「警察沙汰にならなくてよかったねえ」
「普段の行いが良かったのよ」
 悪びれずにそう言って、物部澄はオレンジジュースのパックに突き刺したストローを煙草みたいに咥えて中身を吸い上げた。
 二人のほかには誰も居ない校舎の屋上。事件以降、卒業までの二人の指定席になるその場所で彼女は足を投げ出すようにして地べたに座り、フェンスにもたれかかった。春日もジュースやパンの入ったビニール袋を脇に置いて彼女の隣にチョコンと腰掛ける。
 青い空の中を、白い雲がのんびりと泳いでく。二人は暫くぼんやりと空を眺めながらパンを齧っていた。
 件の事件――物部澄が複数の生徒を病院送りにしたあの事件は、結局学校側の『配慮』によって学内処分――二週間の停学――で済まされることとなった。実質の揉み消しである。幸い、見た目の派手さと比べて被害者の怪我が軽かった事。事件が表沙汰になると困るのは色々と後ろぐらい面もある被害者も一緒であった事。物部家が地域の有力者で、学校側としてもなるべく穏便な形で収めたかった事。なにより、あの瞬間まで物部澄個人が築き上げてきた信用がものを言っていた。
 尤も、その信用とやらはこの事件以降、澄が教師が喜ぶような言動を殆ど取らなくなるため瞬く間に消え失せるのだが、この時点ではまだ『あの』物部澄がこんな事件を起こした事を感情的に受け入れられず偶発的に起こってしまった何かの間違いとして警察沙汰にするのを躊躇ったというのが実情らしい。
 まあ生徒会長の役職は任期の終了を待たずしてめでたくクビになったが。
「ねえ、一つ聞いていい?」
 言葉も目線も返さず顎で「言いなさいよ」と先を促がす澄に、春日は素直に先を続けた。
「どうして、あんなことしたの?」
「八つ当たり」
 やられた当人達が目を剥きそうな言葉を、澄はどうでも良さげに吐き捨てた。
「や、八つ当たりって……」
 呆気に取られる春日。そんな彼をチラリと一瞥し、手元のジュースパックに目を落として彼女は云った。
「知らない事は罪ではない。でも、知らなければいけない必要がありながら知ろうともしない事は、きっととても醜悪で、罪深い事なのよ」
 淡々としているがその声音には身を切るような痛みが篭っている。それが春日の身辺の事だというのは、言われずとも解かった。
 一息で言い切った彼女はふうと溜息を付き、何時いかなるときも凛と張りのある声で語る澄に憧れを抱いていたものからすれば耳を塞ぎたくなるようなだらけた口振りで続けた。
「あんなに悔しいと思ったことはなかったし、あんなに情けない思いをしたのも初めてよ。何も知らないまま貴方にちょっかいかけてた自分が滑稽で無様で。死ぬほど恥ずかしかった。私ってなんて格好悪いんだろうって思った。もう、自分への怒りってやつね。気が狂うかと思ったわ。幸い、怒りのやり場があったからぶつけたんだけど」
「うわぁ」
 だから『八つ当たり』なのか。この人、想像以上に思考の筋道が凶悪だ。慄く春日に向かって澄はふと思い立ったように口ずさんだ。
「なるほど。素直に自分を出すというのは気持ちいいわね」
「出せといった手前こういうのはなんだけど、なるべく野放図には出さないでください、お願いします」
「自分を律することが出来ないのはただの野獣よ。心配しなくても獣に成り下がるつもりは無いわ。あんなのは……一度だけよ」
 彼女の云う自分への怒りは真実だろう。だが、その言葉を聞いたとき、澄は自分のために怒ってくれたのだと確信できた。
 ケダモノじみた怒り。我を忘れるほどの激怒。それほどの感情を澄は自分のために抱いてくれたのだ。
 少し、涙ぐむ。
 どうやら自分で思っていたよりも、此花春日は孤独に疲れて果てていたようだ。こんなにも嬉しいとは思わなかった。誰かが自分のために怒ってくれる事が、こんなにも。
「もう、これ以上物部さんに付きまとうのは止めにするよ」
 だから、もう充分だった。
「……何を言ってるの、貴方」
 後に彼女のトレードマークになる不機嫌な面持ちで、澄はギロリと春日を見やった。
「な、何って。物部さん、あたしに付きまとわれるの嫌がってたじゃない。なんか、今回の件じゃ物部さんに酷い迷惑掛けちゃったし。幾らあたしでも引き際くらいは心得てるっていうか、そこまで厚顔無恥じゃないっていうか」
 一番酷く自分を痛めつけていた連中は澄が文字通り叩き潰してくれた。こう言ってはなんだが見せしめみたいな形になっている。しばらくは他からの攻撃も大人しくなるだろう。だから卒業するまでぐらいなら独りでもやっていける。そう言おうと春日は口を開き、そのまま凍りついた。
「引き際を心得てる、ね。よくもまあ、笑えない冗談を真顔で言えるものね」
 一瞬にして周りの空気が氷河期になった。これまた後年の彼女のトレードマークともいうべき氷点下の冷たい声音を頭から浴びて、春日は顔を引き攣らせた。な、なんかあたし地雷踏んだ?
「今更、もう遅すぎ。手遅れ。どう考えても、取り返しが付くわけ無いでしょう?」
 ズシンと胸を貫かれる。彼女の言う通りだ。今回の事件で、物部澄は取り返しのつかないイメージを周囲に植え付けてしまった。もう、以前のような信頼や親しみを周囲から向けられる事は無いだろう。
「ごめん、あたしのせいで」
「そうね、貴方のせいだわ。貴方のせいに決まってるじゃない。それなのに逃げるの? 冗談じゃないわよ、責任を取ってもらうわないと困るのよ」
 声をヒステリックに上ずらせ眦をつりあげると、澄は俯く春日の制服のネクタイを掴んで乱暴に胸倉を引き寄せた。殴られる、そう思い反射的に春日は目を閉じた。
 でも、頬を張り飛ばす衝撃はいつまで経っても飛んでこず、
「――むぐっ!?」
 代わりに息の根を止められた。

「――ッ!?!?!?」
 口を塞いでいたのは澄の唇だった。閉じる事も忘れて見開いた目の間近で、フルフルと澄の睫毛が震えている。
 頭が真っ白になる。どれぐらいの時間そうしていたのか。とん、と胸を押され、フェンスに背をぶつけた拍子に目を開けるまで、春日は半ば気を失っていた。
 我に返ると、澄は俯きながらゴシゴシと服の裾で唇を拭っていた。横顔が真っ赤に見えるのは目の錯覚だろうか。春日は思わず両手で顔を挟んだ。自分の頬っぺたも赤く火照っているようだった。これじゃあ殴られたのとあんまり変わらないなと思う。いや、殴られたときよりも熱くなってるかも、頬っぺた。
「此花くん」
「ひゃい!!」
 名前を呼ばれて春日は無意味に背を伸ばした。ついでに舌も噛む。涙目で悶絶する春日を冷たく一瞥し、澄はマッサージシートに座ったような脱力しきった姿勢で、空を見上げながら口を開いた。
「覚えてるかしら。私が貴方を嫌うようになった原因」
「た、しか……『どんな自分になりたいの』って聞いたら、なんか地雷踏んじゃったみたいになっちゃって」
「そうね、まさにあれは地雷だったわ。貴方、意識してなかったんでしょうけど、私にとってはあれは私の中身が空っぽだって見透かされたみたいに思えたの。私自身気付いていなかった空虚さを論われたみたいだった。図星を突かれたのね。だから、是が非でも否定しなきゃと思ったの。貴方と来たら、それから余計嵩に掛かって挑発してきたでしょ? 私、本気で怖かったのよ?」
「怖い?」
「怖いわよ。それまで私も知らなかった私自身を暴こうと付きまとってくるんだから。怖くて仕方なかった」
 そんな風に思われてるとは考えもしなかった。癇に障ることをしてしまったらしいとは思っていたけれど。春日は複雑な表情になった。口端だけ小さく澄は笑んだ。
「でも、もしかしたら、私は貴方に暴いて欲しかったのかもしれないわね」
 えっ、と身を起こして彼女の顔を見る。横目に此方を見つめている彼女の双眸と視線が交わった。
「本当の私を、此花くんに探し当てて欲しかったのかもしれない。鏡じゃない私を、見ようとしてくれたのは此花くんが初めてだったから。私は貴方に付き纏われて、初めて自分自身に関心を抱いたのかも」
「そんなこと、は」
 澄は身を起こし、グッと春日の方へと乗り出してきた。思わず、仰け反る。伸びてきた白い手が、顎を撫でるように擽り、頬に添えられる。蛇に睨まれた蛙みたいに、春日は身動ぎも出来なくなった。
「気がついたら、此花くんが気になって気になって仕方なくなっていた。気がつくと、貴方のことばかり考えてた。いつの間にか、貴方が私のことをどんな風に考えてるのか、どんな風に見てるのか、どんな風に思ってるのか、そんな事ばかり思い巡らしてたわ。今もそう、貴方のことばかり考えてる。これって、好きとかいう感情だと思うんだけど、違うかしら」
「…………」
 返す言葉もない。
 彼女は耐え切れなくなったみたいに目を伏せて同じ言葉を繰り返した。
「今更手遅れなのよ」
 て、手遅れってそういう意味だったのね。
 愕然としている春日に、澄はさらに詰め寄った。顔の横でフェンスを掴み、逃げ場を塞ぐ。いまや覆い被さらんばかりだ。澄は真剣だった。口振りはどこか気だるげで、いい加減なものだったがその眼差しは真剣そのもので健気なほど必死で、春日は魂を呑まれる。
「私、貴方だけの物になってあげるわ、此花春日。ね? それが、貴方の望みなんでしょう?」
 心の底まで暴きだすように、彼女の醒めているようでどこか潤んだ眸が、鼻面が触れ合いそうな至近距離から春日の眸を覗き込む。そのとおりだ。此花春日は誰からも愛されていたこの少女に、今みたいに自分だけを見ていて欲しいとずっと思ってた。自分だけのものにしてしまいたかった。
 それはいわゆる『好き』という感情じゃないのか?
 角を曲がった拍子に壁に頭をぶつけたみたく、此花春日は自分の気持ちを理解した。
 なんだ、そんな単純な事だったのか。
 小難しく理由付けなんてしてたのが馬鹿みたいだ。好きだから、一緒にいて嬉しかった。好きだから、離れ難かった。好きだから、この人の色んな面が可愛くて仕方なかった。好きだから、この人のことがもっと知りたかった。
 好きだった、つまりそれだけのことだったのだ。
「その代わり、貴方も私だけのものになるの。どう? 公平な取引じゃないかしら」
 どこが公平なものか。澄の提案に、春日は内心泣き笑いの表情を浮かべた。どう考えても此方ばかりが一方的に得をする話じゃないか。元々何も持ってない自分は、きっと多くのものを手に出来るだろう。だが、彼女は此花春日という存在以外の多くを失い、春日と関わったが故に多くの災いに見舞われるに違いない。
 そう抗議すると、彼女は頭の悪いカバを見るような目で春日を睨み、
「そう思うんだったら、自分の利益分、私に還元できるように身を粉にして尽くせばいいだけの話でしょう?」
「に、にゃああ、それ、理屈にも何にもなってないっス!」
「云ったでしょ。私が空っぽだったって。なくして悔しいものなんて大して持ち合わせてないわよ」
「……物部さん」
「澄って呼んで」
 彼女の額が肩に押し付けられる。心臓が悪かったら多分この瞬間に死んでたに違いない。そう思うくらい、バクバクと心臓が高鳴っている。勢いあまって喉から飛び出してきそうだった。
「す、澄?」
「春日くん」
 ゾクゾクゥゥっと背筋に甘い痺れが駆け巡った。こりゃすごい。こりゃたまらん。名前を呼ばれただけで鼻血が出そうになったのは初めてだ。
「あ、あはは、なんか恋人みたいだねぇ」
「違うとか云ったら殺す」
 淡々と宣告され、紅潮していた頬が一気に青くなった。
 その時だ。固まってしまった春日の背中に澄の腕が回される。春日の視界が真っ赤に染まり、気が遠くなる。戦闘機に搭乗している操縦士などが急激な機動で身体中の血液を頭に昇らせ、意識を喪失する現象。レッドアウトだ。
「怖いのよ」
 途方に暮れたようなささやきが耳朶を打ち、春日は意識を引き戻された。彼の背中に回された手は、抱き締めるというより置いていかれないように縋りつく子供の腕のようだった。
「澄?」
「怖いのよ。怖いの。私、もう今までみたいに他人の鏡じゃいられない。でも、鏡じゃなくなって、それでどうするの? どうすればいいの? 春日くんは自分らしくって言ったけれど、私らしさって何なのよ。解からない。解からないから怖いの。どうしたらいいか判らないから怖い。このままだと、怖くて動けなくなりそう。春日くんの所為なんだからお願い、責任とってよ。一緒にいて。私を見つけて」
 切ないまでに胸が締め付けられた。今更のように、思い知らされる。
 自分は、この娘を壊してしまったのだ。
 この娘が正しいと信じて築いてきたものを、根底から叩き壊させてしまったのだ。
 だったら、やることは一つだろう。女みたいなツラをして、女の腐ったみたいな根性しか持たないヘタレだとしても、此花春日は男なのだ。
 好きになった女の子から、逃げ出すわけにはいかない。
 だから、春日は自分より背の高い女の子の背中に手を回し、彼女を抱き締めた。
「大丈夫だよ、澄。あたしが一緒だから。ね、一緒に探そう。あたしが、一番澄らしい澄を見つけてあげる。頼りにしてよね」
 忘我したように物部澄は目を見開き歳相応の、そうほんの14歳の女の子らしい仕草でコクンと頷いた。
 そうしてしがみつくみたいにして春日の女の子みたいな華奢な体を抱きしめて、傷ついた心のままに涙をこぼした。





 それは二人の掛け替えのない盟約だった。
 ただ好きあうもの同士ではない。
 お互いを全てをする、二人は比翼の鳥になったのだ。



















 はじめて彼女を抱きしめたあの幸福であまりに重たい感触に思いを馳せて、此花春日は泣きそうになった。
「あたしは、あの約束を破ろうとしているわけだ」
 澄が怒るのも無理はない。彼女はきっと裏切りだと思っただろう。一緒にいると誓ったのに、それを反故にしようとしているのだから。春日はベンチに蹲り、痛みを堪えるように小さく笑った。
「でもね、澄。あたしは、本当の澄を見つけてあげるとも約束したんだよ」
 一度離れてみよう。
 投げかけた言葉が別れ話の常套文句そのままだと思い至ったのは、逆上した澄から命からがら逃げ延びた後だった。そんな事にも気付かないとはよほど自分も思いつめていたようだ。その後、そういうつもりじゃないのだと何度も説明したけれど、話し合うたびに理性的とは程遠い喧嘩になってしまう。
 一を聞いて十を察してくれる澄が、理解する事自体を拒もうとしている。だがそれが逆に春日に自分の正しさを確信させていた。
 物部澄は、此花春日という存在に向かって閉じている。
 世界に大切なものはお互いだけ。その他はどうでもいい。それはとても心地よい満たされた関係だったけど、それは多分、此花春日が期待する物部澄の姿でしかないのだ。
 これでは、不特定多数が春日独りに移り変わっただけで、以前の鏡の澄と違いはない。それに気付かされたのが、美汐たちと付き合うようになってからの澄の変化だった。

 あの暴行事件以来、澄はそれまでの社交的な顔を一切閉ざすようになってしまった。原因は彼女自身というよりも、周囲の隔意と春日に対する攻撃的な敵意に寄るものだ。澄は自分と春日を守るため、それまで着込んでいた他者に好かれ気に入られる要素を惜しげもなく削ぎ落としていった。
 彼女が一番精神的に攻撃的になっていたのは、恐らく中学卒業前後の頃だ。
 お気に入りの娘の変貌の原因が春日だと知った澄の両親が、彼を娘から遠ざけるよう春日の親に圧力を掛けていた時期である。
 県会議員を務める春日の父親は有力な後援者の一人であった澄の両親に逆らえず、元々奇矯な性格で持て余し気味だった息子を至極あっさりと勘当して住居と生活費だけを与えて放り出してしまったのだ。

 ――尤も、最近気付いたのだが、父親のこの処置は彼なりの息子に対する温情だったのではないか。そう春日は思うようになっていた。澄の両親の要求に応えるなら、春日を遠い街の学校に飛ばしてしまえば一番簡単だったのだから。現状がほぼ澄との同棲になってしまっているのを考えると、もしかしたら妙な圧力を仕掛けてきた澄の両親への遠まわしな意趣返しという側面もあったのかもしれない。春日から見て、父親にはそういう粘着質なところがあった――。

 今の春日の一人暮らしという境遇は、極論すれば澄の責任とも云えなくもない。その件と――春日は良く知らないのだが――彼女に向かって両親が発した春日への罵倒の言葉が、澄から両親への親愛の情の一切を奪い去ってしまった。
 今や、澄と両親の関係は最悪としかいえないものになっている。
 ともかく、この頃は親すらも敵に回り、本当に自分たち意外信じられる者はいないという状況だった。そんな状態が幾分なりとも改善したのは、環境が変わった高校進学後である。
 いささか信じがたいのだが、澄の両親は裏から春日の入学に冠して妨害工作をしかける真似までやったらしい。親がだめなら次は学校と、執拗さもここまでくればたいしたものである。それだけ澄には期待をかけていたということかもしれないが。
 呆れたことに、この妨害は実は成功しかけていた。
 元々学外からの影響力が行使しやすい学校であった事と、澄の実家が地元でも有力な資産家であったことから一時期本格的に春日の入学は危うい状況に置かれていたのだ。それを覆したのは、皮肉な事に当の『学外からの影響力』を背景に権勢を揮っていた生徒会の決定だった。当時の生徒会長が、此花春日の入学を拒否する具体的根拠が全く見当たらないと物部家の『要請』を一蹴してしまったのだ。地元有力者のごり押しを跳ね飛ばしてしまったこの件は、後の反生徒会抗争の激化要因の一つになるのだがそれはまた別の話。
 周りの全てが敵ではない。精神的にかなり追い詰められていた二人だったが、無事この高校に入学できた事は、同じ中学からの進学者が少なかった事もあり二人に随分と心の余裕をもたらす結果となった。
 孤高を貫いていた澄が一年間とはいえ生徒会を手伝うような心配りを見せるようになったのも――彼女なりの生徒会長への義理返しだったようだ――春日が野放図なほど社交的になったのも、そのお陰だ。
 周りに抗う事から解放されるという事は、自然と落ち着いてお互いを見つめる契機となる。
 お互いを守ることで精一杯だった二人の関係が一挙に進展したのは、この一年次の夏休みの事だった。
 そんな二人だ。当時、周囲と壁を作り孤立していた天野美汐を何かと気に掛けるようになったのも必然のことだったのかもしれない。
 この頃からだった。他人から一定の距離を置きつつも物部澄が以前のような快活な面を垣間見せるようになってきたのは。それは美汐や祐一たちと関わるようになってからより顕著になっていった。
 そんな澄の姿に、春日はいつしか思うようになっていった。
 昔の澄は確かに本当の彼女じゃなかったかもしれない。でも、全部が全部偽りじゃなかったはずなのだ。
 なんだかんだと困っている人に手を貸してあげる世話好きなところも。相手によって態度を変えない公明正大さも。どんな難題にも膝を屈しない意志の強さも。
 誰かの期待に応える鏡だからなんかじゃなく、そもそもが彼女自身の持つ優れた資質なのだ。

 だが一方で、澄の春日に対する耽溺は時を追うごとにその度合いを増してた。以前は休みの間だけだった春日の部屋への宿泊も、今では実家に帰る事自体が稀になってしまっている。進学に対しても、三年の夏休みという時期にまったくと言っていいほど考えを起こしていないようだった。まるで春日と一緒ならそれでいいと、思考を停止しているようでもあった。
 それでは多分、だめなのだ。
 澄は自分を閉ざしている。彼女の持つ大いなる可能性を、此花春日が閉ざしている。結果として彼女を狭い世界に押し込めようとしているのだ。
 今のままじゃ、澄はきっとダメになる。あたししか見ていない澄の視野は狭窄している。
 春日はだから一度距離を置いてみようと提案したのだった。そして、ちゃんと親と仲直りして欲しいとも告げた。春日には、自分が原因で澄が産みの親と断絶するのは辛すぎた。
 そうだ、あたしはもう、澄が欲しいんじゃない。彼女に、幸せになって欲しいんだ。自分を狭めてしまっている今の彼女と、昔の彼女のどこが違う。誰もみていない澄と、春日しか見ようとしない澄のどこに差がある。
 このままじゃいけないんだ。

「……よし、帰ろう」
 パンと膝を叩き、春日はベンチから勢いよく立ち上がった。
 澄とはちゃんと話し合わなくちゃ。
 彼女は考え違いをしている。距離を置くということは、別れを意味しているわけじゃない。一緒にいようという約束を破るつもりなんて毛頭ないことを聞いてもらわなきゃ。身を引くなんてとんでもない。
 澄には幸せになって欲しいけど、彼女を幸せにするのはやっぱり自分でいたいから。
 そのためにも、もう一度――――

「こんばんは」
 涼しげな声が親しげに投げかけられた、春日が決意も新たに自宅のマンションに走って帰ろうと大きく息を吸い込んだ、その時だった。
「ぶはっ!?」
 肩透かしを喰らい、澄は吸い込んだ息の行き場を失ってむせ返る。そんな春日に涼しげな声は飄々と続けた。
「美しい、夜ですね。月があんなにも丸く大きい」
「は、はい?」
 何言ってんだ? 詩人か? ハイカラさんか? 面食らいながら、春日は目を凝らした。口ひげを生やした優しげな目をした男性が、ソフト帽を胸に当てて夜空に浮かぶ月を見上げていた。
 折角話しかけてきたのに無視するのも悪いと思い、春日は愛想笑いを浮かべた。まあ世のオジサンにも時には見知らぬ美少年に詩を詠いかけたくなる気分になるのだろう。ちょっとぐらいは付き合ってあげるのが美少年の義務というものだ。
「ああ、うん、そうだね、じゃなくてそうですね。今日は、満月だ」
 男は月から春日へと視線を移し、にっこりと微笑んだ。
「そう、今日は満月。狂うには良い夜だ」
「へ?」
 ブツン、と。
 電源が切られたかのようにカラダの機能が意識から引き剥がされた。

 ――な……に?

 地面に倒れ伏す衝撃が、他人事のように遠くで響く。全身が痺れたように動かない。いや違う。動かないんじゃない。繋がっていないのだ。今、地面に倒れたのに全然痛くもなんともなかった。まるで身体そのものがなくなってしまったみたいな感覚。
 眼球すらも動かせず、まるでテレビの戦争報道でみる所有者がいないまま地面に横たわって回り続けるカメラのような視界。そこに磨き抜かれた革靴を履いた足が入ってくる。
「なにが起こったかわからないという顔をしていますね、うん。まあ無理もない」
 革靴は楽しそうに爪先をもたげ、ポンポンとリズム良く地面をノックした。
「貴方にはこれから生贄になってもらいます」
「い……けにえ?」
「おや、まだ喋れるんですか。なかなか強靭な精神ですね。ええそうです、生贄です。貴方の恋人、物部澄さんが有する力を覚醒させるためのね。正確には有しているのではなく媒体なんですけどね、うん」
 澄の名を聞き、春日は全身を戦慄かせた。こいつ、澄に何をするつもりだ!?
「うふふ、そんな怖い顔をしないでくださいよ。可愛い顔が台無しですよ……えっと君、男の子だよね?」
 春日の顔を覗きこみ、ソフト帽の男は小首を傾げた。女に間違えられる事はしょっちゅうで、いちいち気にする事はもうなかったけど、今回は違った。全然違った。気持ち悪い。性別を間違えられた事にこれほど虫唾が走る思いをさせられたのは初めてだった。
「この子があの大妖此花カガリの隔世遺伝者とはねえ。もっとこうゾッとするような美人とか美形の青年みたいなのを想像してたのだけど」
 カガリ? なにか聞き覚えのある名前だった。そうだ聞き覚えがあるどころじゃない。此花かがり。田舎の静岡に親族が集まったときに飽きるほど何度も何度も繰り返し聞かされた名前だ。

 日本の産業史にまつわる本を紐解けば、その明治期の項目に必ず「此花かがり」という女性の名が見て取れる。静岡県の一旅館の若女将から身を起こし、男尊女卑が甚だしい明治の世に東海地域の地場産業や観光業界を発展させ、東海道のホテル王と呼ばれるまでになった女性の名だ。彼女の引退後、一族は戦争不況などの煽りで没落してしまうのだが一時期は財閥と呼べるほどの財を一代で築いた女傑である。
 別名を【女郎蜘蛛】のかがり。春日の曾々々祖母に当たる人物だ。小さい頃は親族が集まるたびに祖父母や大叔父に耳がタコが出来るほど話を聞かされたので忘れようにも忘れられない。
 というか、2、3度本人に会って苛められた記憶が……あれ? なんで明治時代のヒトと会ってるんだ、あたしは?
「しかし皮肉なものですね。選りにも選って妖との混血と由緒正しい滅魔の末裔が恋仲とは。さながら『ああいがみあう愛、憎みあう愛』といったところですか」
 大げさな身振りをつけて口ずさみ、頭を振って男は帽子を目深に被りなおした。
「ふふ、ああなんたる悲劇か。だが世の舞台にあって悲劇こそが美しい、うん」
 そうして男は背後に居る誰かに向かって合図を送る。フッと暗幕が下りるように遂に視界さえも閉ざされた。五感が消え去る。伏した土の冷たさすらも感じられず、春日は闇へと放り出された。
 異世界で、誰かが優しく囁いてる。

『From forth the fatal loins of these two foes
 A pair of star-crossed lovers take their life.』

 だがやがてその囁きは悪意に塗れた嘲弄へと高まっていく。

『Whose misadventur'd piteous overthrows
 Doth with their death bury their parents' strife?
 Nay,nay,nay,nay.』


 それは真夜中の海原のようだった。
 星の見えない宇宙へと投げ出されたら、こんな感じなのかもしれない。どこまでもいつまでも落ちていくような感覚。底のない闇。終わりのない墜落。そんな遠ざかっていく自分の代わりに、誰かが頭をもたげた。
 そうだ、こいつを知っている。
 時々、心の一番奥の方から、じっとあたしを見つめていたヤツだ。空っぽの目で、蟲みたいな目で、じっと。そして、いつの間にかあたしそのものになって、ぼんやりと外の世界を見つめていたやつ。あたしが、鬱々となって閉じ篭もっていたとき、あたしと重なり表に顔をのぞかせていたやつ。
 そいつが頭をもたげて、外に出ようとしている。あたしは、此処に居るのに。あたしを遺したまま、外に。ちょっと、待って? 此処ってどこ? あたし、どこにいるわけ?
「ガッ……ガァ!!!」
 叫び声が聞こえる。
 まるで産声のようだと春日は思った。
 待ってよ、と春日はもがいた。そっちに行くなよ馬鹿野郎。
 待って。あたし、帰らないといけないんだよ。今から、澄のところに帰って、いろいろ話さないといけないことがたくさんあるのに。ちゃんと伝えないといけないことがあるのに。
 こんな真っ暗で何もないところにあたしだけ遺していかないで!?
 待ってよ。お願い待って。待ってよ。待ってってばっ!!
 冗談じゃないよ。約束したんだからね。一緒にいるって。本当の澄を、見つけてあげるって。約束したんだから。ね、澄。そうだよね?

『汝らの愛を以て彼我の諍いに火が灯る。燃え上がる。真実を取り戻しなさい。狂える織姫』

 胸が張り裂けそうになり春日は悲鳴をあげた。
 違う。違う。違う。違う。
 渾身の力を込めて否定する。だが拒絶などもろともせずに育まれた不安と疑念は墜ちていく春日を塗りつぶしていく。
 自分と澄が想い合うことで、数え切れないくらいの希望が潰え、期待が失われ、平穏が壊れていった。二人が愛し合うことで、どれほどたくさんの負の感情が生まれただろう。どれほど多くの人間関係が破綻してしまっただろう。
 それらの事実がある限り、決して拭い去れない疑念が春日を押し潰そうとする。
 此花春日と物部澄が愛し合うということは、すなわちこの世に不幸を振り撒くことではないのか?
 二人の愛は、世界にとっての害悪ではないのか?
 恐れおののく春日の心を、忍び寄る声と言葉が打ちのめす。

『汝らの愛こそが、世を二つに引き裂く。さあ目覚めよ織姫』


 声が響いた瞬間、ヤツが落ちていく春日を見下ろした。
 真っ黒な真っ黒な、光も何も映さない瞳の形をした虚無が。
 春日を呑みこんだ。

「すみっ!!」

 泣き叫ぶような想いもろとも。























「へっくしょい!」
 勢いよくクシャミが飛び出る。真琴は立ち止まって辺りを見回す。幸い、車が何台か通り過ぎていくだけで、誰かに見られた様子はなかった。
「あー、みっともない」
 げんなりと真琴は鼻を擦った。これでも年頃の女の子なのだから、くしゃみの仕方にももう少し可愛さを求めたいところだ。親父じゃあるまいし。
「にしても、妙に冷えるわね」
 小太郎につき合わせて寄ったスーパーの買い物袋を胸元に抱き寄せ、真琴は鼻を啜った。肌が露出した格好をしているものの、季節は真夏。日が落ちても灼熱の余韻は残っている。つい今しがたまで肌寒さなどまるで感じていなかったのに。急に妙な冷気が素肌に纏わりついてきて、真琴は首を竦めた。
「今日はなんかケチがつく日よね」
 不機嫌にこぼす。いや、表情ほど不機嫌というわけではなかったが、今日の出来事はここしばらくの浮かれていた気分に水を差されたような気持ちだった。小太郎が家まで送ると言ってきたのを断って、スーパーで別れて独り帰路についているのもそのせいだ。
「まあいいわ。気分転換にこのあたしが、腕によりを掛けて舌が蕩けそうなほど美味しい晩御飯をつくってあげるんだから」
 秋子が出張で名雪と祐一が合宿で家にいない今、それを食べてくれるのはあゆだけなのだが真琴の意欲に衰えは見当たらない。
「ふふふ、明日はあゆ、デートだって言ってたからね。精のつくもの食べさせてあげないと」
 別にデートだからといって必ずしも精をつけなければいけない理由はないのだが、真琴はスーパーで買ってきたウナギの蒲焼の勇姿を袋を開いて確かめ直し、よしと気合を入れなおした。
「にしても、ほんとに肌寒いわね」
 ブル、と身体を抱いて背筋を震わせる。まるで棘のある霧に巻かれているような寒気がする。同時にねっとりとした不快な湿度。鼻もさっきから花粉症みたいに粘膜がチリチリと痛みを発している。
 なにか――嫌な感覚だった。
「もしかして、風邪かなぁ」
 鼻を擦りながら、いつの間にか止まっていた足を再び踏み出す。その歩みが一歩で止まってしまったのは、木陰の向こうに見知った顔を見つけてしまったからだった。
「春日じゃない。な、なにやってるの、あいつ」
 二時間ほど前に別れたばかりの、一応先輩に当たる友人の姿を見つけ真琴は眉間に皺を寄せた。何故か彼は、噴水の池の中に四つん這いになり、頭から水を被っていたのだ。
 その滝壷の幽霊のような姿に、無視して立ち去るわけにもいかず、真琴はやや慌てながら公園の中に入っていった。
「おーい春日! なにやってるのよバカ、幾らあんたでもそれ、風邪ひくわよ。ねえ、聞いてるの? ちょっと、ほんとに大丈夫アンタ!?」
 買い物袋を放り出し、真琴は人工池の縁に飛び乗った。遠目でも思ったが、間近で見ると益々ふざけて水浴びしているのとは様子が違っているのがわかった。真琴は舌打ちすると迷った末に靴と靴下を脱ぎ捨て、慎重に池の中に足を踏み入れた。水は思いのほか冷たい。ガラス片などで足の裏を切らないように気をつけながら春日に近づき、腕を掴んで引き起こす。
「冷たっ、ばか、冷え切ってるじゃない」
 ほんとに今日はケチがついてばかりじゃない、なんなのよいったい。内心うんざりしながら、俯き濡れた前髪で表情の見えない春日を池から引っ張り出す。逆らう様子はないものの、自分から動こうとしない春日を苦労して水から引き上げ真琴は苛立ちを押し殺しながら訊ねた。
「どうしたのよ、お澄と喧嘩でもしたの?」
「……ス……ミ?」
「おーい、大丈夫? なんか変よ、あんた。意識はっきりして――」
 反応の芳しくない春日を心配して、真琴はべったりと張り付いた彼の前髪を梳きあげ、顔を覗き込み、

「――――っ!!!?」

 全身が総毛だつ。

「……あれ?」

 我に返る。真琴はどうしてだか春日を振り払うようにして五メートル近くもの距離を無我夢中で飛び退いていた。な、ななななに、なによ? どうしたの? 
 自分の反応が理解できず、真琴は丸くなった目をパチパチと瞬いた。なんだ、今の感覚は。気がつかずに熱せられた金属に触れてしまったような、そんな脊髄反射的な……。
「春日、あんた今、なんかし……た、ら?」
 舌が縺れた。一瞬視界が歪むほどの眩暈に襲われ、カクンと膝が崩れる。
 あれ? と思う間も無く、真琴はその場にへたりこんでいた。おかしい、膝に力が入らない。
「へ?」
 間の抜けた声が真琴の口からこぼれだす。いつの間にかカットジーンズがぐっしょりと濡れている。噴水に入ったときに濡れたのかと思い手をやると、ぬめった生暖かい感触が手のひらを濡らした。
 街灯の光に浮かびあがる真っ赤に染まった手のひらを見て、真琴は震え上がった。
 これ、血だ。
「血っ血だ、血じゃないよぅ!? か、春日、どこかに怪我し……て」
 胸の前に広げた手のひらに、生暖かい液体がビチャビチャと降り注ぐ。止め処なくビチャビチャ、ビチャビチャと。
「…………な」
 唖然と真琴は自分の胸元を見下ろした。
 違う、これは春日の返り血なんかじゃない。
 ポカンと真琴は呟いた。
「なによこれ……あたしの血じゃないの。嘘でしょ、こんな」
 袈裟切りに肩から腹にかけて、衣服ごと肉がぱっくりと裂けていた。そこから堰を切ったようにビシャビシャと鮮血が噴き出している。いったいいつの間に、こんな怪我をしたんだ? 知らない、覚えてない、解からない。
 なにがなんだかわからない。
 ああ、せっかくのキャミが台無しだ。
 コフッ、と咳き込み、口の中に嫌な鉄の味が広がっていく。
「ま……ってよ。こんなに血が出たら」
 あたし、死んじゃうよ?
 思考がフリーズを起こしてしまった中でも、出血を止めようという本能だけは働くらしい。真琴は喘ぎながら手で傷口を押さえようとした。だが裂傷の範囲は広すぎ、二本の腕だけではとても覆い切れない。どう腕を折り曲げても傷を塞げず、真琴は泣きたくなってきた。
「やだ、やだやだやだやだ。血、止めないと。血、止めないと」
 ペタペタ、ペタペタと繰り返し、繰り返し、手のひらで押えて、押えて、押えて。
 それでも血は、止まらない。全然止まらない。これっぽっちも止まらない。
 意識が朦朧とし出す。いや、斬られた直後から本当はもう意識はとんでしまっていたのかもしれない。真琴はどうやっても言われた事が出来ない幼子のように涙ぐみながら、救いを求めて今一番近くにいる友達の姿を探した。
「かすが、なんか変なの。血がドバッって、たくさん出てきて全然止まらな…………」
 訴えかける声が掻き消えた。そして視線はその光景に縫いとめられる。
 焦点がぼやけていた真琴の双眸に、俄かに理性の光が舞い戻った。
「か……かす、が?」
 呆けていた蒼白の顔に、魂が戻る。ガチガチと歯が鳴り出す。
「なによ……なんなのよ、その手は……」
 失っていた正気を取り戻させるほどの衝撃が真琴を貫いていた。失血によるものとは別の痙攣が、真琴の全身を犯していく。
 震え切った声で、真琴は絶叫した。
「その姿は何なのよ、此花春日ァァッ!?」
 彼は、月に向かって哭いていた。
 頭を抱えるその両手は、元の倍近い大きさに膨れ上がり指の一本一本が爪とも剣ともつかない鋭い突起に変貌していた。肘から先は、肌色ではなく黄色と黒の毒々しい斑と化している。元々耳に掛かるまでの長さしかなかった髪が、異様な速度で伸び始めていた。腰まで伸びた髪の毛を振り乱して春日は咆哮する。
 そんな不気味な変貌すら、彼の下半身のそれに比べればまだまともだった。
 パニックに陥っていた真琴を正気づかせるまでの衝撃を与えたのは、春日の腰から下の狂ったありさまだった。履いていたズボンは、とうの昔に散り散りの布切れと化して周囲に散らばっている。彼の下半身は、腕と同じ眼にも鮮やかな黄色と黒が混じいったぶよぶよとした肉塊となっていた。それも、元の三倍以上の体積に膨張して吐き気のする醜悪な蠕動を繰り返している。やがて、ズブリと肉塊の側面から次々に何かが生えてきた。脚だ。黄土色の体液を迸らせて脚が生えてくる。
「……蜘蛛」
 無意識に、真琴は見ているものの正体を口にしていた。纏わりつくような寒気が、再び真琴を襲う。この悪寒は、身体からごっそりと血液がなくなった所為ばかりではないのだ。全身の肌が粟立つ。身体中の毛が逆立ち、真琴は背筋を震わせた。
 これは、妖気だ。それも、自分や先日の鵺が持つものとは全く違う知性なき暴虐、発狂した妖気。狂乱する力が、世界を怯えさせている。
 今になってようやく察する。先ほどからのあの嫌な感覚は、春日から発せられていたものだったのだ。
 ――月下。
 上半身は人間のままで下半身は蜘蛛という怪物が、金属同士を擦り合わせるような声で慟哭していた。声帯は人間のものであるはずなのに、まるで人であることを忘れてしまったように、その声は月に向かって軋んでいる。
 哭いているのだ。
 そんな有り様と化しても彼が慟哭しているのだと判ったのは、春日の目から滂沱の涙が溢れ出していたからだ。
 その目からはもう、理性の光どころか白目の部分すら失せ、蟲のように無機質な紫色い球体と化していたとしても。
 その涙が、透明な滴から粘性の青黒い体液にいつの間にか変わっていたとしても。
 真琴には、彼が苦しみもがいて泣いているのが判った。


 何故なら真琴にはその悲鳴に聞き覚えがあった。
 何故なら真琴はその涙の意味を知っていた。


「ふざけんじゃ……ないわよ」

 重なってしまった。
 目の前の春日の泣き叫ぶ姿が重なってしまった。
 その姿は、真琴が想い描いていた美汐の抱く悪夢そのままだった。
 かつて、自分の意思に反して狂ってしまった八雲という少年の姿。
 あり得たかもしれない、沢渡真琴の末路。

 重なって、しまったのだ。

「泣いてんじゃ、ないわよぅ」

 気がつけば、あれだけ言う事を聞いてくれなかった膝が、震えながらももう一度、体を支えようとしていてくれた。
 よろけながら、立ち上がる。
「血……止めないと」
 真琴は呟く。止血の方法はすぐに思いついた。思いついてしまった。最悪だ。漫画ネタだぞ。ほんとにするなんて頭がイカレてる。こんなことするくらいならこのまま死んでしまった方がマシなくらいだ。そうだ、死んじゃえ。このまま、諦めて、倒れて、何も見なかった振りをして、意識を手放してしまえ。
 頭の中で弱気の虫が喚いてる。回路の接触が悪いテレビみたいに、視界がブツンブツンと途切れる。
 くそったれ、今決めた。漫画なんか二度と読むかこんちくしょう。
「死に……たくない。死にたくない、死にたくない、あたしは死なない、死にたくない、死んでたまるかっ!!」
 ともすれば持っていかれそうになる意識を奮い立たせ、身の竦むような恐怖を無視して、真琴は右手に力を込めた。大丈夫だ、人間ならともかく、これでもあたしは妖怪だ。こんなくらいで死ぬものか。死なない、死なないから我慢、我慢、我慢。
 ただちょっと、痛いだけ。
「ちくしょう、今日はほんとに厄日よぅっ! 狐火!」
 ボッと音を立てて、右手に青白い火が灯る。
 ――――火傷の痕、残るだろうな。
 激痛や恐怖のためとは違う、涙がつたう。
 真琴は震える手で、自らの体に炎を押し付けた。火炎で傷口を焼き潰す。
「ギッ――――――!!?」
 可聴範囲をぶち越えた絶叫が喉を突き破る。
 痛いなんてものじゃなかった。熱いどころの話じゃなかった。死ぬ、死んでしまう。軽く意識を抉られて、真琴はその場に尻餅をついた。
 最悪だ。こんなのもう嫌だ。帰りたい。助けて、助けて、助けて。美汐、小太郎、助けてよぅ。
「ひっ……ぐ、痛い、よ。気持ち悪い、よぅ。熱い、よぅ」
 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、それでも真琴は地面に両手を付き、よろよろと膝を踏ん張った。
「ふざ、けんじゃないわよ。わけわかんないわよ。ぶっ……殺してやる。人を、こんなにしといて、勝手に泣き喚いてんじゃないわよぅ、かすがァァァぁぁ!」
 泣きたいのはこっちだ。頭の中をかき回されるみたいに激痛がのたうっている。さっきから暗くて良く目が見えない。胃がでんぐりがえって、気持ち悪い、吐きそうだ。このまま、冗談じゃなく死んでしまいそう。その前に、きっと気が狂うに違いない。それぐらい、痛い、熱い、苦しい、苦しい。
 むせ返る。喉から血痰。腕で拭う。これで、ただでさえ涙と鼻水と土塗れの顔に、血塗れもプラスだ。見られた顔じゃない。今の自分はきっと不細工で、汚い顔をしているに違いない。
 なけなしの気力が萎えていく。どうしてこんな思いまでしなきゃなんないんだろう。こんな火傷までして、汚く無様な格好になってまで。

『イイ女ってのはだ、外見じゃないんだよ。中身だ、中身。気持ちのいい女ってやつだ』

 不意に頭の中で祐一の声が聞こえた。
 そう、これは以前祐一と雑談していたときの言葉だ。内容はイイ女の条件。訳知り顔で祐一が偉そうに喋る声が再生される。

 イイ女ってのはだ、外見じゃないんだよ。中身だ、中身。気持ちのいい女ってやつだ。
 気持ちイイって、エッチが上手いってこと?
 違うわ、バカたれ! お前の頭ん中はそればっかりか。いいか、ごちゃごちゃ難しい条件じゃないんだ。要は、カッコいい女ってことだよ。
 なによ、それってあたしの事じゃないのよぅ。じゃあ、あたしはイイ女ね!
 ……鏡見れ、鏡。

「ふ……ふくっ、クフフ」
 喉の奥に湧き出してきたすぐに枯れ果てそうな思いを必死の思いで表に汲み出す。すぐにでも消えてしまいそうな感情を強引に笑いに変えて外へと押し出す。
「バカ祐一、どこ見てんのよ。やっぱり、あたし、イイ女じゃない」
 真琴は無理やり嘯いてみせた。そうやって自分自身を奮い立たせた。
 そうでもしなければ、理性も意識も手放して、このまま地べたに這いつくばって泣きじゃくってしまいそうだった。
 イイ女の条件。それは、綺麗だとか可愛いだとか、そんな外見のことじゃない。涙で顔をグチャグチャにしようと、鼻水をたらそうと、ひどい傷痕があうが、ヤケドの痕が残ろうが。そんなのは問題じゃない。
「要……は、か……こいい女かどうか、なんでしょ」
 こんな有様になりながら、泣いている友達を、苦しんでいる友達を、見逃せない。助けてあげたい。そう意地でも思えてるあたしは、今、絶対、イイ女に違いない。
 ああ、それとは別に。ちくしょう、あの蜘蛛バカ春ウララ野郎、助けたあとにあたしをこんな目に合わせたこと、ぜったい後悔させてやる!
 そのためにも、春日を助けないと。
 春日はこの世に産まれ堕ちてしまったことに絶望する赤子のように哭き狂っている。
「さわ、ぐんじゃない。るさいから、黙って、そこで待ってなさい。あたしが、今、助けて、呼んであげるから」
 冷静になれあたし。激情で背骨を支えながら、頭は冷やせ。
 助けてやるとは言ったけど、こんな有様で化け物と化した春日をどうにか出来るなんて思わない。今の自分に出来る事を考えろ。
 とにかく意識だけは失わないよう繋ぎとめ、震える手で携帯電話を取り出した。
 そう、今の自分がやるべきことは、このことを誰かに伝える事だ。春日を助けてくれる人に急いでこの場に来てもらうことだ。自分がぶっ倒れてしまう前に。誰の番号を押すべきか、咄嗟に思い浮かばない。血の巡りが極端に悪くなっている。拡散していく意識を掻き集め、必死に考える。小太郎? 違う、声聞きたいけど、違う。名雪……に、かけてどうする。お姉ちゃん。美汐、美汐、美汐……違う、間違ってないと思うけど、もっと……今、呼ぶべき人が。
「和……み。和巳兄ちゃん」
 そうだ、正解、大当たり。和兄だ。あの人なら、多分、春日を助けてくれる。その前に、あたしも助けてくれっての。
 言う事を聞かない指で、ショートカット。違う、リダイヤルだ。昨日、あの人携帯買って、その時にあたしの携帯に番号を……。

 パ ―――― ン!


 真琴は、乾いた破裂音とともに穴の開いた携帯の液晶画面を呆然と凝視した。
「……壊れ、た?」
 なんで? 電話……掛けられないじゃない、これじゃあ。
 感情もなくそんな事を思いながら、真琴は自分の鎖骨の辺りに手を当てた。ぬるりとした生暖かい感触を再び手のひらに感じる。
 なけなしの気力をもって繋ぎとめていたものが、問答無用に千切れ飛ぶのを真琴は感じた。
 真琴は乾いた音のした方に顔を向けようとして――地面に崩れ落ちた。



「いやいやいやいや、連絡なんかされると困るんですよ、ごめんなさいねお嬢さん」
 仄かに硝煙の立ち昇る銃口を下ろし、男は顎鬚を撫で上げた。
「しかし、見上げたものだね、傷を焼いて塞ぐとは。薄汚い化生とはいえ、仮にも女の子だ。そこまで思い切るなんて、感服したよ、うん」
「まだ、生きています」
 髭の男の脇をすり抜けて、倒れた真琴の状態を確かめていたスーツ姿の若者が告げる。
「とどめを刺しますか?」
「いや、それには及ばないよ。銃弾は貫通してるはずだから、止血だけしておいてくださいな」
「いえ、ですが高梨先生」
 困惑を浮かべる若者に、高梨と呼ばれた男は銃を仕舞いながらヒラヒラと手を振った。
「それ、子供みたいだけど双尾だよ。けっこう霊格も高いみたいだから勿体無いじゃないですか。結界の起動は明日でしょ? それまで生かしておきましょう、始末するにしても有効活用してあげないとね、うん。手を掛けなくてもどうせ放っておけば長くもたないだろうしね。その袈裟懸けの傷、塞いだはいいけど可愛そうに内臓まで届いてますよ」
 あまり納得したようではなかったが、若者は言われたとおり真琴の銃創を手当てし始めた。
「それにその狐、どうやら織姫や神剣のお友達みたいだしね。神剣に決意して貰うのに役立つかもしれないよ。いや、それだと死んでて貰ったほうがいいのかな?」
「先生……どっちなんですか?」
「うーん、そうだね。じゃあ傷の手当て、お願いしますよ、吾妻くん」
 嫌そうな顔をしている若者にそれだけ言い残し、高梨は変容を終えて苦しそうに蹲っている半人半蜘蛛の妖怪と化した春日のもとに歩み寄った。
「『人は泣きながら生まれてくる。この愚者ばかりの世界へ墜とされたことを悲しんで』。ふむ、ありがちか。さて、生まれ変わった気分はどうですか、此花くん。と、理性は奪ってあるから、もう人間の言葉は理解できないんだったね。いやあ、すまないねえ」
「ぎ、グる、ギグる」
「やあ、喋るのも出来ないのか。これは困ったね。意思の疎通が出来ないじゃないか。まあ、贄になってもらう君との間にそんなもの、必要ないんだけどね、うん」
 顎鬚を撫でながら、あくまで暢気に語りかける高梨。奇怪な唸り声を発しながら身動ぎしていた春日は、不意に跳ね上げるように上半身をもたげ、その紫一色の丸い眼球をギョロリと動かし、高梨の姿を視界に収めた。
「ほう?」
 高梨は感心まじりの驚きの声をあげた。突然、無数の糸が虚空に湧き出し、高梨の身を包み込もうとしたのだ。だが、糸が高梨の体に触れようとした瞬間、バチッという音とともに火花が飛び散り、糸は一瞬にして燃え上がり、胡散霧消して果てる。
「すごいなあ。てっきり糸は、口か腹から放出するものだと思っていたけど。妖気そのものを直接糸に転変させるのか。糸にも色々と種類がありそうだし、こりゃあ、侮れないね、うん」
 一頻り感嘆の言葉を並べ立てると、高梨は首を巡らせ、背後に控える金髪に染めた髪を逆立てているパンク風の男を困ったように見据えた。
「ねえちょっと、雨宮くん。これ、襲ってきたよ。危ないじゃない」
「そりゃ襲うっす。大人しくはさせてるっすけど、見境いなんてなくなってるんすから、安易に近づいたら危ないに決まってるっす。前にも説明したっすよ、狂犬と同じだって」
「君ねえ……だったら、近づこうとするの止めてよ」
「どうしてっすか? オレはもう説明してあるっす。あとは高梨さんの判断っすから、オレがどうこう言うことじゃないっす」
「君のそういう投げやりなところ、嫌いじゃないよ、うん」
「事務的と言ってくださいっす」
 本人が述べるところの事務的な態度を崩さないパンク青年に、高梨はほんの少し悲しそうな顔をして、わかりました、私が悪かったですよ、と言い、やれやれとズボンのポケットに両手を突っ込んだ。
「煙草、吸ってもいい?」
「術式に障りが出るので、ヤニは止めて欲しいっす」
「はいはい、わかりましたよ。禁煙運動がこんなところまで。世知辛い世の中ですねえ」
「先生、応急処置、済ませました」
 真琴の銃創を手当てしていた吾妻が、高梨に告げる。
「はい、ご苦労様。じゃあ、吾妻くん、それ、アジトの方に持って行っといて。ホテルに連れてくわけにもいかないからねえ」
「わかりました。ところで、先生」
 踵を返しかけていた高梨は、声のトーンを顰めるように変えた吾妻に、足を止める。
「なんですか?」
「いいんですか? その……若に結界の件を伝えなくて」
 それまで周りに関心を示していなかった雨宮も、聞き耳をそばだてる。高梨はふむと顎鬚を撫でた。
「彼は何も知らなくていいんですよ。義行くんは我々の旗頭であり神剣の使い手となる人物です。彼にはなるべく清廉でいてくれる必要がある。泥は、我々が被るんですよ。それが、我々の役目です」
 穏やかながらも決然としたその言葉に、吾妻と雨宮は顔を見合わせ、意を決するように小さく頷きあった。
 頼もしげにその様子を眺め、高梨は目を細めた。
 素直で良い子たちだ。みんながこうなら、私ももっと楽が出来るのですけどね、うん。
 思考の端に引っ掛かるのは、生意気で無愛想な一人の娘の容姿だ。
 問題は彼女、というわけですか。さて、どうしたものだか。せっかくだしFARGOの連中に任せるのもいいか。やれやれ、面倒というのは際限なく増えていく。
「先生、そろそろこの場を離れるっす。もしかしたら銃声を誰かに聞かれたかもしれない」
 複雑に印を切り、不可視の鎖でもあるかのように、もがく春日を引き摺りながら、雨宮は淡々と告げる。
「あれ? 私が悪いのかい? 酷いなあ、言い掛かりだよ。此花くんの叫び声の方がよっぽどうるさかった、うん」
「先生!」
 生ゴミでも持つかのようにグッタリと気を失っている真琴を肩に担いだ吾妻が、いつまでも動こうとしない高梨を急き立てた。
「怒鳴らないでよ、吾妻くん。だから気が短いってみんなに言われるんです」
「そ、そんなのは今関係ないでしょう、行きますよ」
「はいはい」
 聞き分けのない子供のように首を竦め、高梨は二人の後に続く。幽玄のざわめきに犯されていた夜の公園に再び静寂が戻ってくる。
 帰ってきた静けさの帳の中で、なにか取り残されたかのようにどこからともなくひび割れたアラームがポツンと鳴りはじめた。
 街灯が投げかける光から外れた暗い地面の上で、ぼんやりと何かが光を点滅させている。
 噴水の囁くような水音に紛れるそうになりながら、
 いつまでもいつまでも、途方に暮れたように、
 地面に転がった携帯電話の残骸からぶつ切りに割れたアラーム音が鳴り続けている。




















「……おかしいな」
 呼び出し音が三十を越えたところで、小太郎は電話を切った。水瀬家に電話を掛けるのはこれで三回目だったが、一向に真琴が受話器を取る気配がない。そもそも、まだ帰宅していないようなのだ。スーパーの前で真琴と別れてからもう一時間近くが経っているというのに。
「携帯にも出ないし、どうしたんだろう」
 眉間に皺を寄せて、小太郎は携帯の液晶画面を見つめ続けた。
 もしかして、真琴さん気にしてるのかな。今日は家まで送らせてくれなかったし。まさか、それで電話に出るのを拒否してるとか。
 機嫌が悪いという風ではなかったものの、どことなく素っ気無かった帰る自分の真琴の態度を思い出し、自然と溜息が湧き出てくる。
「そりゃ、真琴さんからしたら面白くないだろうけどさ」
 面白くない、で済めばいいが。一応、小太郎にだって自覚はある。過去の遍歴は、女性関係にだらしないと見られても仕方ないものだ。幸いにして、真琴はそうした件には無頓着で、今まで問題らしい問題にもなっていなかったのだが。赤の他人に指摘されることで、芽吹く不信もあるだろう。
「余計な事してくれるよな、まったく」
 大人気ないとは解かっていても、どうしても苛立ちの矛先は、あの北川薫に向かってしまう。まさかあんなところで見ず知らずの人間に過去の事を蒸し返されるとは思いもしなかっただけに不意を突かれた格好だった。
「と、言うか。本当に余計な真似してくれてるのは和兄さんだよね」
 小太郎は目尻をひくつかせた。あの人が変な事吹き込まなければ、あの少年も突っかかってくることもなかっただろうに。まったくあの人と来たら、あの迷惑さは相沢先輩を上回ってるんじゃないだろうか。
 まあ元々ああいう窮屈なタイプは苦手なんだけど。
 刺々しい薫の眼差しが突き刺さる感触が思い出され、小太郎は顔を顰めた。
「ああもう、なんだかなあ!」
 ガシガシと頭を掻き毟り、小太郎は携帯電話を握り締めた。もう一度、真琴の番号に掛けようとして、ふと躊躇する。もし出るのを拒否されているのなら、あまりしつこく電話を繰り返すのは逆効果じゃないだろうか。
「でも……ねえ。もし僕からの電話に出たくないんだとしても、自宅の電話を取らないのは変だよなあ」
 水瀬家の固定電話には着信番号が表示されるなんて気の利いた機能はついていない。誰からかわからない電話を、こう何度も無視するだろうか。やはり、まだ帰っていないと考えるほうが自然な気がする。
「……おかしい。やっぱりおかしい」
「小太郎、晩御飯の準備が出来ましたよ」
 階段の下から、美汐の呼ぶ声が聞こえてくる。小太郎は顔をあげた。
 階段を一足飛びに駆け下りる。床板を踏み割りそうな勢いで飛び降りてきた小太郎に、美汐は目を丸くした。
「小太郎、階段は静かに――」
「すみません、僕、ちょっと出てきます」
「え、じゃあ晩御飯は?」
「僕はいいですから、二人は先に食べていてください」
 靴を履くのももどかしげに、外へと飛び出していった小太郎を、美汐は呆気に取られて見送ってしまった。
「なんや、小太郎どっか行ったんか?」
 風呂上りの和巳が、タオルを頭にかぶったまま廊下に顔を覗かせる。
「はあ、なにやら飛び出していってしまいいっ――」
 どうしたものかと困惑しながら振り返った途端、声が裏返った。そのまま物凄い勢いで和巳に背を向け、顔を覆う。後ろを見ないようにしながら、美汐は背中越しに翳した手を振り回し、
「ななな、なんで裸なのですか! ふ、服着てください、服っ!」
 キョトンと和巳はトランクスのゴムを引っ張って言った。
「……パンツ穿いとんよ?」
「服を・着て・下さいぃぃぃッッ!!」
















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