二年ほど前に流行ったノリの良さだけが売りのJポップスがスピーカーから掻き鳴らされ、はしゃぐ若者たちの歓声や、10本のピンが吹き飛ぶ爽快な音が跳ねまわっている。
 夏休み期間中のためか、平日にも拘わらず若い人間を中心に明るい喧騒に賑わっているボーリング場の中で、4番5番のレーンだけが、妙な静けさに包まれていた。
 U字型になったソファーには、八人の男女が腰掛けているにもかかわらず、何故か交わされる会話が一つも無い。騒ぎたい盛りの若い男女が一同に会しながら、誰一人として喋ろうとはせず、ピリピリとした緊張感がとぐろのように渦巻いていた。
 このレーンだけが、周りと隔絶した一種異様な空間と化している。
 に、逃げ出してしまいたい。
 寒気を感じるほどボーリング場の冷房は効いているのに、香村一子は額に滲んでくる汗を拭った。
「木乃歌、なんとかしてよ」
「無理ね」
 緊張感に耐え兼ね、幼馴染の裾を引っ張るものの、渡辺木乃歌は澄ました顔で即答した。こいつ、この状況楽しんでやがる。
 思わず潜めた声を張り上げてしまいそうになり、慌てて首を竦める。一触即発、冗談じゃない。自分がその一触になるのは勘弁して欲しい。
 一子は周りを刺激しないように、こっそりと視線を左右に走らせた。
 自分と同じくこういう空気は苦手なのか、かちんこちんに固まっている此花春日。あからさまに逃げ腰であらぬ方角を向いて煙草を吹かしている御門さん。
 そして、ソファーの両端に陣取り、ギリギリという歯軋りが聞こえてきそうな形相でにらみ合っているのが美坂栞と水瀬真琴だ。バチバチと火花が飛び散り、丁度間に挟まれた一子たち目掛けて振ってくる。まさに火の粉を頭からかぶって逃げ惑う心境だ。
 いや、彼女達はいい。まだいい。こいつらのはまだわかりやすい。いつもの喧嘩の延長線上だ。まだ可愛げがある。この子たちだけなら、こんなに張りつめた空気にはなっていない。
 怖いのは、さっきから視線の一つも交わさぬまま、敵意の塊をぶつけ合ってる男の子二人の方だ。
「…………チッ」
「…………ふんッ」
「ひー」
 ドロドロっす。バキバキっす。血を見そうっす。
「み、御門さん。なんとかしてくださいよー。あの子たち、二人とも知り合いなんでしょ」
 一縷の望みを託して縋ったこの場で唯一の成年男性は、人生の苦しみを知る者特有の深みのある微笑を浮かべ、泣きそうな一子を諭すように云った。
「いっこちゃん、男同士はときにナマの自分をぶつけあわんとわかりあえへん場合があんねんや。オレがどうこう口挟む問題ちゃうわ」
「おお、含蓄のあるお言葉。で、本音は?」
「いややん、怖いやん、オレ知らん」
 あの美汐先輩のイイ人とは思えんヘタレだ、この人。
 周りが全員頼りにならないと立証され、一子はげんなりと脱力した。そりゃ、熱きジャーナリスト魂で駆動するこの香村一子、悶着トラブルどんと来い、が心情だがそれはあくまで部外者の立場でのはなし。渦中に巻き込まれるのはご免こうむりたい。というか、死ぬほど苦手だ。
 内心で頭を抱える。
 まったく、なんだってこんなことに。


 斯くして事態の発端。
 それは本日の午前九時三〇分へと遡る。











§  §  §  §  §












 午前九時三十分。朝のラッシュもひと段落つき、駅前は虚脱したように人影も疎らだった。
「あちぃ」
 夏の日差しはあっという間に朝の清々しい空気を灼熱へと塗り替える。湿度80パーセント、気温29度、無風。日陰にも拘わらず蒸し焼きにされるような熱気に、セミロングの髪に入れたカラーもいささかくすんで見える。
 駅のロータリーに据えられたベンチ。だらしなく背もたれにしな垂れかかっている香村一子は、見るからにへたばっていた。周りの目も気にせず、チューブトップを引っ張って胸元に風を送り込み、ミニスカートから伸びる生足を惜しげもなく投げ出している。最も、その平坦な胸は色気には乏しいし、肉付きの薄い足は健康的という以上の感想はあまり持ち得そうに無い。偶に通り過ぎていく営業中のサラリーマンや学生も、特に一子に目を向けるでもなく行ってしまう。
「しおりんめ、待ち合わせするなら冷房の効いたとこにしてよ。ってか、なんであたしが一番に来てるのかな」
 この夏休み、暇で暇で仕方なかったからといって、これじゃあ喜び勇んで釣られたみたいじゃないか。律儀にここで待ってるのもバカらしい。今からでもコンビニかどっかに退避しようか。
「まさにそれは名案だが、少し遅すぎたのであった」
 個人用の目覚まし時計と勘違いしてるとしか思えないキュートなペンギンをあしらった駅前の時計は、もうすぐ待ち合わせの時間を指し示そうとしている。一番最後に来たやつにジュース奢らせちゃる、と誓いながら、一子は手持ち無沙汰に腕にはめたアミュレットを弄くった。
 暇で暇で仕方が無い、か。せっかくの夏休みなのに、なにやってるのかねえ、あたしは。
 恋人の一人でも作れば、楽しく過ごせるんだろうかと思わないでもないけど、いまいち男に興味が湧かない。他人の恋路を茶化すのは好きだけど、それを自分がやるとなるとなんだか間が抜けてる。
「だいたい、彼氏がいなきゃいけないって風潮自体気に入らないのよね」
 これ、僻みじゃないわよ。
 ロータリーに入ってきた外国車が一子の前で停車した。助手席のドアが開き、黒曜石を磨いたようなおかっぱ頭が現れる。
「送ってくださってありがとう」
 屈んで運転席を覗き込み、運転手にお礼を言っている黒髪の少女は、渡辺木乃歌。幼稚舎から一子の親友稼業をこなしている奇特な令嬢だ。
 運転席の着ぐるみの熊みたいな髭もじゃの男性が温厚そのものの笑顔で「じゃあ気をつけて」と言い添え、一子の方へ顔を向けると窮屈そうに頭を下げた。
「まだ一子だけ?」
 走り去っていくロールスロイスを見送り、木乃歌はハンドバッグを膝に置き、一子の隣に腰掛ける。
「僻んでないからね」
「?」
 今、木乃歌を乗せてきたのは、彼女の噂の恋人だ。いや、正確にはもう婚約者か。去年、結納交わしたって小母様が言ってたし。何をしてる人か詳しく知らないが、多分お金持ち。年齢は木乃歌よりも十一歳年上だから二十七か八。出逢ったのは小学校六年生の時にやったお見合いなんだそうだ。以来、四年のお付き合い。っていうか、小学校でお見合いなんかセッティングすんなよ。これだからお金持ちってのは浮世離れしてると言われるのだ。相手も相手だ、小学生相手にお見合いした挙句にほんとに付き合い始めるんだから。一子はあいつ、絶対ロリコンだ、と確信していた。
 まあ、普通に接している分には草食恐竜みたいないい人なのだけど。
「ところで、車なんかで送ってもらっちゃって、まさか朝帰りじゃないわよね?」
「それこそまさかよ」
 涼しげに一子の勘繰りをいなす。
「あの人とはそういう関係じゃないもの」
「その言い方は誤解を招くと思うんだけど」
 それは沢山の男の人を掌の上で弄ぶタイプの女の常套句だ。
 一考した木乃歌は朗々と言い直した。
「あの人とはまだそういう関係にはないし、時期が来るまでなるつもりもありません。これでいい?」
 相も変わらず清い交際か。前から一子はおままごとみたいな関係だな、と思って二人を見ているのだが、少なくとも木乃歌は今のままで満足そうだ。
「うぃーっす、後輩ども。恋してますかー」
「あ、春日ちゃん」
「先輩をちゃん付けで呼ぶなよー」
 トボトボと現れた此花春日は、あれみんなまだなの、と気だるげに頭を掻いた。
 常夏のメンタリティの持ち主で、常態的に無意味元気爆発してる春日らしくないのっぺりした挙動に、一子は心配そうに目を眇めた。
「夏ばてですか? なんかしんどそうですけど」
「んにゃー、そういうわけじゃないんだけど……生理?」
 あんた、男だろうが。
 そういえば、いつも一緒にいる長身の女性が見当たらない。
「物部先輩は一緒じゃないんですか?」
「お澄は今日は用事なんだってさ。あちし、ふられちった」
「ああ、それで元気ないんだ」
「うーん、それもあるけど。昨日の晩、ちょっと喧嘩しちゃってねー。おかげでもう生理」
 男の癖にそういう冗談はやめれ。
「閉じ篭もってウジウジしてるのも不健康だもんね。しおしおが誘ってくれて、渡し舟」
「渡りに船」
 言い直す木乃歌。
「そう、その演歌」
「演歌ちゃいます」
 時計を見ると、約束の時間まで後五分。
「ところでさー、今日だれだれ来るの? しおしおがなんか猛烈な勢いで喋ってたんだけど、全部聞き流したから知らないのよね」
「春日ちゃん、人の話聞かないもんね」
「一子、しみじみ云わない」
「そうだよね。困ったもんだねー」
「春日先輩、しみじみ他人事にしない」
 幼馴染と先輩をたしなめ、木乃歌は指を折り始めた。
「私たち三人の他は、真琴さんに美坂さん。天野くん。それから、美坂さんの家に泊まっている北川先輩の親戚の男の子が来るそうです」
「じゃあ七人?」
「あと、美汐先輩とその連れの人が来るかもって真琴ちゃんが言ってたわよ」
 ミシミシの友達かぁ、と腕組みする春日。
「驚愕の真実、あの天野美汐に友達がいた!? 正体は彗星に乗って宇宙から飛来したトビハゼか!? 是非見てみたいね会いたいね」
「いつか呪われるな、この人」
「同感」
 段々と調子に乗ってきたらしい春日は、最初の気鬱げな様子はどこへやら、目をキラキラと輝かせながら考える人のポーズに勤しみ出す。
「しかし、あの美汐の友達となると、どんな娘なんだろうね。いやはや、想像もつかないや」
「この人、自分が美汐さんの友人だという事実を忘れてるのかしら」
「どっちにしろあんたほど突飛じゃないのは間違いないと思う」
「あら、一子二子三子ちゃんもそう思う? まあ常に美の最先端を征くあたしに敵わないのは仕方ないね♪」
「勝手に人の名前を順列増殖させんな。それと異常と美貌を混同するな」
「ちょっと、あれ」
 クイクイと肘を引っ張られ、一子は何よと木乃歌を振り返った。
「あの人じゃない?」
 春日と一子は咄嗟にベンチの裏側に回りこみ、木乃歌が差した方を伺った。
 ハンドバックを体の前で両手で持って、俯き加減にちょこちょこ歩いてくる美汐を発見する。
「あん? なんか違和感が」
 どうもいつも見ている美汐と違うような気がして目を凝らした一子は、彼女の歩き方が普段の急がず慌てずの落ち着いたものと違うのだと気がついた。
 あの天野美汐の歩き方が『ちょこちょこ』という時点で変なのだ。
 視界を一歩退いてみると、どうやら美汐は前を行く男性の後を付いて歩いているらしい。
 チンピラみたいな男だった。髪を赤く染め、ボロボロのジーンズに薄汚れたジャケット、黒いタンクトップ。首には銀製のネックレスがちらつき、ブラックフライのものと思しきサングラスを掛けている。
 物珍しそうに駅前の街並みを見回しながらも、どうやら男は美汐に気を配っている様子で、彼女の歩調に足取りを合わせようとしているのが遠めにもよくわかる。だが、美汐は美汐で男のペースに合わせようとムキになっているみたいで――しかも男は美汐を横に寄せたそうにしているのに、美汐は頑なに男の後ろを歩こうとしているので――、息がまるで合っていなかった。
「な、なにやってんだろ、あれ」
「アメリカンクラッカー」
 端的に木乃歌が表現してくれた。
「っていうか、男じゃん! 女じゃないジャン!」
 完全に連れとやらが女だと思い込んでいた春日は、某図かずお風の形相になって悲鳴をあげた。
 駅の改札の前で立ち止まった二人は、切符売り場の前で何事か喋っていたが、しばらくして美汐が飛び上がるみたいに直立したと思った途端、俯いて縮こまる。遠目にも完全に耳まで真っ赤になってるのがわかった。
「おおおおお」
 でばがめ三人組は思わず歓声をあげた。
 赤毛の男はおもむろにサングラスを外すと身をかがめた。胸元で自分の手を握り締めている美汐の前髪を梳き、俯いたままの頬にそっと面影を寄せる。
 そのまま耳元で何かを囁き、美汐は固まったまま何度もコクコクと頷いていたが、やがてペコリと頭を下げて商店街の方へと歩き去っていった。
 顔を見合わせる。
「見た?」
「見ました」
「撮りました」
 デジカメ片手に親指を突き上げる一子。
 間髪いれず木乃歌が横からデジカメをとりあげる。
「没収」
「あー、なにするだ。返してー」
「ダメ。プライバシー侵害」
「ばら撒かないから、ばら撒かないから」
「当然です。あとで当人にちゃんと断っておきなさい」
 木乃歌は家柄のせいか倫理に厳しい。こういうのがいつも横にいたから、自分も他人の庭に土足で踏み込むような人間にはならずに済んだんだけど。それでいて、どうしてジャーナリスト志望になるのかは我ながら謎だ。
 デジカメを返してもらい――約束は破らないぐらいの信用は得ているので――、トートバッグに仕舞い直す。それにしても、あの美汐先輩まで彼氏が出来ているとは。だってあの天野美汐だぞ。夏休みに入るまではそんな素振りなんて見せていなかったのに。
「恐るべし、サマー」
 しかし、あの人も男の趣味悪いなあ。真面目な人ってあんなワルそうな男がいいんだろうか。
「木乃歌、ああいうの好み?」
「全然」
 即答された。
「あの人って面倒見いいから、付き合うなら年下の子だと思ってたんだけど、意外だなあ」
「あら、別に年下じゃなくても男なんてみんな手がかかるものよ」
「…………」
 あー、やだやだ。惚気か? 惚気なのか? どうせあたしは男っ気ないですよー。
「ちょいごめんなさい。駅のロータリーってここでええんかな」
 と、二人でこそこそやってるうちに、当の赤毛男がいつの間にか目の前に立っていた。
「ってか、君らベンチの裏でなにやっとるん?」
 しまった。あまりにびっくりしたから、ベンチの後ろに隠れてたの忘れてた。ベンチを挟んで顔をくっつけている一子と木乃歌を見て、彼は声掛ける人間違えたかと言いたげな顔をしている。
 そのときだ。
「ああっ、やっぱりやっぱり。なんか見たことあるなーって思ってたらば、昨日のお兄さんじゃん!」
 さっきからひそひそ話に加わらずにじっと赤毛男に目を凝らしていた春日が、ベンチを飛び越え、赤毛の男に抱きついた。
 というか、なんで抱きつく。
「のわーっ、な、なんや。誰やと思えば春日っちやん」
 チンピラっぽい風貌にそぐわぬ人懐っこい笑顔が浮かぶ。
「奇遇やなあ。なにしとん、こないな炎天下で。光合成か? 太陽光発電か?」
「あたしゃ人型食虫植物か太陽電池で動くロボットか!」
「知り合い?」
 と木乃歌が聞くと。
「昨日、缶蹴りして遊んだ仲さ。マブだね、マブ」
 缶蹴りて。いい大人がするもんじゃないぞ。いや、面白いかもしれないけど、普通はしない。なにしてんだ、この人らは。
 謎が深まった。
「ともかく、男同士で抱き合ってるのは見てて暑苦しいので離れてください」
 鬱陶しそうに木乃歌は眉を顰めた。
「男?」と、不思議そうな顔をする赤毛男。
「ナイスガーイ」と、得意げに自分を親指で指す、もはや抱きつくというより足まで回してしがみ付いている此花春日。
 二秒後、垣根の中に頭から突っ込まれた春日が、足をばたつかせている光景が目撃された。






 夏は恋の季節だ。特に、学生という身分の人間にとっては。
 夏休みという長い余暇が、日常に追われる彼らに新たな関係を構築するだけの余裕を与えてくれるからか。
 それとも、このクソ暑い気候にみんな脳みそが茹だってしまってバカになってしまうからなのか。
 絶対後者だ。
 おのれ、地球温暖化。
「なんてこった。美汐先輩だけは行かず後家を貫き通してくれると思ってたのに」
「い、行かず後家って、いっこちゃん」
 酷いなあ、と困ったような笑ってしまいそうな曖昧な顔をして、一子を初っ端から「いっこ」と呼ぶこの男は自分を御門和巳と名乗った。美汐との関係については居候とだけしか云わず、突っ込んで訊ねても言葉を濁すばかり。だけど、さっきの光景を見ればただならぬ関係である事は明々白々だ。
「いっぱしに乙女の顔してるんだもんな」
「いっぱしって、いっこちゃん」
「だって御門さん。何年も会ってなかったっつー貴方さまはご存知ないでしょうけど、あの人のラブラブカップルを見る目といったら、胡乱げというか鬱陶しそうというか、水溜りに湧いたボウフラを見るような目でございまして」
「ぼ、ぼうふら」
「そこに嫉妬や僻みが混じってるならまだしも、そっち方面への感情枯れてましたからねえ、生徒会長」
 まさか、あんな可愛い顔の出来る人だとは。思わずデジカメのシャッターを切ってしまうくらいに、あの瞬間の彼女は素敵な顔をしていた。いい写真が取れたと思う。
 真夏の魔力は、遂にかの佳人をも捕らえてしまったということか。まあ、この人たちの場合は幼馴染みたいなものだというし、ちゃんと積み重ねがありそうだけど。
 しかし、年上かあ。と、一子は頤に手を添えた。恋人を作るつもりはないけど、もし付き合うんなら年上の人だヨねえ。やはり年上の男性は無条件に甘えられる、という印象がある。自分なんかより余程しっかりした木乃歌の彼氏への態度や、さっきの美汐の様子をみれば尚更だ。
「ごめん、ちょっと遅れた!」
 この炎天下を走ってきたらしい真琴の息を切らせた声が、一子たちのもとに飛んでくる。
「ほら、真琴さんがグズグズしてるから」
「なによ、あんたが着ていく服に文句つけるのが悪いんでしょ!!」
 約束の時間から三分送れて現れた真琴と小太郎は、到着するやさっそく口喧嘩を開始する。毎度毎度飽きないものだ。
 この娘も久瀬さん相手にゃ可愛かったんだけどねえ。身近で一番甘え方が上手かったのは、考えてみるとこの子かもしれないと一子はふと思った。近くに相沢祐一や久瀬俊平など、魅力的な年上の男性が多かった所為か、生意気さの間の甘えの垣間見せ方は堂に入っている。これで当人は意識なんか全然していないのだから始末に終えない。
 まあ、それが恋愛の成就に繋がってないのは真琴らしいのだけれど。
「あれ、和巳。美汐は?」
「用事あんねんて。めっちゃ死にそうな顔して謝ってたからほんまやと思うわ」
「そう。ま、今日の所は和巳に気晴らしさせるだけで我慢するか」
 小さく独りごちている真琴は、なにか落胆しているようだった。なんだろう、と二人の会話の内容が理解できない一子は怪訝に思ったが、それよりも傍らの木乃歌がなんだか目を細めて真琴の姿を注視しているのに気付き、
「どうしたの、木乃歌」
「真琴さん、服のセンス変わった?」
「え?」
 意味深な木乃歌の言葉に、一子は虚を突かれた思いで真琴の出で立ちを見直した。丈の短い薄水色のキャミソール。右足の方だけ太ももの付け根から破いてあるカットジーンズ。以前の活発さが前面に出た様相にも見えるが、大胆なへそ出しスタイルや、お尻のラインまで覗いているジーンズの破れ方には若々しいまでの色気が滲み出ていた。
 なんというか、子供っぽいのに、生唾飲んでしまいそうなほど色っぽいのだ。
 ちょっと待て。肌の露出度はこっちが上じゃないのか? それなのに全然負けてるっていうか、なんか差が凄ぎませんか!?
「ど、どうしたの真琴ちゃん。なんか変だよ?」
 ギョッとした真琴は、慌てて小太郎の腕を引っ張った。
「ほ、ほら小太郎。変だって言われちゃったじゃない」
「そんなことありませんよ。全然変じゃないです」
 自信満々に小太郎が太鼓判を押す。
「これは天野くんのコーディネイトなの?」
「そーですよ」
「小太郎、ナイスなセンスや」
「お褒めに預かり光栄です、和兄さん」
「いいなー、お澄もヘソ出しやってくんないかなー」
 大好評の男性陣。一方、一子たちはそれどころではなく、服の裾を引っ張って難しい顔をしている真琴を捕まえ、顔を寄せる。
「ちょっと真琴ちゃん、どういうことよ」
「ど、どういうことって?」
「天野くんの選んだ服を着るなんて、貴女らしくないじゃない」
「だって、小太郎がどうしてもこれがいいって言うから」
 木乃歌と一子はあんぐりと口を開けて顔を見合わせた。
「だからそれがおかしいっていうのよ。あんたがあいつにそんな甘い顔見せるはずないでしょうが」
「絶対嫌がってるわ」
「い、嫌がったわよぅ」
「着てるじゃない!」
「だから……お願いされて、仕方なく」
 小さく縮こまりながら、真琴はボソボソと言い訳した。
「むきゃーーっ、おかしいおかしいおかしい!! 仕方なくなんて妥協するタマか、あんたが」
「だって、あぅぅ。あたし、お願いされると断れない性質なのよぅ」
「嘘つけ!」
「お願いされても一顧だにせず断る性質のくせに」
「そ、即座に否定されたし!」
「まさかと思うけど」
 一子は真琴の首に腕を回すと、グイと引き寄せ、耳元に息を吹きかけた。
「あんた、とうとう小太郎くんに撃墜されたんじゃないでしょうね」
 面白いくらいに体がビクンと震え、目が泳ぎ、モジモジと指を絡め出す。
 一子は反射的に飛び退き仰け反りもんどりうって引っくり返った。
「ま、マジなわけ!? 嘘!! えええ!!」
「な、なんでそこまで驚くのよ!!」
「さっ、サプラァァァイズ!!」
「けったいな仰天の仕方するな!!」
 興味深そうに顎に手を添え、真琴の出で立ちを観察していた木乃歌がポツリと漏らす。
「もしかして真琴さん、もう経験した?」
「あう!?」
「だって、そういう服装のコーディネイトを許すというのは、ね。それだけ深い関係にならないとなかなか」
「あ、ぅぅぅ」
「ほ、ほんとに?」
 目を白黒させている真琴が耳まで真っ赤になっているのを見て、木乃歌の言ってることが事実なのだと察した一子は、生まれてはじめて目の前が暗くなるという体験をした。
 自分でもなんだが、ものすごくショックだったらしい。
「なによなによ、真琴ちゃんは小生意気だけどそこがイイってみんなから「よしよし」って可愛がられるキャラでしょうが。勝手に逸脱してるんじゃないぞ、こら!」
「な、なんで怒られるのよぅ!?」
「ど、どうしました。喧嘩?」
 いきなり大声で怒鳴りあえば、そう取れなくもない。不安そうに寄ってきた小太郎を、一子は親の仇でも見るように睨みつけた。
「な、なんですか?」
「…………チッ」
「な、なんなんですかー!?」
 カノジョの親友に、何も云われず舌打ちだけされて、小太郎は悲鳴を上げた。
「うるさい、あっち行け。この女垂らし。失せろ。死ね」
 スカートが捲くれるのも関係なく、蹴りを食らわし、半径五メートルの範囲から追い払う。
 キャインキャインと逃げていく小太郎に「ふん」と鼻を鳴らし、一子は苛立たしげに口許をへの字にひん曲げた。
「なんでだろう。すっごく腹が立つわ」
 美汐のことを知った時は、嬉しいぐらいの気持ちだったのに。今は何故だか奇妙なほど頭に来てる。なにが違うんだろう。
 ムスっとしている一子を、クスクスと笑う人がいた。
「なに、木乃歌」
「いえ、一子って可愛いなって思って」
「は?」
「一子にイイ人が出来たら、私もそんな気持ちになるのかしら」
「……?」
 どうやら一子の苛立ちの理由が分かっているらしい木乃歌は、それを教えてくれる様子もなく、可笑しそうに笑うばかり。
「真琴さーん、香村さんがなんか怖いですー」
「く、くっつかないでよ、暑いんだから。い、一子が見てるし」
「くぁぁっ、いちゃいちゃしてんじゃねえ!」
「いっこちゃん、水分補給」
「落ち着け落ち着け」
 追っ払われたのをいい事に、真琴に腕を絡ませてデレデレしている小太郎を見て激昂する一子を、和巳と春日が慌てて宥めに入った。
「なんか賑やかですねー。どしたんですか?」
「あら、美坂さん。ようやくお付き?」
 どうやら最後のメンバーが到着したらしい。和巳に謙譲されたお茶のペットボトルを一息で飲み干した一子は、口許を拭って木乃歌と喋っている美坂栞に顔を向けた。
 詰まらなそうに栞の脇に立っている中学生くらいの少年。どうやら彼が栞の言っていた同行者らしい。と、一子の視線に気付くと、彼は愛想の良い笑顔を浮かべて「こんにちは」と礼儀正しく頭を垂れた。
「ああ、この子、薫くんね。よろしく」
「北川薫です、よろ……」
 好感を抱きやすい人懐っこい笑顔で挨拶していた少年だったが、不意に一人の人物のところで視線が固まった。
「……よ、よお。土偶やなあ」
「あんた……御門和巳」
 アリアリと浮かんだ驚愕が、一瞬苦りきった渋面へと変貌した。と、思いきや再びスルリと笑顔に戻る。
「お久しぶりやね、和巳兄ちゃん。なんや、こっち来とったんや。そういえば知り合いの家、こっちの方ある言うとったもんね。忘れとったわ。うちの功刀、なんも言うてくれへんからどこ行ったんかな思っててんよ」
「そ、そうかいな。そりゃ行き先も告げんと悪かった」
「あれ、薫くん知り合いの人?」
「うん、昔、色々お世話になった人やねん」
「……あ、あはは。お世話しましてん、ええ……なんで薫がここにおんねんなっ
 なんだか息苦しそうに笑顔を浮かべながら、和巳が相槌を打つ。
 不思議そうにしながらも、栞は集まった面々を薫に紹介していった。











 思えば、既にこの時、後に続く惨劇の兆候ははっきりと示されていたのだと振り返ることが出来る。
 栞主導の顔合わせの只中、真琴ちゃんの肩を抱き寄せて光悦と耳元に何か囁いている小太郎くんを一瞥したときの、あの北川薫少年の冷め切った眼。
 あの双眸の温度差の意味を、あたし――香村一子はもう少し早く察しているべきだったのだと、今は後悔して止む事はない。
 すべての破局はこの時点でもう、始まっていたのだ。






 嗚呼、ここでさっさと逃げ出してりゃ、巻き込まれずに済んだのにっ!!







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