< 11:10  国道四号線より東方七〇〇m 市街東地区住宅街 >


「落雷?」
 井上義行は遠方より響いてきた震動に足を止めた。
 一瞬、視界を真っ白に染め上げた閃光。独特の大気の震え。巨大な雷が落ちてきたとき特有の現象だ。だが、それはおかしい。自分が発した言葉の異常さに思い至り義行は晴れ渡った空を振り仰いだ。ここは隔離結界内である。位相差空間移行時から天候は固定されており、変化する事はありえない。
 ならば、雷系の術式が行使されたのか。
「まさか、もう神剣が顕現しはじめているの?」
 傍らから聞こえた呟きが己の考えと重なり、我知らず義行は静芽の横顔に目を向けた。そうして小さな驚きを抱く。何を考えているか分からない、捉えどころのない表情を滅多と崩す事のない望月静芽に、僅かにだが焦燥が垣間見えていた。
 そう、焦燥だ。予期せぬ事態への焦り。
「急ぎましょう、若」
「あ、ああ」
 静芽に促がされ、義行は歩き出す。だが違和感は消えるどころか膨らんでいく。静芽が行動を急かすような言葉を発する事そのものが、彼女のやる気のない、もしくは上に意の通りに動くに徹するスタイルからすれば奇妙であった。
 ふと義行に疑問が生じる。贄の祭壇の起動にも動じた風を見せなかった望月がどうしてこの場面で焦りを見せるのだろうか。焦るのなら吸精結界が起動した時点ですべきではないのか?
 ――彼女は何かを知っている。
 少なくとも、自分の知らない情報を掴んでいる。だからこそ、彼女は自分が理解できない理由で慌てているのだ。
 望月も、私に何かを隠しているのか。
 義行は肩が重くなるのを感じた。彼女だけは自分の側に居てくれる人間だと思っていたのだが。いや、結局都合の良すぎる願望だったか。偶々、側についただけの人間に一方的な期待をしていた自分が惨めになる。立場が上の人間からこんな風に寄りかかられては、望月も迷惑だっただろう。
 しかし、なるほど。つまるところ何も知らないのは私だけなのか。私は何も知らない。何も分かっていない。今何が起こりつつあるのか、全く分かっていない。この状況を引き起こした主犯である筈の自分が、だ。
 聞かされていた神剣顕現の為の儀式結界と先ほど起動した結界は明らかに性質が違う。にも関わらず、神剣はちゃんと顕現しつつあるらしい。そも、説明されていた内容の根本からが虚偽だったのだろう。これでは、自分がこれまで信じてきた事柄にいったいどれだけの嘘が含まれているのか分かったものではない。まさしく何もかもが信用できない、というやつだ。
 事態は完全に自分の手を離れつつある。
 胸の真ん中に虚ろな風が吹く、そんな風に義行は今の心地を思い描いた。自分は何をしているのだろう。いつの間にか自分だけが事態の中心から外れてしまっている事に、いや中心どころか外側に追いやられていたことに義行は今ようやく気付きつつあった。悩み苦しみ幾度も後悔しながらも、皆の手綱を握り先頭に立ち、道無き道を切り拓いて進んでいるつもりだったのに。
 これでは道化そのものだ。
 いや、いやいやいや。それはいい。それはいいのだ。それは事前に承知していた事だ。受け入れていた事だ。道化や飾りという立場に置かれる事は予想できたし、ある程度覚悟していたはず。井上義行という男に皆を導くだけの器量がないことは自覚している。自分に出来る事は皆が纏まりやすいよう旗印となること、あとは皆の行動の全責任を負うことだけだ。そう、覚悟していたじゃないか。
 そう、自分はこの叛乱の長なのだ。そうであらねばならない。義行は改めて己に言い聞かせた。たとえ器にあらずとも、自分にはこの叛乱に参加した者たちへの責任がある。彼らを守る責務がある。
 事態を把握しなければならない。もし状況が暴走の方向へと逸脱しつつあるのなら、それを正さなければならない。
「いや、だが」
 急いてはいまいか、と義行はキリキリと絞られていく思考を押しとどめた。
 自分は思いつめすぎてはいないだろうか。情報から隔離されたことで過剰に反応しているのではないだろうか。そう思えば、自分の頭の方が暴走しているように思えてくる。
「そう、考えすぎかもしれない」
 皆には高梨先生がついているのだ、彼がはたして暴走を許すだろうか。自分に多くの事実が伏せられていたのも、あの人の考えあってのことではないか。自分のような若造の目に暴走と映ったとしても、単に高梨師の深慮を見抜けないだけという事も……。
 わからない。何をどう考え、判断していいのかわからない。何もかもが信用できないと言うのなら、一番信用できないものこそ自分自身だ。自分の判断こそが最も頼りなく信用に値しない気がしてくる。自分が、他人や物事を引っ張る事に向いていないと自覚している分、現状の自分が置かれた立場への不信感は顕著となっていた。
 怖い、とそう思う。怖くて仕方が無い。今までガムシャラにやってきたから気がつかなかった。いや、気がつくまいとガムシャラに必死にやってきたのだ。だが、指針も無く頼る相手もいない中に放り出され、何をなすべきか何を信じるべきかも分からぬ中、責任だけは消えないまま判断を強いられる。それが、たまらなく怖かった。そして何より、自分の浅慮な判断が、皆の働きすべてを台無しにしてしまうのではないかという事が。
「望月、待て……待ってくれ」
「どうしたのです、若」
 突然歩みを止めた義行に、静芽は苛立ちを隠そうともせず眦を吊り上げた。
「高梨師のもとに行くのは止めよう。我々は事前の予定通りに神剣を捜索する」
「……どういうことです」
「どうもこうもない。儀式の進行は高梨師に一任しているんだ」
「何を言っているんです? 事前の報告と儀式の進行内容が違うから、それを問い質しに行くのでしょう?」
「望月……」
 声を刺々しくする静芽を、諭すように義行は言った。いや、諭す相手は彼女ではなかったのかもしれない。
「私は、彼らに任せたんだ。任せたんだよ。ならば、最後まで信頼して任せるべきなんだ。私には生憎と皆を引っ張り導いていく才能は無いらしい。だから、私に出来る仕事は彼らを信頼する事、そして彼らの行動に責任を取ることだけだ」
「……若」
「部下を信頼できない頭に誰がついていく? 私は、ここで山浦衆を不信で瓦解させるわけにはいかないんだ。私はね静芽、無能かもしれないが無責任ではいられないんだよ、仮にも井上家の男としては」
「…………」
 静芽はじっと青年の横顔を見詰めた。自分の発した言葉に懸命に縋ろうとして、そのもっともらしい論理と裏腹な空虚さを無視できずに迷う男の顔を。
「若、ならば尚更高梨の下に赴き、説明を求めるべきです。それでは、そのような考えでは責任だけを押し付けられてしまう。責任とは、何が起こっているかを知った上で負うべきものではないのですか?」
「高梨先生なら上手くやってくれる」
「それは信頼ではありません。単に考えることをやめて高梨に預けてしまってるだけじゃない」
「……そんなことは」
「無いと、言い切れるんですか? そういう態度こそを無責任というのじゃないの!?」
「…………」
 張り上げた声は怒声のようで、記憶に無い静芽の頬を叩くような言葉に、義行は言葉を詰まらせた。彼女の言葉に正しさも感じ取っている。
「こんな所で怖気づいて投げ出すくらいなら、最初から責任なんて背負わないでください」
 失望させるなと、そう言われているような気がした。
「私の考え方は……無責任か」
「中途半端なんです。投げ出すのなら、全部投げ出してしまえばいい。そうして逃げ出してしまえばいいのよ。でも……そんなこと、貴方には出来ないのでしょう?」
 だから、と懇願するかのように静芽は小さな声で訴えた。
「せめて、他人に運命を預けるような事はしないで下さい。若」
 静かな言葉が棘のように突き刺さる。痛みに義行は顔を顰めた。やはり向いていないのだ。人の上に立つなんてことは。この期に及んで、何をすべきかが分からない。判断できない。だから、彼女のように下につく者を失望させてしまう。
 なら、どうすれば失望させずに済むのだろう。これまでどおり、ただ必死に己が置かれた立場を全うしようとし続ければいいのだろうか。わからない。どうすればいい?
 苦悩を押し殺し、義行は言った。
「……わかった。とりあえず状況を把握しておくべきだというのはお前の言う通りだ。高梨先生の下に赴こう。だが、私があの人を信頼している事は変わらない。彼に一任しているんだ、途中で指揮権を取り上げる真似は出来ないし、するつもりもない」
「若……」
「? どうした、望月」
 目的地に向かおうとした義行は、だが静芽がその場から動こうとしないことに気付き、訝しげに立ち止まる。怪訝を浮かべていた顔は、すぐに驚きと戸惑いの入り混じったものへと変化した。
 静芽は、その場に片膝をつき、まるで主君に対するように頭を垂れていた。
 いや、主と家臣という立場はその通りなのだが、望月静芽という女の普段からの不遜な態度を鑑みるならば、それは驚愕に値した。
「若」
「ま、待て望月、いったいどういう魂胆――」
「高梨を信用してはいけません」
 一瞬、聞いた言葉を上手く認識できず、間の抜けた顔で聞き返してしまう。
「なん……だと?」
「あの男を信じてはいけない。あれは貴方の思っているような男ではないの。あれは、貴方の味方じゃない」
「……何を言っているんだ、お前は」
 冗談か? もしかして緊迫した場を和ますための戯れ言か? こういう場面では合わせて笑うべきなのか?
「は、はは」
 笑おうとして笑うに笑えず、義行は意味も無くネクタイの結び目に手をやり握り締めた。
「馬鹿な事を言っていないで、急ぐぞ。油を売っている時間は――」
「若!」
 聞け、というのか。真剣に。戯れ言と無視するなと、そう言いたいのか。
 やめてくれ、と叫びそうになる。これ以上聞けば、本当に自分の為すべき事を見失ってしまうような気がした。それでも、聞かざるを得ない。義行が長であろうとする限り、部下の進言を一言も許さず封殺するような真似は出来なかった。
「高梨の目的は妖を討つことではありません。ましてや、山浦衆を守るつもりなど毛頭無い。叛乱を煽ったのは誰でしたか。神剣の存在を最初に皆に伝えたのは誰でしたか? 一連の出来事の過程を思い返してください、予断を排して皆の言動を考えてみてください。分かるはずです。巧妙に、決して前に出ず、誰にも印象付けずに、事態を煽っていたのが一体誰なのかが」
「…………」
 高梨陽明という男が山浦衆に加わったのは、今から十年前の事だった。血族のみで構成される組織に外部の人間を招くことは稀である。血筋による結束は排他性の裏返しである。なおかつ、山浦衆の起源は隠れキリシタンに端を発する隠匿こそが至上命題であった西洋魔術の系統であった。他の魔道組織よりも遥かにその閉鎖性、排他性は高い。たとえ組織に名を連ねる事となっても外から来た人間は阻害され排斥されるのが関の山のはずだった。だが高梨は誰もが予想した道を辿ることは無かった。その際立った能力ゆえか、はたまた人柄ゆえなのか。いつの間にか頑なな山浦の人々の心を解きほぐし、かの人は老若男女を問うことなく信任を得ることに成功していた。若者たちは挙って彼を先生と呼び慕い、同輩や老人たちは妬心を抱くことすら思いつかずに彼を頼りにした。彼が重臣の地位を得るにはさほどの時間は掛からなかった。
 地位を得て、何かが変わったかと言うと、さして変化があったわけではない。自分が元は外の人間であったことを忘れずに、周りを立ててでしゃばらず、それで居て一族のための尽力には労を厭うことをしなかった。先生の肩書き通りに山浦衆の魔術指導を担い、義行を含め山浦の若者の殆どは彼の薫陶を受けている。既に、彼は山浦には無くてはならない人物になっていた。
 今回の叛乱も、彼が義行の側に立ち支えてくれなければ早晩瓦解していただろう。指導力の乏しい義行になり代わり、実質皆を導いてきたのは高梨だ。
 山浦衆で、能力だけでなくその人間性を含めて彼以上に信頼できる相手はいない。義行からすれば山浦の長である父親などより遥かに信頼に値する男である。
 そのはずだった。
「そもそも、あの男が山浦衆に加わる前に何をしていたのか、一体何者なのか、それ自体が分からないのです。われ…私が調べた限り、やつの履歴には裏が取れています。ですが、別の側面からアプローチした結果、高梨という男が存在したという確証がどうしても得られない。まるで幻影か書き割り」
「…………」
「若、あの男は危険です。どうか――」
「……黙れ」
 義行は、自分が狼狽しているのを自覚した。何故、このような埒もない諫言を一蹴できない。どうしてこんなに動揺している。
 考えてはならない、と頭のどこかで囁く声がする。静芽の言葉通りに考えをめぐらせてはならないと誰かが訴えている。
 そう、聞いてはならない。こんな、浅ましい。動揺するな、うろたえるな。ただ少しばかり、中枢から遠ざけられただけで、虚偽の情報を与えられたぐらいで、自分は恩師ともいうべき人に疑いを生じさせている。それが認められず、義行は激高した。否定する。否定しなければいけない。この疑念は薄汚い。自分の無能さを棚に上げた醜い心の在り様だ。
 否定しろ、否定しろ。打ち消せ、消し去れ。
 自然と口が開いていく。別の誰かが自分の口を借りたかのように、グチャグチャの頭の中とは裏腹の整然とした言葉が吐き出された。
「望月、もしお前の言う内容がその通りだとして。あの人が本当は私の味方ではないとして。それを何故今になって私に告げる」
 静芽はハッと目を見開き、視線を落とした。
「それは……」
「何故もっと早く私に言わない。儀式は既に先生の手で進められているんだ。私に注意を促がすなら、もっと早く言っておきべきじゃなかったか? なぜ今なんだ。どうして、ここまで状況が逼迫するまで何も言ってこなかった」
 そう、何故なんだ? 自分の発した言葉で気付かされる。明らかに、彼女の言動はおかしい。論理的ではない。
 静芽は沈黙したまま頭をあげなかった。
「お前は不真面目で周りを斜めに見ているようなやつだが、己の好悪で他人を悪し様に語るような奴じゃないと認めていたつもりだ。だから余計に分からない。お前が何かしらの根拠があって高梨師に不審を抱いていたのなら、直接的でなくてもそれとなく私に伝える事はしていたはずだ。だが、今までお前はそんな素振りは一度も見せていなかったじゃないか。何故、今突然、そんな事を口にする」
 言い終えた義行は、伏せた静芽の後頭部から強張りが抜けていくのを見て取った。諦観、それとも決意か。何かしらの覚悟を感じさせる落ち着いた気配とともに彼女は顔をあげ、
「若、私は――」
「そこまでです。その女の言う事を聞く必要はありませんよ、井上さん」
 路地を曲がって現れた二人の女によって遮られた。
 静芽がバネ仕掛けの人形のように立ち上がり、身構える。
「お前たちはFARGOの」
 確か鹿沼葉子、それから名倉という名のFARGOから派遣された協力者。
「先ほどはどうも失礼しました」
 アジトで何の説明もせず車を乗り換えさせ追い出した件を謝しているつもりらしい。その儀礼的な態度に誠意らしいものは見受けられなかったが。
 静芽は一瞬毛を逆立てた猫のように警戒を露わにしたものの、すぐさま表情を消して義行の傍らに控えるように気配を押さえた。
「それで。一体なんの用だ。尾行者の件はあなた方にお任せしたはずだが?」
「それが、少々あ…高梨さんに雑用を頼まれまして。あの方は儀式の執行でお忙しいようでその代理、という形になりますか。使い走りのようなものです」
「雑用だと?」
 葉子は目を細め、影のように控えている静芽を見据えた。
「私、ですか」
 うんざりとした様子で静芽は首を傾けた。
「なんでしょう、生憎とFARGOの方に絡まれるような覚えはないのですが」
「覚えが、無いと?」
 葉子は僅かに片目を細め、鼻からスンと息を抜いた。そうして、隣に立つ友里に目配せする。それを受けて友里が懐から数枚の紙片を取り出しよく見えるように翳して見せた。
「では、これにも見覚えがないと?」
「それは、秘匿通信用の法式紙」
 思わず義行が声を発する。友里が取り出したのは山浦衆が独自に使っている呪符の一種だ。
「どうしてそんなものを貴方達が」
「これらは高梨さんからお預かりしてきたものです」
「高梨師に?」
 勿体をつけているのではないだろうが、窺うように此方に目を配り、反応を確かめてから彼女は先を続けた。
「どうやら、これを使って外部と連絡を取っていた方がいらっしゃったようなのです。それがどういう意味なのかは……おわかりですね、井上さん」
 義行は愕然と息を呑んだ。
「内通者、か」
「それがどなたかは、既にこの呪符のログを解析して判明しています。恥ずかしながら私は魔術式の知識が乏しいのでよく分からないのですが、魔力や術式には個人的な特徴や癖があるようですね。ある程度蓄積されたデータがあれば、それを照合する事で誰の術式によるものか判る場合があるとか」  義行に語りかけながら、葉子の視線は彼を捉えていなかった。貫くような眼差しは、じっと彼の傍らに控える女を差している。
「お話は途中からですが聞かせていただいておりました。なかなか笑えるお話でした」
 葉子は淡々と問いかけた。
「他人を信じるなと告げるその口は、己を糾弾しようとはしないのですか? 諫言は、まずおのが身を律してから述べるもの。獅子身中の虫が正義のように語るものではありません。その辺り、どのようにお考えかお聞かせいただきたいところですね、望月静芽……邑紙の密偵殿に」
 ザワリ、と空気が一変した。抜き身の敵意が露わとなる。今の一言とともに、葉子は剣を鞘から抜いたのだ。呼応して友里も葉子の傍らを離れ、ゆっくりとした足取りで義行たちを挟む位置へと歩き始める。
 義行は衝撃を隠せないまま、静芽を振り返った。
「馬鹿な。望月、どういうことだ? 何とか言え」
 静芽は一瞬普段のあの飄々とした態度を取り繕い何かを言おうと――
 崩れる。
 彼女は線が切れたように肩を落とし口を噤んだ。そうして沈痛な面持ちで義行の視線を受け止める。
「望月!!」
「…………」
「お前……」
 何故何も言わない、と義行は叫びそうになる。言い訳をしろ、抗弁するんだ。聞いてやる、信じてやる。知ってる筈だろうお前は。井上義行という男なら、愚かにもそれを聞き入れてしまうだろう事なんて。分かっているはずなのに。たとえ、本当に内通者だったとしても、だ。
 だから、無実だと自分に訴えるべきなのだ。なのに何故黙る、どうして何も言わない。
 言ってくれないんだ。
「下がりなさい、井上さん。その女は、貴方の暗殺を命じられています」
 鋭い葉子の言葉が飛ぶ。だが後ろへ跳んで距離を開けたのは、義行ではなく静芽であった。
「静芽!」
「貴方は人のことを信じすぎる。人の悪意を見ようとしない。だから、何も気付かないし誰の悲鳴も聞こえない」
 彼女は鼻面に乗せた銀縁眼鏡を外し、無造作に投げ捨てた。そうすると、意外なほど幼げな素顔が現われる。義行は彼女が自分よりも五つも年下であった事を今更のように思い出した。
「イライラするんですよ、そういうの。あなたのそういうところが、私は大嫌いでした」
「…………」
 絶句する義行に向けられた彼女の素顔には自嘲するかのような微笑が浮かんでいた。
「ご自愛を、若」
「しず――」
「ジェロス・エルムス・フィス・アン・ドレ・クル。リドル・ラグリグ・アムレーム。やさしき我が友、猛々しき疾風の牙よ。清浄なる赤き血の盟約によりて我が下へ来たれ…【ロベルカ】ッ!!」
 使い魔(ファミリアー)を喚ぶ力の声が迸る。襟元を緩める女の背後の虚空に、魔法円が現出した。生じた次元の水面から、のそりと巨大な前脚が現われ地面を踏みしめる。狭い檻から出るようにして這い出してきたのは、ダークグレイの毛並みをしたフェレットと呼ばれる生き物だ。ただし、その体躯の大きさは優にRV車ほどもあり、その額には赤紫の色をした四角錐の角が生え聳えている。
 甲高い鳴き声を発しながら雄雄しく黒灰の毛を逆立て、使い魔――ロベルカは静芽の前に立ち塞がった。
 偉容である。
 友里は思わず口笛を吹いた。
「さすがは対大型妖魔を生業にした一門だわ。そこまでガチガチに戦闘用に改造された使い魔って珍しいわよ、もう魔獣の領域じゃない」
「抵抗するつもりですか? 悪足掻きを」
 侮蔑を隠そうともしない葉子に、静芽は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「さっきからキャンキャン小五月蝿いんだけど。前世はスピッツか何かかしら、このデコっパゲ」
「…………」
 葉子の形相が険悪なものに変貌する。思わず吹き出した友里を一睨みで黙らせ、葉子は静芽を指差した。
「よろしいでしょう。では実力行使です」
 ロベルカの一抱えもある頭部があった空間が、悲鳴をあげて捻じ曲がる。それが戦闘開始の合図だった。

 鹿沼葉子に敵をいたぶる趣味は無い。速攻で使い魔を駆逐、続いてその主である密偵を始末、そういう手順のつもりだった。風船でも割れるような音をさせ破砕される空間。だがそれを、ロベルカは地面に這い蹲るようにして身を伏せる事で易々と回避した。その体勢を溜めにして、弾丸の如く瞬発した。土煙だけを残し、黒灰の巨体が掻き消える。
「――ぬッ!?」
 驚愕に声が漏れる。あろうことか、葉子は見晴らしのよい道路上でありながらロベルカの巨体を見失った。
 予想していたよりも遥かに――
「迅い!」
 動揺に第二撃のための集中に綻びが生じる。
 ロベルカはその巨体をして静芽が使役するファミリアーの中でも最速を誇る――一ゆえに一銘を【烈風のロベルカ】と称される。足音だけが弧を描くように接近してくる、いやこれはもう足音と言うよりアスファルトとの擦過音だ。葉子の目には微かな残像らしき影しか映らない。これでは迎撃の態勢を整えるどころか、攻撃してくる方向さえ捉える事も侭ならず、葉子は咄嗟に全方位に障壁を張り巡らせた。
「甘い! それでロベルカを止められるつもり!?」
 全方位に力場を展開してしまっては、障壁の密度は著しく減衰する。その程度の障壁で加速したロベルカの衝角(ラム)に耐えられるとでも思ったか。
 激突。空気が爆ぜる。
 静芽の目論見は僅かに狂った。葉子の張った障壁は思いのほか『柔らかかった』のだ。障壁自体は破壊したが、一方でロベルカは突進力を削られる。が、葉子はロベルカに押し潰されずにすんだものの、衝突の衝撃に高々と宙へと弾き飛ばされた。
「仕留めて、ロベルカッ!!」
 命に応えてロベルカは地面を蹴った。
 勿体をつける気は毛頭なかった。元々自分の使役魔術は他の術師と組むか暗殺に徹する事で最も力を発揮できる能力だ。とても正面から、しかも二対一でFARGOの連中と渡り合えるとは思っていない。と、すれば速攻でもなんでもまず一人は片付けないと勝負にもならない。それに、こんな所で時間を使っている暇はないのだ。こいつらを斃した後には高梨という本命が…………。
「…捉えた」
 目の前の戦闘にピリオドを打ったつもりになっていた静芽の意識を張り飛ばすような呟き。ハッとする静芽の視線の先で、為すすべなく宙を舞っていたはずの葉子が、両手を大きく横に広げてピタリと空中で静止する。空を飛べるの? いや、違う。道路の両サイドにある電信柱の表面に軋みとともにヒビが入るのを見る。左右に『力』を伸ばして自身の身体を受け止めたのだ。
 既に葉子は彼我の位置把握を回復している。静芽は自分が致命的なミスを犯したのを知った。
「しまった――回避だ、ロベ――」
 ロベルカの高機動性は魔力対流を利用した術式に拠るものだ、四肢と地面が接触していなければ発揮しきれない。ただでさえ速度を喪っていた状態で空中に躍り上がったロベルカのスピードは見る影もないほどに落ちていた。こうなれば大きい図体は良い的でしかない。冷厳な黄金色の視線が無防備に姿を晒したロベルカを絡めとる。
「シザーズ」
 葉子は広げた両手を胸の前で交差させた。次の瞬間、二本の電信柱が真っ二つに裁断され、葉子の頭に爪を掛けようとしていたロベルカの顎から尻尾まで水平に赤い線が走る。ベロリ、と重なっていたハムが剥がれるかのように、ロベルカの巨体が上下に分かたれていった。
 真っ二つに裁断された使い魔は、地面に落下し青白い焔をまとって炎上した。
「ろ、ロベルカ!! くぅっ」
 女魔術師の顔がゆがみ、左腕を抱え込む。二の腕から肘に掛けて、スーツの表面に黒い染みが浮き出てきた。手に伝い流れてきた液体の色は真紅。ファミリアーが斃された反動だ。
「惜しかったわね。でも悔しがってる暇はないわよ」
 背筋を駆け上ってくる悪寒に、静芽は痛みも忘れて反射的に背中から倒れこむようにその場を離れる。轟と唸りを上げ、前髪を何本か吹き散らして巨大な力の奔流が眼前を通り過ぎていった。一戸建ての家屋がトランプで出来ていたかのようにバラバラになって吹き飛ぶ。
 絶句する静芽に向けて、女は自慢げにルージュを引いた唇を綻ばせた。
「葉子みたいに器用な使い方は出来ないけど、不可視の力の出力だけなら私が一番なの」
 友里の方を振り返るも一瞬、その右の手首を掴んだ手が天上へと掲げられているのを目にして静芽は総毛だった。
「上手く避けなさい、でないとあまり見目の麗しくない死に様を曝すわよ――ピラーズ!」
 口端を吊り上げ、友里は掲げた右手を振り下ろした。静芽は身体のバネを効かしてバク転。直前まで自分が立っていた場所に不可視の柱が突き立つのを顧みる余裕もなくその場を駆け出す。その背を追うように轟音とともにアスファルトに巨大な円形のくぼみが穿たれていく。
「れ、レンティカ!!」
 ついに柱の雪崩に追いつかれようとした時、静芽は使い魔の名を喚んだ。破片を吹き上げ柱が落ちる。だが押し潰されたはずの静芽の姿は陽炎のように消え失せた。
「お!?」
 静芽を追いかけるように駆けていた友里は、うなじに刺すような怖気を感じ、急ブレーキを掛ける。銃声、胸元を掠めて弾丸が駆け抜ける。
 慌ててバックステップを踏み距離を開ける友里。だが、向き直った先には静芽の姿は見当たらない。
「どこに行った――」
「名倉さん、上です!!」
「――!!」
 葉子の指示に従って狙いも定めず突き上げるように友里は頭上に向かって力を解放した。肩に純白の猫を乗せ、シルバーメタリックの拳銃を構えた望月静芽の姿が力の奔流に飲み込まれる。が、友里の目はその直前、純白の猫の双眸が輝き静芽の姿が消失したのを捉えていた。
「はは、やるじゃない!」
 友里は素直に感嘆した。フォワードタイプでもない癖に、自分たち不可視の力の使い手二人を相手にたった独りで翻弄するとは。この粘り強さは賞賛に値する。
「でも、残念ね。マジックのネタはもうとっくに割れてるのよ」
 友里は眼前に人差し指を立てる。陽炎のように真横に出現して銃を構える静芽を無視し、彼女はタクトを振るかのように指を切り、地面を差した。
「スパイラル」
 草笛のような音を発し、友里の足元からつむじ風が生じた。いや、かわいらしいつむじ風であったのは発生してから数瞬のみ。ドゥ、という衝撃とともに風は暴力へと変貌した。不可視の力の壁が友里かららせん状に走り出す。それもアスファルトに深々とした溝を穿ちながらだ。目を見開いた静芽の身体が縦に真っ二つに断裂し、霧のように掻き消えた。なおも止まらず軌道上のすべてを薙ぎ払いながら進む不可視の壁は、瞬く間に加速して竜巻と化し、友里を中心に半径20メートルの範囲内の全てのものを家屋もブロック塀も駐車してあった乗用車だろうと区別無く一切合財を薙ぎ払う。
「くああっ!」
 その大気の渦が友里の真正面に建っていた赤い屋根の家を吹き飛ばした時、悲鳴とともに何も無い空間から人影が弾き出された。家の二階に相当する中空から落下した人影は、道路に背中を打ちつけて呻き声とともに倒れ伏す。
 竜巻が消える。住宅街の一角が、まっさらな更地を化していた。風で乱れた髪の毛を櫛撫でながら、友里は倒れた人影――静芽のもとに歩み寄る。
「白猫の使い魔――幻惑のレンティカ。能力は光学・認識迷彩や五感投影、極短距離移送他にも色々。大したものね。私がピラーズを放った時にはもう幻影と入れ替わってたんでしょ。幻影で私たちを翻弄しつつ、本体は迷彩で姿を隠しつつ極短転移で動きながら銃で攻撃。一つ一つの能力なら見抜くのに造作も無いけど、こうも巧みに組み合わされると混乱して何が起こってるのかも判らなくなる。地味ながら凶悪な戦術だわ」
 苦痛に喘ぎながらも身を起こそうとしていた静芽がギョッと顔をあげる。
「ど、うしてレンティカの能力を――」
「レンティカだけじゃないわ、あとはロベルカにクロニカ、ルディエッカにメルヴァアンカだっけ? 貴女の使い魔の能力は全部高梨さんから聞いてるわ」
「そんな――」
 静芽の顔に、驚愕とも悲壮ともつかない表情が浮かんだ。まだ子供でしかない頃から邑紙家の密偵として山浦衆の内部で動いていた静芽は、身内だろうと誰だろうと必要最小限しか自分の能力を開示した事はなかった。人前では見せたことの無い使い魔さえいるのに。高梨には全て把握されていたと言うのか。
「ゲームオーヴァーです。コンテニューはありませんよ、鼠さん」
 背後から聞こえた葉子の声に、静芽は心胆が凍り付いていくのを感じた。振り返らずとも、今にも不可視の力のトリガーが絞られようとしているのが分かる。死ぬ、殺される。虚脱感が覆いかぶさってくる。体勢が崩れた状態で前後に挟まれた。術式を繰る間も無く、この状況を打開できるほどの体術は会得していない。どうする事も出来ない。どうしようもない。終わりだ。
 ここまで……か。
 自然と静芽の口端に力の無い微笑が浮かんでいく。
 諦観が思いのほかスルリと静芽を支配した。抵抗しようという意志はあっさりと絶えた。いいじゃないか、もう。どうせ密偵などと言う役目を負った時から、路傍に骸を晒す事は覚悟のうちだったのだ。いや、覚悟なんてそんな立派なものではない。そうなっても別にいいや、という投げ遣りな諦めだ。不真面目な態度やいい加減な性格もその表れ。本来、密偵などという裏切り者は、その組織の中では周囲に疑われる事の無いよう何事にも実直であらねばならない。それを承知しながらどうだっていいじゃないか、とする在り方を投げ遣りと言わずになんと言う。これは元々、自分の中に根深く蔓延っていたもの。どうでもいいのだ、結局。やる気の散漫さは周囲を謀る仮面ではなく望月静芽の本質のようなものだった。もう役目に縛られる事も詮無い恨みに寄りかかって生きる事にも飽いた。そろそろ潮時だったと認めよう。これはいずれ必ずくるはずだったつまらない結末の到来に過ぎない。
 静芽は足掻くのをやめて、葉子たちが振り下ろす粛清の鉄槌を受け入れた。
 心残りはそう、あのお人好しの人でなしがどういう末路を辿るのか最後まで見れなかったことか。
 目を閉じる。
 浮かんでくるのは過去からの想いだ。
 それは憎しみという名の熱ある感情。
 望月静芽はずっと、あの男を憎んでいた。両親の不始末から一族の中での身の置き所を喪った幼子に仄かな希望を抱かせておきながら、結局苦痛の中から助けてくれなかったあの無邪気な若様を。井上義行という少年を。
 たとえ、彼にそんな自覚はなかったとしても、年端もいかない幼子には親しく接してくれる人が離れていく事は見捨てる事と同義だった。咎人の子と蔑まれ、虐げられ、狭い世界の中で縋るものも無く、泣きつく相手も見つからず、孤独に震えるあの冷たい時間から救い上げられたのも束の間、何の悪気も無く繋いでいた手を引き剥がされて、あの無明へと再び突き落とされた絶望。
 彼にとってはただ単に一人で寂しそうにしていた子供に構ってあげただけだったのかもしれない。彼にとっては大人たちの言葉に従って、子供と遊ばなくなったというだけの話なのかもしれない。
 それが子供にとってはどれほどの救いで、どれほどの絶望だったかも気付かぬまま。
 憎まずにはいられなかった。中途半端な優しさ。覚悟など意識にも昇らない軽軽しい善意。それがどれほど残酷かも知らないあの人を。自分のした仕打ちを、忘れているどころか気付いてすらいないあの人を。だから、いつか彼に味わわせてやろうと思っていた。誰も助けてくれない孤独の中、独りで無力さにのた打ち回る苦しみを。
 でも――実際そんな立場に立たされた彼を前にして、自分はその姿をいい気味だと笑って楽しむ事が出来なかった。愉快な事なんて何一つなかった。
 息が詰まるばかりで、胸が締め付けられるばかりで、何も面白い事なんてなかった。
「さっきのは嘘ですよ、若。今はもう、貴方の事はそんなに嫌いじゃないんだ」
 そう、嫌いじゃない。嫌いじゃないんだ。今でも憎んでいるけれど、今なお恨んでいるけれど。
 嫌いとだけは、思えなかった。

 ああ、やだな。
 見えない振りをしとけば良かったのに。
 気がついてしまった。

 未練が、少しだけ、残ってる。

「仕方ない」
 口元が、綻んだ。
「…献合接続(ジャンクション)――【リヴェルバルバリサ】」
 顔をあげた静芽に浮かんでいるものを見て、葉子がギョッと目蓋を戦慄かせた。
 一つ、この戦闘の最中、静芽は考えていた事がある。自分と本家とのやり取りを以前から掴んでいたのだとしたら、朝の段階で下されていた義行に対する暗殺指令も高梨たちは把握していたはずなのだ。どうして四時間近くも義行本人にその情報が伝えられずに放置されたのか。いや、それ以前に暗殺の指令が自分に届くのをむざむざと見逃したのか。阻止できていたはずなのに。
 導き出された答えを、静芽は持て余していた。理性とはまた別に、感情的にその事実をどう受け止めるべきか戸惑っていた。
 だが諦観が心を満たし、自分を鎧っていたものが剥がれ落ちた今、なんとなく分かった気がする。
 それは単純にして明快だった。
「あんたたち」
 ゆら、と陽炎のように赤い霊気を立ち昇らせ、望月静芽は蛇のように唇を舐めた。
「生かして帰さない」
 高梨はもう無理だとしても、せめてこいつらだけは是が非でも殺すとしよう。でなければ、わたしの次はきっと――。
 私はそれを、許せない。
「この期に及んで、何もさせません!!」
 葉子が力を解放する。同時に背後から友里も。
「ははっ!!」
 馬鹿め!
 彼女らは錯誤を犯している。高梨から与えられた情報を頭から信じすぎだ、馬鹿者め。望月静芽が操る使い魔は五体ではない。六体なのに。そしてその最後の一体である【リヴェルバルバリサ】の能力を彼女たちは知らない。静芽は憫笑した。
 さあ殺せ。その時こそ、お前たちも道連れだ。
 鉄骨すらも圧し折るだろう凄絶な波動が押し寄せる。網膜が純白の光芒に焼き尽くされる。
「…………え」
 だが、どれほど待っても激痛も意識の断絶も訪れない。ポカンと立ち尽くす静芽の前で、視界を遮っていた純白の羽根が……いや、白い炎のたなびきが掻き消える。そして現れたのは貫禄も何も無いなで肩の男の背中だった。
「なんで……」
 葉子の唇が苛立たしげに噛み締められ、友里は愉快そうに目尻をさげる。
「なにを、やっているんですか、若」
「お前は黙っていろ」
「ですけど……」
「黙ってろ!」
 ビクリ、と静芽は伸ばしかけた手を胸元に押し込めた。突き放すような言葉が痛くて、泣きそうになる。直ぐ傍にある背が酷く遠い。どうしてこの人は、いつもこんなに残酷なのだろう。
「私もお聞きしたいですね。どういうおつもりですか、井上さん」
「それは、此方のセリフだ」
 この世の全ての苦渋を噛み締めているような顔をして、井上義行ははき捨てた。
「私の部下を、勝手に殺さないでいただきたい」
「部下? その女は裏切り者ですよ。貴方を殺そうとしている刺客なのですよ?」
「だとしても!」
 斬りつけるような目で、男は葉子の視線を撥ね退ける。
「これは身内の問題だ。彼女の処分は、長である私が下すべきであり、貴様ら部外者が独断で処断する権限などどこにも無い」
「…正気ですか?」
 同感だった。静芽は放心したままその広いとは決して言い難い背中を見つめていた。今この段階で身内だの権限だのを持ち出すなどどうかしている。望月静芽は裏切り者であり、計画を妨害する要素であり、だから排除する。単純で、揺るがし難い理屈だ。その理を前にして、誰が処分を降すかなどというどうでもいい事に拘るなど、状況を理解していないとしか思えない。いや、彼はそこまで頭の悪い人間ではないし、面子に拘る人間でもない。だから、彼が口にしているのは建前だ。愚にもつかない言い訳だ。だからこそ、静芽は正気を疑った。
 なんて馬鹿げたことだろう。彼は、私を助けようとしている。
 葉子も同じ結論に至ったようだった。眦を険しくし、彼女は威圧するように告げる。
「申し訳ありませんがはいそうですかと頷くわけにはまいりません。その女は確実にこの計画の障害となるでしょう、何があろうと排除させていただきます」
「認めないと言っている」
「あなたの許可など」
 葉子はかぶりを振った。
「我々にとっては一顧だにする価値もありません」
「…………」
 あまりと言えばあまりに傍若無人な物言いに、だが義行は得心の言ったような顔をする。やはり、彼女らにとって自分達はその程度の存在だったのだ。
「次期当主殿、あなたは私たちを子供の使いだとでも思っているのですか? 生憎と私たちにもこの計画を成功させなければならない理由がある。障害となるものあらば誰彼と無くすみやかに排除する、それが私たちに課せられた役割です。それは、あなたとて例外ではない。邪魔だと判断すれば、山浦の長であろうと始末させていただきます」
「……脅しか、それは」
「いいえ」
 脅しなどではない。単純に、最初からの既定路線を申し述べたまでのこと。
 そして、既に葉子は井上義行という人物を障害と位置づけていた。だからこれは勧告ではない、宣言だ。
 もうこの男には利用価値はない。これまでは山浦衆からの離反者が暴走しないよう抑え役として彼の存在は一応の価値をもっていた。が、離反者の大半が捕縛され、また実験がこの段階まで進み、必要な人材が高梨を中心として纏まっている今、この実験の真相を知ればまず間違いなく反対の立場を取るであろう彼の存在は、高梨の下に附いている魔術師たちに未だ支配力を持つ以上、無価値を通り越して有害な存在と化していたのだ。
 とはいえ、邪魔になったから殺してしまえばいい、という風に簡単には話は進まない。暗殺に失敗した場合、もしくは成功しても山浦の魔術師たちに不審を抱かせる形となってしまえば実験どころではなくなってしまうからだ。故に井上義行には現場から隔離する事で舞台の外に置かれるように仕向けた。そのまま大人しくしていればそれで良し、そうでなくても実験さえ始まれば後はどうにでも出来るという判断があった。幸い、今朝になって邑紙から彼の抹殺指令が発せられていたため、此方からなにもしなくとも望月静芽が手を下してくれるという願っても無い展開になっていたというのに。
 都合の良い展開は続かなかった。いつまで立っても静芽は義行を手に掛けようとはせず、葉子たちが郁未たちの乱入に掛かりきりになっているうちに、この二人ときたら高梨のもとへと向かいだしたのだ。
 そろそろ、ここが臨界点だった。
 あろう事か、静芽は義行を暗殺するどころか義行に対して高梨への不審を煽る真似まで仕出かしている。この二人を高梨の所に近づける事は実験の完遂への障害となるだろう。もはや看過は出来ない。
 本当なら、女密偵を潰してからのつもりだったが、こうなっては仕方が無い。
「つまり、我々は決裂した、と言う事だな」
「はい。ですがその前に一つ、お尋ねしてもよろしいですか?」
「なんだ」
「どうして、彼女を庇うのですか?」
「言っただろう。これは身内の問題だと」
 あくまでも言い張る青年に葉子は閉口した。
「……度し難いですね」
「それについては同感だ」
 頭の固い人だ。
 今まで意識にものぼらせた事がなかった男の性情に感慨を抱き、星がまたたくような僅かな間、葉子は微笑を浮かべた。そして、そんな自分に後悔する。
 こんなのは、もういらない感情だ。埒もない。
「やるの、葉子」
 腕組みをしてやり取りを聞いていた友里が確認してくる。
「はい」
 仕方なさげに友里は肩を竦めた。
「分かっていると思うけど油断は禁物よ」
「ええ」
 言われずとも、油断などするつもりはない。あの憎々しい氷妖に屈辱を与えられてからまだ数刻と経っていないのだ。あそこまで舞台を整えておきながらむざむざと逃亡を許してしまったこの屈辱、忘れるにはあまりに経た時間が短すぎる。
 井上義行、彼もまた侮れる相手ではないと葉子は認めていた。高梨の評価はもとより、あの氷妖と同じく異世界面(アウターサイド)からの起爆コマンドを遮って見せたのだ。見縊れる訳が無い。まったく、僅か一時間の間に防御不能の必殺と信じていた能力を二度も防がれる羽目になるとは。認めよう。いささか自分は傲慢だった。妖も魔術師もこの不可視の力を前に何ほどのものかと増長していた。自分が世の深遠も知らぬ世間知らずなのだと、郁未に連れられ外の世界に出た時に身に染みて分かったつもりでいたのだが、まだつもりでしかなかったようだ。
 だが、もう認めた。
 ならば鹿沼葉子はもう負けない。
「私がこの世で膝を屈してよいのはただ一人だけ」
 その時が訪れるまで、鹿沼葉子に敗北は許されない。
「ヨド・ヘー・ヴァウ・ヘー・アドナイ・エ・ヘ・イエー・アグラー」
 地面に青白い光が走り五芒星が描かれる。呪唱に応じて井上義行の両手首から白い焔が迸る。白き羽根にも見えるその焔は攻防一体の魔術式【ラファエルの白翼】。彼の術式系統は黄金の夜明け(ゴールデン・ドーン)に連なる守護天使の導き手。実力は極東でも三指に入る天使遣い(エンジェルズ・ラヴァー)
「抗わせてもらうぞ、FARGO!!」
「無駄で無意味で無価値でしょうが、ご自由に」






「何故……」
 なんで、どうしてこんなことになっている。ついに交戦を開始した義行たちの姿を、静芽は残った敵――友里の存在も忘れて目で追った。
「あの時、私を見捨てたくせに」
 どうして、選りにもよってこんな場面で、私を助けようとするんだ。
 この(ことごと)く人の想いを踏み躙ってくれやがる男に対し、静芽は胸を掻き毟らんばかりの感情に駆られた。  焦燥が湧き上がる。実際に矛を交えた静芽は肌で感じ取っていた。あの鹿沼葉子という女の持つポンテンシャルは常軌を逸している。義行の戦闘能力は山浦衆のみならず槍家七本全てを見渡しても屈指と評するに値するだろう。だが山浦衆の主たる敵は大型妖魔。それも高い妖力は持ちえても高度な知性を持たない獣性に傾いた幻想種だ。自然、山浦衆の戦闘スタイルは駆逐となり、狩人に近くなる。本能ではなく知性を持って戦技を編む相手との単独戦闘は決して得手とは言えないのだ。それでも、義行ほどの実力があれば生半の相手には遅れは取らない。だが、
「くっ」
 勝てない。静芽はそう判断した。鹿沼葉子の不可視の力、恐るべき理由は多多あるが、今の場合一番の脅威はその速度だ。あれは速すぎるのだ、攻撃意志の想起から効果の具現化まで殆どタイムラグが無い。ほぼ念じただけで力が発現する。義行のそれは西洋魔術としては速い方だが、それでも数段の差がある。術式の起動速度差を埋める策は幾らでもあるが、それでも厳然とした差は大きすぎるアドバンテージだ。どれほど攻防に優れていようと、義行の繰る魔術は元来後衛型の術式だ。鹿沼葉子を相手に前衛もサポートもおらずたった一人で立ち向かうのでは、すぐに仕手を失ってしまう。せめて、召喚魔導書の一冊でもあれば違ってくるのだろうが。
 どうする。どうしればいい? 苦悶する。助けに入るタイミングはすでに失われていた。目の前には腕組みをした友里が立っている。黄金の眼が胸元を貫いている。隙を見せた途端、上半身を消し飛ばされるだろう。爆音が轟く。白光の翼に撫でられ、民家が2、3棟まとめて倒壊する。どうやら義行は攻撃で圧倒し、そのまま押し切る所存のようだ。そんな手を取っている時点で、既に追い詰められていると判別できる。初っ端から短縮呪法最大の攻撃力を誇るラファエルを全開にせざるを得ない状況ということだ。
「どうする? 冷静に見て、あなたたち、すでに詰んでるわよ?」
「…………」
 友里の冷笑に反論が出来ない。
「投了を先延ばしにするのは見苦しいとは思わない?」
「現実にルールは無いわ。生きるために抗う事は見苦しくなんて無い」
「確かにそうね。でも、一度諦めた人が偉そうにいえる台詞じゃあないわね」
 友里は手の甲を口元に当ててクスクスと笑った。
 どうやら見抜かれていたらしい。静芽は自らの卑小さを指摘されたような恥ずかしさを覚え、誤魔化すように友里を睨みつけた。
「でも、現実として手詰まりなのは理解しているのでしょう?」
 友里は腕組みを解くと、葉子と義行の戦闘を一瞥した。
「落ち着いてるわね、葉子。さっき痛い目を見たからかしら。あの子、周りが見えていない節があったから危ないかなと思って忠告したんだけど、いらなかったみたいね」
 むしろ余計な真似をしてしまったか、と友里は独りごちる。
「死なすには忍びないけど、頑張りすぎて貰っちゃいささか面倒、と。匙加減が難しいわよね、実際」
 苦笑をひらめかせ、身構える静芽に向き直ると、彼女は小首を傾げた。
「ひとつ、提案があるのだけれど、いいかしら」
「え?」
 玉砕の覚悟を決めかけていた静芽は意表を突かれ、不可解そうに目を眇める。そして、次に友里から飛び出した言葉に静芽は両目を見開いた。
「八百長に乗る気、ない?」







 雨霰と降り注ぐ、それは不可視の槍のスコールだった。
 かすかな波紋を空間に刻み、無数の力場の槍が虚空に生じる。それらは間断なく眼下の青年目掛けて落下していく。数十の破砕機を同時稼動させたかのような轟音が響き渡り、舞い上がるアスファルトの破片は視界を埋め尽くすばかりだ。
 それは、既に先の見えた戦闘だった。手順の露呈した詰め将棋だ。井上義行は必死に両の手首から羽ばたく白光帯――多次元同位の高密度不定形魔力フィールドである【ラファエルの白翼】を繰り、降り注ぐ不可視の力をさばいているが、早晩限界を突破するのは明らかであろう。一撃一撃が必殺である槍衾を弾き反らしてさばき続ける集中力がいつまでも続くものではないのだから。
 このまま手数で押し切る。
 葉子は威力を絞り、さらに射出速度を加速する。
 出力を最大限まで発揮すればあのフィールドを突破するのは可能だろうが、葉子はここは焦らずに詰めていくと決めていた。まずは相手に防御する以外の行動の余地を無くす事だ。行動の選択域を狭めていく事こそ勝利への最短距離。
「アクセル」
「くっ」
 一気にアスファルトの破砕音が増加した。さばき切れずに掠めた力場が青年のスーツを削っていく。義行の形相が焦燥に歪んだ。その双眸に決意の色を見取り、葉子はついにこの一方的な膠着が解かれる時が来たのを悟った。
 そう、ここだ。
 力場の着弾音に紛れ、朗々とした詠唱が聞こえる。ラファエルの翼の光芒が薄れた。白光を繰るための意識容量を割いて、新たな魔術の起動に宛がっているのだ。この暴威の中では事実上の自殺行為、鈍った白光の動きをくぐりぬけた幾つかの力場が青年の身体を打ち抜いた。苦痛の呻きを飲み下し、義行は詠唱を唱え切る。
「そう、あなたはそうするしかない」
 このまま防御に徹したとしてもジリ貧、最後の反撃に打って出るしか道は無い。それを葉子は満を持して迎え撃つ。葉子は力場の射出を完全遮断。密かに蓄えていた力にカットした分の余力を上乗せし、思念に乗せる。
 彼が編むそれは、あの弾雨の中で彼が編める術式の中で最も速く編み上げられ、なおかつ必殺の威力を有した攻性術式。もう何分も持たないという状況下で彼が選べる僅かな選択肢の一つ。だが、彼の有する手段の中でも最強に類される一手――【ミカエルの小指】。
 それは文字通り小指程度の大きさの魔力弾だが、その実体は極小の成形炸薬弾だ。特殊な論理術式で敵の結界障壁の術式構成の一部を破綻させ、穿孔を穿いて開いた孔から超高熱の金属流体を防御結界内部に放射するという魔術、別名『障壁殺し』だ。
 並の魔術式などモノともしない大型幻獣種の重厚な障壁を易々と打ち破ってきた青年の切り札の一つ。だがタネさえ分かっていれば対処の方法など幾らでもある。葉子は思念を研ぎ澄まし、他の完全体――天沢郁未にすら不可能だろう精密さを以って不可視の力を自分の思う通りに現界させた。
 不可視の力の最大の利点は、能力者のポンテンシャル次第でその効果を自在に展開させられることだ。
『スペースドアーマー』――葉子の前面に展開された不可視の壁は【ミカエルの小指】を成形炸薬弾に形容するなら、現行兵装概念に照らし合わせてそう呼ぶのが妥当な代物だった。複数の障壁を展開しつつ、その障壁間に空間を持たせることでミカエルの小指の術式効果は著しく減殺される。ミカエルの小指は結界障壁との接触で論理術式を発動させ、内部の高熱流体を噴出するというものだ。古式竜鱗すら貫くとされる守護天使の御技だが、それも障壁が一層だけならの話でしかない。障壁に穿孔を穿つ術式効果は一旦空間を経てしまうと殆ど無効化されてしまうからだ。二段目以降の障壁が受けるのは殺傷力は余りあれど術式貫通力など全く無いに等しい高熱流体に過ぎない。葉子が展開させた障壁は一枚一枚を見るならば酷く粗末なものだった。もし義行が繰り出したのが小細工抜きの貫通型である術式【アウリエルの眼差し】などであれば易々とは言わずとも全層を貫き、葉子まで届いていただろう。だがそれも無為な仮定である。そも、葉子は義行を【ミカエルの小指】以外の選択を封じる戦況へと追い込んでいたし、もし他の術式での攻撃を企てられても、それに合わせた対応を取るだけの話である。少なくとも、即応できるだけの材料を葉子は高梨から情報として得ていた。
 虚空に浮かぶ葉子の遥か前面にて眩い光芒がひらめき、大気に曝された灼熱の気体が爆音とともに白煙と化し宙に同心円を象った。【ミカエルの小指】は葉子まで届くことなく消滅した。
 白煙の向こうに垣間見える青年の顔は、愕然と悲壮に彩られている。
 詰みだ。完全に詰んだ。
 最初から最後まで展開は全くと言っていいほど想定通りに進んでしまった。葉子の胸に満足感と幾許かの落胆が去来する。いや、こんなものかという落胆は相手に対して失礼というものだろう。此方は高梨から彼の手の内は全て教えられている。それこそ戦闘時における戦術選択の傾向や、各術式の起動に至る癖までだ。相手が何をしてくるか全て見えているのだ、いわば勝って当然なのである。たとえ、相手が対人戦闘に不慣れで練達な駆け引きが出来ないのだとしても。
 それでも、何が起こるか分からないのが現実だ。実戦で事前に組み立てた作戦通りに状況を完遂できたのは良かったと認めるべきだろう。あの氷妖に苦杯を舐めた直後なら尚のこと。自信を取り戻すには良い戦いだった。
「感謝します、マギウス」
 呟き、技を繰り出した直後で大きく隙を作っている義行に葉子は照準を合わせた。
「とどめ――」
「葉子、避けて!!」
「え?」
 目の前の相手のみ集中せず、意識の端で常に友里たちの交戦を捉えていたのが幸いした。でなければそれを躱し切れなかっただろう。咄嗟に身を捩った葉子の脇を、新幹線が通過したような衝撃が駆け抜ける。
「きゃっ!」
 たまらず悲鳴が迸る。接触はしなかったはずなのに、風圧だけで錐揉み状態となり弾き飛ばされた。何が起こった? 千々に乱れた意識を掻き集め、現状を把握しようとする。今のは、間違いない友里の不可視の力だ。完成体の中でも図抜けた出力を誇る名倉友里の放射特化型の不可視の力(インヴィジブル・アームストロング)。それがなんでこっちに。
 不可視の力をクッション代わりに地面と繋ぎ、受身を取って着地する。
「友里さん!!」
「ごめん、鏡を使われた。ミスったわ」
 静芽の使役する使い魔の中に術式の反射を能力とするものがある事を思い出し、葉子は舌打ちした。複雑な構成の術式には効果がないと聞いていたが、友里の能力はどちらかといえばシンプルなものだ、幾ら威力があっても効果範囲内だったという事か。だがそれでも易々と攻撃を逆利用されるとは。いや、糾弾はあとだ。予期せぬ事態に混乱するうちに、義行と静芽の姿が消えている。
 レーダーの要領で全方位に微弱な力を放射。建物などの障害物を透過して、動体を探査する。
「いました!!」
 背中に飛行用の使い魔、翼を生やした赤い猫を貼り付けた静芽を見つける。義行を抱えているせいかフラフラしているが飛行速度はかなりのものだ。急ぎ葉子は思念を引き絞った。射程距離ギリギリ、だが射抜ける。
「――せいっ!」
 その力が可視たりえたなら、地上から空へと疾る鮮烈な一条の軌跡が見えただろう。不可視の矢は見事に上空へと逃げる二人を射抜き――――手応えなく二人の姿ともに霧散した。



 上手く逃げたみたいね。それとも、まだ近くに隠れているのかしら。
 ポカンと幻影が消えていくのを見上げている葉子の後ろで、友里はペロリと舌を出した。葉子には申し訳ないが、此方にも目的がある。
 しかし大したものだ、と友里は改めて評価を上書きした。葉子の感応探信に引っかかったということはある程度の質量や魔力を幻影に付与していたのだろう。おまけに、本体は義行というお荷物付きで葉子の探信から逃れている。それらを全て葉子が気をそらせたのはほんの一瞬でやりおおせてみせたのだ。恐らく、無詠唱で複数の使い魔を使役して、だ。瞠目すべきは使い魔の能力ではなく、その能力を扱う巧みさである。
「やっぱり欲しいわね、彼女」
 彼女と天使遣い。是非手に入れたい人材であるが。
 パイプは繋いだ。が、あまり貸し借りを気にしてくれるほど義理堅い相手にも思えない。せめて話を聞いてくれるぐらいはしてくれるとありがたいんだけど。
「とりあえずあとで巳間くんにも話を通しておかないと」
 呟き、友里はポケットの携帯電話に手を当てて、思い出したように舌打ちした。当たり前の話だが、隔離結界内は通話圏外だ。まあいい、独自の連絡手段は確保してあ――。
 壊音に友里はギョッと音のした方を見た。
 傾いていた電信柱が割り箸みたく圧し折れて、地面に突き刺さっている。ふるふると肩を震わせている人が犯人だ。友里は思わず首を竦めた。珍しく、葉子が癇癪を爆発させたらしい。まあ無理もない、一日に二回も敵にまんまと逃げられちゃ頭にもくる。
「ごめんなさい、葉子。今回は私のミスだわ」
 実際はミスではなく恣意だが、友里はしれっと謝ってみせた。
「いえ」
 怒りを飲み下し、葉子は平静を取り戻した顔で振り返った。
「反省は後で。今は二人を追いましょう。彼らを山浦衆と接触させては厄介な事になる。巳間さんたちは?」
「予定じゃそろそろアーティファクトの設置は終わっている頃だけど」
「連絡を取って物見ノ丘を封鎖するよう言ってください。校倉氏には私の方から」
「了解」





「行ったみたいです」
 葉子と友里が南北に分かれて遠ざかっていくのを確認し、静芽は【メルヴィアンカ】に浮上を命じた。頭に黄土色のトカゲを乗せた望月静芽と井上義行の姿が地面の下からせりあがってくる。メルヴィアンカの能力は物質透過。二人は幻影を空へと飛ばすと同時に自身たちは地下へと潜行し、息を潜めていたのだった。
 地上に戻った二人だったが、お互い背を向けたままその場から動こうとはしなかった。互いの殺した呼吸だけが耳朶を打つ。背後に目を配った義行の目に、胸元を鷲掴み、喘ぐように肩を震わす静芽の姿が映りこむ。
「若、私は……」
「お前が、外に情報を流していたと言うのは本当か?」
 義行は冷徹に静芽の言葉を遮り、問いかけた。
「……はい」
 そうか、と呟き肺の中を空っぽにでもしたいかのように大きく息を吐く。
 …裏切り者、か。
 不思議と怒りは湧き立たなかった。怒りを覚えるべきなのだろう、本当ならば。彼女のしていた事は、自分だけではなく山浦衆全体への裏切りなのだから。皆を導く立場なら、怒りを覚えるべきなのだ。
「気負いだけは一人前で、中身は所詮こんなものか」
 能力は乏しくとも、せめて長としての責任感だけは人前でありたいと願っていたが、それも怒るべきときに怒れもしない薄っぺらなものだったという事だ。それでも、本当に何もかも無くしてしまった今となっては、その薄っぺらな責任感に縋り続けるしかない。それさえも捨ててしまえば、残されるのは惨めな負け犬だ。
「望月、お前は追放だ。とっととこの場から消え去れ」
「……え」
 呆けたような吐息が漏れる。
「二度と私の前に顔を見せるな。もし見せてみろ。容赦なく縊り殺す。私が、手ずからだ。忘れるな」
「わ、若」
 もう彼女の姿を視界に映すつもりはなかった。だが、スーツの裾を掴むように伸びてきた手を払った時、思わず静芽の素顔を捉えてしまう。
「…………」
「…………」
 振り払うように視線を逸らした。
 ジリジリと胸を何かが焼き焦がす。かつて、同じような光景を見ていた気がした。
 裏切り者、それはいったい誰のことなのか。本家を裏切り出奔した自分達。そんな我らを裏切っていた望月静芽。同様に自身の思惑に寄って裏切っているという高梨陽明。端から利用する気だけで甘言を弄していたFARGO。誰も彼もが裏切り者だ。
 立ち尽くす彼女に背を向けた時、義行はこの焼け付くような既視感の起源を思い出した。
 十五年以上も昔。彼女は離れていく自分を今と同じような眼で見送っていた。かつては意味も分からず、不思議と心に残りながら、いつしか忘れてしまっていた彼女の眼。その意味が、今ようやく理解した気がした。
「最初に裏切ったのは……私か」
 彼女が一族を裏切り、本家の密偵となった背景がぼんやりと透けてみえてくる。周りから距離を置き、斜に構えた態度を取り続けていたその想いの在りようも。だが、それを理解したところで、自分も彼女ももうあの頃のような子供ではない。過去は遠く、手の届かないところにある。そして今の彼女に今の自分が掛けるべき言葉はもう残されていない。
 ただ、これだけは言っておくべきだと思った。
「忠告、感謝する」
 ハッと、彼女が顔をあげる気配を感じ取る。
 この十数分、彼女は立場も積年の思いも超えて、自分の味方でいてくれた。それだけは疑いようの無い真実であり、自らを信じきれない自分にとって、独りとなるこの先に持っていける財産だった。

 青年は一度として振り返らぬままその場から去っていった。
 何一つ動くもののなくなった世界で、たった一人取り残された女は青年の立ち去った方を見たまま身動ぎもせず立ち尽くしている。
 ややあって、女は足元に転がった拳ほどの大きさの瓦礫へと視線を落とした。
 女のパンプスに蹴っ飛ばされた瓦礫が倒れた電柱に当たって空を舞う。

「やっぱりお前なんか大ッ嫌いだ、馬鹿野郎!!」

 怒声の余韻が消えた後、遠ざかっていく足音は、どこか吹っ切れたように潔かった。






<< >>


章目次へ







お名前(任意でどうぞ)

一言、コメント、ご指摘ご感想、なんでもどうぞ。




inserted by FC2 system