「澄、そろそろ起きてください」
「……んん」
 肩を揺り動かされ、物部澄は重たい目蓋を苦労して開いた。クリームシチューの良い匂いが鼻を擽り、徐々に頭の中がクリアになっていく。ぼやけている視界に天野美汐の顔が映り、澄は情けない思いに駆られた。
「私、眠ってたのね」
「はい」
 彼女が掛けてくれたらしいタオルケットを剥がし、ソファーから身を起こす。身体の節々が痛むものの、随分と気持ちはすっきりしていた。
 エプロンを脱ぎながら美汐が言う。
「グッスリ眠っていましたよ」
「不覚だわ。他人に眠ってる姿を見せるなんて」
「貴女は野生動物かなにかですか」
 呆れたように言われる。違いない、と澄は少し笑いを含んだ。
 だが泣きついた挙句に眠ってしまったのはやはり情けない。
「弱いな、私は」
 もう何年も肩肘を張って生きてきたから、自分がこんなにも脆い人間だという事を忘れてしまっていたらしい。強く強くあろうとして厚くなったのは面の皮ばかり。肝心の中身はまだまだ空っぽのままなのだ。
 畳んだエプロンを元あった場所に返した美汐が、身なりを整えながら澄のもとへと戻ってくる。
「差し出がましいとは思いましたが、夕食の用意をしておきました。春日さんが帰っていらしたら、一緒に食べてください」
「帰るの?」
 思わず引き止めるような言葉を漏らしてしまった。
 自分の口から飛び出したみっともない声音に、澄は悔いるように唇を噛み締めた。
 美汐は驚くというよりもショックを受けたような顔をした。
「はい、その……」
 躊躇いもあらわに、美汐は俯いた。澄が考えていたよりも遥かに弱気になっている事に気づいたのだろう。人間とはどうしようもなく相手に勝手な偶像を当てはめてしまう生き物だ。澄は誰よりもその事を良く知っている。美汐の中の物部澄は、決して今みたいな脆さを見せる人間ではなかったのだろう。彼女の動揺が手に取るようにわかり、澄は後悔した。
「……いえ、やはり」
 思い直したように顔をあげた美汐を、澄は手を翳して制した。
「いえ、ごめんなさい。これ以上は甘えすぎだわ」
「ですが」
 自然と微笑を浮かべ、澄は目蓋を伏せた。
「ありがとう、天野。でも、貴女は貴女で大切なことがあるでしょう」
「……澄」
 迷いも露わに葛藤していた美汐であったが、やがて己に言い聞かせるように小さく頷いた。
「澄、私は帰りますが、春日さんとちゃんと仲直りしてください。いいですね」
「……努力はするわ」
 美汐は澄の答えに不満そうに眉を顰めたものの、一応はそれで納得したようだった。
「天野……」
「なんですか」
 靴を履く美汐の背中に、呟くように話し掛ける。躊躇いながらも、澄は口を開いた。
「今日は、迷惑を掛けたわ。もう二度とこんな――」
「構わないのですよ、幾度でも」
 踵に靴を収め、彼女は立ち上がりながら僅かに横顔を澄へと垣間見せた。渋面になりそうなのを我慢しているような、口をヘの字に曲げた顔で素っ気無く彼女は言った。
「その……これでも、貴女の友人のつもりですので」
「…………」
「いつでも頼ってください。と言っても、貴女は嫌がるのでしょうけど」
 付け加えた後半はまるで拗ねてるみたいな口振りで。自分でもその自覚があったのだろう。益体もないことを言ったと言わんばかりに背けた美汐の顔は、確かに熟れたトマトみたいに赤くなっていた。
「あ……」
 石でも飲み込んだみたいな顔をして立ち尽くしている澄の様子をどう勘違いしたのか、美汐は「それでは」と早口に言い捨てて、そのまま振り返りもせず一目散に帰っていってしまった。
 澄は結局、何もこたえられないままその場に立っているだけだった。
 カンカンカン、と小走りの足音が遠ざかっていく。それが聞こえなくなってようやく澄は呪縛が解かれたように息を吐いた。
「頼ってくれって……なによ、それ。なによ」
 グラリとバランスを崩し、壁に寄りかかる。
「馬鹿じゃないの。ふざけないでよ。なんで」
 握った拳を額に押し付ける。そうしないと、何かがそこから噴出してしまうそうだった。
「なんで春日とおんなじことを天野が言うのよッ」
 からからに乾いた声で吐き捨てる。
 冗談じゃない、えらそうに。頼りになりそうにないやつに限ってそういう事を言いやがって。なにが頼れだ。ビビって好きな人とまともに向き合えもせず右往左往している弱虫のくせに。
「天野のくせに、生意気なのよ」
 無意識に肩が小刻みに揺れている。肺がヒクヒクと痙攣している。震えが止まらない。
 なんだ? 私は……笑って、いるのか?
 自覚した瞬間、喉の奥から引き攣った笑い声が漏れ出してくる。
「く……くふっ、くく」
 馬鹿は私だ。マヌケてるにもほどがある。つまるところ、そんな頼りない弱虫がそんなセリフを吐きたくなるほど、私が弱いだけの話じゃないか。いまさら強がってどうするよ。今日のそれはどう見たって天野に助けを求めた以外の何者でもないじゃないか。
 もうこんなにも頼ってるじゃないか、天野を。
「はは、ふはははっ、はは……ふぅ」
 そうか、また私は頼ってしまったんだ。
「二人目か」
 澄は恥ずかしいような、安堵したような不思議な気持ちになって、その感触を反芻するように目を閉じて、カラダを捩って背を壁に預けた。










§   §   §   §   §











『鏡』なのだと、思っていた。
 かつての自分がどんな人間だったのか。例えてみるなら、そう――鏡だ。
 期待や希望、その人が描く最良の形。望む姿。それを鏡のように忠実に映し出す。物部澄とは、そんな娘だった。
 成績優秀で運動神経は抜群。どんなことでも人並み以上にこなし、どんな難題だって易々と乗り越える完全無欠の生徒会長。それでいて、性格は明朗快活で社交的。人当たりもよく気配りが効き、どんな人間とも打ち解ける親しみやすさを兼ね備えていた。完璧な人間にありがちな、他人を寄せ付けない壁なんて皆無に等しく、ちょっと間の抜けたところや惚けたところもあって、誰からも気安く声をかけられる。

 非の打ち所の無い存在。
 ヒトが脳裏に思い描く理想の形。
 それを映し出す鏡こそが、物部澄というニンゲンの役割だった。

 物心ついたときにはもう他者の期待通りに演じる事を覚えていたように思う。親の期待に応え、教師の期待に応え、友人たちの期待に応える。それは呼吸をする、食事をする、睡眠をとるという生理行動と同じ事でしかなく、違和も疑問も感じた事など一度もなかった。当たり前のことだったのだ。
 誰もが自分を褒め称えたし、友人だけでなく教師や学校外の大人までもが頼りにしてきた。なにより、誰もが物部澄という少女に好意を抱き、憧れを抱き、親しみを抱いていた。
 あの頃の自分は輝いていたのだろうと、今も澄は思っている。だが、その輝きは他者から見ての眩しさだ。彼らの期待の大きさをそのまま反射していただけにすぎない。だから、自分自身は己の輝きを感じる事も無かったし、恐らく興味も無かっただろう。
 平坦だった。鏡は映すだけのもの。それ以上でもそれ以下でもない。物部澄の心には、起伏など存在しなかった。



 鏡よ鏡よ鏡さん、この世で一番美しいのはだあれ?

 それはもちろん、あなたです。
 鏡に映るあなたです。



 誰も、物部澄という存在を嫌いになるはずなどなかったのだ。
 誰もが彼女を好きになって当然だったのだ。
 何故なら彼女は見る人の理想を映す忠実な鏡。考えてもみるがいい。自分の理想を嫌うヒトなど、この世にただ一人だっていないのだから。

 でも。

 だからこそ、誰一人して彼女を見ようとなどしなかった。鏡でない彼女に価値を見出すヒトなんて誰一人いなかった。
 鏡以外の己を知らない一人の少女を、探し出してくれようと思うヒトなんて、どこにもいなかったのだ。

 此花春日という少年が現れるまでは。



 その男の子が現れるまで、少女はとても満たされていた。疑いなんて抱いた事もなかった。
 少女は、鏡である事に不満の一欠けらも抱いてはいなかったのだ。


 それなのに…………。









§   §   §   §   §










 独り、誰も居ない部屋の中。温かいクリームシチューの匂いに包まれながら、物部澄は片膝を抱き寄せて膝に顎を乗っけた。
 まどろむように眼を閉じて、澄は森の奥に置き去りにされた迷い子のように口ずさむ。

「割れた鏡はもう元に戻るはずないのに。壊したのはあんたでしょう、春日。いまさら私にどうしろって言うのよ」









§   §   §   §   §










「なしてこの公園にはブランコというものがないんでしょーね」
 帰りたいような、帰りたくないような。そんな行き所の無い気分の時にはブランコに腰掛けてゆらゆらと自分自身を揺らしてみるのが日本の伝統文化じゃなかったのか。
 だがこの公園にはブランコやジャングルジムといった遊具は設置されていない。仕方ないので、ベンチに腰掛けたまま、春日は足だけをぶらつかせていた。
 いつまでもこうしている訳にいかないなあとはジリジリとした焦燥とともに考えていた。だが、朝に澄と派手に喧嘩をして出てきてしまった以上、やはり顔を合わせ辛い。
 澄は、部屋で待っているだろうか。
 春日が知る限り彼女は自分を放り出して出て行ってしまった相手をじっと身動ぎもせずに待っているような殊勝さとは程遠い女性だった。だからと言って帰るに帰れずにいる相手をわざわざ迎えに来てくれるほど甘い女性でもない。
 さっさと背を向けて遠ざかり待ち人を追いすがらして良しとする、考えてみるととんでもなくエグい女だ。だが、今回はどうだろう。
 彼女は強気な人だけど…………。
 追いすがってこないならそれでいいと立ち去ってしまえるほど強くはない。
「もう冷静になったかな」
 半日も時間を置けば、澄なら落ち着きを取り戻してくれるだろうと思ったのだ。だから栞から遊びに誘われたのに乗じて彼女を残してきたのだが、今となっては後悔していた。
 考えようによっては、自分は単に耐えられなくて逃げ出してしまっただけではないだろうか。
 そんな自分に、独り取り残された澄がどんな思いを抱いたか。不安ばかりが募っていく。

 そう、物部澄という少女には強さと脆さが同居しているような側面があった。強固な鏡面の裏側には、酷く脆くて拙い部分が隠れている。一旦、面を引き剥がされると箍が外れたようになる一面が彼女にはあった。
 根拠のない憶測ではない。過去に例がある。

 中学のときだ。
 物部澄は一度、同級生を半殺しにしている。





 これは同じ中学校の生徒なら誰でも知ってることだろうが、此花春日は中学三年の春先まで酷いイジメに遭っていた。
 ナヨナヨとした仕草が癇に障ったのか、でしゃばりで大袈裟な性格が災いしたのか理由は明確には解からない。イジメの理由など大概は曖昧模糊としていてはっきりしたものはあまりないものなのだろう。ともかく春日は同級生から排斥される対象になっていた。陰湿な手段による嫌がらせだけでなく、直接的な暴力まで振るわれていた。直接イジメに関与していない生徒からも無視され、春日には話しかける相手すらいなかった。
 学校での彼は、凄まじいまでに孤独のもとにおかれていた。
 それでも春日が非登校にならなかったのは彼の底抜けな明るさと、外見からは想像できないほど頑固でふてぶてしい性格ゆえのものだ。だが、春日とて感情の無い人形ではない。辛さや悔しさや哀しさを、感じないわけがないのだ。有形無形の悪意に常に晒される毎日は、着実に彼の精神を蝕んでいた。
 そんな彼が、救いとなるようなものを求めようとするのは、至極自然な事だった。


 なんてことは無い。あたしだって他の連中と何も変わることはなかったんだ、と春日は今でも自嘲している。
 春日が物部澄に近づいたのは、単にどんな相手にでも分け隔てなく善意を傾けてくれる彼女なら誰にも見向きもされないこんな自分でも優しく接してくれるんじゃないだろうか。友達になってくれるんじゃないだろうか。そんな風に自分本位な期待を抱いての事でしかなかったのだ。
 そして、物部澄は春日の期待通り彼に優しく接してくれた。まるで、他の親しい生徒と接するのと同じように親身になって話を聞いてくれたのだ。
 孤独に枯死しそうになっていた春日にとってそれは夢のようなことだった。あの時の救われた気持ちを。天にも昇るような幸福感を、忘れる事は出来ないだろう。
 周囲のものが春日に顔を顰めるのも構わず、物部澄という人は公平に、平等に、春日のことを扱ってくれた。
 彼女は本当に噂どおりの素晴らしい人だった。

 そう思って幸せに浸れていたのも、それほど長い時間ではなかった。

 いつしか、そんな完璧すぎる澄の態度に違和感と不可解さを覚えるようになったのは、多分他の誰よりも孤独で欲深く澄の存在に寄りかかっていたからなのだろうと、春日は思う。
 ほかに何もない此花春日には物部澄のこと以外に思いを馳せる事柄もなかったから、彼女のことばかりを四六時中考えていた。他の人間たちが友達や恋人、勉強や生活、生きていく上で色々と思い巡らせているであろう分を、春日は殆ど澄一人の事を考える事に費やしていた。そうして気付いてしまったのだ。
 彼女があまりにも理想的過ぎる事に。
 理想的過ぎて、彼女のことを考えれば考えるほど、物部澄という人のことが解からなくなっていった。
 彼女の好きなことってなんだろう。彼女にどうやったらもっと自分を見てもらえるんだろう。考えて考えて、その分だけどんどんと彼女の輪郭が曖昧にボケていき、彼女の姿が見えなくなっていった。
 彼女は、いったいどこにいるんだろう。
 そんな疑問に駆られていき、ふとしたとき春日は澄に何気なく問い掛けてしまった。

「物部さんは、どんな自分になりたいの?」

 特に何かが知りたくて問い掛けたわけじゃなかった。こんな質問、誰にしたところで困惑するだけで、なかなかはっきりと答えられる人はいないだろう。だから返ってくるのは、取り留めの無い雑談の延長か曖昧な答えか、どうでもいい誤魔化しか。そういうものだと思っていたのに。

「――――そんなの、あなたに何の関係があるのよ!!」

 突然キレられた。
 それはもう豹変としか言いようの無い反応で。
 ゴキブリか立ち退き勧告に訪れた県職員みたいな扱いでその場から追い払われた此花春日は、次の日から理由も分からぬまま、この世界で唯一の物部澄に嫌われている人間になってしまっていた。

 思えばそれが、彼女の完結した世界(パーフェクト・ワールド)に入った最初の皹だったのだ。

「あれほど盛大に嫌われた事は、あたしでもちょっと初めてだったなあ」

 当時を思い出し、春日は込み上げてくる笑いを堪えきれず、独りでクスクスと口許を綻ばせた。
 その後、嫌われてもなお身の回りに付きまとい続ける春日に対して、物部澄は何を思ったのか逆にちょっかいをかけはじめたのだ。
 それは彼女なりの春日に対する嫌がらせだった。きっとそうすることで春日を遠ざけようとしたのだろう。
 ところがその行動が、当人の思惑とは全然違った妙な方向へと二人の関係を向かわせるはめになる。















§   §   §   §   §














 中学時代の春日の登校時間は、他の生徒より一時間ほど早かった。クラスメイトより登校が遅いと机や椅子を隠されてしまう事がざらにあったし、前日に何かされていた場合――机の中に汚物が入れられていたり、周辺にゴミが散乱していたり――クラスメイトが登校してくるまでに片付けておくことが日課になっていたからだ。
 人気のない下駄箱を素通りして、昇降口まで来ると春日は鞄とは別に携えた袋から上履きを取り出す。これも春日独自の対処法だった。上履きを置いて帰ると次の日にはなくなっているために毎日持って帰るようにしているのだ。
「……あれ?」
 上履きを床に置き靴を脱ごうと身を屈めた春日は、ふといつの間にか目の前に二本の足が生えているのに気付いた。ふらふらと足を辿って上を見上げる。
 なぜか怒りの表情を浮かべた物部澄が、腕を組んで突っ立っていた。
「あ、おはよー物部さん。なんでこんなに早いの?」
「それはこっちの台詞よ。あんたがこんな早く学校来てるなんて知らなかったから一週間も無駄にしたわ」
「はあ……なにを?」
 何か怒鳴ろうとして澄は思い止まったらしい。額に人差し指を当て、こらえるように口をもごもごさせた。
「そ、それはどうでもいいの。此花くん、貴方どうして上履きを持参してるの?」
「え……とね、これは色々理由がありまして」
「なによ、どうしていつ見ても下駄箱が空っぽなのかと思ったら……」
 なにやら俯いてブツブツ独り言を呟いている澄。いまだかつて見たことのない物部澄の不可思議な挙動に、正直ビビりながら春日は恐る恐る声を掛ける。
「あのー、物部さん?」
「……下駄箱」
「はい?」
「ちょっと今すぐ自分の下駄箱を覗いて来なさい」
「なんで?」
「いいからっ!」
「はい!」
 飛び上がって元来た道を戻った春日は、ここ半年ばかり覗いた事もない自分の下駄箱の戸棚を開いてみる。
 中には何故か新品の健康サンダルが入っていた。どうやら特別製らしく普通の健康サンダルよりも足の裏を刺激するイボイボが見るからに凶悪そうである。しかも、左右が青とピンクの色違い。
「えと……なに、これ?」
 困惑する春日の背後に現れた生徒会長は、わざとらしく目を見張り、
「まあ、大変。上履きがなくなっていて代わりに健康サンダルが。どうやら今日はそれを履いて過ごすしかないようね」
「上履き……あるんだけど」
 おほほほ、と高笑いしていた澄は物凄い勢いで足元にあった春日の上履きを拾い上げると、反対側に振り向き、空いた窓の外へと全力で上履きを放り投げた。
 そしてくるりと向き直ると、何事も無かったかのように先ほどの台詞を繰り返した。
「まあ、大変ね。上履きがなくなっていて、代わりに健康サンダルが。どうやら今日はそれを履いて過ごすしかないようね」
「あ……う」
 なんかもう云える言葉もなく呆気に取られている春日を残し、澄は高笑いしながら悠然と去っていこうとして、ふと立ち止まる。
「ところで此花くん、下駄箱をゴミ箱代わりにするのは以後禁止ですからね。まったく、下駄箱は靴を入れるところでしょうが」
 そう言い残し、怒ってるのか満足してるのか良く判らない足取りで彼女は立ち去っていった。
「ゴミなんて入ってなかったけど……というか、なに? 物部さん、いったいなにがしたいわけ?」
 混乱する春日が独りポツンと残される。
 ちなみに、帰宅するとき下駄箱を開けてみると、投げ捨てられた上履きはちゃんと揃えて返してあった。




「昨日のあれって、なんだったんだろ」
 一休禅師よろしく目を波型にして考え込んでも答えは浮かんでこず、春日は今朝も独りまだ誰もいない教室にやってきた。鞄を置き、まず机の中を捜索する。今日はゴミや汚物の類は入っておらず、安堵とも諦観ともつかないため息をついた春日は中にポツンと手紙が一枚入っているのを見つけた。
「なんだろ、これ」
 ピンクの便箋に、ハートマークのシールが貼られている。宛て先は『此花くんへ。』となっていた。
 とりあえず、ビリビリと破いてゴミ箱に捨てる。
「いきなりなに残虐非道な真似してんのよ、あんたはっ!!」
「うひいいいい!?」
 引き戸が壊れそうな勢いで開き、飛び込んできた澄に飛び蹴りを喰らい、春日は悲鳴をあげながら窓際までゴロゴロと転がっていった。
「い、いきなりなにするのよー!?」
「それはこっちの台詞よっ! せっかくもらったラブレターを中身も読まずにいきなり破り捨てるとはどういう了見よ!」
 頭を掻き毟らんばかりの勢いで怒鳴られて、春日はキョトンと目を瞬いた。
「……え? これラブレターだったの?」
「どうみてもラブレターでしょうがっ! 他に何があるってのよ!!」
 なるほど言われて見れば、確かに世間一般で言うところのラブレターと呼ばれる書状と様式が酷似している。てっきりいつもの罵詈雑言が延々と綴られている脅迫状か何かと思って破いてしまったのだが。
 参ったなあと春日が頭を掻いてるうちに、澄はゴミ箱をひっくり返すと、物凄い勢いで破られた手紙をセロテープで修繕し、春日の机の上にたたきつけた。
「あ、ありがとう」
「礼はいいから、さっさと読みなさいッ!!」
「は、はいぃ!」
 叱られるがまま春日は継ぎ接ぎだらけの手紙に苦労して眼を通した。傍らで澄が腕組みして呼び飛ばさないか睨みつけているので、なんとなく声に出して読んでみることにする。
 手紙には、何だか凄く無理をしているみたいな筆圧で、此花春日という人を自分がどれだけ好いているかが切々と綴られており、最後に時刻と場所が明記され、そこで一度会って欲しいという趣旨の内容が書かれていた。
 これでいいんだろうかと横目で伺うと、何故か澄は顔を真っ赤にして照れていた。
「べ、別に声に出して読まなくてもいいでしょう」
「え、あうん。ごめん」
「そ、それでわかったの?」
「わかったけど」
 読み終えた春日は首を傾げた。
「別に、わざわざ読ませなくても、目の前にいるんだから直接言ってくれればいいのに」
「…………」
 虚を突かれたように澄は黙り込んだ。
「これ、物部さんが書いたんでしょ? て、照れるなぁ、まさか物部さんにこんなに好かれてたなんて。なに? もしかしてあれ? 嫌よ嫌よも好きのう…………」
 いつのまにか澄は無言で手近にあったパイプ椅子を振り上げていた。
「あーっ、冗談です、ちょっと言ってみたかっただけです、ごめんなさいごめんなさい」
「ふん」
 詰まらなさそうに鼻を鳴らし、物部澄は足早に教室から出て行った。
「って、でもこれどう考えても物部さんが書いたんだよね。なにがやりたいんだろう」
 あまりのワケのわからなさに春日は頭がクラクラしてしまった。いろいろと理不尽な真似に曝されてきた春日だが、これほど理不尽な思いをさせられたのははじめてだった。ほんとにわけがわからん。
 放課後、手紙に指定された時間通りに春日は化学室へ向かった。あまり気は進まない。以前、授業中にわざと薬品を掛けられ手にヤケドをしたことがあり、化学室には何となく忌避感があるのだ。
 それでも澄に念押しされてるだけに無視するわけにも行かず、春日は恐る恐る化学室のドアに手を掛けた。開いている。
「鍵、なんで開いてるんだろうね」
 この学校には化学部なんて高尚なものは存在しないから、使われない特別教室は授業時間が終ると同時に鍵が閉められる。鍵の管理はしっかりしているから、理由も無く貸し出されるはずもない。それなりの立場の人間が必要と申し出ない限りは。
 春日がどう頭を捻っても、それなりの立場に該当する生徒は一人しか思い浮かばない。もしかしたら仲介役でも引き受けたんだろうか。でも、自分なんかに好意を抱く子がいるとは思えなかったし、もし居たとしても此花春日と仲良くしようという行為がどれだけ危ない橋を渡ることか判ってない人がこの学校に居るだろうか。一応、世情に疎い子が居た場合を考慮して、断りと忠告の台詞を考えながら春日は化学室の中を窺った。
 誰も居ない。
「……帰ろう」
「一秒も待たずに帰るバカがどこにいるのよ!」
 白いカーテンがばさりと翻り、柳眉を逆立てた物部澄がしがみついていた窓枠から飛び降りてきた。どうやら隠れていたらしい。胸倉を掴まれ、物凄い勢いでぶんぶんと前後に振り回されながら、春日は辛うじて尋ねた。
「……なななななにやってるの?」
「か、監視よ」
 途端、動揺も露わに澄は目を逸らす。
「な、なんの?」
「貴方が速攻で帰らないかどうかの監視よ」
「はあ、そうなんだ」
「そうよ」
「…………」
「…………」
 いたたまれない沈黙が広がる。
 耐え切れなくなって、春日はクルリと反転した。
「じゃ」
「だから帰るな!」
「ど、どうしろっていうのさ」
「せっかく来たんだから、ちゃんと待ちぼうけを喰らいなさい。それで2、3時間無為に過ごしてからようやくからかわれたんだと気付いて、泣きながら帰るの。解かった? OK?」
「わ、解かりました。OKっす」
 一応答えに満足したのか、澄はフンと鼻を鳴らして春日の胸倉を解放し、パタパタとスカートについた埃をはたいた。
「まったく、一から説明しないと解からないなんて、愚図ね」
「なんかものすごく理不尽な事云われてる気がするよ?」
「余計な事は気にしない!」
 きっぱりと言い放ち、澄はテーブルの上に逆さに置かれた丸椅子の一つを取り上げると、おもむろに腰を下ろした。
「あのー、物部さんも待つの?」
「当然でしょ。貴方、私が目を離したら帰るつもりでしょう」
「た、多分ね」
「ほら、監視しておかないと。それに、ここにいないとあんたが悔し泣きするところが見れないじゃない」
「そうなんだ。あははは、そのとおりだね」
 なにがそのとおりなのか自分でもよくわかっていなかったが、とにかく相槌打っとかないとひどい目に遭わされそうな気がして、春日はうんうんと頷いて見せた。
「ふん、嬉しそうにしちゃって。浮かれてるのも今のうちよ」
 自信満々に腕組みをしてほくそえむと、ご機嫌になった彼女はその後延々三時間に渡って春日の普段からの不真面目な態度について説教を繰り広げる事となる。
 結局なにがなんだかわからないままだったが、春日は嬉しかった。一時期は澄にも完全に拒絶されていたのだ。それに比べればいくら嫌われていても理不尽なことをされても、澄に構ってもらえてる。
 なにより、意味不明な理由で怒り喚き笑っている物部澄は、自分でも気付いていないみたいだったけど、

 とても楽しそうだった。











 今の彼女を知る人からすれば想像も出来ないだろうが、この頃の物部澄という少女は信じられないくらい善良な精神の持ち主であった。必要とあれば詐欺師顔負けのタフな交渉もこなす能力を持っていながら、その奸智をプライベートな出来事に振り向け発揮させることがまるで出来ない少女だったのだ。
 彼女の特徴である猛毒のような舌鋒や、雀蜂のような攻撃に対する反応の過激さは、すべて後年……あの事件が起こってから中学を卒業するまでの環境で培ったものだ。
 彼女はそれを、自分たちを守るために必要だから身に付けた。













 ほぼ連日のように続けられた澄の嫌がらせは、それまで筆舌しがたい陰湿な嫌がらせを受け続けていた春日にとっては、気にするのが馬鹿らしいほど他愛なく、可愛らしいものだった。それどころか微笑ましいぐらいで、密かに今日は何をしてくるんだろうと楽しみにしていたくらいだ。
 そうした春日の気分は、当然のように澄へと如実に伝わり、彼女はどんどんムキになって嫌がらせをエスカレートさせていった。
 その頃になると、澄は執拗に付きまとってくる春日を自分から遠ざけるためという嫌がらせを始めた当初の目的を完全に忘れ去っていた節がある。遠ざけようとして自分が付きまとっているのだから世話がない。
 まったく妙な事になっていた。
 周りの人間達はこれまで見た事が無い澄の奇行に困惑を隠せず、当の澄は周囲に目配りする余裕も無く夢中になって春日ばかりを追いかけていた。
 そして春日はといえばこの上ない幸福感に包まれていた。なにしろあの物部澄に――あの誰にでも笑顔を絶やさない代わりに誰のことも見ていなかった物部澄に、だ――他にも目もくれず追い掛け回され、生の感情をぶつけられていたのだから。例えそれが嫌悪や憎悪だったとしても、彼女が自分だけに夢中になってくれていることには変わりは無い。
 とはいえ、春日にこれからこの妙な状態をどうしようというプランがあったというわけではなかった。春日は状況を楽しみつつも澄が本当は何を考えているかさっぱり解かっていなかったし、どうやら澄本人も自分が何をやってるのかさっぱり解かっていないであろうことも承知していた。漠然と、これをきっかけに彼女がもう少し自分の思う通り動ける人になってくれれば嬉しいなあ、などと受動的に考えているだけであった。
 澄はといえば、慣れない他人の鏡としてではない行動を取る事に必死で、まともに何かを考えているわけではなかった。生まれて初めて味わう激しい感情に呑まれていた、と言ってもいい。とにかく彼女は無我夢中で周りも何も見ていなかった。







 様々な事柄が変化を迎え始めていた。
 もしこのまま何も起こらずに時間だけがすぎていたのなら、物部澄と此花春日を取り巻く環境は穏やかな形で着地点を見出していたのかもしれない。
 だが現実はそうはならなかった。







 事件は澄による春日への嫌がらせが始まって3週間が経った土曜日の、その日の授業とHRが終わりクラスが解散となった直後に始まった。
 かねてから澄の奇行を心配していたクラスメイトの一人が、彼女に春日へのイジメの事実を知らせた事がきっかけだった。

 どうやら澄は、この時点まで春日がイジメの対象となっている事を全く知らなかったらしい。
 春日は決して自らの置かれた状態を口にしなかったし、周りの人間も学校のアイドルであり正義たる物部澄にわざわざ――彼らの主観として――そんなどうでもいい話を注進するようなことはしなかったからだ。
 そして、澄が他人が見ない振りをしている事にわざわざ興味を抱く人でなかったことも理由の一つに上げられるだろう。彼女はあくまで鏡であり、隠されようとしているものを照らし出そうとする探照灯ではなかった。

 そのクラスメイトは澄の春日に対する嫌がらせを批判的に見ていたらしい。春日への同情ではなく品行方正で尊ばれていた澄が嫌がらせというつまらない行為に没頭している事が我慢ならなかったようだ。
 彼女は、既に深刻のイジメの対象となっている春日に対して、追い討ちを掛けるような真似をするのは酷いのではないか、と澄に詰め寄った。そして、どういう事かと問う澄に、春日へのイジメの実体を自分の知る限り洗い浚いぶちまけたのだ。

 物部澄は――たっぷり五分ほど、完全に表情を無くして立ち尽くしていたという。

 なにものも寄せ付けない雰囲気に、イジメの実情をぶちまけた当人であるクラスメイトをはじめ、その場にいた誰一人として澄に話しかけることが出来なかった。そして面をあげた澄は、今はじめて目の前のクラスメイトの存在を認識したような顔をして、不思議そうに訊ねた。
「貴女はそれだけ知っていて、何もしなかったの?」
 そして、絶句するクラスメイトの前で悪魔のように口許を歪め、
「で。私は、そもそも知ろうともしなかったわけか」
 そう呟くと、彼女は額に手を当てて天井を仰ぎ、堪えきれぬようにゲラゲラと声をあげて嗤ったのだった。
 澄が教室を出て行った後も、そのクラスメイトを含めてその場にいた全員が、しばらく凍りついたまま身動ぎも出来なかったという。
 物部さんが狂ってしまったと思った、と皆が口を揃えた。
 おそらく、その印象はあながち間違っていなかったのだろう。まさにあの瞬間、彼らが見知っていた物部澄は完全に壊れてしまったのだから。

 事件はその二時間後に発生した。

 急報を受けて部室棟に駆けつけた教師たちが見たものは、男女の区別無く元の形がわからぬほど顔面を殴打され昏倒している複数名の生徒と、泣きながら喚いている此花春日。そして彼を腰にしがみつかせたまま――どうやら春日は彼女を止めようとしていたらしい――血塗れの拳をぶらさげてなおも倒れている生徒たちに襲い掛かろうとしているケモノじみた物部澄の姿だった。


 この事件を境に、澄に対する周囲の目は、完全に一変する。
 手のひらを返すように、澄は近づく事だけで噛み殺される怪物のような扱いを受ける事となる。
















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