夜が明けて、
 夜と名の付く日の朝が始まる。


 ひたひたと忍び寄る、宴の訪れを知らぬまま。
 人々は、その日の朝を迎えていた。










< 05:23  市街中心部 総合商業区・釣島通り >




 街は未だ眠りから目覚めず、静寂に包まれていた。陽の光が物言わぬ街を照らし出し、荒涼とした気配をかもし出す。
 あたかも時が静止したかのように、街は沈黙している。
 灰色のアスファルト、灰色のビル、灰色の街。
 世界が滅びてしまったようだ、と彼女は思う。はたしてこれが私自身の心象風景だと云われても、黙って受け入れるしかないのだろう。
 動くもの一つ無い繁華街の真ん中に鹿沼葉子は黒点のように独り佇んでいた。さながら無人の廃墟を訪れた異邦人のようにして。
 鳥の囀り一つなく、蝉の声一つ聞こえない。ジリジリと昇ったばかりの太陽だけが大気を焼き焦がしている。陽炎に惑わされ、街が揺らめいている。きっと、自分も揺らめいて見えるのだろう。
「まほろば、なにもかもが」
 いずれこの光景もまた、そもそも最初から存在しなかったかのように消えていくのだ。
 私のように。
 伏せた視界の隅に、シャッターが降りたゲームセンターが映っている。
「なにを、見ているの?」
 無音だった世界をすり抜けて、コツコツと足音が近づいてくる。葉子と同じ黒一色の上下に身を包んだ女だ。魔法使いの外套よりも影に近しい暗色のスーツを着こなしてなお色香を匂わせるスタイルや挙動。それが活力の迸りではなく、散り行く花のような儚さを感じさせる不可思議な存在感を漂わせている。
 葉子は振り向きもせず冷たく「なにも」と言い捨て、光の加減で黄金色に染まる双眸をサングラスで覆い隠した。
「あなたの黄金はもう不必要なものを映さないのね」
「なにか御用ですか」
 揶揄するような女の言葉を遮り、葉子は問い掛けた。女は口許に薄ら笑いを浮かべたままもったいぶるように告げた。
「彼女がこの街に来ているわ」
「……彼女?」
「そう、貴女の大切な、天沢郁未」
 葉子は首を傾け、ビルの狭間に覗いている狭い狭い夜明けの空を仰ぎ見た。黒いレンズに覆われた双眸に、いったいどんな光が浮かんでいるのかは定かではない。
 彼女はただ、こう告げた。
「障害となるならば、排除せねばならないでしょう」
 得心がいったように女はせせら笑った。
「もう、貴女には、彼女ですらも映っていないのね」
「いいえ」
 即座の否定。ほんの少し、桜色の唇に艶やかな微笑が混じる。
 葉子は踵を返し、女と擦れ違う。その際に針を刺すように囁いた。
「無視できないからこそ、消すしかないのです。この手で」
 氷のように冷たい手が、女の首筋を撫であげる。おとがいをうわずらせ固まった女を一瞥し、葉子は遠ざかっていった。
 喘ぐように息を吐き、首を摩る。生きた心地がしない。首と胴が別れ別れにされるかと思った。
「本気ね、あの娘」
 背筋を走る寒気とも快感ともつかない感覚に、女は自分の身体を抱き締めた。
 そう、単なる余波だけでこれだ。あの凍りのような殺意。彼女にもう迷いはない。愚かな女だ。
「天沢郁未、あなたは耐え切れる?」
 ただの敵ならもろともするまい。だが、相手は鹿沼葉子。彼女が親友と信じている女だ。
「親友に裏切られ、座して殺されるかしら。天沢郁未は……」
 もし、郁未が心折れず抗うというのなら。
 私は機会を捉え損ねてはならない。細心の注意を払い、あらゆる混乱の隙間を潜り抜けて目的を手繰り寄せる。
「タイトロープね。でも、私は選んだわ」
 自分がこの世界に在る理由を思い、女は真摯な光を両目に宿す。
 艶かしく舌で唇を濡らし、女は軽やかな足取りで、葉子の後へと続いた。












< 05:50  市街中心部 総合商業区ピア宮川一号館 正面入り口脇 >




「照ってきたな」
 ショッピングセンターの正面入り口に植えられている生け垣の縁に腰を下ろして体を休めていた和巳は、突き刺すような日差しに手を翳した。
 十分ほど前までは影の差していたこの辺りも、日が昇るにつれてすぐに陽光へと飲み込まれていく。すでにアスファルトからの輻射熱のためか、早朝にもかかわらず空気はむわとした熱気を帯び始めていた。
 肩に寄りかかるようにして寝息を立てている美汐を、和巳は揺り動かした。
 美汐は手の甲でしょぼついた目の辺りを擦ると、キョトンと和巳の顔を見上げる。珍しく幼い仕草に、和巳は思わず口元を綻ばせて美汐の頭を撫でまわす。
 優しい手付きにトロンと気持ちよさそうに撫でられるがままになっていた美汐だったが、はたと目を瞬かせ、
「……すっ……すみません、私ったらついウトウトしてしまって」
 目が覚めたらしい。慌てて和巳から仰け反るようにして離れ、ワタワタと手を振り回している。
「影んところ移ろう思て起こしただけやよ。直射なってきたからな。一晩中休みなしに走り回ってたんや。もうちょっと休んどき」
「いえ、そんなわけには。真琴が……どうなっているかもわからないのに」
「だったら尚更ちょっとでも体力戻しておかんと。みーちゃんかて、冗談でそんな格好しとるわけちゃうやろ」
 美汐は白衣の襟元を正しながら、口惜しそうに俯いた。
 深夜、和巳と合流したとき、美汐はサマードレスから正装ともいうべき、巫女装束へと着替えていた。こんな繁華街の真ん中でその格好はサンバカーニバルのビキニに匹敵するいかがわしさだ。目立つどころの姿ではない。
 目立つのが苦手な性格の美汐が人目を引くのも辞さずにその衣裳で身を固めているのは、それだけ事態を深刻に受け止めている証左でもあった。
 彼女の装束には軍用ボディアーマーほどではないが多少の防刃防弾効果が付与されており、また天野愁衛の手により強力な呪障防壁が編みこまれている。言わば一種の術式装甲服(バリア・ジャケット)なのだ。
 明らかに美汐は本格的な戦闘に遭遇する事態を前提にしてこの場にいる。ならば、疲労が蓄積しているコンディションが如何に危険かは当然のように理解してしかるべきだ。焦りに道理を見失うほど美汐は理性を欠いてはいなかった。いや、先日までの状態なら自分を見失っていたかもしれない。大丈夫だ、今の自分なら。
「……わかりました」
 すぐにでも捜索に戻りたい気持ちは募っていたが、美汐は和巳の提案を素直に受け入れた。日陰に移り、もう少しだけ己の心身に休息を許すことにする。そうと決めたらとことん実直に従うのが天野美汐という少女だ。屋外店舗用のベンチを見つけ、二人でそこに腰掛けると美汐はすぐに意識レベルを睡眠状態にまで落とした。
 寝るのまで生真面目やな、と和巳は苦笑した。少々首が項垂れているだけで背筋がピンと伸びている。何とも肩肘張った休み方だ。先ほどと違ってキリッとした表情で眠る少女の頭を、和巳は膝へと誘導してやった。
「まあこの程度ならええやろ?」
 疲れもあるだろうが、眠れるときにはすぐに眠れるよう普段から心掛けているのだろう。まだ若くとも、退魔を生業とするものの気構えが感じられる。この様子なら、きっかり三十分で疲れを取ってくるに違いない。
 美汐は問題ない。あるとすれば自分のほうだ。
「ごめんな、オレが不甲斐ないくて」
 髪を梳きながら、和巳は苦渋を噛み締めた。鷺寄りで何とか商業地区のどこかだと目星はつけたものの、やはり巧妙に痕跡は消されており、二人は夜通し虱潰しに一棟一棟ビル群を調べてまわるしかなかったのだ。確実ではあるが手間ばかり掛かるやり方である。埒があかない。急がなければならないのに。時間が経てば経つほど真琴の身の安全が楽観できなくなっていく。
「六時か」
 和巳は時計に目をやった。
 そろそろ、街が目を覚まし出す時間だった。











< 06:00  カルストンライトホテル404号室 >




 こびりついたガンオイルを布で拭い、望月静芽は確認のためにもう一度シグ・ザウエルのスライドを引いた。稼動に問題がないのを確かめ、マガジンもチェック。両手をグリップに添えて握り具合、重心の位置を馴染ませる。
「ふう」
 静芽はターンテーブルにザウエルを置くと、着ていたバスローブの紐を解いた。下着を身につけ、手早くスーツに身を包みシャツの上からホルスターを装着、整備したてのザウエルをそこに捻じ込み上着を羽織ったとき、閉ざされているはずの窓ガラスをすり抜けてヒラヒラと一匹のモンシロチョウが入って来た。
 ネクタイを締めながらつかつかと窓際に歩み寄り、円を描くように舞うモンシロチョウを指で挟むように摘み取る。
 パチンと指に挟んだ蝶を弾く。すると、モンシロチョウは一枚の紙片に変化していた。
「……?」
 表は白紙。何も書かれていない紙片に疑問を浮かべつつ、裏返してみる。途端、静芽の顔が蒼褪めた。
 白地に赤い線の十字交錯。紙片には文章は記されておらず、ただ赤い×印が刻まれていた。
「抹消……命令ですって?」
 ギリ、と歯軋りが鳴り、紙片は千々に引き裂かれてカーペットに叩きつけられた。そんな自分の衝動的な行為に驚くように、静芽は茫然と自分の手のひらをじっと見つめる。
 なにを、憤っているんだ、私は。
 波打つ心を落ち着かせるように、汗の滲んだ手のひらをグッと握り締め心臓に押し当てた。問題はない、何も問題はない。私は為すべきを為すだけだ。しかし何故ここまで来て。
「そう、か。神祇の介入ね」
 情勢の変化を思い出し、突然の命令への得心がいく。欲と保身、揺れ動いていたその針が神祇の介入により保身のほうへと振り切れたのだろう。もしかしたら研究所に置いてきた人員の中にいた自分の同類も神祇によって一緒くたに一網打尽されてしまったのかもしれない。もしそうだとしたら、神剣に関する術式情報を入手する事は不可能と判じても仕方が無い。
 いや、叛乱者に神剣を入手させる訳にはいかないのだから、最初から儀式がはじまるこの段階で命令が発信される予定だったと考えるべきなのか。
「ロベルカ、クロニカ、レンティカ」
 押し殺したような呼びかけに応じ、黒と灰色の斑の毛並みをしたフェレット、闇を毛糸にして丸めたような漆黒の猫、光の粉を塗したような純白の猫の三匹の使い魔が現われ、静芽の足元に集まってくる。
 考えるな。私が命の背景に考えをめぐらせても仕方が無い。意味がない。狗に命令を実行するため以外の思考は不要なのだ。
 意志の光が消えた双眸が、静かに隣の部屋を隔てる壁に据えられる。この壁の向こうには静芽の主である井上義行が休んでいる。スッと右手が上がり、壁を指差す。使い魔たちがピクリと首を擡げて立ち上がると、一様に指差す方に顔を向けた。

『しずちゃん、泣いているのかい?』
 不意に、そんなうろたえた男の子の声が頭の何処かで反響した。

「……………………くっ」
 たっぷり五分ほどはそうしていただろうか。静芽はエンジンキーを抜くように脱力した。パタリと掲げていた腕を下ろす。
「まだ、早いわ。この人はまだ利用しなければならない。逸るべきじゃない」
 自分に言い聞かせるように呟き、手を振って使い魔を消す。
 そう、急いてはいけない。命令の対象は彼だけではないのだ。仕手を急いで片方を逃しては意味がない。いや、むしろ重要なのか高梨の方なのだ。自分はヤツに警戒されている。ヤツに近づくにはこの人がまだ必要だ。必要なのだ。
 自分が本当に逸っているのかも確かめず、静芽は繰り返し自分にそう言い聞かせながら壁の向こうをじっと見つめ続けた。
「泣いてなんか……いるもんか」












< 06:18  カルストンライトホテル203号室 >




「ひっくしょん」
 薄手のシーツが跳ね飛ぶ。身体がくの字に折れるほどの、大きなクシャミ。郁未は、鼻を啜りながら目を覚ました。
「うー……寒い」
 肌から染み込んでくるような嫌な寒気。なんだか北海道にいた頃を思い出す。そういや一度、空き厩舎で居眠りをしてしまって凍死しかけたことがあったっけ。尻尾くんは元気にやってるかしら。ところで、ここって北海道だったっけ?
 郁未は手探りで枕元に置いてあるウェットティッシュの箱を手繰り寄せると、鼻をかんだ。一息ついてモゴモゴとベッドから身を起こす。華美な装飾も無い、ごく平均的なビジネスホテルのツインの客室だ。
「……って、寒い、ほんとに寒い」
 本格的に身震いして、郁未はスタンドに置いてある冷房のリモコンを掴んだ。見ると昨晩、就寝の時には26度に設定してあった室温が、何故か最低の18度に変更されていた。しかも風力最強、風向きは直撃コース。先ほどからゴウゴウと物凄い勢いで冷たい風が押し寄せてくる。
 寒いはずだ。
「誰だ、勝手に設定変えたの」
 捜査も推理も必要なく、犯人判明。
 首をグルリと傍らに向けると隣のベッドで、シーツを元気良く蹴たぐり飛ばし半分脱げたパジャマから大きくお腹を曝け出した樋端睦美が、幸せそのものの寝顔で大の字になっていた。
「ふにー」
 腹を掻くな、腹を。
「この人は……暑いんだったら冷蔵庫に入ってなさいよ、この雪女」
「かくー、ふにゃ」
「ムカ」
 幸せそうな寝顔にカチンときた。このツンドラ妖怪、どうしてくれようか。
 天沢郁未はしばらく無表情で考え込むと、おもむろに部屋のクローゼットに向かった。中に掛けてある浴衣から帯を何本か取り出して結び合わせ、即席のロープを製作した。そして、爆睡している睦美をシーツで簀巻きにすると、帯のロープでギチギチに縛り上げ「ふんっ」と気合を込めてエアコンのリモコンの室温ボタンを連打する。
 室温設定35度に変更完了。
 ぼわぁぁぁ、と頭の悪そうな駆動音を響かせて、冷風が吹き出していた口から灼熱の温風が溢れ出してくる。
「ふふん……へくしゅ」
 満足げな表情をくしゃみで崩しつつ、郁未はスタスタと洗面所へと移動する。そうしてドアを閉めた郁未はふと思い立って、ドアに耳を当てて外の様子に耳をそばだてた。

『すぴーすぴー。ふひひ、にゃんだばー。ふにゃ、ぐぅ、ぐぅ……ぐ? ぐぐ、ぐあ……ぐああ、ぐぎぎぎ、ぎあ、あう、ふぎ、ぎぅぅ、うごあ、あぎゃ、ぎゃふ、ごば、ばび、びびび、ぐぎゃあぎひぃぃぃぃ、熱ぃ、熱ちちちちち、んな、なんじゃこりゃぁぁぁ。熱風が、熱風がダイレクトに吹き寄せてます、押し寄せてきます。あ、熱ッ、あちゃあっ、こら、あ、天沢ぁぁ、どこいったぁ!? ぬおおおお、なんかいつの間にかぐるぐる巻きにされてるし!? 縛られてるし!? いわゆる簀巻き! の、逃れられねえ。ってかマジ熱いって。蒸れます、蒸れますから。ぎひいい、リアル脱水症状なりぃぃ! 溶ける、マジ溶ける、溶けけけけけけうるるるるるるるる』

 なんだかこう、ぐっしょり感溢れた悲鳴が聞こえてくる。
 長閑で健やかな寝息が段々と拷問室から聞こえるような呻き声と変化していき、果ては断末魔の叫びへとか高まっていくさまにウットリと陶酔しながら、郁未は冷え切った体をバスルームへと滑り込ませた。

















< 06:40  水瀬家一階 ダイニングキッチン >




「……なにもないじゃないか」
 野菜室に転がっているのはレタスの芯が一つだけ。昨日、とりあえず冷蔵庫の中身を中華なべにぶちまけて、塩と胡椒とケチャップと味覇(ウェイパー)で傷めてみました、もとい炒めてみました風料理に使ってしまったので、今朝はもう何も残っていない。こんなときはジャンクフードの買い置きがまるでない水瀬家の方針が恨めしい。せめて、パンが残ってれば良かったんだけど。
 仕方なく、レタスの芯とマヨネーズを取り出して冷蔵庫を閉めると、一番下の野菜室の所にメモがマグネットで貼り付けてあるのに気付いた。

『実家に帰ります、探さないで下さい』

「……なに、これ?」
 猫の足型が捺印として押されているのをみると、ピロの伝言のようだ。
 ボク、ピロになんかしたっけ?
「うぐぅ、昨日傷めものの残りを無理やり食べさせたのが拙かったのかな。それとも、一昨日プリンに菜種油を掛けたものを与えたのがいけなかったんだろうか。おかしいなあ、化け猫って油舐めるって聞いてたんだけど」
 納得行かない様子で首を捻るあゆ。この分だと、秋子さんが帰ってくるまで戻ってくるつもりはなさそうだ。
 にしても、とあゆは感心しきりにピロが残したメモを手にして眺め回した。
 猫のくせに達筆だよね。ってよく見たらこれ印刷じゃない。パソコンの打ち出しか。そうだよね、肉球じゃ筆持てないし。
「……今度要さんか祐一くんにパソコンの使い方教えてもらおう」
 猫より電脳機器に疎いというのはなんだか釈然としないあゆだった。
 ところでピロの実家ってどこ?
「はぁ、真琴ちゃんのお陰で朝ごはんこれだけか」
 兎よろしく、マヨネーズをかけたレタスの芯をわびしく齧りながら、月宮あゆは憂鬱に頬杖をついた。
「もう、晩御飯作るのエスケープするのは百歩譲っていいとしても、買い物ぐらいは家に届けておいて欲しいよ」
 こんな事なら、要さんのところで晩御飯ご馳走になってくればよかった。いや、むしろどうしてそれを思いつかなかったのかが悔やまれる。今日の晩御飯当番は真琴ちゃんだったのにプンプン、という怒りを創作料理にぶつけるのに頭が一杯で全然これを機会に要さんに、という方向に考えが行かなかった。このあたりが真琴ちゃんなんかに疎いと言われる原因なのかもしれない。悔しいけど。
 早朝の情報番組から、今日の天気予報が流れてくる。
「うん、快晴だね」
 絶好のプール日和だ。齧る部分の無くなった芯を三角トレイに放り込み、あゆは自室に戻って昨日のうちに用意していた荷物をひっくり返す。さすがに三角ビキニにする勇気はなかったが、去年みたいな子供っぽいワンピースは女の矜持が許さない。
 引っ張り出した水着はブルーのチューブトップタイプだ。
「これで、要さんの視線を釘付けだよっ! ……ってわけはないんだけどね」
 意気込み半ばでハハッと浮かぶ半笑い。そういうパターンからはとことんズレているのが雪村要のいい所。まず間違いなくまともな人間の反応は期待できない。まあ、あれでお洒落にはうるさい人だから見てくれるのはちゃんと見てくれるだろうし、誉めるところは褒めてくれるに違いない。その代わり、似合ってなかったら何の斟酌もなく酷評だけど。ああ、このスリル、ドキドキ感……ちょっと恋の甘酸っぱさからは程遠い。
「ふふふ、そんな要さんと付き合えるのはボクくらいなもんだよ〜」
 栞ちゃんなんかじゃ絶対無理だね、と嘯くあゆの半分だけ見開かれた両目の光は、なんだかウロが入っていた。















< 07:35  下畑市郊外ショッピングモール葛西1階・軽食喫茶『グレーテル』 >




『ねむいの』
 と、書かれた紙が山となって積もっていた。
 別にそんな文面を書かなくても見ればわかる感じで首をカックンカックン左右に揺らしながら、少女はメモ用紙に『ねむいの』と書き殴っては破いて捨て、書き殴っては破いて捨て。
「だぁぁ、わかった、わかったから。あんたは寝てなさい」
 事前に用意していた地図とコンビニで買い集めた地域案内の地図をテーブルに広げて、内容を照らし合わせながらボールペンでチェックを入れていた月城漣だったが、さすがに目の前まで押し寄せてきたメモ用紙の束を無視できず、地図の上から払いのけて言った。
「大丈夫なの、綺咲はおめめパッチリなの」
 と頑強に言い張りながら、『ねむいの』と書かれたメモ用紙を名札のように胸に貼って船を漕ぐ御神楽綺咲。どちらの意見を主張したいのか客観的判断の難しいところである。
「いいから、寝てなさい。子供が無理するんじゃないの」
 月城漣は顔を押えながらも、粘り強く言い聞かせる。
 寝ぼけ眼を擦りながら、不満げに唇を尖らせていた綺咲だったが、やがておもむろにメモにペンを走らせると、それを掴んで突き出しながら恩着せがましく口を開いた。
「わかったの。首領がそこまで言うのなら、聞き分けてあげるのが綺咲の器量というものなの。渋々言う事を聞いてあげるの」
『助かったの。実はこのまま線路に飛び出してしまいそうなほどねむかったの』
 だから、どっちだ。
 頭を悩ませる漣だったが、とりあえず言っておくべき事を先に言う。
「首領言うな。あたしはどこぞの悪の組織の大親分か」
 綺咲は眠たそうな目で化粧を塗りたくった漣の顔を舐めるように見渡すと、やれやれと肩を竦めた。
「……せいぜい中ボスがいいところなの」
「ちょいとお待ち」
 拳骨が少女のこめかみに抉りこむ。
「あうあうあうあうあう」
「眠いんだったらさっさと寝てなさいっての。時間が来たら起こすから」
「了解なの」
 ここまでの移動の際、車の中で睡眠を取らせたものの、やはり充分に寝られなかったのだろう。長椅子に横になった途端、綺咲はすやすやと寝息を立て始めた。
 まだ子供ね、と浮かべかけた微笑を、漣はすぐさま掻き消した。
「当たり前じゃない。子供に決まってる」
 言い知れぬ倦怠感に、漣はだらしなく背凭れにもたれかかった。
「こんな年端もいかない子供を戦場に狩りだすようじゃ、悪の組織と言われても仕方ないわね」
 砂糖もミルクも入っていない珈琲が、普段よりも苦く感じる。いつもの事だが、愉快な気分には到底なれない。だが、と漣は苦々しい思いを押し殺して現状を肯定しなければならない。
 綺咲にも、あの紅葉にもまだ戦場は必要なのだ。闘争の無い世界では、彼女たちはまだ生きられない。彼女たちの心に巣食った病巣は未だ拭い去られていないのだ。どれほど理不尽だろうとそれが現実だ。自分たちに出来る事は彼女らが己が意志と力で自らの道を選び取れる日がくるまで、何があろうと彼女たちを守ること。いや出来る事ではない、それはあの子供たちを預かった者としてのせめてもの責任であり義務なのだ。
 気を取り直すように、漣は地図に向き直った。現在、紫旗の七名は四組に分かれて某県下の三つの市で山浦衆の捜索を行っていた。平行して神祇省で情報収集を行っているが、内務省や帝諜の協力を得ているとはいえ、潜伏場所の特定にはどれだけ早くても一両日掛かるだろうという報告が来ている。ならば、現地で魔術的に探査を掛けた方が当たりを得やすいだろうと漣は判断し、上に承認させていた。書肆部に残されていた明治時代に起こったとされるケースの事件記録からも、神剣の顕現にはかなり大規模な儀式が必要となる事はわかっている。儀式の前兆ともいうべき反応が必ずあるはずなのだ。
「……これは」
 地図内の霊的要地に赤丸を入れて、今日の捜索ルートと探査パターンを吟味していた漣だったが、ふと地元のコンビニで買ったガイドブックのある一項目に目が留まった。
「ちょいと、おじさん」
 向日葵柄の可愛いエプロンが良く似合っている恰幅のよいマスターに訊ねてみる。
「このスパワールドって、天然温泉なのかしら?」
「ああ、地下から直接くみ上げてるって話だよ」
「……ふぅん」
 女性のように細くしなやかな指の先で、赤ペンがクルリと回る。
「なーる。こりゃ、好都合だわ」
 ルージュのひかれた唇が、妖艶に微笑んだ。















< 07:40  磐梯自動車道阿賀野川サービスエリア >




「それで足りるのか? 喰えるだけ喰っておかないと、後でもたないぞ」
 折紙紅葉は、こじんまりした海老天が一尾と、申し訳程度のかき揚げが一つ乗ったきりのうどんを前に、パチリ、と割り箸を割った。無視しようかとも思ったが、案外他人を無視するのにも体力と精神力を必要とすることは学校生活を通じて身に染みてよく知っているだけに、諦め気味に切っ先の鋭すぎる舌鋒を開封する。
「あのよ、泥眼の旦那。あんたがオレのことどう思ってるか知らないし、知りたくもねーけどさ。仮にもオレ、女子中学生なの。んなあっちのおっさんたちみたいにガツガツ喰えるかっての」
 パーキングの食堂は、ちょうどそういう時間帯なのかトラック野郎どもの豪放磊落な話し声で埋め尽くされている。徹夜で大型トラックを走らせた男(一部女性)たちは、疲労した肉体を回復させるためか、朝から尋常ではない量の食事を前に積み上げ、ガツガツと胃の中に掻き入れていた。
 それに比べれば、テーブルの隅で天ぷらうどんとカツカレーをつついている中学生と若い男の二人組みは食が細いという印象を得てしまうのかもしれないが、あくまで量的には並み、適正だ。
 常から切れ長のサングラスを外さない痩身の男――渡万里徹は渋面を隠そうともせず、
「だが、この後食事をしている余裕があるか判らんぞ。発見次第、現場に急行する手はずになっているからな」
「だからって食い溜めしろっていうのかよ。無理無理、そんな器用な真似できるか」
「いざというとき、ガス欠では困るんだがな」
「ごちゃごちゃうるせえな。そんなヘマしねえよ」
 皮肉めいた口振りに紅葉は必死にブチ切れるのを我慢した。彼が自分にいい感情を抱いていないのは周知の事実だ。それを知っていて、どうしてあのオカマは相性の悪い者同士を組ませるんだ。嫌がらせか? 嫌がらせなのか?
「くそっ、イライラさせんじゃねえよ」
 制御できない感情をもてあまし、余計にイライラを募らしていく。悪循環だと頭ではわかっているが、わかってどうにかなるのならこんな場所にはいないだろう。
 折紙紅葉には色濃く鬼族の血が混じっている。片親が人間、片親が妖怪の半妖と呼ばれる存在だ。その妖怪の方の血に、紅葉は幼い頃から振り回され続けてきた。鬼族の血に纏わりつく暴性、相手を傷つけずにいられない汚泥の色をした性根。自分はいつになったらこのイカレた本性を押さえ込めるようになるのだろうか。
 そんないつかなど、いつまで経っても来ないのではないかと思ってしまうときがある。
 この世界に、オレの居場所なんてない。そんな思いに駆られるのは、はたして弱さなのだろうか。
 誰も、傷つけたくなどないのに。誰にも、嫌な思いをさせたくないのに。
 それが出来ない自分など、いつか消えてしまえばいいと、折紙紅葉は思うのだ。
 うるさいくらいの喧騒の中、黒いセーラー服の少女の姿はあまりにも儚く、ふと目を逸らしているうちに消えてしまいそうなほど孤独だった。












< 08:08  美坂家 ダイニングキッチン >




 下手くそな鼻歌が部屋の中から聞こえてくる。鏡台の前に陣取ってはや30分。美坂栞の身づくろいは未だ終わる気配を見せない。
「化粧なんて柄やないのに」
「あら、ご機嫌斜めねぇ」
 むっつりとこぼした一言を耳聡く聞きとめ、クスクスと笑って美坂沙織は何時にも増して赤い癖ッ毛が酷い事になっている少年に、淹れたてのアイスカフェオレを差し入れた。
「あ、ありがとう」
「薫ちゃん、目玉焼きにはソースかしら、お醤油かしら」
「オレ、いつもソース」
 フライパンの蓋が取られると、黄玉が二つ並んだ目玉焼きが現れる。沙織は手際よく、お皿に目玉焼きを滑らした。
「半熟でよかったわよね」
「うん」
 パティシエが飴細工を作るような手付きでソースが撒かれる。そんな仕草だけで、ただの目玉焼きがご馳走のように見えてくるから不思議だ。
 マヨネーズ生でチューチュー吸ってるうちの母親とは大違いや。
 なんだか比べること自体が目の前の女性への冒涜のような気がして、薫はすぐさま想像を打ち消した。
「今日は栞、デートなんですって?」
 敢えて目の前の少年には話を振らず、母はもう一人の娘の方に話し掛けた。タンクトップにショートパンツという目に毒な格好でマーマレードの瓶を掻き回していた美坂姉は、胡乱げに、
「そうみたい」
 ここで『なんだとーっ!?』と話を引っ掻き回してくれる人は既に出勤しているので姿はない。
「ふーん」
 意味深に口許を歪めながら、沙織はクルクルとよく動く眸で薫を眺め回した。ほくそえむ姿は娘二人とそっくりだ。
「薫ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど。聞いてくれないかしら」
 悪戦苦闘しつつ、目玉焼きをパンの上に乗っけようとしていた薫は、なんだか直接肌を撫でまわされるみたいな悪寒に、思わず目測を誤って皿の上に目玉焼きを引っ繰り返してしまった。
「あう」
 皮膜破れてトロトロと流れ出す半熟の黄身。恐る恐る上目で窺うと、手頃な玩具を前にして構いたくて仕方ない仔猫みたいな笑顔が、じーっと此方を凝視していた。
 経験上、北川薫はこういう顔をした女性には逆らえた試しがない。
「な、なんですか?」
「もしよかったら、栞のデートの相手の人、どんな方なのか見てきてくれないかしら。あの子、私に似て惚れっぽいところがあるから、少し心配なの。薫ちゃんも気になるでしょ?」
 薫はプイと顔を背けて、
「……別に、気になんて」





















「嘘だッッ!!」





















 腰が抜けた。
 薫はヘナヘナと椅子から滑り落ち、ついでに関係ない香里までも椅子ごと後ろに引っくり返っていた。
「ひっ、ひぅ、なっなっなっなっなに?」
「あら……昨日テレビでやってた怪談特集の真似だったんだけど、効果満点ね」
「や、やめてよお母さん。それ、滅茶苦茶心臓に悪いわ」
 椅子にしがみつく香里の顔色は青ざめている。
 おほほ、とてらいなく笑い、美坂沙織は可愛らしく小首を傾げた。
「で、気になるのよね、薫ちゃん?」
「い、いや、その」
 再び沙織の目の焦点がぼやけ、あからさまに大きく息を吸うのを見て、薫は慌てて立ち上がった。
「気になる、めっちゃ気になります!」
「まあ、良かったわ。じゃあお願いね」
「……なにを?」
「なにをって、勿論尾行と盗撮を」
 ポンポンとどこからともなくハンディカメラやサングラスやニット帽やトレンチコートを次々取り出す美坂沙織四十四歳二児の母。
 ほう、と艶かしい吐息を落とし、母はうっとりと遠い目をして独りごちた。
「懐かしいわね。昔は私もこうやって英悟くんの女性関係を洗っては先回りして叩き潰し洗っては先手を取って捻り潰し――」
「うわっ、うわあああああ、ちょ、ちょっと待って!? あんたいったいなにやらかしてたのよ、お母さん!!」
 なにやら聞き捨てならない台詞に、もはや表情選択→強張った笑顔しか余地を無くして長女は母に食って掛かった。
「なにって……セーフティガード?」
 意味が合ってるのか合ってないのか。この人、何人か人殺してやしないだろうかと心配になる長女。
「あのね、恋愛と言うのはね、文字通り戦争なの」
 一転真剣な顔つきと語調に、香里と薫は気圧された。
「力押しだけでも逃げ回るだけでも勝者になんかなれはしないわ。手段なんか選んでちゃダメ。どう足掻いても私しかいない状況を作り出すの。勿論、私の方は彼だけじゃなく幾つも選択肢があるように見せておかないといけないわ。間違っても此方から擦り寄ってはダメ、相手に頭を下げさせるの」
「ど、どうしてなん?」
 薫は恐る恐る聞いてみた。
「その方がね、いつまでも相手から好きでいてもらえるからよ」
 と、彼女は含蓄ある言葉で締めくくった。
 ふと、薫は沙織の視線が自分から少しずれていることに気付いた。目線を辿ると、無言で椅子を立て直している香里へと行き当たる。
「まあ、うちの旦那さんは鈍いわ奥手だわ勘違い野郎だわで、随分苦労させられたのよね。栞も、似たようなところがあるから……」
 大変かもねえ、と何故かじっと見つめられる。薫は何故か居た堪れなくなって、ツツと目を逸らした。
「そういうわけで、はい」
「はい……て」
 尾行盗撮セットを腕に押し付けられ、薫は萎れた狼みたいな顔になった。
「よろしくね、薫ちゃん」
「はあ、ごくろうさま」
「なに他人事みたいな事言ってるの、香里。貴女も行くのよ」
「…………はい?」
 鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔になった娘を、沙織はジロリと睨みつけた。
「行って来なさい」
「あ、あたしには関係ないでしょ。それに今日はツレと約束が――」
「可愛い妹の大ピンチよ」
 理由にもなってない文句だったが、あまりにピシャリと言い切られ、香里は反論の言葉も出せずに口篭もった。
「さあ、頑張ってきてね♪」
 はしゃぐ母を前にして、香里と薫は顔を見合わせ、鏡合わせのように溜息をついた。











< 09:02  小菅総合病院 >




「君、そうしてると結構格好良く見えるわね」
「そうですか?」
 暇でもなかろうに、病室の丸椅子に陣取って彼が外出の仕度を整えるのを見物していた馴染みの看護婦のコメントに、氷上シュンは思わず苦笑を浮かべた。わりと、普段から容姿には評価の高い言葉を頂く事が多かったので、馬子にも衣装的な看護婦の言には何ともいえない味わいを覚える。
「そのお菓子、食べておいていいですよ」
 スラックスに食い込んだシャツの裾を直しつつ、親戚が持ってきてくれたクッキーの缶を目線で差す。
「あら、悪いわね」
「それが目的だったんでしょ」
「それは異な事を仰られる、氷上くん。それじゃあまるで、あたしが君のお見舞い品を狙っていたかのようじゃないか」
「まだ新参者の僕ですが、お見舞い品イーターの名望は聞き及んでますから」
「ぐあ」
 不思議なのは、入院患者たちがその名を口にするとき、そこに親しみや信頼が篭められていることだ。この病院はそんな奇矯な振る舞いをしがらも患者に慕われている看護婦や医師が妙に多い。病歴も長く、色んな病院の内実を知っている氷上だったが、これほど居心地の良い病院も初めてだった。
「まあくれるというからには貰っておくよ。見返りは期待してな」
「それは楽しみですね」
「いやん、楽しみだなんて。えっち♪」
「…………そういう見返りなら遠慮しておきます」
 とくに嵩張った荷物もなく、準備を整え終わった氷上に、さっそくクッキーの一枚を咥えながら、看護婦はにやりと笑って問い掛けた。
「それで? 今日はどちらへ?」
「強いて言うなら、デートでしょうか」
 珍しくいたずらっ気を滲ませた笑顔で応え、氷上はもうしばらくは在所となる病室を後にした。











< 09:45  カルストンライトホテル403号室 >




「神剣の居場所を見失っただと?」
 若き魔術遣いの長は、顎が落ちるの言葉の意味を身を持って実感した。まったく、他に表現の仕様がない。
 井上義行は、報告をもたらした望月静芽には咎がないと知りつつも思わず怒りをぶつけていた。
「なにを、やっていたんだ? 見張りは置いていたんだろう?」
「申し訳ありません、私も詳しい話は……」
 素っ気無く答えた静芽だが、普段の飄々とした態度に僅かにヒビが入っている。さすがの彼女も平静ではいられないのか、と心の隅で気に止めながら義行は考え込んだ。
 下手に先行して身柄を確保すると現地警察の目を引き、ひいては神祇省に知られる恐れがあることから神剣顕現の儀式の準備が整うまで、監視に留めおく手筈だった。だが、当の神剣の宿主が行方知れずとなれば、ここまでやってきたすべてが水泡に帰してしまう。
 時間の余裕はないというのに。FARGOが用意してくれた拠点に置いてきた仲間との連絡は途絶したまま。恐らく早晩、神祇の追っ手が現れる。悠長に時間を費やしている暇などないのだ。
「どうするんだ? みんな儀式に掛かりきりで、捜索に手を裂ける人間は……」
 言いかけて、義行はふと静芽と目が合った。
 いや、いるか。ここに二人。
「望月、高梨師に神剣の見張りに立っていた者をこちらに……いや、天童ビルの方に遣してくれるよう連絡してくれ」
「どうするんですか?」
「今、暇をしてるのは我々ぐらいだろう?」
 諧謔をまじえた微笑に、静芽はハッとさせられた。気難しげな表情に、僅かだが生気が戻っている。やはりこの人は、後ろで構えているより前に出ていた方が気が楽なのか。
 元々、多勢を指揮するよりも自分が前に立つ事を好んでいた人だ。他人が思っているよりも、自分が指導者や指揮官に向いていないことを自覚しているのかもしれない。
 井上義行の災厄は、当主の嫡男という血筋とそれに見合う責任感の強さを持ってしまったことだったのだろう。なにより、清濁合わせ呑むには心根が素直過ぎた。
 捨て置けばよかったのだ、と静芽は胸の内で癇癪を起こしたように感情をかき乱した。
 保身と思想をごったにして己が主張を過激な行動でしか示せない跳ねっ返りどもも、身内の暴走を抑えることも出来ず、そのくせ利用する事ばかり考えている欲目に駆られた能無しの指導部も。本来、山浦衆の解体に賛成していた彼が、叛乱者たちの旗印となる謂れなどどこにもなかったのだ。彼が神輿に乗ったのは、ひとえに山浦衆の本格的な分裂を避けるためだ。もし彼が山浦の最も過激な連中を纏めて出奔しなければ、本家邑紙はまず間違いなく手におえなくなったと判断して山浦衆全体に粛清の雨を降らせていただろう。彼の真意を理解している者は、笑えるほど少ない。FARGOに唆された? 神剣に目が眩んだ? 馬鹿げている。FARGOも神剣も、彼が自分の責任を果たすため――つまり、山浦衆の面々を守るために必要としたに過ぎないのに。
 彼を罵る言葉も、彼を慕う声も、この愚かな若君の本当の姿を掠めもしていない。
 このお人好しめ。無能のくせにはしゃぎすぎなのよ。あなたさえこんば馬鹿な選択をしなければ私がこんな風に――――
「こんな風に……なによ」
「ん、望月、何か言ったか?」
 怪訝そうな視線に静芽は我に返った。
「いえ……なんでも。わかりました。この炎天下を歩き回るのは勘弁して欲しいですが、仕方ありません、お供します」
「おまえな……嫌ならいいんだぞ、別に」
「そういうわけにもいかないでしょう」
「まあ、そうなんだが」
 街に出るか。ここに陣取るより、そちらの方が好都合か。静芽は自身の目的とも照らし合わせ、主の意見に同意する。
 上着を羽織り、外出の準備を整える義行の脇に控えながら、静芽はいっそここで高梨たちが彼に知らされていない真実を一切合財ぶちまけてしまいたい、という欲求に打ち震えた。
 貴方は、貴方以外のすべてから、嘘をつかれているのですよ。
 彼は、どんな反応を示すだろう。容易く浮かぶ想像に、静芽は舌なめずりしそうになった。現実への絶望? 裏切りへの悲嘆? 怒り? いや、彼ならば、板ばさみの苦悩だろう。全てを承知で叛乱の首魁となった彼だ、神輿に担がれたものが様々な判断から遠ざけられる事は理解しているだろうし、場合によっては傀儡扱いですら許容するに違いない。己が指揮官に向いていないことを自覚しているなら尚更だ。
 だが――――
【黒の収穫祭】――高梨が中心となって準備を進めている儀式結界の名を知ったとき、彼はそれを受け入れるだろうか。
 あの儀式結界は、内部に引きずり込んだ人間の生命活動を途絶させる事で多大な魔力を収獲する贄の領域である。その実行を、神剣の顕現に幾多の犠牲が必要である事を知らされていない井上義行は受け入れられるだろうか。
 見てみたかった。彼が、己が立場と正義の狭間で懊悩するさまを。
 だが、まだ早い。この段階で、義行が高梨たちと不協和音を起こすのは、静芽としては拙い事だった。いや、それともその方が仕事がやりやすくなるか? くそ、上手く考えが纏まらない。冷静じゃないのか、今の私は。
 いっそ、自分の事までぶちまけてしまえば頭もスッキリするんじゃないだろうか、などと愚かな事まで脳裏に浮かぶ。
 そう、望月静芽の真実を知ったとき、この人はいったいどんな顔をするだろう。
 私が一番知りたいのは、それなのかもしれない。
 ふと、義行が思い出したように問うてくる。静芽はスイッチを切り替えるようにそれまでの思考を意識の外に排除した。
「FARGOの連中はもう来ているのか? 彼らも今回の儀式には立ち会うと云っているんだろう?」
「わかりません。彼らはいつも向こうから一方的に連絡を寄越してくるばかりですから」
 静芽の茫洋とした口調の中に、はっきりとした不信が混じっていた。いつもは何を考えているかわからない女が示した強い感情に、しばし義行は意表を突かれたように沈黙する。
「若、わかっているでしょうが」
「勿論だ、注意を怠るつもりはない」
 行くぞ、と促がし義行はホテルの部屋を出る。後に続きながら、静芽は腕時計に目を配り、密かな緊張にツバを飲み込んだ。
 ここから先は、何がどう転がるか判らない。せめてもう少し能動的に動ける立場なら違っただろうが、あくまで自分は受動的に対処するしかない立ち位置にいる。要求されているのは綱渡りのような立ち回りだ。
 チッ、それとも行動を制限して綱渡りをせざるを得ない状況を選んだのは私自身か?
「わかっていませんよ、若は」
 義行の背中を見つめながら静芽は囁いた。
 本当にわかっているのなら、私に背中を向けないで。
 貴方の周りには、信頼できる者など一人たりともいないのだから。















< 09:49   天童ビル四階 >




 神剣の行方を見失った報告は、高梨のもとにも入っていた。さして慌てた風もなく、彼は一党に出立の指示を与え、自らは拠点としている雑居ビルの物品倉庫へと足を運んだ。
「やあ、まだ生きてるようですね。壮健でなによりだ、うん」
 朗らかな挨拶は明らかな皮肉だったが、その口振りは素の本心でもあるようにも思える。心中が窺い知れないくせに信頼感を周りに与える不思議な男であった。
 一方挨拶された側は、答えるどころか意識があるのかさえ定かではない。
 空気は埃と血のにおいで汚れていた。換気しようにも、窓は積み上げられたダンボールに隠され、風の通しようもない。もっとも、部屋の中にいる彼女は身動ぎ一つもできる状態ではなく、澱んだ空気にむせてもその苦痛を紛らわす術は彼女にはなかった。
 ぐったりと、水瀬真琴は埃塗れの床に投げ出されていた。
 か細い吐息が、かさかさに乾いた唇から空気の漏れている風船のようにヒュウヒュウと聞こえている。
 高梨の言葉に反応したのか、瞼を開いて眼球が動くものの、目つきは虚ろ、焦点は失われ、かつてそこで光り輝いていた意志の光は見る影もなくくすんでしまっていた。
「煙草、いいですかね? おっと、返事は出来ないのか。じゃ、申し訳ないけど、勝手にさせてもらいますよ」
 取り出したラッキーストライクに火を灯し、男は味わい深げに煙を吐き出した。煙を吹きかけられた真琴は苦しげに喘ぎ、喉を鳴らした。
「いやはや、悪いねえ。外じゃ一服もさせて貰えないんですよ。術式に障りが出るって。愛煙家には厳しいご時世になったものです」
「う……ぐ」
 苦悶に表情を歪める真琴の顔を覗き込み、高梨は顔を曇らせた。
「うん、苦しいのかい? 可愛そうに、無為に苦しめるつもりもなかったんだが」
 懐から取り出した銀の懐中時計に目を配る。
「もう少し我慢してくださいよ。あと、一時間ぐらいの辛抱だ」
 退院の期日を告げる医師のように、高梨は告げる。
「11時に結界を起動させることになったから、それを過ぎたら楽にしてあげますよ、うん」
 美味そうに、紫煙を燻らす。久々の一服に浸る高梨の胸で、携帯の着信音が鳴り響いた。高梨は煙草の灰を指で弾くと、空いた手で胸ポケットから携帯を取り出した。
「やあやあもしもし、私ですよ、高梨です。おはよう鹿沼嬢。ご機嫌はいかがかな?」
『機嫌ですか。今、私は高揚しています。同時に、陰鬱ともしています』
「ほう、それは混沌としているね、うん」
 電話の向こうから聞こえてくる声は言葉の内容とは違い抑揚は窺えない。とはいえ、普段の事務的な態度からすると驚くほど珍しい受け答えだ。
『私の事は結構です。状況はどうですか?』
「順調ですよ。ええ、トラブルは山ほどありますが、敢えて言いましょう。順調です」
 クスクスと、高梨はいたずらを仕掛けた子供のように笑った。
「いやあ、まったく。この私が罪悪感を抱きそうになるほどね」
『戯れ言を』
「ひどいですねえ、鹿沼嬢。私だとて罪悪感ぐらいは抱きますよ。ただ『カエサルを愛さなかったわけではない、カエサルよりローマを愛したのだ』というだけの話です、うん」
 スッと笑いを収め、彼は被っていたツバ広帽を脱ぐと、胸に押し当てた。敬虔な表情で、祈るように。
「緑龍の使徒よ、これは我々の悲願であるが、同時に私個人の魔術師としての到達すべきウテナでもある。実験は、成功させるよ。世界を革命する力を、私はここに示してみせよう」
『我々は貴方に成功を期待しています、偉大なる同志』
「はは、まるで共産主義者(コミュニスト)のような文言だね」
『神をも怖れぬという意味では、さして変わらぬのではありませんか?』
「ほう、君が冗談を言うとは珍しい、うん」
 どうやら本当に、電話の向こうにいる女性は感情を波立たせているらしい。
『いささか、此方もトラブルを抱えています』
 彼女は要約して、高梨の方にも波及しかねない案件を伝達した。
「了解した、うん。かの名高き【インヴィジブル・アームズ】か、それは厄介だね。此方も重々気をつけるとしよう」
『実験の開始時刻は?』
 若かりし日に恋人と送りあった銀時計に目を落とす。
「11時45分。あと1時間50分で」
 男の口許がつりあがる。
「セブンスヘブンの扉が開く」





 通話を切り、折り畳んだ携帯を胸のポケットに収めた高梨は、爪先に柔らかい感触を感じ、すっかり意識の外に置いていたこの場のもう一人の住人の存在を思い出した。
「しまった、迂闊だね。君のことを忘れていたよ。人前でベラベラと……いやはや」
 彼は屈みこむと、意識朦朧となったまま苦痛に呻いている少女の髪を優しく梳いて整えてやる。
「本当なら、どうせもうすぐ殺すからと悠長に構えず、ここで縊っておくべきなのだろうけれど、うん」
 クスクスと潜み笑い、彼は立ち上がって横たわる瀕死の真琴を見下ろした。
「敢えて油断し増長してみるのも楽しかろう。ここで君を始末せず、それが私の命運を絶つ因果となるのなら」
 ツバ広帽を被り直す。
「それが世界の選択さ、うん」
 高揚を抑えきれぬように、高梨は肩を揺らして哄笑した。
 ああ、楽しい。愉快でたまらない。思った通り、この世は並べて素晴らしき哉。
 高梨は、目尻に涙すら浮かべて笑い転げながら、口を開いた。

「悪魔が来たりて笛を吹く。
 魔笛(まてき)の音色が鳴り響く。
 まったき暗闇(くらやみ)引き連れて。
 億千万(おくせんまん)の月が()る」

 魔界が顔を覗かせる、(うろ)なる天の獄が開く。
 開くのは私だ。導くのはこの私だ。
 なんたる不遜。なんたる傲慢。まさに人の分際を踏み越える行為ではないか。
 まったく、笑いが止まらない。

「では再び始めるとしよう。此処から再び始めよう。

 もう一度、もう一度、二十年前のあの、
 あの饗宴(カーニバル)を、
 あの供宴(カーニバル)を、
 あの叫宴(カーニバル)を、
 あの恐宴(カーニバル)を、
 あの――狂宴(カーニバル)を!!」

 哄笑が、燃えさかる火炎が端から凍りついていくように静まっていく。
 高梨はグッとツバ広帽を手で押え、目深に被り直すと、
 ニヤリ、と。
 凍てつく声を響かせた。

「此度は人の手で、この素晴らしき世に降らせてみるとしようじゃないか」

 悲鳴のように軋みをあげて、ドアが徐々に閉まっていく。
 暗闇へと閉ざされゆく血と埃に塗れた密室に、彼の者の残した声が染み渡る。

「世界よ、歓喜せよ。『今日はクリスピアンの祭日だ』」














 斯くして全ての役者は舞台に上がる。
 思いは淫らに交錯し、天の階へと集い往く。
 然して、舞台は戦場と化す。




 第七天獄(セブンスヘブン)(ほとり)へとヤコブの梯子(はしご)が掛かるまで、あと残り一時間と四十五分。







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