「若、入ります」
 返事も聞かず、ドアを開けて入ってきた眼鏡の女性を、井上義行(いのうえ よしゆき)は手で制し、電話の相手に一言二言指示を送り、受話器を置いた。
 いつになく陰鬱な彼の様子に、彼女はある種の予感を抱きながら問い掛ける。
「なにかありましたか」
「薬問屋と連絡が取れなくなってる。定時連絡に応答が無くてね」
「そうですか」
 薬問屋とは土門製薬工場に置いてきた一団のことだ。
 カーテンの降りたままのビジネスホテルの部屋は、薄暗く重い空気に閉ざされていた。彼は受話器を置いた姿勢のまま立ち尽くしている。暗い、男だった。未だ二十を半ば越えた程度の年齢ながら、その背には重たい影を背負っている。沈痛に閉ざされた瞼。眉間に寄せられた深い皺。この世の奈落を噛み締めているかのような。
 彼の名は井上義行。邑紙家術派執行群『山浦衆』の現頭領井上康三(いのうえ こうぞう)の嫡子であり、今回の叛逆劇の首魁として本家より離反した山浦衆四十八名を導く立場となった人物だ。
 女は動こうとしない彼の脇をすり抜け、窓際に辿り着くと閉ざされたままだったカーテンを引いて、部屋に光を入れた。
 絡まった糸がほどけたように、義行はベッドに腰を下ろした。深々とした吐息。組んだ手に額を押し当てる。

「どう思う、望月」
 女性は人差し指で眼鏡を押し上げ、詰まらなそうに答えた。
「まあ、ダメでしょうね。やられたんでしょう。残念でした」
 酷く素っ気無い言い草に、義行は思わず顔をあげた。呆れている。
「身も蓋もない言い方だな」
「では、どのような言をご所望で?」
「……多少なりとも気休めの言葉を期待してたんだがな」
「ご冗談を。そのような戯れ言は頭の悪い馬鹿にお望みいただきたい」
 レンズの奥の垂れ気味の目が不愉快そうに顰められた。義行は苦笑した。他者に対する気遣いを知らないその態度から周囲から孤立しがちな女だったが、この期に及んでも愛想のなさは変わらないらしい。と、自分が苦笑とは言え笑みを浮かべられた事を自覚する。
 自失より、戻れたか。頭が回り始めるのを確認しながら、義行は目尻を指で摘み、揉み解した。
 そう、自失などしている暇など自分には無い。
「そうだな。で、本題だ。誰にやられたと思う?」
「本家の粛清部隊ではないのですか?」
 やる気のない答えだが、一応此方の茶番には応じてくれるつもりらしい。既に自分の中で答えは出ているのだが、完全に冷静さを取り戻すためにも誰かに語る事で考えを纏めたかった。
 恐らく違うだろう、と義行は否定した。
「薬問屋には拠点を突き止められた時点で脱出を優先するように命じてある。だが、今の時点で別の拠点に逃れた者はおろか、連絡を寄越してきた者すら一人も居ないんだ」
 邑紙家には山浦の他にも出浦や室賀といった実働部隊が存在するが、彼らの手の内なら読めているし、実力ならば此方が上だ。彼らが相手でありながら、脱出者が一人もいないという事態は考えにくい。
「一網打尽ですか。自惚れるわけではありませんが、我々は国内の術者集団でも上位に位置します。薬問屋に残してきた者たちも腕は立つ方です。それを一人たりとも逃さない相手となると、この国でもそうはいないと思われますが」
「多分、神祇省だよ。仮にも神剣が絡んでるんだ、彼らが見逃すはずが無い」
 義行は立ち上がり、眼鏡の女――望月静芽(もちづき しずめ)の対面に移動し、窓際から外を見下ろした。地方都市特有の、雑然とした人工物と自然の緑が入り混じったどこか無機質で閑散とした街並み。
 静芽は義行の言葉を咀嚼するように神剣の名を呟いた。
「『平国之剣(くにむけしのつるぎ)』『布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)』。天下の神祇がそこまで顔色を変えるほどの物なのですか?」
 一瞬、義行は彼女が何を言っているのか理解できず、言葉を失った。
「望月、お前……神剣がどれほどのものか、本家から離反する前にもう充分説明したと思ったんだが」
「や、あんまり真剣に聞いていませんでした。申し訳ありません」
 出汁を入れ忘れた味噌汁よりもあっさりと、彼女は悪びれずに言い放つ。
 今度こそ呆れきった視線を義行は静芽にぶつけた。彼女は動じる様子もなく視線を受け止め、眠たそうに目を瞬いた。彼女だけは良くわからないな、と義行は内心首を振る。今回の離反に荷担した者の殆どは、神剣という存在に目が眩んだ者たちだ。神代の昔、最古の退魔一族の手にあって、神武帝の露払いに大和の国を薙ぎ払い、この列島の神魔妖霊魑魅魍魎のことごとくを平伏させたという日本神話上最強に類される神格兵装。それを手に入れられると考えたからこそ、本家を裏切り国に喧嘩を売ると同意義の、つまり自殺行為という別名を持つ此度の無謀な所業に参加したのだ。神剣さえあれば、この世のあらゆる理不尽に抗えるのだと信じて。
 いや、実際それはあながち盲信とは言い切れない。明治期初頭、この島国の闇側の覇権を握るかというほどの隆盛を誇っていた御門家を破滅させたのは、紛れも無くただ一振りの神剣だったのだ。
 自分たちがこの賭けに勝つための唯一無二の拠り所こそ、神剣なのだ。だというのに、この女はどうも神剣などどうでも良いと思っているような節がある。それどころか、今回の離反そのものに対してすら、あまり真剣味を感じない。
 義行は兼ねてから抱いていた疑問を、彼女にぶつけた。
「お前は、どうして我々に加わったんだ? お前ほどの実力と才覚があるなら、本家に残っていても重要な地位につけただろうに」
「そうでしょうね」
「ならば」
 静芽はその形の良い顎に手を当ててしばらく考えていたが、やがて顔をあげて慇懃無礼に答えた。
「まあ、なんとなくですね」
「な、なんとなくだと?」
「強いていうなら、私は端的にいって年寄り方には嫌われていましたから、あの方々が本家に残ってしまった以上、此方の方がまだ居心地がいいだろうと思いまして。まあ若い人にも好かれてはいないので、大して変わるものではないのですが」
 義行は脱力した。まったく、なんなんだこの女は。他の者はあれだけ目を爛々と輝かせ、信念に凝り固まり、何も顧みずに己が信じた大儀に殉じようとしているのに。
「いや、だからこそか」
 この離反劇を起こしてから、何かと彼女を身近に置いて頼るようになったのは、彼女だけが義行に圧迫を与えないからなのだろう。彼女の芯のない慇懃無礼さが、重圧に喘ぐ今の自分に一抹の安らぎを与えてくれている。
「そういえば、なにか報告があったんじゃないのか?」
「はい、お聞きになりますか?」
「ああ」
「結界の敷設状況なのですが、難航しているようです。どうやら、市街には既に何らかの結界が敷かれている様子で」
「結界だと? いったい何の?」
「詳しい報告はまだですが、龍脈調整と悪霊払いのものではないかと高梨さまは云っております。いずれにしても除去するか、互いに干渉しないように術式基準を調整し直さなければならないそうです。稼動は早くとも明日の明朝以降になる、と」
「その程度の遅延は予定の範囲内だが……」
「薬問屋が潰されたのなら、ここを突き止められるのも時間の問題でしょう」
 時間との勝負、か。桟を握る手に力が篭もる。考えれば考えるほど、心が重くなり、頭の奥が悲鳴をあげて軋み出す。どうしてこうなったのかは、いまさら問うまい。だがもう、神剣、神剣さえ手に入れればと、そう自分に言い聞かせるのにも疲れてきた。明治の世、この国の魔道を覇する勢いだった御門家をして扱いきれずに滅ぼされた神剣を、自分たち程度の者が御せるのか。
 絶望を飲み下す。無為である。既に、長たる自分に後戻りは許されないのだ。
 ふと思い立ち、義行は佇む静芽に顔を向けた。
「望月、今ならまだ間に合うぞ。結界設置に他の者は出払っている」
 逃げ出すなら今のうちだ、と言外に告げてみた。望月静芽は身動ぎもせず、垂れた目でジロリと薄笑う義行を見つめた。
「そうですね。ですが、まあ」
 無愛想に眼鏡の位置を直す。
「逃げるのはいつでも出来ますよ」
「そう、か」
 やはりこいつは何を考えているか良くわからん。慇懃に頭を下げ、部屋を出て行く女の背を、義行はなんとも表現し難い思いを抱きつつ見送った。


 部屋を辞した望月静芽は、ロビーへ降りようとエレベーターへ向かう途中で、黒と灰色の斑の毛並みをしたフェレットと遭遇した。静芽の使い魔だ。
「ロベルカ、どうだった?」
「みゅう」
 一声泣き、フェレットは差し伸ばされた手を伝って静芽の肩に這い上がる。エレベーターに乗り込んだ静芽は、そのままドアだけ閉ざして階を指定せずに壁に寄りかかり、ロベルカのしなやかな背に手を当てた。
 記憶を共有化する。
 一頻り情報を得た彼女は、詰まらなそうに嘆息した。やはり、予想通りだ。FARGO、山浦衆。既に何もかもが、彼の手綱を離れている。いや、そもそも最初から彼の手には何も掴まれてはいなかった。
「若、貴方は人が良すぎるのよ」
 彼は信頼と信用を履き違えている。だから、誰も彼もが貴方の意志から逸脱していく。一切の負債を押し付けられるのは彼だというのに。無能なのだ、彼は。指揮官としても、指導者としても。
 そもそも、この後の無い状況下で、配下に弱気を隠せぬ上に、忠誠疑わしい者を断罪しようという考えも浮かばないようでは、ここを乗り切れたとしても先は長くないだろう。残念だが、彼のようなお人好しを支えられる人材は山浦衆には存在しない。それが出来る思慮と知見を持った者は、そもそもこんな馬鹿げた行為には参加せず、邑紙本家に残る事を選んだ。
 なら自分がその役をこなすか? それこそ馬鹿馬鹿しい。
 そんな事をして万が一、

 ――――この叛逆が成功してしまったらどうするのだ?

 静芽は眼鏡を外し、天井を見上げた。
「誰も彼もが度し難い。じゃあ私は?」
 誰に向けるでもない呟きは、閉ざされた空間の中に滲んで消え去り、しばらく自嘲混じりの含み笑いが幽かに響いた。







§  §  §  §  §








 目的地のアミューズメントパークは、電車で四駅ほど乗り継いだ先にあるのだという。五両編成の電車の車内は時間帯のせいか乗客も疎らでガランと空いていた。
 みんなはゾロゾロと空いている椅子に座り、一人和巳だけが吊革に掴まった。
「この路線、流行ってないんか?」
「こっちの移動は車が普通だからね」
 したり顔で春日が薫に地方都市の交通事情を説明している。車か、と御門和巳は考え込んだ。しばらくこっちに腰を据えるのなら、乗用車の一台でも手に入れておくべきか。買うなら、そう赤いスポーツカーなんかがいい。フェラーリやポルシェという誰でも知ってる類の。それで、学校の校門前に堂々と横付けして、帰宅する生徒の注目が集まる中、此方を見つけて腰引き捲くってる美汐に笑顔で手を振って見せるのだ。
 ……絶対殴られるな♪
「まあスポーツカーどころか普通の車買う金も持ってへんけど」
 拝み屋という職種は術式の実力と営業の腕さえあれば、際限なく儲かるものなのだが、生憎と和巳は金銭的なガメツさに欠けているのと、長らく海外を放浪していたために財力は無いに等しい。
「そういえば、御門さんってお仕事なにしてるんですか?」
 和巳の独り言を聞いていたらしい一子が尋ねてくる。
 除霊師だの祓い屋だの霊能者だのと名乗るのははばかられる。一般的に、これらの職業はまだまだ胡散臭く見られている。なので、和巳は魂の職業を語った。
「ふっ、知りたいと言うのなら教えて進ぜよう。時に草原を駆け抜け、荒野を流離い、別れと出会いを繰り返す。そう、私の生業を一言で言い表すならば、【旅人】と」
「ヒモかぁ」
「ヒモね」
「ヒモなんだ」
「なんでいきなりヒモ扱いやねん!?」
 ものすごい納得顔で頷きあう一子たちに抗議の悲鳴をあげる。
「やー、だってさ。御門さんってそんな感じじゃん?」
「天野先輩に養って貰ってるというイメージだわ」
 好き勝手云ってる一子と木乃歌に、和巳はげっそりと項垂れた。自分、そんなに甲斐性なしに見えるんだろうか。


 この人が、美汐さんの、ねえ。
 どうやらヒモ呼ばわりが傷ついたらしく、哀しげな顔で落ち込んでいる和巳を、栞はポーッと見上げていた。
 なんだかなあ、と困惑を覚える。一体全体、夏休みに入って十日あまりの間に何があったんだろう。ちょっと顔を見ない間に、こんな大人の――聞けば24歳だという――恋人が出来てるなんて。美汐だけでなく真琴もそうだ。対面の椅子に二人だけ離れて座っている真琴と小太郎は、公共の交通機関の中で堂々と手なんか繋いだりしてボソボソと何事か囁いてはクスクスケラケラと笑いあっている。空き缶を握っていたら思わず投げつけてしまいたくなる光景だ。今なら眉間を狙って外さない自信がある。それぐらいなんかムカつく。
 ちょいとお待ちよ真琴ちゃん。あなた、この間までそのベタベタくっついてくる生き物を、鬱陶しそうに蹴っ飛ばして追っ払ってたじゃないですか。
「ふう」
「?」
 無意識にこぼしていた溜息を聞きとがめ、どうかしたんと視線を投げかけてくる薫になんでもないと手を振った。なんとなく、気分がへこんでしまった、なんてわざわざ口に出して言うことでもない。
 気がつくと、激流に押し流されるみたいに色んなものが変わっていく。今の真琴がしている事は、本来ならちょっと前まで自分が演じていた役割じゃなかっただろうか。恋人とイチャイチャして、それを回りの人たちに呆れ混じりに見守られて。
 ぼんやりと真琴たちの様子を眺めていた栞は、不意に何もかもが恥ずかしくなり顔を伏せた。小太郎を見る真琴の眸に、栞が知らない吸い込まれるような女の色を垣間見てしまったのだ。
 いや、違う。これは違う。昔の自分のやってたこととは全然違う。自分はあんな目で、一度たりとも潤さんの事を見た事なんてなかった。
「やだなあ、もう」
 自分も、本当の恋をすればあんな目をするんだろうか。恋愛とは、あんな生々しいものなのだろうか。自分はそんな恋、まだ知らない。何も知らないまま、北川に甘えて浮かれていたかつての自分が栞は気恥ずかしく、どこか懐かしい。
 色んなものが、変わっていく。いつまでも、以前と同じではいられない。何の不安も無く、楽しいばかりだった去年の夏。みんなが、手の届く傍に居た。誰もが、理解できる隣にいた。本当に近くにいたのだ。
 今だって、決して遠い所に行ってしまったわけではない。でも、栞はほんの少し、今までよりも皆に距離を感じていた。遠くイギリスにまで行ってしまった舞さんたち。高校を卒業して大学に行ってしまった潤さんたち。働き始めたあゆさん。知らないウチに恋人が出来た美汐さんや真琴ちゃん。ほんの少しずつ、彼らは思い思いの方向へと進んでいる。それは、大人になって行っているということなんだろうか。
 そうだとしても。本来なら、変化していく周りの人々に、こんな隙間風のようなものを感じる理由は無いはずだった。
 だが、最近の姉の行状が栞の心に幾許かの翳りを与えていた。
 自宅での香里の様子は以前と変わり無いし、栞への接し方も前と一緒だ。だが、遅くなる一方の帰宅時間や派手になっていく服装、そして伝え聞く外での香里の様子は、栞が知っている香里とはどうしても重ならない。だが、一般的な女子大生の姿と今の香里は決してかけ離れてるとは言えないのも確かだった。
 だから栞は考えてしまうのだ。大人になる過程で、姉のような変化は必然的なものなのだろうか、と。前と同じ近さと、今までに感じた事の無い遠さを同時に感じてしまう今の姉の姿に、栞は心のどこかで変化への怖れのようなものを抱きつつあったのだ。
 だから、栞は必要以上にはしゃぎ、騒ぎ、愉しがる。何も気付かない振りをして。今も昔も、何も変わらないのだと信じるために。

「薫くん。飴、あるんだけど食べる?」
「いらんよ。子供じゃあるまいし」
「ハッカ味だよ」
「いらんて。ハッカって嫌いやねん」
「ハッカがダメなんて、子供だねえ」
「な、なんでそうなんねん!」
 手の上から包みを引っ手繰って、口の中に飴を放り込む薫を、栞は口許が緩むのを堪えながら見つめた。

 そんな今の栞には、薫の存在がひどく心地よかった。他愛もないやり取りに、安らぎすら感じる。疑いようも無く子供でありながら、一生懸命上を向いて背伸びしようとしている少年。彼は、子供である彼はまだ、私の手の届く傍にいる。美坂栞がまだ知らない世界には、彼は触れてはいない。
 薫が家に泊まることになった時、だから栞は表向きは澄ました顔をしていたけれど、本音では無性に嬉しかったのだ。いつの間にか遠ざかってしまったものが、少しだけでも戻ってきたような気がして。










§  §  §  §  §











「悪かったわね。今日はデートだったんでしょ?」
「ち、違います。デートではありません」
 部屋に招き入れられ、開口一番物部澄に謝られた天野美汐は、唾を飛ばして彼女の勘違いを否定した。
「知ってるわよ。私も誘われたもの。別にそこまでムキにならないでもいいでしょう」
 デート程度の単語に何を過剰反応してるんだ、と言わんばかりの澄の表情に、美汐は赤面した。自分でも何を慌てているんだろうと思わないでもないのだが、こればかりは性格だ。簡単に制御できるものでもない。
「でも良かったの?」
 そう言う澄の声音に、罪悪感のようなものが混じっている事に気付き、美汐は虚を突かれた。思いのほか、今朝突然呼び出したことを気にしているらしい。昨日あれだけ煽るような事を言っておいて、すぐに邪魔するような形になってしまったのだからちょっとは悪いと思って欲しいといえばその通りなのだけれど。澄らしく無い。
 ……そんなに無理してるように見えるんだろうか。
 多少なりとも顔色が悪い事を自覚していた美汐は、自分の頬っぺたを摩りながらぎこちなく口許を微笑みの形に上ずらせた。
「澄には、相談に乗ってもらいましたから」
 義理堅いやつ。
 一方の澄はと言えば、内心で改めて美汐に対するレッテルを『生真面目』に貼りなおしていた。と、同時に確信もしている。こいつはそれほど心配の必要は無いのだろう、と。
 美汐は自分が思っているほど精神の均衡を崩してはいない。本当に彼女が心配しているとおりなら、どんな理由があろうとも澄がどれほど懇願しようと、和巳と一緒に行動する事を選んだはずだ。結局、彼女の不安感の原因は先日の事件で喪失した自分への信頼だ。だが、和巳と一緒に居られない不安よりも、友人への義理を優先させる判断が出来る時点で、さほど心配する事もない。天野美汐が思考停止に陥っていない証明であり、感情よりも理性を優先できている証拠だからだ。美汐の精神的不安定さはさほど時間をおかずに克服されるだろう。
 妬ましい限りだ。
 そういえばと澄は後ろをついてくる美汐を振り返った。
「で、昨日の晩、したの?」
 美汐の青い顔が見る見る赤に変色し、続いてあからさまに顔の上半分に黒い縦線が入ってしまった。
 ダメだったらしい。








「なんですか、このありさまは」
 今朝、美汐が呼び出されたのは昨日の甘味処ではなく、此花春日が住んでいるマンションの方だった。通されたリビングの惨状に、美汐は入り口のところで立ち尽くす。月並みな言い方だが、嵐が過ぎ去った、という表現がピッタリの有り様だ。24インチのテレビは台から転げ落ちていて、観葉植物も横倒しになって植木鉢から土をばら撒いてしまっている。壁紙も何かがぶつけられたみたいに所々剥げていて、恐らくその原因となった雑誌の束が部屋中に散乱していた。なによりこの臭気だ。美汐は顔を顰めて口許を抑えた。部屋の真ん中のテーブルの上には、数えるのも馬鹿らしいくらいの酒の缶が並び、床にはその三倍以上の同じものが転がっている。ビール、チュウハイ、焼酎。種類にも見境がまるでない。
「何本飲んでも、酔えないのよ」
 抑揚のない声で呟き、澄はドアの横の壁にもたれかかり、座り込んだ。
「適当にそこらへん、座って。なんだったらあんたも飲む? まだあるわよ」
「結構です。なにがあったんですか、これは」
「修羅場の後よ」
 と、澄はしゃっくりするみたいに笑った。
「と云っても、私が一方的にヒス起こしただけだけど」
 美汐はクジラがこむら返りを起こしたと聞いたような顔をした。
「なに? 私だって感情的になることぐらいあるわよ」
「いえ、そのすみません」
 美汐は足元の缶を横に押しやり、とりあえず座るだけのスペースを確保してフローリングの上に腰を下ろした。
「なにが原因で、喧嘩になったのですか?」
 澄は答えようとせず、俯いたまま空き缶のプルトップを弄っていた。
「窓、開けていいですか」
 冷房だけががんがんと効いている。冷たい。ただそれだけの、夏の午前とは思えない澱んだ空気。美汐は濁った酒気、いやそれだけじゃなく部屋に立ち込める魂が腐敗していきそうなひしゃげた雰囲気に耐え切れず、その場を立つとベランダの窓に手をかけた。
 声がする。
「天野、あなた進路はどうするの?」
「進路、というと卒業後のですか?」
 思わぬ風が、美汐の髪を巻き上げる。横倒しになった空き缶が一斉にカラカラと音を立てて転がった。
 髪を抑えながら、美汐ははたと考え込んだ。夏休みに入るまでは、周囲の生徒と同じように大学進学を考えていた。学校に提出した進路表にも、近隣の大学名と文学部や英文学部の名前を書き込んだ。特に明確な希望があったわけではない。単に、偏差値の兼ね合いと多少興味を覚えそうな学部を選んだだけだ。その先は、何も考えていなかった。ただ漠然と、天野の稼業である退魔師を自分もやるのだろうと、思っていた。
 だが、夏休み前と今とでは、状況が大きく異なっている。今の自分には……御門和巳が、いる。
「た、旅人でしょうか?」
「…………は?」
「あうっ、ち、違います、今のなし」
 上気する顔を抑え、美汐はズルズルと床に座り込んだ。
「多分、物大を受験すると思います」
「……お兄ちゃんに永久就職じゃないの?」
「ぶはっ!?」
 仰け反った拍子に後頭部を壁にぶつけ、美汐は頭を抱えて蹲った。
「ば、ばば馬鹿なことを言わないでくださいっ! そ、そん、そんなのまだ早すぎます!」
「そう? 早いかしら。私は……」
 束の間、美汐はそこで起こった変容に気付かなかった。
 崩壊。
 唐突に、これまで保たれていた何かが崩れていた。
 冷たい彼女の表情が、ひび割れる。これまで平静に喋っていたのが不思議にすら思えるほど、次に紡がれた彼女の声は震えていた。
「私は、今すぐにでも、結婚したい」
「……澄?」
 結婚したい、その言葉を美汐は聞いたことがある。今となっては遥かな昔に思える、それは真琴がまだ沢渡の姓にしがみついていた頃のこと。真琴は、その言葉を夢見るように口ずさんでいたから、絶望しかない中で夢見るように詠っていたから、それはきっと口にするだけで幸せになれる言葉なのだと、美汐は心のどこかで思っていた。
 だが物部澄は、その夢のような言葉を、鉄の茨であるかのように口にした。痛い痛いと悲鳴をあげるように、口にした。
 胸が、締め付けられる。
 得体の知れない焦燥感に急き立てられ、美汐は声を上ずらせた。
「澄、貴女……どうしたのです?」
「ごめん、天野。今だけは、独りでいると気が狂いそうなの。ごめん。他に、私にはいないから。こんな、無様な姿――見せたくないのに、くそっ、くそっ」
「……え」
 哭いている。美汐は信じられないものを見ていた。小さく、縮こまって、肩を震わせている。顔を見えないように膝と二の腕に擦り合わせて。
「お願い、そこに……いて」
「――す」
 咄嗟に、美汐は立ち上がって彼女の傍に寄ろうとして、急き立つ己に急ブレーキを掛けた。我慢する。堪える。ダメだ。それは、やってはいけない。美汐は渾身の力を振り絞って膝を折り、自分の気持ちを捻じ伏せるようにその場に再び腰をおろした。
 誰にでも、独りではいられない時がある。誰かに傍にいて欲しいときがある。だがきっと、物部澄という人はこれ以上他人が近づく事を許さない。彼女は良くも悪くもそうでしか在れない人間なのだ。彼女の世界に触れることを許されるのはただ一人だけだから。この距離が、物理的にも精神的にも限界なのだ。これ以上近づけば、きっと彼女は拒絶する。今のこの、視界に入るか入らないかの距離が、澄が己に許した妥協点。
 美汐は膝を揃え正座した。生ぬるい風が脇を通り抜けていく。音のしない部屋の両端に、二人の少女は座っている。
「ここに、いますから」
 ありがとう。蚊の泣くようなその声に、美汐はそっと頷くだけで目を閉じた。







§  §  §  §  §








「はぁ」
「なんや、ため息多いな、少年」
 春日は元々大きな目をさらに大きく丸くして左隣に立つ長身の男を見上げた。
「あん、どないした」
「いやあ、少年なんて呼び方されたの初めてだから。新鮮だね」
「そうでも呼ばんとお前さんの性別忘れそうやからなあ」
 今朝再会するまで丸一日、此花春日のことを少女と思い込んでいた御門和巳はバツが悪そうに頭を掻く。信号が青に変わり、栞たちはめいめいにお喋りしながら歩き出す。それまで一子たちの質問の弾幕を浴びせられていた和巳は、さすがにあしらい疲れたらしくやれやれと最後尾へとついていた。すると、自然と隣に春日が来る。
 それは、おかしいことだった。
 春日とは初対面のようなものだが、彼女のような彼がみんなの後ろをトボトボと付いてくるようなタイプでないことぐらいは見れば判る。こいつは先頭を突っ走ってギャーギャー騒ぎまくるタイプだ。
「いやはや、お恥ずかしい限りで。彼女とさ、昨日の晩に喧嘩しちゃってね」
「春日っち、カノジョおるんか」
「意外に見える?」
 苦笑とも反応を楽しんでるようにも見える笑顔に、和巳は顎の無精髭を撫で上げた。
「いいや、そうでもない。なんや自分、女顔にでもコンプレックスあるんか?」
「ん、どうして?」
「今の言い方、意外やて自分で思ってるみたいに聞こえた」
「…………」
「おーい、カズミー、春日。とっとと歩きなさいよ。置いてくわよ」
 真琴が怒鳴っている。いつの間にか前のグループとは距離があいていた。
「いいなあ、真琴ちゃんは。羨ましいよ。小太郎くんとお似合いで、幸せそうで」
 軽口のように呟く春日の声音には、単なる羨望とは言い切れない疲れた色が混じっていた。その疲労に気付きながらも、へいへいとおなざりに真琴に応答していた和巳は、嗜めるように云った。
「そうカンタンに羨むもんでもないわ。あいつらかて、けっこう難渋してんねんで」
「……そっか。真琴ちゃんたちも何かと大変なんだ。他人の芝は青いってやつなのかな。お兄さんも苦労してる?」
「ん?」
「みっしーと。この間なんでしょ? 再会したの。その割にあんまり浮かれてないように見えるからさ」
「まあな」
 苦い笑いがこみ上げてくるのを誤魔化すように、タバコを出して咥える。ライターを探してポケットを探っていた和巳は、不意に突き刺すような視線を感じて手を止めた。
「うわちゃ」
 薫が両目を吊り上げて此方を睨みつけている。慌てて和巳はタバコを締まった。
「どったの?」
「歩き煙草はあかんらしい」
 不思議そうにヘラヘラ笑う隣の男と、憮然とした顔を前に戻す錆び色の髪の少年を見比べていた春日は、チョイチョイと和巳の上着の裾を引っ張った。
「あのさ。もしかしてあの男の子と仲、悪い? 駅前であったときもあの子、一番初め凄い嫌そうにお兄さんの事睨んでたけど」
「春日っちはボケてるくせに案外よう見とるな」
 ボケは余計だい、と怒る春日をいなし、和巳は微苦笑しながら答えた。
「仲悪いちうわけでもないねん。薫にオレが一方的に嫌われてるだけで」
「なんかしたのか?」
 問われて和巳、気まずそうに咳払い。周囲をうかがいながら、小声で真相を口にした。
「あいつの母ちゃん、口説いた」
「……あんた、最悪だね」
「ちゃうねん、口説く言うンはオレにとっては綺麗な女の人への挨拶みたいなもんで――」
「あんた、史上最悪だね。でも」
 春日はグッと親指を立てて片目を瞑った。
「なんかこう、お兄さんとは親友になれそうな気がするぜぃ♪」
 女性への接し方は和巳とわりと同類の此花春日。
「あの小僧、なんだかんだとマザコンやから、もうそれからは目の仇でなあ」
「まっ、自業自得だね」
「おまけに潔癖で正義感も強いから、オレみたいなんは色々我慢ならんらしい」
 まあしゃあないわ、と笑って男は肩を竦めた。
「ふーん」
「なんや、その含み笑いは」
「いやね。嫌われてるお兄さんの方は、あの子のこと、嫌いじゃないんだなと思って」
 なんとも擽ったそうにはにかむだけで、和巳はコメントを返さなかった。いい大人のくせに可愛い顔する人だな、と春日は微笑ましく思う。こういう子供みたいな所に、美汐は惚れたんだろうか。それとも手のかかりそうな所? 包容力のありそうな所? 直接美汐に聞いても、不器用なあの娘は自分の気持ちを上手く表現できないだろう。じゃあ澄は、同じ質問をしたら、恋人のどこが好きなんだと尋ねたら、明朗に答えるのだろうか。澄は、自分のどこに惚れたんだろう。
「はぁ」
「……また溜息ついとる」
「ありゃりゃ、ごめん。無意識に出ちゃうのよね」
「溜息なんてそういうもんやけどな」
 憂鬱なときには止めようと思って止められるものではない。
「まっ、思いっきり遊んでりゃ気も晴れるわ」
 どこか自分に言い聞かせてる節もある和巳の言葉に、春日は頷く事で同意を示した。逃避するわけじゃないが、一旦気持ちをリセットしないことには澄と仲直りしようという気力も湧かない。
「仲直り、か。出来るのかな」
 それ以前に、仲直りすべきなのだろうか。春日は沈鬱に思いに耽った。
 今になって、かつて物部澄の母親に言われた言葉が心を挫く。

『お前が、あの子を壊したのよ! 消えなさいよ、消えろ、消えてしまえ、この気色の悪い化け物め!! お前といるから、あの子が不幸になるの!』

 ずっと、思い出さないようにしていたのに、人とは思えない形相で掴みかかってくる鬼気迫る彼女の母親の姿が瞼の裏に焼きついて離れない。
「ああ、ダメダメ。今日は気分転換気分転換」
 ともすれば落ち込んでしまう気持ちを奮い立たせるように、春日は声を張り上げ、
「おーーっし、遊ぶぞ!」
 両手を突き上げた。


「なんや、あの人無闇に元気やな」
「あはは、いつにも増してハイテンションだ」
 奇声をあげながらピョンピョン飛び跳ねている春日。隣の和巳も流石に腰が引けている。栞は怯えたように春日を見ている薫の背中をつつき、
「ああ、あれだよ。あそこ」
 前方に見えてきた目的地であるアミューズメントパークのレンガ調の赤茶けた建物を指差した。
「ねえ、あんたボーリングやったことあるの?」
「うわっ」
 突然馴れ馴れしく声を掛けられ、薫は怯んだ。肩越しに身を乗り出すようにして、真琴は無造作にヌッと顔を近づけてくる。あまりに近すぎる距離に、薫は泡を喰って飛び退くように距離を開けた。
「……む、なによ、その反応」
 肩に置こうとして透かされた手を開け閉めしながら、憮然と真琴は唇を尖らせた。
 そこにまあまあと訳知り顔をした栞が割って入ってくる。
「こらこら、真琴ちゃん。うちの薫くんはシャイなんだから、そんなベタベタくっついたら嫌がるに決まってるでしょ」
「う、うちの、はぶっ!?」
「は? 別にベタベタしてないわよぅ」
 真琴は心底不思議そうに目を瞬いた。真琴の中では顔をくっつける程度はベタベタに値しないらしい。この獣娘め、と栞は舌打ちした。そういえばこの子、平気で祐一さんの背中に抱きついて一緒にテレビ見てたりしてたっけ。うわ、なんかむかついてきたぞ。あんなオンナの顔しておいてからに、子供の顔も使い分けて他の男にも甘え放題ってか?
「ベタベタしてるのはあんたでしょ、栞。その子、嫌がってるわよ」
「ん?」
 不思議そうに指差され、ふと栞は自分が抱きとめている少年を見下ろした。十字に交差させた腕に首を抑えられた薫は、フガフガと胸元で何か呻きながら必死そうにもがいている。
「私はいいんです。この子は家で預かってるんだから」
「いや、その理屈はよくわかんないぞ」
 傍で聞いていた香村一子が半眼で指摘するが、栞は完全に無視した。
「それより小太郎くん、君はいいの? カノジョ、ちょっと無防備すぎだよ」
 矛先の向けられた小太郎はといえば、まったく余裕の態度であった。
「その程度でいちいち目くじら立てるなんて、大人げないですから」
 ここまでは、普段と変わらぬ他愛も無いやり取りだった。空気が変わったのは、ようやく栞の拘束から脱出を果たした薫が呼吸を整えるのも惜しんで口にした一言だった。
「ぶはっ、ふん、オンナたらしは言う事が違うんやな」
 突然割り込んできた険のある言葉に、平和そのものの微笑を浮かべていた小太郎の目元がヒクッと戦慄いた。
「あはは、えーっと、やだなあ。もしかして、オンナたらしって僕のこと?」
「他に誰かおるんか?」
「か、薫くん?」
 栞は面食らった。いつもならスキンシップの後は顔を真っ赤にして食って掛かってくる薫が、栞に文句も言わずに嫌悪剥き出しの眼で小太郎を睨みつけている。
「さっきから自分の女だけやなくて、栞やそっちの姉ちゃんたちにもベタベタ触りやがって。節操なしもはなはだしいわ」
 言われて傍と栞は自分の手を裏返してマジマジと見つめた。あまりに自然なので今まで気に止めた事もなかったが、そういえば天野小太郎と言う人は喋っているとき何気なく手やら肩やらを触ってくるところがあった。
「ちょ、ちょっと変な事言わないでよぅ。そんな事でオンナたらしなんて言ってたら限ないじゃない」
 言い掛かりだと、小太郎ではなく真琴の方が抗議する。
「まあ馴れ馴れしいとは思うけど、そんなに気になるもんじゃないしね」
「気にさせない時点で充分アレなような気もするのだけど」
 消極的にだが、一子や木乃歌も賛意を示す。栞も少しばかり言いすぎだと思い、薫を嗜めようとした。その時だ。
「ちゃうよ。オレ、知ってるんやからな。お前、年上の女の人ばっかりとっかえひっかえして遊んでたって。おまけに平気で二股三股してたんやろ。どう考えてもオンナたらしやないか」
 ざわ、と動揺が広がった。一子と木乃歌が慄くように小太郎から距離を置く。栞も顔面が引き攣るのを自覚した。
 小太郎の人畜無害の笑顔の隅、目尻や口許の痙攣が、目に見えて大きくなった。
「あ、あのねえ、君。薫くんだったよね。確か、君と僕って初対面だったよね。違った? 間違ってないよね。なのに、どこからそういう話引っ張り出してくるわけ?」
 薫は躊躇も躊躇いも無く即座にキッと和巳を指差した。
 突然始まった言い争いに、何事かと足を速めて追いついてきた和巳は、薫が指を突きつけているのが自分だと気付き、ポカンと目を丸くした。
「……へ? オレなんかした?」
「和巳兄ちゃん前に言っとったやろ。自分なんかよりもよっぽど女癖悪いのがおるって」
 彼らが何を言い争っているのか、断片的にしか聞き取っていなかった和巳は、戸惑いながらも薫の指摘に記憶を振り返った。
「あー、そう言えばそんなん言うた覚えあるなあ。ああ、思い出した思い出した。あの時か」
 功刀を口説いたときだ。
「お前がなんや人の事を人間の屑見るみたいな眼ぇで見るのいつまで経っても止めてくれへんから、さすがに溜まらんでなあ。オレはまだマシな方で世間にはもっとえげつないやつがいるんやと実例を挙げて説明する事で矛先を躱そうと」
「実例って?」
 春日が問う。
「ああ、えっとそ……れ」
 反射的に指差してしまった事を和巳は心底後悔した。いそいそと仮面のような笑顔を貼り付けている少年を指していた指を折り曲げ胸に抱き抱えながら、そろそろと春日の背中の後ろに隠れる。
 小声でボソリ。
「ちゃうねん」
「なにがちゃうねんやねん」
 思わず関西弁でつっこむ一子。
 可愛らしく媚を売りながら言い繕う和巳。
「あのな、言っとくけど、オレ嘘言うた覚えはないからね」
「兄さん兄さん、火に油注いでるよー」
 完全に笑顔を硬直させていた小太郎だったが、やがてふぅと大きく息を吐き、表情に柔らかさを取り戻した。最も、目は全然笑っちゃいなかったが。
「いいですよ、認めます。概ね、君が言ってる事は事実です。ちなみにこれに関しては真琴さんも承知のことです」
 栞は驚いて真琴に目を向けた。彼女は憮然とはしていたが、同意を示すように頷いている。栞は、なんだか釈然としない思いに駆られた。
「これは過去の事で、もう終った事なんです。それにね、だいたいさ、それが君に何の関係があるわけ?」
 小太郎の言葉端には明らかに怒りらしきものが混じっていた。こりゃいかん、と栞は今更ながら顔色を変えた。確かに、小太郎の言う通りだ。何のつもりか知らないが、薫は明らかに言いすぎだ。人様の過去をあげつらうなんて――
「知るか。オレはお前みたいなチャラチャラしたやつは生理的に大ッ嫌いやねん。それだけや」
 場が凍る。思っててもそんな事言うなよ、と当事者以外の全員が内心で悲鳴をあげた。栞は咄嗟に手を振り上げた。引っ叩くつもりだった。思春期特有の潔癖さ。薫という少年の持つ特有の気難しさ。それは理解できるが、理由にはならない。幾らなんでも、やりすぎだ。仮にも彼の引率者としての責任がある。何よりちょっと栞もカッときていた。
「あ、やだやだ。これだからガキって嫌いなのよ」
 栞の挙動に制動がかかる。平手に広げられた手のひらが、奇妙に歪んだ。
 偉そうに腕を組んだ真琴が、馬鹿にしたみたいに鼻を鳴らした。
「恋愛の機微も何も知らないくせに、勝手に解かった気になってツンツンしちゃってさ。馬鹿みたい。ガキなのよぅ」
 ――カチン。
「ちょっと待ちなさいよ、真琴ちゃん」
 気がつけば、薫の前に割り込んでいた。
 栞の感情回路の電極は、プラスからマイナスへと入れ替わっていた。振り上げた手のひらは、既に平手から石のような握り拳となっていた。
 ガキ――恋愛――機微――何も知らない――勝手に解かった気になって――馬鹿みたい。
 ふざけるな。なにさまだ、こんにゃろう。
「そういう言い方はないんじゃない?」
「な、なによ栞」
 思わぬ方向から刺々しい声が飛んだことで、真琴が怯みを見せる。一瞬、栞は自分が何を言おうとしてるか訳が分からなくなる。が、胸の奥から溢れ出してくるものを、今の栞は止めようとすら思わなかった。薫に向けられていたはずの真琴の言葉は、栞の心へとグサリと突き刺さっていたのだ。刺さった箇所は最悪だった。真琴は意図せずに、栞の秘めたコンプレックスに、缶けりの空き缶に対するほどの小馬鹿にした軽軽しさで蹴りを食らわしてしまっていた。
「馬鹿みたい? はんっ、なんか偉そうだけどさ、真琴ちゃんもどうかと思うよ。彼氏でもない人とベタベタしちゃってさ。そんな事してる暇があったら、小太郎君のことちゃんと首に縄つけときなさいよ。真琴ちゃんが小太郎くんがフラフラしてるの許してるから。ったくさ、見苦しいったらありゃしない」
「み、見苦しいってなによ」
「二人して恋人でもない異性にベタベタひっつくのがだよ。薫くん、まだ中学生なんだよ。教育に悪いって言ってるの!」
「な、なんですってぇ。言うに事欠いて年中色ボケのあんたが教育に悪いとかぬかすわけ? なにそれ、おへそでお湯でも沸かしたいわけ? 詰まらなすぎて笑えないわね」
「だ、誰が色ボケですか!!」
「さっきから子供相手にベタベタやってるのはあんたの方でしょうが!」
「私は別枠なの!! だいたい色ボケなのは真琴ちゃんの方じゃないの、公共の交通機関の中でイチャイチャすんな!!」
「淋しい独り身だからって嫉妬してんじゃないわよ、このガキガキガキ!」
「くきぃぃーーっ、嫉妬なんかしてないもん!!」
「ちょ、落ち着け栞!」
「待って待って、耳出てますって真琴さん!」
 まさに掴み合いの喧嘩にまでなりそうになった直前で、慌てて薫と小太郎が二人を羽交い絞めにして引き剥がした。だが尚も二人の少女は暴れながら罵詈雑言を投げつけあっている。
 ともあれ、何とか一段落ついたと見た和巳は、隠れていた春日の背中からスタッと立ち上がり「さて」と前髪をかきあげた。
「今日はスーパーで絞りたて牛乳とトイレットペーパーの特売があるから、そろそろこの辺で失礼しようかな。では皆さん、今日は楽しかったご機嫌よう」
「待て、元凶」
 コテコテの標準語を講じつつ爽やかに撤収に掛かった御門和巳は、爽やかに香村一子に首根っこを掴まれ捕獲された。
「ノーノー、ミーは帰るザンス! 家でミーチャンが待ってるザンス!」
「に、逃げるなよー」
「ええい、離せ春日っち。オレは気分転換に来たんや。ただでさえ擦り切れそうな神経、さらにすり減らすために来たんとちゃうわ!」
「そりゃあたしも一緒だい!」
 もみ合う春日と和巳の二人に、それを必死に引き止める一子。一方では牙を剥いて吠え立てる少女二人に、彼女らを制止しながらも敵意剥き出しで互いを睨みつけている男の子二人。
 それらを平然とした面持ちのまま一望した渡辺木乃歌は、何事もないかのように全員に声をかけた。
「それじゃあ、そろそろボーリング場に入りましょうか」








§  §  §  §  §








「ギャーーッ、北国だってのになんだこの熱さはーっ、溶けるーーっ!!」
「…………」
「って、無視かよ!」
 せっかく、この間来た時と同じ台詞で決めてみたのに、無反応な後輩に樋端睦美は唇を尖らせた。改札を抜けて駅前のロータリーに出る。もうすぐ夕刻へと差し掛かる時刻なだけに、幾分かは熱気も減じているはずなのだが、とてもそうには思えない。さすがに朝方に居た東京と比べれば暑さもカラリとしていたが。
「郁未さ、気持ちはわかるけどイレ込むのは良くないわよ」
「大丈夫よ、睦美さん」
 唇を引き結び挑むように前方を睨みつけるばかりだった郁未だが、睦美の言葉にはしっかりと反応して顔を向ける。真っ直ぐに此方を見る眼は多少気負いこんでいるところもあったが、確かに冷静さは失っていなかった。
「じゃあこれからどうするかだけど」
 列車の中でも葉子捜索の方法について相談は続けていたのだが、結局今まで有効な案は出なかったのだ。唸る郁未たちを他所に、能天気に割って入ったのは、列車の中でひたすら駅弁やお菓子を食べるばかりで全く協力的な態度を示さなかった小娘だった。
「どうでも良いが、妾はそろそろ行くぞ」
「ゆ、行くぞって、え? タマちゃん、一緒に来るんじゃなかったの?」
 眼を白黒させている郁未を、ガリガリくんを咥えたまま安倍珠呼は半眼で見上げた。
「なにを戯けた事を言っておる。手は貸してやると言ったが、引率までしてやると言った覚えはないぞえ。適当に探しておれば、そのうち見つかるじゃろ。なんぞ妾の助力が必要と思う事態になれば、妾を呼ぶが良い。繰り返すがただではないからの? 其れ相応の代償は戴くがゆえ、努々思慮を巡らせてから呼ぶのじゃぞ。ではな」
 傲然とそれだけ言い残し、呆気に取られる郁未たちを残して珠呼は雑踏の中へと、
「おおっ、くれーぷの屋台が出てるではないか。店主、店主、ばななくれーぷはあるかえ?」
 無邪気に走り去っていった。
「……あの子、なんなわけ?」
 知らないわよ、と憮然とこぼす睦美だったが、思い直すように付け加えた。
「でもさ、あんまりあれは頼りにしない方がいいと思うわよ」
「そりゃ、頼るつもりは別に無いけど」
 不思議な力を持ってるみたいだし得体の知れないところもあるけれど、あんな風に見るからに子供子供してる子を頼る気にはなれない。
「違う違う。そういう意味じゃなくてね……すっごくヤバい気がするのよ、あれは」
 低く押し殺したような声で呟く睦美の顔は、いつになく真剣そのもので。郁未は不可解に思いながらも、頷いて見せた。
「それより、これからどうするの? あたし、このままだとマジ溶けそうなんだけど」
「部屋の空いてるホテルを探しましょう。とりあえず拠点になる場所は確保しておかないと」
「あれ? この間の、秋子さんだっけ。天野の人でもいいけど、あの人たちは頼らないの?」
 郁未はおもむろに首を振った。どうにも東京で喫茶店から放り出されたときの珠呼の言葉が喉の奥に引っかかって外れないのだ。
「なにか、きな臭い感じがするのよね。もし何かあった場合、巻き込みたくないのよ。これはあくまで私事なんだし」
「ふーん」
 にやにやと口端を吊り上げた睦美は、勢い良く郁未の背中を叩いた。
「じゃあ、二人で地道に探しましょうか。二人でね」
「……え、ええ。ありがと睦美さん」
「なんのなんの」
 妙に楽しそうな睦美を怪訝に思いながらも、郁未は決意も新たに葉子がいるというこの地の街並みを見つめた。

「葉子さん。今から会いに行くからね」

 親友との再会。それは、心浮き立つ事のはずなのに。
 郁未は募るばかりの理由の無い不安感に、身震いを押さえきれず自分の体を抱きしめた。









<< >>


章目次へ





inserted by FC2 system