< 11:02  タワーマンション『リゾンベルデ』屋上 >


 地上から吹き上げる突風に白いワンピースがハラリハラリと翻る。少しでも足を踏み外せば地上三十メートルまで直滑降を余儀なくされる。そんな高層マンションの屋上の突端に、少女――安倍珠呼は佇んでいた。
 後ろ手に手を組んで佇む彼女が見据える先には、励起した魔力の塔が天上を貫き螺旋を描いている。だが彼女の眼差しはそんな目に見える偉容ではなく、どこかこの世ならざる場所を捉えているようだった。
「まさか神剣をこのような仕儀に利用するとはな、妾ですら思いもよらなんだわ。人間め、なかなか侮れん」
 口振りだけ見れば困惑しているように思えるが、その実帽子のつばから覗き見える口元は綻び切っており楽しくて仕方ないといった様子が滲み出ている。
「まあよい。役目は役目でしかと果たすとして、妾の戯れ事までは邪魔させんよ。此方は最後まで舞台を引っ掻き回して遊ばせてもらうぞ」
 少女はパチンと指を鳴らした。彼女の背後の空間が電波障害を起こしたテレビ画面のようにブレ、赤く発光する鎖によって雁字搦めにされた7tトラックほどもある巨大な黄金色のかたまりが転がり出てくる。
 それは燃えさかる焔を纏ったケモノであった。いや、黄金色の焔がケモノの姿を象っているといった方がこの場合は正しいのだろう。轟々と燃えさかる火炎、全身からポタポタと溶けた金塊のようなしずくを垂らし、奈落の裂け目のような凄惨な双眸を怒らせて、ケモノは拘束をほどこうと屋上をのたうっていた。獰猛な咆哮が無人の都市に響き渡る。漲る力が行き所をなくして荒れ狂っている、そんな印象を抱かせる叫声だった。
「そういきり立つな。焦らずとも今解放してやるぞ、くふふ」
 ケモノの切れ長の目に歓喜と怯えが交互に宿る。火の粉を散らし、三つの炎尾が逆巻き猛る。
「妾の声が聞こえるか、子狐? 本来、汝の如き二十年も生きておらん幼子が三尾を得るなどありえん事じゃ。巨大すぎる妖力に存在が耐えられん。まともな思考など食い潰されて残っておらんじゃろう? 今や汝は制動の効かぬふぉーみゅらーましんよ」
 大気そのものを揺るがす凄まじい叫声がケモノの口から迸る。暴性そのものが弾けたような咆哮。
「そう、今の汝は妖怪ではなく怨霊に近い。死の底でのたうち足掻いて伸ばした手の先にあるもの、強き想い、執着の塊じゃ。過分なる力に溺れ、それでもなお縋り求める哀れな獣。かつて同じ汚泥に沈んだものを汝は知っておるな?」
 趣向である。子狐の記憶の中にそれはあった。人に与えられた名を八雲という、地狐にも至らぬ化け狐の幼子。
「彼の子は果てたが汝はどうかな?」
 死を覆すほどの執着、幸福への渇望。それは浅ましく見るに耐えない怨念のようなものである。だが同時にその強き想い、意志の力は眩いばかりの光を発する。そこに本質の違いは無い。正負は結末からみた後付けの定義に過ぎない。そして、正負のいずれに至るかは運命次第。いや、それこそ意志の力がモノをいう。少なくとも、金毛白面は乗り越えられぬ試練は課さない。不可能は、可能性とは言わないのだ。尤も、この子だけの力ではいささか壁が高すぎるかもしれないが。
 珠呼は自然と苦笑を浮かべていた。
 どうして、どうやら自分は己が裔孫をも試したいらしい。子狐の記憶にあった青年が、かつての連れ添いに雰囲気が似ていたからかもしれない。
「忘れるなよ。汝がどうして生きたいと願ったのかを」
 珠呼はケモノを拘束する鎖を解いた。途端、ケモノは火の粉を撒き散らして珠呼に踊りかかってくる。
「元気じゃな、重畳じゃ」
 やんちゃな盛りの子供を見るような眼でケモノを見上げ、珠呼は足で軽く地面を叩いた。
 少女を頭から丸呑みしようとしていたケモノがグシャリ、と屋上のコンクリートにめり込んだ。
「じゃが相手が違うぞ。ほら、汝の欲するものは他にある、行くが良い」
 言って珠呼はふいっと手を振った。そんな無造作な仕草で、超重圧にバタバタと足掻いていたケモノがポーンと遥か後方にすっ飛んでいく。ケモノは珠呼が立っている高層マンションをもう一棟縦に重ねたほどの高度まで跳ね上がると、赤い軌跡を残して市街地へと落下していった。
「まだ空は駆けられんか。天狐にはまだまだ程遠いのう」
 火球の墜落を見送った珠呼はよいしょとビルの縁に腰を下ろした。
 これで、この状況に関わるだろう誰にとってもイレギュラーとなる要素は放り込んだ。あれがどう動くかは分からないが、想定外の事態となるには充分なはず。これで思惑通りに事が運ぶ登場人物はいなくなる可能性が高くなる。事態は混沌へと突き進む。
「するっと物事が進むのは面白くないからのう」
 誓約により現世への干渉は『願いを叶える』という形でしか為し得ない不自由な身の上だが、それならそれで混沌や混乱を招く方法など幾らでもあるということだ。災厄の化身たる金毛白面の面目躍如である。
 心底愉快そうに白い帽子の少女はクスクスと笑った。風がワンピースの裾をはためかせ、珠呼は鬱陶しそうにそれを押さえる。
「さて、と」
 宙に残された火線の痕跡が消えていくのを見送った珠呼は、小悪魔めいた憫笑を引っ込めると、手首を捻って手品のように五枚のカードを取り出した。スナップを利かせて放り投げたカードは、珠呼の前面に扇状に広がってクルクルと回転をはじめる。
「遊びは遊び、役目は役目。仕事もちゃんとせんとな。ああ、めんどくさ。護国神獣なんぞやるもんじゃないわい」










< 同刻  市街西地区住宅街 >



 蜘蛛が哂っていた。
 頭のネジが何本か抜けてしまったような笑い声を立てて、民家の屋根の上で蜘蛛がはしゃいでいる。三対の脚を動かして、黄色い瓦を踏みしだき、恋人の上半身を胸から生やした化け物が、狂ったダンスを踊ってる。
 悪夢のような光景だった。
 魂が抜けていく。比喩ではなくそう思わされる脱力感に、物部澄は犯されていた。これまで幾度も耐え切れないような辛い目にあってきた。全部投げ出してしまいたいような苦しい目にもあってきた。でも、これはないだろう。こんなのって、ない。
 異形と化した愛する人の姿に、物部澄は打ちのめされていた。春日がもう人間ではなくなっていると理解はしていたつもりでも、目の当たりにするまで何もわかってはいなかった。
 話の通じる状態なら。いや、そうでなくてもせめてケモノのようであったなら。澄もここまで衝撃は受けなかっただろう。異形の姿も気にしなかっただろう。だが今の春日は、ケモノですらないようだった。
 壊れている。
 今の春日は、心が壊れている。
 存在そのものが破綻している。
「春日あんた、そんなになってまで私から離れたかったの?」
 そんな訳がないと知りながらも、澄は語りかけずにはいられなかった。
 これじゃあもう、話し合うことすらできない。天野に仲直りをしろといわれたのに。もう一度、話をして、話を聞いて、お互いの気持ちを解かりあおうと思ったのに。
 どうして春日が私から離れると云ったのか、ようやくその真意を知る勇気を振り絞れたのに。
 天野、これではもう仲直りなんてできないよ。
 どうすればいい? いったいどうしたらいい?
 自分が此れまで頑張れてこれたのは、隣に春日がいたからだ。春日が横にいて、支えてくれていたから意地を張ってこれた。自分を見失わずに保ちつづけられた。
 だが、比翼の鳥は、片割れを失えばもう飛べない。ただ地に伏して空を忘我に見上げるのみ。
 今がまさに、自分がそうしているように。
 クリームシチューの甘いにおいはもうしない。

 背後で割れんばかりの歯がかち合う音がしなければ、澄はいつまでも暗澹と突っ立っていたかもしれない。
「……小太郎?」
 それは悪鬼の形相だった。陽炎のように憎悪の念が湧き立つさまが透けて見える。そんなこの世の果てにいるかのような有様で、天野小太郎は哂う春日のもとへと向かっていく。
「ま、待ちなさい、あなたなにをするつもり?」
 肩を掴んだ手を乱暴に払われる。
「なにをする、ですって? 決まってるじゃないですか。春日さんに真琴さんをどうしたか聞くんですよ」
 澄は唖然とした。正気の沙汰ではない。小太郎には春日のあの様子が見えないのか。聞いて、まともな答えが返ってくるような状態ではない。だが小太郎は構わず春日に向かっていく。いつも穏和な笑顔を浮かべている小太郎からは想像も出来ない形相で。
 澄は手を広げて小太郎の行方に立ち塞がった。小太郎は赤く血走った目で澄をねめつけた。
「邪魔しないで下さい。僕は春日さんに聞かなきゃならないんですよ。真琴さんを、いったいどうしたのかをね」
「聞けると思ってるの?」
「聞けないでしょうね。あんなありさまだ。正気じゃない。でも、だったら――」
 小太郎は地面に叩きつけるように怒声を発した。
「その正気が欠片も残ってない春日さんに、真琴さんはどんな目に合わされたっていうんですか!! 真琴さんはどうなったんだよ!」
 もしかしたら、春日のあの姿に一番絶望を感じたのは小太郎だったのかもしれない。澄と小太郎が公園で目にしたものは真琴のものと思しき血痕と、穢れた妖気の残滓だけ。瞼の裏に鮮明に浮かぶのは元気な真琴の姿と陽気な春日の笑顔であり、決して傷ついた恋人や怪物と成り果てた先輩の姿ではなかったのだから。
 だから心の何処かで縋り続けることが出来たのだ。真琴は大丈夫だと。
 だがこうして狂気に墜ちた春日の姿を見てしまえば、縋る希望も見当たらない。こんな春日に襲われたであろう真琴がどうなってしまったのか。楽観など抱けない。
 小太郎の双眸に溶鉱炉のような憎悪の火がちらついているのを見て、澄は言葉を失った。この穏やかな後輩が、こんな激しい憎しみを春日に向けていることが、澄の弱った心を打ちのめす。
「やめて。お願い。私はまだ、春日に何も伝えてない」
 俯いた顔をあげられず、それでも声を震わせて澄は懇願した。
「天野と約束したのよ。春日と仲直りするって!!」
「無理ですよ、そんなの」
 冷酷に言い捨てられ、澄は地面を見つめたまま瞠目した。
「物部先輩も見たでしょう。あの人に精気を吸われた人たちを。今だって、まだ小学生くらいの女の子を襲ってたじゃないか。手遅れなんですよ。もう、手遅れだ。狂妖はもう元には戻れない」
「――――っ!」
 喉から溢れる悲鳴を押し殺し、澄は髪を鷲掴みにされ引っ張りあげられたように顔をあげた。
「戻らないんですよ、もう。元の春日先輩には。先祖帰りという現象、いやもうこれはある種の遺伝病と云ってもいい。この遺伝病は、無理やり規格の合わない器に中身を入れ替えるようなものなんです。SFかなにかで見たことがありませんか? 人間の意識をコンピューターに移したら精神が耐え切れずに発狂してしまうという話を。あれと一緒ですよ。妖怪というのはね、人間を含んだ現行の生物大系とは似て非なるものなんです。肉体の存在次元が微妙にずれてるんです。ある意味別次元の生命体と言っていい。そんなある意味犬や猫とすらかけ離れた、ステージの違う生物に精神は人間のまま突然変貌してしまう、それが先祖帰りです。だから少なくない数の発症者が器に魂が適合できず精神を破綻させてしまう。そうなると、もう元には戻れない。一旦自我を崩壊させた発症者が人間の意識を取り戻すことはないとされています。ですから古来よりそんな狂った先祖帰りへの対処は一貫しています。神祇省という国家機関が成立してからも同じです」
 小太郎は無機質に宣告した。
「捕縛の要を認めず、すみやかに処分されたし」
「…………」
 澄は全身を硬直させて、小太郎の下した宣告を受け取った。蜘蛛神と化した春日を見た瞬間から、いやそれ以前に小太郎の真琴を心配しているのとはまた別の固い雰囲気からそんな予想は頭の隅に浮かんでいた。だがただ予想する事とはっきり明言されることは全く違う。絶望からの逃げ道は完全に断たれた。
 それは――――予断の欠片も残してくれない春日への死刑宣告だ。
 春日に残されているのは、もう殺される道しかないのだと、その事実が澄の頭に染み込んでいく。
「どいてください。真琴さんをどうしたのか聞かないと。いえ、喋る頭が残っていないのなら体に聞いてやる。痛めつければ、巣に逃げ戻るに違いないんだ。きっと真琴さんはそこに」
 感情が高ぶりすぎて抑揚を失った声で訥々と語り、小太郎は立ち塞がる澄の肩に手をかけた。そうして突き飛ばすように彼女を押し退けようとして――。
「ぐ――ふっ?」
 腹腔にめり込んだ膝に、意識を刈り取られた。
「やらせない。春日は誰にも殺らせない」
 ブツブツと呪文のような呟きが小太郎の耳朶を震わせる。
 膝蹴り一発で宙に浮かされた小太郎は、次の瞬間鉈のように振るわれた澄の後ろ回し蹴りにより民家のブロック塀に叩きつけられた。
「がはっ」
「春日は、誰にも殺らせない!! 殺らせるものかッ!!」
 髪を振り乱して澄は咆哮した。瞳に宿った狂気と激情に呼応するように、彼女の周囲の大気が帯電し火花を散らす。
 背中に受けた衝撃で意識を取り戻した小太郎は塀にもたれかかりながら身を起こした。
「あ、あんたはぁぁぁ!!」
「失せなさい、小太郎! さもないと、今の私はきっとあんたのことを殺すわ!」
「ふざけるなっ!!」
 退けるものか。あいつは真琴を傷つけた。僕の大切な人を滅茶苦茶にしたんだ。
「許せるか、そいつは真琴さんを――」
 殺意を込めて小太郎は化け蜘蛛のいた民家を睨みつけ、そこでようやく春日の姿が見当たらない事に気がついた。顔に黒い影が差す。ハッと小太郎が上を見上げた。視界が黄色と黒のマダラに圧される。天上から飛び降りてきた化け蜘蛛の巨体が自分を押し潰そうとしていた。
「くぅっ――――」
 咄嗟に頭から前方に飛び込んで巨体を避ける。背後で春日の体当たりを食らったブロック塀がダンボール箱のように崩壊する。
 巨蜘蛛はすぐさま方向転換すると、人間の方の腕を撓らせた。耳を劈く甲高い音が響き渡る。アスファルトを切り裂いて何かが近づいてくるのを見て、小太郎は咄嗟に所持していた簡易護符による対物結界を張り巡らせる。
「――ッ!? がぁっ!」
 和紙でも裂くようにして、結界ごと切り裂かれた。頭を庇って後ろに倒れこむようにして逃れる。受身も取れずしたたか背中を打ちつけたものの、なんとか上腕部に裂傷を負っただけで躱し切った。
 だがそれ以上は無理だった。仰向けに倒れた小太郎に立ち上がる間すら与えず、行き掛けの駄賃とばかりに停車していた乗用車を豆腐のように裁断して、甲高い風切り音を発しながら不可視の断絶が押し寄せてくる。
「やめて、やめなさい春日ッ!!」
「げきょ?」
 耳元で響いた悲痛な叫びに、知性のない無邪気な笑みを貼り付けたまま春日はグルリと首を傾けた。
 脚の一本を踏み台に。左眼の端に涙の粒を一滴、苦痛を堪えるように歯を食いしばり、物部澄は拳を振りかぶって春日の眼前に一息で飛び上がる。
「もう誰も傷つけないで。あんたは、私と違って人を傷つけるなんて出来ないんだから!」
 紫電を纏った拳が、春日の顔面に叩き込まれた。
 大木が圧し折れるような音をぶちまけ、さながらトラックに跳ね飛ばされたみたく蜘蛛の巨体が民家へと突っ込み、家屋が底が抜けたように倒壊する。小太郎の目前まで来ていた切断が突如根っこから引き抜かれたように空中に舞い上がった。速度をなくし宙にのたうつ銀色のそれは、目に見えるのもやっとな極細の糸だった。
 通常の術式とはどこか根本を異にしたイカヅチの力、人間の範疇を超えた身体能力。物部澄はほんの昨日まで正真正銘普通の人間に過ぎなかったと言うのに、一体彼女の身に何が起こったのか、起こっているのか。今さらながら小太郎の意識の端に深刻な疑念が湧き上がる。が、小太郎はそれを一切無視した。一顧だにせず捨て去った。今、大切なのはそんなことではない。考えるべきはそんなどうでもいいことではない。
 すかさず跳ね起きる。印を組む。式を走らせる。魔力を練り上げる。そうして術を立ち上げていく。
 眼前に具象した霊符に指剣で呪印を刻み込み、攻性術式を編み上げる。
「疾っ!!」
 白色の飛燕へと変じた霊符を、小太郎は崩れ落ちた民家へと撃ち放った。
 ありったけの魔力を叩き込んだ霊符の燕は風を切って瓦礫の中の春日目掛けて襲い掛かる。が、その軌跡を突如白い手が遮った。物部澄だ。彼女は易々と飛燕を掴み、手の中で暴れる燕に電撃の奔流を叩き込んだ。小さく爆発を起こして燕は燃え上がり、胡散霧消する。
 広げた手からサラサラと灰色の粒子がこぼれて消えていく。その様をじっと見つめていた昏く濡れた双眸が、ヌラリと小太郎を睨みつけた。
「云ったわね、私。失せないと殺すって。もしかして……冗談だとでも思ってるの?」
「本気だと……言うんですか? だとしたら、あなたはイカレてますよ物部先輩」
 口元の唾液を拭い、咳き込みながら小太郎は言葉の剣を振りかざす。
「そうやって、春日さんを害しようとする人を排除しながら、その一方で春日さんの凶行を止めて回る。そんなこと、ずっと続けるつもりだとでも言うんですか?」
「――――ッ」
 冷水を浴びせ掛けられたように澄は全身を震わせた。
「あなたにわからないはずはないでしょう。そんな事を続けてもどうしようもないって。あなたがどれほど頑張っても、その手は血塗れになっていくだけだ。報われる事なんて決して無い。終わりの無い煉獄だ。そうしていつかは破綻する。いずれ春日さんを止めきれなくなる」
 言葉を突きつけるたびに揺れ動く昏い眼差しを、それでも真正面に睨みつけ、小太郎は情け容赦なく
「それでも物部先輩は周りの全てを壊し続ける春日さんを庇いつづけるんですか? 物部先輩は言いましたよね。春日さんは、人を傷つけられるような人じゃないって。あなたは、それを春日さんに強い続けるつもりですか?」
「…………」
 新たな霊符を生み出しながら、小太郎は目の前のイカレてしまった女を黙らせ息の根を止める一言をたたきつけた。
「もう先輩もわかってるんでしょう。あなたの春日さんはどこにもいないんだ!!」
「――――」
 刹那、時が流れる役目を忘れたように凍えた静寂が満ち満ちた。その沈黙は、恐らく呼吸一つ分にも満たない短い時間だっただろう。だが何かが決定的に変わってしまうには充分な時間であった。澄の双眸から焦点が消え失せ、虚空を映す。
「そう……ね」
 囀るような囁き声が漏れ聞こえた。瞳に光がポツンと灯る。小太郎の予想に反し、澄の昏い眼差しは伏せられる事も涙に曇ることもなかった。それどころか、一度消えた光は射抜くように鋭利さを増したようにすら見えた。
「あなたの言う通りだわ。その通りよ。正しいわ、天野小太郎。正しすぎてあなたのその口を引き裂いてやりたいくらい」
 炯炯とした眼光が刹那、小太郎の体躯を戦慄させた。漏らした隙はほんの半瞬。だがその半瞬で、澄と小太郎の距離はゼロへと消し去られていた。身構えようとしたときには既に、眼前に浮かせていた三枚の霊符が紫電を纏った腕で薙ぎ払われている。
「な――!?」
 抵抗どころか飛び退く猶予すら与えられず、小太郎は喉を鷲掴みにされ、澄によって吊り上げられていた。
「かっあああ」
「御礼を言うわ、小太郎」
 指がギリギリと喉笛へと食い込んでいく。苦悶する小太郎の耳朶を甘い声が擽った。
「ありがとう、ありがとう。心の底から感謝してあげる、本当にありがとう」
 必死に目を見開いて己を締め上げる者の姿を捉えようとして、小太郎は固まった。
 竦みあがる。激昂に呑まれて荒れ狂っていた感情が一瞬にして凍りついた。
 開いた瞳孔は、奈落のように深く昏く。その奥には、炯炯と、爛爛と、赫い烽火が燃えていた。その灯りがじっと小太郎を照らしている。ジリジリジリジリと小太郎の正気を焼き焦がす。
 人の枠を踏み外した情念の光、それは圧倒的なまでの狂気の焔。他人をも呑み込む破滅の揺らぎ。
 小太郎は知った。
 さっきまでの物部澄はイカレてなんかいなかった。おかしくなんてなっていなかった。心の弱さに振り回されていたにしろ、理性を失っていたにしろ、至極まともであったのだ。
 だが、この物部澄は違う。もう違う。違ってしまった。
 彼女はもう境目を、越えている。
 小太郎は知った。思い知った。
 これが、人が狂うという事なのだ。人が狂うと鬼になる。今目の前にいるのは一人の鬼だ。
「せ……んぱ」
「そうねそうね貴方の言う通りだわ。最初から、私と春日にはもう此れしか残されていなかったのね。教えてくれてありがとう。道を示してくれてありがとう。あたふたとみっともなく水面をもがいて溺れていた私に、目を伏せて耳を塞いで逃げ惑うしかなかった私に冷酷非情な現実を突きつけてくれてありがとう。おかげで私は目が覚めた。おかげで私は気がついた。おかげで私は思い出した。
 私が為すべき事。私が望んだ事。私の中の真実を。
 本当に、感謝するわ、小太郎」
 そうしてグッと顔を近づけ、澄は亀裂が入ったように口端を引き裂き、破顔した。
「おかげさまできっぱり諦められたわ。希望という希望を投げ捨てられた。
 本当に、底無し無辺の絶望を、ありがとう。
 あは、あははは、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
 耳を塞ぎたくなる狂笑が、鉛のように無機質な笑顔の奥底から響いてくる。
 無造作に小太郎はアスファルトに投げ出された。ピタリ、と禍禍しい笑い声は止む。
「なんだ、悩む必要なんて何一つ無かったじゃない」
 そう口ずさまれた声は快活に、溌剌と弾んでいた。壊れた雰囲気など一欠けらも残さず拭い去られ、まるで恋を知ったばかりの少女のように物部澄は眼を輝かせて微笑んだ。
「私と春日は二人で独り。約束したわ、ずっとずっと一緒だって」
 両手を左右に広げ、緑の風吹く草原で踊るかのように少女はクルリと身を翻す。
「誰にも誰にも誰にも誰にも誰にも誰にも誰にも誰にも誰にも誰にも誰にも誰にも、私と春日の邪魔はさせない。安心して、春日。それが、あなたと私が一緒にいられる最期の望みだというのなら」
 両手を天へと目掛けて掲げ、悦楽に震えて、物部澄は誓いの言葉を囁いた。
「私があなたを殺してあげる」
 突如何も無い宙から生じて、澄を圧し包もうとした幾重もの純白の蜘蛛の巣が吹き上がった稲妻に打たれて燃え上がる。
 青白い火炎の大輪花咲く中で少女は幸せそうに微笑んでいた。
 それは死にゆくジュリエットの如く。
 両手が叩き落される。
 次の瞬間、膨大な光の奔流が小太郎の網膜を焼き尽くす。辛うじて鉄槌の如き雷の柱が落ちてきた事だけは認めつつ、凄まじい衝撃と爆音に小太郎は意識を消し飛ばされた。













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