< 09:55  カルストンライト・ホテル ロビィ >


 無為な時間を費やしてしまった。時計に示された時刻を前に、郁未はしかめっ面を崩せずにいた。起きてから取っ組み合いの大喧嘩をやらかして警察を呼ばれそうになったりホテルから追い出されそうになったりと、ハタと気付けば三時間。この時間帯にはもう街へ聞き込みに出発しているはずだったのだが、二人の姿はまだホテルのラウンジにあった。
 モーニングの時間は終っているはずなのだが、ラウンジには比較的多くの人影が見える。ラウンジから見渡せるホテルのロビーにも夏休みのためだからか家族連れが姿も見受けられた。
 そんなわりと賑やかな朝と昼の間の時間帯。出遅れた元凶の大半を担う先輩兼相棒の冬の精霊は、ブランチのつもりなのかラウンジのメニューで最も巨悪的なパフェを注文して、嬉々とそのトロピカルなアイスとデザートの剣峰へと登攀している。
 その嬉しそうな事と言ったら、娘に玩具を買い与えてあげた時の反応とさして区別がつかない。一応、まったくの善意で今回の人探しに付き合ってもらっている以上、感謝すべき人なのだが、なんだかこう……むかつくのはなぜだろう。
「まあ落ち着きなよ、後輩。イライラしてもはじまらんぜ。人探しってのは、どっしり構えて地道にやってくのがコツってだべさ」
 人の気を知ってか知らずか、訳知りが顔で講釈を垂れる樋端睦美。口の周りにべっとりついたクリ−ムのお陰で説得力は小豆ちゃんほども見当たらないのはご愛嬌。
 しかし、これで公安八課に来る前は探偵みたいな事を長くやっていたというのだから、郁未などより専門家なのは確かな話である。その彼女がコツというのだ。全然当てになりそうにないとか思っちゃいけない。ガマン、ガマンだ天沢郁未。ガマンして話を聞こう。郁未は心を落ち着けるために、注文したまま放置していたミックスジュースに口をつけた。
「あれ? 人探しじゃなくてネコ探しのコツだったかにゃ?」
 ゴツンと思わずコップをテーブルにたたきつける。
 だめだ。やっぱり当てにならん。
 これ以上会話を続ける気も起きず、ともすれば噴出しそうな憤懣を必死に押さえ込みながら、郁未は氷が溶けて水っぽくなってしまったミックスジュースを脇に押しやり不貞腐れたように頬杖をついて窓の外に広がるホテルの中庭を見るとはなしに眺めた。
「あー、今頼りにならないとか思ったんじゃないの、いくみん」
「いくみん言うな」
「信用ないな。知ってるか? うちの公安八課って、本当は公安八課なんだぞ」
「なんなのよ、その脈絡無い会話は。しかも何言ってるかわかんないし」
「いやさ、道府県警って公安は公安課で一括りにされてるんだよ。なのにうちだけ公安八課って公安課とは別括りになってるじゃない。実は私、先月まで公安部の八課だと思ってたから、もうびっくりさ!」
 公安課と別組織だったことにびっくりなのか、知らなかった自分にびっくりなのか。後輩としては後者であって欲しい。自己反省を知らない先輩なんて悪夢的な存在だ。
「……報告書ちゃんと書かないからよ、先輩」
 事務仕事を真面目にやってりゃ、自分の所属する部署の正式な立場を知らないなんてありえないわけで。そりゃ、郁未たちの部署は非公然に属する治安局の暗部なので、書類等は本式と違って色々ごちゃごちゃしてるのだが。
 睦美の言う通り道府県警では公安は公安課という所に一括りにされているため、非公式部署と云えども公安八課というのは構造上存在し得ない。一課から九課、加えて外事の四課までずらりとある本店・警視庁とは組織構造からしてかなり違う。
 それが何故、公安八課なんて名称のまま県警本部に据え置かれているかというと、内務省公安部の対魔捜査部は九十九埼系の派閥で一括管理されており、現在存在している大坂府警・宮城県警・福岡県警の対魔捜査部はなかば警察組織から独立した組織と見なされている。言わば、九十九埼家の私兵集団と捉えられているのだ。だったらみんな纏めて公安八課でいいじゃないか、どうせ非公然部なんだから。と内務省の上の方で酷く投げやりなやり取りがなされた結果、組織編成上ありえない部署名称が各地の対魔捜査部に振り当てられてしまったらしい。
 実際八課に所属する郁未から見ると、大坂(ウチ)なんかは九十九埼など気にせず結構好き勝手にやっているようにしか思えないのだが。それも元九十九埼家当主候補筆頭だったという北川功刀という存在があるお陰なのかもしれない。
 なんにしてもだ、やっぱりというかこの調子では睦美先輩は頼りになりそうもない。今日はどう捜索を進めるのか、この場で相談するつもりだった郁未は虚脱感に肩を落とした。この人はもう放っておくか勝手に付いてきて貰うかして、自分で何とかするしかないか。これから目算も立たない探索行に出発しなければならないにもかかわらず、限りなくテンションを低くしている郁未の前に、不意に氷の欠片が滑ってきた。
「なんですか、氷で遊ばないでくださいよ、もう」
「違うわい」
 睦美は柄の長い匙を咥えてプラプラと上下させながら言った。
「どうやら郁未はあたしを舐めすぎているようなので、その曇った目から鱗を落としてあげましょう。それ、耳元にあててみな」
「耳に当てる?」
「いいから」
 首を傾げつつも言われたとおり氷を摘もうとして、郁未はあらと目を瞬いた。触れてみて初めてわかったのだが、この氷、ひんやりと冷たいだけで溶ける様子がない。どうやら冷水のコップから取り出したものではなく、睦美の妖力で精製された呪氷のようだ。水晶のような透明な六面体を、耳元に当てる。
『FARGOの連中はもう来ているのか? 彼らも今回の儀式には立ち会うと云っているんだろう?』
 思わずあげそうになった声を抑え、郁未は耳から呪氷を引き剥がした。
「なに、これは」
 動揺する郁未に、睦美は生クリームに舌鼓を打ちながら、綽々と応える。
「ほんの何分か前にヒットした音声よ」
「まさか、これって盗聴した声?」
 ご名答、とばかりにピンと睦美はスプーンを持った手の人差し指を伸ばす。
「いったいどこで盗聴なんか」
 睦美は伸ばした人差し指でトントンとテーブルを叩いた。
「ラウンジ、じゃないわよね。って、このホテル?」
 ニッと歯を見せて笑い、睦美は口を開いた。
「ろくな情報も当てもなくね、一個人を探し出すのって容易じゃないのよね。だから必要なのは鹿沼さん当人を探し回る事じゃなく、彼女に繋がる『当て』をあぶりだす事なのよ。で、昨日なんだけど天沢が構ってくれないので、勝手に堅気じゃなさそうな怪しい連中を洗ってそれらしいのに目星をつけさせてもらったわ。ざっと七組ほどね。鹿沼さんの場合、失踪の仕方も普通じゃなかったし、絶対裏側の人間が関わってると見たんだけど」
 何でもない事のようにスラスラと述べる睦美に、郁未は唖然と聞き入るばかりだった。まるで探偵か刑事みたいなセリフじゃないかと思ってしまった。
「目星をつけてたって、いつの間に」
「そういう情報が手に入れられるところはどこにでもあるのよ。蛇の道は蛇ってね。ここに来る前に渡り、付けといたの。まあ割りと楽だったわね、都心や大都市部よりここみたいな地方の方が出入りは目立つし。んで、その怪しい連中のうち三組がこのホテルに宿泊していたから、昨日の晩のうちに仕掛けといたわけよ。他の二組は関西のヤクザ屋さんと上海政府の情報工作支援者だったみたいだけど、残り一つが当たりだったみたいだわね。まさか、一発で当たりを引くとは思わなかったわ、日頃の行いかしら」
「じゃ、じゃあ、泊まる所、わざわざこのホテルにしたのも?」
「まあね、同じホテルにいた方がなにかと動きやすいでしょ?」
「すごい、睦美さん」
「おほほほ、もっと褒めてもっと褒めて」
 恍惚と身悶えしている睦美への賞賛はそこそこに、郁未は音声の詰まった呪氷を耳元に宛がった。FARGO、神剣、儀式など、幾つか特徴的な単語が飛び交っている。
「……FARGO」
 その言葉を発しただけでじんわりと舌が痺れる。
 まさか、こんな所でもう一度名前を聞くことになるとは。いや、葉子が失踪した時点でいつか行き当たるのではと、心の何処かで予想していた。
「また、私から大切なものを奪うというの?」
 握りこんだ手のひらに爪が食い込む。
「睦美さん、この声の連中は――」
「焦りなさんな、天沢。丁度今、出てきたところよ」
 エレベーターから二人の男女が降りてくる。ビジネススーツ姿の気難しげな若い男、同じくスーツ姿のトロンとした目つきの銀縁眼鏡の女性。若手実業家とその秘書という感じの組み合わせだ。
 茫洋として感情の読めない女性とは違い、男はどこか焦った様子で入り口の方へと早足に郁未たちの横を通り過ぎていく。
 彼らがホテルの外に出て行くのを待って、睦美が首を回しながら立ち上がる。
「さてと、じゃあ偶には刑事よろしく尾行と行きますか」
「了解、ああ睦美さん」
「ん?」
「愛してるわ、もう大好き」
「…………あうう」
 婚姻届を前にした男のような絶望的な表情を顔に貼り付けている睦美を置いて、残ったミックスジュースを一気に飲み干し、郁未はコップを叩きつけるようにして立ち上がった。









< 10:10  向島スパ・ワールド >


 姿身の前に立つ。トップス良し、ボトム良し、お腹良し、生脚良し、最後にサンダルも良し。チェック終わり。
 自分を勇気付けるように頷き、月宮あゆは女性更衣室から外へと踏み出した。開園直後にも関わらず、プールには人がごった返している。いや、直後だからか。一時的に更衣室の前は待ち合わせる人だかりでラッシュ時の駅構内も斯くやという混み具合になっている。一瞬、不安になりかけたあゆだったが、すぐに更衣室横の売店の前でヒョロリと佇んでいる雪村要を見つけることができた。
「お待たせ、要さん」
「ああ」
 雪村もこの混雑に困惑していたのだろうか。あゆの姿を見て安堵したたのかムッツリと微笑する。むっつり微笑むというのはなんだか矛盾しているようだが、雪村という男の場合他に表現のしようがない。尤も、彼の表情から微笑している事を見取れる人物はあまりいないだろうが。
 かれは白いパーカーにブルーのトランクスタイプの水着、頭にはツバ広の麦藁帽子を被って、肩からボトムバックを引っさげている。なんだか野暮ったいなあ、とあゆは苦笑した。
「要さん、肌白いねえ」
 上に羽織ったパーカーの隙間から覗く彼の上半身は、顔色と同じように病的な白さだ。決して肉付きは悪くないのだが、肩が広いという見かけのバランスとその肌の色のせいで服を着ているときよりも余計に病弱に見える。
 彼の見てくれの不健康さに慣れてるあゆですら、貧血で倒れないだろうか、と心配になってくる。
「白いからと言って落書きはしないでくれ」
「……なにそれ」
「うむ。昔の事だ、プールに来たときにシートの上で寝ていたら、画用紙代わりに背中に名前と住所と電話番号を落書きされていたことがある。油性のマジックで」
「……誰がやったかは聞かなくてもわかったよ」
 彼の姉代わりだった明日菜嬢に決まってる。
 普通、水辺での落書きの悪戯というと日焼けを利用したものを思い浮かべるものだが、あの女性には水辺だとか海辺だとかそういう情緒はないらしい。なんてダイレクトな発想。というか、自分の持ち物に名前書いとくのと同じつもりだったんじゃないのか、それ。
「要さん、子供の頃よく迷子とかになった?」
「どうして知ってるんだ?」
 やっぱり。
 うぐぅと、あゆは指をくわえた。なんだか悔しいというか妬ましいというか。
「ねえ、要さん」
「なんだ?」
「ボクも書いちゃだめかな、名前」
 雪村は困った顔をした。さすがに意図がわからなかったらしい。
「いや、ごめん。忘れて」
 なにを対抗してるのだか。ボクって結構嫉妬深いのかな。今まで思いもしなかった自分の一面に、あゆは困惑した。
「考え事中申し訳ないが、そろそろ行こう。早めに場所を確保しておかないと、荷物の置き場がなくなってしまう」
「あ、うん。ごめんなさい」
「あゆ君は何か考え出すと、所構わずフリーズするな」
「え? そ、そうかな」
 笑いながら云われ、あゆは顔を赤らめた。







< 10:12  向島スパワールド >


「質問があるの」
「なあに、綺咲ちゃん」
 とりあえず設営用パラソルを傘みたいに差すのはおやめなさい、と言いたいのをグッとこらえて 月城漣は先を促がした。
「ビキニパンツは犯罪だと思うの」
「それ、質問じゃないわよ」
 混雑するプールサイドで、漣と綺咲の周りだけエアポケットが生まれている。遠巻きに注目を集めているのを感じ、漣はしくじったかと己の選択を猛省した。
「やっぱりあっちの白い三角ビキニにすればよかったわ」
「それは犯罪を通り越して邪悪なの、ジハードが発動するの、世界はそれを許さないの」
「まあ失敬ね」
 不服げに、漣は腰をくねらせた。10m四方がどよめき、プールサイドにいた何人かが煽りをくって水に落ちていく。
「やはりモザイクが必要なの」
「美しすぎるのも罪よねえ」
「あながち間違ってると言えないのが恐怖なの」
 本当は水着になる必要などこれっぽっちもなかったのだが、まあそこはそれ、折角プールに来たのだから気分くらいは味わいたいのが人情だ。ホテルのプールでバカンスとしゃれ込むのもいいが、たまにはこうしたゴミゴミしたプールも悪くはない。
「さってと、浮かれるのはこれくらいにして、仕事に取り掛かりますか」
 別に気分転換に泳ぎに来たわけではない。あくまで、山浦衆の潜伏先を洗い出すのが目的だ。
 月城漣の術式系統は【水行師】。水気を自在とする源系五行術師だ。この向島スパワールドに目をつけたのは、この遊興地がくみ上げている地下水脈を利用して、自分が担当する地域全体に探査の網を張り巡らせるためだった。神剣顕現のためには大規模な儀式魔術の執行を必要とすることは、神祇省書肆官の調べで判明している。ならば、儀式の準備段階で、既に土地の霊脈に何らかの影響が及んでいるはず。そう考えた漣は、調査地域全体に広がっているであろう地下水脈に魔力の探信を打ち込むことで、異常反応を示す地点をピックアップできると見ていた。問題は、尋常ではない探査範囲の広さだが、まあそこはそれ。八旗の長は伊達ではないということだ。
「綺咲ちゃん、呼ぶまで遊んでていいわよ」
 何気なしに漣は連れの少女に告げたものの、返ってきた反応は芳しいものではなかった。
「別にいいの。大人しく待ってるの」
「なあに、珍しく殊勝ね」
「近年は幼女誘拐が流行りなの。可愛い綺咲がフラフラ独りで遊んでたら、きっと攫われて閉じ込められて弄ばれてしまうの」
「あんたを攫って閉じ込めて弄ぶには、アサルトゴーレムが三個小隊必要だわよ」
 呆れたように言い放った漣だったが、ははぁんと綺咲が妙に尻込みしている理由に思い至った。
「そうか、綺咲ちゃん泳げないんだ」
「で、デマゴーギーなの」
 綺咲はサッと顔を赤らめ、オロオロとあからさまに動揺しながらムキになって抗議した。バレバレだ。
 ケラケラと一頻り笑い転げ、漣はむくれる少女の頭をグリグリと撫でまわした。
「この仕事終ったら、みんなで一度プールか海にでも行きましょうか。水なら私に任せなさい、二時間も掛からずにエラ呼吸ですら出来るように泳ぎを教えてあげるわ」
「地球人類にエラ呼吸は不可能なの」
 それでも満更でもなさそうにコクコクと頷き、綺咲は「ちょっと行って来るの」と幼児用プールの方にトコトコ歩いていった。
 微笑ましげにそれを見送り、漣は表情を引き締めた。
「んじゃま、あの子を遊びに連れてってあげるためにも、ちゃっちゃと片付けなきゃね」
 傍目には、素足だけ水に浸して寛いでいるかのように、プールサイドに陣を取る。簡易結界で人の注目を集めないように認識を操作し、漣は接触面から意識を水へと浸透させた。






< 10:12  国道四号線 >


 しきりに背後を気にしていた井上義行が不意にハンドルを握る望月静芽に告げた。
「望月、次の交差点を右折してくれ」
「は?」
 面食らった静芽は思わず前方から視界を切ってサイドミラーを睨んでいる助手席の男を振り返る。目的地までは現在走行中の幹線道路をあと三百メートルは直進しなければならない。次の交差点で曲がってしまうと見当違いの方角へと進んでしまう。

「寄り道ですか? そんな時間はないですよ」
「馬鹿。さっきから後ろに尾けてきている車がいる」
「了解しました」
 疑う素振りも見せず、静芽は義行の言う事を信じてハンドルを握る手に力を込めた。井上義行は毛並みのよいだけの男ではない。指揮官や指導者としては無能かもしれないが、戦技は一流。こと実戦における勘のようなものは飛びぬけているというのが静芽の彼に対する評価だ。彼が異変を察したというのならそうなのだろう。静芽に疑いを挟む意志は生まれない。
 静芽はウインカーも出さずにハンドルを右に捻った。対向車線を走る車列の僅かな隙間を縫って交差点を右折する。背後からブレーキ音と抗議のクラクションが掻き鳴らされる。
「ついてくる、やはり尾行車か」
 バックミラーには静芽のムチャな右折で混乱している交差点をムリに割って通り抜けてくる自動車が映っている。なるほど、確かに追われているらしい。
「ナンバーからすると、レンタカーか」
「追っ手ですか」
「レンタカーというのが少し妙だが、追っ手ではない場合を想定する方が難しいな。撒けるか?」
「無茶言わないで欲しいです。私、仕事の移動でしか車使いません」
 義行は少し呆れた顔をしてサイドミラーから視線を外し、茫洋とした顔でハンドルを握っている女を振り返った。
「いや、さっきの右折みたいにやってくれれば充分だ。いずれにしろこのまま付いて来られるわけにはいかん。どこか適当な場所に誘導して――」
 その時だった。不気味なほど淡々とした着信音が、ダッシュボードに置かれた義行の携帯電話から響いてくる。
 電話に出た義行は困惑を浮かべたまま電話の相手とニ、三言会話を交わし、突然渋面と化した。彼は不機嫌そうに通話を切ると、投げやりに静芽に命じた。
「おい、望月。迂回して、さっきの幹線道路に戻れ。安全運転で構わん」
「どういうことです?」
「知るか」
 それでは流石に悪いと思ったのだろう。井上義行は付け足すように言い添えた。
「余計な小細工をせずに拠点に戻れ。あとは此方がやる、だそうだ。くそっ、それならそれで何をどうするのか説明しろ! あの連中、いつも一方的に――」
 癇癪をぶつけるように義行はダッシュボードを蹴りつける。半ば予想しながら静芽は訊ねた。
「あの連中とは、誰ですか」
「決まってるだろう」
 盛大に舌打ちし、彼は吐き捨てるように言い放った。
「FARGOだ」








< 10:15 国道四号線 >


「ちょっと、また国道に戻ったわよ。やっぱりさっきの右折、尾行車両炙り出すつもりだったのよ! もっとバレないようにくっついていけないわけ?」
「ムチャ言わないでよ。今回は一台だけでバックアップがいないんだから、距離あけて見失い訳にはいかないのよ」
「だからって見つかっちゃったら意味無いじゃない」
「じゃあどおしろってのさ!」
 ハンドルに齧りつきながら、睦美はギャーギャーと五月蝿い助手席に怒鳴り返した。
 さっきまで、事前にレンタカーを借りていた睦美の事を、先見の明があるだの用意周到だのと褒めちぎっていたくせに、ちょっと何かあるとすぐさま手のひら返しやがって。
「ちょっと! 急がないと前の信号で分断されるわよ!」
「だぁぁ、うるさい! ちったあ大人しくしてらんねえべか!」
 逆切れしながらも睦美は頭の中の冷静な部分を働かしていた。このまま尾行を続けても大人しくアジトまで案内してくれるかどうか怪しいところだ。こうなったら身も蓋もないが、あの車を止めて中の連中をとっ捕まえて尋問してやる。睦美は急加速を行うべく、ギアをトップに入れ替えた。
「いくみん、真横につけるからあんたの念力で直接エンジンぶっ壊してちょう――」
 郁未に指示を飛ばしながらアクセルを踏み込もうとした、その瞬間だった。
 車体が突然つんのめるように跳ね上がる。凄まじい衝撃と浮遊感が睦美たちを襲った。瞬間的に前のめりに傾く車体、後部車輪が浮いている。
「のわ――っ!?」
 フロントガラスに頭から突っ込みそうになり、シートベルトに肋骨を締め上げられる。
「ボンネットが!?」
 郁未の悲鳴が車内に響き渡った。睦美も、舌を噛んでいなかったら同じ言葉を叫んでいただろう。まるで、隕石の直撃でも受けたみたいに、ボンネットの真ん中にボクシングのグローブ大の馬鹿げた大穴があいていた。重力を思い出したように浮いた後部がアスファルトにたたきつけられ二度目の衝撃。車輪が地面をかまず、バランスを崩して車体が流れ出す。
「くっああああ、いったいにゃんにゃのよ!?」
 スリップしていく車体を立て直す猶予も睦美には与えられなかった。ボンネットに生じた穴が直視できたのはまさに一瞬。すぐさま、噴出したガソリンがフロントガラスを真っ黒に塗りつぶす。
「やばっ!!」
「睦美さん、ブレーキ!!」
「うわああ!!」
 直後、ガソリンに引火した火炎の波が、轟音とともに睦美と郁未の顔面を紅色に塗り潰す。
 二人が乗った自動車は、走行したまま炎に渦に飲み込まれた。







< 10:16 四号線沿い雑居ビル屋上 >


 耳を劈くようなアスファルトとタイヤの擦過音が、人々の悲鳴と重なって街に響いた。
「おいおいおいおい、この下手くそが、はずしてんじゃねえぞ、このだぼすけ!!」
「直撃させただろう」
 幹線道路に隣接するビルの屋上。そこには炎天下を物ともせずに漆黒のスーツに身を包んだ二人の男が立っていた。ビルの縁に脚を掛け、人間が抱えるには長大すぎ重過ぎる対物ライフルを平然と打ち下ろしに構えていた端正な顔の青年は、うるさそうに眉を顰めながらボルトを操作し、空薬莢を飛ばした。
 隣で双眼鏡を覗き込んでいたもう一人の男が、眼下を指差しながらがなりたてる。
「ざけんじゃねえ。当てるなら運転席だろうが。見ろ、奴ら生きてやがる!」
 ボンネットから火を吹いた自動車は、道路脇の街路樹に衝突して停止していた。運転席、助手席から命辛々といった風情で、二人の女が転がり出し、茫然と取り巻いている通行人たちを車から遠ざけようと大声で叫びながら手を振り回していた。
 直後、車は爆発炎上する。車が停車した間近の店舗のショーウィンドゥが衝撃波に砕け散り、甲高い悲鳴が飛び交う。黒々とした猛煙が車の周囲を飲み込んでいく。
 ツバを飛ばす男の言うとおり、この惨事の中で車に乗っていた二人は無事のようだった。野次馬を遠ざけた後、二人は黒煙に紛れて路地裏に逃げていく姿を確認しながら青年は言う。
「無茶を言うな。走行中の車両になど、命中させるだけで精一杯だ。そんな細かいところまでは狙えん」
「おい、じゃあもう一度撃てよ。今なら直接狙えるぞ。幾らあの女でもそのデカブツの弾は防げんだろうぜ」
 煙が立ち昇る方を一瞥だけして、青年は手元に視線を戻す。
「無理だな。煙で視界が利かん。それにもう二人とも逃げている。どうやら狙撃された事を把握していたようだな」
「チッ、下手くそが」
 吐き捨て、双眼鏡を手にした方の男は携帯の通話ボタンを押した。
「おい、車はぶっ壊したが、中身は逃がしちまった。どうするよ」
『事前の予定通り、此処で対処します。貴方がたも、そこを撤収して此方に戻ってきてください』
 不機嫌だった男の表情がニヤニヤと笑みに高じた。
「ケケケッ、なんだよ。今回はやる気満々じゃねえか!」
『急いでください』
 素っ気無く切られた電話を拍子抜けしたみたく見つめ、男は鼻を鳴らした。
「ふん、愛想のねえ女だ」
「行くぞ、遅れるな」
 男が電話を掛けている僅かな時間で、対物ライフルを片付けた青年が、男に顎をしゃくった。
「うるせえ、オレに命令するんじゃねえよ」
 肩を怒らせて、男は青年を突き飛ばすように追い抜かす。青年は仕方なさそうに肩を竦めると、男の後に続いた。








< 10:16 4号線より東方300M >


「兄さん、煙が」
 袖を掴まれ、美汐の指差す方に煙が立ち昇るのを確認した和巳は、もっと良く見えないかと手を翳して目を凝らした。
「なんや、事故みたいやな」
 爆発音らしきものが聞こえたので、思わず立ち止まって音のした方に目を奪われたのだが、この様子だとどうやら「らしき」ではなかったようだ。  もうもうと立ち昇る黒煙。二ブロックほど向こうで起こっている火災らしいが、救急車と消防車、パトカーのサイレンに、人々のざわめきと車のクラクションが相まって、ここまで騒然とした雰囲気が伝わってくる。
「なんか、いきなり走ってた車が爆発したんだって」
 どうやら現場近くに居たらしい相手からの電話の内容を、近くを歩いていた中学生くらいの女の子が携帯を耳に当てたまま、連れに興奮した様子で話しているのが聞こえた。
 美汐と和巳は顔を見合わせた。単なる交通事故ではなかったのか。
「そういえば、さっきでっかい爆発音の前に、妙な破裂音せえへんかったか」
「ええ……はい、確かに」
 直後の派手な爆発音に気を取られて、意識の外に追いやられていたが、美汐の耳にも和巳の言う雷じみた破裂音は届いていた。はたと美汐の中で何かが引っかかる。どうもあの音に聞き覚えがあるのだ。一瞬、銃声のようにも思ったが、それにしてはいささか音が重たい。水道管が破裂した音? それともタイヤのパンク? いや、銃声という線はそれほど外れていないように思う。だが、なんだ? あんな音、銃というよりも砲…………
「兄さん!!」
 顎に手を当て思い返すような仕草をしたと思った途端、血相を変えて詰め寄ってきた美汐に、和巳は目を白黒させた。
「ど、どないした」
「バレットです!」
「は?」
「母のコレクションに同じものがあるんです。距離がありますが、間違いありません。その、つまり――」
 和巳がいまいち自分の言っている事を理解していない事を、そのキョトンとした顔で察した美汐は大きく息を吸うと、喉に詰まったものを押し出すように、大声を張り上げた。
「今しがた聞こえたあの音は、対物ライフルの発砲音です!」
 和巳が呆けたように目を丸くしたのは一呼吸の間だけだった。すぐさま美汐の腕を掴むと、黒煙たなびく事故のあった方角へ踵を返す。
「行くで!」
「はい!」






< 10:16  噴水広場 >

「食べる?」
 差し出されたガムの銀紙を薫は大人しく受け取った。内心は、どうしてこの姉妹は何かと自分に飴やらガムやらを与えようとするんだろうと、不貞腐れた気分に陥っている。
 アブラゼミがミンミンと鳴いているソメイヨシノの木の下、丁度生け垣の裏側に隠れるようにして、美坂香里と北川薫は、噴水広場の様子を伺っていた。
「オレら、なにやってるんやろ」
「同感だわ。母さんも何を考えてるんだか」
 二人のテンションは限りなく低かった。縁側でぐったりと腹を見せて寝転がってる猫ぐらい低かった。広場に栞の姿はまだ見当たらない。待ち合わせの場所も時間も栞が得意げに喋ってくれていたので、薫たちは先回りすることにしたのだ。噴水広場には十人前後の老若男女が、思い思いに憩いの時間を過ごしている。裸足になって噴水の池に入り込んで遊んでいる3、4歳の子供たち。あれは涼しそうだが、その傍らで立ち話をしている若い母親たちは突き刺すような日差しに随分と暑そうだった。それでもめげずに話しに夢中になっているのはたいしたものだ。
「ねえ、あれかしらね、栞の相手」
 香里が顎をしゃくって指した方角には、ベンチに腰掛けて文庫本を読んでいる高校生ぐらいの少年がいた。
「カフカの『変身』ですって。随分とアナーキーなもの読んでるわね」
 双眼鏡を覗きながら、香里は呆れているのか感心しているのかよく判らない口調で、少年の読書の趣味を評した。何気に双眼鏡なんか持ち出してる時点でこの人デガバメする気満々なんじゃないだろうか、なんて事を心の何処かで思いながら薫も生け垣の隙間から少年の外見に目を配る。
 傍目にも涼やかで角のなさそうな男だった。優男だが、性格の優しい男にありがちな気弱な様子はスラリと伸びた背筋からは窺えない。
「ふん」
 隣で香里が鼻を鳴らしたが、薫にはそれが「なによ、なかなかいい男じゃない」と言っているように聞こえた。ただでさえ低調だったテンションが底まで落ちたような感覚に浸される。薫は脱力感に溜息をつくと、顔を引っ込め、生け垣に背を預けるようにして後ろを向いた。
 その様子を横目に眺めていた香里だったが、自嘲するように唇を引き攣らせて薫の隣に腰を下ろした。
「最近ね」
「?」
 突然話し掛けられ、薫はあまり興味なさげに顔をあげる。香里は少年の反応を元々求めていないのか、独り言のように続けた。
「自分の事で色々と精一杯でね。今朝うちの母親にせっつかれたとき、そういえば全然妹の事とか見てなかったな、と思ったわけよ」
「はあ」
「ちょっと前までは過保護なくらい追い掛け回してたのにね。随分、こんな馬鹿みたいな真似してなかったわ。母さんは、気付いていたのかしら」
 何が言いたいのかイマイチわからない。困惑する薫に、香里はにこりと笑って独り言よ、と呟いた。
「ところで、その包み……あれでしょ、日本刀」
 薫が抱き抱えるようにして携える紺の竹刀袋。中身は香里の言う通り、胴太貫だ。
「まさか、とは思うけど……あの男の子を斬るつもりじゃないでしょうね」
「香里姉ちゃん、オレをなんやと思ってるん?」
 疑わしそうに眼を眇める香里に、さすがに傷ついたと薫は眉根を寄せた。
「ろくでもなさそうな奴やったら、ちょっとこれで泣くまで鳩尾突きまくったろ思うただけやん」
「充分物騒よ」
 斯く言う香里も、相手次第ではぶん殴る気満々だっただけに、呆れられる立場ではない。
 別に武器として持ってきたわけちゃうねんけどな。薫は柄の部分を袋越しにだが握るようにして手に馴染ませながら言い訳がましく思った。
 本当は、支えのようなつもりで持ってきたのだ。これを肌身に備えていれば、心が揺れた時でもこの刃金にしがみついていれば、落ち着けるような気がして。
 昨日の出来事は、薫にも少なからずショックを与えていた。自分では、もっと冷静で物事に対し醒めた人間だと思っていたのに、ああも簡単に感情をコントロール出来なくなってしまうなんて思いもしていなかった。どうやら自分は栞が絡むとスポーンと冷静な判断力が吹き飛んでしまうらしい事を、薫はそろそろ自覚し始めていた。自分の事がよくわからなくなっている。だから正直、栞のデートの現場なんかを目の当たりにして、昨日みたいに彼女を怒らせてしまうようなことを仕出かさないか、自分でも自信がなかったのだ。
 兇器ではなく安全装置のつもりだった。自分の背筋にビンと芯を通してくれるこの刀を抱えていれば、その鋼の冷たさに頭を冷やすことで、変に感情を乱されるような場面に遭遇しても、いつもの自分で居られるようにしよう、と思って刀を持ち出してきたのだが。
 もしかして、なんとかに刃物、になるんじゃなかろうか、なんて不安も募ってくる。
「あ、来たわよ、お姫様が」
「…………」
 このまま振り返らずに逃げ出してしまいたい気持ちに駆られながら、薫はもそもそと身体の向きを変えて生垣の隙間から広場の様子を伺った。緑の葉の間に、少女の姿が飛び込んでくる。むき出しの白い腕が眩しいノースリーブの薄桃色のサマードレス。首に巻いた黒猫を連想させるチョーカーがワンポイントなのだろうか。膝あたりまで広がった裾を翻しながら、栞がブンブンと手を振ってベンチの少年の方へと駆け寄っていく。が、ふと思い立ったように急ブレーキを掛けて立ち止まると、栞は途中から静々と歩法もおしとやかに、全体的な仕草も清純さを気取ったような物腰に変え、開けっ広げな笑顔も控えめにはにかむようなものに入れ替えた。どこかの大人しいお嬢様風の女の子を演出しているらしい。
「馬鹿。目の前でやってどうするのよ」
 薫も同感だったが、少年の方はかなりウケたらしい。口許を押えて肩を小刻みに震わせて、笑いを堪えているのが遠目にも良く判った。どうやら本性がバレバレなのに栞も気付いたらしい、ペロリと舌を出して恥ずかしそうに笑っている。
「ふうん」
 ちょっと見縊っていたかな、という風に香里が目を瞬く。
 心底から楽しそうに会話している二人の姿に、薫はキュッと胸を締め付けられた。









< 10:20 国道4号線沿い >


「これでよし、と」
 包帯代わりの布を結び終え、睦美は郁未の二の腕をパチンと叩いた。痛みに顔を顰めたものの、手のひらを握り開きして動きを確かめた郁未は納得したように小さく頷く。
 ドン、と空気が揺れた。炎上していた車が二次爆発を起こしたのだ。燃えさかる自動車の残骸を、睦美は泣きそうな顔をして眺めやる。
「レンタカー、弁償だわね。勤務時間外だし労災は降りんよなあ」
 近づいてくる消防車とパトカーのサイレンに、悲嘆に暮れていた睦美は気持ちを入れ替えるように頬を張った。
「天沢、とりあえず此処を離れるよ。地元の警察にお世話になるのはちと面倒だわさ」
「どうするの、これから」
 移動手段は失われ、尾行していた車も見失ってしまった。ホテルに戻って宿泊者名簿を見せてもらっても、おそらく偽情報しか載っていないそこから泊まっていた連中を突き止めるのは至難だろう。一挙に手がかりを失ってしまい、郁未は途方に暮れて睦美に問いかける。返事の代わりに、睦美は懐から取り出したコンパクトを郁未に投げて寄越した。
「テクマクマヤコン?」
「ワケのわかんないことほざいてないで、鏡見てみなさい」
 煤でも被って酷い顔になってるのだろうか、とコンパクトを開いた郁未は、鏡に映っているのが自分の顔ではなく、どこかの雑居ビルを上空から映したものであるのを見て、目を見張った。
「ここから北に500メートルって所ね。あたしらが追ってた車、そこに入ってったわ」
「これ、どういうこと?」
 睦美はビルの間から僅かにのぞく空を指差した。郁未が眼を凝らすと、かすかに光を反射して透明な何かが浮かんでいる事に気づく。
「あれは?」
「車から飛び出した時に、端末を打ち上げておいたの。ボンネットの穴、明らかに直上からの攻撃だったからね、犯人を捉えられないかと思って。生憎、攻撃してきたやつはとっとと逃げてたみたいで見当たらなかったんだけど」
「車の方は追えたわけね」
「追尾能力はないから、そっちは期待してなかったんだけどね。端末の索敵範囲外に出られてたらどうしようもなかったところだから、運が良かったわ」
「それは、その通りかもしれないけど……」
 まいったな、と郁未は頭を掻いた。今回、この人に助けられっぱなしだ。郁未はどうやら自分がこの樋端睦美という人を侮っていた事を認めざるを得なかった。事前の手配りや情報収集、咄嗟の判断、どれもが自分などより手馴れている。普段の捜査や捕縛任務の時はここまで冴えた人だとは思わなかった。正直妖力は強いが頭は使わない典型的な力押しの人、という印象だった。だが今の睦美はどうだ。FARGOを壊滅させたあと、未悠と葉子を連れて数年間裏社会の危ない橋を渡り続けてこの手の独行には慣れているつもりだったが、今の睦美と比べると何段も見劣りする。年季が違うのだ。睦美のそつの無い行動からは国家の後ろ盾がある者とはまた違う、自由と孤独と裏路地の匂いのする己が才覚のみで生きてきたプロフェッショナルの香りがした。
 公安八課に来る以前、睦美は東京で貧乏探偵の助手をやっていたという。本人が苦労話として良く酒の肴に話してくれていた。その話は大概雇い主の甲斐性の無さと性格の悪さと人使いの荒さと金払いの酷さ、そして貧乏生活の嘆き節で、郁未は毎度左から右に聞き流していたものだが。
 そういえば仕事の内容について詳しい話を聞いた覚えが無い事を今さらのように思い出す。
 このヒトは、昔、なにをやっていたのだろう?
 睦美は細い路地を先導しながら、険しい顔で思案に暮れている。
「妙よね、明らかにおかしいわ」
「なにがよ」
「相手の反応が過剰すぎるのよ」
 肩越しに振り返りながら、睦美は自問するように呟く。
「こっちはまだ、尾行していた相手が何者なのかも知らないのよ。握ってる情報は無きに等しいのに。あんな強硬な手段で命を狙われる謂れはないのよ」
「FARGOが関わってるのよ。私とやつらの関係を考えたら、不思議という程ではないと思うんだけど」
「じゃあ聴くけど、今まであんた、あんな白昼堂々、公衆の面前で襲われたこと、あるの?」
 それは、と郁未は口篭った。
「でも、FARGOが復活したらしいって噂を聞くようになったのは最近よ。これまでと同じように考えるわけにはいかないわ」
「そうだわね、そういう考え方も出来る。でも……」
 睦美は錯綜する思考を整理するように黙り込むと、口元に当てた指に歯を立てた。
「いえ、やっぱり幾らなんでも強硬すぎるわよ。あんたが重要人物とはいえ、リスクが大きすぎるわ。あんたが目的ならもっとやりようはあるはずなのよ。天沢郁未が目的じゃなく、今、あの場面で、リスクを負ってでもあたしたちに攻撃を加える必要があった、そう考える方が自然だわ」
 つまり、自分たちはよほど嗅ぎつけられたくないものを追いかけてたという事か。
「そういえば睦美さん。連中、神剣だとか結界の敷設がどうとか、何か企んでそうな話をしてたわね」
「そうだわね。なにか今からでっかい儀式でもはじめるみたいな…………待てよ」
 何気ない郁未の言葉にこれまた特に考えもせず応えていた睦美だったが、不意に携帯を取り出して、物凄い勢いでボタンを押し始める。
「ど、どうしたの?」
「相手さんが初手からやる気満々の反応してきたでしょ。幾らなんでも過剰すぎると思ったけど、それが過剰でないとしたら? そうよ、もしかしたら、あたしらは途中から割って入った立場で、連中からすれば初手どころかとっくにラストステージなのかも」
「どういう意味?」
「あなたはこれから銀行強盗を起こそうと目論んでる犯人です。ところが、犯行の直前警官に呼び止められました。警官はあなたを怪しいと思っているようですが、あなたが何をしようとしているかには気付いていません。あなたは懐にある銃で警官を撃ちますか?」
 いきなりの設問口調に戸惑いながらも、郁未は答えた。
「目的を知られていないんじゃ、いきなりは撃たないと思うわよ。問答無用にというのは、ね。撃ったら騒ぎになって銀行は襲えなくなるし」
「じゃあ、その警官に絡まれたのが銀行を襲った後、もしくは襲ってる途中だったら?」
「…………」
 睦美の言葉の意味を咀嚼するうちに、郁未の眼は見開かれていった。そんな彼女を他所に、睦美は携帯に齧りつく。
「ハロハローあたしよあたし。元気だった? ミッチーは? え? 別れた? あんた、あんなイイ女逃がしてるんじゃないわよ。うん、いきなりで悪いんだけど――――そうよ、公安に降りてきてない事件。マル魔ならなんか掴んでるんでしょ? 今度、例の件融通利かしてあげるからさぁ、流せる範囲でいいからちょっと教えてよ」
 五分ほど、泣き落としと脅迫を交互に交えた折衝で情報を引き出し、睦美は険しい顔で通話を切った。
「なんてこった」
「睦美さん?」
「神祇のかなり上の方で、情報が止められてるらしいの。神祇に探りを入れた外事情報部の人員が何人か拘束されたってんだから最高ランクの情報統制が執行されてるみたい」
「大事件が起こってる、ってことですか?」
「事件、というレベルじゃないかもね」
 睦美は引き攣った笑みを、郁未に向けた。
「甲州探題と奥羽探題が実戦装備で臨戦態勢に入っている上に、あの八旗が複数出動してる。しかもマル魔から引き出した情報から推測するに、どうやらここが、その渦中だわ。ありていに言えば――」
 郁未は自分の顔から血の気が失せていく音を聞いた気がした。
「平穏に見えてこの街は、もう戦場と化してるのかも」








< 同刻 市街西地区住宅街 某ワンルームマンション >


 全身を流れる血が冷え切っていた。冷血動物に成り果てたように、感情が磨耗している。
 もう驚きも絶望も、嗄れ果てていた。
 噛み締めた奥歯が軋んでいる。物部澄は自分の心が冷たくなっていくさまを、もうじっと見つめているしかないのだ。
 帰れないのかもしれない。戻れないのかもしれない。もう二度と、望むべくもないのだと、目の前の光景は訴えているようだった。
「くそっくそっ」
 小太郎が、呪うように罵声を上げながら、寝室中に張り巡らされた糸を引き剥がしている。白、白、白に埋め尽くされた、元がどんな模様立てだったのかもわからないワンルームマンションの一室。空中に吊り上げられるようになっていた繭の中から、衰弱した寝間着姿の女性が転がり落ちてきた。
「生きてる、まだ生きてますよ、でもこんな……」
 女性の呼吸と脈を確かめ安堵の息をついた小太郎は、だが次の瞬間言葉を詰まらせ、ベッドを殴りつけた。
「なんなんですか、これは! もう、6件目ですよ!!」
 昨夜、公園から春日の気配を辿り続けた澄と小太郎につきうけられた現実は、酷く残酷なものだった。
「これを全部、春日さんがやったていうんですか!」
 春日を追う二人が行き当たったのは、蜘蛛の糸に絡め取られた人、人、人。幸いにして誰一人死者はいなかったが、精気を吸われ極度に衰弱した人々は非常に危険な状態で、発見が半日遅れればどれも命が持たなかったのではと思われた。
 澄は答えずに、早く救急車をと小太郎に促がす。小太郎は一瞬、殺意めいたものを漲らせて澄のことを睨んだが、すぐに部屋に据えてある電話を糸の海から掘り返し始めた。
「言っておきますが、これだけ異常な119番が相次いだら、直に妖怪の仕業だと判りますよ。そうなれば、否応無く春日さんは追われる事になりますからね」
「誰にも、手は出させないわ」
 少女は、己が名前とは裏腹の、濁りきった声で呪詛するように呟いた。
「誰にも、あたしと春日の間に割って入らせるものか」














< 同刻  市街西地区住宅地 >


 額に流れる汗を拭う。ぐっしょりと湿ってしまった手拭いを恨めしげに見つめ、金髪の髪を逆立てたパンク風の青年――山浦衆の一人である雨宮悟は陰鬱に空に昇った暑さの元凶から手を翳して影を作る。必ずしも、この鬱陶しい汗が日差しによるものばかりではないのは自覚していたが、さりとてもう一方の理由を直視するとなけなしの気力が萎えてしまうことは判っていたので、太陽を恨みがましく睨みつけるしかない。
 脂汗。背筋に氷柱を押し付けられたような悪寒が絶えず雨宮を押し潰そうとしていた。
 その元凶は、雨宮の背後の橡の気の幹に逆さになって張り付いている。人の上半身を持つ蜘蛛の化け物。彼が今、支配下においている人間のなれの果てだった。
 支配下においているとはいえ、所詮は限定的なものだ。均衡を崩した精神に割り込み、制動をかけているに過ぎない。要は、暴れるのを抑制するのと、認識阻害の結界を張ること、そして自分の後についてこさせる、この三点しか出来ないと言っていい。しかも、蜘蛛の妖気は膨れ上がるばかりで、支配権は綻びる一方だ。高梨の指示で人間を襲わせて精気を吸わせることで蜘蛛の欲求を満足させたところ、なんとか押さえ込むことに成功しているが、所詮は対処療法だ。いずれ高まる妖力に支配が振り切られる。
「クソッ、先生もえげつがなさすぎるっす」
 溜まらず雨宮は呪いの言葉を吐き捨てていた。殺さないようになんとか加減をさせていたとは言え、何の関係も無い人間を襲わせるのは雨宮にとっては苦痛以外のなにものでもなった。必要な犠牲と言い切るのは簡単だが、そう簡単に割り切ってしまえる者は決して多くは無いのだ。
「もう充分しょ」
 時計に目をやり、雨宮はここで人狩りをやめようと判じた。結界の起動まで引き回せと命じられていたが、どうせ今日一日押えておけばいいだけなのだ、それが出来るだけの精気は集めた。それに――。
「友人に加えて、八人もの犠牲者っす。神剣の宿主も、きっと決断してくれるっす」
 雨宮は醜い姿となれ果てた少年を、嫌悪と憐れみがない混ぜになった目で一瞥した。
「お前も、どうせ滅ぼされるなら、好きな相手にやって貰った方がいいっしょ?」
 蜘蛛の、真っ白に濁った眼球がグルリと回転し、射抜くように雨宮を捉える。その視線に、ゾッとするような感情の奔流を垣間見て、雨宮は慌てて蜘蛛に背を向けた。
「アジトに戻って待機するっす」
 自分に言い聞かせたのか、それとも蜘蛛に聞かせるつもりだったのか、自分でも判断がつかぬまま大声で宣言し、雨宮はもう小走りと言ってもいい速度で歩き始めた。
 






< 10:28  天童ビル前 >


 郁未たちは古ぼけた木造アパートを囲む木柵に張り付き、通りの向かいにある五階建てのビルを窺っていた。築十五年といったところで傍目には小汚く見えるが、奥行きもありそこそこ大きいビルディングのようだ。看板が幾つかせり出していて、二階は会計事務所、三階はクラブとなっている。一階部分は駐車場になっていて、ホテルから尾行していたセダンタイプの白い自動車が駐車しているのを、二人は既に確認していた。
 油断無く、周囲に気を配っている睦美の横で、郁未は胸元に拳を押し当て、意識を集中していた。
 さっき、睦美の入手した情報を聞いてから引っ切り無しに頭の中で警鐘が鳴り響いている。本能的な危機察知能力も、理性的な状況分析能力も、声を合わせてこの件から手を引けと喚いている。この件に首を突っ込む事がどれほど危うい行為か、郁未も理解しているつもりだった。FARGOを復活前から担当していた公安に情報さえも降りてこない案件だ、下手をすれば国家規模の事態が起こっているのかもしれない。これが仕事の延長で出くわした事件なら、郁未も無理はせずに尻尾を巻いただろう。だが、事は葉子の安否が関わっている。引き下がるという選択肢は郁未には存在しなかった。
「睦美さん、ほんとにいいの?」
「くどいよ、後輩」
 うざったそうに睦美は手を振る。
 本当なら、睦美にはこれ以上付き合ってもらう謂れはなかったのだが、彼女は胸を張って、
『警察官たるもの、たとえ非番でも目の前で起こりつつある悪事を見逃すわけにはいかないのだ、えっへん』
 などと言って此処にいる。ハリウッド映画の不良刑事みたいな恥ずかしいセリフをよくも臆面もなく口に出来るものだ。
 どうしてこの人は、何も言わず何もせがまず私を助けてくれるのだろう。仕事でも何でもない、これは天沢郁未の私事であり、樋端睦美には全く何の関係もないというのに。
 相棒だからね、と彼女は言う。郁未には良くわからない。相棒と言っても単に仕事上のこと、それも上から決められた組み合わせ。相棒だなんて言ってもその程度の関係だ。それだけの絆でしかない。郁未には良くわからない。相棒、たったそれだけの事でどうして。
 今まで誰かに頼られる事は幾度もあった。肩を寄せ合い支えあって助け合った事もある。だがこんな風に一方的に誰かの善意に支えられる事は、肩肘を張るような生き方をしてきた郁未にとっては初めてで、感謝以上に戸惑いを覚えてしまうのだ。
「天沢、誰か来た」
 金髪を逆立て、レザーのベストを着た男がビルに向かって歩いていく。クイクイと男とビルの入り口を指差す睦美に、郁未は迷いを振り切り頷くことで応じて見せた。
 タイミングを見計らい、
「GO!」
 睦美を先頭にビルの入り口目掛けて突進する。郁未がビルの上方を警戒するうちに、睦美は一目散にビルに入ろうとする金髪男の背後に駆け寄り、男が振り向こうとするより早くその後頭部をドツキ倒した。
「OK,クリア!」
 睦美を飛び越え、ビルのエントランスへ突入した郁未が簡単に安全を確かめ一声告げる。睦美は昏倒した男の襟首を掴み、エントランスホールへ引きずり込んだ。
「おっし、順調」
「こいつは?」
「放置」
 手早く睦美が氷の手錠で金髪男の手足を拘束、無人の管理人室に放り込む。
「ふふん、拳銃かマシンガン構えてないと様にならないわね」
「拳銃使えたの?」
「使えるわよ! 得意技はネメシス撃ちよ!」
「睦美さん、わかってて言ってる?」
「え、なにが?」
 小声で軽口を叩き合いながら目配せで階段を指し示す。呼吸を合わせ、二人は二人は階段を駆け昇った。
 二階のクラブハウス、三階の会計事務所と交戦を覚悟しながら押し入ったものの、人影は見当たらず、二人は四階にあるフロアに忍び足で張り付いた。
「クリア……誰もいないわ」
 ドアを開けた郁未が内部の様子を確認して、声を落とす。看板の出ていなかった四階は、一応オフィスの体裁を保っていた。とはいえ、スチール製のデスクと棚が幾つか据え置かれているだけで、壁には掲示物もホワイトボードも貼られておらず、電話も引かれていない。毎日ここで人が働いているという雰囲気ではなかった。睦美は郁未に外を警戒するよう指示してから、奥に見つけた部屋を調べようとデスクの間を縫ってドアに向かう。その途中だった、ふと無造作に置かれた冊子に目を留めた。
 ドアから突然誰かが飛び出してこないか気配を確かめ、睦美は手にした冊子にパラパラと眼を通した。一人の十代と思しき女性の写真とプロフィールがまず現れ、次に神剣という単語が飛び交うレポートらしき文章が飛び込んでくる。ざっと一瞥するだけのつもりで適当にページを読み飛ばしていた睦美の手が止まった。
「……布都御魂剣?」
 その言葉に引っ掛かりを覚えて首を傾げていた睦美の頭に徐々にその単語が持つ意味が浸透してくるにつれて、彼女の顔が強張っていく。
 カタン、とドアの奥から物音が響いた。睦美はハッと顔をあげると、冊子を机の上に戻し、ドアの横に張り付いた。
「うっ、なに?」
 ドアを開いた途端、流れ出してきた熱気と血臭に、睦美は顔をしかめた。慎重に中を窺った睦美は、そこに一人の少女が血塗れになって倒れてるのを発見して目を見開き、次の瞬間その少女に見覚えがあることに気がついて、大声を張り上げた。
「天沢、大変だ! ちょっと来て!」
 確かこの子、水瀬の家の妖狐の少女じゃないか。怪我の程度を調べ、睦美は瞳に悲壮を宿した。酷い傷だった。裂傷を無理やり焼いて止血した痕に、銃で撃たれた形跡まである。喀血もしてる、血の色がおかしい、これは内臓を損傷してる?
「拙い、妖気が絶えかけてる」
 睦美は舌打ちした。このままだと一時間と持たずに消滅するぞ、この娘。
「天沢、早く……天沢?」
 幾ら呼んでも来ない相棒に、苛立った睦美の声音が怪訝を帯びた。外の気配を探った途端に幽かな術式が起動する霊波を感じ取る。
「天沢!!」
 血相を変えて物置部屋を飛び出した彼女が見たものは、忽然と消えた郁未の姿と、彼女の立っていた位置に僅かに散らばる朱色の燐光と埃、そして書類の束を巻き上げたつむじ風の名残だけだった。
「呪印トラップかっ、ちくしょうやられた!」







 攻撃を受けたのは呪印トラップによる空間転送が終わった直後だった。自身の身に何が起こったのか判らぬうちに、焼きごてを押し当てられたような激痛が左肩を焼き尽くす。膝から崩れ落ちながら、郁未は酩酊する意識を奮い立たせた。
 ど、どこから攻撃されたの?
 一瞬の浮遊感と視界の明滅。三半規管の混乱。それが途切れるか否かの間際を見計らったように訪れた衝撃。敵の気配すら察知できず、不可視の力で防ぐ間もなかった。
「くそっ」
 遅まきながら、自分が四階から別の場所に飛ばされたのだと気付く。ついさっき見た場所、ここは二階のクラブホールの入り口だ。
 睦美と分断された。
「来る!!」
 攻撃の第二波、凄まじい力の奔流が郁未の胸部を中心に発現した。郁未は咄嗟に己が能力を以って生まれようとする力を捻じ伏せようとする。
 殺し……切れない!?
 辛うじて発現位置を逸らすことで直撃は免れる。が、それでも破裂した力は郁未をビリヤードの玉のように弾くに充分な威力を保持していた。
 プラスチック製のターンテーブルを二つほど吹き飛ばし、クラブホールの真ん中辺りでようやく停まる。
「く……う」
 痙攣する肺胞を無理やり動かし、息を吸う。今のは……サイキック? いや違う、もっと異質な。そう、まるで不可視の――。
「馬鹿な」
 この力の持ち主は、もう自分と彼女しかいないはず。いや、他に居たとしてもこれほど精密に力を制御出来る者は――。
 最初に射抜かれた左肩とテーブルに激突した背中の痛みに呻きながら、郁未は膝を起こす。そして身体を微かに震わせて、周囲の気配を窺った。誰かが、いる。
 照明の落ちたクラブハウスは薄暗く、光の届かない四方の隅は闇が凝っている。無人だったはずのその暗がりの中に、いつの間にか三人の男女が佇んでいた。
 暗闇に溶けてしまいそうな色をした漆黒のスーツに身を包んだ彼らは、それぞれに郁未を見下ろしている。今にも笑いだしそうなのを顔を押さえて我慢している長髪の男。壁にもたれかかり、静かに腕組みしている青年、そしてカウンターに寄りかかって気だるげに空のグラスを弄んでいる女。
 表情を変えまいと努力しながらも、郁未は知らぬ間に囲まれていた事に愕然としていた。
 そんな……二階には誰もいなかったのに。下から人が上がってくる気配も――。
「最上階にも、転送陣は敷いてあったんだ。君たちが三階にあがったのを見計らい、下に降りて待ち伏せていた」
 郁未の疑問を見て取った黒服の一人が淡々に口を開いた。
「なるほどね、まんまとしてやられたってわけね」
 床にぶちまけてしまった冷静さを掻き集め、郁未は睦美が来るまでの時間を稼ごうと余裕めかした態度で会話に応じる。だが、それは見抜かれていたようだ。郁未に話しかけてきた青年は淡々と告げた。
「時間稼ぎなら無駄だ。すぐにここは出入りできないように封じる。君を大人しくさせる時間は持つだろう」
「へえ、私を大人しくさせる、ねえ。出来ると思っ……てる……」
 自然と言葉が絶えていく。思考が、空転を始めていた。違和感が身体を縛っている。いや、これは既視感だ。眼に映るものに、認識が追いついていかない。匂いがする。あの閉鎖空間の退廃と狂気のすえた灰色の匂いが。
 光の途絶えた薄暗がりの中で、郁未はもう一度、闇色のケープに遮られて良く見えなかった黒服たちの顔に目を凝らした。

 カチカチカチカチ、と聞きなれない音がする。
 自分の歯が鳴っている音なのだと気付くのに、郁未はしばらく時間を要した。
「気付いたようね。忘れられていたらどうしようかと思ったんだけど、良かった」
 掲げたグラスで片面を隠し、女が艶冶と微笑んだ。
 肩を震わせていた男が、こらえきれずに爆笑を始める。
「クッ、クケケケケケ、そうだよ、その顔だ、その顔が見たかったんだ。驚き、怯え、混乱し、恐怖する。無様に口をおっぴろげて、馬鹿みたいに呆けたお前の間抜け面をよお!」
「再会を喜ぼう、天沢郁未。君にとっては、忌まわしき過去との対面かもしれないが」
 淡々と告げる男の顔を、笑い転げる男の顔を、蛇のほうに微笑む女の顔を、郁未は死霊の顔でも見るように順繰りに見渡した。いや、郁未にとって、彼らはまさに死霊そのものだった。そのはずであった。

 五年前、天沢郁未はこの世の果てを経験した。

 そこで郁未は出会いと別れ。かけがえないのないものと巡り合い、そして永遠に喪った。幾多のヒトの心に住まう闇を垣間見て、幾多の死を体験し、自らの手で生み出しさえした。
「あなたたちは……そんなはずは」
 彼らは、その閉ざされた果てで郁未と運命を交錯させた人々だった。そこで、彼らは己が闇に取り込まれ、同時に光を取り戻し、その代償として自らに終止符を打ったのだ。郁未の目には、彼らの終わりが焼きついている。
 FARGO宗団の壊滅とともに、彼らもまた、この世界から消え去ったはずだったのに。
 郁未は震える声で死霊たちの名前を呼んだ。
「高槻」
 ピタリと爆笑を止め、男は小馬鹿にしたように慇懃に一礼する。
「名倉友里」
 女は微笑んだまま、小さく小首を傾ける。
「巳間良祐」
 端正な面差しの青年は、頷くように目を伏せた。
「どうして、あなたたちが――」  吐き気を飲み下すように、郁未は動く右手で胸元を掻き毟った。声が震える、視界が揺れる。魂が、音を立てて崩れ落ちそうになる。
 それでもなお、天沢郁未は目の前の悪夢を叫ばずにはいられなかった。

「死んだはずのあなたたちが、此処にいるのよッッ!?」
「月が満ちたのです、郁未さん」
 カツン、と靴音が鳴った。
 糸で手繰られたように、視線が入り口へと引き寄せられる。
 カツンカツンと音色を奏で、光の中から闇へと誰かが下りてくる。
「夢と現の境目は、とうに途絶えていたのですよ」
 キィと哀しげに啼き声をたてて扉が閉ざされた。光もまた絶え、暗闇の中に陽光の名残のようにして小麦色の髪がふわりと揺れた。
 カツンカツンと、彼女は郁未を中心に、彼女を見据えたまま螺旋を描くように歩を紡いだ。
 高槻の前を通り過ぎ、友里の面前をすり抜け、良祐の目前で立ち止まる。
 彼女は肩に掛かった髪の毛を優雅に払うと、黄金色の眼差しで呆けたように目を丸くしている天沢郁未を見下ろした。
「ごきげんよう、郁未さん。まだ、私のことを覚えていますか?」
「なにを、馬鹿なこと言ってるの?」
 笑おうとして、失敗した。泣き笑いのように顔が崩れ、声がひび割れる。
「葉子さんのこと、忘れるはず無いじゃない」
 鹿沼葉子ははにかむように微笑んだ。嬉しそうに、哀しそうに。
「では、忘れなさい、天沢郁未」
「……え?」
「貴女には、不要な記憶です」
 瞬間、生まれた衝撃に、ガクンと郁未の頭蓋が仰け反った。意識の大半が食い千切られる。反射的に相殺しなければ、完全に昏倒していた。
 手を付き、床に這いつくばるのだけは堪える。だが涙とよだれを垂れ流し頭を上げることすら出来ぬまま、郁未は完全に混乱しきった声で呟いた。
「な……んで」
「私以外の唯一のエクリプス・カテゴリー【月蝕のΑ(アルファ・ルナリア)】です。殺しはしませんよ。ですが、それだけです。二度とお目にはかからないでしょう」
 そうじゃない。聞きたいのはそういうことじゃない。叫びたいのに、大きな声を出そうとするほど喉が痙攣して動かない。
 悪夢というなら、今のこれが飛び切り一番の悪夢だった。どうして、葉子さんが、自分を攻撃するのだ? まるで、実験動物のような目で、私を見下ろしているのだ。
 なによこれ。これじゃあまるで、敵になったみたいじゃないか。

 ――そうなの?

 郁未はポカンと、脳裏に浮かんだ思考を凝視した。
 葉子さんは、敵になってしまったの?

 漠然と、郁未は思い巡らせていた。トラブルに巻き込まれて困り果てている葉子の姿を。不器用で、世間知らずな彼女の事が心配だった。ろくでもない事に首を突っ込んで、オロオロしている彼女の様子が、目に浮かぶようだった。
 東京の喫茶店で、珠呼に葉子を追いかけた先に危険が待ち受けていると告げられたとき。今朝、葉子がいるというこの街にFARGOの介入があることを知ったとき。思い描いたのは、酷く危うい立場に置かれた葉子の姿だったのだ。
 助けたいと、願ったのだ。友達を、救いたいと思ったのだ。何の思惑も無い、下心も無い。純粋に、心から。
 それなのに、今彼女は膝を折る自分の前に立ち塞がっている。
 あからさまな害意を示し、好意の欠片も映さずに。
 ああ、そうだ。誰が見ても、彼女のそれは、明白な敵そのものじゃないか。
「そんな……なんでよ」
 郁未は壊れた笑みを浮かべるしかなかった。目の前の葉子と、郁未の知っている葉子が合致しない。あまりにも、唐突すぎると郁未は子供のように首を振るしかなかった。
「どうして……葉子さん」
 問い掛けながら、郁未は朦朧とする意識の中で別のことを考えていた。
 心残りというわけじゃないが、遣り残していたことを。それは、些細な願いだったはず。その気になれば、すぐに叶えられるような。だから後回しにしてしまって、結局叶えないまま別れてしまったのだけれど、お互いに暇が出来て、再会すれば、すぐにでも叶えられるはずだった願い。
 いつかの夜のバイト先で、浴衣姿で夜祭に向かう若者達を物珍しそうに眺めていた葉子さん。密かに彼女がお祭りや屋台というものに興味津々にしていたのを郁未は知っていた。だから、いつかいきなり連れ出してやって、未悠と三人で嫌というほど回り倒してやろう、そんな事を思い巡らしていた。そして疲れて眠ってしまった未悠を背負って、葉子さんの手を繋いで、祭りの後の少し寂しく、でもとても満たされた余韻に浸りながら帰るんだ、と。
 さして遠くない未来に一ページに、そんな情景を加えて、その楽しさを思い描いて天沢郁未はほくそえんでいたのだ。
「何があったの? 私と別れた後に貴女に何があったの? 何があったのよぉ!!」
 金色に染まっていく双眸を、葉子は思いにふけるように閉ざした。
「出逢って、しまったんです郁未さん。私は、今の私はもうあの人を……」
 頭を振り、葉子は目蓋を開いた。
「理解なさい、郁未さん。貴女の知る鹿沼葉子はもういない。私は、栄えあるFARGOの【A−9】。貴女と貴女の娘の敵です」
 それは間違えようの無い、一片の誤解も許さない決別の言葉。郁未の知る葉子との断絶。
「お別れです、郁未さん」
 一気に全身から力が失せていく。ああ、もう叶わないのか。郁未は、目尻に涙が溜まっていくのを感じていた。本当に些細な願いが、途方も無く遠いところに行ってしまった気がした。
 金色が、眩いばかりに妖しく輝く。覚悟ともいえないひどく投げやりな気分で、郁未はこの世を侵蝕していく不可視の力の発現を虚ろに見上げた。
 そのときだった――――。

 ガラスが割れるような甲高い音が響く。何事か振り返った面々の前で、青白い氷に覆われた木製の扉が冗談のように粉々になって吹き飛んだ。闇と陽光の狭間で氷塵が銀色に煌く。そんな銀幕を押し退けて誰かが入ってくる。舞台袖から登場した真打のように肩で風を切り、一人の女がホールへと踏み込んでくる。
「おい、扉の封印(シール)は?」
「起動させたわよ」
「10分は何があっても破れないって触れ込みじゃなかったかのかよ。役に立たねえな」
 高槻と友里の会話を無視して暗いホールを見渡した女は、肩から血を流し項垂れている郁未の姿を見つけ、血走らせていた双眸に安堵の光を浮かべ険しい顔を締りのない顔に緩めた。
「なにさ、天下の天沢郁未ともあろう人が手ひどくやられてるじゃない。なっさけないわねー、それでもあたしの相棒かっての。こんな連中、さっさとやっつけちゃいなさいよ」
 能天気な声が弾む中、それまで能面のように無表情だった葉子の眦がつりあがる。
「……相棒、ですって?」

「それともあんたでもてこずるぐらい、こいつら腕が立つのかしら。そいつは面白いわね」
「……睦美、さん」
 犬歯を剥き出しにして指をバキボキと鳴らしていた睦美は、生気の失せた郁未の声に顔を曇らせた。
「私……私……」
「天沢?」
 様子のおかしい郁未を窺おうとした睦美の視線が、不意に凝固した。郁未との間に立ち塞がるように、彼女は佇んでいる。肌が焦げ付きそうな激しい敵意を露わにして。その女の顔を睦美は知っていた。
「鹿沼……葉子?」
 名前を呼ばれるのも虫唾が走るかのように葉子の口端に皺が寄る。
「そうです、樋端睦美さん」
「あたしを――」
「ええ、知っています。大阪府警公安八課職員。天沢郁未の同僚にして氷の妖魔」
「そう……か。そういうこと、か」
 釘付けにされていた睦美の視線が、ゆっくりと葉子の奥、小刻みに震える相棒の肩へと移っていった。
 表情が消えていく。磨き上げられた氷の表面のように、冷たく平たくなっていく。

「その娘はね、行方がわからなくなったあんたを探して此処まで来たんだ」
「そうですか」

「あんたのこと、とても心配してた。大切な娘を放り出して、身も心も削ってさ」
「そうですか」

「あんたのことを、親友だって言っていたんだ」
「そうですか」

 睦美は前髪を掻き揚げながら俯いた。そうして足元を見つめながらひどく平静な声音で問いかける。

「天沢のその怪我、あんたがやったの?」
「そうですよ」

「天沢、泣いてるよ」
「そうですね」

「天沢を、裏切ったの?」
「あなたには関係の無い事です」

 息が吐かれる。長く、長く、肺の中から空気が皆無になるほどに長い嘆息。
 ビキリ、とどこかで水が凍りつく瞬間に似た軋む音が響いた。

「わかった、よくわかった」

 それは、クレバスの奥底から響いてきたような凍てつき果てた声だった。
 ビキリ、ビキリと空気が軋む。烏の濡れ羽のような見事な黒髪が、蒼みを帯びてざわざわと逆巻いていく。

「鹿沼葉子、奈落のように後悔しろ。そして忘れるな、その腐れた魂に消えないように刻んでおけ」

 ユラリと顔をあげた女の瞳の色は、氷河のような蒼だった。

「おまえは、今この瞬間からあたしの敵だ」
「奇遇ですね、化け物」

 爛々と、黄金を憎悪に染めて葉子は言った。

「私も貴女を滅すべき害敵と見定めました」

 氷柱女は血が滴ると見紛うほどに真っ赤に裂けた口唇を開いて見せた。

「報いを受けろ。代償を払え。薄汚い裏切り者め、私が地獄の底(コキュートス)に送ってやる」
「目障りなゴミ屑め、存在自体が不快です。迅速かつ粉微塵に殺戮して差し上げましょう」

 金色の悪魔は鈴鳴る声で宣告した。

















































 鮮血が、霧となって飛散する。

 足元に転がってきた其れを、天沢郁未は瞬きも出来ずに見つめる事しか出来ない。

 喉の奥から迸る、言葉にならない無意味な絶叫。

 見開かれたまま虚空を睨む女の生首。

 暗がりに浮かぶ薄笑い。

 踏み躙る足の下で、熟れた果物のようにして、彼女の最後の欠片が潰された。






 ――グシャリ















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