< 同刻  オフィス街 立体駐車場 >


 この時刻、もっとも熾烈な戦闘が繰り広げられていたのはこの一画、事務所などの入ったビルが立ち並ぶオフィス街だった。
 引き裂かれた界溝の隙間よりあふれ出した異界の具現【現象生物(フェノメノン・クリーチャー)】の軍団(レギオン)でも最大となる一団が降下し、通常ならばスーツに身を包んだ勤め人たちが汗を拭きながら行きかっているはずの通りを占領していた。その数、その数、栞たちの居る公園のように五〇や六〇できくものではない。集中豪雨(スコール)のように空から舞い降りてきたレギオンの総数、およそ八〇〇。さらにその倍を越す後続が窺うように空を覆い尽くすようにして遊弋している。
 たちまち四車線の幹線道路を埋め尽くした悪魔の群れに運悪く出くわしたのが、落雷を目撃し、その場所へと向かいつつあった天野美汐と御門和巳の二人だった。
 津波のように押し寄せてくるレギオンを目の当たりにして、二人は泡を食って逃げ出した。当然だ、いかな美汐たちでも車線が四つもある幹線道路の真ん中で、百を越える怪物の大群と矛を交えるなど出来ようはずがない。たちまち四方八方から囲まれて蹂躙されるのがオチである。だが、二人が逃げ込んだ先である立体駐車場も、安全を確保するには至らなかった。
 追い立てられて逃げる際に行く手を塞がれたのをド派手な術式で蹴散らしたのが拙かったらしい。大群は一斉に進軍の矛先を美汐たちに変更し、立体駐車場に押し寄せてきたのだ。
「やっぱりこいつら、一匹が攻撃されたら群れ全体で最優先で攻撃したやつを狙ってきやがる」
「羅喉変で報告されてる現象生物(フェノメノン・クリーチャー)の行動特性そのままです! まともな支配を受けてる形跡がどこにもない。やはりこれは単純な魔導書(グリモワール)による召喚なんかじゃありません!」
「他の異界ならともかく、【第七天獄(セブンス・ヘブン)】属の召喚は特に難しいんやぞ。幾ら下位悪魔(レッサー・デーモン)でも十匹二十匹が限界や。こんな――」
 符を変じた式剣でバリケードを乗り越えてきた怪物の膝を薙ぎ払い、崩れてきたその顔面を蹴り飛ばして向こう側に押し返しながら和巳は叫んだ。
「こんな百匹千匹喚起する召喚なんてあり得るかいな!!」
 幸いにして立体駐車場は立てこもるには最適な密閉式の建築物だった。これで開放型なら全ての階から侵入を受けて、あっという間に上下から押し寄せてくるレギオンに飲み込まれていたに違いない。美汐たちは駐車場には山ほどある乗用車を重量軽減術式や浮遊術式、大型式神などを駆使して動かし積み上げ、さらに容易に破壊されないように防護結界を被せた即席のバリケードに仕立て上げ、なんとか下から攻めあがって怪物――下位悪魔(レッサー・デーモン)を押し留めていた。
 しかし、召喚ではないとするとこの悪魔の大発生はどういうことだ? 和巳はこの理不尽な展開に歯軋りした。神剣の顕現儀式を追いかけていて、なぜ羅喉変もどきに出くわす? 一体何が起こっとんねん。
「こんなことなら、M2でも持ってくるんでした!!」
 袂を絞り、両手に持ったシグ・ザウエルを唸らせながら、美汐が叫ぶ。狙いもつけず、手当たり次第にトリガーを絞りまくる。二挺拳銃など、正確さを旨とする普段の美汐なら絶対やらないスタイルだが、この場は狙いの正確さより銃弾の量だ。ただでさえ当たりやすい巨体が津波のように押し寄せてくるのだ。多少狙いが甘かろうが撃てば当たる。
 それにしても、美汐の叫びはかなりやけっぱちが混じっている。
「M2て、重機関銃なんか持って歩けるかいな! ってか、そんなんまで置いてあるんか、あの神社」
 M2といえば「キャリバー50」の名で知られ、ミートチョッパーの異名通り当たれば人間など胴体ごと粉砕できる銃弾を毎分500発以上連射できる傑作重機関銃である。生産数もハンパではない機関銃なので、入手自体は難しくはないのだろうがあまり個人で所有するようなものでないのは確かだ。そんなものまで所蔵しているとは。この分やと地下にロボット兵器でも隠しててもおかしないんとちゃうか、と和巳は呆れ気味に呟いた。それを聞いて、美汐がぼそりと一言こぼす。
「…ロングトムならありますけど」
 一瞬、何の事やら理解できずキョトンとなった和巳だが、すぐさまロングトムの名に思い至りあんぐりと口をあけた。ロングトムとはアメリカ製の155ミリカノン砲の愛称である。もはや銃火器ではなく立派な兵器、重砲だ。
「ちょい待てやおい。一般家庭にあってええもんちゃうやろそれ」
 ちなみに銃火器だってあって良いものではない。
 言ってからしまったと思ったのか、美汐は慌て気味に取り繕った。
「だ、大丈夫です。砲弾も無いし砲身命数も切れてますから撃てません」
「そういう問題ちゃうわ!」
 逆に言えばそれ、砲弾を用意して砲身を取り替えれば使えるということじゃないのか?
「そんな事言われても知りません、物心ついたときからあったんですから」
 まあだいたい誰が持ち込んだか想像はつくが。和巳は幼心に強く印象に残っている美汐に良く似た女性の面差しを思い浮かべた。あの人、神社を要塞か何かにでもするつもりだったんじゃないやろうな。鳥居を手前に社殿を背後に、石畳が左右に割れて巨大な重砲が地面の下から迫り出してくる光景が脳裏に浮かび、和巳は引き攣った笑みを浮かべた。
 妄想にしているうちは愉快だが、現実となるとそりゃ悪夢だ。
 いや、自分達の置かれたこの現状では、その悪夢にすら縋りたくなる。和巳は絶望に似た感慨を抱いた。カノン砲なんかが欲しくなるような状況など、それこそ悪しき夢の只中ではないか。
 美汐が弾幕を張って援護している間に、和巳は手拭いほどもある大きな呪符『爆術硬符』を起動して群れの真ん中に放り投げる。ちょうど密集地で起爆した爆符は四散し、硬質化した紙片を四方にばら撒く。まとめて十体近くの下級悪魔が青白い炎をまとって崩れ落ちた。
 だが、和巳は苛立ちもあらわに、
「あかん、威力絞っとるから効果が充分に出えへん!」
「ですが、これ以上出力を上げると外壁か天上に穴が開いてしまいます」
「わかっとる! くそっ、制限きついで」
 天上に穴を開けてしまえばそこから階上に上がられ、背後に回りこまれたら挟撃を受ける羽目になる。外壁の破壊などに及んでは考えたくもない。それでも威力を絞った術式ではやはり効果が限定されてしまう。二進も三進も行かない状況に和巳は歯噛みした。氷術か、エネルギーが拡散しない術式を中心に戦術を練るか。
「どっちにしろこのままやとジリ貧やぞ。なんとか敵中突破して逃げ場見つけんと」
「兄さん、おかしいです」
 もう三つ目の空となった弾倉を取り替えながら、美汐が言った。
「なんや?」
「このレッサーですが。9ミリパラペラム数発で消滅するのです」
 言葉を切り、美汐は薙ぎ払うようにトリガーを引きながらザウエルを振り回した。天井すれすれに接近を図ったレッサー二体が空中でもんどりうち、青い炎を吹き上げながら落下する。
「見ましたか。頭部などの急所に当たれば一発で存在構成が崩壊します」
 内心、美汐の射撃技術に舌を巻きながら和巳はそれがどうしたのかと困惑しかけ、はたと美汐の言いたいことに思い至る。
「いや、確かに変やぞ」
 現象生物といえば、仮にも世界を侵す異界の尖兵というモデリングをされた怪物だ。それが、ただの人間でも即死させるのが難しい9ミリパラペラム拳銃弾程度が少々当たったぐらいで行動不能になるなど不可解だった。状態にも寄るが、少なくとも熊や虎などの大型肉食獣並みの耐久力はあるはずなのだ。だが現状、攻守各術式で防いでいる分が大半だが、拳銃――しかも小型に類されるシグ・ザウエルで何度もわりと易々と進撃を押し返している。こんな豆鉄砲程度の火力で押し返せる程度の進軍圧力なら、羅喉変――列島大震災で現象生物のレギオンにあんな規模の蹂躙を許すはずがない。事実、状況が不鮮明だった戦役当初に無計画にレギオンの前面に歩兵部隊が投入され、壊滅する事態が幾度か発生している。その際の彼らの兵装は、間違いなく美汐の持つ火力など問題にならないレベルであったのだ。最終的にレギオンの進軍を停めたのは重火器を山ほど掻き集めた拠点防御であり、旅団規模の砲兵群による直接火力支援砲撃であったのだ。宮城会戦において仙台市内の戦闘の趨勢が決まるまで、四時間近くに渡って五万を越える新たなレギオンの一団の市街侵入を許さなかった第二特科砲兵群の奮戦など、未だに語り草になっているほどだ。逆に言えば、大規模なレギオンの進軍を押し留めるのには、それほどまでの制圧火力が必要だったということでもある。
 美汐が重機関銃を望んだのは過去の戦訓からみれば、決して過剰な要求ではないとわかる。
 にも関わらず拳銃である程度バリケードを支えられているという事実は、あの怪物たちが外見とは裏腹にかなり脆い存在であることを意味している。
「存在の固着が不安定なんか?」
「はい。おそらく、存在構成情報の密度がまだ薄いのでしょう。あの程度の衝撃で存在を維持出来なくなるのですから、ほぼ減衰無しの原液に近いとされる羅喉変時のモノどころか、標準的な召喚で喚起されるレベルのモノよりも状態が悪いと見做していいと思います」
 なにが原因でレギオンたちが現出したかわからないが、召喚にしても時空界面に穴が開いたにしてもまだ不完全な状態という事か。となると、と呟き和巳はペロリと鼻先を舌で舐めた。
「つまり連中、ゴツいなりのくせにハリボテってことかいな。こりゃあ……」
「突破、出来なくもないかもしれません。どうせ、このままここで防いでいてもあまり長くは持ちませんし」
 持ち合わせのマガジンがもう残り少ないことを示し、美汐は意見を求める目線を和巳に向けた。レギオンの攻撃は物理的な突進以外にも炎弾や衝撃波など、魔力によるものも少なくない。幸い、敵集団が密集しているため、最前列からしかそうした攻撃は放たれてこないが、バリケードを破壊されないために一々防御術式で防いでいるのが現状で、これが案外消耗が激しい。そろそろ、此方からアクションを起こさなければ逃げ出すための余力までもが削られてくる頃だった。
 とはいえ、幾ら相手が脆くてもこの数だ。強化術式で身体能力をあげたとしても、徒歩で敵陣を突破してなおかつ安全圏にまで逃げ切るとなると……。
「待てよ?」
 肝心な事を忘れていた。
「ここ、駐車場やったな。丁度ええわ」
「え?」
 和巳の言葉の意図を図りかねて美汐が目を瞬いた時、敷設していた呪印トラップ――触れると宙に跳ね上がり四方に真空断層を発生させる術式群――を前衛を犠牲にするという強引な方法で突破して、レッサーたちがバリケードに群がり始める。美汐はバリケードから身を乗り出すと、一呼吸で両手のザウエルの弾倉を空にし、バリケードに張り付いたレッサーたちを薙ぎ払う。さらに祈念一統。
「オン・アサンモウ・ギネ・ウンボッタ!」
 火炎の形に組んだ印より傲と炎が立ち上る。炎の赤に美汐の白い面が浮き上がった。右目をカッと開眼し、美汐は鋭く喝破した。
「火生三昧・火院!」
 瀑布のごとく、魔を砕破する猛利の火が壁となって噴きあがる。そして押し寄せてくるレッサーの群れを飲み込むように、炎の壁は雪崩れ落ちた。闇雲に突進を重ねようとしていた一団が、まともに火炎に飲み込まれていく。火の海に包まれるや否や、レッサーたちは瞬時に真っ白な灰と化して粉微塵へと消し飛んだ。
「みーちゃん、何分持つ!?」
「二分、といったところです」
「二分かぁ」
「お望みなら延長も受け付けますが?」
「いや、それで充分」
 バリケードの一番上、レクサスの屋根に仁王立ち、赤壁を維持する美汐に背を向け、和巳は角にある二輪置き場に駆け寄った。
「あった、こいつなら」
 闇の中に浮き上がるように光を宿すシルバーメタルの車体へと、和巳が手を添えた――その瞬間だった。
 爆発。
 和巳の背後で、隕石が落下してきたかのような激突音が轟いた。立体駐車場が倒壊するのではと思わせるほどの激震が襲う。
「な、なんや!?」
 よろめきながら驚き振り返った和巳の目に、大きな穴の開いた外壁と、立ち込める粉塵が映った。どうやら外部から開けられたもののようだった。まさか、外壁を破ったのか。和巳は顔を蒼褪めさせた。辛うじて二人がレギオンの攻撃を押し留めていられたのはヤツラが律儀に一つしかない出入り口から自分たちを追ってきたからだ。それが、壁を壊して攻めてこられれば均衡は瞬時に打ち崩される。
 だが、予想外だったのはレギオンたちも同様のようだった。機械か昆虫のようにひたすら自分達に邁進していたレギオンが、一旦進軍の足を止め、崩落した外壁を窺っている。
 一瞬、静まり返った戦場。はからずもその場にいた存在すべての視線が注がれる。その先、光を帯びて朝靄めいた乳白色となった粉塵の幕の奥で、もぞり――と何か大きな塊が身動ぎをした。
 瓦礫が崩れ、何かが這い出してくる。
「あれは……」
 美汐の呟きに呼応して、和巳は目を眇めた。何かが、靄の中にいる。外壁を突き破り、この立体駐車場の中へと突っ込んできたナニカが。
 と、不意に粉塵に無数の線上の軌跡が疾る。空気を切り裂く高音の多重奏。
「――――――――――」
 可聴範囲ギリギリの弦を掻き鳴らすような咆哮が迸る。途端、靄に一番接近していたレッサーの一団が、凍りついたように静止した。
 銀光が踊る。
 和巳は一瞬、視覚そのものが裁断されたかのように錯覚させられた。そう勘違いせざるを得ないほど一瞬に、鮮やかに。銀色の線が弾けたのが見えた。と思うや、見える範囲だけで十二体ものレッサーが、縦に横に、そして斜めにスライスされた。スローモーションで再生されているかのように隙間が段々と広がっていき、やがてようやく重力と言うものを思い出したかのように輪切りにされた肉の残骸がボタボタと崩れ落ちていく。
「キ――イ――イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ」
 それは絶叫だった。歓喜か、憎悪か、それに類する猛々しいまでの感情を孕んだ絶叫。思わず和巳と美汐は耳を塞いだ。質量をすら有するかと思わせる圧倒的なまでの妖気が吹き上がった。美汐は顔を顰めた。吹き寄せてきた妖気は、本来の妖怪たちが持つような一種清涼さすら含んでいる自然の精に満ちたものとは明らかに違っていた。
 肌が爛れ、肉まで染みこんでくるかのような腐食感。穢れを含んだ波動。
「……これは、瘴気!?」
 立ち込めていた粉塵が文字通り消し飛び、視界が開ける。
 悪夢が姿を露わとする。
 異形が、そこに立っていた。
「か、!?」
「なんちゅう……」
 二人は喘ぐように絶句した。
 その異形の名を、彼女らは知っていた。
「春日さん!?」
 そう、それは昨晩から真琴と共に行方を絶っていた美汐のクラスメイト。此花春日と、彼はかつて呼ばれていた。
 だが、その姿は……。
「そ……んな」
 膝が砕ける。瞬きを忘れた眼がひりついていく。
 予想はしていた。昨夜、公園に残された状況証拠、色濃い瘴気。此花春日の身にいったい何が起こったのか。推察はできていた。だが、現実にその姿を見せられて動じないわけがない。心、引き裂かれないわけがない。
 毒々しい黄色と黒の斑の彩色。蜘蛛の下半身と人間の上半身が合わさった歪な、だが禍々しいまでに美しい姿。それは、女郎蜘蛛と呼ばれる妖怪のものだった。ただ、妖怪の姿となっているだけなら、人ではなくなっているというだけなら、美汐もここまで衝撃を受けていなかっただろう。
 しかし、春日の変貌は姿に留まっていなかった。正気の欠片も残っていないギラギラと輝きつつも空洞のように虚ろな双眸。理性を塵ほども残さぬかのように引き攣り、歪みきった口元。そこにいたのは、ココロの壊れた異形の怪物だった。存在そのものが破綻した狂気の淵に堕ちた生き物だった。
 そこに、此花春日と呼ばれた少年を思わせるものは何も残されていなかった。残骸だ。汚泥にまみれた抜け殻だ。
 これが、春日なのだろうか? あの、天真爛漫を絵に描いたような、あけすけで陽気だった此花春日だというのか?
 美汐はグラリと意識が傾くのを感じた。
「うそ、だ」
 彼は――救いだったのだ。
 八雲と和巳を失って以来、外との繋がりを拒絶し遠ざけてきた美汐にとって、春日のその名前通りのぽかぽかとした笑顔は、凍える心を照らしてくれる一筋の光であった。今なら分かる。春日と澄は、確かに天野美汐にとって大切な存在だった。縋るべき(よすが)だったのに。
 それが今、こんなにも――。
「なぜ……」
 ――無残な形で壊されていく。
 彼の笑顔の何処にも、小春の日差しは残っていない。ベトつく粘液とかび臭い湿気しか連想できない腐った哄笑だけが、鼓膜へとこびりつく。
「こんなバカな話が」
 悔しさに、怒りに、やるせなさに、脳髄が沸騰した。
「こんなッ!!」
 一瞬美汐は我を失い、バリケードから飛び降りて春日のところへと駆け寄らんばかりに身を乗り出す。
「あ、あほっ、みーちゃん戻――」
 それを見て、泡を喰い和巳が美汐の元へと引き返そうとした――――その瞬間だった。
「――――ッ!?」
 一斉に、全身の毛穴が開いた。横殴りに大波を食らったような無形の衝撃に、激昂で吹き飛んだはずの理性が胸倉を掴まれたかのように引き戻される。
「な、なに!?」
 何かが、来る。
 天を突かんばかりの尋常でない規模の霊圧が、押し寄せてくる。
 美汐と和巳は心臓を掴まれたように目を剥き、春日が突き破った外壁側――右手の壁を振り返った。壁が阻んで、外の様子はうかがい知ることは出来ない。にも拘らず、戦慄が二人を振り仰がせる。
 外から。外壁の向こう側から、とてつもないモノが――――――。

 ――――来る!?

「みーちゃん、伏せろぉ!!」
「くッ――!」
 赤炎壁の維持を放棄して、美汐がバリケードのこちら側へと飛び降りた。直後。

 カッと凄絶なまでの光量が網膜を焼き尽くす。あまりの音量に鼓膜が一瞬麻痺を起こした。瞬間、真空が生じていた。大気が収斂し、続いて爆発的に膨張する。
 起こるのは、狂ったように吹きすさぶ爆風だ。小柄な美汐は、空中にあったため為す術も無く爆風に煽られた。
「く――のお!!」
 和巳が吹き飛ばされてきた美汐を抱きとめる。そして、彼女を押し倒すように覆いかぶさり地面に伏せる。飛び散る瓦礫の猛威をやり過ごし、ようやく二人が身を起こしたとき、大気は恐れ慄くように未だに火花を散らしてバチバチと爆ぜていた。
「こ、今度はなにが起こったのですか?」
「…………」
 頭をもたげて様子を窺った和巳に返せる言葉は見当たらなかった。壁に、10トンダンブが一台余裕で通り抜けられるような巨大な穴が開いていた。くり貫いたかのように穴の反対側の床にも同じ規模の空洞が生じていて、それは立体駐車場そのものをトンネルとなって貫いている。
 勿論、そのトンネルの軌道上に存在したであろうレッサーの群れは跡形も無く消し飛んでいて、周辺にいたものも軒並み黒焦げの残骸と化し青白い炎をまとって崩れ落ちようとしている。バリケードも積み上げていた車の半数近くが溶解、または崩れ落ちて既にバリケードの体を為してはいなかった。
「砲撃、か?」
 一瞬、美汐の家にあるという重砲による砲撃なのかと妄想する。
 弾道から推察するに、今の攻撃は斜め上空からの撃ち下ろし。だが、これはとても実体弾による砲撃とは――。
 衣服と擦れた指先に小さな破裂音とともに痛みを感じ、和巳はハッと息を呑む。
「大気が帯電しとる? ということは、まさか今の、雷撃なんか?」
 今のが雷だとすれば、外からそれを放ったのはつまり…………。
 タケミカヅチが下賜した剣。雷神の力が降りた神力の発動体。布都御魂剣の媒体者。
 そう。彼女は今、そこにいる。
「――ッ! そうや、春日は。春日はどないした」
 彼は雷撃の射線上にいたはずなのだ。最悪、今の雷砲の直撃を食らえば跡形も、
「に、兄さん。あれを」
 美汐が指差す先、雷撃射線上から僅かに外れた場所に、繭と思しき真っ白な球形が浮いていた。その半面は砲撃の余波によるものか真っ黒に黒ずんでいる。ガラガラと黒炭化した繭の外壁が剥がれ落ちていった。
 此花春日は健在だった。
 残った繭殻を鉄杭めいた蜘蛛の脚で蹴り崩し、ゲラゲラと笑いながら這い出してくる。和巳は背筋がゾッと冷たくなるのを感じた。あの一瞬で繭を編んだというのか。しかも、あの雷撃を通さないだけのモノを。和巳の龍眼は、春日が作り出した防殻の術式構造を捉えていた。
「十一次元クラスタ構成!?」
 多次元輻輳型の術式構成ではないか。地面や紙など平面に敷かれた魔法陣や祭文を基盤にして起動するベーシックな論理術式と違い、多次元輻輳型は立体的に式を編むことでより高度で強力な術式を起動できるスタイルだ。主に中華大陸の仙術系統やアラビア・ペルシャの精霊梱封法などで発展が見られたスタイルで、効果の安定性、持続性にも優れており、空間に対する複雑多様なアプローチにも秀でている。だが、強力であるということは同時に、概念の難解さ、生成の難易度もまた比例するように増すことを意味している。
「嘘やろ、そこらの蜘蛛の化生がこんな高次術式を操れるもんやないぞ」
 単に十一次元クラスタ構成を扱っているだけではない。まるで極上の織物を見るかのような、洗練された術式構成の見事さ。織の極め細やかさは――。
「こんなんまるで機織女――天紡ぐ織姫の……いや、でもまさか――――っ!?」
 不意に襲ってきた首筋が涼しくなる感覚に、和巳は咄嗟に美汐の頭を押さえて地面に這い蹲った。僅かに遅れて、首のあった部分を何かが通り過ぎる。
「キアアアアアアアアアアアアアアッッヒャアアアアアアアアアアアア!!」
 高揚に乗った歓喜の歌が叫ばれる。
「あいつ――――」
「建物ごと斬ったのですか――――っ!?」
 ガコン、と超特大の錠前が外れたような音がした。四方の壁に糸状の光が走る。密閉された立体駐車場の屋内に、全周囲から光が差し込んだ。地鳴りのような音をさせ、壁と言う壁が元の位置からズレていく。
「あかん、崩れる!」
 支柱が外れ、重量が一手に掛かった下方部がひしゃげ潰れる。一気にバランスが崩れた。轟音。壊音。立体駐車場の階上が破滅的な悲鳴とともに、斜めに傾いで倒壊していく。まるで宝箱の蓋でも開けるようにして、美汐たちの右手に外界の空が開いた。
 何故春日が立体駐車場を両断したのか。その理由を、二人は速やかに理解した。
 倒れた駐車場の上階部分がつんのめるようにして、幹線道路へと倒れていく轟音を聞きながら、舞い散る破片と煙の向こうに美汐と和巳は目を奪われる。
 まさに、蓋は開かれたのだ。
 見上げれば、そこには空を遊弋する赤黒い雲。見下ろせば、大地を埋め尽した黒色のうねり。これらすべてがレギオン。千を越える悪魔の軍勢だった。
 だが、この場において彼らの存在など取るに足らない羽虫の群れにすぎない。単なる有象無象の汚れに過ぎず、背景に過ぎず、そも眼中にすら置かれていない。
 かくて、二人は再び正対する。
 ここはただひたすらに二人の世界。
 開いた壁に脚を掛け、春日が身を乗り出す。(ウロ)めいた双眸に、俄かに光が戻っていた。恋焦がれるような狂乱した眼差しの先に彼女はいた。
 無数の黒き悪魔が羽ばたく向こう。隔離空間の擬似陽光を背にレギオンによって埋め尽くされた車道を隔てた向かいのビルの屋上から、彼女は此方を見下ろしていた。なびく髪は紫電を帯び、さながらイカヅチの羽衣を纏っているかのようにして。
 彼女の名は――――。
「スゥゥゥゥゥゥゥミィィィィィィーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
 絶叫とともに、春日の五指から目に見える白く太い縄のような糸が放たれた。蜘蛛の節足がゴムのようにたわみ、その巨体を頭上へと跳ね上げる。そうして隣のビルにめり込んだまま、まだ辛うじて斜めに傾いで止まっている駐車場の壁面にしがみついた。白い糸が蛇のように四方に走り、辺りを飛んでいるレッサーを捕らえ、雁字搦めに縛り上げる。そのまま手元に巻き取ったと見るや、春日はそれらを勢いをつけて振り回し、
「キャッハアアアアアアアアアア、プゥゥゥッレッゼントおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 向かいのビルに目掛けて投擲した。
「澄ッ!」
 逆光により、美汐からはビルの屋上に立つ女の顔ははっきりと見えない。だが、確信を持ってその名を呼んだ。
 彼女は聴こえた風もなく天を指差し、切り裂くように振り下ろす。
 指の軌跡にあわせるように、左方右方の両天より、イカヅチの槍が降り注ぐ。物部澄めがけて投げつけられたレッサーは、一斉に十字に交差する雷光に串刺しにされ、虚空に縫いとめられた。
 移動するレギオンの雲が、擬似陽光を遮っていく。徐々に光の中に浮かび上がる女の姿が露わとなっていく。
 青白く燃える五つの十字架を半円状に従えて、彼女は片目を押さえて微睡むように佇んでいた。どこか心浮き立っているかのように、口元にはうっすらと微笑みが浮かんでいる。まるで、恋人との逢瀬に浸っているかのように。
 だが、それならば何故。あんなにも、彼女が凄惨に見えるのか。常軌を逸して見えるのか。
「だめね、春日。あんた、センスがなってないわ。そんなプレゼント、私が喜ぶと思ってるの?」
 澄はややうんざりした調子で頭を振った。
「教育が必要かしら」
 ガン、と澄は床に踵を打ち鳴らした。
 途端、澄が立つ七階建てのオフィスビル。その壁面を覆う窓という窓が一斉に豪奢な悲鳴をあげて砕け散る。数千を越える破片と化して散りばめられた星屑のように宙へと舞った硝子の欠片たち。それらはだが、堕ちる地上を間違えたかのように落下軌道を捻じ曲げられ、車道の向かいに聳える立体駐車場へと降り注ぐ。硝子の雨どころではない、コンクリートすらも打ち砕く勢いの、それは硝子の機銃掃射(スウィープ・ウィズ・ガンファイア)。逃げ場殺しの範囲攻撃(エリア・バレージ)だ。慌てて瓦礫の影に隠れる美汐たちと違い、春日の居る場所は剥き出しの外壁面である。が、
「シャッッッハアアアアアアア!」
 蜘蛛の化生はシャウトを滾らせ、慈雨を全身で受け止めでもするかのようにその場から逃げもせず左右に腕を開いた。
「ペップウウウウシィィィヤアアア!」
 開いた腕を胸元に引き寄せる。左右の十指から放たれた白糸が手繰られ、春日の眼前で雁字搦めに巻き取られた十体以上のレッサーが激突、春日の巨体の前方に悪魔の肉壁が誕生する。
 直後、ザッと激しい通り雨が過ぎ去ったような音が吹き荒れ、白く塗られた壁面と、漆黒だった悪魔の肉壁には隙間も窺えないほどにびっしりと硝子の破片が突き刺さっている。
 女郎蜘蛛はグズグズのミンチとなって糸の拘束から剥がれ落ちそうになった悪魔たちの盾を無造作に放り捨てた。
 ビッシリと突き刺さった硝子の庭に、ポッカリと春日が張り付く周囲だけが丸く空白を穿っている。一切の傷を負わず、だがそれがまるで物足らないとでもいいたげに、化け物は切なげに吠えた。
「カッカッカッカッ、かすてぇぇえぇぇぇぇええ!!!」
 その叫びに、感に堪えないように打ち震え、物部澄は襟元を握り締めた。引き潮を得たように淡い微笑みを収め、目を伏せた。
「大丈夫よ、春日。そんな声で泣かなくても」
 普段の澄からは想像も出来ないくらい優しい声で、泣きじゃくる子どもを慰めるように、彼女は囁いた。
「きっちり私が始末を付けてあげるから。今までだって、なんだかんだとあんたのしでかす馬鹿騒ぎの尻拭いは、してあげてたでしょ?」
「す……ミィィ」
「だから安心しなさい」
 閃光が瞬く。
「あなたは、ちゃんと私が殺してあげるから」
 天から一条の雷光が車道へと降り注ぐ。レギオンの満々中に打ち落とされた雷光は自然現象の落雷のようには掻き消えない。さながらそれは天上より地上に直結した稲妻の竜巻だった。竜巻はレッサーどもを薙ぎ払いながら車道を横切り立体駐車場の壁面を駆け上り出す。
 春日は首を大きくグルリと回すと、迫り来る稲妻の竜巻を、まるで脚の先に吸着車輪が付いてでもいるかのように壁面を滑って回避した。雷柱はそのまま壁を登りきり、隣のビルとの接触箇所に激突し、辛うじて保たれていたバランスを爆発とともに崩壊させた。
 ビルが根元から圧し折れ、さらに隣接するビルを巻き込んで倒壊していく。寄りかかっていた立体駐車場の階上部分もまた、それに飲み込まれるようにしてもんどりうつように逆さを向き、土煙の中に飲み込まれていく。
 春日は崩壊に飲まれていく壁面から、別のビルへと飛び移っていた。ゴムのような白い糸が壁面に張り付き、彼の巨体を引き寄せる。
「オッッッカエシィイイイイイイイイイイイイダヨォォォォォォ!」
 取り付いた壁を駆け上がりながら、春日は何度も両腕を振り回し、上下左右に動かした。屋上へと飛び上がりざま、腕を胸元で交差させ、錆びた鉄扉を力任せにこじ開けでもするように、勢い任せに左右に開く。
「ザッッッッパァアアァァァァァァ!!」
 耳を劈くような軋りが戦慄く。瞬間、澄の佇むビルの壁面を、無数の地走りが駆け巡った。
 ヒュゥン、と風を斬り、銀を塗した幾本もの糸が虚空を踊る。オフィスビルの中階部分は、積み木で出来ていたようにバラバラに分解された。激震とともに地面に沈んでいくビルの突端から、澄は隣のビルへと飛び移り、春日もまた車道を挟んでそれを追う。
 そんな二人の行く手を、空から降下して来た新たなレギオンの一団が遮った。
 途端、澄の、春日の形相が気が触れたかのように一変する。
「私たちの邪魔を――――」
「スルナアアアアアア!!」
 二人の瘴気と神気が爆発した。雪崩れ打つように降り注いだ雷の雨が、空をも切り裂く銀糸の螺旋が、総数二百余を数えるレギオンを羽虫でも叩き落すかのように蹴散らした。
 青白い炎纏った残骸が、まるで枝垂れ花火のように落ちていく。


「あれが……神剣?」
 茫然と、美汐は呟いた。今まで魔道に触れたこともなかった人間が、呪文もなしであんな出力の霊力を放出するなんて。もし、最初の落雷からここまで、ずっと春日とあの規模の交戦を続けてきたというのなら、それはもう人間の範疇を超えている。あんな大威力の能力を野放図に連発しながら、まるで霊気魔力の枯渇する気配が見受けられなかった。どこか別の時空から供給を受けているかのような際限の無さだ。
 我知らず、一筋の涙が頬を伝った。胸の奥が掻き毟られているように痛い。痛くて、たまらない。春日だけでなく、澄までもが人とは別のモノになってしまった。神格兵装、いやそういう事じゃない。春日も、澄も。あれは妄念に縛られた、怨霊だ。自分たちの責ではなく、追い立てられ、追い詰められ、行き場を壊され、拠り所を失って、ああなるしかなかったモノたち。
 理性も正気もかなぐり捨てて、互いだけを求め合う。
「く……うう」
 それが、どれだけ悲惨で虚しいものなのかを天野美汐は知っている。そう、あれはかつての自分の姿なのだ。記憶がヤスリのように心を削る。あれは、そのまま自分と八雲そのままだ。お互いを求め合い、そして互いに殺し合うしか救いの道はないのだと、心を凍らせ削り取り儚いまでに狂うほか無かった、あれは自分と八雲の写し身だ。
「どうして、繰り返すんですか」
 もう、終ったはずだったのに。関わった全ての人に取り返しの付かない傷痕を残し、消えない痛みを背負わされ、それでも前に進もうと、ようやく顔をあげられたのに。
「どうして…」
 どうして、自分の目の前で同じ事を繰り返される。同じ悲劇が繰り返される。どうして。よりにもよって、自分をその苦しみから救い上げてくれた人である親友たちに、同じ苦しみが降りかかるというのだ。
 彼女らは幸せだったのだ。互いの距離と関係に、確かに迷いを得ていたかもしれない。苦しみ、喘いでいたかもしれない。でも、二人はそれを自分たちで乗り越える意志と力を持っていた。春日は笑顔を失わなかった。澄は、自分で周りを見ようとしていた。私を、頼ってくれたのに。
 どうして放っておいてくれないんだ。あの二人は、本当に綺麗なままで、幸せになれるはずだったのに。
「どうして、どうして――――ッッ!!」
 たたきつけた瓦礫の音と絶叫が、虚しくこだまし消えていく。どこにも届かず息絶えるかのように。
「ここで嘆いてても、意味ないやろ」
 淡々とした声音が美汐を叱咤した。鼻を啜り、美汐は縋りつくように彼の姿を目で追った。それより早く、大きな手がポンと頭を押してくる。
「違うか?」
「にい……さん?」
「追いかけるで」
 短い一言。目を見開く。目の前に立ち込めた靄がサッと吹き払われたような気がした。そう、愚図愚図している暇はない。私に今、出来ることを。
「…はい」
 涙を拭う。嗚咽を呑み込む。
「はい」
 顔をあげる。背筋を伸ばす。膝を立てる。立ち上がる。
「はい!」
 嘆く前に。恨む前に。泣くより前に。私にはしなければならないことがある。見失うな、天野美汐。まだ間に合う。自分と同じ悲劇が繰り返されようとしていても、それはまだ手遅れではないのだから。止めるのだ。防ぐのだ。繰り返させてなるものか。決して自分と同じ絶望を、あの二人に味わわせてなるものか。
「取り戻すんやろ、あの二人?」
「はい!」
「いい返事や。あとでご褒美にキスしちゃろう」
「は……」
 反射的に思い切り良く返答しかけ、美汐は喉を詰まらせ絶息した。真っ赤になってむせ返る少女を見下ろし、三つ編みの青年はケラケラと笑う。
「冗談やて。そんなにウケてくれるとありがたいけどなあ」
「べ、別にウケてるわけじゃ」
 美汐は赤面を消せないまま恨めしげに上目で青年を仰ぎ見た。そんな彼女の視線に込められた意味に頓着する風もなく、和巳は手招きした。
「みーちゃん、おいで」
「は、はい。あの、これは?」
 和巳の後を追いかけた美汐は、彼が調べてみるものを見て首を傾げた。美汐たちが築いたバリケードの丁度背後にあった二輪置き場で、和巳が触っているのはホワイトベースに白黒のツートンボディカラーのバイクだ。BMW・F650GSダカール。2000年のパリダカール・カイロラリーで優勝したF650RRを記念して作られたレプリカ的モデルである。
「こいつで包囲を突破する」
「え? ですが」
 美汐は困惑した。ここは位相差空間内に構築された擬似世界だ。いわばこのバイクも見てくれだけを整えたハリボテに過ぎない。こんなものをどうしようと……。和巳は美汐にまあ見てろとばかりに人差し指を振ると、バイクの周囲に手持ちの釘を打ち込み、印を切った。練達の書道家のような流麗な仕草で眼前の空間に呪紋を刻んでいく。美汐はそこに本邦のものとは系統が異なる、大陸の方術の流れを組む術式構成を見て取った。しかもこれは、輻輳型。空間に干渉するタイプの……。
「あっ」
 思わず声をあげる。パン、と風船の割れるような音がするとともに、脱け殻だったF650GSの車体にしっかとした質感が生まれたのだ。まるで、命が宿ったような。いや、まるでじゃない。確かに今、ハリボテにすぎなかった器に実体が宿ったのだ。おそらく、現実世界に在ったバイクそのものを此方の空間に引き込んだのだろう。えらく簡単に行ったように見えるが、他人の構築した隔離型の擬似空間内に現実世界の物質を引き込むなどという真似は普通は出来ない。空間座標の特定から閉鎖律令の論理解体、転送ルートの算出と、とにかく常軌を逸した術式演算能力が必要だ。それを露店で金魚をすくうかのような手際でこなした和巳は、美汐が呆気に取られて見守る前で見たことのない祝詞が刻まれた呪符を三角形にたたみ、それをイグニッションキーに差し込むとハンドルのキーロックを解除した。
「みーちゃん、後ろ乗って」
「は、はい……じゃなくて、今、鍵、え?」
「フフフッ」
 リアシートに跨った美汐の耳に、和巳の含み笑いが飛び込んでくる。和巳はセルを回した。夏場ということもあり、一発で車体が身震いするように震え、エンジンが始動する。
「どや、こんなこともあろうかと密かに製作しておいた『マスターキー符』が役に立ったわ!」
「ちょっ、なんなのですかその投げっぱなしな名前の呪符は!?」
 というか、これは思いっきり泥棒なのではないだろうか。不安になった美汐だが、糾弾していられる場合でもなかった。春日と澄の乱入で、一旦掃討されていたレッサーたちだったが、新たな一団が再び階下や吹き抜けになってしまった上空から押し寄せてくる。これは緊急避難だ、よくハリウッド映画などであるじゃないか、善良な一般市民が乗っている乗用車や二輪車を主人公が警察手帳や拳銃をちらつかせて強引に間借りするシーンが。これはあれと一緒だ。いやいや、持ち主を車体から引き摺り落としてかっぱらうような事をしていない分自分達のほうが良心的。
「ごめんなさいごめんなさい、あとで返します、弁償しますから」
「みーちゃん」
「はい!」
 腰にしがみつく少女に、男は真剣な口調で言い放った。
「ちょいサーカスばりに派手にいくで」
「……はい?」






 春日と澄の交戦により、オフィス街のビル群はさながら戦場跡のような惨状を呈していた。窓という窓が粉砕されたビル、外壁が崩れ落ち建材がむき出しになった雑居ビル、完全に倒壊した建築物も見受けられる。中でもひどいありさまなのが、中央から春日の斬糸によって断ち切られた立体駐車場だ。その上階部分は隣接するビルを巻き込んで、幹線道路に倒れこんでいる。その切断された基部の壁面に突如、小規模な爆発が発生した。
 そして爆音を消し飛ばすかのような、猛り狂ったエキゾーストノート。内側から吹き飛ぶ外壁を追いかけ、一台のオフロードバイクが粉塵を突っ切り飛び出した。
「っしゃーーっ、突撃ぃぃ!」
「っきゃああああああ!」
 御門和巳と天野美汐を乗せたダカールは、宣戦布告のように外界に向かいエンジン音を撒き散らす。そのまま空でも飛ぼうかというように躍り出たダカールは、殆ど直角と呼んでも過言ではない角度となっている倒れた立体駐車場の外壁に、後輪を叩きつけた。
「くっおりゃああ」
 車体が跳ね上がり、前輪が上ずる。そのまま逆立ちをして引っくり返りそうになるF650GSダカールを、和巳は力任せに押さえ込んだ。叩きつけられるように前輪が外壁に激突。一瞬、車体がバウンドして宙に浮きかけるが、なんとかタイヤが外壁へと噛み付いた。
「――――ッ」
 もはや悲鳴をあげることすらできず、美汐は必死の思いで和巳の腰にしがみつく。墜落しているのといったい何が違うのか。スキーのジャンプ台と見違う角度の傾斜を、和巳と美汐を乗せたF650GSダカールはフルスロットルで駆け下りていく。
 不意に出現した動体目標に、春日たちを追跡することなく現在地に残っていたレッサーデーモンたちは即座に反応を示した。地上に降りていた個体は火球などの砲撃で、滞空していた個体は急降下で美汐たちに襲い掛かってくる。
「くわあ、しゃらくさいわい! ええぞ、みーちゃん、ぶっ放せ!!」
「ああもう! 愛染明王呪六十四慧権法【星天弓】――――顕ッ!!」
 和巳の合図とともに、美汐の腕に朱色の光芒が迸り、和弓の形を形成する。白衣の少女は殆ど滑落しているのと変わらないバイクのリアシートの上で朱光の弓を引き絞り、特大の光矢を天上目掛けて撃ち放った。
「どりゃあああ、エキサイトバイクジャァンプ!」
 外壁から飛び出た鉄筋に前輪が乗り上げ、F650GSダカールが再び宙を舞う。直後、左右から撃ち込まれた数十を越える火球群が次々と倒れた立体駐車場へと着弾、急降下してきた同じレッサーデーモンを巻き添えにして大爆発を起こす。
「のわあっと!?」
「きゃあ!」
 爆風に煽られ、バイクは前のめりに吹き飛ばされる。
「なんのぉ!」
 気合か根性か、ムリヤリに暴れる車体を捻じ伏せて、和巳は停車しているワゴンの屋根目掛けてダカールを突っ込ませる。結界内の擬似物体であるため、原型よりも脆さを増していたワゴン車は、衝突の衝撃を柔らかく受け止めるようにペチャンコにひしゃげた。それでもトランポリンにでも降りたかのように車体は面白いように弾む。二人は車体から放り出されかけながらもなんとかダカールを幹線道路へと着地させた。
 そして――――。
「兄さんっ、着弾まであと八秒! そのまま止まらないでっ!!」
「かはっ、了解や!」
 美汐の指示に、和巳は緩めかけた右手のスロットルをそのまま全開に保持。前輪を弾ませたままダカールに鞭を入れた。だが前方には十体近いレッサーの壁が立ち塞がる。
「みーちゃん、しがみつけ!」
「はい!」
 美汐の腕がしっかりと自分の腰に絡んだのを確かめ、和巳はペロリと舌なめずりした。迫るレッサーの壁。ふん、と息を詰め、和巳はリアタイヤをロックし車体を横倒しに沈めた。タンデム状態でのサイドスライディング。バイクに搭乗している人間二人を叩き落とそうと振るわれたレッサーの腕が空を切る。甲高い擦過音を響かせ、レッサーの足元に滑り込んだダカールだったが、いかにレッサーが巨大とはいえダカールの車体全長はレッサーの股下を潜り抜けられる幅ではない。が、それも和巳の目論見のうちだった。和巳はわざと後輪をレッサーの片足に激突させた。もんどりうって急激なスピンを起こしながらも、ダカールはレッサーの股下を潜り抜け、脚を払われたレッサーは隣のレッサーを巻き込んで転倒する。
「にゃああああ!!」
 どんどん奇声に近くなっていく気合を迸らせ、和巳は前後左右を失って暴れ狂うバイクのバランスを、驚くべき事に殆ど速度を落とすことなく取り戻した。
「着弾、今!」
 切羽詰った美汐の叫び。和巳は後ろも見ずに、ダカールを前へと突っ込ませる。
 直後――――遠ざかる和巳たちを追いかけようとするレッサーの大群の頭上から、朱色の雨が降り注いだ。
 広域面制圧型破邪顕正法【愛染明王呪・星天弓】――物理的破壊力こそ皆無なものの、精神力を摩滅させ、世の理から逸脱したもの、歪んだものを一撃で伏滅させる破邪の矢が、それこそクラスター爆弾さながらに辺りを薙ぎ払う。異世界法則の顕現、すなわち歪みの権化である第七天獄の眷属たちに、これに抗するすべは無い。破魔矢の散布界に捕らえられたレッサーデーモン――およそ一五〇が、根こそぎ存在の不確定を是正され消し飛んだ。
 術式の余波をやり過ごし、和巳はバイクを一旦停めて確認する。
「やったか!?」
「いえ、まだです!」
 消滅の残滓である燐光が散っていく向こうから、続々と新たな黒影の波が。そして上空から覆いかぶさるように数百を越えるレッサーが降りてくるのを見上げ、美汐は息を噛み殺すように告げた。
「ちっ、限があらへん。いちいち相手してられんぞ」
「振り切れますか、兄さん」
 不安そうに美汐は尋ねた。空を飛んで追いかけてくる相手に対して、はたしてこのバイクで逃げ切れるだろうか。が、和巳はただ単に、苦笑するように肩を竦めた。
「みーちゃんみーちゃん、こういうときはできますかーなんて問いかけるんやなくて、ムリでもなんでもお願いしてくれな、オレも気合入らんわ」
「兄さん……」
 小さいながらもじわりと笑みが浮かんでくる。
「では、お願いします。澄と、此花さんを」
「おうよ」
 車体をターンさせ、和巳は準備運動とばかりにぐるっと首を回し、アクセルをふかせた。
「飛ばすで、ちゃんと捉まっとれや!」
「はい!」
 キック、フルスロットル。タイヤが嬌声をあげて地面を蹴る。二人が乗るF650GSダカールは、停車した車が無作為に行く手を塞いでいる幹線道路を避け、無人の歩道に乗り上げて、全速力で走り出した。









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