六人分ともなると、ただの夕食の後片付けと言ってもそれなりの労働となる。先月に師が買ってきた大型の食器洗い機に食器を苦労して詰め込み(コツが要るのだ。三次元的な整理整頓が些か苦手な佐祐理は毎回眉根を寄せながら食器の詰め込みに四苦八苦している)、キッチンスペースの掃除を終えた佐祐理は、ふぅ、と息を抜きながらエプロンを外し、冷蔵庫に秘蔵しておいたサワージュースを片手に持ちながらその場を後にした。
 共同スペースには人が居らず、佐祐理は拍子抜けしながらソファに腰掛けてテレビの電源を入れる。イギリスのテレビ番組は内容は理解できるもののまだ肌に馴染まない。それでも語学や文化背景の習得には役に立つので、報道番組を中心に短い時間だが佐祐理はテレビに向かう事があった。
 テレビ画面の中では化粧の濃い女性キャスターが評判のレストランの紹介を甲高い声で喚き散らしている。こういうところは日本のテレビとあまり変わらないなあ、とそろそろ退屈になってきた佐祐理は切り上げて部屋に戻ろうと腰をあげた。玄関の方から誰かが帰ってきた物音が聞こえてきたのは丁度その時だった。

「誰だろう」

 そういえば夕食後に久瀬とリーエが外出していたっけ。そのどちらかだろう。佐祐理は僅かの間迷うと、帰ってきた人を出迎えようと玄関へと足を向けた。

「……なんですか、これ?」

 デンと廊下に積み上げられたダンボール箱の山に目を瞬く。
 ドアを塞ぐように三段重ねに積まれたそれは、一つ一つが一抱えもあるサイズのもので、どうやら中身はギッシリと隙間なく詰め込まれている様子で見るからに重たげだ。よく見ると国際郵便の伝票が貼り付けてある。

「ああ、佐祐理か。ただいま」
「奈津子さん」

 箱の方に気を取られて忘れていたが、どうやら帰ってきたのは相沢奈津子であったらしい。

「出かけてらっしゃったんですか」
「ちょっと院の方にな。これを取りに行っていた。あちらに届いたまま置きっぱなしにしていたものだから、さっき事務局が早く取りに来いと電話で怒鳴ってきたものでな。別に明日でもいいだろうに今すぐ取りに来いとまあうるさいのなんの」

 夜まで仕事熱心なことだ、と迷惑そうに愚痴を垂れる。佐祐理は曖昧に笑って応えを濁した。
 学院構内に居住している者への宅配の類は一旦学院の事務局の方に届けられるようになっているのだが、こんな嵩張るものを何時までも置きっぱなしにされていたら迷惑なのは事務局の方だろう。

「で、これなんです?」

 伝票では日本からとなっている。

「あん、これか? 日本の友人から送って貰っているのだが」

 見たほうが早い、と奈津子はその場で箱の一つの梱包を解いてしまった。ガムテープを剥がして蓋を開ける。中を覗き込んだ佐祐理は束の間黙り込み、目を丸くした。

「これ、漫画ですか?」
「漫画だぞ」

 妙に得意げに胸を逸らす奈津子。
 箱の中にはビッシリと書籍が詰め込まれており、佐祐理の乏しい知識から照らし合わせてもそれは漫画と呼ばれる種類の書籍に間違いはなかった。佐祐理は区別がつかないのだが、少女漫画、少年漫画、青年漫画にレディース、大判コミックとジャンルは多岐にわたっている。

「奈津子さん、漫画なんて読まれるんですか?」
「馬鹿者、漫画なんて、とはどういう言い草だ」

 呆れた佐祐理の口振りに、奈津子の形の良い柳眉がビクンと逆立った。

「漫画はな、世俗から隔絶され世間の常識に無知であった私に、社会で生きる上での基礎となる知識を与えてくれたありがたい教科書なのだ」
「……は、はあ」
「祐馬にとりあえず漫画なるものを読んで勉強しろと言われた時には馬鹿にしているのかと頭にきたものだが」

 いやいや、実に役に立った。まさに眼から鱗が落ちるようだった。と昔を懐かしむように目を瞑る奈津子に対して、佐祐理は渇いた笑いを殺しながら、「はあ、そうですか」と相槌を打つ。
 そりゃあ眼から鱗も落ちるだろう。落ちちゃいけない鱗も一緒に落としてそうだけど。

「でも奈津子さん、漫画ばかり読んでちゃだめですよー」

 常識が偏る。

「たわけ。昔ならいざ知らず、偏食の子供でもあるまいし、漫画しか読まぬなどという事があるか」

 逆に呆れられてしまった。ちょっとホッとしながらも、きっと基礎の段階で既にもう偏ってしまって手遅れなんだろうなあ、と思う佐祐理であった。時折見せる、あの非常識極まりない世間知らずの言動、あれの原因の半分はまずその基礎段階にあるに違いない。

「でも、それならこれはなんに使うんですか?」

 何かの魔術の触媒にするのだろうか。漫画を触媒にする魔術というのは過分にして知らないが、なにしろ自分はまだ見習の身でしかない。まだ知らないだけで、実はそういう魔術も存在するのかもしれない。

「なに、って。読むに決まってるだろう」
「え、触媒にするんじゃないんですか?」

 何を言ってるんだ、という顔をされ、佐祐理は赤面した。かなり本気で漫画を触媒にするのかと疑っていたり。

「で、でももう漫画ばかり読まないって」
「漫画を読まないとは言っていないぞ」

 そりゃそうだ。

「勉学というものは終わりのあるものではない、そして弛まず続けるべきものだ」
「そ、そうですねえ」

 モノが漫画でなかったら含蓄のある言葉だと思えるのに、と佐祐理は密かに苦笑を浮かべた。と、そんな佐祐理の内心を見透かすように、奈津子の眼差しがスッと透き通る。

「佐祐理」
「はい、なんですか?」
「ふむ、私が見るに、お前、漫画を読んだ事がないだろう」
「え? あ、はい、ありません」

 育った環境の所為か、佐祐理は一度も漫画というものに目を通した事がなかった。あるとすれば、新聞の四コマ漫画くらいだ。愛読書はゲーテの詩集に小松崎茂の画集という佐祐理が、クラスメイトから漫画を借りたり、コンビニで漫画雑誌を立ち読みをしたり、などというまねをするはずもなく。日本で同居した舞も、自前の漫画を所有しているタイプの人間ではなかったので、これまで漫画にはからっきし縁がなかったのだ。

「では、一度手にとってみるといい。祐馬が言うに、私やお前のような無菌状態の者の方が未知の発見が多いそうだ」
「未知の発見、ですか」
「未知だ」
「……なんですか、それ?」
「知らん。未知が何かを知っていては未知ではなかろう」
「えーと、それはそう……なのかな?」

 何か微妙に間違ってるような気もしないでもないが、理屈では合ってる気がするような気もするので口を噤む。

「じゃあお言葉に甘えてちょっと読んでみます。おすすめのありますか?」
「ない事もないが……いや、初めて読むものは自分のインスピレーションで選ぶ方がいい」
「ふぇ、そういうものですか」
「その方が意外と自分に合うものを見出せるものだ。感じ取るという行為は大事だぞ。魔術に関してもな」
「わかりました。では……」

 絵柄に関しては違いがよく分からないので、とりあえずタイトルを比べてみて、なんとなくいいかもしれないと感じるものを探してみる事にした。

「じゃあ、これで」
「うん、持っていくといい」

 とりあえず続き物らしい絵柄が涼しそうなものを選び、最初の三巻分だけを抜き出して腕に抱える。

「あの、運ぶの手伝いましょうか?」
「いや、それには及ばない」

 そう言ってほつれた前髪を手で梳いて後ろに流し、パチンと奈津子は指を鳴らした。途端、ダンボール箱の底から風が吹き出し、箱が床から浮き上がる。驚いた佐祐理はしゃがみこんで床と箱の間の隙間を覗き込んでみた。すると、青白い彩りを帯びた小さな旋風が四つ、ダンボール箱を持ち上げているのが見えた。

「はー、便利ですねー」
「バランスを保つのがやや難しいがな。なに、この程度ならお前達もすぐに出来るようになる。将来運送業界に就職する際には重宝するぞ。いや、重量軽減系の術の方が役に立つか」
「あははー、折角ですけど運送業界で働くつもりならそもそもこんなところに来ませんよー」
「それもそうか」
「あ、ところでそれ、どこに持って行くんですか?」

 相沢夫妻の部屋で漫画の類を見た覚えはなかった。

「知らなかったのか。地下の書庫だ」
「あそこですか?」

 意外の念に打たれ、はぇ、と佐祐理は口許を覆った。特に入るなと言われた事はなかったものの、一度祐馬に従って中に入った際に、魔道書らしきものが書棚に並んでいるのを見て、あまり立ち入ってはいけない場所なのだと思って勝手に近づかないようにしていたのだ。

「舞はよくあそこから漫画を持ち出しているようだったが」
「はぇ!? そ、そうなんですか?」
「なんだ、それも知らなかったのか」
「は、はい、知りませんでした」

 そういえば、前に舞の部屋に入ったときに日本の漫画らしきものが部屋の隅に積まれているのを何気なく見過ごしていたけれど、あれって奈津子さんのものだったのか。思い出してみると、日本で二人で暮らしていた頃、舞が真琴や祐一、北川の部屋で漫画を読んでいる姿をかなり沢山覚えている事に気付く。自分と居る時以外の舞が、よく真琴に構っていたのは単に狐が好きだという理由だけではなかったのかもしれない。

「まあいい。読み終わったら地下に戻しておいてくれ。続きを読みたくなったら、勝手に持っていくといい」
「あそこ、勝手に入って良かったんですか?」
「構わんよ。お前達にまだ読ませるべきではないようなものは、ちゃんと別に仕舞ってある」
「そうだったんですか」
「当然だ。使いようによっては非常に危険なものを手の届くような所に置いておくはずがあるまい」
「それもそうですね。えっと、じゃあ、これお借りします」

 大仰に手を振る奈津子に一礼して、佐祐理は自室へと戻った。







 翌朝、目を覚ました佐祐理は、まず眠い眼をしょぼつかせながら自分が蹴っ飛ばした掛け布団をベッドの下から引きづりあげた。寝乱れてボタンの外れたパジャマを着直すか脱いで着替えるか迷いながら時計を覗く。普段起きる時間よりも一時間ほど早い。

「起きましょうか」

 寝なおすには中途半端な残り時間だ。パジャマを脱ぎ捨て、ショーツ一枚になった佐祐理は「うーん」と背筋を伸ばして眠気を散らすと、クローゼットから服を取り出そうとベッドから降り立った。その足が、床に置いてあった何かを蹴飛ばしてしまう。

「っと」

 なんだったけ、と拾い上げた佐祐理は、それが昨日奈津子から借りて、結局寝る前に読みきってしまった漫画本だと気付いた。家が近所の幼馴染として育った仲の良い男女が、突然両親の再婚で姉弟になってしまってさあ大変、という内容の恋愛コメディで、佐祐理が借りた三巻は丁度仲のよいクラスメイトに自分達が姉弟でしかも同居しているのがバレそうになってさあ大変どうなる? という盛り上がった場面で終わってしまっていた。

「あはは、昨日は続きが気になって、よっぽどすぐに地下室に行こうかと迷ったんだっけ」

 その悩みで随分と睡眠時間を削ってしまった。後で続きを借りに行こう、と頭の隅で考えながら、佐祐理はベッドに腰を下ろしてパラパラとページを捲って読み流した。前日までの友達同士が、次の日から姉弟になってしまうという展開は、なんだか自分と舞を見ているみたいで面白いなあ、などと考えながら最初は読み進めていたのだが、やはり女同士で姉妹になるのと、異性で兄弟になるのとでは全然違うらしく、佐祐理の思いもつかないようなトラブルが次々と起こっていく。
 姉と弟。果たしてあの子が生きていたら、漫画の登場人物が巻き起こすトラブルを自分も経験していたのだろうか。いや、実の兄弟と、ある日突然姉弟になってしまった関係とはやはり全然違うのだろう。なにより、この漫画の二人は、少なくとも片割れには相手に対して恋愛感情らしきものがあるのではと佐祐理に疑わせるような描写が時折紛れていた。例えば、家族になる前から女の子は男の子を部屋まで起こしに行く、という行為を毎朝続けている。本人は幼馴染だから、と強弁に主張しているのだが、佐祐理には幼馴染だからなんで起こしに行かなければならないのかさっぱり意味が分からなかった。相手の男の子はお節介だと迷惑そうですらあるのに、欠かさず毎朝起こしに行く。これは、所謂恋愛感情というものが絡んでいるからではないのだろうか。それとも、もしかして寝ている男の子を起こすという行為自体が面白いものなのだろうか。倉田佐祐理には分からない。

「あ、そうだ」

 その時、パッと朝に暗い部屋のカーテンを開くように佐祐理の頭にいいアイデアが浮かんだ。

「折角隣に男の子が寝てるんだから、ちょっと試してみましょう」

 そうすれば、些か意味合いが不明瞭な好意を抱いている男の子を朝、起こしてあげるという行為が実際どういうものなのかが確かめられるかもしれない。
 幸いにしてまだ、久瀬が起きてくるには早い時間だ。佐祐理は膝の上に置いていた漫画をベッドに放り出すと、すぐさまクローゼットから衣服を引っ張り出して着替えを終えると、意気揚揚と部屋を出……

「ああ、顔洗ってない。髪の毛も梳かしてない!」

 逃げ惑うように戻ってきて洗面所に駆け込む佐祐理であった。さすがに寝起きのまま久瀬の前に出る真似は出来なかったらしい。






「さて、ではいざ突入です」

 急いで身なりを整えた佐祐理は、充分に注意深く周囲に人影がないのを伺い、手首をカキコキと鳴らした。別に見られようがどうという事はないはずなのだが、気分的に人目を憚ってしまう自分がちょっと可笑しい。いや、リーエに見られると何を言われるか分からないので、やはり注意はしておくべきだろう。もう一度人の気配が感じられないのを確認して、佐祐理は緊張に息を殺しながらドアノブに手をかけ、捻る。

 ――ガキッ。

 回らなかった。

「って、なんで鍵閉めてるんですかーっ!」

 普通は閉める。

「ふぇぇ、俊平さん。部屋に鍵を閉めるなんて、佐祐理たちを信用していないんでしょうか」

 恐らくしていない。

「そんな、どうして……」

 かなり本気で疑問に思ってるっぽいのが怖い。

「はぁ、仕方在りません」

 佐祐理は諦めたかのような溜息をつくと、薄桃色の唇に揃えた人差し指と中指を押し当てた。

「抉じ開けましょう」

 己を顧みない女、倉田佐祐理の面目躍如であった。

「先日習ったばかりだけど……」

 ふぅ、と魔力を込めた息を指に吹きかけ、トンボの目を回すように指を回して魔力の息をかき回しながら、呪文を込める。すると、段々と吐息は無色から仄かな桃色を帯び始め、不定形ながら現界を始めた。

「はい、来てくださーい」

 パチンと指を鳴らした途端、ポンと音と煙を立てて桃色の吐息は空中をふにゃふにゃと漂う小指の先ほどのアメーバ状の物体に変化した。身体の真中にはグロテスクな一つ目がついていて、不気味にあたりを窺っている。

「ギョロちゃん、そこの鍵穴に入れますか? 奥から開けてくれると佐祐理は嬉しいんですけど」

 ギョロちゃんと命名された一つ目アメーバは頷くように一度目蓋を閉じると、ニョリニョリと鍵穴へと身体を変化させつつ潜り込んでいった。三秒も経たずにガチリ、と鍵の開く音がする。

「はい、ご苦労様でした」

 ところてんのように鍵穴から出てきたギョロちゃんは、無言でパチクリと目蓋を瞬くと、空気に薄れるようにして消えていった。

「さて、では改めていざ突入♪」

 寝ている久瀬を起こさないよう息を殺しながら、内部へと侵入する。気分はスニーキングミッションだ。厚手のカーテンが閉ざされた屋内は薄暗く、佐祐理は足元に気をつけながら久瀬の眠るベッドへと向かった。久瀬の部屋は綺麗に整頓されており、佐祐理の部屋のように綺麗に掃除してあるように見せかけて予期せぬものが床に転がっているということもなく、佐祐理は暗がりに躓く事もなくベッド脇まで辿り着いた。
 よく考えると、これから叩き起こすのだから音を立てないように気をつけたり息を殺したり必要はないのだが、佐祐理は物音を立てられないまま、唾を飲み込んだ。図らずも、鼓動が高鳴ってくる。考えてみると、久瀬の寝ている姿を見るのは初めてだ。見る機会は何度かあったはずなのだが、その際には久瀬が寝るよりも自分の方が早く寝てしまっていたし、起きたときには既に久瀬は起床してしまっていた。
 久瀬俊平という青年は、何時だって隙を見せない。からかえば情けない顔をするし、笑いもする。だが、無防備な素顔というものを他人に見せるような真似は絶対にしない。
 見たいな、とこの瞬間、佐祐理は素直に思った。久瀬の無防備な顔を。寝顔を見てみたい。

 佐祐理は苦しい胸を撫で、乱れがちになる呼吸を整えると、ゆっくりと頭から被さっている掛け布団を捲りあげた。

「…………ん」

 布団の下から現れた舞の寝顔は、普段とは違っていっそあどけないと言っていいくらいの…………ん? 舞?

「……え? ええ? えええ?」

 めくった布団の下から現れたのは、誰あろう川澄舞の寝顔であった。
 え、ま、舞? なんで、どうして? 部屋を間違えた? いや、そんなはずはない。確かにここは俊平さんの部屋で。でも、寝ているのは舞で、その隣には俊平さんも一緒に寝ていて……って、えええええええええええ!?

 大混乱。

「ん……んん」

 布団の端を握ったまま、陸に打ち揚げられたカツオのようにパクパクと喘いで硬化している佐祐理の気配に気付いたのか、眠そうに目を擦りながら舞は目を覚ました。

「あれ? 佐祐理?」
「ま、まま、ま、ま、まま」
「おはよう」
「おは、おははははは、よ、よよはおおお」
「……どうしたの?」

 旧式の洗濯機の上に正座しているかのように輪郭がぶれるほど小刻みに震えてアワアワとしている明らかに尋常でない佐祐理の様子に、自分が寝ぼけているのかと頭を振って眠気を吹き飛ばした舞は、隣でスヤスヤと久瀬が穏やかな寝息を立てているのを見て、自分が何処にいるのかを思い出した。
 ポリポリと頭を掻きながら久瀬と佐祐理を比べ見て、ポツリと呟く。

「…………失敗失敗」
「な、なにが失敗なのー?」
「ないしょ」
「ま、まいー」
「しっ、俊平が起きる」
「うっ」

 慌てて佐祐理は自分の口を抑えて久瀬の様子を伺った。それなりに騒いでいるはずなのだが、久瀬に起きる様子はサッパリ見られない。

「ん、やっぱり。全然起きない」
「お、起きないの?」
「起きない。だから起床時間まで待ってようと思ったんだけど……」

 ちょっと残念そうに首を振った舞は、チャンネルを切り替えたようにサッパリとした顔になると、ベッドから抜け出して佐祐理の手首を掴んだ。

「とりあえず、私の部屋に」
「わ、わかった。って、どっちに行くのー?」

 舞に引っ張られて行く方向はドアの方ではなく洗面所の方だった。

「私の部屋」
「だって、そっちは洗面所……ええ!?」

 洗面所のドアを開けると、何故かもうひとつ扉が鎮座していた。本来なら壁になっている場所に木目も鮮やかなドアが嵌まり込んでいる。舞がドアを開けると、それは彼女の部屋へと通じていた。
 二人がドアを潜り抜けると、舞は壁に貼り付けてあった見たこともない霊符を剥がす。すると、ドアはペンキが水で溶け落ちるように消えてしまった。

「な、なにそれ!? まさか、舞の新魔術?」
「違う、知り合いに貰ったもの。必ず殺すと書いて必殺どこでもドア、だって」
「ふぇぇ、悪いんだけど佐祐理はあまり頭が良くないからどこが必殺なのかさっぱりわかないよ、舞」
「大丈夫、私もわからなかった」

 真顔で答え、舞は佐祐理に剥がした霊符を手渡した。

「え?」
「佐祐理に預ける」

 戸惑う佐祐理に無理やり霊符を握らせ、舞は眠そうに目をしょぼつかせながら自分のベッドに腰掛けた。

「え、え、どうするの、これ」
「使って」
「使えって、なにに?」

 混乱するばかりで何も分かっていない様子の佐祐理に、舞は大きく溜息をついた。

「佐祐理は、もう少しちゃんと自分の気持ちを考えるべき。いつまでも見ない振りをしているつもりなら、その間に私が盗ってしまうから」
「…………舞?」

 親友は、珍しくはっきりと表情を浮かべた。自嘲のような、悪戯を仕掛けるような、不思議な表情。

「私はね、佐祐理。真琴みたいに真っ直ぐじゃないから」

 訳がわからず、でも締め付けられるように胸に感じた苦しみに佐祐理は言葉を失った。

「今日は失敗したけど、いつかは成功してしまうかもしれない」
「なにを……言ってるかわからない。舞が何を言ってるのか、佐祐理には分からないよ」
「そう? 佐祐理はきっとわかってる。でも……うん、佐祐理がそう思うのならそれならそれでいいのかもしれない。今はそれでいい」

 それはきっと佐祐理が嘘をつきたくないと思っている証拠だから、と舞は佐祐理の理解できない言葉を呟き、眠たげに目を擦った。
 嘘? 嘘ってなんのこと? 分からない。なにも分からない。でも、それでいいと、舞は言う。
 いいのだろうか。本当にそれでいいの? 分からない。やっぱり分からない。
 グルグルと頭の中が前後の繋がらない言語で渦巻いている。ほんの少し意志という手を差し伸べて組替えるだけで頭の中はスッキリと明瞭になりそうなのに、佐祐理はそれが出来なかった。

「佐祐理」
「は、はい!」

 落ち着き払った声に呼ばれ、佐祐理は襟首をつかまれたように我に返った。ベッドに腰掛けた舞は真剣な顔をしている。なにか決定的な言葉を、吐こうとするかのように。
 怖れすら抱きながら固唾を飲む佐祐理に、舞は淡々と言った。

「今日の朝ご飯、なに?」

 ――ガクッ

 結局、今朝の朝食は舞のリクエスト通り、フレンチトーストとなった。












 寝返りを打った拍子に頭に硬いものが当たる。眠り自体が浅かったのか、その拍子に佐祐理ははっと目を覚ました。あたりはまだ真っ暗。蛍光に仄かに浮かび上がる時計の針は午前三時を指し示している。
 額に当たる硬いものはなんだろうか、と手にとった佐祐理は、それが昨夜読みながら眠ってしまった漫画の続きなのを思い出した。ぼんやりと重い頭。佐祐理は額に手を当てて小さい、だが憂鬱げな吐息をついた。

「はぁ」

 乙女の憂鬱、なんて馬鹿げた単語ばかりが頭に浮かぶ。なんにせよ、今日一日は散々だった。どうにも集中力が持続できずに細かいミスを幾つか犯してしまうという醜態を晒してしまった。内面の気持ちの散漫さは酷いものだったから、細かいミス程度で済んだのはよかったといえるのかもしれない。元々内面を外に出さないようにするのは得意だったお陰なのだろうけれど。
 もう一度寝なおそうと目を閉じるものの、優れない気分のままあの理由のわからない煩悶が脳裏に渦巻くばかりでなかなか寝付くことが出来ない。そうするうちに、佐祐理は自分が段々と苛立ってくるのを自覚した。苛立つ。腹が立つ。慣れない感情の湧き立ちに戸惑いながら、それらの感情の源泉ともいうべき人物に佐祐理は思いを馳せた。そうだ、何故自分がこんなわけの分からない思いに鬱々とならなければならないんだろう。みんなあの人の所為だ。きっと、あの人が悪いんだ……なんて風に思えたなら楽なのかもしれない。
 だけど、倉田佐祐理には誰かに責任を押し付けるような考え方をする余裕は、未だなかった。誰が悪いのかと言えば、必ずそれは自分であるべきなのだ、と。

 佐祐理は寝なおすことを諦め、ベッドから起き上がった。そのまま部屋の隅にある机に向かい、引出しを開け、中から舞から預かった霊符を取り出す。まだ見習いに過ぎない佐祐理には全く理解できないロジックで構築してある魔術の起符。十分以上その符を見つめたまま立ち尽くしていた佐祐理は、やがて躊躇いながらその符を目の前の壁に貼り付けた。かすかに弦楽器の弦が震えるような音が響き、目の前に扉が生まれる。息を呑み、扉を凝視した佐祐理は、誘われるようにドアノブに手をかけた。

 舞は、いったいどういうつもりだったんだろう。
 懇々と眠っている久瀬の枕元で、念願とも言える彼の寝顔を見下ろしながら、佐祐理は空気の薄い山の上にいるかのような息苦しさを感じていた。
 多分、自分は舞の理由を識っている。舞の気持ちがなんと言う言葉で言い表せるのかも識っている。だけど、今の自分はそれを理解できなかったし、しようという気にもならなかった。鍵もついていない半ば蓋の開いた箱を、傍らに置いたままにしているような気分。でも、中を見たくはない。見てしまえば、私は…………。
 倉田佐祐理が倉田佐祐理のままでいるためには、中を見るべきなのだと思う。そして、然るべき行動を取るべきなのだ。それはきっと、目の前で眠っている人のためであり、親友の幸せに繋がるのだと、倉田佐祐理を司るものの一部が訴えている。
 だが、私は動けなかった。開きかけた蓋を横目に見るだけで、私は動く事が出来ない。嫌だと、心が悲鳴をあげている。見てしまえば、私は当然のように倉田佐祐理になってしまう!
 嫌だ、私は、わたしで居たい。

「変ですね、佐祐理は佐祐理以外の誰でもないはずなのに」

 恨めしい人、と佐祐理は呟いて跪き、一度眠れば起床時間になるか目覚ましのベルが鳴るまで目を覚まさないほどの深い眠りにつくのだという彼の頬に手を添えた。

「貴方も、舞も、どうして佐祐理を壊そうとするのですか?」

 この頭に渦巻く粘ついた靄はもしかしたら、憎しみと言う感情なのかもしれない。

「わからないんです、なにも。それが苦しい。でも、それ以上に安心してしまうんです、なにもわからないということに。不思議ですよね、おかしいですよね」

 佐祐理は寂しそうに微笑むと、さし伸ばした自分の手に、自分の顔を近づけた。手は彼の頬に添えられている。自然、二人は重なった。唇に温もりが触れる。優しい寝息が、渇いた唇にくすぐったかった。

「わからないです。佐祐理には、どうして自分がこんなことをしたのかも、わからない。でも、今は、わからないままで居させてください」

 そうすれば、自分が何をしているか認めずに理解せずに、なにもわからないまま、私は素直で居られるから。
 そんな言葉は明瞭な言語にならず表層に浮かぶ前に佐祐理の無意識に封殺され、奈落の如き深い部分に仕舞い込まれた。

「やっぱり貴方は、酷い人です……俊平さん」












 平素と変わらぬ時間に平素と変わらぬ健やかな目覚めを得た久瀬は、ベッドから起きようとしてふと違和感めいたものを抱いた。
 手をついた敷き布、その自分の右の傍らに、自分のものとは違う温もりを感じた気がしたのだ。まるでつい先ほどまでそこに誰かが横たわっていたかのような。右腕を無意識に摩る。皺の寄った寝間着の袖に、仄かに甘い残り香を嗅いだような気がした。

「……ふっ」

 一瞬、脳裏をよぎった妄想に等しい想像を久瀬は一笑に伏した。自意識過剰にもほどがあるというものだ。

 洗面所で顔を洗い、身なりを整えて久瀬は一階に降りた。共有スペースのダイニングに顔を出すと、既にリーエ・リーフェンシュタールが席についてコーヒーを片手にファイナンシャル・タイムスに読み耽っている。金糸の髪の少女は久瀬の気配に気づいてその陶器めいた無機質な双眸を紙面からあげると挨拶のつもりなのか僅かに小首を傾げた。

「おはよう、リーフェンシュタール」
「おはようございます、久瀬俊平。今日も朝から不景気な顔ですね、此方まで不景気が感染しそうです。大欠伸のひとつでもしてはどうなのですか?」
「これは地顔だ、失敬だな。だいたい大欠伸をしろとはどういうことだ?」
「貴方の間抜けな顔を見ることで、私が今日一日健やかな気分になれます」
「悪いがリーフェンシュタール。僕は君が健やかな一日を過ごす邪魔をするつもりはないが、その件に関して協力するつもりは生涯皆無だ、覚えておけ」
「了解しました、久瀬俊平。戯れ言に対して生涯皆無とまで言及する貴方の大人げの無さを完膚なきまでに記憶に留めておきましょう」
「くっ」

 顔を真っ赤にして反駁しようとした久瀬を押し留めたのは、風鈴を鳴らすかのような彼女の声であった。

「おはようございます、俊平さん」

 キッチンスペースで皆の朝食を調理していたのだろう。淡いオレンジ色のエプロンで手を拭きながら奥から現れた佐祐理が、久瀬を見つけて花咲くような笑みを浮かべた。今朝の起き立ての妄想を思い出し、久瀬の顔の赤さの理由が変化する。

「俊平さん?」
「あ、いや。おはようございます、佐祐理さん」
「はい、よい挨拶です♪」

 ほんわかと胸の前で両手を合わせ微笑む女性の姿に、久瀬は改めて自分の妄想に恥を抱いた。

「もうすぐベーコンが焼けますから、座って待っていてください……あら」

 そのままキッチンスペースへ踵を返そうとした佐祐理は、何かに気づいたように足を止めて、言われた通り何時もの座席に腰掛けた久瀬の許に近づいた。

「なにか?」
「じっとしていてください」

 悪戯っぽくそう囁いて、佐祐理は久瀬の前で腰を屈め、ヒョイと久瀬の眼鏡を摘みあげた。

「なっ!? なにを」
「ああ、もういけませんってば。動かないで」

 驚き立ち上がろうとする久瀬を押し留め、佐祐理はエプロンの裾で久瀬の目尻をそっと拭った。

「ほら、大きな目脂。だめですよー、俊平さん、顔を洗うときはちゃんとしないと。男の人は適当なんだから」
「す、すみません」
「はい、よいお返事です♪」

 幼い子供を褒めるように口ずさみ、佐祐理は蔓に両手を添えて久瀬の顔に眼鏡を掛け直した。

「…………」

 動きが、しばし静止する。眼鏡の蔓に添えた佐祐理の手が、滑るように頬に触れた。

「ああっ、いけない。ベーコンが焦げちゃう!」
「あ……」

 雲の上に置き去りにされたような静止した時間は唐突に破れ、佐祐理は素っ頓狂な声をあげてキッチンスペースへとパタパタと掛け去っていってしまった。

「……ふう」

 安堵とも落胆ともつかない吐息が漏れる。知らず呼吸を止めていたらしく、心拍数があがっていた。吐いた分の息を取り戻すべく呼吸する。

「……?」

 そして鼻腔を擽った彼女の残り香は、仄かに甘く蕩やかで…………。

「久瀬俊平、浸るのも構いませんが川澄舞が睨んでいますよ」

 淡々と乾いているはずのリーエの声に面白がっているような色を嗅ぎ取り、ハッと久瀬は我に返った。途端、痛いほどの視線を感じ、肩越しに振り返る。
 なぜか腕組みをしてダイニングの入り口にたたずんだ舞が、口をへの字に曲げて久瀬をジト目で睨んでいた。

「な、なんだ川澄」
「……別に。おはよう」
「あ、ああ、おはよう」
「おはようございます、川澄舞。今朝は何時に無くご機嫌のようですね」
「うん、とても」

 抑揚の無いリーエに淡々と応える舞。何故か久瀬は寒気を感じた。

「あ、舞も起きてきた。おはよー」
「おはよう、佐祐理」
「リーエさん、そろそろ先生たちも起こしてきていただけませんか?」
「了解しました。もう二度と目覚めぬほど完璧に起こしてまいります」
「あははーっ、相変わらず頼もしいですねー」

 ダイニングを出て行くリーエと入れ替わりに、舞は久瀬の隣に腰掛けた。そのまま久瀬の存在などなかったかのように前方のキッチンスペースを見つめたまま動かなくなる。居心地の悪さを感じながらリーエの残した新聞紙を広げてみる久瀬。

「……憎いやつ」
「ん? 今なにか言わなかったか、川澄」
「……別に」

 首を傾げながら紙面に視線を戻す久瀬を隣から横目に睨み、舞はキッチンで忙しなく動き回っている佐祐理へとぼんやりと意識を戻した。
 不意に、此方へと一瞥を向けた佐祐理と、視線が交錯する。

 ……佐祐理。

 視線の交わりは一瞬で、佐祐理はすぐに何事もなかったかのように手元の作業へと戻っていった。

「……盗ってしまうから」

 そんな事が果たして自分に遂行できるのか。疑念は晴れず、信頼は乏しい。それは恐らく、川澄舞という人間には最も縁遠いであろう行為。
 悪魔に魅入られた所為? 理由としてはまったくその通りで、完全に間違っている。悪魔が囁くのは何時だって真実。その解釈はちゃんと当人に任されているのだから。
 頬杖をついてため息をこぼす。斜めにそいつを見やり、川澄舞は心の底から思ったことを呟いた。

「……バカ」








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