< 10:45 オフィス街 路地裏 >




 雲の中にいるような浮遊感が不意に断たれる。思い出すのは全身に鉛を埋め込まれたかのような疲労感だ。水に溺れているみたく息が苦しい。睦美は必死にもがき、散乱していた意識を掻き集めた。
「大丈夫ですか?」
 ふっと苦しみが和らぐ。聴こえた声には真摯に此方の身を案じる気持ちが込められていた。氷結そのものであるこの身であるが、優しい温もりが貴く思えるのは普通の人間と変わりはしない。
「あま…さわ?」
「天沢さんもいらっしゃるのですか?」
 若いが女性にしては低めの落ち着きある声。どこか斜に構えた雰囲気の天沢郁未のそれとは違う。
 開いた眼に睦美には強烈すぎる真夏の日差しが飛び込んでくる。眩しさに眩む視界には自分を覗き込む二つの人影が映っていた。
「あたし……生きてるの?」
「ええ、妖気の巡りが極端に悪化しているようですが、安静にしていれば大丈夫です。樋端さん、いったい何があったのですか?」
「は、ははは、生きてるのか。そうか。あははははは」
 何か問いかけてきているようだったが、睦美は無視した。何もかもが馬鹿らしくなり、嘔吐するように哄笑する。哂って哂って哂って哂って、耐え切れなくなった。両手で顔を覆う。笑い声の代わりに嗚咽が込み上げてくる。
 泣き崩れる睦美に、彼女の上半身を支えていた少女は救いを求めるように傍らの連れに顔を向けた。
 周りの困惑を顧みることも無く、睦美は子供のように泣きじゃくった。残りカスの妖気が手の甲や顎を伝って零れ落ちる雫を氷の粒へと凍りつかせていく。
 生きている。死ぬはずだった自分が生きている。それは喜ばしいことのはずなのに、睦美の心は痛みによって千々に乱れた。
 自分が生きているということは、すなわち郁未があの悪魔に代価を払ったということだ。
 やめろと言ったのに。聞くなと言ったのに。
ほでなすっこの(ばかやろうが)
 何もしなければただ自分が消えるだけで終ったのに。罵ろうにも、郁未はもうこの場にいない。睦美に出来ることは指を顔に食い込ませることだけだ。
 あれは、悪魔の選択だった。一度、聞いてしまえば、それは呪いとなって郁未を縛る。娘か、睦美か。あのまま睦美が消えたとしても、一度睦美を助ける可能性を得てしまった郁未にとって娘の身を惜しんで睦美を見捨てたことになる。どちらを選んだとしても、郁未の心には無残な傷が刻まれる。後悔に身を焼かれ、呪いが心を犯していく。
 彼女はもう、以前の天沢郁未のままではいられないだろう。死せる命の運命を覆せるような、反則紛いの奇蹟に縋ることがどういう結末を招くのか、数え切れないほどの古今東西の逸話がそろって示している。彼女もまた、同じ轍を踏んだ一人となってしまった。
 天沢郁未は愚か者(バカ)だ。
 人は先人の犯した過ちを教訓と出来ず、同じ過ちを繰り返す。ゆえに、人という生き物は愚かなのだと蔑まれる。
 だが睦美は愚かを罪とは思えなかった。
 どうしてあの場面で、人は賢明になどなれるだろう。もし、あの瞬間の郁未の愚かさを、罪だと糾弾するものがいるとしたら、樋端睦美は己が全存在と尊厳を賭けて、そいつに宣戦を布告するだろう。人が愚かというのなら、その愚かさこそが彼らに課せられた呪いであると同時に祝福なのだ。人ならざるものたちは、そうした人の愚かしさをこそ、愛しいと思う。ニンゲンと言う儚い存在に惹かれていくのだ。
 だが今だけは、その愚かさが憎らしい。
「しっかりしてくれ、睦美姉さん。なんで大坂のあんたがここにおんねん。何があったんや」
 肩を激しく揺さぶられ、瞳に焦点が戻ってくる。ようやく睦美に自分を囲む人間たちが誰なのかを認識しようと言う意識が生まれた。
「……和巳くん?」
「おお、御門和巳や。いったいどないしてん姉さん、天沢さんも一緒やったんか?」
 天沢は…もう、行ったのか。睦美は自分の目でも周囲に彼女の姿が見当たらないのを確認して、納得する。彼女がここにいる理由はもうないのだから。自分の顔など、見ていることすら辛いだろう。なんせ、こんな田舎妖怪の代わりに未悠が――。
 睦美は、またぞろ込み上げてくる嗚咽に歯を食いしばった。
 不幸中の幸いというべきか。あの邪神にも仏心があったのか。引き換えにするのは、未悠の命ではなく身柄にしてやると、郁未に告げる珠呼の声を、薄れゆく意識の中で睦美は聞いていた。幾ら郁未でも、娘の命を引き換えにしてまで睦美を助ける決断は出来なかったに違いない。こうして睦美が生きているところを見ると、あれは幻聴ではなかったようだ。
 思えば、珠呼の要求は最初から未悠の身柄が目的だったと考えた方が正しそうだった。最初に無理難題を突きつけて、次に要求を渋々緩めて見せて、受け入れやすくするのは交渉や詐術の常套手段だ。一体何故、あの悪魔が未悠を欲しがるのかは分からないが。
「ねえちゃん!」
 耳元で怒鳴られ、睦美は自分の意識と肉体が乖離を起こしているのを自覚した。頭の中ははっきりしているつもりなのに、それが肉体に反映されない。いや、疲労感に引き摺られて、意識のほうも段々と綻んでいく。
 睦美は耳をそばだてないと内容の判別できそうに無い呻き声をあげた。
「なに!? 真琴ちゃんがおったんか!?」
 和巳の言葉に、傍らで美汐が目を見開いて口元に手を当てた。
 睦美は辛うじて真琴が怪我をしているものの、命に別状はないことを告げた。
 この場にいない事を思えば、恐らく珠呼が連れて行ったのだろう。どうして自分と同じようにこの場で治療しなかったのか、ろくな想像は浮かばなかったが、少なくとも命だけは助かっているはずだ。あの存在は、少なくとも交わした約定は絶対に違えない。それら真琴の行方や珠呼の存在なども伝えたかったが、無理やり再生させられた負荷は想像以上に睦美に圧し掛かっていたようだった。
 睦美は、最後に手にしていた書類を和巳に握らせると、意識を失った。



「樋端さん、樋端さん、しっかりしてください」
 何度か呼びかけるものの、今度こそ完全に意識を手放したらしく反応は返ってこない。美汐は和巳を振り返り、首を振った。
 和巳は沈痛な面持ちで手を合わせる。
「そうか、惜しい人を亡くしたわ、成仏してください南無南無〜」
「死んでませんから。脊髄反射でボケるのはやめてください」
「せ、脊髄反射は自分の意志では止められへんもん」
「…にいさん?」
「ごめんなさい」
 キッチリと返ってくるツッコミに、内心密かに「みーちゃん調子戻ってきたなー」と喜びながら和巳は睦美から渡された冊子に目を通しはじめた。
「詳しく真琴のことを聞きたかったのですが」
 思いもよらず行き当たった真琴の安否情報だったが、これでは何もわからないに等しかった。それでも無事が確認されただけでも、美汐は座り込んでしまいそうなほどの安堵を感じていたのだが。
 それにしても真琴の姿が見当たらないのはどうしてだろう。天沢郁未が連れて行ったのか? そもそも、彼女たちはどこで真琴と遭遇したのだろうか。明らかに戦闘を潜りぬけた痕跡が、睦美の様子から伺える。真琴を連れ去った連中と一戦交えたのだろうか。そもそも、彼女たちがこの街にいる状況から不明瞭で、美汐は付近を虱潰しにあたる今までの方法を続けるべきかも解からなくなり、さっきから黙りこくっている和巳に意見を求めようと、
「……兄さん?」
 彼は、食い入るように冊子のページを捲っていた。美汐の存在すら忘れ去っているのではないかと疑いたくなるほどの没頭ぶりだ。声を掛けようとして、美汐は思い止まった。和巳の顔つきが尋常でなかったのだ。心臓を握りつぶされているかのように脂汗を垂れ流し、蒼白な顔色となっている。ふと、美汐は八雲の状態を知ったときの和巳はこんな顔をしていたのではないか、と連想した。
「みーちゃん」
「は、はい」
「さっき電話通じへん言うてたみーちゃんの友達の名前、物部澄でよかったっけか」
「そうですけど…それが――」
「それってこの娘か?」
 そういって和巳がめくって見せてくれた冊子のページには、学生証のものらしき正面から撮られた写真と、盗み撮りされたと思しき様々なアングルから撮られた写真が何枚も貼り付けられていた。
「なんですか、これは」
 愕然としながら美汐はページを捲る。そこでまたも美汐は目を見張った。びっしりと書き連ねられた情報もそうだが、美汐の眼を奪ったのは書式そのものだ。特徴的な言い回しや整理法、これは一般的な興信所のものではなく、美汐の中にある知識に当てはめるなら多少アレンジしてあるものの、【帝諜】の俗称で知られる防衛調査局のものに近しい。いわば公儀諜報機関のベーシックスタイルで、七本槍家や天野家といった退魔組織の機密書類にも広く使われている書式だ。
「まさか……これは本当なのですか?」
 嫌な予感を覚えながら読み進めるうちに、美汐の表情に驚きが刻まれていく。
「澄が物部氏の直系?」
 物部氏。その名は一般人にとっては教科書の初期に習う古代の有力氏族の一つに過ぎないのだろう。だが、この弧状列島に根を張る術者にとっては物部の名は特別な響きに彩られている。
 古代日本において、氏族名に一族が司る職能を現すことは良く知られている話だ。が、物部氏――古代日本の軍事を担ったこの氏族が、日本最古の退魔集団でもあることは意外にも殆ど知られていない。その氏族名にはっきりとその職能が示されているというのにだ。
 物部の【物】とはモノ――つまり物の怪や鬼の総称であり、人外怪異の存在を指し示す。怪異を祓う職能集団――すなわち【モノの部】である。
 彼らの実力が如何程だったのか。それは中華大陸からこの世の果てと忌避された魑魅魍魎の巣窟だったこの国が、曲がりなりにも人の治める土地となっている、その事実からも明らかだろう。

「前ぞ闇、後ろぞ闇の秋津島。
 その魔、数えて八百万(やおよろず)

 美汐は無意識に、伝え聞く物部氏の逸話に付随するフレーズを口ずさんだ。
 人間が威勢を誇る後代からは、想像も及ばぬ時代であったことを示す文言だ。その人にとっては暗黒の時代を、文字通り切り開いたとされるのが朝廷の剣――物部氏であったと術者の間では伝えられている。

「いえ、ですが。今の時代、物部の末裔だからといって何らの意味もないはずです」
 困惑に美汐は首を傾げた。血統こそが力の根源であるという考え方は決して蔑ろに出来るものではないが、物部氏直系といえどこの時代、外からの血が加わり純血からはほど遠いはず。況してや澄の家は魔道とは何のかかわりも無い一般家庭。血統として魔術的に劣化していると考えるのが常識だろう。それに、どれほど潜在能力に優れていても、磨かなければただの石だ。物部澄は、今日に至るまで魔術に関する事には一切関わってこなかった。そんな澄にいまさら何の価値があろうというのか。
布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)というのを、みーちゃんは知っとるか?」
 疑問を投げかけた美汐に、返って来たのはその言葉だった。
 布都御魂剣――有名な神宝だ、知らぬはずがない。ヤマタノオロチを切り伏せたという十拳剣(トツカノツルギ)、そのヤマタノオロチの尾から発見され、後に三種の神器の一つとなった天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)――と並ぶ日本三大神剣の一振りだ。
 伝承に寄れば、東征にあった神武帝に武甕槌命(タケミカヅチ)より下賜され、並み居る神妖夷荻を討滅し尽くし、国土平定に大きく貢献したことから別名を『平国ノ剣(クニムケシノツルギ)』呼ばれることになった伝説の神格兵装。
「一時は実在しないものとして扱われていたものの、明治七年に奈良の石上神宮の禁足地から無数の装飾品とともに布都御霊剣の実物が出土した、と聞いています。現在は石上神宮に納められ、神祇省の管理下に置かれているはずでは?」
 その神剣と澄に何の関係が、と不思議に思いかけ、美汐はハッと思い至った。石上神宮は、そもそも物部氏の総氏神。いや、石上神宮云々より以前に、武甕槌命より下賜された布都御霊剣を神武帝に手渡した者こそ高倉下――物部氏の祖神であるニギハヤヒの子だ。後に布都御霊剣は再び物部氏の手に戻され、やがて蘇我氏との政争に敗れて天武帝によって取り上げられるまで、その神威は振るわれる事となる。
 関係というならばこれほど密接な関係も無い。そもそも、八百万の魔を討滅した物部の力の根源こそがこの神剣とまことしやかに伝えられているのだ。
 いや、やはりおかしい。美汐は眉間に寄った皺を指で揉んだ。
 繰り返すが、神剣の実物は石上神宮に納められ、神祇省の厳重な管理下に置かれている。現代においては、物部氏は遥か古代にその持ち主であったという以上の意味を持たないはずなのだ。
「その神剣と物部になんの関わりがあるというのですか?」
「関わりは大有りなんや。殆ど知られとらんけどな、布都御魂剣は武具としての剣やない。あれは、血統を触媒とした、降神術式や」
「降神……神降ろしですか!?」
「それも、神の力のみを降ろすタイプや。媒体となる審神者(さにわ)や巫女は、完全に自我を抹消されて使役者の意のままに神力を顕現させる発動器になってまう、文字通り単なる道具の剣としてな。つまり布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)とは正確には降神術式そのものの事を指し示し、同時に神力の発動器と化した媒体者の事を云うんや」
「で、ですが。なら、石上神宮で発見された剣は偽物?」
「いや、あれも本物と言えば紛れも無い本物なんや。尤も、あれの用途は封倶。布都御魂剣の顕現を制御するために造られたアーティファクト、つまり制御端末であれ自体は武器でもなんでもない。制御端末というても結局物部氏以外は扱えへんかったみたいやけどな。天武帝の御世に何度も大規模な天災が起こった記録が残っとるが、その殆どが神剣の暴走や。結局扱いきれんと判断され、布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)は封印されたんや。鹿島のとセットにしてな」
「鹿島? 鹿島神宮ですか」
 美汐は鹿島神宮にも『布都御魂剣』と呼ばれる神宝が奉納されている事を思い出して「あっ」と声をあげた。記録では鹿島に布都御魂剣がおさめられたのは704年。天武帝が石上神宮、つまり物部氏から神宝を奪い去ったのは七世紀後半、674年と言われているから、時期的には合致する。三十年、如何な強大とはいえ制御できない神の力に見切りをつける決意を得るには充分な時間だ。
「そうか。鹿島の布都御魂剣は奈良時代に製作されたものと聞き及んでいます。あれは単なる模造品ではなく、封印用の祭具だったのですね」
 鹿島に祀られている大神は布都御魂剣を高倉下に渡し、神武帝に授けた武甕槌命だ。武甕槌命のおわす鹿島の地に神剣を返却する一方、物部氏の総氏神である石上神宮では神剣を人の目の届かぬ地の底深く埋葬する事で、物部の手から神剣が離れた事を意味付ける。封倶そのものの呪力にのみ寄らず、そこに呪的な見立て――抽象結界を敷くことで十重二十重の封印を施したと考えることができる。
「そうや。やから禁足地から掘り出してもうた時点で、封印の効力はあらかた薄れてもうたんや。あそこに剣を埋める事自体が封呪の基盤を為しとったんやから」
 初耳です、と美汐はややも茫然としながら頭を振った。
「そのような話、私の知る限り、どんな資料にも載っていません」
「当たり前よ。元々、僅かな秘伝書以外には殆ど口伝で伝えられてた内容やぞ。封が解かれた現在でも神祇のよほど上の人間にしか知られてへん」
 そうなのか、と美汐は納得しかけた。ことは禁裏の最秘奥に繋がりかねない事柄だけに、厳重に秘匿されるのもわからないでもない、とそこで美汐は話の矛盾に気がついた。
「待ってください。どうしてそんな秘匿伝承を、和巳兄さんがそこまで詳しくご存知なのですか?」
 こう言ってはなんだが、御門和巳は実力こそ折り紙付きだが、その身は所詮天野家の食客に過ぎない。属する組織もない流れ者だ。顔はそこそこ広いものの、神祇の最秘を知る立場とは到底言えない。そんな和巳が、これほど詳しく神剣の実体を知っているのは美汐には不自然に思えた。
 和巳は肩を竦め、苦々しく口端をひん曲げた。
「ご存知も何も、禁足地から神剣を掘り出して封印壊したうちの家……御門家や」
 一瞬耳を疑う。
「なん……ですって!?」
「正確には石上神宮の大宮司を、御門家が焚きつけて発掘させたんやけどな。菅政友て言わはったか、ご当人は何も知らんと純粋に古代史研究のためやて思うてたそうやけどな。元は水戸出身の学者さんだけあって馬力があるというか純粋一途な人やったみたいで、騙くらかすにはうってつけやったみたいで――」
「どうして封印を破壊するような真似を」
 妙な方向に逸れ出す和巳の言葉を遮って、美汐は問い掛ける。
 和巳は再びあの苦々しげな顔になった。
「御門さん家は、明治の高倉下になりたかったみたいやわ」
 これ、どういう意味か分かるか? と試すような和巳の仕草に、美汐は固い表情となって答えた。
「明治新政府の降魔政道に就く、古代大和朝廷でいうところの物部氏の位置に座ろうとした、そういうことですか」
 ご名答、と思わず美汐の頭を撫でかけ、恥ずかしそうに引っ込める。ともすれば、昔の癖で美汐の事を子ども扱いしてしまう和巳であった。
「みーちゃんも知っての通り、幕末期はうちら術師にとっても混迷の時代やった。七本槍家みたく上手いこと時流に乗っかった奴らもおれば、変化を見極め損ねて潰れていった連中も山ほどおった」
「私は、御門家もその時流に乗り損ねた一門だと聞いていました」
「表向きにはな」
 御門家も、美汐の天野家も、元は安倍や賀茂という陰陽道の本宗に遡れる名門の血筋だ。南北朝時代の混乱により禁裏から下野したものの、衰退した陰陽寮に成り代わってその闇の術式を伝承し、江戸期の末まで東の天野、西の御門と呼ばれるほどの勢力を築いた退魔調伏陰陽道の大家であった。
 それが、明治初期に至り、西の御門家が突然崩壊した。それは見事なほど綺麗サッパリ滅亡して果てた。当時、西は大宰府から東は彦根まで藩国の枠を超え、もはや西域帝国と言っても過言ではないほどの威勢を誇っていた御門家が、である。
 今は、和巳の一家が細々とその名籍と術式を伝えているのみ、という有り様だ。
 通説では、当時明治政府が発布した陰陽道の禁止令のあおりを食らったからだ、という事になっているが、美汐はこの場に及びそれが随分とおかしい話であることに気がついた。
 なぜなら、御門と同じ陰陽道家である天野家には、不思議なほど弾圧の手は伸びていなかったのだ。御門家が潰されるほどの弾圧が吹き荒れたのなら天野家にも何らかの影響があって然るべきはずなのに、多少の圧力はあったものの美汐の知る限り苛烈な弾圧というほどではない。
 何かがあったのだ。御門家ほどの大家が叩き潰されるほどの何かが。
「自滅したんや、御門は」
 その答えは、和巳本人が教えてくれた。
「八百万の魔を討ち尽くした神代の剣、あれは人間が扱いきれるもんやなかったんや。やからこそ、封じられたものやったのに、増長した我がご先祖さまはそれに手を出して、火傷どころか消し炭にされてもうた」
 禁忌とされるモノには、相応の理由があるものなのだ。
 顕現に伴い暴走してしまった神剣を鎮めるために、御門家は擁していた術者の八割を喪った。当時、日本でも比類なき威勢を誇っていた退魔一門が文字通り壊滅してしまったのだ。震撼したのは新政府と誕生したばかりの神祇省だった。神剣はあまりの威力に再び禁忌と相成った。制御できない力など、神の怒りと何も変わらない。触れずに済むのなら触らずに済ませるべきだという理性的な判断だった。また、神剣を復活させるために御門家が犯した犯罪は、利用価値さえあれば大抵の事には目を瞑る節操の無さを見せていた新政府ですら見過ごせないものであり、御門家は中央からの情け容赦の無い粛清に晒された。神剣の暴走によって中枢を喪い、既に組織を維持できないほどの被害を受けていた御門家にまともな抵抗が出来るはずも無く、数年後には退魔組織としての御門家は地上から完全に消滅していた。
 初めて聞く、和巳の家の過去の歴史に息を呑んで聞き入っていた美汐は、はたとどうして自分たちがこのような話をしているのかを思い出した。
 慌てて、手にある冊子の続きを捲っていく。
「に、兄さん、つまりこれは!!」
「ああ」
 和巳は親の仇でも見るような険しい顔で頷いた。
「どうやらこの街で、神剣を復活させようとしとるドアホがおるみたいや」
「では澄が神剣の媒体――布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)!?」
 美汐は神剣の媒体となった人間が自我を抹消されてしまうという話を思い起こし、顔色をなくした。頷こうとして、和巳は「あっ」と声をあげた。
「そうやったんか!」
「な、なんですか?」
「春日や。くそったれがぁっ!」
 怒りも露わに和巳はブロック塀を殴りつけた。
「春日を先祖帰りで妖怪化させたんも、神剣に手を出そうとしとるのと同じ連中の仕業や」
 断言する根拠がわからず疑問符を浮かべる美汐に、和巳は続けた。
「神剣の顕現には特別な作法が必要なんや。一つは神が降りる場を清めるために、大量の魂魄を捧げる事。かつてうちのご先祖様は、これが為に千人近くが暮らす村を一つ丸ごと皆殺しにした」
「な――っ!?」
 美汐は言葉を失った。
 和巳の話の中にあった御門家の犯した大罪とはこの事か。
 押さえきれない嫌悪に、全身が震えだす。それは、虐殺ではないか。村一つとなれば、老若男女を問わないホロコーストそのものだ。しかも、単に一族の繁栄をもたらすためという私利私欲の為に、何の関係もない千人もの人間を殺した?
 酷すぎる。滅ぼされて当然だ。根絶やしにされて当たり前だ。そんな蛮行が許されては、社会が成り立たない。
「……すまん、こういう話は今回の件とか関係なしに先にしとかなあかんかったな」
「あ――」
 それが和巳の一族がなした悪行である事をつい失念していた美汐は、自分以上に嫌悪を露わにしている彼の腕を掴み、胸元に抱き寄せた。
 そうする事で、和巳自身には何の罪もないのだと伝わればと願いを込める。和巳が必要以上に苦しむ必要は、どこにもないのだから。
 思いが伝わったのか、和巳は照れ臭そうに笑うと、俯く美汐の頭を撫でた。そうして続きを口にする。
「そしてもう一つの作法は媒体となる人間の魂を神の力を受け入れられる器にするために、最も親しい者を自らの手で殺させる事や。そうして媒体者の精神を潔斎する。加えて、神力に魂が馴染むように古い血統に連なる種の生き血が必要なんやが――」
「蜘蛛の妖魔は古来より神位に近しい血族です。此花さんを蜘蛛神化させ、それを澄に殺させる。一挙に事を成せると、そういうことなのですか?」
 なんということを。美汐は自分の膝が震えているのに気付いた。恐れか、怒りか、自分でも解からぬほど頭の中がグチャグチャになっている。
「みーちゃん、悪いがマコっちゃんを探すんは後回しや」
 苦渋を滲ませながらも決然と言われた内容に、美汐はハッと息を呑む。
「下手したら……いや、まず間違いなく、この街で儀式は執り行われつつある」
 それが意味するところを、美汐は否応なく理解した。
「この街の住人が、神降ろしの生贄にされる!?」
「多分、あんまり時間はない」
 既に春日が絡め取られ、澄と連絡が取れない状態に陥っている以上、儀式の開始は時間の問題と考えるべきだった。
「急いでそいつら見つけて儀式を止めんと、えらいことになってまう」
「は……い」
 喉がカラカラに渇ききり、美汐は喘いだ。
 ほんとうにたいへんなことだった。
 真琴が行方不明になってしまったと思ったら、今度は学校の友達や街の見知った人たち、みんなの命が危険にさらされているだなんて、そんな話は映画のスクリーンで観るだけで充分だ。しかも、その一方で親友たちが互いに殺し合いをさせられそうになっているなんて。
 美汐は眩暈を感じて額を押さえた。
「笑えませんよ、こんなこと」
「不幸中の幸いは、マコっちゃんが無事やてわかったことか」
 ここで睦美に出会えたのは、まさに幸運の一言だった。
 計画書らしい冊子を持っていたことからも、恐らく睦美は神剣を復活させようという勢力の拠点に潜入したのだろう。そこで睦美たちが真琴を見つけて助けてくれたに違いない。
 春日を妖怪化させた連中が、神剣を復活させようという者たちと同一なら、その拠点に春日とともに失踪した真琴が囚われていたというのは決しておかしい話ではない。
 真琴の姿はこの場にないのが気になるが、恐らく睦美の仲間が保護していてくれるのだろう。睦美の様子だと、消耗した彼女だけここに置いて他の面子は別行動に出たようでもあるし。
 和巳は人形を取り出し、大柄な女性の姿をした式神を作り出した。このまま睦美を路上に寝かせておくわけにもいかないので、式神に運ばせる。幸い、睦美は極度に消耗しているだけのようで、安静にさえしておけば回復すると思われた。
「家に運んで寝かせておいてくれ」
「――――」
 任せろとばかりに親指を立て、式神は睦美を背負って大股に歩き去っていった。
 それを見送り、疲労した肉体に再び気合を入れるかのように、背筋を伸ばしながら和巳が呟く。
「出来れば、八課の人らと連絡取れたらええんやけど」
「ええ、そうですね」
 目的を同じくする頼りになる味方がいるのは心強い。今回の件は個人で対処するには山が大きすぎる。
「協力して事に当たれれば、此花さんと澄を助けるのも楽になるのです…が」
 ふと美汐は口を噤んだ。今、妙な違和を感じなかったか? 唇に指を添える。自分が物凄く的外れなことを口走ったような気になってくる。
 協力して――――澄を助ける――――楽に――――。
「……あ」
「……?」
 突然電源をオフにされたロボットのようにあらぬ虚空を見つめて固まっていた美汐が、声をあげた。
「そんな、でも……」
「ど、どうした、みーちゃん」
 見る見る顔色を蒼白にしていく美汐を見て、和巳は慌てた。狼狽も露わに美汐は青年の胸元に縋りつき、震える声で問いかけてくる。
「和巳兄さん、兄さんなら今起こりつつある危機を、どうやって回避させますか?」
「は? そんなん悪巧みしてる連中をとっ捕まえて――」
 ああ、この人ならそう云うだろうと思った。美汐は泣き笑いの表情になった。ゾッとするほど頭が回るくせに、根本的なところで善良なのだ。だから、こんな簡単なことに思い至らない。
 美汐は言った。
「私なら、まず禍根を断ちます。それだけで今回の危機の大半は回避できる」
 さすがにバカではない和巳は、その一言で美汐の言いたいことを察知した。
「おいまさか…物部澄を、殺すってか!?」
 まるで雷鳴に怯える子供のように、美汐はギュッと目を瞑って彼の上着の裾を握り締めた。その白んだ手に軽く手を添えながら、和巳は呼吸も忘れて頭をフル回転させた。
 やるか、やるのか、そこまで。物部澄は基本的には被害者。本来罪の無い民間人、それも未成年の少女だというのに。
 無論、美汐がではない。彼女が言外に問い掛けてきたのは、事態を鎮圧する立場にある公儀の判断だ。
 和巳は議論の余地がないことを認めざるを得なかった。
 やる、間違いなく公儀はその選択肢を選ぶ。美汐の言う通りそれが一番手っ取り早く、リスクが少ない選択肢だからだ。必死に逃げ隠れし抵抗するだろう集団を討つよりも、詳細もわからない儀式をチマチマと邪魔するよりも、何も知らない少女でしかない物部澄を殺害する方が遥かに迅速に危機を回避できる。賭けるチップは街一つ。いや、神剣が顕現したなら国そのものが危ういとなれば、少女一人の命を惜しんでなどいられない。社会全体の安全を預かる者なら、そう考えるのが正しい在り方だ。
 大坂の八課を預かる北川哲平は性格上、そうした判断を許容出来るとは思えないが、公安八課の元締めである九十九埼士郎は、和巳が伝え聞く限り決断に情を挟むような人間ではない。この街に投入されている八課の人員が大坂の面子であるかは怪しいところだった。地域的に見て、宮城か警視庁の本隊を持ってきているだろう。睦美たちは応援として――――。
 ……待てや?
 はたして、投入されるのは公安だけか?
 和巳は逸る思考を掣肘し、情報を整理する。
 モノは神宝――布都御魂剣だ。元々のこれの持ち主はいったい誰だ? 現在、神剣の封倶を管理しているのはいったい何処だ? そして、国家鎮護を揺るがす事態において、危機管理を担うのはどこのどいつだった?
 神祇だ。大日本帝国神祇省。
 こないな喧嘩を吹っかけられて、やつらがだまっとるはずがないやないか。
 そして、モノが神剣ともなれば、出てくるのは並みの連中ではないだろう。奥羽探題や甲州探題などの地方管区の甲種検非違使や、本省の衛士衆では済まないはず。
 そう、恐らくはあの――――。
「【征夷八色】…出てくるなら連中か」
 征夷の旗を前にして伏さぬ者無しと謳われる、自他共に認める帝国最強の異能者集団。人のまま人間の枠を逸脱した者ども。そんな化け物たちが敵に回ると言うのか。
 自惚れるわけではないが、腕には自信がある。はっきり言ってオレって天才ちゃうん!?と思うこともしばしばだ。
 だが、敵うのか? 御門和巳が。あの八旗衆に。戦うとして、敵うのか?
 和巳は表情が引き攣るのを必死に堪え、ジャケットの襟を正した。小鳥のように小さく震えている美汐をそっと見据える。

 今、覚悟が問われている。


「みーちゃん」
 動揺に思考が空転していた美汐は、食事中にそこの醤油を取ってくれと言うのと変わらない、リラックスしきった口振りで名前を呼ばれ、しがみついている男の顔を見上げた。
「合理的は判断とやらは脇に置いといて、や。みーちゃんは、どうしたいんや? 友達のこと、どうしたいん? それ、聞いときたいわ」
 彼は前方に視線を据えたまま、首筋に手を当てて、コキコキと骨を鳴らして首を回していた。
 そうして、美汐を見下ろして、ニヤリと笑う。こんな時だというのに、余裕すら滲ませて――。
 ……いや、違う。そうじゃない。兄さんの様子を良く見てみろ。唇が蒼褪めている。笑みが引き攣っている。目蓋が小刻みに震えている。首筋に当てられた指が肌に食い込んでいる。
 どこに余裕なんかあるというんだ。全部、見せ掛けじゃないか。
 だが――いや、だからこそ。
「にい…さん」
 それを見た瞬間、狼狽も動揺も、右往左往していた混乱のすべてが、瞬砕された。
 それを見た瞬間、灼熱の炎に胸を焼かれた。細胞という細胞が熱を帯びて打ち震えた。
 それを見た瞬間、肝が据わった。いや、覚悟が決まった。

 ――この瞬間。
 天野美汐は己の我が侭を、どんな正義や理不尽に立ち塞がれたとしても、貫き通すだけの覚悟を決めた。

 美汐は瞳を閉じた。
 状況は最悪だ。敵の正体は不明。街全体が危機にあり、親友同士が殺し合いをさせられようとしている。その上、味方は誰もいない。いや、それどころか味方と頼みたい人々まで恐らく敵に回るだろう。
 それでも揺るがない。自身の内に産まれ生じた決意の強さを確認する。
「私は、澄を助けたい。彼女には、まだ返し切れていない借りがたくさん残っているのです。それになにより――」
 自然と微笑が浮かんでくる。
「彼女は、私の友人なのです」
 凛と身を正し、美汐は寄り添う男の顔を見上げた。
「お願いします、兄さん。私を、助けてください」
 彼は吹っ切れたように、嬉しそうに、ケラケラと笑った。
「任せろ。みーちゃんは前だけ見てな。このオレが誰にも邪魔はさせへん」
「はいっ」

 広大無辺の信頼が、美汐の隅々まで満ち満ちていく。それは盲信とは全く異なる、血の通った行き交う想い。
 仮にも女であるならば、和巳のあの笑みの意味するところを感じ取れないはずがない。

 あれは――女のために世界を敵に回す覚悟を決めた男の笑みだ。

 そんなものを向けられて、臆するわけにはいかなかった。
 賢しらに振舞うような真似をして、惨めになるわけにはいかなかった。
 天野美汐にも、女としての矜持がある。
 あれほどの想いを傾けられて、奮い立たねば女が廃る。
 …やってやりましょう。
 天野美汐は裾を翼の如く羽ばたかせ、凛然と身を翻した。
 思うが侭に振舞おう。願うが侭にやり遂げて見せよう。
 なに、難しくはない、簡単だ。今の自分に出来ない事はなにもない。
 味方が誰もいなくても、周りの全てが敵だとしても、彼がここにいてくれるなら。
 天野美汐に出来ない事など一つも無い。
 友人の一人や二人を助けるぐらい、欠伸混じりに成し遂げられずにどうしてこの人と歩むことが出来ようか。
 私はもう、誰も八雲のように喪わない。

「そうでしょう、天野美汐」
 美汐は女王のように彼の手を取った。
「行きましょう、兄さん」
 和巳は騎士のように気障ったらしく彼女の手を握り返した。
「はいよ、何処まででもお供しますぜ、マイレディ」










< 10:41  ??? >


 あたしは、死んだのだろうか。
 漠然と、真琴は思った。
 気がつけば、何も見えない闇の中。ポッカリと自分の身体だけが浮かんでいる。真っ暗な中で、自分の姿だけはくっきり見えるのだから、ここは光がない場所なのではなく、何もない場所なのだろう。
 虚無、という言葉が浮かぶ。ああここはまるで、死の世界そのままだ。
 水の中にいるかのような浮遊感。息をするだけでも気が狂いそうな痛みが走っていたのに、今はその苦しみも遠ざかっていくばかり。
 身体が芯から冷え切って、心は凍え縮こまる。
 寒さに、涙が出そうになった。
 誰もいない、何もない、そんな闇にただ独り。
「い、やだ」
 これが、死ぬということなんだろうか。
「し……にたく、ない」
「なれば、生きたいと申すのかえ?」
 どこからともなく声がした。
 気がつけば、真琴を見下ろすようにして一人の幼い少女が佇んでいる。
 鍔の広い真っ白な帽子を被り、純白の涼しげなノースリーブのワンピースを可憐に着こなす十歳前後の幼い少女。それが、じっと逆さまに真琴の顔を覗き込んでいた。
 白い白い面差しが、愉快そうに嗤ってる。
 真琴は少女を、死神だと思った。
「良いではないか。死んでしまえ。ここで終っておけばよい。汝の記憶、観せてもらった。汝は今、幸せなのじゃろう? 汝は今、幸せの只中におるのじゃろう? なれば、そこで終っておけ」
「どうしてよ。しあわせなのに、どうして死ななくちゃならないの?」
「死ねば、幸せのままで終われるからじゃよ。ここで生きても、汝はいつか後悔する。人という種の裏切りを思い知る」
 反発心に、闇の底に溶け始めていた意識が戻ってくる。
「美汐は、小太郎はっ、みんなはあたしを裏切らない。みんなあたしを大切にしてくれた!!」
「裏切るさ。人は我らを裏切るのじゃ。どれほど優しくしようとも、どれほど愛してくれようとも――――彼奴らはみんな、先に死ぬ」
「――――ッ!!」
 背中から心臓を槍で突かれたような衝撃だった。真琴は、足の下に奈落が広がっていく感覚に打ち震える。少女は蕩かすように狂々と嗤う。
「だから、今のうちに死んでおけ。独りぼっちは嫌なのじゃろう? 置き去りにされるのは怖いのじゃろう? 孤独を怖れる子狐よ。されば今ここで死んでしまえ。さすれば誰も汝を忘れぬぞ。皆が汝を懐かしみ、汝を心に住まわせ、汝を愛してくれるじゃろうて」
「あ…う…」
「それとも生きて、独りになるか? 誰もが汝を置いて逝く。誰も汝を知らなくなる。汝を残して去っていく。孤独とは、生きてこそ味わう煉獄ぞ」
 漣のように少女の言葉が真琴の心に響き渡る。
 忘れていたわけじゃない。見ない振りをしていたわけでもない。ただ、実感が湧かなかっただけなのだ。
 水瀬真琴が、人間ではないだなんて。
 人間の中で生き、人間と共に暮らし、人間のように未来に夢を見る。人間を友とし、人間を愛し、人間と絆を結ぶ。
 そんな風に過ごしてきた自分が実感なんて出来るはずないじゃないか。
 美汐、祐一、名雪、秋子さん、あゆあゆ、栞に香里、潤、一子、木乃歌、舞に佐祐理、そして俊兄、小太郎。他にも沢山、マスターや和巳や美汐パパ、まだまだたくたんたくさん自分の周りには人がいる。

 そんなみんなが、いずれ自分よりも先に死んでしまうなんて。

 知識としては知っていた。妖怪が、生物というよりも現象に近い存在なのだという事を。人よりも遥かに長く現世に存在し続けるモノなのだと。
 少女の姿をした死神は揺り篭を揺らすように問い掛けてくる。
「それでも、汝は生きたいと願うのかえ?」
「あたし……は」
 かつて、水瀬真琴は運命を拒絶した。
 一時の幸福を得る代償に、消え去るはずの運命を。
 ぬくもりをくれた人たちと、もっと一緒にいたいという想いに必死にしがみついて、真琴は運命に打ち勝った。
 だが、それは錯覚だったのだろうか。運命を乗り越えたなど、思い違いをしていたのではなかろうか。
 どちらにしても変わらないじゃないか。一緒ではないか。あの人たちと、同じ時間を生きられないという現実は、何も変わらなかったのだから。
 選択など虚構に過ぎぬ。真琴は独り、いずれ孤独の闇に咽び泣く運命なのだ。
 茫然と見開いた真琴の目から、滂沱の涙が溢れ出す。それを見て、狂々と嗤う少女の口元に寂しさと侮蔑が混じ入った。
「あたしは」
 興味を無くした風に、背を向けようとした少女の動きがピタリと止まる。
「あたしは、それでも生きたいよぅ」
「……はは」
 再度真琴を振り返る少女の目に輝きが宿る。
「あたしは、まだ後悔してないもん。まだ独りじゃないもん。まだ、足りない。まだまだ幸せを味わい尽くしてない」
「ハハッ、ハハハハハッ」
「あたしは満足してないの。あたしはまだ何もしてない、何も叶えてない、何も手に入れてない。足りない足りない、こんなんじゃ全然足りてない! もっと、もっと、もっと、もっと――もっとあたしは」
 泣き喚くように、真琴は叫んだ。
「幸せになりたいの!!」
「くはっ、はは、あはははははははははははははははははははは!!」
 哄笑が死の如き暗闇に戦慄き響く。
 弾ける喜悦を隠そうともせず、白い少女は身を捩り全身を震わせて狂笑した。
「素晴らしい、素晴らしいぞ小娘。なんという欲深さ、なんという浅ましさ、なんという妄執、なんという傲慢さ。まるでまるで――

 ――――人間のようではないか!!」

 だがそれでいい。それでこそ、手を差し伸べる価値がある。
「よかろう、子狐よ。汝に資格ありと認めてやる。汝の死、妾がここに否定する」
 闇に仄かな光が生まれた。光は生き物のように差し出された少女の腕に集っていく。真琴は魅入られたように光を見上げた。
 綺麗だと思う。光の珠も、その光に照らし出された少女の貌も。
 綺麗すぎて、禍々しい。
「然して、その浅ましい想いの強さ、欲深き願いの激しさ、蒙昧なる意志の確かさ、妾の前に示すがいい」
 じゃが、と少女は微笑んだ。まるで神さまみたいな邪悪な微笑。
「汝は後悔するかもしれぬぞ。今ここで、死んでおけばよかったと。胸に刻め、幼子よ。都合の良い救済など、この世には在り得ぬのじゃ」
「――――あ」
「妾は汝に所望する。これは正当な代価である。而かして並びに試練でもある。妾に証明してみせよ」
 なにを、とは一切少女は口にしなかった。
 光の珠が真琴の胸に沈んでいく。ドクンと心臓が戦慄いた。鼓動が、大砲の着弾のような激しさを帯びていく。
「――がっ」
 真琴の身体が弓なりに反り返る。ブン、と音を立て肢体の輪郭がブレた。ザワザワと肌が泡立ち、溶岩に浸されたように身体が燃え上がった。青白い炎が傷だらけの真琴の身体を嘗め尽くしていく。
「あ…あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 目玉が飛び出しそうなほど眼を見開き、真琴は絶叫した。何かが入ってくる。身体が飴のように融けていく。命が加速していく。これはなんだ、なんだ、なんだ? 炎が、魂にまで燃え移ったかのようだった。水瀬真琴という存在を駆動させる炎にガソリンがぶちまけられたみたく、力が燃え上がる、生命が燃焼する。気持ちが滾って止まらない。理性と本能が乖離していく。身体が窮屈でたまらない。窮屈すぎて、真琴は融け落ちていく肉を掻き毟った。裂けていく皮膚を剥ぎ取り、こびりつく肉をこそぎ取り、本当の自分を解放していく。
 傷の痛みなど消えていた。鉛のような体の重さなど吹き飛んでいる。熱い。熱くてたまらない。
「うわああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアア唖亜唖亜唖亜唖亜唖亜唖亜唖亜唖亜唖亜唖亜唖亜唖アアああ唖唖あ唖ア唖亜アああアあ亜亞――――――」
 青い炎に呑まれ、のた打ち回る水瀬真琴は徐々に人の姿を失っていく。その様子を少女――珠呼は薄らと微笑み見守っている。
「妾が与えるは救いではない、恵みでもない。一抹の可能性に過ぎぬのじゃ。その先にあるものがはたして希望か、はたまた座して死するより一層の絶望であるかは汝次第。ただ、妾はちと厳しいぞよ。死を覆すほどの奇跡の代価、汝に払えるかや?」
 だが酷薄な笑みとは裏腹に、その広い唾から垣間見える瞳の色は、不可思議なほど優しかった。
「さて汝は妾に見せてくれるのじゃろうか。美しき想いの力。岩をも貫く刃金の如き熱き願い。強き心の輝きを」
 苦しみもがく絶叫が、猛り狂う遠吠えと化していく。珠呼は楽しげに帽子を目深に被り直した。














<10:50 公園 噴水広場 >


「お茶、呑む?」
 差し出された水筒のカップを受け取り、薫は一気に飲み干した。木陰に隠れているからといって、この暑さの中ジッとしているのはかなり耐えがたい苦行である。
 それにしても色々用意してるなあと、自分もお茶を注いで煽っている香里を横目で眺めた。持久戦になるのを想定してか、パンパンに膨らんだデイバックの中には様々なものが詰め込まれているようだ。妙にこういう状況に手馴れているように感じるのは気のせいだろうか。いずれにしても、この人、ほんとはやる気満々だったようにしか見えない。
 薫はといえば、元々あんまりなかったやる気がとうに底を打っていた。
 他人がイチャイチャしてる場面を見てるほど、気力を削がれるものはない。少なくとも、祝福する気になれないカップルを見ているのは苦痛でしかなかった。
 栞と氷上シュンは誰の目から見ても仲が良さそうにベンチに腰掛けて談笑している。主に喋っているのは栞の方で、手に絵画の絵筆を持って大きな手振り身振りをまじえながら自分の失敗談を語っているようだった。氷上はそれを、相槌をまじえて聞き入っている。時々、おかしそうに笑い声を立てながら。あまり大口を開けて笑うタイプには見えないだけに、彼がリラックスし切っているのが何となく伝わってくる。恋人同士の甘い雰囲気というには語弊があるが、二人が親密である事には疑う余地はなさそうだった。
「なあ香里姉ちゃん、もう帰ろうや」
「あら、どうして」
 プリッツをポリポリと齧りながら完全に観賞モードに入っている香里が、振り向きもせず問い返してくる。薫はうんざりと息を吐いた。
「これ以上見ててもしゃあないよ。邪魔したら悪いし、もう撤収しようや」
「いいの?」
「いいの……って。別に、おばさんに言われて様子見に来ただけやし、心配せんでもあの人、悪い人やなさそうやし…栞ともええ感じやし。……いいよ、もう」
 言ってる間にどんどん気分が滅入ってきて、薫は投げ捨てるように言葉を切った。
 香里は嘆息した。
「ひとから見たら、あたしもこんなむかつくのかしら」
「はい?」
「あのさあ」
 香里はその場に胡座を組むと、ぞんざいに前髪を掻き揚げながら蓮っ葉に言った。
「薫くん、栞のこと好きなのよね?」
「なんっ!?」
 一瞬、地面が針山になったみたく飛び上がる。
「なんよ、それ! や、やめてや、そんな人をゲテモノ好きみたいに」
「うちの妹はゲテモノかい」
 あながち間違っちゃいないのが、姉として心苦しいところだ。
「まあ否定するならするで勝手だけど、逃げちゃっていいわけ?」
「逃げる、とか言われても」
「一度逃げ出すと、二進も三進もいかなくなるわよ。もう泥縄って感じで、自分でも判ってるのに」
 一瞬幽鬼めいた表情になり、香里は顔を横に傾けて澱んだ目を眩しそうに眇めて栞たちを見やった。ゴシゴシと目元を擦り、半面を手で抑えて深々と息を吐く香里は、薫にはまるで精根尽き果てたかのようにボロボロに見えた。
「あたしが言えた義理じゃないんだけど」
「香里…姉ちゃん?」
「ん……ごめんなさい。なんか愚痴入っちゃったわね。あたしがいいたいのはね」
 言葉を選んでいるのか、香里は人差し指を顎に当てて目蓋を閉じる。
「自分にだけは嘘をつかない方がいいって事かしら。それは多分、勇気がいるんだと思うけど。ほんとにね、自分にぐらいは正直でないと、なにをどうしたらいいかさっぱり訳がわからなくなっちゃうときがあるから。もうグチャグチャにね。だから傲慢でも我が侭でも自己中心的でもなんでもいいから、自分の気持ちとかしたいこととか、それが在ることくらいは認めておくべきなのよ。実行するかどうかはまた別としてだけど」
 一息に言い切り、香里はげんなりと肩を落として痙攣したみたくヒクヒクと笑った。
「あー、これってもしかして自傷行為ってやつかしら。イタタタタ」
 香里に何が在ったのかは知らないけれど、今の言葉からは痛いほどの彼女の実感が伝わってきた。
 自分の気持ちを認めろ、か。
 ないものとして扱えば、きっととても楽なのだ。在る事を一旦認めてしまったならば、人はその存在を無視できなくなってしまう。観測する行為そのものが、対象に影響を及ぼすというやつだ。その気持ちに従うにしても、否定するにしても、保留し続けるにしても、とても大きな力が必要となる。二度と身動きすらもしたくなくなるような疲労や苦しみを伴う労力が必要なのだと、人はどこかで知っているのだ。
 だから、無かった事にしてしまいたい。
 だから、在るのだと認めることに、勇気を必要とする。
 でも、まず在ることを認めなければ、何も始める事が出来ないのだ。いや、始まりどころか終わることすら出来ない。
 北川薫は、美坂栞が好きなのか否か。
 それについて、考えること自体が息苦しい。背を向けて一目散に逃げ出したくなる。誰でもない、自分に向き合うただそれだけの、ひとひらの勇気すら今の自分にはないようだった。

 シュンとなって落ち込んでしまった薫に、あららと香里は苦笑いを浮かべた。思ってた以上にこの子は根っから真面目よね。聞き流してしまえばいいだろうに、自分なんかの言葉を真剣に受け止めてしまっている。あんなの、泥沼にはまってもがいているだけのしがない女の繰り言なのに。
 ったく、可愛いじゃない。香里は胸の奥を擽るような淡い感触に頬を緩ませた。妙なところで生真面目なところなど北川くんに似ているかも。近頃ではもう黒々と焦げ付いて抑揚を失ってしまったと思っていた心臓の裏側辺りの感覚が、キュと身悶えしたみたいに弾んでいる。
 香里はペロリと舌なめずりした。
「ねえ、薫くん」
 突然先ほどまでと香里の声質が一変する。薫は蛇に顔を舐められたような悪寒にギョッと顔をあげた。
「なんだったらあたしで練習してみる?」
「なっ……なっ、なっなななななんの!?」
 香里はするりと両手を薫の首に回して猫のように寄りかかった。そうして顔を耳元に寄せ、擽るように囁いた。
「決まってるでしょ。自分に正直になる練習」
 それはさきほど貴女が仰っていた話とは同じ正直になるでも全然違う内容のような――。
「わっ、わあああ、かっ香里姉ちゃん、ちょ、や、ままま待って待って待って待って!!」
「んふふふ、なにを待つのかしらぁ?」
 ちゃんと言わないと判らないわねえ、と滅茶苦茶楽しそうにほくそ笑みながらなおも寄りかかってくる香里。もはや組み伏せられているとしかいえない体勢に成り果て、薫は悲鳴をあげた。
「あら、そんなに嬉しいの?」
「嫌がってるようにみえるんだけど」
「失礼ね。どう見ても喜んでる……」
 いやぁな予感に香里は舌なめずりを途中で止め、ペコちゃん人形みたいな顔で視線を上方にずらした。
 案の定、般若の面相になった妹が仁王立ちにそこにいた。
「あら」
「あら、じゃなぁぁぁぁい!! お姉ちゃんっっ、真っ昼間から天下の憩いの場でチビっこ押し倒してなにをやっとるんですかぁぁっ!!」
「なにって……プロレスごっこ、もしくは相撲?」
「黙れ変態姉」
「し、しおりぃぃ、うわぁぁぁぁん!」
 香里の下から這い出た薫は、もうなんか恥も外聞もない感じで救いの神に縋り寄った。
「げげげ、薫くんマジ泣きじゃん!?」
 マジ泣きであった。
「おーよしよしもう大丈夫だよ、怖くないからねー。栞お姉さんがついてますよー。って、こらお姉ちゃん!!」
 残念そうに指を咥えてる香里から庇うように、栞は薫を抱き寄せてギタリと姉を睨みつけた。姉、首を竦める。
「むー、なによー。ちょっとしたスキンシップじゃない。あんたもやってるでしょうが」
「お姉ちゃんがやると犯罪になるんです!」
「なんでよ! というかあんたデート中でしょうが。なんでこっち来るのよ」
「あれだけ騒いでたら嫌でも気付くわっ! そもそもどうしてお姉ちゃんたちがここにいるの!?」
「見たらわかるでしょ、デートよ!」
「黙れ覗き魔!!」

 井戸端会議を繰り広げていたお母さん方が、子供を連れて逃げていく。もう一組いたカップルもそそくさを広場を離れていった。いつの間にか噴水広場から人影が消え失せてしまっている。それに気付いた様子もなく栞たちは罵りあいなのかなんなのか良くわからない怒鳴りあいを止めるどころかエスカレートさせている。
 僕、絶対忘れられてるね。ポリポリと頭をかく氷上。
 ただ不思議と今だけは、忘却に晒されていることが辛くも寂しくもなんともなかった。
「本当に栞さんは面白いな」
 なんだかもう栞たちの会話やら仕草やらの一つ一つがツボに嵌って、氷上シュンは笑いをこらえるのに必死だった。
 ふと栞が抱き寄せている中学生ぐらいの少年と目が合う。
 涙目になっていた彼は、氷上が自分を見ているのに気付くと顔を真っ赤にして栞から離れようと暴れ始めた。
「おや、見ちゃ悪かったかな?」
 親の仇でも見るような目で睨み返され氷上は苦笑した。まあ男としたらあんまり格好良い姿じゃないか。
 栞はというと、姉との言い合いに夢中になって暴れる薫を逆に締め上げ始めている。
 もうしばらく氷上は放置プレイを楽しむ事にした。









< 同刻  向島スパ・ワールド >


「ぷはっ!」
 キラキラと水しぶきを弾いて、月宮あゆは水面に飛び出した。50mプールを一気に泳ぎきった心地よい疲労感に浸りながら、頭を振って毛先から水を飛ばした。
「よっと」
 水からあがり、プールサイドに腰掛けて顔に掛かる髪を両手でかきあげる。本人は気付いていないが、そういった仕草の一つ一つに女性らしい柔らかなものが備わり始めている。そんな彼女をお子様と笑う者はもういないだろう。
 莟は花へと開くのだ。
 まあ中には莟だろうと花だろうと気にもとめない馬鹿者もいるのだが。
 大きく息をついて呼吸を整えたあゆは隣にあがってきた雪村要に感心をこめて話し掛ける。
「要さん、泳ぐのうまいね。ボク、驚いちゃったよ」
 要は簾のように前髪で目を隠した格好のまま、淡々と言った。
「なに、それほどでもない。学生時代、映研の手伝いでよく水死体の役をやっていたからな。水に浮くのは慣れている」
「そうなんだ」
 なんだか見た目もアレなので水死体と話してる気分である。話の内容も見た目もにこやかに「そうなんだ」で済ます時点であゆも色々な意味で何処か前人未到の領域に到達してしまっている。
「さて、ではそろそろ次のプールに行ってみようか」
「あ、ボク流れるプール、行ってみたいな」
「ふむ、流水プールか」
 立ち上がった雪村はその高い身長を駆使してひょうたんの形をしたプールのある方角を確かめた。
「ボク、今まで二回しか流れるプールって入ったことないんだけど、あれ面白いよね」
 長年植物状態になってたお陰でプール自体あまり遊んだ経験のないあゆなので、どんな形状のプールでも楽しくて仕方がないようだった。
 今度、ここにはない波の出るプールがある遊泳場に連れて行ってやろうと考えながら、雪村は相槌を打った。
「うむ、あのうつ伏せになったまま流されていくときの感覚はえも知れぬ快感だな」
「息はしようね、要さん♪」
 あゆはニコニコと注意した。まったく動じていないあたりはさすがである。まあ普段より浮かれているというのもあるのだろうが。
「どうしてだ? 水死体は息をしてはいけないのだが」
「うぐぅ、勝手に水死体にならないでよ」
 少女は雪村の前でピョンピョンと跳ねると、ビシっと指を突きつけた。
「流れるプールはね、流れに逆らってひたすら上流に向かって泳ぎつづけるのが作法なの。ゆーあんだすたん?」
「なるほど。それはいっそ爽快なほど他の客の迷惑を顧みない野性的な作法だな、あゆくん」
 感嘆をまじえて雪村は恋人のワイルドさを褒め称えた。
「他の客を押し退けて遡っていくのが楽しいんじゃないか。そうして他人を蹴落として上流に辿り着いたものだけが次代に血を残せるんだよ」
「鮭の産卵といろいろ混同しているぞ、あゆくん」
 恋人らしいとは到底言えないが実に彼ららしい会話を繰り広げながら、二人は流れるプールのプールサイドへと移動したが、丁度混雑の波が流れるプールへと集まっているらしく飛び込む隙間がないほど水面は人の頭で埋まっていた。
「お玉ですくいたくなる情景だな」
「灰汁じゃないんだから、要さん」
「しかしこれは入るのは少し遠慮したい状態だ」
「そうだねえ」
 うつ伏せに流されるのも上流へと這い上がるのもこの状態では無理そうだ。仕方なく別のプールに移動する事にした二人はウォータースライダーで遊ぶ事にした。ここも決して空いているとは言えないものの、丁度人の移動の隙間にあったのか他と比べれば並んでいる人数もそれほどではない。
「うぐっ、ボクこういうの乗るのはじめて」
「そういえばあゆくんは高いところは大丈夫だったか?」
「遊園地の時にも言ったけど、ボクはわりと平気なんだよ」
 高いところがトラウマになってしまったのは、あゆが落ちるのを見ていた祐一の方だ。彼の耳元で「アイキャンフラーイ!」と叫ぶのは水瀬家のご法度となっている。
 ようやく一番上まで階段をあがり、スライダーの乗り口が見えてきたところで雪村がふと思い出したように言った。
「知っているか、あゆくん。このプールのウォータースライダーには一本だけ外れのルートがあるらしい」
「ええ!? は、外れってなにさ!?」
「ふむ、なんでも外れのルートは隣の水族園に通じていて、外れを引いてしまった人は鮫がいる水槽に放り出されてしまうそうだ」
「うぐぅっ!?」
「毎年何人もの犠牲者が出ているそうだ。ほら、あそこに石碑があるだろう。あれは犠牲者を追悼する慰霊碑だ」
「う、うぐぅぅ!?」
「お客さん、うちのプールの隣に水族園なんてありませんよ」
 列の整理に当たっていた職員がガタガタ震えているあゆに呆れ顔で告げた。
「ええっ、嘘なの!? ひどいよ要さん!」
 顎に手を当て雪村は何度も深く首肯した。
「なるほど、これは楽しいな。相沢くんや明日奈姉さんが君をからかいたがるのも良くわかる」
「そんなの一生わからないでくれていいよ」
 自分でも何でこんなの信じるんだろうという話に引っ掛かるのが恥ずかしく、まだ笑いが残っている雪村と顔を合わせていられなくなり、あゆは拗ねて顔を背けた。
 ついでに、一応…一応念のためにスライダーのチューブが変なところに通じてないか確かめようと、あゆは手摺に寄りかかってチューブのラインを目で追い、
「ああっ!!」
 大声に誰もが驚き声の主を振り返った時にはもう、あゆは飛び出していた。人ごみを整理するのに掛かりきりになっている職員の脇をすり抜け、スライダーに滑り込む。
「あっ、お客さん!!」
「あゆくん!?」
 ただの順番抜かしとは思えない、血相を変えてスライダーに飛び込んでいったあゆを呆気に取られて見送ってしまった人々は、彼女が滑っていく先に視線を向けてようやく事態に気がついた。
 あちらこちらから悲鳴があがる。
 なんと一人の5歳くらいの男の子がチューブの外側にしがみついていた。
 チューブを流れる水の水量が少なかったのか他になんらかの理由があったのか、いずれにしても途中で止まってしまった男の子が外に身を乗り出してしまったようだった。普通ならあのぐらいの年齢の子供を一人でスライダーに滑らしたりはしないのだが、職員が整理にかまけている間に勝手に滑ってしまったらしい。

 男の子のもとまで滑り降りる間に、あゆはもう三回は職員に訴えて助けに行ってもらえばよかったと後悔していた。チューブの縁に掴まって足をばたつかせている男の子の姿を見た瞬間、反射的に飛び出してしまったのだが、こんなだから考えなしといわれるのだ。いや、今回は仕方がない。子供の体力であんな斜めになった縁に何秒も掴まってなんていられない。職員に訴えている間に子供が落ちてしまう。
 場所の見当をつけてあゆは四肢を踏ん張った。キュルキュルと気持ちの悪い音を発してスピードがゼロになる。
「いたっ!」
 チューブの外に身を乗り出して子供の姿を捜したあゆは、自分が正確に子供の間近に止まれた事を知った。と同時に時間もギリギリだったことも。
「うわぁぁぁん」
「待って、今――」
 怯えきっていた子供が耐え切れなくなり泣き出してしまう。その途端、必死にしがみついていた子供の手がチューブの縁から外れた。
 もう無我夢中だった。
 あゆはチューブを乗り越えると、縁を掴んだ片手だけを命綱に空中に飛び出す。
「くぅ」
 間一髪、落ちていく子供の腕を掴み取る。
 自分の体重プラス子供の重さ、さらに落下の勢いが一気に片腕に襲い掛かり、あゆは喉の奥で悲鳴をあげた。腕の筋が引き攣れ握力が一瞬にして消え失せる。
 だ、だめっ、こんなのもたない。
「ぎゃあぁっ、やだぁぁこわいよおお!」
「あ、暴れないで」
 宙吊りにされた恐怖にパニックになった子供が暴れ出す。
「あゆくん、今行くっ、待ってろ!!」
「要さん?」
 はじめてみる必死な顔をした雪村が、チューブの縁に掴まりながら滑り降りてくる。
「か、かなめさん、ダメ、ボクもう」
 下は水深がふくらはぎまでしかない幼児用プールだ。コンクリートの上に落ちるのとさして変わらないだろう。
 ま、また落ちちゃうのか、まいったなあ。
 どうしてだか恐怖もなにも感情が湧き立たず、あゆはひどく困惑した気分で自分の行く先を認めた。
 奇跡とは、もしかしたら単に借金の棒引きにすぎないのかもしれない。じゃあ運命とは絶対諦めずに負債を取り立てにくる借金取りみたいなものか。
 そんな風に考えるとなんだか身も蓋もないけれど。
 うんそうか。
 つまり、自分は高いところから落ちて死ぬのが運命だったというわけか。
「う、ぐぅ……それはなんだか、い、嫌な運命だなあ」
「あゆくん!!」
「ご、ごめん、もう手が――」
 そのとき、子供が足をばたつかせて身を捩る。咄嗟に子供の手首を掴む手に力を込めたその瞬間、
 ズルリと。
 チューブの縁を掴んでいた指が外れた。
「あ」
 身体はあの時の――樹から落ちた時の感覚をはっきりと覚えているようだった。一瞬絡め取られた浮遊感に、全身が総毛立つ。
 いまさらのように恐怖が魂を殴打した。
 身が竦む。心が縮む。
 あゆは目を見開いて遠ざかる人の名を泣き叫んだ。
「っだッ、要さん!!」
「――――ッ!!」
 あゆも、ウォータースライダーの上から見ていた人も、下から見上げていた人々も、
 誰もが声を揃えて証言した。

 そのとき、雪村要に一瞬の躊躇もなかったと。

「うそっ!?」
 永遠に遠ざかってしまった人の顔が、目の前にあった。
 彼は空中であゆを捕まえ、彼女が落下の衝撃から庇おうと抱き寄せた子供ごと、その長身に抱え込んだ。
 そうして視界が水に覆われるその瞬間まで、あゆは自分が落ちていることも忘れて茫然と目を見開き続けた。




「………………あれ?」
 滝のように水が頭上から降り注ぐ。一際大きい水玉に顔を打たれ、あゆは我に返った。
 落ちた、んだよねボクたち。
 放心しながらあゆは自分が幼児用プールの底にへたり込んでいるのを確かめる。なぜだか水深が爪先ほどに減ってはいるが、確かに上から見た幼児用プールだ。
 痛みは……多少身体のあちこちがどこかにぶつかったみたいに痛いが、それだけだ。怪我らしい怪我もしていない。
 恐る恐るあゆは周りを見渡した。腕の中には恐怖に硬直している子供。後頭部と背中にはあゆたちを庇った雪村の胸板の感触がする。一瞬、死んでしまったのかと思ったが、背中からは雪村の確かな鼓動が伝わってきていた。
 落下の衝撃でなのか見上げるような水壁となって立ち昇っていた水しぶきが、勢いの衰えた噴水のように消え失せていく。まるで幼児用プールの水全部が空中に噴きあがっていたかのように、もとの水深が戻ってくる。
「大丈夫、怪我は無い?」
 水のスクリーンが消え去ったとき、あゆは目の前に一人の麗人が立っている事に気がついた。
 景観的に凶悪すぎるビキニ姿でなければ女性と間違えたかもしれない。
 毛先に目に優しくない色のメッシュを入れ、ドギツイ色のアイラインやルージュで顔に化粧を施したその男性は、呆れかえった顔であゆと彼女たちが落ちてきた場所を交互に見上げ、ヒラヒラと手を振った。
「ったく、無謀なことするわね。普通なら死んでたわよ、あなたたち」
「あ、あの」
「だから褒めてなんかあげないわ」
 そう言いながらも見ているものがハッとするような微笑を残し、オンナ言葉の彼はスタスタと踵を返して立ち去っていってしまった。

「生きて、いるのか。あゆくん、怪我は」
 魂が抜けてしまったような声音で雪村が安否を尋ねてくる。
「うん、大丈夫。この子も怪我もないみたい」
 同じく放心した声で答えたあゆは、ジワジワと足の下から湧き上がってくる恐怖に子供ごと自分の身体を抱き締めた。
 そう、死んでいたのだ。本当なら今の人が言ってたみたいに死んでいた。なぜ怪我一つ無く生きているのかわからないけど――多分、あの色っぽい男の人が助けてくれたのだ。なんとなくそのことだけはあゆにはわかった――今の出来事はかつてと同じく、自分が昏睡状態になってしまったあの事件と同じだけの危ういものだったのだ。
 その事実が実感されてくるにつれ、震え上がっていたあゆの心に猛烈な怒りが湧きあがってくる。
「どうして」
 周囲はえらい騒ぎになっていた。泣き叫ぶ子供の母親。職員に食って掛かる父親らしき男性。今見たものを口々に喚きあう野次馬達。あゆたちを心配してプールの職員や客たちが話し掛けてくるが、あゆの耳には入ってこない。
「どうして」
 パァンと、プールの隅まで届くほどの激しい平手打ちが、雪村の頬を打ち抜いた。
 一瞬、あたりが静まり返るほどの音だった。
「冗談じゃ、ないよ。こんなの、冗談じゃない。なんてこと、するの。信じられないよ、ボクもう信じられない」
 死んでしまうところだったのだ。あゆはこらえきれずにガタガタ身体を震わせ、溢れ出そうとする言葉と感情に溺死しそうになりながら雪村を睨みつけた。
 むちゃくちゃだ。イカレてる。なんであそこで飛び降りる。なんであそこで追ってくる。意味、ないじゃないか。一緒に死んじゃうだけじゃないか。この人は頭がおかしい。イカレてる。
「死んじゃうところだったんだよ!!」
「それは、こっちのセリフだ」
 雪村の口から聞いたことも無いようなガラスを引っかくような引き攣った声が発せられた。それが怒りに震えているのだと、気付くまでに時間が掛かった。
「こちらがどんな思いをさせられたのか、君にはわかっているのか。自分がいったい何をしたのか、胸に手を置いて思い出してみるといい。あんなバカな真似をして、君はどうかしているぞ!」
「ボクが、悪いって言うの!?」
 パァン、と。つい今しがた鳴ったのと同じ音が、今度はあゆの頬で弾けた。
 足を縺れさせ、水の中に尻餅をついたのは、頬を叩かれた衝撃よりも驚きが原因だった。
「……うそ」
 雪村要に殴られた。それが嘘でない事は、チリチリと火照る頬が物語る。不思議だった。涙はどうしていつだって、泣きたくないときに勝手に流れ出てしまう。
「あたりまえだ、馬鹿者!!」
「たたいた、要さんがたたいた」
「叩かれるだけのことをしたんだ、君はっ!!」
 カッと頭の中が爆ぜる。気がつけば、もう一度雪村の頬を平手で打ち抜いていた。
「要さんもしたじゃないかぁっ、このバカぁぁぁ! あんなことしないでよぉ!」
 もう一発殴ろうとして、腕を掴まれる。
「それはこっちの台詞だ。頼むから――」
 グイと逆らう事も許されず、引き寄せられた。
 悲痛な声が胸を刺す。
「頼むからもうあんなことはしないでくれ」
 息をすることも許されないくらい抱き締められる。あまりにも深い深い怒りがガタガタと震える彼の言葉や身体から伝わってくる。いや、これは怒りではない。純粋な恐怖だ。それに思い至った瞬間、あゆもまた自分の中で煮え滾っているこの激情が怒りでないことを自覚した。
 プツンと胸の奥で今までずっと引き絞られた糸が千切れとぶ。
「う、ふぅ、ああ、うわあああああああああああ」
 掻き抱くように首にしがみついて泣きじゃくる少女を、雪村はもうそれ以上何も言わずに抱き締めた。






「漣、人前であんな派手な術は使ってはダメなの」
「そんなに派手じゃないわよぅ、いたっ、イタタ、ちょっと鼻叩かないで、鼻」
 ペシペシと顔面を叩かれながら、月城漣は自分でも欠片も信じていないくせに臆面も無く抗弁する。幼児用プールに張ってあった水が間欠泉のように吹き上がり落ちてくるあゆたちを受け止めたのだ。どう言い繕っても派手である。
「だ、大丈夫よ。あれぐらいならあの子たちが落ちた衝撃で吹き上がった水だって言い張れるわ」
 話に無理があるの、と呟きながらも綺咲にもそれ以上追求するつもりはなさそうだった。昔は四角四面な考え方しか出来なかったのを思えば、この娘も柔軟になってくれたものだ。人によってはそれは柔軟ではなくいい加減になっただけだと言われそうだが。
 それにしても、と漣は怒鳴りあい殴りあいの挙句に抱き合って泣いている勇気の塊のようなカップルを姿を、一生に一度巡りあうかどうかの自然現象に遭遇した冒険家のような目で眺めやった。
「あの子たち、どう思う?」
 綺咲は詰まらなそうに言った。
「愚か者なの」
「あらま容赦の無い。でもそうね」
 綺咲の言う通りだった。彼らは度し難い愚か者だ。助かったのは運が良かっただけ。漣が偶々この場にいなければ、良くても後遺症の残る重傷。悪くなくても死んでいただろう。いや、子供だけは助かっていたかもしれないが。カップルの二人ともが庇うような体勢を取ろうとしていたし。
 いずれにしても、彼らはともに愚かな真似を仕出かしたのだ。
 たとえ何度同じ事が目の前で起こっても、漣は絶対に彼らを褒めないし、お前たちは間違っていると断じるだろう。
「でも、あの娘がバカをやらなければ、あの子供は死んでいたわね」
 あの少女が何秒か時間の猶予を作らなければ、漣の術式は間に合わなかっただろう。少女が無謀なまねをしたからこそ誰も傷つかずに済んだ、それもまた事実である。
「漣は何が言いたいの?」
「この世には否定して戒めて叱らなきゃいけないんだけど、でもそれでいながら決して無くしたり喪ったりしちゃいけないものがあるってことよ」
「……矛盾してるの」
「この世界は複雑怪奇、ってやつかしらね。ま、その矛盾在る限りこの世も、人間も捨てたもんじゃないのよ、きっと」
「よくわからないの」
 うんうんと唸りながら小首を傾げる綺咲の頭を漣はガシガシと撫で回した。
「大丈夫、今のあんたはよくわかってるわ」
 そしてあのカップルも。あの怒鳴り合いを聞いてる限り、彼らは良くわかっている。
「ほんとに、ああいう子たちが普通にいるんだから、捨てたもんじゃないわよね、この世の中も」
 久しぶりに心の底から愉快な気分になって、漣はニヤニヤと相好を崩した。
 その時だった。

 ――――キィン!

 プールに浸かっていた数百人の人間が誰も感じ取れないような微細な震動が、水の表面に無数の波紋を生じさせた。
 フワリと漣の髪が逆巻く。
 にやけた顔から表情が消え失せ、半眼になった月城漣は、ゆっくりと首を上へと傾けた。










< 11:00  物見の丘 森林部最奥 >


 大地が霊的な鳴動をはじめていた。龍脈に直結させた真円の魔法陣が回転をはじめる。陣はある種の井戸であり、同時に汲み上げられた霊力の変換機構だ。
 天頂へと立ち昇る魔力の柱を、魔術師たちはそれぞれ歓喜の面持ちで仰ぎ見ていた。
 四日四晩かけて築かれた儀式結界がついに稼動をはじめたのだ。
 歓声に沸く魔術師たちの中で、独り淡いクリーム色のスーツ姿の男だけが口ひげをこしながら微苦笑した。
 追い詰められている中でついに儀式に漕ぎつけたのだから喜ぶ気持ちは分かるが、本番はこれからなのだ。今から此れでは先が知れる。
「気を抜いちゃいけませんよ、同胞(はらから)たち。まだ何も始まってはいないのですから」
 穏やかに説かれ、魔術師たちは表情を引き締める。浮かれていた自分たちを責めるように、彼らは互いを見ないように作業へと戻った。思い出したのだ、彼らは。いかな高邁な目的のためとはいえ、これから自分たちが為そうとしているのは保有魔力が高いというだけで何の罪もない人々を犠牲にすることなのだと。
 悪逆の名を被ることを辞さずとも、心まで邪悪に染まるわけではない。
 我らもまた人の子なのだ、と吾妻は粛々と術式の維持に努める仲間たちの姿に思いを新たにした。たとえ神の力に手を伸ばそうと、それを忘れて自惚れてはならない。
「明治の記録によれば、御門家は儀式のこの段階で1500人もの人間を殺していたのですね」
 ふと、吾妻は過去同じ力を求めたものたちの事を思い、口にした。
 想像を絶する虐殺だ。彼らは何を思い、それを為したのだろう。己が家の栄達のためだけに罪なき人々を家畜のように屠殺することが出来るのだろうか。
 出来るのだろう。ヒトとは虚しい哉そうした生き物だ。
「血生臭い話だ、うん」
 吾妻の呟きを受けて、高梨は困った隣人を評するように語った。
「必要なものは良質な魔力を有する魂魄です。質より量などと、非効率極まりない。選別もせず根こそぎ集めた魂を釜にくべるなんて、乱暴にもほどがありますよ」
 言いたい事はそういう事ではなかったのだが。とはいえ、自分が結局何を思ってこんな話題を口端にのぼらせたのかもはっきり分からず、吾妻は高梨を振り返る。
 彼は、微笑んでいた。
「そう考えると我々はとても人道的じゃあないですか、うん。なんせ死んでいただくのはほんの20人ほどだ」
「…………」
 相槌を打とうとしたものの、喉が鳴るだけで咄嗟に声が出てこない。うなじの毛がそそけ立つ。なぜか一瞬、目の前にいる尊敬する師がまったく理解の出来ない別次元の生き物のように思えたのだ。
「犠牲なんてものはどんな大義名分があろうと極力少ないほうがいいものねえ。ね、吾妻くん?」
「え、ええ」
 辛うじて頷きながらも、吾妻は別のことを考えていた。自分は仲間が主張するほどには妖怪を下等な生き物とは蔑んではいない。ヒトも化け物もさして変わる物ではない。下劣なやつはヒトだろうが化け物だろうが下劣だし、人格者たるに種の差はない。いや、本音を言うなら人間のほうが種としての品に欠けていると、妖怪たちと相対してきた吾妻は感じていた。
 彼が今回の決起に参加したのは、まさにヒトの方こそが妖怪たちよりも愚かしい生き物であると考えていたからだった。近年、ヒトと魔の領域は境界を曖昧にしつつある。やがては幾千年にも渡って相容れぬとされてきた二つの社会が一つにまじわるのではないかという勢いだ。
 はたして、ヒトと妖の存在する領域が重なったとき、今度暗く光の届かない闇の底へと追われるはめになるのは愚昧なる人間の方ではないか?
 武力でもなく呪力でもなく、ただ新たに得つつある人間の如き社会性とヒトより高みにある精神性によって、ヒトは妖怪に淘汰されてしまうのではないか。
 そんな根拠の無い怖れに引かれ、こんな妖を駆逐するテロリズムに参加する時点でヒトの愚かさを体現しているようなものだということは自覚していた。そしてその愚かを肯定する救いがたさも自覚していた。そして、恐らくはこの愚挙が成功しない事も。
 自分たちが辿る末路は、御門家とさして変わらぬものになるのだと。
 だが、高梨の微笑を目の当たりにしたとき吾妻はゾッとするとともに予感を過ぎらせたのだ。
 もしかしたら、この企みは成功するかもしれない。
 だがその予感に、何故か興奮も高揚も抱けなかった。
 高梨はニコニコと微笑んだまま、黙り込んだ吾妻の耳に囁きかけるように云った。

「さあ、はじまりますよ。吸精結界第四大系『贄の園(サクリファイス・スフィアグリッド)』の十七番」
「……【黒の収穫祭】」

 天上では黒々とした雲が渦巻いている。魔力の柱はバベルのように天を閉ざす黒き扉を穿っていた。
 瞬間。魔力の柱が巻物(スクロール)の紐が解かれたかのように分解した。
 オーロラが生まれる。
 幾重もの光のカーテンが魔力の柱がそそりたっていた場所から全方位めがけて走り出す。

「祭壇よ、在れ!」

 結界の中心を担う魔術師が高らかに叫んだ。
 上空を閉ざしていた黒雲が、千々に消し飛ぶ。光のカーテンが舐めていった空間を、乳白色の穹窿(ドーム)が閉ざしていく。






 そして世界は夢と現に区切られた。










< 同刻  噴水広場 >


 栞の説教の矛先は、ついに姉から薫にまで及んでいた。しょげている薫にプリプリと怒ってデバガメがいかに下品ではしたないものなのかを実体験を交えて言い聞かせていた栞は、目聡く少年が背中に隠しているものを発見した。
「ああっ! 薫くん、ちょっともう。なに考えてるの、こんなものまで持ち出して」
「あっ」
 薫から胴太貫が入った包みを取り上げ、中身を取り出し栞は眦をつりあげた。
「いったいどうするつもりだったの!?」
「べ、別に斬るとかそんなつもりじゃ――」
「斬るつもりだったのかぁぁっ!」
「だ、だから違う――」
 あはは、と氷上は朗らかに笑った。
「斬られるのは困るな」
「そ、そうやなくて」
 責められるわ笑われるわで薫はタジタジになって縮こまった。
 鞘に納まっているとはいえ、取り上げた日本刀でポカポカと薫を小突きまわそうとする妹をさすがに見かねて香里が間に入る。
「もう。栞も怒るのは判るけどそろそろ矛を収めなさいよ。今回はお母さ――――」
「だぁぁ、お姉ちゃんはそうやって…………って、あれ? お姉ちゃん?」
 反射的に言い返そうとした栞は、目をパチクリとしばたかせた。
「なっ!?」
「……これは」
 薫もにこやかに姉妹のやり取りを見物していた氷上も顔色を変えた。
「う、うえええ!? 人体消失マジック!? お姉ちゃんてばいつの間にそんな特技を!!」
 今の今までそこにいた香里が、いきなり黒板消しで拭き取られたみたいに消えてしまったのだ。
 仰天してその場を右往左往しながら消えた姉の姿を見つけようとしている栞とは裏腹に、薫と氷上の二人は即座に異変を察知した。
「な、なんや今のは。なんか光の壁みたいなんが通り抜けてったよ!?」
「栞さんのお姉さんだけじゃない。左のベンチに座っていた老人、それに噴水の向こうをランニングしていた男性も消えている。いやそれだけじゃないね……」
 氷上は真剣な顔で周囲を見渡した。
「街から一切の音が消えた」







< 同刻  オフィス街 >


「みーちゃん!」
「はい、これは」
 二人が見ている前で、街から人が消えていく。突然東の方角から魔力を帯びた波が押し寄せてきたのだ。光の壁ともオーロラとも見える魔力の波は、美汐と和巳の二人だけを残し人間を世界から消し去っていく。車道を行き交っていた乗用車は波を受けると同時に内部から人間が消失し時間が固定されたように動きを止めた。自動車だけではない。あらゆる動体が動きを止め、芝居の書き割りのように静止していく。
 街から喧騒という喧騒が消え失せ、静寂の中に沈んでいく。
「隔離結界です。位相差空間に取り込まれました」
 おそらく元の街では美汐と和巳の姿が突然掻き消えたように見えただろう。ここは位相差内に構築された擬似空間だ。
「ですが、これは選別が為されています。どういうこと?」
「多分、御門家みたいに無差別に生贄を捧げる方法は止めたんやろう。あれは質より量っちう効率の宜しくないやり方やったからな」
「質……そうか、高い魔力を保有するものを選別して」
「なんにしてもや」
 魔力の柱が励起した方角――物見と呼ばれる森を見やり、御門和巳ははき捨てた。
「本格的に始まりよったぞ」










< 同刻  国道四号線上 >


 間一髪だった。
 押し寄せてくる空間隔離の波を目の当たりにした望月静芽は、拠点で尾行を巻くために乗り換えた乗用車を咄嗟に歩道に寄せてブレーキを踏み込んだ。
 直後、時速50キロ前後で行き交っていた車の群れが、慣性も無くビデオの一時停止ボタンが押されたかのように静止する。あのまま走行していたら前方を走っていたタクシーと追突していたところだった。
 危なかったと静芽は密かに額に浮かんだ汗を拭った。高梨たちが準備していた結界の種類は把握していたものの、それが発動される時刻までは掴んでいなかったのだ。
 この種の隔離結界により形成される擬似空間は、主に現実世界の投影により構成されている。いわば偽物だ。見てくれだけは同じだが書き割りと同じで機能までは再現していない。自動車やバイクなどは動かないし、パソコンなどの電化製品も同様だ。食品や飲料も口に入れられるものではない。
 例外として挿入された際に使用していた道具は所持品扱いで擬似空間内にも持っていけるのが通例だが、さすがに普通乗用車クラスの質量と複雑な機構を有した機械は対象外である。念のためにキィを回して確かめてみたが、やはりエンジンが再起動する様子が無い。
「どういうことだ、これは」
 乗用車の助手席から降りた井上義行は、愕然と無人となった県道を見つめている。
「神降ろしの潔斎のための神域を形成するための結界ではなかったのか。これは違うじゃないか……」
 義行は車から降りてきた静芽を噛み付きそうな勢いで振り返った。
「これは吸精結界、それも第四大系じゃないか!!」
「そのようですね」
 結界内に取り込んだ生物から精気を奪い取る吸精結界の中でも、第四は神に生贄を捧げる儀式の意味合いがある結界大系だ。贄の園(サクリファイス・スフィアグリッド)と呼ばれるそれは、元来はその性質上聖性の高い術式が多かったものの現代に至るまでに俗世の欲望に晒された結果悪質な改良がなされ、今ではその大半が邪法に類別される代物だ。
 内心、静芽は一発で結界の性質や大系まで見極めた義行に感心していた。
「知っていたのか、望月」
「まさか」
 いけしゃあしゃあと静芽は首を振った。
「私は儀式にはまったく関与していません」
 嘘は無いがだからといって知らなかった理由にはならない。だが疑う素振りもみせず義行は追及の矛を収めた。チラリ、と信頼してくれているのかという思いが脳裏を過ぎるが、単に単細胞だからだろうという結論に落ち着く。
 義行は苛立たしげに車の屋根を叩くと、押し殺した声で宣言した。
「高梨師の所に行くぞ。どういうつもりか直接問い質さなければ」







< 同刻  市街西地区住宅街 >


 世界が一変した瞬間、小太郎は敢えてそれを無視した。
 位相差空間に取り込まれたのは認識していた。尋常ではない規模の儀式結界であることも承知している。
 だが彼の置かれた状況が、そちらに意識を傾ける余裕を与えてくれなかったのだ。

「なんてことだ」
 ギチギチと刃こぼれした刀同士を擦り合わせているような不快な音色。目の前で見ていなければそれが人の発する声とは判じられなかっただろう。いや、ヒトではもうないのだ。彼の姿かたちが否応無く理解を強制する。
 カシャカシャと忙しなく瓦を鳴らしている八本の括れた脚。びっしりと黄色と黒の斑の毛に覆われた腹と胸部。おそらくは頭部に当たる部分からヒトの上半身が生えている。その上半身こそ彼らが探していた少年――此花春日のものだった。
「なんてことだ」
 女郎蜘蛛――恐らくはそう呼称される力ある妖の血が発現しているのだろう。此花春日は黄色い瓦の一軒家の屋根の上で、不思議そうに辺りを見回している。つい今しがたまで首筋に齧りついて精気を啜っていた小学生の女の子が突然掻き消えてしまったので戸惑っているのだ。
「春日」
 か細く名前が囁かれた。泣き出す寸前なのかと思ったのは小太郎の錯覚だった。ハッとなって振り返った澄の顔には涙の一つも浮かんでいない。
「……すぅみぃ?」
 驚いた事に春日は澄の声に反応を示した。小太郎たちは知らなかったが、十分ほど前に郁未たちが山浦の術者雨宮を昏倒させたため、春日は完全に支配から解かれていた。今はただ、内なる狂気に突き動かされて暴れ狂うだけの本来の『狂った先祖帰り――狂妖』に戻っている。
「ひっひっひっひっひっ、ゲッタタタタタタタタタタタタ」
 足踏みしているかのように八本の脚が瓦を叩き踏み割っていく。高ぶりを示すかのように巨体を揺らし、一片足りとも正気が残っていないと分かる常軌を逸した哄笑が世界にヒビを入れていく。

 物部澄と此花春日。
 二人はこうして再会を果たした。







< 同刻  市街西南地区 住宅街 >




 世界が変わる。一呼吸、その場に立ち止まった事だけを唯一の反応とし、天沢郁未は歩きつづけた。
 昏い眼差しは一切が制止した世界を揺るがず見据えている。

 親友に裏切られ、相棒に背を向けて、母である資格を失った天沢郁未に残されたものは僅かでしかない。
 他は全部捨ててしまった。捨てざるを得なかった。持ち続けることは許されなかった。
 だから、今の彼女に残されたものはただ一つ。


「……葉子、私は貴女を」

 ――許さない。












< 同刻  向島スパ・ワールド >


 一変した漣の気配に綺咲は眠たそうな相好を微かに引き締めた。
「反応、きたわ。でもこれは――」
 不快げにルージュのひかれた唇がつりあがる。
「方位は西北西。距離は22……いえ、45キロ? なるほど、ほぼ円形に半径10キロが圏内ってところだわね。拙いわ」
 漣は綺咲を見下ろして告げた。
「もう結界が発動してる。今感知したのは起動術式の余波魔力よ」
「遅れをとったの」
 水を蹴飛ばすようにプールサイドにあがり、人ごみを縫うように脱衣所に疾駆する。漣はパーカーのポケットに入れた無線機を取り出した。
 内心は腸が煮え繰り返る思いだ。とうとう此処に至るまで出し抜かれてしまった。いやまだ間に合う、手遅れではない。上等だ、舐めるな賊徒ども。此方を誰だと思ってる。
 漣は周囲の耳も気にせずに無線機に向かって大声を発した。
「緊急事態! 結界が発動したわ。式種(タイプ)は吸精、第四大系、贄の園(サクリファイス・スフィアグリッド)。術式詳細は不明。総員ただちに現在地を放棄して今から言う地点に集合。繰り返すわ、すでに儀式は始まってる。奸賊どもが待ちきれずにパーティーをおっぱじめたわ!」
 一拍置いて息を吸い、漣はてぐすねを引くように無線機に向かって訴えた。
「レディースレディース、戦の支度を整えなさい。纏うドレスは絢爛豪華に、着飾る宝石に糸目をつけず、許す限りの目一杯のおめかしをしていらっしゃい。
 これより我ら紫旗(ムラサキ)は世に仇為す朝敵どもに、宴の主賓がいったい誰かを思い出させに罷りこす。遅れたお詫びの贈り物には飛びっきりの悪夢(ナイトメア)を進呈するわよ。
 さあ、わかってるわねあたしの可愛いウォーモンガーども」
 その艶笑はさながら血の浴槽に浸るエリザベート・バートリーの如く。月城漣は宣言する。
「お待ちかね、楽しい戦争のお時間よ!!」












< 11:04  物見の丘 森林部最奥 >


 儀式の展開維持に集中している山浦衆から少し距離を置いた高梨は、最近伐採されたらしい大木の切り株に腰を降ろすと通信術式を接続した。隔離結界内では電話会社の中継施設と電波が断絶しているため携帯電話が使用できないので、必然的に連絡手段は無線機か術式に頼ることとなる。
「アーティファクトの設置は完了したかね、巳間くん、高槻くん」
『巳間だ、既に完了している。確認作業も終了した。問題はない』
『おう、高槻だ。こっちも終ったぜ、校倉の旦那』
 穏和な高梨の笑みが掻き消える。
「困るな、高槻くん。軽はずみにその名前を口に出してもらっては」
『おっと、こいつはすみませんね』
 悪びれた様子も無くせせら笑う声が聞こえ、通話が断ち切られる。
「……やれやれ、困った男だな彼は」
『すまない。私から言って聞かせておく』
「お願いしますよ、巳間くん。あんまり度が過ぎるようだと殺しちゃうよ、アレ、うん」
『……ああ、申し訳なかった』
 やや絶句したような沈黙の後、了解の旨を言い残し良祐からの通話も切れる。
「さて……ここまで来たか。二十年、長かったのか短かったのか」
 感慨深げに目を細め、高梨は膝に頬杖をついて身動ぎするのも忘れたように静寂に意識を浸した。
「ふむ、私も人の事は言えないな。感慨に浸るにはまだ早い」
 自嘲気味にズボンの皺を払って立ち上がると、高梨は朗々と呪を紡ぎはじめた。ビードロの鈴に似た音色が響き、無数の魔法円が生まれては消えていく。
「我がもとに来たれ、導く者たちよ。【赤の書(リブリス・ルビルム)】【屍栄華(グロリア・モルトゥム)】【モノクロームの託宣(シュビラ・メラノレウカ)】【黙する千夜(ミーレノックス・コンポステーラ)】」
 虚空より光の粒を撒き散らかし、四冊の魔導書(グリモワール)が現出する。
 翼はためくが如くページが捲られていく魔本に囲まれながら、高梨は懐より錆の浮いた鉄片を取り出した。鉄片を指で弾き、宙に描いた祭文に貼り付ける。彼が嗜む西洋の術式系統とは異なる呪文――祝詞が口ずさまれ、鉄片から錆が爆ぜ消えた。
 ズルリ、と。鉄片が面積を広げる。空間そのものがその姿を覆い隠していたというのか。皮膜を剥がすように空間が削れていき、鉄片がその本当の姿を現しはじめた。
「なるほど、これが本物の布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)の制御端末か、彼の言うとおり欠損はないようだね、うん」
 古代の鉄剣と思しき鈍い光を放つ逆反りの古剣を握り、興味津々といった様子で状態を確かめる。
 ここまでイレギュラーはあれど、大枠は順調に進んでいる。だが、玩具を得た子供のように剣を弄っていた高梨の表情には、いつしか濃い翳りが浮かんでいた。
「罪悪感か、まあ気持ちのよいものではないか」
 葉子と交わした会話を思い出し、高梨は自嘲気味に頬を掻いた。
 脳裏に浮かぶのは、この祭具、そして魔導書の一冊を入手し、自分に渡した男の憤る姿だ。
「すまんね、祐馬くん。君の信頼を裏切るのは心苦しいが、私は私の欲を優先させて貰うよ。人を見る眼がなかった自分を悔いてくれ」
 彼が自分のやり方を認めることは許されないだろう。が、大筋ではまだ彼と自分の望みは道を同じくしている。機会はただ一度、故に、自分の裏切りを知ったとしても彼らはいずれ起こるだろう状況に乗らざるを得ない。尤も、もう二度と協力関係は結べはしないだろうが。
「かつて生死を共にした仲間が四分五裂に敵対する、か。因果な話だね。まあ私の言えるセリフじゃないが、うん」
 魔術師は可笑しそうに喉を鳴らして笑った。
「我が好奇心は世界を殺す……クククッ、まったく我ながら度し難いとも思うんですが、これも探求者の逃れられぬサガというもの、と言うのは言い訳かな?」
 魔導書(グリモワール)の脈動が止まる。一際巨大な魔法円が、魔術師を中心に地面に浮かび上がる。
「我、校倉藤次の名において卿らに命ずる。扉を開け、ソロモンの子らよ。誘うは闇の星。第七天獄(セブンス・ヘブン)の御影を此処に」
 足元に広がる無明の異界に全身が粟立つ。だが、偽りの名ではなく真の名を冠して大魔術に挑んだ魔術師は、存在そのものを戦慄させる未知の波動に晒されながらも、微塵も平静を乱すことなく手にした剣を魔法円に突き立てた。結界の六方に設置した特異点と端末が接続したのを感じ取る。異界より溢れ出てくる漆黒の座標を固定。
 僅かに息を吐いて緊張を解き、高梨は満足そうに呟いた。
「セブンスヘブンの直列接続を確認。うん、未完とはいえ布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)、予定通りの能力を発揮している。現時刻は11:08か。残りはあと千九百十五秒、実験はもう止まらん。ならばあとは……」
 布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)の本体の顕現か。
「やれやれ、やはり感慨に浸るにはまだ早い。本番はこれからか」

 来た道を戻り出す高梨の耳には、聴こえるはずのない世界の壁が崩れていく旋律が流れている。











< 11:14  帝都千代田区神祇省地下七階・中央指揮所 >


『オペラハウス』――必要最低限に光量が抑えられた薄暗いこの地下空間はそんな風に呼ばれている。空軍から出向してきた中佐が使い始めたという愛称だが今では中央指揮所という本来の退屈な名称よりも通りが良くなってしまっている。
 指揮官用ブースからは多数の電脳機器の光芒とスクリーン、そして淡い光に浮かび上がった数十人を越える管制員の群れが見渡せた。まるで軍の作戦本部だ、と緊張感を漲らせて忙しなく端末に向かっている管制員たちを見下ろしているうちにそんな連想が浮かぶ。
「何を今更」
 朽木静那は自分が疲れていることを自覚せざるを得なかった。思考が鈍っているとは言わないが、ふとした拍子に機能不全でも起きてるようだ。ここが軍施設と似通っているのは当然だった。そもそもからして、ここは市ヶ谷の国防省地下にあるそれ――あちらでは『講義室』と呼ばれている――を下敷きにして造られたのだから。その上この場所で働いている人間の半数近くが軍務経験者なのだから、軍の作戦本部と見紛うのも無理からぬ事なのだ。今更この情景に初めてこの場を訪れた者のような感想を抱くなど、疲労に感性が鈍ってきているとしか思えない。
 それとも、まだ自分はこの施設に違和感を感じているのだろうか。この施設が出来て四年。このシートに座る立場になって二年が経っているのに、時々自分が何者なのかわからなくなる。やはり自分は古いタイプの術者ということなのか。未だに陰陽頭という役職への固定観念が剥がれていない。
 ああ、懐かしきは板張りの祭殿であり、清廉な白衣に身を包み祝詞を読み上げる神官たちだ。
 ここにあるべきは俗世から見れば得体の知れない祭儀を粛々と執り行うための神秘的な空間――そう古式ゆかしい社殿の佇まいや透き通った水のたゆたう神泉であるはずなのに。現実にあるのは最新鋭の電脳機械と情報システムに支配されたトイボックスだ。
 はたして、何も知らずにここを訪れた者が、ここが日本の祭事を司る機関の地下施設だと告げて信じるだろうか。私なら信じない。いや信じたくない、か。
「世も末だな」
 白髪を櫛撫でて、朽木は鼻を鳴らした。
 仕方がない。これも時代の流れというものだろう。現実は国家魔道の中枢たる神祇省に今までの姿とは別に、ここにあるような情景もまた必要と求めたのだ。
 感傷を抜きにして言えば、この『オペラハウス』は実に便利なものだった。というよりももうなくてはならないものになっている。つまるところ、こういうシステムを必要にするほど神祇省という組織が複雑発展しているということだ。
 現に今回の『神剣』に纏わる一連の事件でも、この『オペラハウス』は全国の神祇省隷下のグループへの統一指揮管制にフル稼働している。

「甲州探題先遣隊よりルート設定来ました。確認作業入ります」
「45号線の交通情報寄越せ!」
「各県警本部へ交通規制を要請」
「白蓮旗とシーゲル1の邂逅地点付近の気候が悪化、断続的に乱気流が発生しつつあります。気象情報では今後1時間は天候改善は見込まれず。第1011輸送中隊本部より邂逅地点の変更要請」
「変更要請了解。気象情報送れ。リンクスが着陸可能なポイントを洗い出す。急げ、時間がないぞ!」

 俄かに眼下の喧騒が増す。
 天候が思ったよりも不安定だな。前日の気象予報ではもっと安定した状態を保つと出ていたのに。舌打ちしながら静那はメインスクリーンに表示されたレッドマークに焦点を合わせた。月城漣が報告してきた神剣顕現の儀式結界発動地点だ。他方面からも同様の大規模結界発動の感知報告が舞い込み、確定情報と認定。数分前に静那が作戦区域に指定している。別の地域を探索中だった白旗・黄旗には至急現地への急行を命じ、待機命令を出していた甲州探題所属の甲種検非違使三個中隊と帝都の衛士衆に出動命令を下したが、到着には一番近い白旗でも早くても三時間以上掛かると目されていた。天候悪化で輸送ヘリの着陸ができないとなるとさらに遅れる可能性もある。結果的に他の部隊が到着するまで紫旗のみに働いて貰わなければならなくなっていた。
 あらかじめこうなる事は想定していたものの、実際状況を目の当たりにすると、静那は自分が判断を誤ったかもしれないという不安に駆られていた。貴重な八旗を探索のために広範囲に散開させてしまったために、いざとなって戦力の集中に手間取ってしまっている。せめて探索に必要な能力を持たないメンバーは即応できるように待機させておくべきだったか。
「いや、戦力バランスを考えればよろしくないか」
 偏った能力を持つものを寄せ集めて投入してもあまりよい結果にはならないだろう。それなら紫旗一群だけの方が遥かにマシというものだ。今回はそもそも一旗の戦力で対処が充分可能としてこういう形をとった訳だからこの段階でグダグダ悩むのも筋違いですらある。とにかく、今回は悠長に時間をかけて探し回る余裕は無かったのだ。決戦戦力の無駄遣いと言われようと、こればかりは仕方がない。
 願わくばもう一旗を予備として手元に置いておきたかったが。こればかりは無いものねだりだ。間が悪い事に、他の八旗は別任務に掛かりきりで召集しようにもまだだいぶ時間が掛かる。
「朽木さま!」
「なんだ」
 ノックもそこそこに幕僚の一人が紙片を携えブースへと駆け込んでくる。そのただ事ではない様子に静那は針のような眼差しを向けた。
 疾駆してきたからではなく精神的な焦燥からであろう呼吸の乱れを懸命に整え、幕僚は告げる。
「緊急の入電が二つ」
「言え」
 一瞬、迷いを見せ、彼は怒鳴るように報告した。
「鹿島神宮が襲撃を受けました。時刻は一〇五五(ヒトマルゴウゴウ)、およそ十五分前の事です」
「――――ッ!?」
 頭の隅にも無かった予想外の報告に朽木は血相を変えて腰を浮かす。幕僚は額に浮かんだ汗を拭って報告を続ける。
「襲撃は5から6名の魔術師及びPK能力者によるものです。神域結界は一時的に無効化された模様。神道流が応戦したしたものの、全員取り逃がしたとのことです。現在、衛士衆抜刀第十二,十三,十六小隊が出動、警視庁公安八課にも応援要請、逃走した被疑者たちを追跡中です」
「被害は?」
「それが」
 部下は喉を鳴らし、呻くように告げた。
「神道流数名に重傷者が出ています。それと…要石が破壊されました。恐らくはそれが目的だったのではないかと」
「か……」
 要石ですって?
 静那の顔面に困惑の色が浮かぶ。そして次の瞬間、ハッとメインスクリーンを振り返った。赤い光点、つかの間そこを厳しい表情で凝視する。
 鹿島には石上神宮の布都御魂剣と対となる封倶が祀られている。そして鹿島といえば、布都御魂剣を神武帝に下賜した武甕槌命が祀られ、そこに安置されている要石は武甕槌命が護持する地鎮め――つまり震災封じの文字通り要となる封核だ。件の光点のもとで起こっている事件と関わりがないはずがない。
 だが目的はなんだ。布都御魂剣の封倶を狙うならまだしも、何故要石を。
「それから――」
 そうだ、緊急報告はもう一つあったのだ。一旦思考を脇に置き、朽木は先を促した。
「今しがた石上神宮から報告が。布都御魂剣の封倶が消失しました」
 一瞬耳を疑う。
「……なん、だと?」
「侵入者によるものではなく、外部からの術式により強奪された模様です」
「待て。鹿島ではなく、石上なのか?」
「はい、石上神宮です」
「馬鹿な、あそこの神域結界は易々と破られるようなものではないぞ」
「それが、どうやら半年以上前に一度破られ侵入を受けた形跡があるようなのです。どうやらその際に既に封倶に転送術式が埋設されていた可能性があります」
「転送先はわかっているの?」
「解析中ですが、まだ――」
 朽木の顔色は薄暗いブース内でなければその蒼白さがはっきりと浮き出ていただろう。
 頭の中に渦巻く圧倒的なまでの予感が明確な形を得る前に、その結論を補強する事態が怒涛のように発生する。
「陰陽頭さま!!」
 眼下の管制員から緊張に強張った声が上がる。
弓張部(ゆみはりべ)より緊急連絡! 諏訪大社、弥彦神社、二荒山神社、一宮貫前神社、大物忌神社の一宮結界にて帯霊圧急減。一宮ラインに異常な過負荷が……ご、護国結界に大規模偏差が生じています!! 場所は、現七号作戦区域内。パターンレポート着ました、これは……なんてこった」
 管制員は指揮官ブースを振り仰いで叫んだ。
「G状況――第五次現世干渉の予兆と目される現象が次々に観測されています! 異界侵蝕(エクリプス・ハザード)発生の可能性大!!」
 喧騒に包まれていたオペラハウスが、一瞬凍りついたように静まり返る。
「超高位召喚、もしくは召喚術式のオーバーブローの可能性は?」
 鉄面皮を貼り付けてマイクを繋いだ上官に、管制員は端末を操作しながら首を振った。
「【偽淨思兼】が界面状況を分析した結果4パーセント以下という結論を出しています。次元震、なおも拡大中。完全無拘束で界溝が開き始めてます!! 朽木さま!」
 次元震……次元震だと?
「まさか……」
 静那は連日の激務でかさつきひび割れた唇を噛み締めた。
 破壊された要石。強奪された鹿島ではなく石上の封倶。
「彼奴らの目的は神剣そのものではなく……これか」
 血の味がするツバを飲み下し、朽木は努めて冷静に告げた。
「総員聞け、現時刻を以って第一種緊急配備を発令する」
 息を呑み自分を見上げる数十名を越える指揮所要員を一人一人見つめるように見渡す。彼女は聴くものに機械音声とすら錯覚させかねない無機質な口調でマイクに語りかけた。
「分析担当官、侵蝕波長の解析急いで。それから展開中の各隊に最優先でケースGを通達。【空色勾玉(東部戦術航空団)】【吠瑠璃四番(対魔攻撃ヘリ群)】にD装備でのアラート待機を発令。全探題に零三種を除く全兵装の装備・稼動の自由を通達、鹿島襲撃の情報を送って全重要神域への警戒態勢を取らせなさい」
 一瞬各々の作業も忘れて息を呑み固まっていた管制員たちが生気を吹き込まれたように、一斉に怒号を交えて作業を再開する。オペラハウスは一気に先ほどの数倍規模の喧騒に包まれた。朽木は一度だけ大きく深呼吸をすると、最初に報告に現れた幕僚をそこに待たせ据え置きの受話器を手に取った。
「朽木さま、なにを」
「なにを? こうなっては神祇省だけで収まる問題ではないでしょう。残念ながら内輪で片付けられる段階はもう過ぎたわ」
 そう言い捨て、彼女は淡々とダイヤルをプッシュした。
「DECラインで気象庁、内務省、国防省、それから危機管理委員会に報告を。ええ、そう。ケースD2S/G1AAが発生しつつある可能性がある」
 電話口に語りかける上司の言葉に、幕僚は改めて湧き上がってくる戦慄に唇を震わせた。
「列島大侵災……再びあの狂宴(ミッドナイト・カーニバル)が――羅喉変がはじまるというのか?」






 七分後、国防省は陸海空の全軍に対し、南沙紛争以来12年ぶりとなるデフコン3を発令。
 関東・東北に配備された各部隊にはアラートイエロー――――デフコン2への移行が下令される。



 【狂宴前夜(カーニバル・イヴ)】――そう呼ばれるに相応しい狂乱が今此処より到来を告げる。






<< >>


章目次へ


お名前(任意でどうぞ)

一言、コメント、ご指摘ご感想、なんでもどうぞ。







inserted by FC2 system