「なんだあれ、火消しのコスプレか?」
 こういう時、場にそぐわぬいささか間の抜けたコメントが出てくる人物は、何事にも動じない泰然自若とした情痴をどこかに置き忘れてるやつか、現実から逃避している健全な人間のどちらかだ。
 そして、後輩たちを背後に庇いながら件のコメントを発した氷屋千歳は、幸いな事に後者であった。
 加えて、放心しながらも、案外千歳の見立ては的外れではなかった。確かに、遠近感を狂わせる巨大な唐傘は火消しの纏を連想させる。少女の羽織る上着が墨を塗りたくったような黒い法被とくればなおさらだ。ところが、それらを着こなしているのが年端もいかない少女と来れば、いかさま怪しさの極致に至る。
「も、もしかして……綺咲ちゃん、か?」
 しかして、北川潤はその面妖の塊のような少女を見忘れてはいなかった。あれは、朝食を作っている最中にフラフラと現れた奇怪に偉そうだった女の子だ。
「キサキ? って、ああ!? 今朝の頭の可哀相なガキ!」
 思わず指を差して叫んだ祐一の耳を掠め、ドシンと地面を揺らして傘がめり込んだ。
「命の恩人に大した言い草なの」
「ごめんなさい。助けてくれたありがとうございますカワイイお嬢さん」
 ノミの心臓ほどしかプライドのない祐一は素直に謝った。
「ところで、おまえさん何者?」
「綺咲は…………」
 意気揚々と答えかけた綺咲のおちょぼ口が、あからさまに引き攣る。
「どちらさま?」
「…………その」
 つぶらな眼をして覗き込んでくる祐一から、眼をそらす。
「んん?」
「…………ぴーほよろろ」
 ほっぺに人差し指を押し当てながら可愛く小首を傾げる祐一から、冷や汗を隠して口笛を吹きつつ背を向ける。
 し、しまったの。拙いの。怒られるの。具体的に云うと絞め殺されるの。ネックハンドなの。
 心臓がバクバクと喚きだし、綺咲は喘いだ。今さらの今さらだが、当然のように八旗において一般人の前での術式・異能力の開示は禁止されている。羅喉変を経た現代、もはや魔の領域に関する情報の絶対秘匿は時代錯誤ではあるが、世情の安定を鑑みれば公然にしていいものでもない。とはいえ、今回のケースは緊急を要するものであるから本来は綺咲が責められる事はないはずだった。
 調子に乗って名乗りをあげて見栄まで切るなんてたわけた真似なんかしなければ。
 綺咲の脳裏に月城漣のお仕置きの数々がフラッシュバック。あまりの恐ろしさに気絶しかけた。
「ハッ!? そ、そうなの。き、綺咲は、その…………綺咲は人里に下りてきた熊を退治するために呼ばれたどこにでもいるちょっとお茶目でお調子者な猟友会の会員なの!」
 捲くし立てるように言い訳をはじめる少女。祐一はほう、と相槌を打ち、顎をツルンとなで上げた。
「で、猟師さんなら熊を狩るための猟銃は? 見当たらないんだが」
 意地悪く問い詰める祐一に、綺咲の流す汗の量が倍増する。
「最近の狩猟は猟銃じゃなくて傘で狩るのがトレンドなの。ナウなの。特に蛇の目傘と唐傘がいまどきなの」
「最近の猟友会は小学生まで会員になれるのか」
「こう見えても綺咲は11歳じゃなくて21歳なの、と見せかけて実は熟女な32歳なの。って、隅から隅まで余すところなく無理でできた説明なのーっ!!」
 半泣きでペシペシと地団太を踏み出す綺咲。
「あ、逆ギレした」
「なんだか今目の前にいるお兄さんを撲殺してしまえば全部有耶無耶にしてしまえそうな気がしてきたの」
「撲殺対象のお兄さんとしてはそれは物凄い気のせいだと主張したい」
 据わった目で見下ろされながら唐傘兵器を振りかぶられ、今度は祐一が脂汗を流しまくりながらズリズリと後退った。
「――――っ」
「え、ちょっと待て。マジに――」
 突如、少女の目の光がスッと冷めた。ゾッと毛穴がそそけだつ。傘の柄を握る手に力がこもるのを見て、祐一の胃の腑が縮こまる。ヤバイなんだこいつ、急に本気に。
「うひっ!?」
 反射的に、頭を腕で庇う。唸りを上げて、傘が振り下ろされた。
「……て、あれ?」
 だが、傘は祐一の頭を掠めただけで、地面すれすれのところで止められた。バンッ、と内側から破裂するかのような勢いで傘が開く。座り込んだ祐一を覆うように。
 直後、傘の表面が撓み、鈍い衝撃とともに何かを弾き飛ばす。一度真上に撥ね上げられて地面に激突した物体を見て、祐一はあんぐりと口をあけた。
 それは、無残にWの字に折れ砕けたプラスチック製長椅子の残骸。
 綺咲は表情を固くして、残骸に一瞥をくれた。
「ちっ」
 しくじった。大失敗だ。相手のタフさを見誤ってしまった。
 ゆっくりと、一塁側に首を傾ける。巨人のような影が土煙の中に立ち上がっていた。
 脇腹からはボタボタと蛇口の壊れた水道みたいに鮮血が垂れ流されている。深手なのは間違いない。だが、化け熊はしっかりと立ち上がっていた。頭を揺すって瓦礫を払い落としている。
「なんだ、あの熊は。妖怪か?」
「違うよ、祐一」
 口を挟んだのは綺咲ではなく、それまで魂を抜かれたみたいにへたり込んでいた名雪だった。
「多分あれ、人間」
 驚いたように、綺咲が名雪に視線を送る。だが、その眼差しの色は驚愕の真実を知らされたものではなく、教えていない内容を生徒に答えられた教師のような驚きだった。
「なんだと、あれ着ぐるみなのか!? すごいな、おい! さすが特撮大国日本!!」
「アホは黙ってすっこんでるの!!」
 綺咲は問答無用で祐一の顎を蹴っ飛ばした。
「あれは――」
 思わず説明しかけ、口を噤む。
 あれは。あの化け物熊は、彼女が言った通り人間だった。当然、着ぐるみなどではない。戦守部七本槍家、諏訪の第三穂『天掌(あまのひら)邑紙(ムラカミ)』。その術派実働部隊『山浦衆』に名を連ねる獣化術者。それがあの熊の正体だ。漣は腕利きは全員場を離れているはずだと言っていたが、それが本当なら山浦衆はかなり優秀な術者集団なのだろう。先ほどの一撃、スペルドランク・パイルバンカーによる攻撃は、綺咲にとっては必殺の一つだ。呪壊式により防御術式の解体し、爆圧による貫通作用と衝撃術式を併合した呪杭を叩き込むストライク・パターン。多少加減したとはいえ、セカンドステージの吸血種にすら効果を発揮する一撃を喰らってなお、動けるような相手が精鋭に加えられていないというのだから。
 だけど、どれだけ力が強かろうと……下種なの。
 手段を選ばないという姿勢に是非はない。だが、こいつは尊ぶに値しない下劣な敵だ。
 案の定、獣化術者は綺咲を横に見る方向に走り出した。その先には、千歳たちと合流しようとしている琴夜と丈臣の姿が。
 盾に取るつもりだ。そもそも、一目散に此処に逃げ込んだもの、ただ逃亡を図ったのでは逃げ切れないと踏んでのことに違いない。最初から人質を確保するつもりだったのだ。
「させるかっ、なの!!」
 疾風のように飛び出しながら、御神楽綺咲は唐傘を真横水平に翳し、柄を握り替えた。金属音をがなりたて、傘の骨から一斉に研ぎ澄まされた細剣がせり出した。綺咲は獣化術者の進行方向に立ち塞がるような軌道をとりながら、牙を剥いたその筋では闕傘と呼ばれる傘型魔道器――あまりに改造が施されすぎて本来の闕傘とはかけ離れた代物になっているが。もはや魔道器ではなく魔道兵装と表現するほうが正確だ。――を回しはじめる。文字通り、風を切りながら回転を高速化させていく。初速を得たあと、手元を握りかえ、柄の内部に通した神鋼芯との連結を切り離す。あとはオートマティック。闕傘はバイパスを繋いだ綺咲自身の霊力を糧に、自動的に加速を開始する。
「吼えるの、荼毘丸(だびまる)ッ!!」
 一声叫び、綺咲は闕傘【荼毘丸】に霊力を叩き込んだ。一気にヘリのローター並の回転速度に達した荼毘丸は、大気をどよもす咆哮をあげながら砂塵を巻き上げる。
 そして綺咲はわざと傘の角度を変え、空気抵抗を加えつつ大地を蹴った。高速回転する傘を振り回すことで予測不能のジグザグ機動を空に描き、獣化術者へと襲い掛かる。
 ――――斬!!
 高速回転する傘の骨剣は鮮やかに化け熊を袈裟懸けに薙ぎ払い――
「ふえ――ッ!?」
 なんの手応えもなく素通りした。斬り払われた化け熊の姿がぶれ、陽炎のように消え失せる。
「これ、幻術!?」
 実体のない、霊気と気配を付与した光学幻像術。空中で逆さまの体勢のまま、綺咲は真っ青になりながら元いた場所――マウンドへと首を捻る。
 勝ち誇ったように祐一を踏みつけ、名雪を腕に抱え込んだ獣化術者の巨躯が嗤っていた。





 月城(つきしろ)(れん)渡万里(とまり)(とおる)が現場へと踏み込んだのは、御神楽綺咲が幻術に惑わされ、脱出を図った山浦衆の残党が民間人の男女二人を人質に取ったその只中だった。
「綺咲の莫迦、初歩的な手に引っかかりやがって。これだからお子様は……漣さん?」
 フィットタイプのサングラスを掛けた、こけた頬が特徴的な蟷螂のような三十路前後の男――渡万里徹は、傍らの漣が何故か絶句しているのを見て面食らった。
「あれは、秋ちゃんと祐ちゃん、じゃないわよね。んなバカな」
「漣さん?」
「いや、ごめん」
 長らく会っていない旧友とあまりに容姿が似通った男女に混乱しかけた漣だったが、すぐさま冷静さを取り戻し、渡万里に囁きかける。
「どうやらまだ敵さん、此方には気付いていないようね。今のうちに悟られずにあの学生さんたち入れ替えれる?」
「囚われている二人は無理だが、外野なら」
「それで構わないわ。君はそのまま学生達を保護しておいて」
 グラウンドの外周に避難しながらも逃げようとしない学生たち。あの雰囲気だと放っておけば首を突っ込んできかねない。さっさと状況から隔離して、ついでに暗示による認識操作もまとめてやってしまっておくべきだった。渡万里は小声で了解の意を伝え、姿を消した。
「さて、無闇に殺しちゃ拙かったのよね。面倒だけど」
 ここから狙撃で頭を吹き飛ばせば簡単なのだが、そうは問屋が卸さない。
 後手に回っている自分たちが今なによりも欲しているのが情報だ。離脱した山浦精鋭の行き先。神剣の在り処。彼らの反逆のバックボーンの正体。拠点に残された物的資料からそれらの情報が得られるか分からない。分からない以上、拠点にいる人間の持つ情報を無碍には出来なかった。ゆえに紅葉などは文句タラタラだったが、突入前に内部の人間への対処は殺害ではなく捕縛の方針を三旗間で固めてある。誰が重要な情報を握っているか分からない以上、あの熊化している術者ですら殺すわけにはいかなかった。
「神剣なんてものが絡んでいる以上、優先すべきはそちら、か」
 それこそ、人質となった学生たちよりも。
「と、見捨てられたら楽なんでしょうけど」
 やれやれ、と仕方なさそうに月城漣は嘆息した。それが出来たら苦労はない。許してくれないのだ。自分の性分が、平然と無関係の人間を見捨てることを。必要ならば、割り切れるだろう。だが、極限まで自分はその必要性を認めずに済む方向を模索してしまう。
 あまり、賢い生き方ではないのよね。特に、こんな商売をしているなら。
 ふと、普段なら頭の隅にも過ぎらない疑問が浮かんだ。昔の自分なら、こういうときどうしただろう。若い頃は、もっと酷薄というか他人の気持ちや生き死にに対して冷淡だったような記憶があるのだけれど。
 思索に沈む漣の双眸に、獣化術者の人質になっている二人の男女の横顔が映る。一人なら他人の空似で片付けられるが、二人揃って旧友そっくりとなるとそうもいくまい。そういえば、会ったことはなかったが、旧友たちの子供があれくらいの年頃ではなかっただろうか。
 懐かしい顔、見たからかしら。こんな変なこと考えちゃったのは。
「そういえば、なっちゃんに言われたことがあったわね」
 漣は思わず含み笑いをもらした。

『お前たちは、バカだがきっとイイやつだ』

 かつて、神室奈津子という少女は、会って幾日も経っていない自分たちに向かって真面目な顔をしてこう言ったのだ。
 当時は、頭に何か湧いているんじゃないかこの小娘は、なんて失笑するほか無かった。今だって思い出すたびに笑える。
「イイやつか。まったく、人を見る眼がないのよね、あの娘」
 彼女がイイやつだと断言した、自分を含めた五人は。どう好意的に見てもろくでなしと人でなしと人格破綻者の集まりで、つまるところ悪人と類別される人種でしかなかった。
 月城漣。九十九埼功刀。天野愁衛。今は亡き時任美南。校倉藤治。本当にどいつもこいつも、力ばかりに重きを置いたつまらない馬鹿ばかりだった。
 なのに、そんな自分たちを奈津子は、秋子は信用してくれると云ったのだ。彼女達がようやく得た大切な生活をぶち壊した自分たちを、きっとイイやつだからといって信頼してくれた。
 あの信頼は……はじめは鼻で笑い飛ばすだけだった信頼は、自分たち五人の人生に多かれ少なかれ、重たく圧し掛かっている。
「裏切れないのよね。もう二十年も経ってるのに。ま、嫌じゃないんだけど」
 腰のポシェットからミネラルウォーターの入ったペットボトルを二本、抜き出す。
「だいたい、なっちゃんたちの子供を見捨てたとなると、後が怖いわ」
 親指でキャップを外しながら、視線を青ざめた顔で唇を噛み締めている綺咲に据えた。
 それに、自分のポカで人質にされてしまった人を殺されたりなんかしたら、あの子立ち直れそうにないものね。
『此方は終った。いつでもはじめていいぞ』
 無線機から渡万里の通信が入る。外周で喚いてる学生たちに目を配るが、傍目には変わった様子は見えない。これで既に全員が幻像と入れ替わっているのだから、相変わらず鮮やかな手並みだ。
「OK。じゃあとっとと終わらせるわ」
 ペットボトルを逆さに向けて、中の水を全て吐き出させる。トプトプと零れ落ちる水流は、だが地面に滴ることもなく、羽衣のように漣の身体にまとわりはじめた。





「祐一っ、返事して祐一!」
 名雪は声を枯らして熊の足に踏み敷かれた恋人の名を呼んでいた。祐一は反応を見せるものの、苦しげに呻くばかりで声を出せないようだった。自分を抱きかかえる熊の手を引き剥がそうともがくものの、万力で固められたかのようにまるでびくともしない。
「その人たちを離すの」
 綺咲が、押し殺した声で云う。
 熊は大口を開けて笑った。獣の口から出るはずのない、嘲弄が篭った人間そのものの笑いだった。名雪は暴れるのも忘れて頭上を振り仰いだ。名雪の網膜に映っているのは、恐らく他の人たちが見ているのと同じ灰色の毛皮を纏った異様に巨大な熊の姿だ。だが、視覚とはまた別の、眼球から入力される情報が、この熊の正体が人間だと伝えている。
 わたしの眼、本当におかしくなってる。
 これまで霊体が感知できるようになった事をろくに気にも留めていなかった名雪だが、今さらのように自分の異常を痛感した。
『……不思議だとは思わないか。逃げる犯人を追いかけるとき、刑事は決まって待てと叫ぶだろう。あれは、逃亡者が待つことを期待して叫んでるんじゃないよな。だったら、なんで無駄に叫ぶんだ?』
 化け熊の発した人語は、どこか酩酊していた。脇腹からの出血が、精神を高ぶらせているようだった。だが、高ぶっているのは失態を犯した綺咲も同じで。
「離すの! 今すぐ離すの!! 離すの!!」
「きゃっ、かはっ」
 突然、胸部への圧迫が激しくなり、名雪は仰け反ってもがいた。詰め寄ろうとした綺咲は、怯えたように踏み出した足を引っ込め、口を噤んだ。
『人の話を、聞けよ。躾のなってないガキだな。あのな、判ってないなら教えておいてやる。人質は見ての通り二人だ。つまり、替えがきくってことだ。意味はわかった? お嬢ちゃん。それとも実際やって見せないと理解できないか?』
「く……ぅ」
 歯を食いしばる軋んだ音が、名雪の下まで聞こえてくる。薄目を開いて少女を見た名雪は、彼女の眼に悔し涙を浮かんでいるのを見つけた。少女が、此方を見る。目が、合う。
 少女は、仔犬のような目をした。
 やるべき事が出来なくて、主人の前で怯えてる。そんな仔犬みたいな悲壮な目で名雪を見上げた。
「あ……」
 胸の奥が、押し潰されそうな気持ちになった。
 その瞬間まで、名雪は頭のどこかで無条件に、目の前にいるこの小さな女の子が助けてくれるものだと思っていた。いや、助けてくれるべきなんだと、思っていた。
 自分たちは巻き込まれただけ。全くの無関係。そう、自分たちは被害者だ。何の過失もない被害者。そしてどうやらこの子は自分たちを巻き込んだ側のようだった。
 だったら、自分たちはこの子に助けられて当然なんだって、心のどこかで思っていた。
 どうして、自分たちがこんな目に遭わなきゃいけないのって、非難がましい思いすら、この女の子に向けていた。
「ちが……うよ」
 でも、だからってそんな眼を、受け入れるのは間違ってる。当たり前に受け取ってしまうのは、おかしい。変だ。
 この子は、自分を責めながらごめんなさいって全力で謝ってる。謝ってるのだ。こんな小さな子が。被害者だからって、無関係だからって。それを当然のように受け止めるのは、とても嫌なことだと名雪は思った。
 助けてくれようと必死になってる子に対して、少しでも早く助けなさいよという気持ちを持った自分が嫌だった。
「……ゆき」
 意識が引き戻される。足元から聞こえた掠れた声に、咄嗟に祐一の名を呼びかけた名雪は、彼の手が何か合図を送ってるのに気付いて慌てて声を飲み込んだ。意志が通じたと見るや、祐一は化け熊の意識が綺咲の方に向いているのを確認して、うつ伏せのまま手首のスナップだけで何かを放り投げた。何とか手を伸ばしキャッチする。
「これって……まさか」
 手にした親指ほどの薬瓶を見た名雪は、なんかもう状況も忘れてあきれ果ててしまった。なんでこの人は、こんなもの持ち歩いてるんだろう。ああもう、簡単に想像できてしまった。きっと隙を狙って誰かのお茶に混ぜてやろうとか思ってたに違いない。そうに違いない。それ以外考えられない。まったく、どうしようもないくらいこの人は、どんなときでもこんなときですら、相沢祐一でしかなかった。
 熊の足の下から伸びた祐一の手が、グッと親指を立てていた。

 祐一と名雪のやり取りに気付くほどの余裕もなく、綺咲は気が狂いそうなほどの焦りに身を焦がしながら、化け熊に語りかけていた。
「やめるの。人質なんかとっても逃げきれるものではないの」
『やってみなきゃわからないだろう。むざむざと殺されるくらいなら、徹底的に抗ってやるさ』
 それを聞いた綺咲は驚いたように急いで首を左右に振った。
「殺しはしないの。今回は殺してはダメって言われてるの。全員捕まえろって命令なの」
 血の匂いのする荒いだ息が、寸刻途切れた。だが、すぐさまため息のように重たく息が継がれる。
『いや、いずれにしても同じだ。俺たちはもうルビコンを渡ったんだ。反逆者だぞ。八旗が出張ってくるような事件を起こしたんだ。命が助かっても、術者としての人生はおしまいだ』
「どうして? 命があれば、充分なの」
『……は』
 何気なく綺咲が口にした途端、凄まじい怒気が膨れ上がった。
『……ざ、けるなぁっ! 俺たちは山浦だぞ! 槍家最高の魔道衆と謳われた山浦の一員なんだぞ!? それを、命があれば充分だと?』
 獣化術者は脇腹の深手を忘れたようにいきり立ち、体重をかけられた祐一がかすれたうめき声をあげる。
『見くびるな。我らは、常に己が命を懸けて、この国にはびこる薄汚い化け物どもと戦ってきたんだ。泥を啜って、血反吐を吐いて、この世の邪悪と戦ってきたんだ。生命惜しさに誇りを捨てるようなクズだと、俺たちをそんな卑怯者だと云うのか!』
 綺咲は言葉も無く、彼女にとってまるで理解できない怒りの発露を受け止めていた。なにが卑怯なのか、なにが屈辱なのか、綺咲にはさっぱり解からない。命よりも大事な誇り? 無関係の人間を人質にとるような下種が、どんな誇りを抱いているというのか。綺咲には欠片も解からなかった。未知の怒りが、そこにあった。
『俺たちは、こんな所で終わるわけにはいかないんだ。逃げて、逃れて、あの人たちと合流して。そうだ、俺たちは成し遂げないといけない。この国を、国を救うんだ。化け物どもの手から、俺たちが。壊れてしまったこの国を、俺たちが! この国は、もうダメだから。狂ってる。狂ってるんだ。だって、おかしいじゃないか。俺たちが必死になって退治していた妖怪どもが大手を振って日の当たる下を歩いてるのを、どうしてこの国は見逃してるんだ? どうして彼奴らが大きな面して国の中枢に蔓延るのを、漫然と受け入れてるんだ? どうして――――やつら化け物からこの国を守ってきた俺たちが、山浦が……潰されなきゃならないんだ?』
 大量の出血による理性を失った錯乱。そう言い切れない身を切るような嘆きが、その怒りには宿っていた。
 綺咲はブリーフィングの際の漣の話を思い出していた。誰かが、どうして槍家の一員ともあろうものが叛逆なんて起こしたんだ、と疑問を投げかけたのが発端だったように思う。興味もなかったし、内容も難しかったので話半分に聞き流していたけれど、レンはなんて言っていただろう。
「もう……必要なくなったから」
 ポツリ、とこぼした瞬間、辺りに満ち満ちていた怒りが凍り付いていた。
「必要なくなったから。いらなくなったから。それで、無くしてしまえるほど、俺たちは安い存在だったのか。山浦という名に抱いていた誇りは、なんだったんだ」
 認められるか、と獣化術者はうわ言のように呟いた。

 山浦衆が主家である邑紙家から離反した理由は、彼ら自身の言によるなら「近年、国家の中枢にまで根を張り、人の世を脅かしている異形の者どもを駆逐する」という大儀に殉じるため、という事になっている。
 人間以外の存在を敵視し、人間を唯一絶対の知的存在と位置付けようという考え方は決して珍しいものではない。西洋諸国では古くから根強く信奉されているし、この日本でも怪異と対峙してきた立場の者たちの少なからぬ割合が、人外への排斥意識を抱いている。
 だが、山浦衆の離反の直接の原因となったのは、そうした思想の先鋭化ではなく、業界の構造変化の余波によるものと言ってよかった。
 元を辿っていくならば、多くの変化の発端がそうであったように、彼らの顛末の発端もまた羅喉変へと行き着く。
 ≪羅喉変(らごうへん)≫――――海外では≪真夜中の祭典(ザ・カーニバル)≫、研究者の間では≪最終侵蝕災害≫、真実を知らない一般大衆には≪夏の終末≫、≪列島大侵災≫という通り名で呼び伝えられるこの大災厄では、史上に類を見ない規模で、人外存在と人間社会との間で協力体制が確立されていた。
 侵災以後も協力体制の延長線上として、列島各地の大きな人外コミュニティと神祇省を中心とした国家中枢とのホットラインは確保され続ける。また、侵災以前は人間社会とは一線を引いた生活圏を堅持するスタイルを正しい形としてきた人外種の通念が、侵災時の混乱で人との接触が増えたのを契機として変容を見せ始め、好奇心の強い若い妖を中心とした人間社会への流入傾向が一気に拡大した。
 こうした結果、地方での人外コミュニティとの深刻な摩擦問題が減少、逆に都市部を中心とした地域での個々の人外が巻き起こす問題の発生数が爆発的に上昇する。日本における、闇夜の世界の構図そのものが変わり始めていた。
 対応は迅速だった、と評価してもいいだろう。
 戸籍の発行や職業支援、教育補助などの人外種の社会生活を支援する部局の開設。公安八課をはじめとする対応機関の整備など、公儀による積極的な体制の刷新が進められた。中でも、神祇省による退魔業務の外部委託の積極的推進が劇的だった。それまで、旧来の伝統的な退魔組織による寡占状態だった日本の退魔業界の様相がこれにより一変したのだ。
 羅喉変当時、神祇省はこの国家的危機を指導するために、旧大本営も顔色を無くさしめる巨大権限を掌握したのだが、当時の神祇省伯家・須恵広大(すえ ひろまさ)はこの折角得た権力を単に目の前の危機への対処のみに費やす事に満足しなかった。
 日本全土を震撼させた大侵災の終結に、誰もが安堵と虚脱の渦中にあったとき、須恵広大は日本を救うために振り回した強権を、返す刀でこの国そのものに振り下ろしたのだ。
 後に、『史上最悪の後夜祭』『悪夢の後の戦争』と呼ばれ、関係した官庁・地方自治体・寺社・警察・魔道大家の人々が「気がついたら首根っこに縄を掛けられていて、訳もわからないうちに銃を持たされ突撃させられたようだった」と口を揃えて振りかえる構造改革の大鉈だった。
 怒涛のように降り注ぐ企画・構想・議案のスコールに、関係者たちは深く考える間も与えられず手渡された職権を死に物狂いで乱用し倒し、目の前に積みあがる仕事の山を突き崩していった。そして彼らは、神祇省の超法規権限という積乱雲が消え去った後、陽の下に忽然と現れた自分たちが作り上げたものを目の前にして、言葉もなく立ち尽くすばかりだったという。
 三年である。
 たった三年で、そのシステムは構築され、機能しはじめていた。
 北海道から沖縄まで。この列島隅々に至る霊的事象、人外や術者に関係するあらゆる情報が神祇省にもたらされる体制が確立していたのだ。
 尤も多くの者は、これが何を意味するか理解していなかった。
 ただこの祭りの首謀者たる男は、1985年に半ば追放されるように神祇省を退官する際、当時の皇上への挨拶を終えた後に冗談混じりに側近だった女性にこう漏らしている。

『おい信じられるか。どうやら俺は2645年ぶりにこの国を霊的に統一した男ということになるらしいぞ』

 かくして神祇省は【暴君】と呼ばれた男の遺したこの圧倒的な情報管理体制のもと、退魔業務の外部委託を積極的に推し進めた。これによって躍進したのが、組織力を持たない個人単位で活動する退魔師たちである。
 これまで、余程の実力と知名度、情報収集力を持たない限り、個人単位で活動する退魔師は仕事らしい仕事を得ることが叶わなかった。怪異による事件は起これども、まずそれを知る術がなく、次に事件の解決を依頼は決まって名の知れた少数の実力者か既存の退魔組織へともたらされる流れになっていたからだ。
 この状況が、神祇省の外部委託政策により一変した。
 彼らは今まで望んでも得られなかった情報を簡単に入手できるようになり、斡旋を受けることで依頼を得られるようになった。
 神祇省が目論んだのは、最適化だった。必要なときに必要な場所へ最も適したものを送り込む。複雑多様化しながら発生頻度を増していく都市部での怪異問題に、フットワークが軽くグループによってそれぞれ特色の異なる、個人もしくは少人数単位の小規模の退魔グループの存在は、見事に合致した。この時代の流れに必要だったのは、少数の精鋭でも動きの鈍い巨象でもなく、大量かつ色取り取りの働き蜂たちだったのだ。
 侵災後二十年でこれら小規模の退魔グループの数が一〇倍近くに膨れ上がっているのを見れば、激動するこの国の裏側の様相の一端が窺えるのではなかろうか。

 このように、業界の構造変化が進む中、戦守部と呼ばれた七本槍家もまた組織再編を余儀なくされていた。本家の退魔道家としての機能をほぼ解体、内務省に吸収してしまった九十九埼士郎のケースは極端だとしても、多かれ少なかれ槍家は旧来の組織体制の維持に限界を感じ、時代の変化に合わせた改革を推し進めている。
 山浦衆は、その煽りを喰らったといえた。
 元々、槍家は天野や桐柳、裏高野などとは違い、術式に寄らず、武によって退魔を為してきた一門である。哉杜家や狗ヶ村家のように宗家の血筋が異能を駆使しているケースはあるが、その構成員の多くは異能を持たず術式を扱えない者で構成されている。
 近代以降、槍家は火器装備を充実化させることで、戦力を充実させてきたのだが。上記したように退魔業の様相が、昔のような山間部に出没して村落に害を為す怪異の駆逐から、都市部での頻繁かつ複雑な問題(単に怪異を駆逐殲滅すれば良し、とはいかなくなってきている)の対処へと変化しつつあり、保有する戦力がこれに上手く適応しなくなってきた。
 要は槍家に必要とされる力が、軍隊的なものから警察力的、もしくは弁護士的なものになりつつあったのだ。もっと単純かつ乱暴にいうなら、都市部に銃火器を装備した大人数をなだれ込ませるのは社会的にも経済的にもリスクが大きすぎる、ということだった――この点、術者組織である天野家などは、術式という応用力のある力が基盤であり、状況に応じた柔軟な対処が可能であるがために槍家ほど機能不全を起こしてはいない。無論、相応の組織再編は行われているが――。
 この現況に、旧来の形に拘る家もあったし、何もかもが面倒になって放り投げてしまう家もあった。邑紙家は、この点、真面目に対処しようとした槍家だった。幸か不幸か邑紙家は槍家の中では珍しい事に術者戦力を保持していた。山浦衆である。
 邑紙は真面目であると同時に現実的でもあった。下手に新しいものに手を出して失敗するより、手持ちの駒を捏ね直すことでとりあえず目の前の事に対処できるようにしようと考えたのだ。
 折角の術者戦力である山浦衆だったが、彼らは元来、非人型の大型妖怪を駆逐する目的で構成された一門だった。現実として、彼らは侵災後の流れの中で、次第に使い勝手の悪さを露呈していく。当初、邑紙家は山浦のスタイルを改変し、現状に適合させようとしたものの、元々完成されていた型を別の形に組みかえる困難さと、当の山浦衆の変化を拒む姿勢――特に山浦衆だけに寄らず、ある程度伝統がある組織ならばどこでも似たような傾向を示す――から、改変作業は遅々として進まなかった。
 そのため、ついに邑紙はこれをそのまま保有するのではなく、一旦解体してしまい術者たちを分散配属させる方針を採ることとなる。要は、術者ではない者と組ませて諸兵科連合の形を取った小規模のグループを構成し、運用しようとしたのだ。
 ところが、この処置に山浦衆が怒り狂った。散々口出しした挙句に、我々をいらなくなった企業の一部署のように扱うとはどういうつもりだ、と主家の意向に徹底的に反発したのだ。
 この事態は、ある意味明治以降組織の近代化を図りつつも、大元のところで旧態然とした『家』という土台が抜けきらなかった槍家の弊害が露呈した、その最も最悪のケースと言えたのかもしれない。
 邑紙の指導者層は、傘下の組織をあくまで邑紙家の一部であると考えていた。当の山浦衆も、自分たちを邑紙の一部だと捉えていた。両者の認識は傍目には全く共通しているように見えたのだ。実際、双方ともに認識の食い違いがある事にまったく気づいていなかった。そこに悲劇が存在した。
 邑紙家の指導者層は、山浦衆を邑紙の一部であるが故に、邑紙の事情に合わせて解体する事に疑問を抱かず、逆に山浦衆は邑紙の一部である自分たちがどうして切り捨てられるような扱いを受けなければならないのか理解できなかった。
 山浦衆は、この措置を、自分たちに対する裏切りと捉えた。

『まあ背景は今喋った通りだからね、妖怪連中との関係の変化が山浦が解体される遠因だったってのは間違っちゃいないのよ。筋元々、山浦って隠れキリシタンが母体だったそうだから、人外に対する敵愾心はかなりのものだったみたいね。我慢ならなかったんでしょ。敵と仲良くした結果、自分たちがいらなくなったってのが。ああいう伝統のある組織の連中ってむやみにプライド高いし、現実無視して組織防衛に走る嫌いもあるからねぇ。さすがに主家から離反やその後の行動は、誰かが裏から唆した節があるんだけど』

 途中から聞いていた人の殆どが舟を漕ぎ始め、ブリーフィングというより講義のようになってしまった話を、月城漣は最後にこんな風に締め括った。一応、最初から最後まで真面目に聞いていたものの、さすがに綺咲には話の内容は難しすぎてよく理解できなかった。だが、一つだけ話の中で、何となくわかったことがある。
 もういらないと、一番大切な相手から言われるのは、とても絶望的なことなのだ。彼らは、きっと絶望したのだろう。裏切られた、と思った彼らの気持ちを、綺咲には良く理解できた。
 お前は役に立たないからもういらないのだと、切り捨てられた事のある綺咲には、彼らの絶望がありありと想像できた。

 ――でも。
「だからといって、やっていいことと悪い事があるの」
 かつて、途方に暮れて泣いていた自分の手を、掴んでくれた人が居た。
「八つ当たりは、格好悪いの。大人のくせに、情けないの」
 一緒に行こうかと、抱きあげてくれた人が居た。
「ダサダサすぎて、もらい泣きしてしまいそうなの」
 その時、綺咲は決めたのだ。
 いつか、自分を心から、この人たちに必要な人間なのだと、思えるだけの何かを掴み取ろうと。
 だから、綺咲は、許せなかったのだ。
 無条件に自分たちの正しさ、必要性を信じて疑おうとする素振りすらない、自分たちの何が問題だったのか省みようとしない、こいつらの安易な姿勢が。
 虫唾が走るほど許せなかった。

 一撃だ。一撃で潰す。二人の人質に手を出す暇を与えずに、瞬時に潰す。出来るか、と自分に問う。出来るはずだ。自分にはそれだけのスペックが備わっている。息を吸った。全身の余計な力を抜いていく。代わりに、頭のてっぺんから足の爪先に到るまで、氣と意志を満たしていく。傘を己の一部とするな。逆転させろ。己を、傘の一部とせよ。暗示のように、かつて自分を捨てた者から教わった事を反復した。

 猛る。狂う。冷たく、冷ややかに、感情を火にくべた。

 さあ覚悟を下腹に据えろ。自分の犯したミスは、自分で取り戻す。責を果たすのだ。
 命を懸けるとは、どういう事なのか。このクズ野郎に見せてやれ。

 火花散る。
 点火する。

 御神楽綺咲は八重歯を剥きだし、咆哮した。

「無能が、身の程知らずに誇りを語るな!! クズはクズらしく地べたに無様に這いずるがいいの!!」

『なん――――』
 化け熊の形相が、怒りのあまり毛皮越しにすら解かるほど白ずんだ。今だ、と綺咲は決した。僅かな理性も消し飛ばされ、人質に向ける意識を失った化け熊に目掛けて、今度こそ正真正銘、本物の必殺を少女が繰り出そうとした。
 瞬間だった。

「は、はははは、いいぞ、チビッコ。良く言った!!」
 闇も霧も光ですらも、あらゆる目の前に立ち塞がる幕を吹き飛ばしてしまうような、快活な笑い声が綺咲と化け熊の間に割り込んだ。
 地べたから。
 かなり苦しい体勢で無理やり頬杖なんかつきながら、不敵に笑んだ眼をした青年が偉そうに綺咲を指差した。
「なんだか知らんが、きっとお前が正しい。物言いが痛快だ。お兄さん、ちょっと惚れたね! それに引き換えクマさんよ、あんた格好悪いぜ。なんの誇りか知らないけどな、あんたちょっと自分省みてみな。品行方正な男女を人質にとって、いたいけなチビッコを脅すわ泣かすわ苛めるわ。どう見ても、あんたが違うと言い張ってる、クズな卑怯者そのものだぞ」
『な……な、き……さまぁぁぁぁぁぁ!!』
 小馬鹿にされたと理解し、憤怒に眼を血走らせた化け熊が祐一を踏み潰そうとしたその時、彼は圧迫による息苦しさを押し殺した落ち着き払った声で告げた。
「ああ、あんたもうつまんねえ。ダメ出しだ。やっちまえ、まいはにー」
「ああもう、知らないから!」
 やけっぱちだった。激高した化け熊が足元に身を乗り出したのを見計らい、名雪は手のひらに握りこんだ薬瓶の中身の粉末を、化け熊の鼻面目掛けて叩きつけた。
『ギッ―――語誤ゲ@#R%$%!#%¥*$$!!!???』
 もはや悲鳴とすらいえない凄まじい絶叫をあげながら、化け熊は顔を抑えて仰け反った。化け熊の足の下から這い出しながら祐一が、邪悪そのものの形相で爆笑した。
「ぶわはははははははははははっ、どうだ! 真琴からかっぱらった未だ日本じゃ滅多にお目にかかれないハバネロ粉末だ。そんじょそこらの唐辛子なんざ眼じゃないぞ。チビッコ、今だ、やっちまえ!!」
 言われずとも。
 正直に言えば、呆気にとられて眼を丸くしていたいところだったが、その余裕は無かった。隙を作ってくれたことはありがたく、半ば特攻気味の攻撃を仕掛けようとしていた自分が言えた台詞ではないかもしれないが、彼のやったことはあまりに無謀が過ぎた。
 鼻と眼を潰され、悲鳴をあげながら化け熊がのた打ち回る。滅茶苦茶に振り回される腕、よろめく巨体はそれ自体が暴威であった。名雪ははしっこく前に飛び込むように転がって、暴風圏から逃れる。だが、直前まで凄まじい重量に押し潰されていた祐一の方は、すぐに立ち上がって逃れる事が出来なかった。
 覚束ない足取りでその場を離れようとしたその時、カクンと膝が折れる。振り回された丸太のような熊の腕が、丁度膝を着いた祐一の頭を薙ぎ払う軌道を取っていた。
「伏せるの、おにーさん!!」
 頭をぶん殴り、意識を失わせようとしていた綺咲は、咄嗟に荼毘丸の石突で熊の肩を突いて軌道を逸らそうと、
 ――――全然……間に合わないの!!
 胃の腑が、引っくり返る。眼を閉じるまでも無く、視界が暗く翳った。
 絶望する綺咲の視界の端で、青年は大砲さながらの熊の巨腕に薙ぎ払われ、

 ――――水しぶきをぶちまけて跡形も無く飛び散った。

 眼をそむけようとした綺咲は、ハッと目を見開いた。
「――って、血じゃなくて水?」
「綺咲ちゃん、やっちまいなさい」
 指先で喉元を擽るような甘い声が響いた。
 何もない空間に波紋が生まれ、ベールが落ちるように水の幕が流れ落ち、顔が紫色になった祐一を抱き寄せた無数のアクセサリーと濃い化粧で着飾られた痩身の男が現れる。
「レン!!」
 月城漣は、捕まえた青年に頬ずりしながら、綺咲に向けてウインクした。
「ぎやあああああああああ、髭の、髭の感触がぁぁぁぁ!!」
「やあねえ、照れなくてもちゃんと抜いてあるわよ。あ、ごめんなさい、もしかして剃り跡に萌える趣味?」
「ひぎィいいいいいいいいいいいい、んなわけあるかぁぁぁぁぁぁ!!」

 なんか物凄い断末魔を聞きながら、綺咲はまだ悶絶している化け熊を張り倒した。








「ああ、若いって良いわねえ。プリプリっとした肉感が素敵だわぁ」
 満足そうに自分の身体を抱きかかえてフルフル震えている漣の背後には、輪郭が曖昧になって燃え尽きてる一人の好青年の末路があった。
「ゆ、ゆういち、ファイト、だよ」
「ひぐ……ふえっく」
「マジ泣きなの」
 ヨシヨシと綺咲に背中を摩られている祐一に、参ったなあとため息を残し、名雪はとりあえず助けてくれたらしいオカマの人にお礼を言う事にした。なんだか色々と心理的に抵抗あるけど、この人が庇ってくれなければ祐一は本当に死んでいた。
「あ、あの」
「ああ、そうだ。貴女たちのお友達。私の仲間が暗示かけたから、覚えておいて」
「え?」
 話しかけっぱな、突然の注意に面食らった名雪だったが、そういえばいつまで経っても草野球同好会のみんなが寄ってこないことに気付いて、不思議そうに外野の方で立ち尽くしている友人たちを振り返った。
「ああ、あれ偽者の映像だから。本物は別のところでお昼寝中。ごめんね、下手に突っ込んでこられるとウチの子も貴女たちも危なかったから」
「ああ、いえ、その」
「一応、あんまり此処での事、覚えていられると拙いんで、暗示かけさせといたのよ。あ、暗示って言っても記憶弄るみたいな危ない真似はしてないから。単なる認識操作で……そうね、今日ここで起こった事を大した事じゃないどうでもいいことと思わせないようにしたってわけ」
「えーっと、じゃあわたしたちもその認識操作っていうやつをやられちゃうんですか?」
 のほほんと聞き返してしまった名雪に、漣は少しキョトンとしてから、クスリと肩を揺らした。
「暢気ねえ、貴女」
「そうですか?」
 そっくりだわ、ほんと。と口の中で呟いて、漣はルージュの塗られた唇を綻ばせながら、頬に人差し指を添えた。
「貴女たちはいいわ」
「いいんですか?」
「大丈夫でしょ。貴方たち、こういうの結構慣れてるみたいだし。広言して回るような真似はしないでしょ」
「わかるんですか、そういうこと」
 漣は薄く笑うだけで質問には応えず、口封じは乱暴になっちゃうから、しなきゃいけなくなるような事はしないでね、と言い添えた。
「ああ、そうだ忘れてた。あの、祐一助けてくれてありがとうございます」
「ふうん、彼が祐一君ね。それで貴女が名雪ちゃん。ふむふむ……あ、お礼ね、うん。お礼言われる筋合いはないわ。っていうか、貴女たちにはこっちの不手際のとばっちり食わしたみたいなものだしね」
「は、はあ」
「それに。お礼を言うのは本来ならこっちの方だわ。あなたたちがムチャしてくれなかったら、あの子、ちょっとヤバいことになってたかもしれない」
 ヤバいことってなんだろう、と疑問に思った名雪だったが、訊ねるよりも前に何となく判った気がした。あの啖呵を切った時の綺咲の目は、尋常ではなく据わっていたから。
「でも、ああいう無謀な事しちゃだめよ。貴女たち、一つ間違えたらほんとに死んじゃってたんだから。まったくもう、後先考えないところなんか祐ちゃんたちそっくりだわ」
「はあ、すみません……ふえ?」
「ああ、こっちのこと。気にしないで。ところでお母さんは元気?」
「は? ええっと、元気です。壮健です。28歳! って感じで。あ、あのー」
「ああ、気にしないで、こっちのことだから。ちょっとごめんね」
 漣は名雪に向かって手を振ると、無線機を手に取り――携帯じゃなくて無線機だ――どこかと話しはじめた。首を傾げたくなる気分だったが、どうやら真面目な話らしく真剣な顔で無線機に耳を寄せている漣に詰め寄るわけにもいかず、名雪は踵を返した。
 目的の人物は、まだ燃え尽きてる祐一の隣で、なんだか小さくなって座り込んでいた。なんだか元気なく、子供らしくないため息をついている。落ち込んでいるらしい。名雪は彼女の前に屈みこみ、顔をのぞきこんだ。
「綺咲……ちゃん、だったよね」
「あ……そう、なの」
 彼女はやっぱりあの、子犬みたいな目をして伏し目がちに名雪を窺っていた。
「え……とね」
 どう言葉を紡いだらいいのか迷ってしまう。伝えたい事が、あるんだけど、それを上手く言葉に出来ない。同じように、躊躇うように口をモゴモゴと動かしていた綺咲の方が、先に意を決したように口を開いた。
「あの、お姉さん。綺咲は、ご――ムグゥゥッ!?」
「タンマ、ストップ」
 名雪は綺咲の口を塞いで、彼女の胸から飛び出そうとした言葉を遮った。
「今、謝ろうとしたでしょ。それ、無しね。無しだよ。わたし、そういうの苦手で、どういう顔したらいいかわかんないから、無しね」
「でも」
「ありがとう」
 綺咲の胸の奥で溶けずに濁っていた怒りだとか苛立ちだとか、そんなものドロドロしたものが、ふっと吹き払われていた。
「これだけ、言っておきたかったんだ。助けてくれたんだからね、綺咲ちゃんは。だから、ありがとね」
 はにかむように笑いながら、柔らかな手が頭を撫でる。
 綺咲は何も言わず、目を閉じて。今、感じている不甲斐なさと悔しさを。忘れないようにしようと心に刻み付けた。











 捕縛した獣化術者を白旗の者に引渡し、月城漣は制圧の終わった製薬施設の所長室に顔を出した。待ち受けていた黄旗と白旗の頭に簡単に報告を済ませ、腰を据えて彼らの入手した情報に耳を傾ける。

「拷問でー聞、きだした情報と施設で見つ、けた資料を照らしあ、わせた結果ぁ。候補は四箇所に絞られた、わ」
「……ご、拷問?」
「尋問だ」
 漣の疑問符に、辰巳が訂正を入れる。
 綾の並べた地域名に、漣は眉を顰めた。
「だいぶ離れてるわね。こりゃ、別れて探索しないと無理ねぇ」
「その通りだが、一番怪しい地域は割り出せている。月城、お前は紫で此処を当たってくれ。残る三箇所は俺と冴木で洗ってみる」
「え、でも」
「我々は後手を踏みすぎている。恐らく、時間の猶予はあまり期待できない」
「そうね。ここは敢えて拙攻を選択しますか」
「うふ、ふ。忙しない人ってすてき」
 うっとりと綾が微笑む。
「だが、無謀な賭けではないはずだ。お前の捕まえた獣化術者にも尋問せねばならないが、今の段階で八割、この地域で間違いないと睨んでいる。神祇にも問い合わせた。詳しい分析結果はまだだが、向こうも同じ見解だ」
「ふむ……」
 今のところ判明している山浦の陣容、彼らが行おうとしている儀式の内容を想定するならば、確かに自分たち紫旗が最も阻止に適している。
「わかったわ。でも、うちの戦力だと……前衛がもう一人ぐらい欲しいところね」
 流し目を受け止め、辰巳は泰然と問うた。
「誰が欲しい」
「紅葉。代わりに明流さんにそっちに行って貰うわ。構わない?」
 即答に、辰巳は僅かに太い眉毛を動かしただけで、有無と躊躇い無く了承した。
「くす、くす、くす。漣さんは、手の掛か、る子が、好きね、ェ。あのね、うちの学校、今ね非常、勤教師を一人募、集してるんだけど、漣さん、どう? わたし、漣さんって先生むい、てると思う、んだけど」
「遠慮しとくわ。どう考えても先生って柄じゃないし」
「そう? わたし、よりは似合っ、てると思うけど?」
「…………」
 漣は何も言いかえせず、アクセサリーをじゃらじゃらと鳴らしながら惚けたように首を竦めた。
「よろしいですか」
「ああ」
 戸外から、折り目正しいスーツ姿の青年が入ってくる。
「寮からFAXが届きました」
「それは?」
 辰巳が受け取った五枚綴りの紙束に、漣の視線が突き刺さる。
「監視カメラのデータを送って、近日この施設を出入りした人物を洗って貰っていた。ふむ」
 ふと、資料を捲る手が止まる。ひょいと肩越しに覗き込んだ綾の双眸が妖しく光った。
「これ、は面白い、ね」
「なによぉ」
 辰巳がテーブルに資料を広げる。この施設でのものと思しき四人の黒服姿の男女が映った写真。そして顔写真付きの人物履歴が漣の眼に飛び込む。
「元C棟被験者。MINMES、それに……ちょっと、このA−9ってまさか!」
 マニキュアの塗られた手が叩きつけられた資料には、感情の無い目で虚空を睨む小麦色の髪の女の写真が貼られていた。
「どうやら、裏で誰が糸を引いているのか。割れたようだな」
「待ってよ。だって奴らはもう何年も前に――――」
「くすくすくす」
 心臓をじかに擽るような甘い笑い声。振り返った漣に、冴木綾はゆっくりと首を振った。
「いいえ、いいえ。彼らは潰え、てなどいない、わ」
 綾は『マル魔』――内務省警保局外事情報部魔道犯罪対策室が、先月から爆発的に彼奴らの残党への監視体制を強化している旨を告げる。そして石を噛むような表情でソファーに身体を沈めた漣を愛でるように、透き通る白の色をした女は、静かに宣告した。

「FARGOが還ってきた」





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