なだらかな弧を描く道すがら。今日の公演を終えかけている蝉時雨の寂しげな鳴き声を聞きながら、少女と少年は歩いていた。
 道沿いに設置された柵には、年月を感じさせる赤い錆びが浮いている。栞は錆びに触れないように、柵の向こうに手を伸ばした。
 手に平を涼しげな風がすり抜けていく。
 伸ばした手の下には石造りの古い水路が走っている。住宅街の隙間を縫うように走っているそれは、明治時代に作られたものだと聞いている。二十年程前まではゴミとヘドロが溜まったドブと化していたそうだが、今では透明な水が澱みなく流れていた。味も素っ気もない街並みの中にあるちょっとした憩いの空間として住人にも親しまれている水路だ。
 日の長い真夏とはいえ、そろそろ西の空にはしっとりとした茜色が広がり始めている。サラサラと流れる水の中では名も知らぬ川魚が今日最後の日の光を求めるように、水面に顔を覗かせていた。
「栞っ、魚、魚がおるやん」
「魚ぐらいいるでしょ」
 泳ぐ魚を見ること自体珍しいのか、いささかはしゃいだ様子で柵から身を乗り出して水路を覗き込んでいる薫に、栞は投げやりに答える。肩に圧し掛かる疲労感に、栞は足取りも重く溜息をついた。
 疲れた。今日は本当に疲れた。
 肉体的なものもあるが、その大半は精神的なものだ。我を忘れている間は良かったが、こうして冷静になってみるとなんとむちゃくちゃやったものだと胃が痛くなってくる。
 栞はなんだかムカムカっと来て、熱心に水路を覗き込んでいる少年の後頭部をポカリと叩いた。
「わあっ、たっ、たっ」
 腰の捻りが切れすぎたのか薫は水路から落ちそうになっていた。
 必死に柵にしがみついて堪えた薫は、身体を引き戻す反動で柵から飛び退き、栞を睨みつけた。
「なっ、なにすんねん。ほんまに落ちるとこやったやん!」
「チッ、こらえたか」
「落とすつもりやったんか!?」
 栞の本気を知ってやや蒼白になりながら怒鳴る薫を、彼女はギロリとねめつけた。なんか文句あっか、と言わんばかりである。勿論文句はありありだった薫だが、逆らうとホントに突き落とされそうな気がしたので言葉を飲み込む。
 眼光に怯んでいる薫を不機嫌そうに無言で見据えていた栞は、やがてぼそりと口を開いた。
「薫くん。私が機嫌悪い理由、わかってるよね」
 わかんないなら絞める、と言わんばかりの雑巾絞りのジェスチャー。
 絞られてはたまらんので、薫は脂汗を浮かべながら頭を捻った。
「ぼ、ボーリング3ゲームやって合計120ピンしか倒せなかったことやろうか」
「ぐはっ」
 栞はアッパーカットを喰らったみたく仰け反った。
「く、くあぁぁ、悪かったねっ、どうせ私は全部で42本しか倒せなかったですよ!」
 1ゲーム平均14ピンである。
 お陰で此方から喧嘩を吹っかけたにも関わらず、ボーリングでは真琴たちに大敗を喫してしまったのだ。
 あれは大恥かかされた。
「それもあるけど、そうじゃないでしょ!」
 ガァーっと噛みつかれそうになり、慌てて薫は記憶を手繰り寄せる。
「じゃあ、カラオケで60点以上出せへんかったことか!?」
「ぷぎゃっ」
 鼻面にハンマーパンチを喰らったみたく栞はたたらを踏んだ。
「くけえええ、悪かったねっ、どうせ私は一度も50点以上出ませんでしたよ! というか、あの機械壊れてた!」
「オレ、0点てはじめて見たわ」
「うるさい!」
 あの瞬間の真琴の嫌味極まりない薄笑いを思い出し、栞はアスファルトを砕かんばかりに地団駄を踏んだ。
 いつかカラオケマイクのコードでくびり殺してやる、あの女。
「じゃなかった。そうじゃない、そうじゃないでしょ。あのね、薫くん。いつまでもわからない振りしてたら、本気で怒るよ」
「…………」
 ムッと唇を引き結び薫は俯いてしまった。むくれている。
 そのガキっぽい態度に栞は気を削がれ、そびやかしていた肩を落とした。
「……君って、ほんとに意地っ張りだね」
「別に、そんなんと違うよ」
「でもわかってるんでしょ?」
「…………」
 細めた眼で見つめられ、薫は居心地悪そうに身じろいだ。
「今回は薫くんにあんまり言える立場じゃないけどさ。私も一緒になってムキになっちゃってたもんね。はぁ、もう自己嫌悪だよ」
 ガックリと落ち込んでいる栞を上目に見ながら、薫は消え入りそうな声でごめんと呟く。
 相手が目の前から消えて、のんびり帰路についていれば、自然と頭も冷えてくる。薫もわかってはいるのだ。今日の自分がどれだけ大人気なかったかぐらい。
 かくいう栞本人も諌めるどころか便乗して一緒に角突き合わせているようでは話にならない。どうして真琴の言葉にあんなに過剰反応してしまったのか。
「でも、あいつ、どうしても我慢できんで……」
「だからって、あれじゃあ他の人にも迷惑でしょ。あー、あとで一子とか美汐さんに電話して謝っておかないと」
 結局、今日一日ギスギスし通しで、一子や和巳たちにはとばっちりを喰わせてしまった。さぞ居心地悪かっただろう。楽しむどころか息苦しいばかり堪能させてしまったに違いない。今更ながら申し訳なさに身が縮む思いだ。
 なんでか、木乃歌だけ別れ際に、今日は堪能させていただきました、なんて満たされ切った顔でお礼を言われたけど、ありゃいったいなんだったんだろう……皮肉か?
「それにしてもどうして薫くん、あんなに小太郎くんのこと、嫌うわけ? 君ってキツいけど、短気じゃないと思うし……」
 不思議そうに栞は顎に人差し指を当てた。けっこう感情的な面があるのは知っていたが、感性で動く栞と違って彼はどちらかというと物事を考えてから行動するタイプだったはずだ。散々ヒトを考え無しみたいに嫌味たらしく小馬鹿にしてくれたんで、そこらへんは嫌というほど実感していたのだが。今回の彼と来たら一体全体どうしたのやら、触れたら即バクハツ、みたいな過剰反応ではなかったか。明らかに奇妙だった。
 それに、薫くんの場合、本当に嫌いな相手には人間扱いしない無視を決め込むのだと、潤さんが言っていなかったか。
「それは、別に、生理的というか」
 口篭もりながら、薫は苦しそうに栞の華奢な肩のラインをじっと眺め、視線を落とし広げた自分の手のひらを見つめる。
「……ん?」
 肩にゴミでもついてるんだろうか、と首を捻ってみるものの、何もついてる様子は無い。キョトンと薫を見つめると、何故かそーっと爪先立ちになり背伸びをしていた彼は、慌てて踵を地面につけて何事もなかったかのように口をひん結んだ。そうして栞が不思議そうにしているのをチラリと見ると、どこか拗ねたような眼をして、ぷいと顔を背けた。
「……??」
 わけわからん。
「とにかく、無理に仲良くしろとは言わないけど、今日みたいなことはダメだからね」
「うん、ごめん」
 しおらしく謝った少年に満足し、栞はドンと彼の背中を叩いた。
「よし、いいお返事。それじゃ、とっとと帰りましょうか」
 敢えて、真琴との仲直りについては考えないようにして、栞は薫の背中を押すように歩き出した。
 そのとき、栞の提げた鞄から音楽が鳴り出した。
「栞、なんか鳴ってる」
「あ、電話だ。ちょっと待っててね」
 誰からだろう、と肩から提げたトートバックに手を突っ込み携帯電話を探り出している栞を見上げながら、薫は少し距離を取った。人様の電話に聞き耳を立てるのも気が引けて、なんとなく周囲に視線を巡らせる。その時だ。トントンといきなり肩を叩かれて、薫は飛び上がった。
「うわっ!?」
「あ、ごめん。吃驚させちゃった?」
 外出先からの帰りなのか、ハンドバッグをクルクルと回して美坂香里が、やっ、と愉快そうに手を挙げていた。
「か、香里姉ちゃんか。び、びっくりした。気配消して近づくなんてやめてや」
「気配消すなんて出来ないわよ、あたしは。あなたたちも今帰り?」
「う、うん、今帰り」
 頷きながら、薫はそれとなく香里から視線を逸らした。今日の香里は薄いキャミソール姿で、直視してしまうとどうしても、素肌が露わになった肩から二の腕のラインや大きく開いた胸元が視界に入ってしまうのだ。それでなくても、薄っすらと化粧の施された彼女の容貌は綺麗の一言で、まともに見ていると薫などはドキドキしてしまう。
「どうしたの? ちょっと顔が赤いわよ?」
「ん、なんでもない」
「ああ、そうか。またあの子に無茶苦茶に連れまわされたんでしょ。ごめんなさいね、疲れたんでしょ。あの子に付き合ってたら幾ら体力あっても足りないんじゃないかしら」
 一人合点してる香里の言葉になんとも表現し難い表情になりながら、薫は曖昧に頷いた。
「……やっぱり似てるわ、この姉妹」
 香里は薫の独り言には耳を傾けていなかった様子で、まだ電話を続けている栞の方を顔を顰めて見つめている。どうやら栞は電話に夢中で姉の存在は無視しているらしい。
「あれ、誰と電話してるのかしら」
「さあ」
 傍目にもわかるほど、栞は浮かれているようだった。少なくとも、電話しながら「きゃっきゃっ」と飛び跳ねているのが浮かれているのではないとしたら、彼女が奇妙な新興宗教にのめりこんでいると危惧しなくてはいけなくなるだろう。
「北川くん……かしら」
 確かに、栞があんな反応を示しそうな相手といえばそれぐらいしか思いつかないけれど。薫はふと違和感を感じて横目に隣の女性を窺った。
 一瞬、今の彼女の呟きが呻きのように聞こえたのだ。だが、盗み見る彼女の横顔は淡々としていて、特に違和感を感じるようなことは無かった。
 そうするうちに、栞が電話を終えたようだった。しばらく携帯電話を握り締めたまま、プルプルと震えていた彼女はいきなり、
「おっしゃあああああ!」
 と携帯電話を握り締めたまま拳を突き上げ、凱歌をあげた。
 どうやらのめり込んでいるのは新興宗教ではなくプロレスだったようだ。
 思わず後退ってしまった薫と違いスタスタと物怖じせず詰め寄った香里は、一瞬の躊躇もなく妹の頭をはたいた。
「往来でなに恥ずかしい事してるの、あんたは」
「お、お姉ちゃん、いつの間に!? ハッ、さては気配を消して近づきましたね、おのれ油断も隙もないとはこのことかぁ!?」
「さっきからずっと居たわよ」
 腰に手を当てて、香里は妹をねめつけた。
「まったく、あたしにも気付かないなんて。随分話に夢中だったみたいじゃないの、あん? 相手は誰なの? 北川くん?」
「あんって……一般人をカタギとか呼称する人種ですか、お姉ちゃんは。潤さんじゃないですよ違います。お姉ちゃん、覚えてるかな。前に話したよね、氷上さん」
「氷上?」
 一拍二拍と記憶を辿っていた香里が、意表を突かれたように目を瞬いた。
「ああ。確か、前に言っていたあなたと同じ病気の」
「うん。実は今、また小菅病院に来てるらしいんです。一週間後に此方で手術するらしくて」
 話についていけない薫は、奇妙なほど嬉しそうな栞の喋る内容を黙って聞いているしかなかった。
「それで、明日なら抜け出せそうだからまた会ってくれるって――」
 疎外感。姉妹からポツンと離れた場所に立ち尽くしながら、なんとなく面白くない気持ちをこねまわす。
「くくくっ、チャンスですよ」
「チャンスって、なんのよ?」
 ついさっきまでは空の隅っこだけだった茜色が、いつの間にかもう真上にまで広がってきている。薫はもう一度水路を泳ぐ魚でも見物してようと、柵に手を掛けた。
「なにって、決まってるじゃない。NEW彼氏ゲットのチャンスだよ」
 …………え?
 振り返りはしなかったものの、全意識が背中の向こうに引き寄せられる。
「にゅう……って、あんた、前に言ってたこと、本気だったの?」
「本気に決まってるじゃないですか! 惚れた腫れたを冗談で済ませられるほど器用じゃないの、私は」
 呆けたように弾む栞の声に聞き耳を立てていた薫の目前に、水の中から飛び跳ねてきた魚が空中で身を捩った。
「あ」
 虚を突かれる。背中に集中していた意識が、目の前に現われた川魚に引き寄せられる。だがいきなり栞の話から意識が剥がれるはずもない。正反対にダッシュしたランナーの腰にロープが結び付けてあったみたいなものだ。引き裂かれた意識は、両方見事にくの字になってぶっ倒れた。
「ら?」
 気がつけば、薫はまさに反射的としか言いようのない感じで、宙を泳ぐ魚に手を伸ばしていた。
 捕まえようとか、手が届きそうだとか、そんなことは考えてもいなかった。
 ただ、つい無意識に、体が反応してしまったのだ。
「え……ちょっ、のわああああ、なにやってるの危ない、薫くん!?」
「ら?」
 仰天した栞の声が聞こえたときには、あれ? と思う間も無く地面から足が浮いてしまっていた。
 バランスを崩し、ズルリと頭から柵を越えて水路へと転げ落ちる途中、足の間から逆さまに、拳骨が入りそうなほど大口を開けた栞の姿が垣間見えた。
 ほうけてしまった頭の中で、この一言だけが思い浮かんだ。

 栞、口開けすぎ。








『バシャーンて、バシャーンて。ひあっはっははははははは』
 たとえ見えなくても判ることというのは案外たくさんあるものだ。例えば、今、美坂栞は脱衣所の床に座り込んで、足をばたつかせてバカみたいに大口を開けながら笑い転げている。見えないけれど間違いない。
「…………」
 内心かなりヘコみながら、薫は頭からお湯を被った。そんなに笑わんでもええやないか、とモゴモゴ口の中で呟く。脱衣所からはいつまで経っても笑い声が途絶える様子は伺えない。
『普通落ちないよ、あんなところ。薫くんてば器用すぎ。ひひひーっ、息できません、助けてー』
 ゴンゴンゴンゴン。
 壁を叩くな、壁を。穴あくぞ。

 幸い、というべきなのか。水路は立っても太腿あたりに水面がくる程度の底の浅さだった。クルリと一回転して尻餅をつくように落っこちた薫は全身びしょ濡れになっただけで済んだ。夏場なのも幸いだった。もしこれが真冬なら、あまり笑えない話になったかもしれない。それでも濡れたままでは風邪をひくと、美坂姉妹に帰った早々風呂へと叩き込まれたのだ。
 それはいいとして、なんでか栞は脱衣所に居座ったまま出て行こうとしない。さっきから延々と笑いながら薫の失敗をからかい続けている。
「栞、お前なんでそこにいるわけ? オレ、落ち着かへんねんけど」
 薫はぼそぼそとドア越しに訴えた。女性がドア一枚隔てた場所で裸でいるというのは、年頃の少年としては気恥ずかしいものがある。それぐらい察して欲しいものなのに、栞はあっけらかんと言った。
『えー、だってちゃんと見張ってないと、君がお風呂で溺れたら大変じゃない』
 ひでえ見縊りようだった。
「いくらなんでも風呂で溺れるかよっ!」
『いやぁ、魚取ろうとして水路に落っこちるくらいだから、お風呂で溺れる事だってあり得なくないよー。もう、私心配で心配で、うひゃひゃひゃ』
「それのどこが心配してんねん!」
『もう心配で心配で涙がダバダバだよー』
 そりゃ単なる笑いすぎだ。
 最悪だ、このオンナやっぱり最悪だ。少しでも付け入る隙を見つけたら、そこから際限なく傷を抉ってくる。触れないでおいてあげようという優しさや、武士の情けが根本から欠けているのだ。
『ねー、薫くん』
「……なんよ」
『今日一日遊びまわって、私も汗掻いちゃったんだけど』
「はあ」
『面倒だし、一緒に入っちゃった方が良くない?』
「い、いいわけあるかぁっ!」
『イヒヒヒ、冗談だよ冗談。本気にした? ってか、してたね、あはははは』
 ゲラゲラを笑い転げる物音を聞きながら、薫はグッタリと湯船にしなだれかかった。
 誰か、この女にデリカシーというものを教えてあげてください。
「潤ちゃん、なんでこんなのと付き合ってたんだ?」
 尊敬する従兄にまつわる最大の謎である。
「というか、こんなだから別れたんか。それなら納得」
 ――ガチャ。
「おーい、なんか失礼なこと言わなかった、今」
「うわああああ、のぞくなあほーーーっ!」


















§   §   §   §   §



















「では、よろしくお願いしますね」
「はい、わかりました教頭先生。明日までには良いご報告をお返し出来ると思います」
「まあ、さすがは物部さん。頼りにしていますよ」
 頭を下げ、職員室を後にする。廊下に出ると、すぐに誰かから声がかかる。
「会長、ちょっと体育館の使用時間でバレー部と揉めちゃってさ。どうにかしてくれよ」
「わかったわ。向こうの話も聞いてみるから、放課後に改めて話を聞かせて」
「物部さん、今日帰りに新しく出来たクレープ屋行くんだけど、一緒にいかない?」
「こらこら、買い食いは禁止よ。明日だったら付き合えるけど」
「おい、物部。頼む、宿題忘れちまったんだ。ノート見せてくれ」
「ノートなら隣のクラスに貸し出し中。回収しておいてくれたら、別に中見るくらい構わないわよ」
 内心は少し面倒だなと思わないでもなかったが、間違っても素振りには出さない。話し掛けてくる人くる人に、丁寧な対応を心掛ける。それが私の役割だからだ。
 職員室から生徒会室までの僅か三分の道のりを、たっぷり十五分以上かけて辿り着いた私は、ようやく一人になれた安堵に吐息をつく。
「大変そーだね、人気者は」
 誰も居ないはずの生徒会室に響く声。私は驚きに持っていた書類を胸に抱き締めてクシャクシャにしてしまった。他人には聞かせられない無作法な舌打ちを思わずしてしまい、苛立ちながら声の主を見つける。
「また、貴方なの?」
「またとか言わないでよ。おはよ、物部さん」
 ソファーに寝そべっていた生徒が身体を起こして此方に手を振る。女の子みたいな華奢な身体。女の子みたいな丸みのある肢体。女の子みたいな可愛らしい容貌。つまりは女の子みたいな男の子だ。私も、はじめてみたときはどうして女の子が男子の制服を着ているのかと面食らったものだ。
 私は彼の存在自体を無視して、自分の席に付き、皺くちゃにしてしまった書類を引き伸ばす作業をはじめた。
「出て行きなさい。生徒会室は貴方みたいな人に昼寝させるための場所じゃないの」
「つれないなあ。どうして物部さんてあたしにだけそんな態度冷たいわけ? 他の人には怖い先生でも不良の人でも笑顔で隔たり無く接してるのにさ」
 言葉だけみれば不平に口を尖らせているようだが、その口振りときたら纏わり着くような甘ったれた声調で、私は虫唾が走るような悪寒に顔を顰めた。
 どうして? そんなことは私の方が知りたい。
 私は、この生徒が大嫌いだった。何故だかはわからない。だが、この男の言動は、私の神経を逆なでする。
「嫌なら、付きまとうのをやめればいいでしょう」
「うーん、別に嫌ってわけじゃないよ。それに、あたしって他に友達いないから」
 哀れみを誘うような事を、カラっと乾いた声で言う。それが余計に癇に障り、瞬間カッと頭の奥で何かが爆発した。
「誰が友達よ! 貴方が嫌いじゃなくても、私は貴方が嫌いなのっ、それぐらいわかりなさいよ!」
 気がつけば私は机に両手を叩きつけ、椅子を蹴飛ばし立ち上がっていた。
「…………」
 頭が真っ白になる。面と向かって言ってしまった。今まで、なんとか態度で示すだけで我慢してきたのに。こんなのは、私らしくない。私に相応しくない。私という人間がやってはいけない反応で。なのに、私は自分が本心を怒鳴りつけた事でスッキリしているという事実に、混乱した。
 誰かを怒りに任せて怒鳴りつけるなんて初めてで。いや、それを言うなら他人のことをこんなにも嫌いになったこと自体が初めてで、何もかもが私の枠を逸脱していて混乱に拍車が掛かる。
 私はどうしたらいいのかわからずに戸惑うばかりだった。
 怒った、だろうか。それとも、悲しんでいるだろうか。当然だ、ひどいことを言われて傷つかない人間は居ない。私は自分が彼の反応に怯えていることに驚きながら、上目に彼の様子を伺った。
 彼は、春の日差しのように、にっこりと笑っていた。
「キッつう。でもへんだなあ。すごいショックなんだけど、今、ちょっと嬉しい気がするよ」
「……なに、言ってるの?」
「誰も見たことが無い物部さんの素顔、見えた気がした」
「……え」
「じゃ、そろそろあたしは退散するね。無理に居座ってこれ以上嫌われるとさすがに辛いし」
 ソファーからピョンと降り立ち、ハムスターみたいな小走りで彼は入り口へと駆けていき、
「物部さんは今みたいにもっと自分を出したほうがいいと思うよ。じゃあね、ばいばい、物部さん。あたしは君のこと、好きだからねー」
 あっけらかんと勝手なことを言い残して、消えてしまった。
「なんなのよ、あれは」
 茫然と、私は閉ざされた引き戸を見つめるしかなかった。
 突然、私の世界に現れたイレギュラー。これまで波一つ立たず思う通りに進んできた私の人生に生まれた、初めてのさざなみ。
 彼だけは、私に何を求めているかわからない。他人の期待に応えることを当然のように思ってきた私にとって、彼の存在は不可解で、恐ろしいものだった。
 本当に、怖かったのだ。







 1998年初夏――――少女はいまだ光が照らす下にいた。






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