現世から隔離された結界の中、それぞれの目的のため、想いのために駆ける男女が、その足を止め見上げる空。
 その蒼穹は今、異界の黒に蝕まれようとしている。
 雲霞のごとき暗色の群れ。
 一つのリアルな終末の形。


 さて。
 そろそろ諸氏もジレている頃ではなかろうか。
 過去をつまびらかにせずして、現在を語るのは困難を極める。ここに必要とされるのは情報の開示、歴史の回顧だ。
 いい加減、説明をするべきなのだろう。

 遡ること十と九年。
 時に西暦1982年、これと同じ光景が、この弧状列島の空に、地に、ぶちまけられたことがある。

羅喉変(ラゴウヘン)

 凶星・羅喉の名を冠する、それがこの国を襲った災厄の名であった。

 この世界の真の夜を知らぬ人々の間では【列島大侵災】の名で知られる大災害。それは現代に舞い降りた百鬼夜行、真夜中の大祭典(ミッドナイト・カーニバル)
 はたしてあの災厄とは、そもそもいったいなんだったのか。異世界からの侵略か、万魔殿(パンデモニウム)大降臨(グレート・フォールダウン)か。はたまた神の手による最終神罰戦争(アーマゲドン)か。
 その正体と実態を明らかにするには、遠回りに思えるだろうがざっと三十世紀ほど時間を遡らなければならない。

 端を発するは、紀元前965年。中東はイスラエルの地に立った一人の王の手によって、今日にも続く異世界【第七天獄(セブンスヘブン)】の侵蝕災害(エクリプス・ハザード)は幕を開けた。
 王の名はソロモン。
 人の操る魔術を生み出した魔道の祖の一人と崇められ、人の身でありながら魔界を統べたとまことしやかに語られる、人類史上空前にして絶後の大魔法使いである。
 と、ここから彼の偉業を語っていくのだが、その前に少し、寄り道をさせてもらおう。


 たとえば――

 『異世界』と聞いてあなたはなにを思い浮かべるだろうか。

 そう、異世界である。この世界とは異なる時空に存在する別の世界。まず、素直に想像を羽ばたかせてみてほしい。
 幻想と冒険の世界。怪物が跋扈し、英雄が剣を振りかざす。この世界に似た、だがどこか違う、郷愁を掻き立てられる夢物語の現実化したような世界。
 オーソドックスならこんなところではないだろうか。
 だが、と此処では敢えてその連想を否定をさせていただこう。その想像は、所詮人類に与えられた認識力の内側に収まるものに過ぎないと言える。それは中世欧州の情景の投影であり、既存の神話を再構成したものであり、見知らぬ異国に馳せる思いを幻想領域の産物により味付けした程度のものに過ぎない。
 今回の話の軸となる異世界――【第七天獄(セブンスヘブン)】は、そうした人間の想像力の内側にある現行世界の近似値に位置するものではない。この世界とはまったく異なる枠組みによって成立している本当の意味での異世界だった。異世界と表現せず、別の宇宙とでも言えば判りやすいのかもしれない。
 まず、その異世界には人間やモンスター云々という以前に、生命という概念が無い。いや、それどこか、光や熱、物質。時間や空間という概念すら存在していない。だからといって、虚無の世界というわけではない。
 世界の成り立ち方が、此方の世界とは根本的から違うのだ。すなわち、あらゆる概念があちらと此方では異なっている。
 その異世界は、その異世界内で通用する法則に基づいて成り立ち、構成されているに過ぎない。ただ単に、こちらの世界からはいかなる方法を用いてもそれを観測できないし、認識も出来ないし、把握も理解も出来ない。文字通り、この世界上で構築できる論理の外に実在する【異なる世界(アナザーワールド)】なのである。
 それこそ十か二十ほど次元を上に昇って高次元的存在にでもならなければ、両方の世界を並列的に認識する事は不可能なのだ。
 たとえば、人間の目では見えない可視領域外にも光がある。人間の耳では聴くことの出来ない可聴領域外にも音がある。異世界とは、現行世界上に存在する以上決して認識できない領域にある理解が絶対不可能な世界なのだ。
 実在はすれど、観測できず。
 それはいい。別に、そんな別の世界があったとしても、誰も困りはしない。何しろ観測も認識も把握も理解も何も出来ないのだ。そんなもの、存在しないのと一緒である。
 ところがだ。その異世界。通称【第七天獄(セブンス・ヘヴン)】は誰にとっても不運な事に、距離的な意味とはまた別の概念に基づき、地球が浮かんでいる時空間の極々至近距離に存在していた。というか、ぶっちゃけもろに重なってしまっていた。正確には、あちらとこちらの世界が交錯するポイントが地球圏上であったというべきだろう。まあ異世界との衝突なんてものは別に宇宙全体を見れば珍しい事でもない。あっちゃこっちゃでこの世界というかこの宇宙と別の世界は接触を繰り返している。全宇宙の9割を締めているというダークマターなんてものは、その産物みたいなものだ。
 とはいえ、地球に住んでる生命体にすれば迷惑極まりない話だ。何しろ、異世界と接触するという事は、異世界の法則がこの世界の法則に侵蝕してくる事を意味している。法則は決して共存できない。野球のルールではどうやってもサッカーをプレイできないように、だ。
 そうして世界は発狂していく。互いに食い合い混ざり合い、元の姿とは全く異なる新しい形が出来上がるまで。
 だからどうした。それでいったいどうなると? なんだそれは、意味がわからん。まったくである。概念の消滅、存在の破綻、時間軸の圧壊、混合による新生法則による世界の再構成、などなど言われても良くわかんないだろう。なので、異世界との接触で起こりえる事象をまったく即物的で乱暴で冒涜的な、端的に言うなら舐めた表現をさせてもらうとだ。
 アトランティス大陸の沈没、ノアの箱舟、ソドムとゴモラ、神々の黄昏、ディープインパクト、カンブリア大爆発、妖星ゴラス、ウイルス戦争、イリス覚醒、とまあこの手の身も蓋もない神話的な終末状況が起こってしまうと思ってもらうと分かりやすい。途端胡散臭くなったと思われるかもしれないがまあ仕方が無い、なにしろまったく即物的で乱暴で冒涜的な、端的に言うなら舐めた表現なのだからして。
 実際はもっと破滅的と言っても過言ではない。
 だがとりあえず、これら概念や時間軸などの崩壊は侵蝕が決定的に広がりきった場合における終局的状況であり、軽く突端が触れたり離れたりを繰り返しているような異世界との接触状況ではまず起こりえない事とされている。だが、その軽い接触だけでも法則の歪みによって発生する破滅的な状況は無視できないものだった。地殻変動、大干ばつ、火山活動、死病の大流行など、十万単位、場合によってはさらに一桁上の被害が出るような大災害の勃発である。

 地球滅亡の危機だ! 

 その通りである。なのだが、困ったことに、これ、原因への対処のしようがない。相手は観測も認識も把握も理解も出来ない、存在していないのと意味としては違いの無い異世界の流入である。対抗の方法がまるで無い。ソロモン以前の神代と呼ばれる時代には、上位次元に位相を半ば移しているような神位の幻想生命体がある程度これを押さえ込んでいたものの、それは懇々と湧き出す泉の口を手で塞ごうとするようなものであり、こちらを塞げばあちらが開き、あちらを塞いでもまた別のところから、もしくは指の間から異界が溢れ出す、と言ったように傍から見てたらかなり滑稽……もとい無駄ではないものの過分な効果を期待できるものではなかった。

 ここで登場するのが最初に触れたザ・スレイマンこと魔法王ソロモンである。。
 人類の領域を越えた魔導を極めたソロモン王は、ふとした事から世界を度々悲惨な破滅へと追いやっている災厄の存在とその正体を知ることとなった――この時点で、ソロモンは既にその存在を高次元へと移行しつつあったのではないかという説もある――。
 王としてというよりも多分に魔法使いとしての探究心や好奇心から、彼はこの災厄に立ち向かう事にした。そして、彼が編み出した異界侵蝕災害への対処法こそ、今日の魔術の基礎や召喚魔術の根幹にも繋がる理論の構築と、その実践だった。

『異界の擬人化』もしくは『結果をもたらす原因のすり替え』……ソロモンの偉業を、現代魔学ではこのように解説する所もある。

 なんじゃそりゃ? とまた首を傾げられそうだが、これはさほど難しい考え方ではない。
 ベトベトサン、という妖怪をご存知だろうか。夜道を歩いていると、後ろから誰かがつけてくるような音が聞こえる事があり、この時、道の片脇によって「べとべとさん、先へお越し」というと足音がしなくなる。という妖怪である。他にも天狗倒しや薬缶まくり、家鳴りなど、これらは正体の分からない未知の現象そのものであり、ゆえに妖怪の仕業と説明されるために生み出された存在だ。
 これらは実在する妖怪ではなく、当時の人々が理解の出来ない未知の怪異や現象に対して名前を付け、存在を定義しようとしたものだ。理解の出来ない現象や訳のわからないものを具体的に形のあるものとしてなぞらえ認識する事で自分たちの理解の及ぶステージに引き摺り落とし、対処し克服しようという先人の知恵である。
 現代でも、たとえばウイルスや虫歯菌をディフォルメキャラクター化してこれを退治する事で病気や虫歯を治してしまう、という表現がテレビコマーシャルが常套手段として用いられるように、こうした単純具象化の観念は色濃く残っている。
 ソロモン王は、あろう事かその観念を現実に実現実行してしまったのだ。
 まず破滅的な破壊の発生という結果がある。その原因は異世界の流入により世界法則に歪みが生じるためである。しかし、具体的に異世界の流入と言われても、人々はそれに対処することは出来ずそもそも認識する事すら出来ない。だったら、その破滅的な破壊をもたらす原因を、より単純で解かり易く誰にでも理解でき、なおかつ対処し得るに変換してしまえばいい。
 つまり、異世界から現れた化け物たちが、破壊をもたらす因となればよい。そうすれば、その化け物どもを退治すれば破滅を免れることが出来るようになる。『結果をもたらす原因のすり替え』だ。
 世界同士の接触により侵蝕してくる異界を防ぐことは叶わないとみたソロモン王は、異界の流入は仕方ないと割り切った。そうして世界の境界面にフィルターを張り巡らせる。このフィルターは、いわば潜らせることで無味無臭の気体に色彩を与え、臭いを付けるような機能を有していた。無味無臭の気体では、部屋の中に流入してきたとしてもまず気付く事から難しいが、気体に色や臭いがついていれば流入に気付けるし、その気体を避けたり扇いで遠ざけるなど対抗することができる。
 ソロモン王の張ったフィルター、つまり結界は色や気体を付ける代わりに、この世界に照らし合わせた定義や存在に変換してしまうという機能を持っていたのだ。
 斯くて、異界法則を、物質的な肉を与えて怪物と言う判りやすいものに具現変換した存在――生命として実体し、破壊を起こす現象として存在する――【現象生物(フェノメノン・クリーチャー)】が誕生する。
 異界との接触面から溢れ出してくるものが認識もできない訳のわからないモノならば、これに対してどうする事も出来ないかもしれない。が、溢れ出してくるものが怪物という誰にでも目に見え、認識でき、容易に理解できる存在ならばどうだろう。
 その怪物たちは、確かに破滅という現象そのものであり終末の具現であった。だが具現した以上、受肉し生命としての活動を行っている以上、これを打ち倒し退けることは可能である。人々はその終末に真っ向から立ち向かうという選択を選ぶことができるようになったのだ。

 めでたし!

 と、喜んでばかりもいられない。
 何しろ、馬鹿みたいに沢山の怪物たちがわらわらと溢れ出してくるのである。
 おおごとである。
 大変だ。
 対処できるようになったと言う事は、逆に引っ繰り返すと否応無く対処せざるを得なくなったとも言える。なんで起こるのかどうしてこうなるのか、とにかく訳のわからない破滅なら、神の意志だの運命だのと安らかに座して受け入れてしまえってなもんだが、わらわらと怪物が出てきた日には、剣を取って抗ってしまうのが人間心理というものだ。しかも、頑張ればやっつけられるとなればなおのこと。
 これでソロモン王が、怪物たちを操る術を遺してくれていたならばまだ良かったのだが、この王様は異界から悪魔を召喚し支配する術式は残しても、召喚法を介さずにこちらに溢れ出した悪魔を支配する術は残してくれなかった。やる事はやってやったんだからあとは勝手にやってくれ、ってなもんである。
 幸いにして、異世界との接触には百年から千年という長い周期があり、オマケに異界の流入地点も毎回別の地域という法則があったため、貧乏籤を引いた地域以外の地球上生命体はそれほど迷惑を被らずに過ごす事が出来ていた。これがソロモン王以前だと歪みの影響が広範囲に拡大していたのであるからして、やはり彼の行為は偉業として称えられるべきものなのだろう。

 しかして話は現代へと舞い戻る。
 清帝国の崩壊を半世紀早め、【四つの中国(クローヴァー・チャイナ)】や【東方シベリア(ネオ・ダブル・イーグル)】を現出させる要因になったと云われる近代最初の第七天獄世界侵蝕災害(セブンスヘブンズ・エクリプス・ハザード)崑崙崩(コンロンホゥ)】よりおよそ百年。この大日本帝国に異世界【第七天獄(セブンス・ヘヴン)】の門が開いたのが西暦1982年のことである。
 とある例外を除いて、基本的に日の入りから日の出まで、つまり夜間においてのみ存在を確定される悪魔たちの現出は、当初若者たちの間に広まる都市伝説の扱いだった。
 実際、異世界との接触面が開口したと目されている一月初旬から一ヶ月間は、現出していた悪魔の数はかなり疎らなものだったらしい。
 当局が異変に気付いたのは2月3日に木曾山中でTVクルーが遭難した事件と、2月7日、警邏中だった福岡県警の警官二名がスクラップと化したパトカーの内部から惨殺体で発見された博多事件、そして2月10日、五島列島のとある島の集落が一夜で全滅した姫神事件からだった。TVクルーが遺したテープなどからソロモンの悪魔が関わっている事を知った神祇省など関係機関は、この時点ではまだ召喚術師による犯行の線から事件を追いかけていた。
 事態が一変したのが2月21日。富士山麓を訓練飛行中だった陸軍輸送ヘリ群の全機墜落事件、そして突然の富士山の噴火活動の開始と、日本列島のみで観測された予定に無い皆既日蝕現象の発生であった。
 翌22日には、富士の樹海に日中にも関わらず多数の悪魔群が発生しているのが発見され、50キロ圏内が恒常的魔界圏化――悪魔が安定して存在を確定できるだけの世界法則の変質が進んだ地域――している事が確認された。
 3日後の25日日没直後、現象生物(フェノメノン・クリーチャー)は局所集中的に大量発生、【軍団(レギオン)】化し日が昇る時間に至るまで大移動を開始、進攻地域を蹂躙するという特性を、ここで初めて露わとする。
 発生総数二万七〇〇〇。『伯爵ラウム』『刈除公フォルクス』『星幽侯オリアクス』と自律する魔界圏【特異点・七十二種(72 Evil Spirits of Solomon)】を三個体も孕んだ彼ら軍団(レギオン)の進軍方向には東北地方で最も大きな都市が、昨日と変わらぬ生活を営んでいた。
 その夜、およそ五ヶ月に及ぶ列島大侵災を通じて最も大きく最も悲惨な被害を出したとされる惨劇が発生する。

 世に言う【仙台大火】の夜である。

 これ以降、五月の富士樹海決戦にてこの大災厄が終結を見るまで、列島各地で大小さまざまな幾多の激戦が繰り広げられ、この国は夜の闇を怖れ、息を潜めて身を隠す、さながら太古の昔へと引き摺り戻されたかのような日々を過ごす事となる。
 死者七万、被災者は延べ五百七十万。被害総額は今なお正確な算出不可能とされる天文学的数字に昇り、当時まさに天を突く勢いを得ようとしていた好景気の兆しは完膚なきまでに叩きのめされた。
 これが後に列島大侵災と呼称され、羅喉の名を冠する名称を与えられた災厄の大まかな顛末である。


 そして西暦2001年8月。
 この北の地方都市に、あの災厄の情景が再現されようとしている。
















< 11:51  公園 噴水広場 >


 生理的嫌悪が身体の芯からの震えを呼び起こしていた。カタカタと鳴っているのは感覚が失せるまでに強く握り締めている刀の鍔だ。
「なんだよ、こいつ」
 北川薫は震える声で呟いた。言葉を発せられただけでも自身に賛辞を贈りたい気分だった。空から降りてきた化け物は、生臭そうな白い息を煙のように吐きながら、以前観た太古の恐竜を現代に甦らせたという設定の映画に出てくる大型肉食恐竜のように辺りを睥睨している。
 両親が公安八課に勤めている関係上、薫も妖怪たちと出会う機会はたびたびあった。だが、そうした連中はみんな外見上は人間と同じ者ばかりで、こうもあからさまな怪物然とした生き物を目の当たりにするのは初めてだった。
 冗談じゃない、怖いとか恐ろしいとか、そういう次元の話ではなかった。
 誰かが間違えて、北川薫という人間の初期化ボタンを押してしまったのではないかと思えるくらい、頭の中が真っ白に染まっていた。自分が呼吸をしているのかも判らない、心臓の音すら聞こえない。ピクリとでも動けばその瞬間、殺される、そんな錯覚が心を一色に塗り潰していた。自分のはらわたが引きずり出される光景が、踏み潰された頭蓋からプティングみたいに脳味噌が搾り出される光景が、バリバリとあばら骨を食い千切られる光景が、次から次へとフラッシュバックしていく。
 死の感触がヒタヒタと肌の上を這いずり回っていた。
 身体の衰弱から死にかけていた時とはまったく別の、ただひたすらに一方的で理由も無く理不尽に抵抗を許さず暴虐そのままな死の感触が。
 どうしたらいいかわからない。生と死の境目なんて何度も経験したんだから、自分にはどんな危地でも動じない度胸が据わってるんだと、漠然と思い込んでいた。とんでもない。とんでもなかった。死の種類が違うと言うだけで、何をしたらいいのか判らない。為す術がない。内臓の一部の機能が突然止まったり、無軌道な暴走を始めたり、そんな理不尽になら我慢するやり方、堪える方法を知っている。
 でもこれは……。
 死ぬ、死んでしまう、殺される。何も出来ず、何もさせてもらえず、潰され千切られ引き裂かれて、なんの尊厳も無くボロクズみたく殺される。
 ――殺される!
「や、やばいよ、逃げよう薫くん、氷上さん」
 尻餅をついたまま栞が蒼白な顔でズボンの裾を引っ張った。
 逃げる? 逃げればいいのか?
 そうだ、この死は自分の体の中で巻き起こっているものではない。どうやっても決して逃げたり背を向けたり出来ない類の死ではない。逃げようと思えば逃げられる。必死に逃げれば、逃げ切れる。
 ……そうなのか?
 白く濁った複眼が、此方を捉えているのがはっきりとわかった。知性の欠片も感じられない、獣性すらも垣間見得ない、蟲のような目に射抜かれる。
 ダメだ、走って逃げられるような相手じゃない。一目で暴力そのものの具現だとわかる外見、あれは形のあるものを破壊するためだけに在るモノだ。動くものを見境無く引き裂く事が存在する理由となっているモノだ。あんな外見をしたものが壊そうとする対象より鈍重なはずが無い。特に人間なんて種族は、走って逃げるのが地球上の生物の中でも大の苦手に分類される生き物だ。逃げられるわけが無い。
「薫くんっ」
 動かない自分に、ズボンの裾がなおも引っ張られる。
 真っ白に染まっていた思考に、徐々に黒点が生まれ始める。頭がゆっくりと回り始める。
 逃げる。
 本当に出来ないのか? そうだ、可能性ならある。北川薫には身体機能を爆発的に上昇させる手段があるじゃないか。まだ短い時間しか扱えないけれど、封印(プロテクト)さえ解除(キル)すれば、目の前の化け物からも逃げられる可能性が――――。
「あかん、やんか。そんなんあかんに決まってる」
 薫は自分の考えの致命的な欠陥に気付き、奥歯を噛み締めた。そりゃあ自分は普通の人間を遥かに越えた身体能力を発揮できるが、他の二人はどうする。栞一人ならともかく、自分より図体のでかい人間を二人も抱えて、空を飛ぶ事まで出来る化け物から逃げ切る自信なんて到底なかった。
 だったら、氷上を置いていけばいい。そう考えられたら楽だったのに。
 それは、きっと正しくなくても間違いじゃない選択肢だ。助かる可能性があるのなら、それは決して間違いじゃない。だが、無理だ。北川薫には、いくら気に食わない相手でも見捨てていこうなんて真似は出来っこない。そんな道に外れた事は出来やしない。それは、自分が北川哲平の息子である以上、絶対に許せない選択だ。
 そこで思考が行き詰まる。動けない。選べる選択肢が見当たらなかった。どうしていいかわからない。
「ちく……しょう」
「二人とも、後ろにさがって」
 薫は思わず息を呑んだ。潜めた声でそう囁き、薫たちを庇うように氷上が前に出たのだ。
「氷上さん!」
 栞が悲鳴をあげる。怪物の複眼が標的を識別するように機械的に蠢いた。
「おまえっ、なにを――」
「なに、と言われても、ね」
 此方からは顔が見えないにも関わらず、薫には氷上が苦笑を浮かべたのを感じた。
「さあどうしようかな、と正直困っているところ」
「なっ!?」
「さっきも言ったけど、僕は魔術なんか使えないからね。運動神経もあまり無いほうだし。やれやれ、どうしようか」
 薫は恐怖とは別の意味で顔が引き攣っていくのを感じた。
「どうしようって、ふ、ふざけんな。なに考えてんねん!」
「ははっ、自分でも良くわからない。ただ、まあこういう場合は順番的に僕が一番前に出ておかないとダメなんじゃないかと思ってさ」
 氷上の声には強い緊張を窺わせる強張りが感じられる。だが、その口振りときたら自分の方が大きいから肩車の馬になるよ、という程度の気軽さだった。
「――――く、ぅぅ」
 薫は限界まで見開いた目を、その痩せ細っているとすら言える氷上の背中に奪われた。
 その気負いのまったく感じられない態度に、薫が感じたのは身を焦がすような悔しさと、嫉妬だった。
 何も思いつかないのに、自然に他人を庇うその姿勢に打ちのめされた。
 何の怖れも見せずに、自分の為すべきを為そうとするその姿に、突っ立っているだけの自分の不甲斐なさを突きつけられた。
 悔しい、悔しくてたまらない。自分は、どうしたらいいか分からないからと自失しているだけだったのに。こいつはいとも簡単に……。
「とりあえず、下がってて。なんとかしてみるよ」
「でも氷上さん、なんとかって」
「うん、大丈夫。魔術は使えないけど、何も出来ないって訳じゃないんだ。大丈夫、任せて。ダメだったら急いで逃げてほしいけど」
「ま……待て、待てよ」
 ようやく、固まっていた足が動いた。薫は今更のように左手に掛かる重みを思い出していた。何を呆けていたのだろう。何のために、自分はこの左手にある刃を手にしようと思ったのだ?
 薫は自分の身体が嫌いだった。普通に生きる事も許してくれず、常に苦痛を突きつけるこの身体を呪っていた。いつだって心の何処かで、子供がこんな風になると知っていながら自分を生んだ功刀を恨んでいた。そんな母親を恨む気持ちを消せない自分が何よりも嫌いだった。大好きな母を恨まずにはいられない自分の弱さが許せなかった。
 だが、こんな呪った身体だからこそ、栞を助ける事が出来たとき。思ったのだ。こんな(いびつ)で出来そこないで九十九埼功刀の劣化物に過ぎない自分の力でも、誰かを助けられるときがあるんじゃないかと。だから、剣を取ったのだ。自分を呪うよりも、自分を肯定するために。
 そう、功刀に教えを請うたのは、まさにこんな時の為だったんじゃないのか?
 必要なとき、自分の力を自分の意志で使えるように。この力が、誰かを守れる力となれるように。
 何を、呆けていたのだろう。
 今がまさに、その時じゃないか。
「オレが戦る!」
「か、薫くん!?」
 今、一番前に出るべきは北川薫であるはずなのだ。この中で唯一戦う手段をもつ、この自分であるべきなのだ。断じて、こんなうさんくさい男であっていいはずがない。
 そうだ、栞を守るのはこいつじゃない。
「お前なんかに、栞を任せられるかよ」
 さすがに驚いたように、氷上は薫に一瞥をくれた。浴びせられた言葉を噛み締めるように氷上は目を瞬くと、こんな状況にも関わらず心底から楽しそうに口元をほころばせた。
「困ったな、僕の言葉、信用されてないみたいだね。いや、それとも何かな。その言い草だと、もしかして嫉妬されてるのかな?」
「え……え? え?」
 場違いと言えばあまりに場違いな言葉に、栞は目を白黒させた。
 一方の薫は、氷上の軽口に応じるような精神的余裕など残っていない。狂犬さながらに血走らせた目を、怪物に向けながら、左手に握る同田貫に右手を添える。
「いいからそこを退けよ。オレの方が先約なんや、このバカ女の面倒みるって決めたんは。だから、あんたはすっこんでろ」
「か、薫くん、な、なに言ってんの……ってか、誰がバカ女だー!」
 ピタリ、と怪物が体を揺するのを止めて、ギョロギョロと動かしていた四つある複眼を一斉に此方に向けた。栞は咄嗟に自分の口を手で覆ったが、後の祭り。怪物は栞たちを破壊対象に見定めたらしく、首を上下に揺さぶりながら此方へと近づいてくる。
「早く、さがれ!」
 薫が怒鳴る。氷上がどうすると問い掛けるように栞を振り返る。
 迷ってる時間はあまり無い。栞は混乱をきたしながら、斜め後ろから垣間見える薫の横顔を窺った。大量の汗が滴り、顔色は真っ青だ。食いしばった歯は、震えを押さえてのものだろう。まるで空気の薄い高山にいるように呼吸も荒い。とてもではないが、平静には見えなかった。後一押しで心が砕け散ってしまいそうな、そんな限界ギリギリにまで精神が張り詰めているように見える。
 だが、だからこそ、伝わってくるものがある。この子は本気だ。本気で、自分たちを守ろうとしている。
 栞は頭を掻き毟りたくなった。
 本音を言えば、このまま有無を言わさずこの子の首根っこを引っ掴んで一目散に逃げ出してしまいたかった。あんな化け物と刀一本で戦おうだなんて、虎やライオンに素手で立ち向かおうとするのにも等しい愚挙だ。引き止めるのが常識だろう、止めさせるのが正しかろう。ましてや、この子はまだ十三歳の子供に過ぎないのだ。
 たった、十三歳なのだ!
 三年早い、そう思う。子供の癖に、お子様の癖に、いっぱしの男みたいに格好つけるなんて真似をするには三年早い。なんてませたガキだ、なんて生意気なクソガキだ。
「薫くんの癖にっ!」
 だが、状況は彼の行動が正しい事を示している。逃げるなんて論外。ここは戦う術を持つ薫に任せるしかないのだと、それぐらいわかってる。判る頭が憎らしく、これが正しいだなんていうこの世の理をぶん殴ってやりたかった。
 行き場の無い憤りが胸を焦がす。栞は苦渋を噛み締めた。
 お姉さん気取りで偉そうにしておきながら、肝心なときにこれだ。お姉さんというものは、いざというとき妹や弟を庇って助けるもののはずなのに。何があっても守ってやるのがお姉さんのはずなのに。それが栞の思い描いた理想だったのに。
 栞は感覚がなくなるほど拳を握り締め、この屈辱と悔しさの元凶を怒鳴りつけた。
「薫くん、あとで覚えてなさいよっ! 絶対シメてやる、こんちくしょー!」


「……なんで罵られとんのや、オレ?」
 栞と氷上が後ろにさがっていく足音に耳を澄ませながら、薫はあんまりと云えばあんまりな一言に脱力した。別に頑張ったらキスしてくれる、などといったたぐいの激励を期待していたわけではないが――なにしろ相手が栞だし――まさか恨み節の捨て台詞を吐かれるとは。
 情けない笑みが自然と浮かぶ。あんなのにオレが惚れてるってのか? 勘弁してくれよ、香里姉ちゃん。
「若気の至りにも程があるわ」
 右手のひらを濡らす汗をズボンにこすりつけて拭い取る。
 さっきまでガチガチだったのに、いい具合に身体から力が抜けていた。あんなバカでもたまには役に立つらしい。
 腰溜めに構えを取り、刀の柄に手を添えながら、キッと標的を見定める。
 功刀に教えを請うてから、まだ僅かに二ヵ月半。無きに等しい歳月である。たった二ヶ月半の修練で、これまで運動もろくにしてこなかった人間が強くなれるほどこの世の常識は甘くは無い。たとえ、その身に常軌を逸した力を秘めていたとしてもだ。いや、満足に制御も出来ない力など、余計な足枷でしかない。
 だが二ヵ月半、この時間は無ではない。無に等しいのだとしても無ではない。いや、それどころか……。
 薫は不承不承ながら功刀に感謝した。あのダメ人間は人格も物の教え方も悲惨の一言だが、少なくともその無に等しい二ヵ月半で、このポンコツに戦えるだけの余地を仕込んでくれた。
 薫は功刀の教授を反芻する。
 基礎体力をつけるトレーニング以外に、薫が功刀から教わったのは、抜刀から納刀までの一挙動、いわゆる『居合い』と呼ばれる業にまつわる制御法、ただ一つだけであった。
 功刀の肉体で稼動する数百を越える生体術式の大半を受け継いだ薫であったが、その殆どを拒絶反応から封印によって休眠化させている。肉体が成長してきてからは耐性がついてきたためか、ある程度術式の起動に耐えられるようにはなってきてはいたものの、その扱いに関しては生まれた時から呼吸するのと変わらない感覚で術式の制御統制を行ってきた功刀とは術式そのものに対する価値観から違っている。おそらく、薫が功刀のような力を振るえることは無いだろう。チンパンジーに幾ら訓練を施したとしても、彼らがシェイクスピアに並び称される戯曲を創作する日はこないのだ。
 だが、チンパンジーがシェイクスピアをタイプする日はくるかもしれない。
 そして功刀が薫に求めたものは、類人猿に電脳機器の使い方をマスターさせるよりは容易いものであった。


「筋肉の強化や反応速度の加速なんてのは、重要やけど大事やないんよ」
 鍛錬を始めてまだ間もない頃、晩御飯を食べ終わった後の席で功刀は薫に語って聞かせてくれた。
「最優先すべきなんは、精密で細密で緻密で高速柔軟な状況分析と自分の体の完全な制御やね。これさえ出来てれば、大概のやつには負けへん」
 そう言って、功刀はサラダの選り分けに使っていた菜箸を薫に握らせ、室内電灯から垂れ下がっている紐の先にくっついている小指ほどもない小さなプラスチックの塊を指差した。
「あれ、ちょっと突いてみ?」
「また行儀悪いことを」
「ん、ええから」
 渋々言われたとおりにやってみたものの、菜箸の先端はなかなか紐の先端には当たらなかった。当たってもかする程度で紐は真後ろには跳ばずに左右に跳ねる。薫はムキになって何度も繰り返したが、停止してる状態でも当たらないのに、左右に揺れ始めたらもう掠りもしなくなった。
「案外当たらんやろ。目測が不正確、肩から腕、指の先までの力の伝達が上手くいってない、箸を持った指の制御のブレ、まあ色々やけど、人間ってのはこのくらいのこともちゃんと出来へんねや。自分の身体を制御しろいうんは、自分のイメージ通りに自分の身体を動かせるようになれ言うことや。勿論、それが簡単に出来るんやったら誰でも達人になれるんやけど」
 腹が満たされたためか眠たそうに目をこすりながら、功刀は首筋をツンツンと突いた。
「薫にはこれがある。私らの生体術式には肉体制御に纏わるソフトも沢山入ってるんや。でも、制御系術式だけ言うても薫やと長時間の術式稼動には耐えられんやろしな。制御系はリアルタイムで更新させてかなあかんし。かといって、大規模な肉体強化・改造系術式の行使は薫の体には負担大きすぎるし、戦況に応じて術式統制の規格を切り替えるのも……、術式情報処理に計算速度、バイパスデサントや術式連結アプローチの論理プロトコル共通化がトロすぎて実戦向けとちゃうし……ダメダメやな、自分」
「なんかようわからんけど…ダメダメとか言うな!」
「まあ現状やとワンアクションが限界か。まず一つの動作に集中特化して、生体術式へのアプローチ概念を習得していく方が早道かもな。となると、術式統制のコンディションを一つの戦闘規格に最適化していくんがまず最初にやらなあかんことやねんけど……、ワンアクションかぁ。なにがええかなあ。わりと必殺っぽい方が教える私もおもろいし、んー」
 教える方の面白いつまらないで決めないで欲しいな、と思いつつ薫は訊ねた。
「なあ…それって結局、具体的になにをやるんや?」
 んー、と献立を考えるように天井を仰ぎ、功刀は言った。
「居合いなんかどない?」


 そうして貰ったのが、実践本位の豪刀として知られる同田貫正国。それも本来二尺五寸あるものを、居合い用に二尺強――70センチ弱に刀身を切り詰めた同田貫。銘【綿切り】だ。
 第三世代MBTの正面装甲すら断ち斬れる(庭先に「るくれーる」の札付きで転がってる金属塊が本物であればだが)という功刀の差料【播磨守鉦継】の二振りと比べれば格落ちだが、この【綿切り】も、その刀本来の持つ切れ味を最大限にまで引き出す霊装【斬伐式】が施され、霊体すらも切り伏せ浄化させる力を秘めている。たとえ持ち主に何の霊力が無くても、擬似的に霊的感覚器官『第三眼』を開眼させ、悪霊風情なら易々と切り捨てるだけの霊威を備わらせる事もあるという一級品の霊刀だ。
 こと抜き打ち動作のみに限定するなら、この二ヶ月半の鍛錬で【綿切り】は手足の延長のように馴染んでいる。
 この霊刀ならば、ある程度までなら北川薫の未熟を補ってくれるだろう。これに最適化作業中の術式統制・抜刀法戦闘規格『赤蜻蛉』を練習通りに稼動させる事が出来れば。
 北川薫は戦える。
 だが。
 はっきり云って、今の薫にはいわゆる『居合い』以外の事は何も出来ない。多分、抜いた刀を満足に振り回す事も出来ないだろう。刃筋を立てる事ができない以前に、間違いなく自分の足を斬る。振り回した刀に逆に振り回されてすっ転ぶのが関の山だ。生体術式の補正を受ける『居合い』動作以外の範囲では、薫は単に真剣を握って二ヶ月弱の体力不足の子供…それも、居合い以外の挙動は素振りもまともにした事のないいびつな真剣修練者――素人にすぎない。
 戦えるといっても、薫の牙は本当に抜き打ちただ一つだけなのだ。本来の居合いにあるべきトドメの二太刀も薫には存在しない。ひたすらに、抜きから納めの一つだけ。
 それでも、ここで退くことは能わず、敗北は許されない。
 感情の一欠も窺わせぬまま蟲のように近づいてくる黒い怪物。視界を圧する巨体を睨み据えながら、北川薫は己の芯に言い聞かせる。
「負けるかよ。負けるもんか」
 父のように正しくありたいと願ったから、母のように強くありたいと決めたから。
 北川薫があの二人の息子である事実を誇りとする以上、守るべきものを背にしての敗北の二文字を否定する。
「来い、化け物。ぶった斬ってやる!」
 殺意に呼応するかのように、触手の鬣が逆立った。俄かに近づく足を早くして、節が四つある長い腕を振り被った。蝿のように薫を叩き潰し、そのまま背後の二人を襲おうという所存なのだろう。
 満を持し、薫は封印解除(プロテクトキリング)文言(アトラクション・コード)を唱えた。
「急々如律令・戒解!」
 首筋に埋め込まれた小さな小さな勾玉状の痣が鉱石の輝きを帯び、仄かな翠の光を放つ。休眠化していた生体術式が一斉に覚醒した。無秩序に蠢き出そうとするそれらを、薫はこの二ヵ月半の修練通りに捻じ伏せ、停止させ、叩き潰し、最低限の術式を稼動し、導き、パズルを組み立てるようにして一つの規格に収斂させていく。
 全なる一(オール・イット・ワン)戦闘規格(コンバット・アリア)――瞬撃斬座(シュンゲキザンザ)赤蜻蛉(アカトンボ)』。
 この身、抜き撃つだけの兵器と化す。
 そうこれから始まる戦いは、額と額に銃口を押し付けあった状態からの問答無用の零距離砲戦。直撃すれば即昇天のキル・オア・キル。
 怯えるな、歓喜しろ。
 汝、八つ裂き(ヤツザキ)九断(クダン)の上を征く九十九裂き(ツクモザキ)の血族なれば、その身(ヤイバ)の化身なり。
 ならば死戦を怖れる無かれ。
「――――ジッ!」
 蹄に似た怪物の爪先が、抜きの射程に侵入する。全身の筋肉神経血流細胞の一片までが、刃の射出にシンクロした。最適化完了、全術式精度、履歴上最高階梯に到達。総べて良し(オールグリーン)。鯉口を切り、斬断のターゲットポイントをロック。射程距離侵入と同時に抜と――
「――――ッ!?」
 頚椎か胴、一太刀両断にて行動不能に追い込めると斬断照準を定めた部位が刃圏の内に入る直前、状況解析を補正する戦闘情報処理術式の複数式が、視覚野に生じた異変を捉え脅威度最優先と判定し警報を掻き鳴らした。
 真上に振り被った凶腕の下、醜悪な頭部がそれこそ鰐のように大きく顎を開いていた。下顎と上顎の間の空間、タールのような唾液が滴る牙の隙間に、青白い星を象る魔法円が浮いており、凝縮された火の玉が星の中心より迫り出してくる。
 見誤った。敵は、此方を燃やしてから叩き潰す所存らしい。怪物を沈黙させられる急所が刃圏の内に入るより早く、炎弾は発射されてしまう。
 だがこの身は不動の斬撃砲台。大地に根ざした木の如く、退けず、動けず、躱せず、避けず、逃げられず。ゆえに為せるは抜刀による迎撃のみ。

 ならば――
「全部――」
 ――撃ち墜としてやる!!

 薫は即座に斬撃管制術式(SCS)を最活性化、胴に定めた照準を、敵の口蓋へと修正した。

 抜刀(テイクオフ)

 鞘内を、疾りて刃が翔び出るさまは、無数の敵機が押し寄せる、天空に向け翔け昇る邀撃機の離陸の在り様そのままだった。
 刃の軌跡は怪物の口内に生じた魔法円を真一文字に両断し、その身外界に晒すを愧ずように直下に鞘へと舞い戻る。抜刀から納刀までの軌跡は閃光、遥か背後にいた栞など抜いた事すら気付いていない。
 ガキン、と刃が鞘に収まりきった帰還の音がかすかに響く。重ねて、発現途中で基盤が壊れた炎弾が誤爆し下顎を吹き飛ばした。
 だが薫に猶予は無い。
 必殺の一刀を抜いてしまった薫のもとに、同じく必殺に足るだけの敵の繰り出す第二波が来る。
 多関節が重たい突端で大いに撓り、巨大な腕が振り下ろされる。頭部を損傷しようとも、既にその前に自動車だろうと平らに圧縮されそうな勢いはついていた。
 回避はなおも不可。一度体勢を崩せば、最適化された【赤蜻蛉】は解除され、再設定再連結に掛かる時間はこの戦闘下では無謀の一途。
 故に、さらなる迎撃。撃破。撃墜を唯是とする。
 されど薫は、既に必中を期さねばならぬ一撃を消費した。
 此方の業は、一撃一撃、鞘に納めなければ二の太刀を繰り出す事の出来ない居合い術。この攻防は、さながら零距離で、シングルアクションのピースメーカー、それともレバーアクションのウインチェスターを得物に撃ち合うような狂気の沙汰だ。
 だが少なくともこの一閃、抜けば銃弾よりもなお迅い。
 この瞬間、北川薫はまさに九十九埼の名に相応しい刃戯を見せた。

 閃撃抜刀(クイックドロウ)第二正射(セカンドアクション)

 納刀の響きが沈黙するを待たずして、第二刀の鯉口が切られる。
 火の灯った斬撃管制術式(SCS)は限界を超えて駆動する。測距から未来位置予測を無意識下で速やかにこなし、斬撃の軌道計算を弾き出し、制御術式の補正を受けて力点及び高角度修正。算出した高速動体――直撃コースを辿る敵腕撃との交錯点目掛けて、弧を描く斬撃を射出。
 残光は銀月を虚空に描いた。
 斬り飛ばされた怪物の腕が、地面の上を跳ねながら栞たちの足元まで滑っていく。
 そのままなら脱臼、もしくは腕の筋肉を引き千切る勢いで放たれた斬撃を、部分強化した膂力と姿勢制御、極微小規模に展開された慣性制御術式により静止させる。手首を返す。刀身は銀光を閃かせ、一筋の月光のように腰ダメに固定された黒鞘へと納まった。
 二度目の納刀による鍔鳴り。同時に薫の右こめかみが血をしぶき、怪物の腕の切断面から乳白色の気体が噴出する。
 薫はわずかに呼気を吐いた。その吐息は火傷しそうな熱を持つ。
 互いに互いを間合いに入れての必殺同士の一撃交差。二撃交わり、ここに一度の空白を得る。薫は指先ほどの容量の、僅かな空気を吸い込んだ。
 怪物が、残された左腕を振りかぶろうと身を捩る。が、その体はバランスを失い大きく前のめりに崩れようとしていた。
 対して、薫は既に再び正位置へ。
 此処に、両者の後手先手は逆転し。刃抜き撃つその前に、生死の配分は決していた。

 第三合。
 三刀目の鯉口が切られる。
 




 離れた場所から見ていたはずなのに、栞の眼では何が起こったのかなど殆ど判別不可能だった。突然、怪物の顔が爆発したと思ったら、殆ど同時に怪物が振り下ろした腕が肘からすっぽ抜けたように此方に吹き飛んできて、そして――。
 慌てて滑ってきた腕を避け、足元から再び視線を戻したとき。栞たちが見たものは、斜めに裁断されてずれ落ちていく怪物の上半身と、刀を振り終えた姿勢のまま前のめりに倒れていく薫の姿だった。
「薫くん!!」
 怪物がまだ生きているかどうかなんて頭のどこからも吹き飛んでいた。決着がついたのか、安全かどうかも確かめず、栞は倒れた薫のもとへと駆け寄った。勢い余って行き過ぎて、青白い炎をあげて燃え出した怪物の残骸に突っ込みそうになる。慌てて踏ん張り、地面に倒れこむようにして勢いを殺し、そのまま四つん這いで薫の所まで這い寄り頭を抱き上げる。そして手にべっとりとついた血に悲鳴をあげた。
「ぎゃあああ、血がぁぁぁ!?」
「落ち着いて栞さん。傷はそんなに深くない、というか指で抉ってるから」
「えぅっ!?」
 後を追ってきた氷上に指摘され、自分の指が思いっきりこめかみの引っ掻き傷をグリグリほじっているのに気付いて、栞はハッと手を離した。離された薫の頭部は当然の如く自由落下。
 ――ゴンッ。
 何気にヤバげな音がした。
 あからさまに「やっべえ」という顔になった栞は、えへんと咳払いをして、
「くっ、化け物め。最期の力を振り絞って薫くんにトドメを!? アンソニー!!」
「やったんはお前やろうが!! ってか、誰があんそにーやねん!」
 ガバッと起き上がった薫が宝塚風に熱演していた栞の喉を締めに掛かる。おでこに滲んでいる血は、少なくとも戦闘で生じたものではない。
「ぎ、ギブギブ、さっきのは事故ですから、ノーカウントノーカウント」
「やったら今の犯人捏造発言は一体なんや…ね――ふえ」
 そのまま首を捻じ切る勢いだった薫の腕から、不意に力が抜け落ちる。そのまま薫は骨を抜かれたように脱力して崩れ落ちた。パフンと胸に顔を埋めてきた薫を慌てて抱きとめる。
「ど、どうしたの薫くん。やっぱりどっかやられたの? それともここぞとばかりにセクハラですか!? このおっぱい星人めおっぱい星人め♪」
「どうしてまた嬉しそうなのかな?」
 さすがの氷上も呆れ気味だった。
「いえ、胸が貧しい貧しいと言われ続けた身なもので、何故だかちょっと何となく」
「そうなんだ。でも、その様子だとセクハラじゃないみたいだよ」
 氷上の言う通り、薫は熱病に冒されたようにグッタリと力を失っているようだった。栞は、今になってようやく、以前彼が初めて力を使った時のことを思い出した。あの時は、この子、喀血したんだった。どうやら今回は血を吐く様子はないものの、あの時と同様に身体が動かないらしい。
「薫くん……」
「力の配分、失敗…した。力、入りすぎて、初めてやったから。本当はもっと、こんなことならんのに。うまいこと、力もセーブできるようになってんで。ほんとやで……」
「大丈夫、薫くん、強かったし、格好良かったよ」
 身体が動かなくなった事が悔しいのか、薫はまるで大失敗を犯してしまったかのように表情を歪めている。そんな薫の頭を膝に乗せ、栞は優しく癖のある髪を梳いた。
「本当に、無茶しないでよ、もう。私、怖くて死んじゃうかと思ったんだからね。薫くんの癖に生意気なの、このバカチビ」
 意識は朦朧としていたものの、栞の手付きや声は薫の胸の奥を容赦なく擽り、まだ十三歳の少年はなんだかたまらなく恥ずかしくなって、顔を背けた。
「……思い出したらなんだか腹が立ってきたぞー。そうだよ、子供のくせにでしゃばって、人が心配してるのに偉そうに無視して。えぅぅぅ、薫くんのくせに格好つけるし、強いし生意気だし銃刀法違反だし勝手に怪我までしてるし」
「怪我は主に栞さんの仕業だけどね」
「氷上さん、爽やかに一言多いです」
 ギロリと睨まれ、氷上は両手を挙げた。
 な、なんかまた怒り出してるし。ってか、なんでオレが怒られなあかんねや。
 急速に機嫌を悪化させていく栞に対し、薫は逃げようにも抵抗しようにも反論しようにもまともに動けないし、口も回らない。
 絶望的な状況だった。
「シメてやるって言ったけねえ、薫くん♪ クケケケケケケ」
「イタッ、痛い、デコピンはやめ、イタッ」
 ビシビシビシビシと動けない薫目掛けてデコピンの雨霰が降り注ぐ。薫がようやく動くようになってきた腕で顔を庇おうとした瞬間、
「し、栞、上!!」
 愕然とした薫の怒声が轟いた。
 地面が揺れる。ついさっき、感じたばかりの着地震動。だが、その音は、今度は一度で収まらなかった。まるで土砂崩れでも起きてるように、止め処なく地面が揺れる、揺れる、揺れ続ける。
 ようやく震動が収まり、公園にしじまが戻る。だが、栞も、薫も、氷上も、誰一人口を開かず、瞬きすら忘れたように硬直していた。
 栞は思った。
 氷上さんでも、あんな蒼白な顔をするんだ。
 多分、自分はもっと酷い顔色だろう。
 目の前に現われた怪物の、そして薫との戦闘のインパクトが強すぎて、綺麗サッパリ忘れていた。
 さっきと同じ怪物が、何匹も何匹も、頭の上を飛んでたってことを。
 まるで蜂のようだった。
 一匹が攻撃を受ければ、攻撃性を高めた仲間が際限なく集まってくる蜂のよう。

 日常の景は、見るかげも無く無残に蹂躙されていた。見渡す限りの黒の塊。もはや、見慣れた景色は見るかげも無く、その存在により蹂躙された。
 絶望がそこにある。
 栞たち三人は、五〇を越える悪魔の群れに囲まれていた。

「栞、逃げろ」
 薫のかすれた声に、栞は引き攣るのも通り越した締まりのない顔で笑った。
「無理だよ、薫くん動けないんだし」
「あほかっ、オレは置いてったらええやんか」
「怖くて泣きそうな顔してるくせに、生意気に強がらないの。さっきは薫くんが格好つけたんだから、ちょっとはお姉さんらしい真似させなさいよ」
 怪我した額にもう一度デコピンを食らわし、栞は傍らに立つ氷上を見上げた。
「そういう訳なんで、氷上さん。私たちはいいんで、逃げちゃってください」
 その惚けた言い草に、たまらず氷上は苦笑した。
「周り全部を囲まれてなかったら、考えたんだけどね」
 全周三百六十度、怪物の姿で埋め尽くされて、逃げ出すような隙間などどこにもない。
 栞は擦れた声で笑い声らしきものを発した。
「むう、そこは氷上さん、台詞が違いますよ。『そんな事はできない、僕も最期まで付き合うよ』とか『最期まであきらめるんじゃない!』とか、そういう事を言わなくっちゃ」
「気障な台詞はガラじゃないんだ。それにしても、本当に君は肝が据わってるね。この期に及んで」
「そんな事ないですよ。正直、泣いちゃうそうです。めちゃくちゃ怖いし、実は腰抜けてるし」
 口元には微笑を浮かべ、だが言葉通りに怯えきった目で、栞は包囲の輪を狭めてくる怪物の群れを見渡した。
「でも性分で。弱いところを見せたくない人の前では、際限なく強がれるみたいです、私って」
 見栄っ張りですかね、これって。そう言って、栞は恐怖と無力への悔しさで震えている少年の髪を優しく梳き、その手をギュッと握り締めた。
「大丈夫、私が付いてるよ」
「…しおり、ごめんオレ、オレ」
「いいって、馬鹿だなあ、もう」
 それはいっそ侵しがたさすら感じる、胸打たれる情景だった。
 敬意とともに氷上は無言で栞から視線を外す。おそらくそれで、迷いは消え去り覚悟が決まった。
「これが、僕の運命か」
 それも良し。
 諦観ではなく、前向きにそう思えた自分を氷上シュンは、少しだけ誇らしく思った。

 ダムが決壊するように、我先にと悪魔たちが襲い掛かってくる。

「臆病であるがゆえ、いかなる死も僕は拒絶し逃げ惑う」

 青年の双眸が、蕩けるように透明と化した。














<< >>


章目次へ






お名前(任意でどうぞ)

一言、コメント、ご指摘ご感想、なんでもどうぞ。





inserted by FC2 system