カリカリ、カリカリ。
 耳の奥で、聞こえ続けてる。
 なんだよ、さっきからこの音。止まない。止まない。まるで頭の中を直接引っ掛かれてるみたい。
 カリカリ、カリカリ。
 ああ、いやだ。うるさい。聞いてると、苛々してくる。不快な音。うるさいな。いい加減止まれよ。とまれったら。うるさい、うるさいうるさい!
 カリカリ、カリカリ。
「うっさいって言ってんだろうが!!」
 折紙紅葉は、自分の怒声に我に返り、奥歯を噛み締めた。視界の端には、樹皮を毟られた樫の木の幹が映っている。カリカリという音は、自分が無意識に樹皮を指で引っ掻いて鳴っていたものだ。
「……チッ」
 紅葉は陰気に顔を伏せると、苛立たしげに抉れた木の幹に爪を立てた。
「いい加減、慣れろよ」
 八旗の一員になって一年と少し。これじゃあ何一つ、入った頃と変わらないじゃないか。
 血に飢えた獣。誰彼構わず噛み付く野良犬。暴力享楽者。人喰い鬼。凶犬紅葉。
 あたしをそう呼ぶ連中は、どいつもこいつも見る目がない。そいつらは、きっと「弱い犬ほど良く吠える」という慣用句を知らないに違いない。
 ましてや、折紙紅葉がいつだって任務を前にして、緊張に脂汗塗れになり、余裕も何もなくカタカタと震えて神経をすり減らしているなんて、想像もしていないんだろう。
「紅葉、時間だ。準備はいいか」
 紅葉は呼吸を整えると、静かにこちらを見上げている辰巳良弦の肩へと飛び乗った。
「けっ、準備はいいかだと? 今更オレにそんなくだらねえ事を聞くんじゃねえよ。準備だなんてまだるっこしいこと、オレがちまちまやってるわきゃねえだろ。さっさと号令かけろよ良弦。さっきから爪が疼いて仕方ねえ」
 右目を半眼に、左眼を見開いて。紅葉は肺の中の空気を残らず吐き出した。新たな大気を吸い込んで、己が意識を火を灯す。
 吠える。吠える。荒々しく、野卑に、凶暴に、吠えて吠えて。
 拒絶する。否定する。無効化する。追い詰める。
 人を恐れ、人を怖がり、人と向き合うことに耐えられない。そんな心の小さな、弱い自分を新たな自分に書き換える。
 私は誰だ?
 わたしはモミジ。折紙紅葉。鬼とのハーフ。八旗の暴君。
 わたしは誰だ?
 あたしは悪逆の鬼女。血塗れの獣。スクリーミング・モンスター。
 そうだ、オレがオレがオレがオレが。

 ――オレが誰かを云ってみろ。

 少女は黒いスカートを翻し、巨漢の肩に腕組みをして仁王立った。ギラギラと輝く眼を見開いて、耳まで裂けたような壮絶な笑みを貼り付けて、折紙紅葉はゲラゲラと笑い声をがなりたてた。

「狩りの時間だ。狩りの時間だ。追儺をはじめろ。鬼やらえ。【凶犬紅葉】を解き放ちやがれ!」









 地震か?
 土門製薬赤名瀬山研究所を突如襲った激震に、内部にいた誰もが最初、大地の揺れを疑った。
 揺れたのは大地ではなく、建物そのものだった。

「か、壁が!?」
 何千年もの月日を風雨にさらされた遺跡の壁が、触れた拍子に砂と化して崩れ落ちてしまう。冒険映画で繰り返し使われる演出と同じ光景が、彼らの前で起こっていた。
 まだまだ耐久年度を数十年残したコンクリート製の頑丈な壁が、一瞬にして砂と化し、唖然と立ちつくす人々の足元に水のように流れてくる。
 非現実的な光景。自然に起こり得ない現象だ。そして、その場にいた者たち――山浦衆は魔の領域に身を置く者として当然の判断をくだした。すなわち、『術式』による攻撃。
「て、敵襲だ!!」
「警報が起動してない。結界はどうしたんだ!?」
「武器だ、武器を寄越せ!! 早くしろ!!」
 統制も取れず、混乱したまま支離滅裂に慌てふためくだけの山浦衆。奇襲は完全に効果を発揮していた。
「ひゃぁぁっはははっ、見ろよ良弦。こいつら、バカみたいにうろたえてやがるぜ!」
 立ち込める粉塵の向こうから、腹を抱えて笑い転げるかのような嘲笑は聞こえてきた。人影が光の幕を潜るようにして、部屋の中に現れる。巌のような巨漢の男、そして男の肩には八重歯を剥いて笑う黒いセーラー服の娘が立っていた。
「な、何者だ、貴様ら!! 本家の追っ手か!?」
「黙れよ逆賊。騒ぐな下郎ども。誰がてめえらに質問を許した」
「な、に」
 傲岸不遜を絵に描いたように、少女は艶めかしく己が指に舌を這わす。
「くっ、くひゃはははは、身の程を知れよ豚がぁ! 豚は豚らしく悲鳴をあげて逃げ惑え」
「小娘風情がぁ、舐めた口―――ぶべ!?」
 憤怒に紅潮しながら、紅葉ににじり寄ろうとした男の顔面に、床を蛇のように這ってきた鎖が巻きつき締め上げる。
「黙れと云ったのが聞こえなかったのか? ん?」
 紅葉が嘲弄ととともに人差し指を跳ね上げると、男は大根でも引き抜くように放り投げられ、パイプテーブルを幾つもバラバラに破壊しながら吹き飛んだ。
 身内をやられ、一気に色めき殺気立つ男たちを圧するように、弦楽器に似た低い声が響き渡った。
「我ら、征夷の御旗である」
 衝撃が、男たちの間を走りぬけた。
「せ、征夷八色!?」
「伯家直属の、あの八旗か!?」
 良弦がゆっくりと一歩、前に踏み出す。慄くように、山浦衆は仰け反った。
 厳かに男が告げる。
「汝らは、世に仇なす朝敵と見做された」
 絶望に歪む男たちを見下しながら、少女は愉悦に身を捩りながら嗤い転げた。
「くひゃはははははは、逆賊、叛徒、須らく誅すべし。てめえら、這い蹲って許しを請え! さもなきゃ全員、皆殺しだぁ!!」








「はじまったわね」
 建物の各所から激しい戦闘音が響き、煙が立ち昇り出したのを見て、月城漣はペロリと唇を湿らせた。
 山浦衆は七本槍邑紙家の実働部隊として相応の実績を残している連中だが、主として非人型対妖戦に投入されていた集団だ。対術師戦闘の経験は少ない。加えて、神剣確保のため山浦でも腕利きで知られる連中はこの場を離れている。黄旗、白旗が後れを取る心配はないだろう。不安があるとすれば……。
「ねえ、隊長」
「ふーちゃん、隊長って呼ぶのはやめて」
 肩書きで呼ばれるのはなんだか身体が痒くなるのだ。それと、八旗のリーダーは旗頭であって隊長とは云わない。旗頭という呼び方は呼びにくいとかなんか変などと概して不評なので、あまり使われないのだが。
 紫旗の面々が施設を包囲する形で散開している中、漣と行動を共にしている綿貫風花が道服風の衣裳の袂に引っかかった枯葉をチマチマと剥がしながら、ポツリと問いかけてくる。
「考えてたですけど、この任務て、うちらがやるには不適当違うますか?」
「……うーん」
 彼女の感じている違和感は漣も同様に感じていたことだった。故に逆に明瞭に応えられずに、曖昧に言葉を濁してしまう。実際、風花の云うとおりなのだ。自分たち八旗はどちらかというと強大な敵を真正面から蹂躙し叩き潰すクラッシャーハンマーだ。この手の拠点制圧、敵勢力の包囲殲滅作戦のような本来なら精緻な手順、緊密な連携、入念な予行演習の必要な作戦行動は得意としてない、というか殆ど訓練していない。本来ならこれは警視庁公安八課の突入部隊(エントリー・チーム)や統合参謀本部直轄のΛ(ラムダ)カンパニーの職分だ。
 確かに八旗衆は個々人が怪物といって過言ではない実力を有していると同時に、多種多様な系統の術師や異能者で構成されているために汎用性は高く、使い勝手の良いチームだ。事実、これまでも便利屋的な扱いをこなして来た。が、やはり専門家の仕事と比べると各所で不具合も露呈してくる。八旗こそ国内最強の戦闘力を誇る術師集団というのが内外の共通した評価だが、同時にメンバーの半数近くが八旗としての立場とは別に職や生活を持っているパートタイム集団であるという事実は無視できない。八旗衆とはあくまで際立った能力を持つ術師の『集まり』に過ぎず、『部隊』とは云えないのだ。
 今回は事情が事情だけに仕方ないが、やはり状況に応じた適切な戦力投入が叶わないというのは健全な状況とは云い難い。
「余計なものがくっつきすぎなのよね」
 未だ、公安部セクション8もΛ(ラムダ)カンパニーも一皮剥けば槍家の私兵という側面が色濃く残っている。槍家以外でも日比夜や天野、桐柳といった魔道大家が中央に影響力を誇示し、縄張りを張り巡らせている現状では横の連携がなかなか取り辛いのが実情だ。羅喉変以来、神祇省への集権化が進み、一時期よりかなり風通しがよくなっているのも事実だが、斯くいう神祇省からして槍家の冷陣、漆愛をはじめ旧家が枝を張っている。本当の意味で外部勢力からの独立性を保っているのが、外部から素性を問わず人材を集めた愚連隊とも云うべきこの八旗衆であるというのは皮肉が効きすぎてるのではなかろうか。
 と、丁度西側の居住区画から屋内に突入した白旗の冴木綾から念話が飛び込んできた。今回の作戦では軍用通信機を支給しているのだが、機械類に滅法弱い人間が何人かいるため、術式交信も併用している。綾もその一人で、特に彼女は携帯電話も使えない。綾の本職は化学教師なのだそうだが、実験機材はちゃんと使えてるんだろうか、と綾の機械音痴ぶりを知っている漣はかなり疑問に思っている。今度、紅葉にそこらへん聞いてみようか――折紙紅葉の通う女子中学は綾の勤務先でもある――。意識の隅でそんな暢気なことを考えていた漣だったが、綾が送ってきた報告の内容に一気に余計な思考は吹き飛んだ。
『ごめ、んね漣さ、ん。三人逃が、しちゃった』
『此方黄旗。四人が屋外に逃亡した。月城、そちらで確保頼む』
 続いて黄旗の辰巳良弦からも此方は通信機で同様の報告が舞い込み、漣は頭痛を堪えるように顔を顰めた。不安的中、案の定だ。すぐさま紫旗の面々に指示を送る。
「儀輔、明流さん聞こえてたわね。すぐに予備戦力を展開して。逃げた標的の位置を確認。敷地内から外に出さな――」
「漣さん! 北西で封環が破られたね!」
 封鎖結界を担当していた風花が傍らから声を張り上げる。
「ったく、云ってる傍からっ。リコちゃん、阻止して!!」
 該当区画を担当していた無機催操術師から返って来たのは期待とは異なった焦燥が混じった声だった。
『悪い、もう突破された』
「逃がしたの!?」
『綺咲が今追いかけてる。すまない、私では追いつけない』
 罵声を噛み砕き、漣は瞬時に判断を組み立てた。
「理子はその場で待機。儀輔、明流さんと連携して敷地内の標的を確保して。徹くん、君はあたしと一緒に綺咲を追うわよ」
 通信機を一旦切り、漣は大地を踏み鳴らし、結界の補填強化を開始した風花を振り返った。
「ふーちゃんは引き続き結界を頼むわ。これ以上、絶対外に出さないで」
「了解ね。なんとかやってみるよ」
「一応第三種までの禁術使用を許可しておくわ。無理だと思ったらあなたの判断でみんなに解禁を指示しなさい」
 ギョッと風花が顔をあげ、大地を踏む旋律と靴の爪先と踵に結ばれた鈴の音色が乱れる。
「あ、あたしがですか。いやでも、ここは吹嶋せんせーの方が――」
「明流さんには使役に集中して貰う。貴女がやるの、『神楽儀踏巫』綿貫風花」
「わ、わかりました」
 事実上現場の指揮権を預けられ、やや顔を蒼褪めながらも頷く風花に任せたわよと言い残し、漣は踵を返して山を駆け降り出した。
 同行を支持した術師との合流地点へ向かいながら、脳裏で地図を立ち上げる。綺咲たちが向かっている方角を確かめた漣は、嫌な汗が流れるのを感じた。やっぱりそうだ。拙い、こりゃ拙い。
 彼女たちが向かう先では、今確か、どこかの大学のサークルが合宿している真っ最中のはずなのだ。
「急がないと。巻き添えにしてしまうわね、こりゃ」
 頼むわよ綺咲ちゃん。漣は八旗最年少の閻傘使いに縋るように祈った。
 なんとか、あたしたちが追いつくまで持たせて!!








「…………っ!」
「どした、相沢」
 不意に顔をあげ、練習が行われているグラウンドとは全く逆方向を凝視する祐一を、隣に居た北川が不思議そうに伺う。
「北川、お前気付かないのか?」
「はあ? 気付かないのかと言われてもな……」
 真剣そのものの目で見つめられ、北川は困惑しつつも一応何か異変がないか注意してみるものの、特に何も感じない。
「なにかあるのか?」
「ああ」
 祐一は相変わらず在らぬ方角を一点に見つめながら、心を落ち着かせるように左手に嵌めたグラブを叩き、低い声で告げた。
「あちらの方角から」
「おお」
「焼きいもの焼ける匂いが漂ってくる!!」
「……おまいはお腹をすかせた女子高生か」
 言われてみれば、そこはかとなく芋の焼ける良い香りが漂ってきてる。付近の農家かキャンプ場で別のお客が焼いているのだろう。真夏に焼きいもとは頭のおかしい人もいるものだ。
「きたちゃん、お腹減った〜」
「お昼の用意は出来てるよ」
 北川は腕時計を見ながら応えた。そもそも昼食の準備が整ったことを伝えにグラウンドに来たのだ。それがなんでか祐一と一緒に外野の端っこで球拾いをやらされてる。
「だからオレは部員じゃないのにさあ」
「文句を言うぐらいなら合宿に来るな!」
「騙くらかして連れてきた張本人がなにをえらそうに仰るかなこの野郎」
「こらぁ、そこっ! サボってるんじゃありません!」
 シートバッティングで投手を務めている柊琴夜が、目ざとくだらけている祐一たちを見つけて、マウンドの上で手を振り回している。
「会長、そろそろ昼飯にしましょうや」
「そうっすよー、準備は終わってるんですから」
 琴夜はグラウンドの設置してある時計を確認し、針が正午を回っているのを見て、捕手をしている副会長の柴崎にどうしましょうと視線を投げかけた。目線だけでマスク越しにどういう意見が交わされたのかは定かではないが、琴夜は仕方なさそうに頷いて、皆に聞こえるように声を張り上げた。
「仕方ありませんわね。では、一巡してきりの良いところでお昼にしますわ」
 やや暑さにだれつつも、もう一頑張りと気合を入れなおした返事が飛び交う中、一つだけ心ここにあらずといった気の抜けた声が琴夜へと返って来た。
「ねえねえ、かいちょー」
 独り、御子柴浅霞が明後日の方角を向いてボケーッと立ち尽くしている。
「なんですか、御子柴さん。あと少しなのですから気を抜かないでしゃきっとなさい。そんな調子では怪我をしてしまいますわよ」
「あ、あの、でも、でも」
 叱られたときの常通り、浅霞は焦って言葉をどもらせているが、相変わらずサード側を向いたまま。目線を合わすのが苦手な娘なのは承知しているが、会話している相手にあからさまにそっぽを向くような娘でもないので、琴夜は不可解に思った。
「御子柴さん、どうかしましたか? 何か言いたい事があるのなら聞きますわよ」
「あの……あれって、なにに見えるですか?」
「あれ、とはなんですか?」
 躊躇いながらも、浅霞はサード側に張り巡らされているフェンスの向こう。急な斜面になっている山肌を指差した。
「えーっと、ほら……あの、山の上の方から駆け下りてくるでっかい灰黒いのなのです。あ、フェンスにぶつかった」
 浅霞の語尾を叩き潰すように、グワッシャンと凄まじい激突音が轟き響く。
 琴夜はしばらく浅霞の指差すものを見つめながら目をぱちくりと瞬いたりユニフォームの袖で目を擦ったりしていたが、やがてうんざりとキャップを被りなおした。
「なにに見えますと言われましても、わたくしには熊にしか見えませんわ。とはいえ、この暑さでわたくしの正気がいささか失われている可能性も無くもないようにも思われますので、ここは慎重にみなの意見を伺ってみることにしましょう。いかがですか、皆さん」
「うむ、熊だな」
「はーい、熊に見えマース」
「ヒグマ?」
「違うぞ、あれは北米産グリズリーだ」
「おお、博識だな、相沢」
 琴夜は自分の正気が証明されていささかホッとしながら、会長としての威厳をとりなすように浅霞に微笑みかけた。
「どうやら満場一致で熊、という結論に到りましたわ。それで、御子柴さん。その熊がどうかしましたか?」
「ど、どうかしましたかって、え、え、え、に、逃げなくて、いんですかこの場合」
「うふふふ、御子柴さんもおかしなことを仰りますのね。逃げなくてはいけないに決まっているでしょう、この場合」
 言い終えた後、琴夜はオレンジジュースを口にしたつもりが死ぬほど濃いブラックコーヒーを口に含んだような顔をして黙り込んだ。炎天下、陽炎が揺れるグラウンドが静まり返り、フェンスが引き裂かれる音だけが響く。みんなは表情を微笑みに固定したまま、フェンスを破りグラウンドへと降りてきた巨大生物を見つめ、ついでお互いの顔を見合わせた。
「「「ぎゃあーーーー、クマだーーーーーっ!!」」」
「み、みんな落ち着け! 落ち着いて死んだフリ、死んだフリ!」
「相沢、そりゃ迷信だ! 水瀬っ、信じちゃだめだってあんた! ってかスヤスヤ寝てるようにしか見えねーっ!」
 未曾有の大混乱へと陥る草野球同好会の面々を尻目に、グラウンドに侵入した巨大な熊は興奮しているのか息を荒げながら後ろ足で立ち上がった。千歳が引き攣りまくった声で呟く。
「なんだ、あの熊。でかすぎるんじゃないのか」
 見上げるような巨体。日本列島に生息するヒグマやツキノワグマとは比較にならないその体躯は、あろうことか3メートルはゆうに越えている。その凄まじい迫力に、その場にいた全員が震え上がり、恐怖に立ち尽くす。
 そして、血走った熊の目が、一番近くに居た谷本涼子を捉えた。
「うえ? あちしですか?」
 生臭い鼻息を吐き、熊が涼子の方に首を伸ばす。咄嗟に逃げようとして、ペタン、と涼子は尻餅をついた。腰が抜けていた。
「ちょ、い、いや、わたしクマさんとおつきあいするつもりないですから、わすれものもしてないから、おいしくもないから、ね、ね? たす、たすけ――」
 イヤイヤ、と首を振り、力の入らない腕と足で必死に背後に這いずろうとする。だが、その動作が逆に興味を引いてしまった。熊は鋭い牙の並んだ顎を剥き、ゆっくりと二本足(・・・)で涼子に近づき始めた。
「まずい!」
「涼子ちゃんっ!」
「あっ、ちょっと二人とも」
 弾かれたように駆け出す祐一と北川に、名雪は悲鳴をあげた。ダメだ、無謀だ。無茶苦茶だ。駆け出して、どうしようというのか。あんなの、どうしようもない。祐一と北川は、近くに集めてあった道具類から金属バットを引っ掴み、互いに目配せしながら熊を挟む位置取りを目ざして走り出す。
 名雪は気が遠くなった。ダメだ、ダメなのに、そんなバットじゃ、太刀打ちできない。
 普通の熊が相手でも無謀なのに。祐一はなんて言った? グリズリー? 違う、あれはそんなものじゃない。祐一は気付いてないの? あれは、あれは――。

「相沢、バットでどうするんだ、バットで!」
「殴るに決まってるだろうが!」
「んなもん効くのかよ! 絶対怒るぞ、熊!」
「そんときは謝れ! 土下座だ! 五体倒置だ!」
「でたらめだ、ちくしょう!」
「いいからビビらせて逃げ出してもらうんだよ! 熊って臆病なんだろ!」
「あのデカぶつが臆病に見えるかよ!」
 半ば泣きそうになって喚きながら突っ走る二人だったが、ちょうと外野の一番深いところにいた彼らから、涼子の場所は遠すぎ、そして熊と涼子の距離は近すぎた。
 まるで間に合わない。
 熊は必死に逃げようとする涼子を鼻面でつつく。それだけで、涼子はもんどりうって転がった。うつ伏せに倒れた涼子に圧し掛かるように覆いかぶさりながら、熊がそれこそグローブどころか人間の頭より巨大な手を伸ばす。
「やっ、いやっ、やぁぁ」
 決壊したかのようにあふれ出す涙に視界が滲む。涼子はそれ以上目を開いていることに耐えられず、頭を抱えてあらん限りの力を込めて目を瞑った。
 痛みも、衝撃も、なにも訪れなかった。  視界の閉ざされた涼子の耳に届いたのは、聞きなれた、いや今まで聞いた最高の、大気を穿つ剛球の唸り。
「うちのショートストップに汚え手で触るんじゃねえ、この熊畜生がっ!!」
「か、会長!?」
 見開いた涼子の目に、マウンドで帽子を跳ね飛ばす琴夜の姿が映った。ボールを投じた彼女は、マウンドの上で弾むように浮き上がり、一瞬涼子は熊に襲われているのも忘れてその躍動感の塊のような姿に魅入ってしまった。
 剛球は狙い違わず熊の眉間に炸裂。ゾッとするような鈍い音が響き、熊の目玉がグルリと回り、巨体が傾ぐ。
「み、見たか見たか琴夜様のスピントルネードジャイロボーラー2001年スペシャル改三号『乱れ桜』の威力! これからは別名一発退場熊殺しと名づけ――」
「ばかやろう、あほなことほざいてないでさっさと逃げろ!!」
 後輩たちを追い立てるように逃がしていた千歳が血相を変えて怒鳴る。興奮に紅潮した琴夜の顔から、一気に血の気が失せた。白球が力なく涼子の足元へと転がった。起き上がった熊の怒りの満ちた眼差しが、じっと琴夜を貫いていた。
「……よく考えたら頭部への死球は危険球ですから退場するのはピッチャーの方でしたわ。わたくし、このままさがらせていただきますので、お構いなく」
「グルルルルル」
「お構いなくぅぅ!!」
 怒りの矛先は明らかに琴夜へと移っていた。熊は巨体からは想像も出来ない素早い身のこなしで地面を蹴り、殆ど一足飛びに逃げようと背を向けた琴夜の真横に滑り込む。
「ヒッ!?」
 振りかぶられた熊の腕を見て、琴夜は竦みあがった。と、いきなり巻き髪を引っ張られ、琴夜はコテンと後ろに引っくり返る。
「た、タケちゃんっ!!」
 琴夜を咄嗟に庇ったのはホーム側に居たはずの柴崎丈臣だった。琴夜の代わりに爪に引っ掛けられた丈臣は錐揉みして地面に叩きつけられる。
「やっ、やぁっ、たけ、たけちゃん! たけちゃん!」
「会長、逃げろ早く!!」
 祐一の怒声に、断線していた思考回路が繋がる。気がつけば、逃げた会員たちが琴夜たちから熊の意識を逸らそうとボールを投げつけている。琴夜は泣きじゃくって蹲ってしまいたくなる誘惑をねじ伏せ、倒れている丈臣を抱きかかえ、引き摺ろうとする。
「たけちゃん、たけちゃん!! 死なないで、たけちゃん!」
「……死んでない」
「たけちゃん!!」
 地面に叩きつけられたためか丈臣は苦しそうに咽ながらも、大丈夫だと胸を指で叩き、指し示す。琴夜はハッと息を呑んだ。彼が指差した部分には熊の爪によって無残に抉れた痕が残っている。が、それはキャッチャーが装着しているプロテクターの部分だけ。幸いにして生身の方には届いていないようだった。
「よ、か……」
 安堵に崩れ落ちそうになる。だが、へたり込んでいられる状況ではなかった。倒れた拍子に足を捻挫したらしい丈臣に肩を貸す。そうだ、熊は? どうして襲ってこない?
 そして、首を後ろに振り向けた琴夜は見た。
 金属バット一本片手に、小山のような大熊に立ち向かう相沢祐一の姿を。



 名雪さんにはナイショです。
 ゆうちゃん、ちょっとチビってます。
「死ぬ、死ぬ死ぬ絶対死ぬ俺死んじゃう怖い怖い怖い怖いヘルプミー」
 ひしゃげた金属バットを構えたまま、祐一はブツブツと呟きながら血走った目で仁王立ちする熊と対峙していた。
 手はまだジンジンと痺れている。先ほど、琴夜に追いすがろうとする熊を殴った代償だった。バットがひしゃげるほど思い切り殴りつけたというのに、熊はまるで効いた様子もなくジッと此方を睨んでいる。
「相沢っ!」
 祐一は助太刀に入ろうとする北川を手で制した。さっき殴った瞬間理解した。こいつはバット一本でどうにかなる相手じゃない。いや、そもそも熊相手にバットで立ち向かえるものではないのだが、そういう次元の話じゃない。
 この熊、バットが当たる直前、なんかしやがった。
 そう、バットは熊を叩いてひしゃげたのではない。毛皮に触れる直前、見えない壁のようなもので弾かれたのだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 まるで鋼鉄を叩いたみたいな感触だった。
 結論、こいつただの熊じゃない。
 そもそも、立ち上がったら三メートル越えてる時点でただの熊なわけがないのだが。
 腰を抜かしたまま動けなくなっていた涼子を助け起こしながら、北川が必死の形相で叫ぶ。
「相沢っ、熊の弱点は鼻だ! 鼻を狙え!」
 恐る恐るバットを頭上に掲げてみる。
「……先生、バットが鼻まで届きません」
「じゃあ胸に抱きつけ! 熊は自分の胸まで手が届かないんだ!」
「んなもん、怖くて出来るか!!」
 ちくしょう、こんなことなら天野の家から拳銃の一丁でもパクッておくんだった。
「け、拳銃ごときじゃ通じなさそうだけどな」
 この狂ったような巨大な熊を倒すには、それこそ対戦車ロケット弾でもなければ通用しそうに無い。
「くそっ、こういうときこそ秘められた謎の力が開眼!! 覚醒! 大変身!」
 しなかった。
 クソ親父が、どうしてあの怪しさ大爆発の謎っぽさを息子に分けてくれなかったんだ。ダメだ。本気でまずい。怖すぎて気持ち悪くなってきた。吐きそう。
「……北川、交代。そろそろ交代しよう!」
「よし、まま、待ってろ。いいいま代わるから」
「うああ、本気にするなバカ。そこは出来るかってツッコムところだろうが。来るな、そこにいろ」
 だめだ、北川も頭に血が昇ってテンパってやがる。交代ってどうやってこの状況を代わろうってんだ。ヤバい、マジにヤバい。これって本気で絶体絶命じゃないか。考えろ、頭を冷やして考えろ。どうやってこの窮地を脱すればいい? 熊ってのはどうやって追っ払えばいいんだ? そもそも、普通の熊の対処法がこの怪物に通じるのか?
 考えれば考えるほど、祐一の呼吸は荒くなっていった。吸っても吸っても酸素が入ってこないような錯覚。冷や汗が滝のように流れ落ちていく。
『チッ、時間がねえのにこいつら』
「え?」
 なんだ今の声、どこから聞こえたんだ?
「祐一!!」
「なっ、あぶない行くな水瀬!」
 背筋が凍りつく。緊張に耐えられなくなったのか、名雪が北川と涼子の制止を振り切り、決死の形相でバットを振りまわして走りよって来る。熊目掛けて。
『仕方ない、こいつだ』
 熊が振り向き、名雪の持つバットを一薙ぎで弾き飛ばした。勢い余って尻餅をつく名雪。
 一瞬にして脳髄が沸騰した。
「うちの名雪になにしやがる、この野郎!!」
 殴りかかろうと踏み出す。一歩しか踏み出せなかった。気がつけば、巨大な手が祐一を叩き潰していた。
「が、ハッ」
『チョロチョロうざい、ガキが。人質は一人いればいいんだよ』
 背骨が悲鳴をあげる。意識が明滅する。
「祐一っ、祐一を離して!!」
 あろうことか、熊の足にむしゃぶりつこうとする名雪。
「ばか、にげ――ガァッ」
 熊は地面に祐一を押し付けたまま、体重を圧しかけてきた。息が止まる。ほんとうに、潰される。
 覚悟もなにもなかった。ただ、潰される、その事実に意識が埋まる。苦しい、その灰色の感覚に塗りつぶされる。
 そんな祐一の耳に最初に飛び込んできた奇妙な音は、多分ガラスにヒビが入った音に似ていたと思う。
 ピシリ、という音が聞こえたと思った瞬間、フワリと重力が失われていた。浮かぶ。それまで背骨が折れ肋骨がひしゃげ内臓がグチャグチャのペースト状になって潰れてペシャンコになる。そんな凄まじい圧力負荷が一切合財無くなった。途端、頭上で轟くトラックがコンクリートの壁に百二十キロで吶喊したような衝突音。直後、地面に突っ伏していた祐一を三回転ほどひっくり返す衝撃の波動が降ってきた。
「なっ、わっ、あぎぇ?」
 咄嗟に吸おうとした息と衝撃に肺から押し出された息が激突して目が回る。
 なんだ、なんだ、なんだ、なんだ、いったいなにが!?
 錯乱しかける精神を支えるために、必死に情報を求めて眼球を動かす。
 そして祐一は見た。
 それは、最初ミサイルだと思った。
 化け物熊の左脇に突き刺さった真っ赤な真っ赤なミサイルだと。
 否、それはミサイルでも馬上槍でも況してやドリルでもなかった。唐傘。それはバカみたいに巨大な、夕焼けみたいに真っ赤な唐傘。その唐傘が高速回転しながら熊の身体に突き刺さっていた。いや、よく見れば傘の切っ先は熊の毛皮に触れるかいなかの空間で止まっている。切っ先は届いていない。
 と、高速回転がピタリと止まる。バン、と勢いよく傘が開く。中から、人が現れる。そう、ヒトだ、人間だ。それもまだ十を越えたか越えないか程度の小さな少女。折れた兎の耳みたいなツインテールがバタバタと踊る。法被みたいな不思議な上着がハタハタと翻る。
 排出、そんな言葉を連想させるように傘の中から宙に放り出された少女は、傘の柄を両手で掴み、叫んだ。
「パイルセットなの!」
 途端、傘の柄が半回転。内部から器械的合致音。同時に傘の先端空間に緩回転する三層の清明紋が現出。
「突射!」
 爆発。まさに爆発だった。柄の根元が重く腹の響く炸裂音を轟かせ、柄そのものをくり貫いたような形状の杭が傘の先端から打ち出された。
 高圧呪壊杭打ち兵装(スペルドランク・パイルバンカー)
 千のガラスが一斉に砕け散るような破滅的な和音と薄黒い残像を残し、熊は祐一の視界から掻き消えた。
 噴き飛んだのだ。
 金属バットで打ち据えられたテニスボールのように。全高3メートル。重量は1トンを遥かに越えるだろう巨体が、水面を切る小石のように何度もグラウンドで跳ね、一塁側のベンチに突っ込んだ。
 ぽかんと放心している草野球同好会の面々の前、メリー・ポピンズのようにフワリとマウンドの上に少女は降り立つ。
「やれやれ、我ながら美味しすぎる場面での登場なの」
 傘をたたみ、軽く勢いをつけて肩に担ぎ上げる。それだけの動作で、風圧が生まれ、迸った。
 円筒状に舞い上がる土煙を従えて、少女は無い胸を大いに反らし、そこはかとなく得意げに名乗りを上げた。
「たった一飯の恩も忘れない、いまどき律儀な闕傘(けっさん)使い。御神楽綺咲(みかぐらきさき)が参上なの」











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