがとう、リーダさん」
「……マイロード、もう少しだけじっとしていていただけますか?」
「ん?」

 どうしたの? と司が顔を下げた瞬間。
 ふわっ、と甘い匂いが鼻を擽った。淡い、金色のきらめきがふわりと目の前を過ぎる。
 司は目を瞬いた。
 止めてしまっていた息を、思い出したように肺から吐き出す。心臓が、上下左右に飛び跳ねていた。
 無意識に、手を唇に当てる。
 温かい、そしてしっとりと湿った感触が、まだ唇の端っこに残っている。

「それではいってらっしゃいませ、マイロード」

 目の前では、緩みそうな表情をとても必死にこらえながら、それでも優雅に頭をたれるリーダの姿があった。

「……はい、いってきます」

 魂を引っこ抜かれた人形のように、コクコクと司は頷くと、クルリと反転してそのままギクシャクとぎこちない動きで理事長室を出て行った。


 パタン、と扉が閉まって十秒経過。
 ピクリともせず、司を見送った姿勢でいたリーダの肩が僅かに跳ねる。やがて、肩はフルフルと震えだし、堪えかねたようにリーダは両手で口元を押さえ、

「…………きゃっ♪」

 思わず頬杖からずり落ちて、側頭部を執務机にぶつけるみやび。

「『きゃっ♪』て。いや、『きゃっ♪』じゃなくてだな」
「や、やってしまいました。私ったら、もう。うふふー、あはー、はふぅー」
「おーい、リーダ、リーダってば。ダメだ、聞いてないし」

 口元を押さえながら、その場で爪先立ちになって身悶えしている専属メイド。一部始終を頬杖ついて半眼になって、それこそ煎餅でもあれば齧りながらお茶でも啜っていたに違いないような気分で見物していた風祭みやびは、なんちゅうかもうなんだかなあというなんとも言葉にしがたい心地に苛まれながら、どうしたものかと眉間に指を押し当てた。
 これじゃあ、生徒たちが二人を新婚夫婦と半ば冗談で、もう半分は本気混じりにからかうのも無理はない。まったく、なんてお似合いの二人だか。
 でも、だからこそ。
 みやびはキッと顔をあげると、ビンと張りのある声で怒鳴った。

「リーダ!!」
「は、はい!」

 みやびが発した鋭い声に、反射的にリーダが直立不動になる。はたと我に返ったように、目を瞬きながらリーダはみやびの方に向き直った。みるみる、その整った白い顔が羞恥に染まっていく。

「も、申し訳ありません御嬢様。私、その……」
「ああ、いいからいいから。怒ってない、怒ってないよ?」
「はぅ、その物言いからして既に怒っていらっしゃるような。すみません、でも、ですけれど私思わず、つい、勢いで、その場のノリで、チャァァンスと思ってしまって」
「……実は狙ってたんだ」
「はい」

 グッと拳を握って即答するリーダ。

「……で、感想は?」

 問われて途端、そのままモジモジと俯き表情を隠してしまい、でも耳まで真っ赤にして小さくはっきりと、

「もう、死んでもいいかも」

 ズドン。額を拳銃で打ち抜かれたみたいに、みやびは仰け反った。

「くあっ!」
「く、くあ? お、御嬢様?」

 チェアーごと引っくり返りそうな体勢で万歳しながら奇声をあげる主の奇行に、夢見る少女さながらにポーッと呆けていたリーダもさすがに正気に戻って、おかしなみやびの様子を見ようと執務机に駆け寄ろうとした。
 その瞬間、傾いでいたチェアーが勢いよく元に戻り、その勢に乗ってみやびがバンと両手を執務机にたたきつけた。積み重なっていた書類が跳ね上がり、バインダーの束が雪崩落ちる。
 驚いて立ち尽くしたリーダを、みやびは執務机にはりついてねめつけるように下から見上げた。

「今日改めて思った、というか思い知らされたんだけど。リーダってさぁ」
「は、はい」
「可愛いよねえ」
「お…、御嬢様」

 からかわないでください、と言おうとしてリーダは口篭った。なんかこう、みやびが……怖い。異様な雰囲気だった。
 あまり覚えのない主人の気配に、名状しがたい畏怖がじわじわと湧きあがってくる。彼女の自分を見る眼が………トロンとして、艶めいている気がしたのだ。どこか舌で転がすようなウットリとした口調で「リーダは可愛い、可愛い」と呟いているみやび。

「御嬢様?」
「なのにどうして……」

 みやびが座っていたチェアーを蹴り、ノートパソコンや書類をひらりと飛び越えて執務机の縁にストンと腰掛ける。そうして、心底訝しげな、理不尽に怒ったような、憤懣やるせないような、そんな顔をして呟いた。

「司のヤツ、リーダに手を出さないのかなあ」
「――ッ!?」

 絶句しているリーダを覗き込むようにして、みやびは一応確認しますみたいに、

「リーダ、司とまだ寝てないよね?」
「ねっ!? い、いえ、そんな。寝るだなんて。そんなそんな、ありません、ありませんとも。ええ、そうです。私などが司様にお情けを頂くようなことは――」

 捲くし立てるように否定の言葉を並べ立てているうちに、リーダはすぐさま平静を取り戻していった。プロのメイドたるもの、いついかなる時も冷静たらんとするプロ意識の賜物である。
 軽く息を吸い、リーダは姿勢を正した。

「ありません」

 きっぱりと、言い切る。

「私は、今に満足しています。御嬢様、私は今、幸せなんですよ? とても、幸せなんです」

 何より、誇らしげに。

「仮に、我が主が私を求めてきたのならば、もちろん喜んでその身を委ねる所存です。心も魂も何もかも、もう既にあの方に捧げた身。ならば、この身体を差し上げることに何の躊躇いがございましょう。ですが、だからと言って今の形に不満などカケラ一つ分もないのです。たとえ身体を求められなくても、私はあの方が私のことに御嬢様と変わらぬ愛を与えてくださっていることを知っています。信じるなどという言葉を使うことすらおこがましいほど、それは単なる事実です。ならば、もう充分。私はもう、充分以上に満たされているのですから。こんな私は、世間一般からすればいささや人間として壊れているのかもしれません。一人の女として、どこか欠落しているのかもしれません。ですが、私は今が、幸せなのです」

 ですから。と、リーダは慈しみの権化のような面差しで、掛け替えのない半身とも言えるもう一人の主を見つめた。
 彼女が、何を言いたいのかは薄々理解していた。彼女の杞憂を解ければと願いながら、リーダは祈るように自分の心からの思いの吐露を締め括る言葉を綴った。

「御嬢様がお気になさるようなことは、何一つないのです」

 みやびは頷いた。

「んむ。そうか、リーダの言いたいことはよく分かった」
「お分かりいただけましたか」
「却下」
「…………はい?」
「リーダが気にするなと言ってもだな、あたしは気にする。だから、却下」
「いえ、ですから御嬢様」

 みやびは手を翳してリーダの口を封じると、はしたなく執務机の上で胡坐をかく。いつもならすぐさまそんな無作法は辞めさせるリーダだったが、今のみやびには何となく口出しできない気配を感じて口を噤んだ。

「あのね、リーダ。リーダのキモチは分かるんだ。リーダが本心からそう言ってるのは、本当にわかってるつもり。もしあたしが、リーダの立場だったら多分、同じように思うから。司が絶対にあたしたち二人を見捨てないってもう、知ってるから。二人のことを大事にしてくれる、愛してくれるって、もう思い知ってるから。だから、リーダがそう思う気持ちは分かるんだ。確かに、壊れてるかもしれない。でもね、それならあたしだって、リーダがいなきゃだめだって、自分と同じくらいリーダのことを好きでいてくれないと我慢できないあたしだって壊れてる。壊れたあたしたちを受け入れることの出来た司だって壊れてる。今さらじゃない、リーダ。あたしたちは、欠けたピースを埋めてくれる人を見つけたんだ。そして、世間からしたら壊れているかもしれない、この関係を望んで、手に入れた。今さらなんだ」
「では……なら、それでいいじゃありませんか。御嬢様は、何が言いたいんですか? 私に、何を望んでいるんですか?」
「簡単だよ、リーダ。リーダが今の状態を全然不満に思っていないことはよく分かってる。それどころか、幸せでたまらないって、それも分かってる。でもね、リーダ」

 少女は、その体躯の小柄さをまったく感じさせないほどの、リーダが思わず気圧されてしまいそうなほどの、不敵極まりない笑みを浮かべて、こう言った。

「それじゃああたしが、不満なんだ」

 あたしはリーダなんかより、とてもとても欲張りなのよ。と、みやびは嗤った。
 不遜で、高慢で、倣岸で、居丈高な、リーダでは絶対に出来ない深くて広くて大きな笑顔。他人の都合を左右することを根源的なところで慣れ親しんでいる、生まれながらの支配者の笑みだ。
 風祭みやびという少女が確かに備え持っている、一つの資質。

「今のままだとあたしが司を独り占めしてるみたいで、いやなんだ。居心地が悪いの。物足りないの。だって、司は、もっともっとリーダのことを幸せにしてくれるはずなんだから」
「ですが、私は充分――」
「私が嫌なの」

 そう言い切られてしまうと、リーダとしては反論のしようもない。

「ねえ、リーダ。覚えてる?」

 執務室の縁から飛び降り、リーダの元に寄り添ったみやびは、背中に両手を回してまるで元は同じ身体だったとでも言いたげに、リーダを抱きしめた。
 戸惑うリーダに、少女は夏の涼風を思わせる口調で語りかける。

「あたしと、リーダ。二人一緒に、司に膝枕してもらったときのこと」
「……はい」

 忘れるはずが無い。滝沢司との間に刻まれた決して消えることがないだろう思い出の中でも、飛び切りの珠玉の光を湛えた記憶。忘れるはずが無い。

「あの時は、リーダは後ろであたしたちのことを見守ってるだけじゃなかったじゃない。あたしと同じところにきてくれた」
「…………」
「こっちにおいでよ、リーダ」

 それは蠱惑の言の葉だった。魂を絡みとる鎖のような眼差しだった。一度踏み入ってしまったなら二度と出ることの出来ないだろう楽園へと誘う、甘くて蕩けるような旋律。
 逃れられるはずがなかった。
 リーダは胸を締め付けられるような思いに、吐息を漏らした。

「……御嬢様」

 無意識に、それが当然であるかのようにリーダもまた、自分より一回り小さな少女の背中に手を回した。中てられている。酔わされている。正常に頭が働いていない自覚がある。
 でも、それがいったいどうしたというのだろう。

「大丈夫、安心しろ。あのバカには主導権は握らせないからな。徹底的にお前の魅力を思い知らせてやるんだ」
「何が安心なのか、よくわかりませんよ、それ。なにを、なさるつもりなんですか、御嬢様」
「くくくくっ」

 邪悪極まりない含み笑いを漏らし、風祭みやびはうっとりと嘯いたのだった。

「あいつはすけべえなくせに、自分がそうだという自覚にイマイチ欠けてるんだ。どこかで自分が理性的で紳士的な男だと信じてやがる。しかもそれを優しさと履き違えてる。つまらん、そして許せん。もう少しあいつに甲斐性というものがあったら、とっととリーダに手を出して、あたしをヤキモキさせることもなかったのに」
「……はあ」
「焦らしてやる。これでもかというくらいに焦らしてやる。リーダがこれまで味わった地獄のような生殺しを思い知らせてやるんだ」
「あの、御嬢様。私別に生殺しなどという状態に陥っていた覚えはないんですけれど」

 いや、正直に言えば毎晩のように繰り返されるみやびと司の睦み事にはちょびっとだけ指を咥えたくなることもあったけど。それを無い事にできてしまうくらいに、自分はもう満たされていたというのに、このご主人様は……。

「そんでもって、あの男のプライドだとか意地だとかいうつまらないものを、粉々に打ち砕いてやるんだ。所詮、男なんて生き物は狼男だというのを分からせてやる。リーダ、待ってろよ。司の性格からして、絶対に限界ギリギリになるまで我慢するだろうからな。そんな状態でいざ、理性が決壊したら……くひゃひゃひゃひゃ」
「……あの、御嬢様。何となく何をなさろうとしているのかはわかりましたけど。ええっと、もしそうなった場合、私が大変なことになってしまうような気がするんですが」
「うん、そだね」
「お、御嬢様ッ!?」

 少々顔を蒼くしてよろめくリーダの背中を、悪魔のような少女は豪快にバンバンと叩いた。

「そうしたら、きっともう一生司はリーダに頭があがらなくなるよ♪ なにかあったら、こう服の裾を齧って崩れ落ちながら『あの時司様ってば私のことを無理矢理散々もてあそんだくせに♪』とか言って脅せばいいし」
「それは……」

 ちょっといいかもしれない。

「じゃなくって。御嬢様っ!」

 悲鳴をあげてオロオロと戸惑うばかりのリーダに、みやびはグッと親指を立てて、

「まあ、万事この風祭みやび様に任せろ。なははははっ、この夏は楽しくなりそうだね、リーダ」
「ですから。御嬢様!? ああ、もう!」

 当人を置いてけぼりに、力強く宣言したのだった。



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 【耳掃除篇】に続く。





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