「誰も……いないな」
 水瀬の表札が掛かった一軒家。庭の方も覗いてみるがどの部屋にも明かりがついている様子はなく、シンと静まり返っている。鍵が掛かって回らないノブを握り締めたまま、小太郎は額をドアに押し付けた。
 高を、括っていた。心のどこかでどうせ心配しすぎなのだと思っていた。だが此処に至り、小太郎の胸に急速に嫌な予感が膨れ上がっている。
「まいったな。真琴さん、そろそろあゆさん帰ってくる時間ですよ。晩御飯作らないでいいんですか?」
 小太郎は無理やり軽口を叩き、身を捩って玄関のドアにもたれかかると真琴の携帯番号を呼び出した。
「意地悪しないで出てくださいよ」
 顔が青ざめているのが自分でも判る。不安に胸が押し潰されそうとは良く言ったものだ。プレス機で挟まれてるような息苦しさに、小太郎は胸元を握り締めた。
 出ろ、出ろ、出ろ、出ろ。祈るように繰り返す。二十六度目のコール。小太郎が罵声と共に通話を切ろうとした瞬間だった。ブツ、と電子音が鳴った。
 繋がった!?
「真琴さん!?」
 叫ぶように呼びかける。しばらくの沈黙の後、低く呟くような声が電話の向こうから聞こえてきた。
『……誰?』
「誰って……僕ですよ、小太郎です。どうしたんですか、さっきから全然電話に出なくて。家にも帰って無いし。今どこです?」
 捲くし立てながら、小太郎はふと違和感を感じた。
 あれ? 真琴さんって、こんな声だったっけ?
 受信状態が悪いのか、妙な雑音が混じっていてひどく声が聞き取りにくい。だが、それを加味しても、今の一言、真琴の声とは違っていたような……。
「あの……真琴さん、ですよね」
 恐る恐る問い掛ける。長い長い沈黙が続いた。
『違うわ』
 聞こえた声は、やはり真琴のものではなかった。安堵で緩んだ緊張が混乱となってかえってくる。なんだ、どうして真琴さんの携帯に他の人間が出るんだ?
『そう。これは、真琴の携帯なのね。どこかで見覚えがあると思ったら』
 雑音に紛れてよく声が聞き取れない。単に受信状態が悪いだけではなく、電話の主の声の調子がひどく覚束ないのも原因のようだった。どこか夢心地でいるかのように声音がふわふわと浮いている。小太郎はこの声に覚えがあった。多分、知っている人だ。発言の内容もそれを裏付けている。でも、誰だ?
『真琴……水瀬真琴の姿は、見当たらない。公園で、この壊れた携帯を見つけたの。血が……』
「ち? だ、誰なんですか、あなたは!? 真琴さんはどうしたんですか!」
 知っている。知っている人だ。よく知ってる。なのに、どうしても喉に引っ掛かって名前が出てこない。どうしてだ? 喋り方が違う? そう、こんな魂が抜けたような喋り方をするようなヒトじゃな……。
『血がたくさん。それに、この感じ……知ってるわ、私は知ってる。この、感覚。私は覚えてる』
 抑揚のない声音が、突然ボリュームを跳ね上げた。
 泡が爆ぜるようにして、小太郎の脳裏にその女性の姿が浮かび上がる。
「も、物部先輩!?」
 応えは返って来ない。もう、此方の声は聞こえていないようだ。
 聞こえてきた声は、その場にいない誰かに語りかけようとする幽世のざわめきのようだった。
『そう、貴方がやったのね、春日』
 バチン、と耳を劈くような音が響き、通話が断ち切られる。凄まじい音に思わず携帯を耳から引き剥がして放心した小太郎だったが、すぐに我に返って慌てて同じ番号に掛けなおす。だが二度と真琴の携帯に繋がる事はなかった。
 混乱に拍車が掛かる。わけがわからない。
「公園……公園って言ってたよな」
 矢も盾も溜まらず走り出す。雲の上にいるかのようなもどかしさを感じながら、天野小太郎は公園への道のりを全力で走り出した。














§   §   §   §   §














「今のは……なに?」
 液晶画面に穴を穿たれながらも健気に稼動を続けていた真琴の携帯電話だったが、今、物部澄の手の中でプラスチック部位を溶解させ、断末魔の煙を吹いて息絶えていた。
 いや、それだけではない。今の瞬間、目に見える範囲の全ての街灯が次々と破裂し、壊れてしまったようだった。澄が立つ公園の広場は完全な闇に覆われてしまっている。
 何事が起こったのだろうか。一瞬、稲光でも光ったみたいに視界が明滅したかと思えばこの有様だ。
 闇の中に残された濃い血臭と肌から染み込むような妖気の残滓に酩酊を覚え、澄は壊れた携帯を投げ捨てると頭を抱えた。
「……春日」
 澄がこんな時間に公園を訪れていたのは、小太郎と同じ理由だ。待っても待っても帰ってこない春日のことをついに我慢しきれず探し回っていたのだ。真っ先に公園を訪れたのは、春日が落ち込むと人気の無いところでぼんやり過ごす癖があることを知っていたからだったが、決して確信があったわけじゃない。人気のない所なんて他にもあるし、なにより帰ってこない春日が落ち込んでいるのかどうかすら本当は自信が無かった。自分と仲違いしつつある現状を、春日がどう思っているのか澄にはわからなかった。春日の考えている事なんて何でもわかるつもりだったが、いざこういうことになると、分かった気持ちになってもそれが単に自分の願望に過ぎないんじゃないかという不安を拭えずにいる。
 公園を訪れたのは、此処にいると確信していたわけではなく、此処にいて欲しいという願いからだった。
 今までなら、どれだけ春日の帰りが遅かろうと澄は腰を上げなかっただろう。物部澄という女は意固地なほど意地っ張りだった。澄にとり、ここで自分から探しに出る事は春日の言い分を認めてしまうようなものだ。決してそのような事はないのだが、こればかりは澄の考え方の問題だ。鏡を自認していた頃の反動から他人に影響されまいとしている分、澄は自分の考えに重きを置く。時に頑ななほど自身の考え方に拘る要因だ。
 そんな澄が、自分から春日を探しに行こうと思い立ったのは、やはり美汐の提言が効いていたのだろう。美汐の存在がそれだけ澄の中で大きくなっていたということか。それとも、自分の意志にしがみつけないほど弱気になっていたという事かも知れない。
 どちらにしろ自覚はあった。このまま頑なな態度を取りつづけていては、いずれ本当に春日との関係が壊れかねないと。
 これまで何も聞かずに跳ね除けていたけれど、一度くらいはしっかりと春日の話も聞いてやろう。そう、どうせ派手な喧嘩をしてしまったから気まずくて帰る勇気が出せなくて、どこかでブラブラ時間を潰しているだけなのだ。別に負けたわけじゃない、妥協するわけでもない。ただ逃げ回ってる弱虫を捕まえて引き摺って帰る、柔らかい言い方をすれば帰るに帰れず困ってるバカを迎えに行ってやるだけだ。
 そんな言い訳めいた事をグダグダと考えながら、澄は美汐の作ってくれたクリームシチューに蓋をして、夜の街へと繰り出したのだ。
 そして、見つけてしまった。
 穴の穿たれた携帯電話と、見覚えのある春日の携帯。細切れに引き裂かれたズボンと靴の断片。そして、地面にぶちまけられた、いまだ乾ききっていない大量の血痕。

 頭痛が、する。
 頭が痛い。
 噛み千切ってしまった唇から、トロトロと血が滴り落ちていく。
 澄は頭を抱えたまま地面に膝を付いた。
 頭が痛くて立っていられない。急速に意識が摩滅していく。何かが自分の中で溶けていく。
 公園に足を踏み入れてからの記憶がぶつ切りだ。今、誰かと話していたんじゃないか。思い出せない。
 クリームシチューはもう、冷えてしまっただろうか。
 ジクジク、ジクジク。頭の中が膿んでいく。

 何かが、カカ、と憫笑した。

「世に見えてまた百と二十七年ぶり。久方である、クニムケシノツルギよ」
 草木が、大地が、大気が、歓喜に打ち震えてざわめく。
 誰だ?
 声は衝撃。頭痛どころか物部澄というモノ自体が初期化されたかのような、圧倒的な存在感。
 誰だ?
 霞みのように吹き散らされた存在が、元に戻っていく。再び頭の中で動き出した頭痛に、澄は我に返った。ぶり返した頭痛に片目しか開けられず、頭を押えたまま薄目で声のした方を探る。闇の帳の中に、月光が一筋、降り立っていた。その幻燈の輪の中に、少女が一人佇んでいる。
 白い帽子の広いつばに、面差しは隠れて見えない。ただ、コロコロと嗤う口許が見えている。
「誰、っよ。あんた」
「敵よ敵よフツミタマ。汝の目覚めに呼応して、我は汝を破壊するよう約定により定められし代行者じゃ!! …………じゃ?」
 妖しげにかつ威風堂々と名乗った少女の此の世の全てを従えているような神々しくも禍々しい雰囲気が――いきなり胡散霧消した。
 まるで出番を間違えた舞台役者のようにポカンと口を開けて固まっている。
「あれ? え? おや?」
 ひどく可愛らしい戸惑った声が続く。
 少女は埒があかんとばかりにドタドタと走り寄ってくると、白い帽子を毟り取り下から澄を覗き込んだ。切れ長の気の強そうな目がジロジロと頭痛に歪む澄の顔を嘗め回す。
「な、なんじゃそなた。自我がのこっとるのか?」
「自我……なんのこと?」
「め、面妖な! そなた、えらく中途半端に顕現しておるではないか。ぬう、これ、どうしたらいいのじゃ? 人為を介さずおのずから目覚める神剣なぞ聞いたこともないぞ。約定に照らし合わせて如何とすべきか、うぬぬぬぬ」
「だ、から、誰なのよ、あんた」
 素っ頓狂な声をあげたと思えば此方をほったらかして唸りだした少女に澄は顔を顰めた。頭痛が治まらないどころかどんどん酷くなっていく。
「ああ、そんなことはどうでもよい」
 ぞんざいに一言で斬って捨て、少女はグルグルと子犬のように澄の周りを回り始めた。いい加減脳みそを掻き回されるような苦痛に我慢の限界に達しようとしていた澄は、ちょこまかと小うるさくまとわり付くこの子供を蹴飛ばしてやろうかとすら思っているのだが、そんな険悪な雰囲気を一顧だにせず少女はブツブツと呟いている。
「なんじゃなんじゃ、一体、如何にしてこのような様になったのじゃ? この子狐の血が因なるか? いやいや、それだけではこうはなるまい。人が多大な贄と労を擁して漸う起句せしむる神格じゃ、この程度で目覚めるのなら苦労はない。ふん、ふふふ、そうか、匂うぞ。神剣、汝から蜘蛛の匂いがプンプンするぞ。あの厚化粧の化け蜘蛛カガリの匂いが漂ってくるわ。ふっ、ふはははははは、そうか、そうか!!」
 少女を蹴り飛ばして黙らせようとしていた澄は、突然の哄笑にギョッと脚を引っ込めた。さらに、ヌッと少女の細面が眼前に現れ澄はたたらを踏んで仰け反った。
 身体がすくみ上がる。
 掻き消えていたはずの意識ごと魂まで舐めとられてしまいそうな妖しい気配がいつの間にか再び少女の周囲に凝っていた。見れば、少女は何もない中空に浮いている。
 改めて少女が人外の存在と認識した澄が顔色を変えるのを見て、少女は哄笑を収めるとニタリと口端を耳まで吊り上げる。間近にあるはずなのに、面差しの輪郭が曖昧模糊として認識できない。三日月の憫笑だけが闇の中に浮かんでいる
「そなた、神剣の宿主でありながら――妖殺しの座にありながら滅ぼす相手たる妖筋とまぐわったのか。なんたる皮肉か。面白い、いや面白い。さてはそなた、もう随分と前から神格を表に出だしておったな」
 鬱蒼と茂る木の枝に絡まるように、言葉が纏わりついてくる。耐えられない不快感によろめいて膝を着き、澄は吐き捨てた。
「言ってる、意味がわからないわ」
「解からぬか。解からぬならそれも必定。神の言葉は意味不明なものと決まっておると心掛けるが良い。神様はいつだとて思わせぶりな言い方しかしないのじゃ」
 ケタケタとつばから覗く桜の花弁のような唇が笑っている。笑い声が頭の中で反響する。頭蓋が割れそうな激痛に、澄はその場に蹲り、呻き声をあげた。
「苦しそうじゃな、物ノ部の娘よ」
「うる、さい。頭に、響いて割れそうなの。喋らないで」
「現代風に言うなれば、遺伝式が汝の存在情報の書き換えを始めておるのじゃ。どうやらカガリの血族との和合に刺激を受けて、以前から微細に書き換えが始まっておったようじゃな。おかげで耐性が出来ておる、本来なら顕現が開始された時点で神剣の媒体者となるそなたの人格はじゃんくでーたとして抹消されているはずなのじゃぞ。
 交配が進んで血統から純血が喪われたために式が劣化しているのも影響しているようじゃな。ふむ、そう言えば前回の神剣も当初は自我らしきものが残っていたと、と刑部姫が言っておったな、思い出した。なるほど、もはや神剣も時の彼方に錆びゆくか」
 訳のわからないことをさっきからベラベラと賢しらに語っている少女に嫌気が募る。こっちは頭が抉られてるみたいに痛いって言ってるのに。いい加減、抑制が効かなくなる。澄は爪に土が入るのも構わず、地面を指で引き掻きながら、殺意すら交えて怒鳴り散らした。
「なに、言ってるか解からないって、言ってるでしょ。黙りなさい、ちびジャリが!」
「ち、ちび!?」
 闇の向こうから、絶句する気配が伝わってくる。
「……ちび、妾がチビ?」
 なにか、相当ショックを受けたらしい。
 澄は奥歯を噛み締めて針を刺すような痛みに耐えながら立ち上がると、ヨロヨロと歩き始めた。
「待て。どこに行くつもりじゃ?」
「春日の……ところに行かないと」
「ふん、春日とは蜘蛛のことか。行ってどうするつもりじゃ?」
「そんなの決まってるでしょう!」
 キッと月の光の差すほうを睨みつける。幻覚だか神様だか知らないが、さっきからゴチャゴチャとうるさいチビスケに向かって怒鳴りつけようとして。
 澄は言葉を詰まらせた。
 凝然と、喉を、掴む。
 今、私は…………殺さないと、と叫ぼうとしなかったか?
「違う」
 春日を、殺さないと。そう、思わなかったか?
 違う、と澄は弱々しくこの疼くような思いを否定した。
「違うわ。話を……話をしないといけないのよ。二人で、話し合うの。私の、気持ちを正直に伝えるのよ。そうすれば、春日もきっと、思ってる事をちゃんと話してくれる。ううん、聞こうとしてなかったのは私だから、私が耳を傾けるならきっと春日は本当の気持ちを教えてくれる……」
「この蜘蛛の妖気。先祖がえりを起こして正気を失ったもの特有の穢れを感じる。話が通じる状態とは思えんがの」
「話を、しないと」
 うわ言のように繰り返しながら、澄はどこか自分の言葉を信じきれずにいた。内から湧き出すこの切ないまでの思いには覚えがある。胸を締め付けられるような衝動。相手を貪り尽くしたいという飢餓感。否定しても無駄だ、と痛みが嗤う。お前は、もっと前から、春日を殺してしまいたいと、欲情していたじゃないか。
 求めれば求めるほど突きつけられる物足りなさ。傍にいればいるほど感じる孤独感。愛すれば愛するほど、壊してしまいたいと、思っていたんだろう物部澄。
「哀れよの」
 薄ら笑うばかりの空恐ろしいほど整った幼女の面差しに、初めて憐憫が浮かんだ。
「好き、なのよ。離れたくない、離れたくない」
 足を引き摺るように歩き出すものの、すぐに脚を縺れさせ、澄は地面に膝を付いた。
「私を独りにするなんて、許さない。絶対に、許さない」
 脂汗が、滝のように流れ落ちていく。錐を穿つような痛みは増すばかり。青い火花が澄の周囲で弾けて出す。彼女を中心として、放電が発生していた。バチッと電気が地面を打つたびに、小石が飛び散る。
 根本的な所から、何かが壊れ始めていた。

「力の制御の仕方がわからんのか」
 このままでは覚醒を待たず自滅するな。壊れた発電機のように放電を垂れ流している澄を、安倍珠呼は醒めた眼で見下ろしていた。劣化しているとは言え、仮にも神格兵装だ。如何に筐体の存在そのものを書き換えても、元の自意識(メモリー)を残したまま内包し切れる術式容量ではない。
 手間が省けたか、と安倍珠呼は鼻を鳴らした。役目柄、顕現した神剣を無視するわけにはいかないが、約定により己が判断で人間を害する事は禁じられている以上、顕現前の神剣媒体者を予防措置として殺めるわけにもいかないのだ。勝手に自滅してくれるのなら重畳ではないか。
「……はあ」
 そう思いつつも、嘆息が湧き出てくる。
 神剣は崩壊に必死に抗いながら、連れ合いの名を唱えていた。驚くべきことに、あの状態で立ち上がろうとしている。
 運命とは残酷だ。選りにも選って、妖の血族とと妖殺しを添わせるとは。おそらく春日とやらの妖の血が活性化したのも神剣が傍に居たからだろう。互いに、傍にいなければ、己が本性に目覚める事もなく、身を滅ぼすはめにも遭わなかっただろうに。
 人と妖が共に在ることは難しい。今の世に至るまでに、珠呼は数え切れない人と妖の悲惨な末路を目の当たりにしてきた。現代は、わりとマシな時代になってきたが、それでも人同士のつながりに比べれば乗り越えなければならないものは山ほどある。人と妖が幸せを掴むのはそれほどに困難だ。
 況してや、人としての意味を失った先祖帰りと、人以外のものを破壊するためだけの倶物と化す妖殺しなら、何を(いわん)や、だ。
 なのだ、が。いや、うん、そうだな。
「……ふむ」
 さり気なく視線を左右に走らせた珠呼は、ついに一歩も動けなくなり蹲ってしまった少女を視界の端に収めると、帽子のつばを引き下ろし、ウズウズしてたまらなさそうな表情を覆い隠した。
「神剣よ、汝に一度機会をやろう。このまま汝が潰えてしまうと、折角面白くなりそうな場が治まってしまいそうなのでな。悪く思うな、なんせ」
 紫電を撒き散らしている澄に手を伸ばしながら、幼女は天真爛漫に微笑んだ。
「本来妾は世の平穏を引っ掻き回して喜ぶ、根っからの禍津神(カラミティ・コーディネイター)なものでのう」














§   §   §   §   §














 滴の浮いたコップの中で、カラコロと氷が鳴っている。冷房などという文明の利器を設置していない座敷だが、カラカラと回る古い扇風機と、冷たそうな麦茶で充分なほど涼は得られていた。窓を開けた縁側から吹き込んでくる風に、先日軒先に結んだ風鈴が静かに音色を奏でている。
 食器の片づけを終えた美汐は、エプロンをたたんでキッチンの椅子に掛けると事前に切り分けておいた羊羹を冷蔵庫から取り出し、お盆に載せた。
 そっと襖を開けると、和巳がテレビに齧りついている。にへらと緩みきった顔になって、美汐が入ってきたのにも気付かぬほど見入っている。いったい何を観ているのかと思えば、トライアングルビキニを着た若いお姉さん方が黄色い声をあげながらパチスロのデスマッチを繰り広げていた。
 いや、まあなんだ。
「こほん」
 美汐の咳払いに、ピンと和巳の背筋が伸びた。入り口のところでお盆を持ったまま所在無く立ち尽くしている美汐にようやく気付いた御門和巳は、慌ててリモコンを手繰り寄せ、チャンネルを教育テレビにネジ変えた。
「ふぅむ、このフランス語講座の先生、発音めちゃめちゃやなあ」
 長けた魔術師の例に違わず御門和巳も数ヶ国語を自在にこなすが、今回はとってつけすぎだ。美汐はなるべく淡々とした口調を意識して告げた。
「観たい番組でしたのなら、私のことはお気になさらず」
「ちゃうねん」
 焦りを打ち消すようにパチパチとチャンネルを変えながら、和巳は訴えた。
「ほら、オレしばらくチベットとか行ってたやろ。水着のお姉さんとか見るの久々やからついつい……ハッ!?」
「…………」
「ち、ちゃうねーん」
 泣き出す寸前の子供みたいな眼で縋られ、美汐は嘆息した。羊羹を並べて、彼の左向かいに座る。
 私はテレビの番組にまで干渉するほど嫉妬深くなどないのに。
 気を、使わせているんだろうな、とこんな一事からも察してしまう。昔の和巳なら、むしろ美汐に見せつけるように今みたいな番組にチャンネルを合わせて、美汐が恥ずかしがったり文句を言ったりするのを待ち構えていたものだった……いや、それはそれでたいへん嫌だが。
 今の二人は、どこか手探りで相手を傷つけないようにコミュニケーションの手段を探っている。
 ここ数日、自分の事ばかりで必死だった美汐だが、今は少しだけ心に余裕みたいなものが出来ていた。自分を顧みることが出来る程度には。きっと自縄自縛に陥っていた意識が、澄との出来事――自分の外側の事に一生懸命になる事で緩んだのだろう。とことん、他人に構うのが性に合ってるのですかね、私は。と、美汐は内心苦笑いした。
 自分の余裕のなさが、和巳や小太郎たちに要らない気を使わせている。今の美汐にはそれを理解するだけの落ち着きが戻っていたが、だからと言ってどうすればいいのかまでは思いつかない。自分の仕出かしてしまった事への負い目や己への不信はそう簡単には消えてくれるものではないのだから。
 ただ、慣れない媚を売るのだけは止めようと、澄のもとからの帰り道に決めていた。必死に和巳の興を得ようと身の丈に添わない真似に拘って。焦っていたとはいえあれはみっともなかった。そんな事をしなくても、この人が自分の前から勝手にいなくなるなんて事はないはずなのだ。媚を売ってひきとめようだなんて自分を信じられない以上に、彼を信用していないのと同じなのだとどうして気付かなかったのだろう。
 焦らなくてもいい、と自分に言い聞かせる。焦らなくても、自然であろうとしていればいつかは戻るはずなのだ。気遣いのいらない、信頼が通った自然な関係が。時間は幾らでもある。今の自分には泣けてくるほどたくさんあるんだから。
 それに、と美汐の脳裏に帰り際の物部澄の絶句したような顔が思い浮かぶ。
 あんな頼りにしろなんて偉そうな事を言ってしまったのだ。彼女が安心して頼れるぐらいの、しっかりした自分を取り戻さないと、大言壮語して憚らない恥知らずになってしまう。
「なんやみーちゃん、今日はええことあったんか?」
「え?」
 知らず、微笑んでいたらしい。無防備な表情を見られて美汐は頬を赤らめた。
「そ、そういうわけでもないんですが」
 どもる美汐に、何が嬉しいのか和巳はニコニコと破顔していた。
「笑うことはええことやよ。まあ、自分は怒ってるみーちゃんも可愛いて捨て難いけどなあ」
「も、もう、怒ってる顔が可愛いわけないでしょう。からかわないでください」
「へへへへ」
 だらしなく笑みを崩し、ペロリと蛇みたいに羊羹をたいらげる和巳。
「むっ、これ美味しいな」
「高いですから」
「もう一切れおくれ」
「…………」
 高いのに。
 父が旅先から買ってきてくれたものなので幾ら食べてもらっても構わないのに、高いんだからもう少し大事に食べて欲しいなあと思って渋い顔になってしまうのは、美汐の所帯じみたところであった。
「仕方ありませんね」
 台所に舞い戻った美汐は、もう一度羊羹を切り分け座敷へと取って返す。先程よりも大きめに切り分けてる辺り、自分の甘さを痛感しつつ。
 きっと、ここらへんの甘さは現在美汐が陥っている自信喪失症とは関係ない。だって、例えばこれが小太郎相手なら絶対大きくなんて切り分けないし。
 試合も終盤に入った野球中継を見ながら「うわ、知らん選手ばっかりやな」と呟いている和巳の隣に膝を付き、美汐はお皿を彼の前に置いた。
「ああ、ありがとう。って、うわ、デカ」
「サービスです」
「ちょいこれはデカすぎやって。みーちゃん」
「あっ」
 名前を呼んで、美汐は手を引かれた。膝を崩して和巳に寄りかかるように腰を下ろしてしまった美汐に、和巳は小さく切り分けた羊羹を差し出した。
「はい、あーん」
「――ッ!!」
 耳の先まで赤くなる。
「ほら、オレ一人に喰わさんといてや」
「食べます、食べますから」
 絶対子ども扱いだ。恥ずかしいやら情けないやらで泣きそうになりながら、美汐は羊羹の切れ端を和巳の手ずから食べさせられた。
 甘い。
 口に広がる甘さは、不思議と感情の高ぶりを鎮めてくれる。何気なく、彼のすぐ横に腰掛けてしまっている状態に胸をドキドキさせながら、羊羹に齧りついて野球中継に没頭している和巳のことを美汐は横目で窺った。
 二人の間を、扇風機の風がすり抜けていく。その涼しさが、寂しくて。
 少しだけ……勇気を。

「……あ」

 美汐は膝をずらし、肩を重ねるようにして寄り添って二人の隙間をゼロにした。
 カラコロと、氷が寝返りを打つ。どこか遠いテレビの音。小さな頭が遠慮がちに肩に乗せられ、大きな背がビクリと伸びた。風鈴がそっけなく鼻歌を歌ってる。扇風機がカラカラと忍び笑いを漏らしてる。膝の上で二人の手が重なり、吸い込まれるように二人の視線がまじわって――――








 ジリリリリリリ、と電話が鳴った。

「っ…………」
「……はあ」
 なんとも言えない吐息が二つ分、シンクロしながら座敷に零れた。名残惜しげに、重なった手が元の位置へと戻っていく。
「ちょっと、出てきますね」
「あ、ああ」
 気まずいようなくすぐったいような雰囲気。苦笑を交し合おうとして何となく失敗してしまい、二人して目を逸らしてしまう。
 美汐は踏ん切りをつけるようにキッパリと立ち上がると、浮かれたような残念がっているような曖昧な顔を頬を擦って直しながら、廊下にある電話を取りに出た。
「はい、天野――――」
 受話器を耳に当てた途端、キーンと八つ裂きに引き裂かれたような高音が飛び込んできた。
 思わず受話器を耳元から引き剥がす。頭の中の残響が消えるのを待って、美汐は恐る恐る受話器を耳に当てなおした。
「ど……どちらさまですか?」
『美汐姉さん!!』
 幾分声量を落としたお陰か、声が割れながらも今度は何とかちゃんと聞こえた。
「小太郎……ですか? どうしたんです、そんな大声で」
『真琴さんが、真琴さんが!!』














§   §   §   §   §













「痛、いつっ……つつ」
 頭の中でガンガンと鐘が鳴っている。二日酔いめいた意識の酩酊。今になって、昨日から浴びるように呑んだ酒が暴れ出したみたいだった。
「つ……あ、わた、しは」
 視界がぶれ、吐き気がする。が、鈍痛が意識を明瞭にしてくれた。ふらつく思考を叱咤しながら、澄は眼をあけた。ボウと漆黒の夜空に白く滲んでいる大きな月が目に飛び込んできてギョッとする。外よね、ここは。自分がベンチで寝ていたのを確かめてからようやく自分が公園に来ていたことを思い出す。背凭れに腕を掛け、上半身を起こす。間違いない、さっきと同じ公園の噴水広場だ。でも、どうして私はこんなところで――。
「……痛っ」
 心音と重なり、痛烈な痛みが頭の中に響いた。
「そうか、頭が痛くて、私は動けなくなって」
 誰か、ほかにいたような気がするのだが記憶に霧が掛かったみたいに思い出せない。頭痛は治まったわけではないが、だいぶ和らいでいた。先ほどまでの頭の中をスプーンでかき回されてるがごとき酷さと比べると雲泥の差だ。
「そうだ。春日を、探さないと」
 寝ている場合なんかじゃない。まだ覚束ない脚を叱咤して、ベンチに寄りかかりながらも立ち上がる。不思議と、頭の中が冴え渡っていた。ゴチャゴチャしていたのが、すっきりと整理されたような感覚。同じ部屋なのに、荷物を片付けると意外と広い事に気付くあの感覚に似ていた。今、自分の意識は広がっている。ただ、元の私は、どこにいるのだろう。
「あ、物部先輩。起きたんですね!」
 甲高い少年の声に、澄はようやくこの場に自分以外の誰かがいることに気付いた。
「天野小太郎」
「ええっ、はいそうです、美汐姉さん。物部先輩もここに一緒に――――」
 彼は、携帯電話に向かって捲くし立てていた。聞こえてくる会話からすると、相手は天野…………。
 瞬間、意識が弾けた。
 この公園に立った時の、この惨状を目の当たりにした時のイメージが焼きごてで押されたように、視界に浮き出した。
「いけ……ない」
 天野美汐に知られてはならない。強迫的にそう思った。この濁り穢れた春日の妖気を。飛び散った、真琴の匂いのする血痕を。
「私は、春日に逢わないといけないのよ」
 知られれば、天野はきっと邪魔をする。私から、春日を遠ざけようとする。
 確信のようにそんな考えが浮かんで、焦燥という名の感情を煽り立てていく。澄は呼吸を荒げて胸元を鷲掴みにした。
 だが、どうして? あの娘は、私に、春日と仲直りしろと、言ったじゃないか。それがどうして、私と春日の邪魔をするの?
「決まってる、でしょ?」
 焼け焦げた真琴の携帯。
 飛び散った大量の血痕。
 もがいたように抉り取られた地面。
「春日が――」
 これは春日がやったのだ。何故か理屈なしに理解できる。靄に包まれた記憶のどこかで、誰かがそうだと叫んでる。
 美汐がこの惨状を目の当たりにしたなら。春日が何を仕出かしたかを知ったなら。天野美汐はもう、此花春日を許さない。
 いや、そうなのか?
 そこで初めて疑念が浮かんだ。違う気がする。それでは美汐が自分と春日が逢うのを邪魔する理由にならない。
 天野なら、どうする?
 真琴を傷つけた春日を憎むか、怒るか。
「真琴さんがッ!」
 甲高い小太郎の叫び声が思考を遮る。ダメだ、考えてる場合じゃない。とにかく止めなければ。ぶり返している頭痛に、逃げ出すように思考を放棄して澄は携帯に向かって捲くし立てている小太郎を指差した。
 そうすれば、通話を止められる。何故だかそう思った。
 一瞬、視界が白く染まる。

「――なッ!?」
「…………私」
 気付いたときにはもう、小太郎の手の中から彼の携帯は吹き飛んでいた。破損した携帯は小太郎の足元で煙を吹き、小太郎は手を押えながら目を剥いてこちらを見ている。
 澄は無表情に自分の指先を凝視した。
「な、なにをしたんですか物部先輩……それは」
「わからない。でも、出来るのよ」
 指先から携帯目掛けて迸ったのは、青白い電流だった。手を広げ、座っていたベンチに向けてみる。途端、無数の青白い糸が手のひらから迸り、木製のベンチは粉々に吹き飛び、炎をあげた。
「思う通りに、出せるのね」
 明滅する記憶の中では、膨れ上がる力に波間の木の葉のように蹂躙されるばかりで、何も出来なかったような気がするのだが。
 澄は瞑目するように一度目を閉じると、スラリと鞘から剣を抜くように愕然としている小太郎を見据えた。反射的に、小太郎は腰を引いて構えを取る。
「小太郎、天野に連絡を取るのはやめなさい」
 やはり、あの優しい娘は障害になる。そんな気がする。
「どうして……ですか」
 警戒も露わに問いかけてくる小太郎に、澄はとりつく島もなく言い放った。
「天野に連絡しないなら、付いてくることを許すわ」
「は……何を言ってるか、わかんないですよ、物部先輩。訳がわからない。ついてくるのを許すって、何処に行こうっていうんです。お願いですからちょっと待っててくださいよ、すぐに美汐姉さんに」
「そんな悠長な事をしていていいの?」
 機嫌の悪い猛獣のような低いうなり声に、小太郎は頬を叩かれたみたく言葉を詰まらせた。
「のんびりしてたら、真琴がどうなっても知らないわよ」
「な、なにを!?」
「だいたい、想像はついてるんでしょう? ここで何があったか」
 誰かが言っていた。先祖帰り特有の穢れた妖気、と。恐らく解かる者には一目瞭然の事なのだろう。小太郎の険しく悲壮な顔つきが、それを物語っている。
 澄は虚空を見上げ、呟くように言う。
「私、何故だか春日の居る所がわかる気がするのよ」
「……なん、ですって?」
「真琴を、探しているんでしょう?」
 力なく垂れ下がった澄の指先で、バチッと火花が飛び散った。ここで彼女の提案を断れば、その指先が此方に向けられるだろう意図がありありと伝わってくる。
 小太郎は、喉を鳴らした。
「案内、してくれるって言うんですか? でも、じゃあなんで美汐姉さんには連絡するなって――」
 迸った紫電が足元の小石を弾く。慄き飛び退いた小太郎の耳に氷のような声が突き刺さった。
「これは好意よ、小太郎。私だって真琴には恨みも何もないの。助けてあげられるなら助けてあげたいわ。だから、あなたを連れて行く。でも、天野はダメ」
「だから、どうして」
「あの娘はきっと、私の邪魔をする」
 澄の双眸に浮かぶ凄絶な意思の光に、小太郎はそれ以上説明を求める事を諦めた。
「……わかりました」
 今、何よりも優先すべきは、真琴を見つけることだった。物部澄がいったい何を考えているのかわからないが、とにかく春日を探す事、真琴を助ける意志がある事だけは間違いないようだ。春日は、真琴の行方の有力な手掛かりだ。ほかに探す当てがない以上、澄の言葉を信じてついていくのが唯一の……。
「――ッ!?」
 ズボンの尻ポケットから密かに抜き出そうとしたレシート用紙が、澄の指先から放たれた紫電に打たれて燃え上がった。
「三度は言わないわ。天野に連絡を取ることは許さない。足元の貴方の携帯も、置いていかないで持っていきなさい」
 愕然と、痺れている指先を見やる。見抜かれたのか、この人は術者でもなんでもないはずなのに。それとも、力を隠していたとでもいうのだろうか。小太郎は、怖れも露わに、澄を見やった。いや、問題はそういうことではない。術が使える使えないは関係なかった。たとえその妙な放電能力が無かったとしても、多分自分ではこの人を出し抜けない。

 美汐姉さん、ごめんなさい。僕は……。

 ゆっくりと両手を挙げ、小太郎は震える声で宣誓した。
「わかりました。あなたに従います、物部先輩」














§   §   §   §   §













 街灯の一切が破壊された公園は、光が賑わう夜の街並みから打ち捨てられたかのように、不気味な闇に包まれていた。噴水を照らし出すスポットライトも、その尽くが電球が割れてしまっていて機能を停止している。幻想的な雰囲気で密かな人気のあるこの場所も、光源が月明かりだけだと廃村めいた薄気味悪さしか感じられない。
 美汐は、砕け散った電球の破片を拾い上げながら、眦を鋭くした。
「いったい、なにが」
 黒く焦げたガラス片は、外部から力が加えられたというよりも、内側から吹き飛んだような形跡が窺える。
「兄さん」
「うん」
 残されていた血痕を調べていた和巳が、立ち上がり美汐を振り返った。闇にぼんやりと浮かび上がる蒼い光に射抜かれ、一瞬美汐は喉を鳴らした。
 御門和巳の左眼だ。八雲を屠るために左眼を犠牲にした彼は、帰ってきたときそこに蒼い魔眼を埋め込んでいた。魔眼、凶眼、霊視眼、浄眼、妖眼等等、『声音』と並ぶ術式の構成・出力システムである『視線』を生み出す魔導器官の呼び方はその特性により様々だが、その中に龍精眼――『龍眼』と呼ばれるものがある。
 魔眼の中の最上級階梯。その霊質の高さから魔力結晶化し、保持者が死亡してもなお効力を失わずに遺される、ある種の魔導器。ほぼ例外なく尋常でない力を秘めているため、マジックアイテムの中でも至高の座に位置づけられている魔の秘宝だ。
 それゆえか、エラル宝珠協会と呼ばれる東西を又に掛けた神秘調査ギルドから龍眼は重点探索対象と指定されており、シルクロードの往来が活発となった時代より世界各地の龍眼がエラルの手で調べ上げられ、その一つ一つに等級が割り振られているのは術者の業界では有名な話だ。
 現在、エラル宝珠協会にその存在を確認された龍眼は軽く四ケタを越えているが、その多くが機能を喪失するかモノ自体が喪われてしまい、その効果を維持したまま所在が明らかになっているものは数百程度だという。その現存する数百の龍眼も、殆どが四ケタ台の等級なのだが、それでも業界内では龍眼の使い手というだけで畏怖の対象となる。それだけ龍眼というものが強力であり、またその強力さに比例して扱い辛いものなのだ。
 尤も、畏怖の対象と言っても龍眼使いの多くは龍眼が狙われるのを恐れてその存在を秘匿し表にしないものである。御門和巳も例に漏れず龍眼使いである事を伏せている一人で、通常は左眼を霊視のみを能力とする浄眼だと装っていた。
 正気を逸していた時以外では和巳の持つ龍眼の発動を初めて目の当たりにする美汐であったが、これを単なる浄眼と偽るのは無理だろうと実感した。なるほど、特一級の秘宝指定をされるはずだ。とんでもない霊格である。これをただの浄眼だなんて、ライオンの子供をうちの家猫ですと言い張るようなものではないのか?
「みーちゃん、大丈夫か?」
「は、はい」
 いつの間にか、和巳に肩に手を置かれ覗き込まれるような形になっていた。美汐は呼吸を整え、大丈夫だと応えた。いけない、関係ない思考に没頭して逃避しようとしている。
 何もかも投げ捨てたい衝動に駆られながらも必死に冷静さを掻き集め、美汐は医者か判事に問うかのように、どうですかと呟いた。和巳は迷うかのように沈黙した後、最後まで落ち着いて聞くようにと念を押してから固い声で告げた。
「間違いない、あれはマコっちゃんの血や」
 膝から力が抜ける。だが、美汐は和巳の腕にしがみつき、何とかその場に崩れ落ちるのだけは堪えた。和巳が続きをまだ口にしていない。悲壮な美汐の眼差しを受けて、和巳は口を開いた。
「ただ、あの出血量は普通の人間でも命に別状ないぐらいや。仮にもまこっちゃんぐらいの霊格がある妖狐なら、致命的には程遠い」
「なら、真琴は」
「大丈夫や、死んでへん」
 和巳は力強く断言した。
 美汐は頷いた。力いっぱい意志を込めて頷いた。
 和巳が口にした内容が、気休めにもならない状況証拠だという事も、自信たっぷりに断言する唇が僅かに震えている様子も、美汐には充分わかっていた。
 だが、立っていられる。
 それだけ聞けば、死んでいないと和巳が言うのなら、天野美汐は諦めずに最後まで立っていられる。何があろうと、だ。
 もう二度と、諦めてたまるものか。
 私は絶対に投げ出さない。絶対にもう諦めない。

 裾を絞り上げるように少女の手には力が込められる。目尻に涙を浮かべながらも、彼女は歯を食いしばりじっと地面を睨みつけていた。負けるものかという意志が、二の腕の痛みから伝わってくる。
 こんな時だというのに、和巳は安堵を覚えていた。
 八雲よ、この娘の芯は折れとらんかったみたいやで。
 少女の肩を抱きしっかりと支えてやりながら、和巳は険しい眼差しで公園を見渡した。
「問題は此処でなにがあったかやな」
 和巳の龍眼は、この場に残された異様な気配の残滓を並みの霊視では捉えきれない精密さで解析していた。
「兄さん、この妖気は」
「ああ、恐らく先祖帰りして適合出来んかったヤツのもんや。特有の穢れが混じっとう。もう瘴気というても過言やないレベルやな。しかもこりゃ女郎蜘蛛や」
 美汐の口許が悔しそうに引き締められる。
『先祖帰り』というのは、俗に妖怪化とも呼ばれる遺伝情報励起現象、過去に異種混合を為した血筋に稀に起こるそれまで普通の人間だったのが突然妖怪となってしまう遺伝病の一種だ。問題は、それまで人間として醸成されてきた意識が、器の変容に適用できないケースが珍しくないということだ。SFなどで、人間の意識を機械へと転写したはいいが精神が機械に適応できず発狂してしまったという話がよくあるが、あれと似たようなと考えれば想像しやすい。妖怪化してしまった人間の少なくない数が正気を逸して暴走し、見境のない攻撃行動に移ってしまう。狂った先祖帰り――狂妖と呼ばれる状態だ。
 美汐は痛恨の思いを込めて、辺りを調べている時に生垣の中で見つけた此花春日のポシェットと携帯電話を握り締めた。思えば、前兆らしきものはあったのだ。周期的な鬱状態、無気力症。あれは、妖怪の血が励起を起こしている者特有の症状だ。自分がもっとちゃんと注意していれば、気付けていたはずなのに。
「あんまり気に病むな。先祖帰りの前兆なんて、オレかて気付かんわ」
「ですが」
「いや、こればっかりは不可抗力や。この先祖帰り、外部から無理やり引きずり出された感がある。幾つか術式が行使された痕跡見つけたんやわ」
 美汐はハッと和巳の顔を見上げた。
「まさか、真琴も」
「そいつらに連れてかれたいうんが一番それらしいな」
 応じながら、和巳は初めて春日と出逢った時、何処かの使い魔が彼に付き纏っていたのを思い出していた。
 横着せんと、ちゃんと調べておけばよかったわ。
 痛恨というなら美汐などより自分の方が余程しくじっている。春日とはまだ二日ばかりの短い付き合いだが、あの春ウララな性格の少女――じゃなかった、少年を和巳は気に入っていた。なにより、彼には見ず知らずにも関わらず塞いでいた自分を元気付けてもらった恩がある。
「二人とも、助けたらな、な」
「はい」
 頷いた美汐だったが、自分の体勢が和巳に抱きついているものなのに気付き、慌てて掴んでいた裾を離した。
 ちょっと残念そうに、美汐の肩に置いていた手をワキワキと開閉しながら、和巳はもう片方の手で春日の携帯電話を受け取った。
「どうするんですか?」
「まあ見とき」
 携帯電話を両手に包むと、和巳は小声で呪を吹き込んだ。手を開くと、携帯の代わりに白い鳥――鷺が手品のように現れ、和巳に肩にとまった。
「機械でやんのは初めてやけど、なんとかいけたか」
「鷺寄り。兄さん、そんなものまで使えるのですか?」
 探し人が普段から持ち歩いている者を式に変え、持ち主のもとまで案内させる術式だ。相手の呪詛や式神を逆に打ち返す術式の派生系とも言える技だが、霊力のラインを逆探して元を辿らせる呪詛返し系統の術式と違い、持ち物と持ち主の縁や大切にしているという想いの念という感知自体が困難な繋がりを辿らせるという構成なため、地味でありながら滅多に使いこなせる術者はいない高位術式でもある。
「金が無いときは、派手なのよりこういうのが使い出あんねんわ」
 妙に虚ろな笑いを浮かべた和巳は、嫌な思い出を振り払うようにブンブンと首を振ると携帯の変じた鷺を空へと解き放った。
「気の利いた術者ならジャミングくらいはしとるやろう。でも、大まかでも春日っちがおるやろう地域くらいはわかるはずや。ほんまはマコっちゃんの携帯を使えれば良かったんやが」
 器物として完全に破壊されてしまったものでは、この術は掛からないのだ。
 弧を描いて頭上を舞う鷺を見上げていた和巳だったが、ふと視線を美汐へと落として訊ねた。
「しかし、小太郎はどこ行ったんや?」
「わかりません。電話にも出てくれなくて」
 心配そうに美汐が呟く。居場所も告げずに突然切れてしまった電話。幸い、噴水の音が聞こえていたので、公園だと目星をつけられたのだが。あの後、何度も電話を掛けてみたもののまるで繋がる気配が無い。
「もしかして、小太郎も」
「なんとも言えんな。あんボケ、勝手に探しに行きおった可能性もあるやろ」
「かなりパニックになっていたようですし。わからなくはありませんが」
 美汐だって、和巳という存在が傍に居てくれなければ容易に取り乱してしまっていただろう。こんな場所でじっと独りで自分たちがくるのを待ってなど居られない気持ちは、痛いほど良くわかる。
「でも……小太郎からの電話が切れる間際、あの子、澄も一緒にいると、言っていたんです」
「春日っちの連れあいかいな」
「はい」
 小太郎と連絡が取れなくなった美汐は、すぐに物部澄にも電話を入れたのだが、此方もまるで応答がないのだ。携帯からは電波が圏外か電源が入っていないという文句が返ってくるばかり。
 あの澄が一緒にいて、こんな勝手な行動を取るだろうか。だが、今日の澄の情緒不安定な様子を思い出すと、普段の冷静沈着な彼女を当てはめて考えるのは危険な気がするのも確かだ。
「兄さん……私、なにか凄く嫌な感じがします」
「…………」
 和巳は何も言わず、胸元を握り締めている美汐の背中を勇気付けるようにポンポンと叩いた。
 だが、内心は和巳もまったく同感だった。何かが起こり始めている。彼女には告げていないが、彼の龍眼はもう二つ、おかしな気配を捉えていた。人間の魔術師とも、妖のものとも違う、今まで感じた事のない気配。強いていうならそれは、屋久島の杉のような数千年を経た古木や、神の座する深山を前にした時のような畏怖が一番近いだろう。
 血が、ざわめいている。いや、怯えているのか。
 和巳は、幽かに痺れを感じる手を握りこんだ。
「なんにせよ、オレらがせなあかんのは一刻も早くマコっちゃんたちを探すことや。オレは鷺式を追いかけるから、みーちゃんは秋子さんに連絡してくれ。それと、春日っちの家もどうなってるか見てくるんや。もしかしたら、手がかりかなんかあるかもしらん」
「あの、あゆさんたちには」
「事態がさっぱりわからん以上、伏せといた方がええやろう。なんとか誤魔化しといてくれ」
「わかりました」
「みーちゃん」
「はい?」
 踵を返しかけたところを呼び止められ、美汐は振り返った。
「……大丈夫やな?」
 その問い掛けに、しっかりと頷けた事を、美汐は誰とも無く感謝した。


 合流する時間と場所を決め和巳と一旦別れた美汐は、まず春日のマンションに向かうべく人気のない夜道をひた走っていた。
 独り。
 孤独。
 他に誰もいない。
 ほんの少し和巳と離れただけで不安が加速度的に膨らんでいく自分の弱さが厭わしい。
 私は、また喪おうとしているのだろうか。
 我知らず、涙が滲む。
 これは自らのエゴで、大切なものを壊そうとした私への罰なのだろうか。
 だとしても、真琴も春日も、関係ないではないか。罰なら、私に直接下せばいい。償うべきは、私なのに。
「負けるものか」
 叱咤する。
 大丈夫と、告げたじゃないか。
 頼みにしろと、胸を張ったじゃないか。
 腕をグイと目元に押し当て、浮かんだ涙を拭い去る。
「もう二度と――」
 諦めるものか。


























 誰も彼もが走り出す。
 行き先も知らぬまま、何をなすべきかもわからぬまま。
 悪夢の園へと走り出す。

 然して時計の針はクルクル回り、

 その日の朝が眼を覚ます。


 そう、その日こそ――

 万人にとって等しき混沌(ケイオス)
 未曾有の苦難(パッション)
 多重螺旋の大災厄(カラミティ)







 斯くして――――

 後の世に【狂宴前夜(カーニバル・イブ)】の名で呼ばれる事となる、長い長い一日の幕が開く。







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