鹿沼葉子との交戦を前にして、樋端睦美は幾つか致命的な錯誤を犯していた。
 一つは葉子の攻撃パターンを無意識に郁未のそれと重ねていた事。睦美が知っている郁未の不可視の力の使い方は、押し並べて身体の至近から放射する衝撃波、もしくは思念の手による念動であった。これは郁未が所属する公安八課の通常任務が被疑者の殺傷ではなく捕縛であるという理由からの状況に応じた能力選択の結果であり、本来不可視の力の使い方にはかなりの自由度がある事は睦美も郁未から聞かされていたはずだった。のだが、ぶち切れて冷静さを欠いていた睦美はこの辺りの事を完全に失念してしまっていたのだ。
 睦美はこの時、自分の身体から約1メートル離れた全周空間に妖気を帯びた水蒸気の幕を張っていた。一種の警戒線(ピケットライン)である。
 このピケットラインは形而上形而下を問わず接触した存在を感知と同時に解析、睦美の思考介在を経ず自動的に展開される氷の楯によって撃墜される。
『フローズンイージス』――人界に降りて来たばかりで横文字がハイカラで仕方なく見えた頃の睦美が名付けたこの防御系妖術は瞬間的かつ局所的に妖気を一点集束させることで生成を可能とした超高密度呪氷結晶によって、物理干渉型の術式のみならず投射武器や銃火器による攻撃、精神干渉型術式や呪詛呪殺、サイキッカーによる思念の手をも防御・遮断し、場合によっては視線や電磁波といった術式の媒体となる霊的因子ですらも妨害する、およそ個人用としては最高位に位置するであろう全自動個体防衛機構(オートマティック・ディフェンシブ・システム)だ。単にこれよりも強力な防御術式なら幾らでも存在するが、防御システムとなると匹敵するのを探すのは難しいだろう。それこそ、よほど高度な体系化がなされた魔術大系の秘奥を漁らねば見つかるまい。
【72 Evil Spirits of Solomon】の絶対侵蝕圏『蛇の魔法円』をプロトモデルにデザインした『フローズンイージス』は近接戦闘には全く機能しないものの、呪氷結晶の効果範囲を逸脱した広域に威力を発揮する攻撃を除いて(この手の攻撃はどんな場合でもある程度の予備動作が必要となる。となればそれを察知してフローズンイージスとはまた別の防御手段や回避戦術を選択すればいいという話だ)中距離以上離れた地点からの攻撃に対してはほぼ完全な防御が約束されていたはずだった。
 ここで睦美が失念していたもう一つの致命的な事柄が関わってくる。
 その事柄とは、不可視の力が超能力(PK)とは全く類を異とする別次元の能力であるというものだ。
 人間が備えている霊魔力を外的な論理(ロジック)で操るのではなく内的な本能(インスティ)によってコントロールする力が、一般的に超能力と定義されている能力だ。この定義に照らし合わせるなら、雪女が氷雪を操り、サトリが他者の心を読むなどの幻想種が生来保有する能力も超能力に分類されるのだが、妖怪と違い本来人間は内的な本能によって霊魔力を自在に操る特性を備えている存在ではなく、故に『術式』を発展させていったという歴史的経緯がある(睦美が使用する妖術は超能力ではなく完全に外的論理による魔力制御法『術式』に分類される。一部の高度な社会形態を持つ妖怪種族を除き、一般的に幻想種は生来備わった力を発展させる発想は皆無に等しかったが、近年人間が形成してきた術式概念の情報が比較的入手しやすくなった事、幻想種の世界に対する関わり方が変化してきた事から、術式を繰る幻想種が爆発的に増えてきている)。
 不可視の力はこれら超能力とも術式とも異なる第参定義の執行能力。古来よりは『無外』や『悪魔憑き』の名で細々と伝承され、現代においては『侵蝕適合者(エクリプス・アウターズ)』の呼称で一部に知られつつある異界法則に犯された者どもの力、不可視の力はその一類であった。
 FARGOの隔離施設で被験者たちは少年の姿をした謎の存在【完全なる未確認知性体(アンノウン)】と性的交渉を行う事で『不可視の力』を移植された。この行為は単なる超能力授与の儀式と見做されている向きがあるが、それは間違いである。この儀式は被験者の存在をアンノウンが所属する異世界の法則に書き換える、この世界から逸脱した者に変異させるための儀式であった。FARGOはこれを人間を進化させるためのプロセスと定義し、幾多の実験を繰り返して被験者を選抜、儀式を敢行していった。だが、存在そのものを書き換える行為に耐えられる人間は皆無に等しく、同時に異界法則下にある存在は現行世界法則を否定侵蝕する存在である以上異物と見做され排除に掛かられる為に、被験者の殆どは精神を破綻させ能力が暴走する事で自滅していった。
FARGOの隔離施設が崩壊した時点で、自己を有したまま異界化した存在を安定させる事に成功していた被験者は僅かに二人。それが天沢郁未であり――今、睦美の前にいる鹿沼葉子であった。
 不可視の力とは暴論を許されるなら『召喚』である。まずは己の存在を介して異世界そのものをこの世界に招きよせる、もしくは流し込むと表現した方が正確かもしれない。然して反発する異世界と現行世界の法則間に生じた不具合を把握し、停止した法則の間隙に干渉する事で己の意志を現行世界上に具現化する能力――それが『不可視の力』と呼ばれる力のありようだ。

 話が長引いた。結論を述べよう。
 睦美の『フローズン・イージス』の能力では現行世界上に効力を具現化する以前の『不可視の力』に反応することは不可能だった。
 もし葉子の攻撃法が普段の郁未の扱うようなシンプルな衝撃波などであったならば『フローズン・イージス』はこれを防ぎきっただろう。だが、葉子の戦術選択は任意空間の限定破砕。指定ポイントは睦美の体内。異世界を介して送られた葉子の制御コマンドは『フローズンイージス』のピケットラインを通過しない。
 結果、葉子の攻撃は何らの妨害も受けず、葉子の思うがままに発現した。

 ――瞬殺だった。







 勝負は瞬時に決着していた。樋端睦美と鹿沼葉子。ぶつかり合う敵意に頬を叩かれ天沢郁未が自失から我を取り戻したときにはもう、何もかもが手遅れだった。
 鹿沼葉子は余計な虚飾を好まない。彼女は不器用なほど実直で言葉を飾ろうなどという器用な真似を出来る人間ではなかった。だから、彼女の言葉に飾りは無い。
「目障りなゴミ屑め、存在自体が不快です。迅速かつ粉微塵に殺戮して差し上げましょう」
 彼女がそう言ったのなら、言葉通りの展開が待ち受けているのみなのである。
 葉子の宣告が響き渡ったときには既にもう、樋端睦美の左腕が枯れ枝の束を踏みつけたような音を立てて関節を七つに増やしていた。反駁の言葉を吐き捨てつつ攻撃行動に移ろうしていた睦美が目を剥く前で、ゴムが引き千切られるのに似た音を立てて左腕が千切れ飛ぶ。
 花火のように幾つもの血飛沫が飛び散り、千切れた皮膚や肉の破片、そして筋肉繊維や骨の欠片が紙吹雪のように飛散して、それら全てを割れた水道管を思わせる勢いで噴き出した鮮血が押し流した。
「ギッ――――」
 悲鳴が迸るのを邪魔するかのように、右の太腿が熟れすぎた果実のように爆ぜ割れる。折れた大腿骨が肉を突き破って真紅の中に白ばった姿を露呈した。壊れたマネキン人形のように睦美は崩れ落ちる。
「氷で出来ているくせに、まるで人間のように血を流す。化け物とは、人まねが得意なのですね」
 睦美を見下ろし、嘲弄を隠さず葉子が言い放った。
 何か言い返すより早く、前触れもなく睦美の腹腔に拳が潜れるほどの大穴が穿たれた。
「げ……ぶっ!!」
 突然生じた空洞から内臓の残骸が溢れ出す。それでもなお睦美は血走った眼で射殺さんばかりに葉子を睨んだ。其れを受け、葉子は溜飲が下がったかのように口端を歪めた。
 郁未が人の言語を越えた何かを絶叫した。
 葉子の耳にも、睦美の耳にも、その叫びは届かない。
 鹿沼葉子はすみやかに己が発言を忠実に実行した。


「申し述べましたよね、粉微塵にして差し上げると」
 原形を残すことも許されず肉体をバラバラに引き裂かれ、唯一残った生首だけが無人のコートに放り捨てられたバスケットボールのように力無く転がる。霧と化した鮮血が空気を赤へと染めていく。
 怯えでもなく絶望でもなくただひたすらに憤怒を瞳に宿したまま睦美の首は虚空を睨んでいた。その消え行く光は無遠慮に踏み躙られる。床に転がる樋端睦美の生首に足を乗せ、鹿沼葉子は薄らと微笑んだ。
「ご気分はどうですか、とお尋ねしたいところですが、お返事は期待できないようですね。それでは……」
「やめ――」
「ごきげんよう」
 グチャリ、と。
 葉子の足元で熟れた果物が潰れたような音がした。

 頬に、熱いようで冷たい何かがへばりつく。
「……ああ」
 天沢郁未の頭の奥で、鎖が千切れる音がした。



「鹿沼、幾らなんでもやりすぎだ」
 半ば気圧されてしまい目の前で起こった惨劇を見ているしかなかった巳間良祐は、今眠りから覚めたように頭を振り、葉子を咎めた。
 血の海、そう呼んで然るべき惨状が広がっている。血と肉片の海と呼んだ方が正確かもしれない。葉子は顔色一つ変えずに、振り返った。
「なにか問題でも?」
 大有りだった。本音では、なんと言うことをしてくれたのだと問い詰めてやりたいところだ。だが、良祐は正直にそれを告げるわけにもいかず渋面になる。
「二人とも!」
 友里の警告が迸ったのは、良祐が取り立てて意味のない言葉で場を落ち着かせようと口を開きかけた瞬間だった。
 ドシン、と激震が走った。暗闇に包まれていたクラブホールに幾重もの光が差し込む。見れば壁という壁が外側に向かって撓み、無数の亀裂が入っていた。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 ケモノじみた咆哮が吹き荒れる。叫びが大気を震わせ、地震のようにビル全体を鳴動させていた。
「よくもぉ、よくも睦美さんをぉぉぉ!!!」
 葉子たちは吹き寄せてくる空気の波に、いや圧倒的なまでの圧力の仰け反った。
 力は、既に不可視足り得ていなかった。眩いばかりの黄金の波動が太陽のプロミネンスさながらに荒れ狂っていた。
「睦美を殺したなぁぁぁぁぁぁ!!」
 黄金の蛇が虚空に吸い込まれるようにして胡散霧消した。
 相転移が開始される。異世界召喚。
 葉子が立つ位置を中心として、このビル丸ごとを消し飛ばして余りあるエネルギーが励起を始めた。
 葉子は動かない。身動ぎもせず虚無に似た光を目に浮かべた。
 破滅の具現を前にして、動いたのは葉子を除いた三人だった。葉子を取り囲む配置を取る。途端、自分が呼び起こしたはずの力が、三方から押さえ込まれて捻じ伏せられるのを感じ取り、郁未は一瞬怒りも忘れて息を呑んだ。
「そんな!?」
 良祐が、友里が、高槻が、それぞれの表情を浮かべて郁未に視線を向けていた。
 その六つの瞳、ことごとく。
 黄金色に染まっていた。

 まさか、全員が不可視の力を使えるとでもいうの!?
 隔離施設ではそもそも高槻と良祐は研究員であり被験者ではなかった。友里は不可視の力を使うことが出来たものの、結局制御できずに暴走した挙句に処分されたはず。
 今、彼らが生きているだけでも驚愕すべき事実であるのに、その上全員が不可視の力を備えたなどと、そんな馬鹿な話が――。
「抵抗は無為です、郁未さん。私だけなら勝てるかもしれません。ですが、四人の不可視の力の使い手を前にしては貴女と言えど逃げることすら不可能です」
 郁未の驚愕をトドメとばかりに肯定しながら葉子は両手を広げた。
「大人しく屈してください。悪いようにはしません、そのつもりです」
 ムズがる子供を宥めるように言いながら、葉子が近づいてくる。
 郁未は未だ意識との接続が侭ならない下半身を叱咤して、その場に立ち上がった。左肩が痛い。痛いだけでなくまるで動こうとしない。指先は思うとおりに折り曲げられるので神経自体は断裂していないようだったが、まともに肘も曲げられないようでは同じ事だ。
 郁未は近づいてくる葉子を睨みつけた。彼女への親愛の情と現実に対する驚愕が、未だ心を埋め尽くしている。だが、それ以上に冷たい衝撃が郁未の魂を塗り潰していた。彼女は、睦美を殺したのだ。何の関係もない睦美さんを。ただ私を助けてくれようとしただけの人を。私のために怒ってくれた大切な人を。殺したのだ。八つ裂きにして、バラバラにして、見目も残らぬまでに残虐に残酷に、殺しつくしてしまったのだ。
 許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない。絶対に、絶対にだ、絶対に許せるものか!!
 殺意であった。憎悪であった。
 全身に突き刺さる呪い。鹿沼葉子はほんの僅かだけ、寂しげな顔をした。

「……私を、殺そうとしましたね、郁未さん」
「――――っ!」

 止まる。停止する。炎上し爆発し煮え滾っていた激情が一瞬にして凍りつく。
 頭を殴られたような衝撃に、郁未は一歩後退った。
「気にすることはありませんよ。それは仕方の無いことなのでしょう、きっと」
 彼女の口振りは理知的で愛想に欠けた、でもちゃんと柔らかいものが含まれた、郁未が良く知る葉子のもので。それだからこそ、郁未を打ちのめした。
 彼女は、睦美を殺した。惨殺した。許せない、絶対に許せない。だから、殺してやろうと思った。睦美さんと同じ目にあわせてやろうと思った。欠片も残さず消し飛ばしてやると、そう思ったのだ。
 鹿沼葉子を殺そうと、私は……。
 葉子さんを、殺してしまおうと。
 訳が分からなくなる。思考がフリーズしたまま動かない。混乱が混乱を呼び錯乱に至っていく。この怒りは正当なものだ。この殺意は間違っていない。自分は睦美さんを殺したこいつを絶対に許さない。でも、その相手とは、睦美さんを殺した相手は葉子さんで。天沢郁未の一番の親友で。この身、この心を削っても助けたいと思った人で。
「あ…ああ」
 なんで、こんな事になったんだろう。
 間違ってしまったのか? 私は、どこかで致命的な間違いを犯していたのか?
 私が、悪いのか?
「さようならです、郁未さん。今は眠りなさい」
 感情の渦に翻弄され、どうするべきかも決断出来ず立ち尽くす郁未に向かって、葉子は腕を振り上げた。
 そして全てを断ち切ろうと腕を振り下ろそうとした瞬間だった。

 足が動かなくなった。

 突然急停止を余儀なくされた下半身に付いていけず、上半身をつんのめらせて葉子はその場への停止を余儀なくされた。
「――くっ!?」
 なんだ? 足首に刺すような痛みを感じる。酷く冷たい感触が足首を包み、床に縫いとめているようだった。葉子は軽く戸惑いながら下を見る。
 喉から悲鳴がせりあがった。

『あたしも、言ったはずだわね。鹿沼葉子』

 どこからともなく声がした。葉子は全身に鳥肌を立てた。気がつかなかったのがおかしいくらい、いつの間にか床が水浸しに濡れそぼっている。その水たまりから白い女の手が伸びてきて、葉子の足を掴んでいた。ピシピシと音を立て、水が凍っていく。凍った水面(みなも)の奥底で、女の顔が嗤っていた。

『地獄の底に送ってやるって』

 咄嗟に放った力が足首を掴んでいた手を粉々に吹き飛ばす。だが飛び散ったはずの肉片はキラキラと輝く氷の欠片へと変貌し、まるで吸い付くように葉子の両足に纏わりついた。今度は抗う間も与えられなかった。
「くああああ!?」
 葉子の足首を凍りつかせたまま、轟音を響かせ巨大な氷柱がそそり立つ。逆さ釣りにされた葉子の眼前の氷柱の表面から、人間の上半身の形をした氷がせり出してきた。
 パキパキと氷の欠片が剥がれ落ち、女の顔が現れる。凍った瞳、真っ赤な口。死人のような白い肌。血塗られたような唇が開き、真っ赤な舌が硬直する葉子の頬をベロリと舐めた。

『堪能しろ、今から此処がその地獄の底(コキュートス)だ』

「お前はッ!!」
 引き攣った葉子の叫びにニヤリと嗤い、女の顔が溶け消える。
 光の乏しい暗がりゆえに判らなかった異変に、黒服たちはここに至ってようやく気がついた。息苦しいほどだったあの濃厚な血臭が消えている。いつからだろう。床という床、壁という壁一面にべったりと貼り付いていた赤という赤が拭い去られ、血の海は泉のように透明な水たまりと化していた。散乱していたはずの肉の破片も見当たらない。まるで水に溶けてしまったかのように一片残さず消え去っていた。
 ポンと破裂したような音をさせ、クラブハウスは白い霧に包まれる。室温が一気に零下へと低下したため、湿度を構成するための空気中の水分という水分が凝結したのだ。
 ガラスに皹が入るような音を立て、波紋が広がっていくように床に広がる水溜りが凍りついていく。暗闇が白い冷え冷えとした光に覆われていく。壁が、天井が僅かな隙間も残さずにゴツゴツとした青白い氷塊に覆い尽くされていった。
 蒸した熱気に包まれていた陰気なクラブホールは、今や氷点下の冷気蔓延る巨大な氷穴と化していた。
「な、なんじゃこりゃぁ!?」
「いかん、これは。天沢郁未を確保してすぐに脱出を――」
 良祐が高槻たちに警告を発し切るよりも早く、爆音さながらの音を立てミニチュアの氷山めかした巨大な氷柱が聳え立つ。
 行く手を塞がれた良祐や友里、そして郁未らこの場に居た人間全てが唖然と仰ぎ見る前で、氷柱の中心に一筋のヒビが走り、巨大な柱は粉々に砕け散った。
 星を散りばめたように、青白い闇に眩い銀の瞬きが散らばっていく。
「天沢、あんたにゃ取り立てて二つ誤解があるようだから、訂正しておいてやるよ」
「あ……あ…ああ」



 銀色に逆巻く風の中央に、氷柱の中より現れし女の姿をした幻想は舞い降りる。
 初雪を仕立てたような純白の単衣。永久凍土を想像させる深い碧色の帯。やや色が抜けた明るい黒茶だった髪の毛は、目の覚めるような青白となっていた。
 氷の華を思わせる荘厳な出で立ちで、樋端睦美は再びこの世に降り立った。
「一つ、あたしはまだ死んじゃいない。勝手に殺すなよバカ」
「睦美さん!!」
 歓喜の弾けた郁未の呼びかけに、樋端睦美は口端だけをクイと吊り上げて応えた。
「クッ――この化け物め」
 足首を拘束していた氷柱を粉砕し、床に降り立った葉子が吐き捨てる。
「化け物だよ、知らなかったのかい、人間」
 袂で口元を隠し、氷柱女はケラケラと嗤った。
「いけないっ逃げて! 睦美さんじゃそいつらには敵わない!」
 怒りも露わに葉子が双眸を輝かせ、良祐たち三人も睦美を囲み潰すように動き出すのを見て、郁未が悲鳴を張り上げる。
 睦美は人差し指を立てて言った。
「誤解の二つ目」
 不可視の力が迸る。睦美の手首が千切れ飛び、純白の衣ごと太ももが抉りとられ、胸に拳大の穴が開いた。
 にも拘らず樋端睦美は表情一つ変えぬまま、飄々と告げた。
「あたしゃ、あんたが思ってるほど弱かぁないぜ」
 傷口からは先刻と異なり鮮血が噴き出ない。代わりに飛び散ったのは氷の破片。だがそれも時間を撒き戻したみたく、睦美の肉体の損傷が衣装も含めて再生される。
 湖面を歩くように、軽やかに爪先立ってステップを踏み、睦美は指を鳴らした。
「踊れッ、アイスィクル・ランダンッ!!」
 轟音。
 地鳴りがしたと思うや、前後左右全ての壁面から氷柱の槍が飛び出してくる。泡を食い、障壁を張りながら躱そうとする葉子たち四人だったが、空間と言う空間を埋め尽くしていく氷の柱の大群に飲み込まれ、姿が見えなくなってしまう。
「す…ごい」
「あたしじゃこいつらに敵わない? 笑わせんな」
 雪夜の色をした髪を掻き揚げ、妖怪は郁未に向かって片目を閉じた。
「あたしゃお前さんの先輩だぜ、天沢よ。少なくとも後輩のお前よか強いさ。舐めるなよ、相棒」
「大言壮語を。貴女ごとき雑妖が郁未さんよりも力が上だとほざくのですか」
 鉄にも負けぬ強度を誇る氷の柱を、ガラスのように打ち砕き、葉子が姿を覗かせる。
 睦美は小鳥のように可愛らしげに小首を傾げた。
「あら、じゃあ試してみる?」
「くっ」
 怒りに顔を赤らめて、葉子は散弾よろしく不可視の力をばら撒いた。
「粉々にしても甦るのなら、根こそぎこの世から消し去るまでです!」
「戯け」
 葉子の力は睦美の体内に発現しない。爆竹が鳴ったような炸裂音が立て続けに響き、葉子と睦美の間の空間に無数の氷の花が咲き、粉々に飛び散った。
 葉子は初めて怒りと憎悪以外の感情、純粋な驚愕を剥き出しにした。
「迎撃された!? どうやって!?」
「あんたたちの不可視の力が、PKとは別物だと知らないとでも思ってた? さっきは不覚を取ったけど、何度も同じ手にやられるかよ」
「わ、解かれば防げるというものではありません!」
 小馬鹿にしたように鼻が鳴らされる。
「妖怪を見縊りすぎなんだよ、人間が。あたしら精霊はある種世界そのものだ、異界ごときをのさばらせるか」
「チィッ、訳の分からない事を!!」
 葉子の足元の氷に放射線状に皹が入る。緻密細緻の制御技能を誇るはずの鹿沼葉子が、余剰エネルギーを外部に撒き散らしている。
「クッ…落ち着け、鹿沼! その(あやかし)、情報にあるような低級ではないぞ。この領域支配、主位(ヌシ)に匹敵する妖怪だ!」
「それがどうしました。上等です、ヌシだロードだなどと化け物には変わりない。小細工を弄するのなら、小手先では防ぎ切れぬだけのものをぶつけるのみ」
「鹿沼!」
 氷壁からの良祐の声を振り払って猛る葉子。睦美は余裕の無い笑みを浮かべた。
 出力をあげての飽和攻撃、なるほど正解、正しい戦術だ。さすがにそれをやられては防ぎきれない。だが――
「おいこら、無茶苦茶するんじゃねえ」
 氷の隙間からやっとこ這い出してきた高槻が血相を変えて制止した。
「ビルごとぶっ潰す気かよ!?」
「――――っ」
 一瞬の躊躇いで生じた隙を睦美は見逃さなかった。振り被った手のひらを、足元に叩きつける。一直線に御神渡(おみわた)りの如き氷の剣山が床から突き出しながら、葉子の足元にまで伸びていく。
 葉子は咄嗟に飛び退きながら絞った不可視の力を足元から迫り出してくる氷剣にぶつける。粉々に砕けた氷片が間欠泉のように葉子の眼前に吹き上がり、
「な、ん――!?」
 瞬き一つした間に、氷の塵は氷柱女の姿を象っていた。ヤケドしそうなほど冷たい手が、葉子の顔面を掴む。間一髪葉子は手を振り払った。それが彼女に抗える精一杯だった。睦美の下半身が再び氷塵に崩れるや巨大な氷の手と化して葉子の腰を鷲掴みにし、壁に押し付けた。
「が――はっ」
「このままぶち殺してやりたいのは山々なんだがね、裏切り者。郁未に免じて見逃してやる。しばらくそこでマンモス気分に浸ってな」
 嘲るように睦美が言い放つ。巨大な手はそのまま氷の柩へと変化して、葉子は首から下を氷に覆われ苦しげに呻き声をあげることしか出来ない。
 下半身を新たに再生しつつその無様な姿を嘲笑ってやろうとした睦美は、だが穴の空いた風船のような息を漏らし、僅かに体勢を崩して額に手を当てた。
 堰を切ったように大量の汗が吹き出し、小枝を折るような音が体内から聞こえだす。額から頬まで入ったヒビを摩って消し去り、睦美は無念そうに唇を噛んだ。
 悠長にしていられるほど時間は残ってない、か。
「みな気をつけろ。このクラブホール全体があの雪女自身と同化しているぞ」
「あたしゃ雪女じゃねえ、氷柱女だ!」
 良祐の発した警句に噛み付きながら、睦美は郁未の傍らに出現した。
「む、睦美さん」
「天沢、お前さんの悔しさ、晴らせずに悪いがここは一度尻尾を巻くよ」
「え、でも」
 こんなに圧倒的なのに。郁未はそう訊ねようとして、彼女の青白い顔に浮かぶ本当の氷のような透き通った眼差しを前にして言おうとした言葉を忘れてしまった。
「連中がビビってる間に逃げないと拙いんだ。はったりはいつまでも通用しないからね」
「ハッタリ? そ、それって」
 睦美は未だ足が言うことをきかない郁未を抱えあげると、ホールの出入り口めがけて一目散に走り出した。
「あ、逃げたわよ、あの娘たち」
「なにぃぃ!? あ、あのアマ、ここまで好き勝手やりやがってトンズラだと!!」
「バイビー」
 立ち塞がる氷の柱を打ち砕いて追いすがろうとした高槻に、出入り口で振り向いた睦美はベロリと舌を出し、力一杯床を踏みつけた。
「のわああああ!?」
 轟音とともに全包囲から迫り出してきた氷塊に、押し潰されそうになった黒服たちの悲鳴を背に、郁未を抱えた睦美は階段を上に昇る。
「上? 上行ってどうするのよ!?」
「拾っていかなきゃなんないもんがあるのよ!」
 元居た四階まで駆け戻り、睦美は途中のデスクの上から書類を一冊引っ掴み、奥の部屋へと踏み込んだ。
「こ、この娘って!?」
 そこに倒れていた血塗れの娘を見て、郁未は驚愕の声をあげる。睦美は無言でグッタリと気を失っている真琴を肩に担ぎ上げ、目の前の壁を蹴り飛ばした。一瞬で氷結したコンクリートが衝撃に耐え切れずに崩れ落ちる。
「飛び降りる、舌噛むなよ」
「うわ、わわわわあああ」
 空いた穴から睦美は二人を抱えたまま飛び出した。








「………………」
 無言で、鹿沼葉子は蒸気を発して昇華している氷の塊を踏み潰す。
「おいおいおい、逃げられちまったじゃねえか」
 非難がましく声を荒げていた高槻だったが、葉子に睨みつけられ首を引っ込めた。
「な、なんだ、てめえが悪いんだろうが。オレに八つ当たりするんじゃねえよ」
「わかっています」
 張りつめた糸を緩めるように葉子は吐息をはき、意見を求めるべく良祐に目を向ける。
「安易に追うのは反対だ。天沢郁未だけならともかく、あの妖魔、さっき言ったとおり相手取るにはかなりの覚悟が必要だぞ」
「そうね、多分あれ――【探偵助手】よ」
 友里の口から飛び出した意味不明の単語に「は?」と高槻と葉子は不可解そうに眉を顰めた。一方、良祐だけは思い当たる節があるのか「そうか、あれが」と大きく頷いている。
「なんなのですか、その助手とやらは」
 伝聞程度しか知らないが、と前置きして良祐が説明しだす。
「かつて闇東京で名を馳せた人捜し屋(マントレイサー)の片割れだ。彼らは【探偵】と呼ばれる男とその助手だという女の二人組。両名とも人間ではない事以外、詳しいことは何もかも不明という話だ。ただその【探偵】と【助手】が帝都のアンダーグラウンドで勇名を馳せていたというのは確かな事実らしい。人捜しとは言うものの、その対象者の大半は深刻なトラブルを抱えていたため、結果幾多の魔術結社や魔道犯罪者、ときには国家機関まで向こうに回して立ち回るはめになりながら、その尽くを出し抜いて見せたという……闇東京の一部では伝説とまで言われる二人組だよ。シャーロックよろしく推理で事件を解決したという話は耳にした事は無いので所謂『名探偵』の類ではないようだがな。片割れの【探偵助手】は噂では氷雪系の精霊妖族『氷柱女』、日比谷公園全域を三日三晩樹氷の森に沈めたほどの力の持ち主と聞いている。三年か四年程前に仕事をしくじって二人とも行方知れずになったと聞いていたのだが、まさか公安に入っていたとはな。情報では樋端睦美という妖怪は雪女となっていたんだが…」
 一通り話し終えると、良祐はどうすると葉子に向き直った。
「はっきりさせておくが、いつまでも天沢郁未ばかりにかかずらっているわけにはいかないぞ」
「不安要素は排除しておくべきです」
「勿論そのとおりだが、優先順位を間違えてはいけない。我々の任務はあくまで実験の補助と観測だ」
「…………」
 不服そうな葉子に、高槻が鼻を鳴らした。
「ふん、わざわざケツを追いかけなくても、あの女なら生きてさえいりゃ、向こうから嫌でも邪魔しに来やがるさ。あの女は、そういう奴だ。人が嫌がることをするのが大好きな、粘着質の胸糞悪い女だからな」
「選りにも選ってあんたに嫌がらせが好きだとか粘着質だとか言われくはないでしょうね、あの娘も」
「あん、なんか言ったか?」
「別に」
 そっぽを向いた友里の目に映るのは、液体化を経ずに氷から直接水蒸気と化して消えていく、クラブホールを覆っていた氷塊だった。
 友里は密かに舌打ちした。
 あの氷妖、上手くすれば鹿沼葉子を揺さぶるのに使えたかもしれないけど。
 郁未には完全に冷酷に徹した彼女が、氷女には面白いほど感情的になっていた。葉子の郁未に対する複雑な感情が垣間見える反応だったが。
 死んでしまえば、牽制にも使えない。
 他の者は気付いていないようだったがあの氷妖、酷く無理をしていた。恐らく、葉子の初撃は致命傷だったのだろう。あの様子では長くは持つまい。
 予想される結果からもたらされる悪影響に思いを馳せ、友里は落胆と失望を胸に宿した。














 昔々、というほど昔じゃない。ほんの三年ぐらい前までの話だ。
 あたしの傍らには、見ていて危なっかしくて仕方の無いバカがいた。
 そいつは無愛想で気が利かなくて根暗でうらぶれててアル中で度を越したヘヴィースモーカーで、そいつと居ると色々と苦々しいこと腹に据えかねること忌々しいこと頭にくること、そんなことばかりが降りかかって来て――主に労働条件と財政事情です――、それでも我慢してそいつの傍に居続けたのは、やっぱり見放せなかったからなのだと思う。
 自分が助けてやらないと、ヤツは平気で地獄だろうと天国だろうとノソノソと迷い込んでいきそうだったから。
 ヤツとあたしの関係を言い表す言葉はたくさんあったのだろうが、一番しっくりくる言葉が一つあった。

 ――相棒。

 そう、ヤツとあたしは相棒だった。
 最低で、最悪で、ろくでもないばかりのコンビだったが。
 それでもあたしたちは最高の相棒同士だった。
 最高の、相棒だったのだ。

 だがもう、あたしの隣にヤツはいない。
 あたしのミスの所為で、ヤツはいなくなってしまった。

 今、あたしの隣にいるのは危なっかしいことではヤツにも負けず劣らずの夜郎自大な小娘だ。
 まったく、目が離せないって事に関しちゃあいつといい勝負。困ったもんだ、あたしの隣にゃこんなやつしか来ないのか。
 でも、相棒だ。
 生意気で先輩を先輩とも思ってない上に、なんかこう貞操の危機を感じてしまう見境の無いアブノーマルなやつだけど。
 相棒と呼ぶに足るヤツだった。オマケに娘までいる子持ちのシングルマザーときた。
 守ってやらなきゃならんと思ったのだ。もう二度と、パートナーを失ったときのあんな思いはゴメンだった。
 悔しさが喉を掻き毟る。惨めさが脳髄を這い回る。悲しみで心臓が止まるような。
 あんな思いは。

 だから今度こそ、あたしは…………。
















「ペンギンってさ……ハードボイルドだよな」
「な、なによ、聞こえない!?」
「あたしはカラスよりペンギンの方が好きだったんだ、カラスなんて大嫌い」
「わっ、うああ!! な、なんだって!?」
「ううん、なんでもない」
 力無く笑う睦美の首筋に、ヒビが入った事に郁未は気づかなかった。実際、それどころではなかったのだ。
 睦美の小脇に抱え込まれた郁未は、現在地上を時速50キロで滑走していた。頭が地上すれすれを掠めている郁未からすれば、体感速度は50キロ前後どころの話ではない。悲鳴を飲み込むのに必死で周りの様子に気付くどころではない。
 真琴と睦美を抱えて天童ビルを飛び出した睦美は、足に氷で形成した即席のスケートエッジを装着し、進行方向の地面に氷を張り巡らしながら、アイススケートの要領で疾走していた。
「ちょ、あぶっ、市街地でこんな移動法ヤバいわよ、危ないって!!」
「なるだけあいつらから離れないと」
「それでももうちょ――し、信号、前信号赤!!」
 睦美は無反応のまま交差点に突っ込んだ。幸い車の往来は途絶えていたようで、無事に通過する。
 とはいえさすがに身の危険をひしひしと感じ、郁未は睦美を制止しようと首を捩る。
 バキッと硬質の粉砕音がどこからか響いた。
「え?」
「ああ、そろそろか」
「なに?」
「急ぐつもりはなかったんだけどなあ。でもまあしょうがないよね。思ってたよりだいぶ早かったけどさ、んふふ、アンタの所に行けるみたいだよ、あたしの探偵さん」
「ちょっと、睦美さん、何言ってるの、ねえ!」
 まともな意識があるのか怪しい朦朧とした口振りに郁未はゾッとした。声が届いていない、正気じゃないのか睦美さん。だいたい、なんだこの音は。さっきからバキバキと何かが割れる音が止まらない。否定したい気持ちを捻じ伏せて、郁未は音の出所に耳を澄ます。音は、睦美の体内から聞こえていた。
「なによ、これ。睦美、睦美さんてば!」
「……ああ、天沢。悪い…ちょっと意識が飛んでた?」
「じょ、冗談でしょ?」
 必死で首を捩る。睦美の顔が視界に入る。そうして郁未は絶句した。虚ろな微笑の浮かぶ睦美の顔に無視できない亀裂が幾重にも走っていた。
「むつ――――」
 郁未の悲鳴を遮って、これまでで一番の破砕音が頭の下から轟いた。途端、後方に向けてぶっ飛ぶように流れていた周囲の景色がつんのめる。
「っああああ!?」
 空中へ放り出される。天地左右の区別が無くなり、周囲の景色が回転する。三半規管がわやくちゃになりながらも、郁未は懸命に不可視の力を何重にも網のように薄く広げて、放り出された真琴と睦美の身体を受け止めた。
「し……死ぬかと思ったわ。い、いきなり転ぶなんて冗談じゃ――む、睦美さん、だいじょう……あ」
 擦りむいた肘を涙目で摩りながら、睦美たちの安否を確かめようと二人の姿を探した郁未は、その場に固まった。
 釘が打たれたように動かせなくなった視線の先に、それはあった。
 氷が張られた路上に、今にも歩き出しそうなままポツンと取り残された足首二つ。
「…………」
 フラリと首を捻った先には傷だらけの真琴がうつ伏せに倒れていて、その向こうに睦美は居た。仰向けに、ぼんやりと空を見ながら倒れていた。動けない。まるであの置き去りにされた足首が自分のもののように動くことが出来ない。
「どうしたの、睦美さん。その……足」
 倒れた睦美の両足は、その踝から下がハンマーで砕かれたみたく無くなっていた。ならばやはり、向こうの足首が彼女のものなのだろう。
 郁未はどうして自分が動揺している理由がわからなかった。だって、さっき睦美は全身粉々に吹き飛ばされていながら、平然と再生してみせたじゃないか。脚が折れた程度で慌てることか?
 だが嫌な感じが消えるどころか膨らんでいく。とにかく睦美に駆け寄って抱き起こそうとした郁未は、そこでようやく嫌な感覚の正体を発見した。
「睦美さん、脚が……蒸発して」
 いつもの溶けて水になっていくのではない。白い蒸気が、踝の断裂面から吹き上がり虚空へと消えていっていた。それ現象が瞬く間に太ももの方まで広がり始めている。
 睦美は自分の脚を一瞥し、ふう、と肩の荷が降りたような口調で言った。
「天沢、あたしはここまでみたいだから、その娘を早く治療できるヤツのところに運んでやってちょうだい」
「と、突然訳わかんないこと言わないでくださいよ。ここまでって何なのよ、ここまでって」
 何をどうしたらいいかわからず、触ったことのない機材を前にした素人のようにオロオロと両手を泳がせる後輩の姿に、睦美は失笑した。
「バカなことしてないで、早く。もう、足、動くでしょ」
「だって、私じゃ二人も担いで動けないわよ」
「二人も運ぶ必要ないでしょ、あたしはもうすぐ消えるから除外除外」
「消えるって、なんなんですか……………………なんなのよッ!!!」
 錯乱する。いや、錯乱しようと思った。理解を拒んで絶叫する。と同時に、ピシリと音を立てて、睦美の両脚が付け根まで崩落した。
「――――ッ!?」
「ほら、子供みたいに何時までもわかんないフリしてんじゃないよ」
 いっそ穏やかとすら言える口振りで、睦美は諭した。
「待って、お願いだから待って」
 これは、そう、なのか? そういうことなのか?
 郁未はカラカラに乾いた喉を何度も動かした。
 死、という言葉が思考の中に埋め尽くされていく。
 死ぬのか? 死んでしまうのか? 睦美さんが? どうして。
「だって、今の今まで元気で――」
 ちょっと待って欲しいと、郁未は真剣に時間の神様に願った。いきなりすぎて、まともに考えをめぐらせることも出来ない。
 そうか、そうだやっぱりあの時だ。
 葉子さんに、身体をグチャグチャに潰されたとき。どうして気付かなかったのだろう、今の今まで思い至らなかったのだろう。
「嘘…やだ、だってそんな…」
 あのとき、睦美は血を流していたじゃないか。赤い血を、その体から流していたじゃないか。あれは、あの瞬間、睦美が人間であった証だ。氷柱女の本性自体が見た目人間そのものなのでつい忘れてしまうが、氷の化身である睦美は本性では日常生活を営むのは難しいため、普段は妖狐などと同じく人間に化けている状態なのだ。
 何故、忘れていたのだ。人を装えば、また人の持つ脆弱さもまた属性の一つとして帯びてしまうのが人化術の逃れられない法則だという事を。
 人の姿のまま、肉片と化すまでバラバラにされて、ただで済むはずがないじゃないか!!
「どうして、睦美さんは関係ないのに」
 なんで気付かなかった。なんで、私は気付いて止めさせなかった!?
 きっとバラバラにされた時点で再起不能に近いダメージを受けていたはず。それなのに、そんな状態で本性を現して、あんなデタラメみたいな力を惜しげも無く引き出して。
 そんなもの、ヒビだらけの航空機でフルスロットルを入れるようなものだ。
 バラバラになるに決まってる!!
 死んでしまうに決まってるじゃない!!
「なんでよ、睦美さん」
 関係、ないのに。これは、天沢郁未の個人的な我が侭で、睦美さんには何の関係もなかったのに。
「どうして、ここまでするのよぉ!」
「うっさいなあ」
 何か、自分の中に抱えていたものに納得したような、そんな優しい自嘲を浮かべ、樋端睦美はつぶやいた。
「相棒でしょ、あたしら」
 それで、理由は充分だ、と言わんばかりに氷柱女は目を閉じた。
 既に、もう腰までがこの世から蒸発していた。
「なによ、それ」
 笑い飛ばそうとして、失敗した。相棒だなんて、偶々仕事の関係で行動を同じくするようになっただけの間柄なのに。それとも、この人にとってはそうじゃなかったのか?
 相棒というだけで、こんなにも安く命を賭けられてしまう人だったのか。
「違う、違うでしょ、そんなわけないじゃない」
 相棒だからじゃない。この人は、私を――相棒だと認めてくれていたから、ここまでしてくれたのだ。
 私なんかを、こんな有り様になるのを辞さないほど、認めてくれていたのだ。
 私は、私の方は、親身になってくれてる職場の先輩ぐらいにしか、思っていなかったというのに。
「畜生、そんなのってないよ、こんなのってない!!!」
 そんな私の為にこんなになって。バカだ、この人は。真性のバカ女だ。
「た、タマちゃん……いるんでしょ、き、聞こえてるんでしょ!? タマちゃん!!」
 だから、喪うわけにはいかなかった。
 天沢郁未は、自分のためにバカになってくれる人が、どれほど掛け替えのない存在なのかを、誰よりも知っていた。そして、その人を失うことが、どれほど心を削り取られることになるのかも。
「呼んだら来るって言ったわよね。助けてくれるって言ったわよね。お願い、こたえて、今がそうなの。お願いだから、この人を助けてっ!」
 半狂乱になって郁未は叫んだ。この際、助けてくれるなら誰でも良かった。胡散臭かろうが、小娘だろうが関係ない。たとえ、相手が悪魔でも。
「タマちゃん!!」
「うるさいのう」
「うひっ」
 突然、目の前にぬっと珠呼の顔が現れ、郁未は後ろに引っくり返った。
「喚かんでも普通に呼べばよかろうが、このたわけ」
 あまりの事に狂乱していたのも忘れて目を白黒させている郁未の前で、珠呼はカーテンでも開くような気安さで空間を抉じ開けると、よいしょと裂け目を跨いで地面に飛び降りた。
「わわ、引っ掛かった引っ掛かった」
 ワンピースの裾を裂け目に引っ掛け、あたふたと慌てている。可愛い下着を見え隠れさせながら、必死に背伸びして裾を外した珠呼は、引っ掛けた部分を調べてひどく哀しそうな顔になる。
「あうー、ちょびっと破けてしまったではないかっ! まったく、人がコンビニで立ち読みしとる時に呼び出しおって。なんぞ詰まらん用なら怒るぞ。電撃大王なぞ、滅多コンビニなんぞにおいておらんのじゃぞ」
「そんなことはどうだっていいでしょ!」
 逆切れされて、ビビる珠呼。
「な、なんじゃよー、怒らんでもよいではないか」
 郁未は珠呼の抗議など端から聞いてはおらず、その小さな肩に掴みかかり、揺さぶるように訴えかけた。
「タマちゃんお願いよ。このままだと睦美さん、死んじゃう。それに、もう一人の女の子も。助けてよ、貴女なら出来るんでしょ」
 そこでようやく珠呼は現場の状況に気がついたようだった。鼻を括ったような態度で真琴と睦美の様子を値踏みする。瞬間、睦美と珠呼の視線がぶつかった。
 苦笑気味に、だが優しい眼差しで泣き叫ぶ郁未の姿を見守っていた睦美の面差しが、何かに気がついたようにハッとなった。みるみる見開かれていく氷柱女の青い眼と強張っていく面差しを見て、玲瓏とした幼女の面に蠱惑な冷笑が浮かんだ。
「ふん、まあ楽勝とは言わんが、助けるくらいなら出来るぞ」
「や、やめろ天沢」
 虚を突かれ、郁未は振り返った。
「なに言ってるのよ睦美さん。このままだと死んじゃうのよ!?」
「いいから、私はいいから、その狐の子を連れて秋子さんか天野さんのところに行け」
「ふざけないで! 睦美さんを見捨てろっていうの!? タマちゃんは助けられるって言ってるじゃない」
「ダメだ、それだけはダメだ。頼むからやめてくれ」
 いっそ悲痛とすら思える叫びに、郁未は戸惑った。睦美は何故か、怯え切っているようだった。蒼褪めた顔でガタガタと震えている。自身の消滅に恐怖しているなら郁未も理解できただろう。だが、その畏怖に満ちた視線は吸い寄せられるように珠呼に向けられている。
「ふふん、白神の小娘が。滅びに瀕してようやく視えたようじゃな――妾がいったい【ナニモノ】なのか」
「は、白面」
 白い帽子の鍔下で、朱い唇が三日月に裂けていく。
 はくめん? 二人の間で交わされるやり取りの意味がわからず、郁未は焦燥だけを募らせる。睦美の崩壊は、もう胸部にまで及んでいるのだ。本当に時間が無い。
「タマちゃん、お願い、早く」
「忘れておるまいな、妾に助力を頼むのなら」
「代価が必要だっていうんでしょ!? 私に出来ることならなんでもするわよ、だから――」
「ダメだ、郁未。絶対ダメだ!」
 涙すら浮かべて、睦美は絶叫した。
「やめてくれ。後悔する。郁未、絶対後悔するから。だから、お願いだから、やめて」
「後悔なんて、するものか」
 乱暴に、郁未は懇願を振り切った。
「ここで睦美さんを死なせる方が、絶対後悔するって、私は知ってるのよ!!」
 相棒の形相に睦美は悟った。今の彼女なら、自分の命を差し出せと言われても諾々と受け入れるだろう。自分の身が、自分だけのものではないことすら忘れてる。そんな状態では、自分の声は届かない。
 ああ、誰か。誰でもいい。神でも悪魔でも、なんだっていい。
 樋端睦美は、この世のありとあらゆる存在と事象に向かって懇願した。
 今すぐあたしを殺してくれ!
 どうせ、あと何分とこの世に存在できないのに、何故、その数分をなくしてしまえない。
 動かない手が呪わしい。自決すら出来ない身を憎悪する。
 睦美の心境を察したように、横目で此方を見て少女が嗤った。
「は、白面ッ、キサマァァァァッ!!」
 珠呼は云った。
「天沢郁未、この者たちを助けてやろう」
 郁未の顔が喜色に輝きかけ――――

 続いて珠呼の口から飛び出した言葉に、あらゆる表情が抜け落ちた。

「代償は、お前の娘の命じゃ」












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