「間違いありませんか?」
「そのはずだよ。ええっと、ああ、あったあった。んー、やっぱり一ヶ月前だね。随分慌てて解約して出て行ったからよく覚えてるんだ」
「転居先は聞いていませんか」
「うーん、聞かなかったね。まあ、聞いてる暇もなかったからなあ。本当に慌ただしかったんだよ」

 突然の来訪にも親切に対応してくれたマンションの管理人に礼を良い、天沢郁未は既に新たな住人が入っている、ほんの数ヶ月前まで親友が暮らしていたという部屋のあるらへんを一瞥し、エントランスを後にした。

「葉子さん、どこ行っちゃったのよ」

 呟きはアスファルトからの輻射熱で陽炎にたゆたう真夏の空気に消えていく。
 表に出た郁未に、容赦なく日差しが突き刺さる。眩暈を感じたというわけではないが、郁未は玄関を出たところで足を止め、頭を振って澱みかけた意識を奮い立たせた。

「あ、終わった? どうだったのよ」

 若干ぐったりとした感のある女性の声。郁未が声のした方へ目を向けると、マンションの玄関脇で、似合わない日傘を差した女性が暑さにへたれていた。仕事場の同僚にして先輩の樋端睦美だ。

「ええ、まあ…………」
「ふん。聞くまでもないか。顔みりゃわかるわね」
「…………」

 郁未は何も言い返さずに沈黙してしまう。参ったなあと睦美は困惑した。普段なら鐘を打つように返事が返ってくる娘なのだが。普段からふてぶてしいまでのこの後輩が、こうも消沈しているのを見るのは初めてで、この娘も普通に落ち込むのね、と当たり前の事に感慨を抱いてしまう。
 睦美はトートバックからスプレー缶を取り出しながら、慰めの言葉をかけた。

「ま、元気出しなさいな。ほれ、アイシングスプレー、かける? 冷たいわよ。身も心も引き締まるから」
「遠慮しとく」

 ほらほら、と目を波状にしながら項やら喉元に冷却スプレーを噴射して喜悦している睦美をげんなりしながら押しのけ、郁未は雑踏の中へと歩き出した。
 その後ろに続き、だるそうに日傘を回しながら睦美は今後の事を訊ねてみる。まだこれからの予定を何も聞いていないのだ。

「で、さ。どうするの?」
「どうするって言われても」

 反駁し、ただため息ばかりがあふれ出す。正直何も考えていなかった。郁未は自分が途方に暮れていることを認めるほかなかった。
 彼女――鹿沼葉子と旅路を別ったのは、去年の秋の事だった。自分はそのまま北に流れ、葉子は此処東京に居を落ち着けた。そうして進む道を違えた自分たちだったが友情まで違えた訳ではない。それからも頻繁に電話や手紙を往還していたのだが、突然葉子と連絡が取れなくなってしまったのが約一ヶ月前。
 おかしいとは思っていたのだ。だが新しい仕事と育児に追われる毎日に、どうしたんだろう、と疑問に思う程度にしか不信も危機感も募らずにいてしまった。東京に直接出向けば、何事もなかったかのように再会できるものだと思い込んでいた。まさか、住まいまで当の昔に引き払ってしまっていたとは。
 そんな可能性もあるのだと、知らず知らず考えないようにしていたのかもしれない。やっと掴んだ安住の地に寄りかかり。
 何も言わず葉子に行方を眩まされたのがショックだった。何かトラブルがあったのか、私には言えないことだったのか。それとも、もしかして葉子はもう、自分と縁を切るつもりなんてことは……。

「まいったなあ、そりゃないわよ葉子さん」

 連絡がつかなくなった時点で探していれば。悔やんでも悔やみきれない。
 唇を噛み締めている郁未の様子を見かねたのか、睦美が努めて明るい声音で話しかけてきた。

「あのさ。当てがないんだったら、興信所に依頼するといいんじゃない?」
「睦美さん……って、興信所?」

 頭の片隅にも存在しない単語だった。真面目な顔をして、人探しなら興信所よ、と睦美は人差し指を立てる。

「警察官がこんな事言っちゃまずいんだろうけど、うちらって個人の捜索なんかやんないじゃん。その点、興信所はプロだから徹底的に探してくれるわ」
「……興信所」
「まあ、値段は張るけどね。価格分は保証するわ。実は昔、興信所でバイトしてた事あるのよねー」
「そうなんだ」

 自分とはまた別の意味でこの人も色々と落ち着かない人生を送っているらしい。

「前にバイトしてた所のライバル店がいい仕事するのよ。今度紹介するからさ、ね?」

 紹介って、自分が働いてた所じゃないのか?

「……う、うん。考えてみる、ありがと」

 素直に感謝されたのが意外だったのか、睦美やいやいやと照れたように手を振ってスプレーを顔に吹きかけた。通りすがりのサラリーマンが驚いて振り返り、気味悪そうにそそくさと足早に立ち去っていく。
 しまったという顔をして、睦美は決まり悪そうにバッグにスプレーをしまい、誤魔化すようにそらぞらしい声で話題を変えた。

「にしても、東京も相変わらず暑いわねぇ。突っ立ってるだけで溶けそうだわ。沖縄とかハワイより暑いんじゃないの、これ」
「ごめんなさい、無理言ってついてきてもらっちゃって」
「そりゃ構わないんだけど。大坂も暑さに関しちゃ似たようなもんだし」

 溶けそうという言葉は彼女に限っては比喩ではないので、郁未は大丈夫だろうかと今度は扇子を取り出して道端で仰いでいる睦美の様子を伺った。幸い、携帯している冷却スプレーが威力を発揮しているのか、現状は溶け出す様子を見せていない。
 これだけ暑さに弱い睦美に同伴してもらったのは勿論理由がある。これでも睦美は人里に降りてきてからの五年程を東京で過ごしており、この大都会にはちと土地鑑があるのだそうだ。地下に潜るには便利とは言え、それ以上に厄介な面の多いこの魔都を避けて活動していた郁未にとって、何度か立ち寄った事があるとは言え、東京という土地は一歩表から奥に踏み込めば右も左も分からない未知の場所だ。それで、課長が休暇を取ったために現在開店休業状態の八課で、特に暇そうにしていた睦美に案内を頼み込んでついてきてもらったのだ。お陰で余計な回り道もせず、東京駅から煩雑な沿線の乗り継ぎも迷わずに葉子が住んでいるというマンションにまで辿り着けたのだが……。

「ねえ、折角滅多に取れない有休取って東京くんだりまで来たんだからさ、どっかで遊ぼうじゃない。未悠ちゃんも預けてきたんだし、羽伸ばすチャンスだわよ」
「はあ」
「落ち込んでるままじゃ気分が滅入ってく一方だわさ。パーッと気分転換するのが吉だでよ」

 バシバシと背中を叩かれながら、郁未は言葉を濁しながらも頷くしかなかった。見かけ以上に親切なこの氷柱女が必死に気遣ってくれているのはわかったし、実際落ち込んでいるだけでは悪い方に思考がズレていってしまうだけで良い事はない。まだ葉子に何かあったと決まったわけではないのだし、ここは言葉に甘えて無理にでも気分転換した方がいいのかも。

「わかったわ、睦美さん。それじゃあ任せるから、どっか面白いとこ連れてってよ」
「よし、じゃあまず秋葉原行こう、秋葉原! あ、最近はアキバって言うの?」

 つんのめる天沢郁未。

「で、電気街になにしに行くのよ。こういう時は普通原宿とか新宿じゃないわけ?」
「いやー、東京行くつったらば梨玖姉に買い物頼まれちゃってさぁ。アキバにしかないのよ。だから先に片付けて宅配便で送っとこうと思って。こういうのって後回しにしてるとマズいじゃん?」
「籤浦さんが?」

 意外な名前が出てきた、と郁未は面食らった。
 籤浦梨玖と言えば、あの全然笑った顔の見たことがない、半月眼鏡の地味で怜悧で生真面目一本の仕事人間……じゃなかった、仕事妖怪ではないか。その彼女がわざわざ睦美さんに買い物を頼むとは、いったいどういう了見だ? いや、あんまり自分の買い物を他人に頼むような印象じゃないし。しかも睦美さんに。

「……なに頼まれたんですか?」
「んー、コスプレの資料ね。だいたい」

 あんぐりと口が開く。

「……こすぷれ? 籤浦さんが?」
「今あんたが思い浮かべたのはイメクラの方だと思うわよ。ああ、良いって良いって。わかんねーっだらその方がいいわよ。関わるとろくな目に合わないし。無理やり引きずり込まれるわよ。私も昔、いっぺん酷い目にあってさあ」

 自分で口にしながら、当時の憤りを思い出してきたらしい。急に語気が荒くなって睦美の目が据わる。

「ああっ、思い出したら腹立ってきた。聞いてよ、あの蛇女。梨玖姉っだらこのあたしにドロ○ンえんまくんの雪子姫のコスさせてイベントに連れ出しやがっただよ!? 選りにもよって氷柱女のあたしさ雪女の格好ばさせるとよなんち考えてるんだっちゃば、正気さ疑うべや!!」
「む、睦美さん、落ち着いて落ち着いて。訛ってる訛ってる」

 頭から蒸気を立ち昇らせ始めた睦美を慌てて宥めながら、郁未は内心で首を捻った。
 格好、違うのかしら? 雪女と氷柱女って。

「とりあえずどっかお店入って休憩取ろうよ。ほら、暑いと人間我慢が利かなくなるっていうし」
「ふぅっ……あたし人間じゃないけど、ちっ。まあいいわ、お店に入ろうって意見には賛成。いい加減涼みたいし。そういや朝御飯もまだだったじゃない。あたし、お腹空いた!」
「この時間だとブランチになっちゃうけど」

 睦美とのやり取りで気が晴れたというわけではないが、それでも己の空腹を思い出す程度には心の余裕が戻ったらしい。内心で睦美に感謝しながら、郁未は何か軽く食事の取れる店はないかと街並みに目を凝らす。丁度住宅街の真ん中のせいか、これといった店は窺えない。道一つ隔てた向こう側は確かちょっとした繁華街になっていたのを来る途中に見た覚えがあったので、そちらに足を伸ばしてみようかと考えながら、郁未は睦美に意見を求めた。

「睦美さん、お店、どんなところがいい?」
「カキ氷がありそうならどこでもいい」
「……カキ氷でお腹膨れるんですか?」
「んー、わりと」

 投げやりに郁未に決定権を任す睦美。砂漠で水分が切れた人みたいに急にバテはじめているのが傍目にも見てとれた。そろそろ溶けたくなっている模様だ。
 面倒なのかエンゲル係数安上がりなのか複雑な体質の人だなあ、と感心していいのか呆れていいのか分からずこめかみを指で掻きながら、郁未は先輩を促がして大通りから分かれる脇道へと進路を変えた。ここを抜ければ繁華街の方への近道になるはず。
 道は一方通行の標識が掲げられているだけあって、乗用車が一台通れば一杯になるだろう狭い道幅の下町然とした街並みだった。長屋のような家が密集して並び、道端でおばさんたちが談笑し、夏休みなのだろう小学生ぐらいの子供達の集団が喚きながら駆け抜けていく。
 どこか2、30年ほど時代を巻き戻したような長閑な光景。

「東京にもこういう場所って残ってるのね」
「……そりゃ残っててもおかしかないでしょうけど」

 素直に感心している郁未とは違って、睦美は少しばかり怪訝そうに騒がしくも平和そうな町の雰囲気にキョトキョトと首をめぐらせていた。はて、この辺りの地区にこんな所があったっけか。

「あっ、睦美さん睦美さん。あそこにしない?」
「あたしはカキ氷がありそうだったらどこでもいいって……どこよ」

 郁未が嬉々と指差した方に、寂れた小さな稲荷の社しか見つけられず、睦美は眉根を寄せて目を凝らした。

「どこって。ほら、社の奥隣に。赤レンガの店があるじゃない。蔦がたくさん張り付いてて。小さいけど雰囲気良くない?」
「んー? だからどこよ。そんな店……って、あら?」

 一瞬、目がかすんで視界がぼやけた樋端睦美は、唸りながら目を擦った。郁未に文句を言いながら何度か目を瞬いて霞んだ視界を取り戻した睦美は、確かに郁未の言う通り稲荷社の奥隣に赤レンガ造りの小さな軽食店が店を構えているのを発見した。

「ありゃ? ……やばい。熱中症かしら」
「雪女も熱中症になるの?」
「あいや、そんなのなる前に溶けるから……って、あたしは氷柱女!」
「はいはい」
「流すなよー」
「いいから入りましょうよ」

 楡の木造りのドアにちゃんとOPENの札が掛かっているのを確認し、郁未は『葛葉』という古びた看板の掛かった店へと足を踏み入れた。
 外観から想像される通り、中はやはり狭かった。四人掛けのテーブルが二つある他は、カウンター席が五つあるだけのこじんまりした店構え。何故か窓はなく、ブラウンを基調としたシックな内装とあまり光度の得られない灯りが相まって、店内は大人びた薄暗さに包まれていた。これは昼間と夜とではメニューが変わってくる店なのかもしれない。昼間は軽食も出す喫茶店で、夜はお酒を提供するバーといったところか。
 カウベルの残響を聞きながら、郁未は入り口のところで戸惑いに立ち止まってしまった。
 店の中には二人の人がいた。カウンターの中と外に一人ずつ。
 カウンターの中でヤカンに火を掛けているのは妙齢の優しげな容姿の女性だ。背中の辺りで揃えられた髪は淡い亜麻色なのだが、なぜか前髪の左眼に掛かる一房だけが真っ赤に染められている。不思議と派手な印象はなく、女性の柔らかな雰囲気に雅なアクセントを加えていた。バーを兼ねているからか格好はバーテンダーのスラリとした男装姿なのだが、中性的な印象はあまりなく、あくまで女性らしく男装を着こなしている麗人だ。
 もう一人は少女だった。およそ12、3歳ぐらいの年恰好で、彼女も店員のつもりなのか藍色のエプロンドレスを身に付けている。チョコパフェを食べている最中だったのか、カウンター席に腰掛けて足をブラブラと揺らしながらスプーンを咥えていた。気が強い性格なのか、見るからに生意気そうなやや吊り気味の目つきをしている。お日様の匂いがしてきそうな金色めいた小麦色の髪が眩しい、将来がゾッとするほど楽しみになりそうな白皙の美貌を有した少女だった。
 一見して若い母娘か年の離れた姉妹と思しき二人。だが、よく見ると二人の顔立ちは差異がありすぎて、血縁同士に感じる共通点を露ほども見受けられなかった。
 どういう関係なんだろう、と郁未は不思議に思う。幾らなんでも小学生ぐらいにしか見えない少女を雇っているわけではあるまいし。
 一方、店の人間なのだろうその二人は、何故か入ってきた郁未たちを前に、唖然茫然といった様子でぽかーんとアホのように大口を開けて呆けていた。お客を前にした反応ではない。思わず二人して後ろを確認してしまう郁未と睦美。もちろん、後ろにはエルビス・プレスリーの格好をしたグレイ型宇宙人もいなければ、お忍びで南極から来訪した皇帝ペンギン陛下もいなかった。

「今、汝ら、どこから入って来おったのじゃ?」

 ようやく口を開いたのはカウンター席でパフェを食べていた少女の方だった。随分時代かかった喋り方だなと思いながら、郁未が答える。

「どこって、入り口のドアからだけど」
「いえ、そうではなくて。お客様方、店に入られた場所は青山通りではありませんよね?」
「青山?」

 よく自分たちの居た場所の地名を覚えていなかった郁未は睦美に目で救いを求める。

「いや、あたしらが居たのは文京区だけど」

 その言葉に、少女と店主らしい女性が顔を見合わせる。
 そしてこそこそと顔を寄せ合い、ヒソヒソと小声で話し出す。

「くれは、聞いたか? 驚いたぞ。何年振りじゃ? 裏口から入って来た客は」
「はい。ざっと70年振りくらいかと」
「は?」
「いやいや、こっちの話じゃ。気にするでないぞえ」
「さあさあ、そんなところに立っていらっしゃらず、此方にどうぞお座りください。ご注文はなにになさいます?」

 細かい事に気を止めている余裕はないらしく、睦美がすかさず「カキ氷ある?」と要望を出す。つられて郁未も、

「え……と。じゃあなにか軽くお腹が膨れるものが欲しいんだけど」

 少女はふむふむと店員とは思えぬ鷹揚な仕草で頷き、

「カキ氷なら宇治金時と抹茶、それにイチゴ、メロンにブルーサワーがあるぞえ。それとそちらの汝、今日のお勧めは自家製デミグラスソースが自慢のオムライスじゃ。ぷりっとした半熟卵がほわほわーっとして美味しいのじゃ!」
「じゃ、じゃあ私はそれで」
「あたし、宇治と抹茶ミックスでー」
「だそうじゃ、くれは」
「はい、ご注文承りました。少々お待ちくださいませ」

 さらさらと見るからに達筆そうな筆遣いで伝票に書き付け、クレハと呼ばれた女性は調理に取り掛かった。

「ほれ、水じゃ。外は暑かったろう。グッと行くとよいぞ、ぐっと」
「あ、ありがとう」

 少女が運んできたお冷を受け取る。別に喉は渇いていなかったものの、そうまで言われて無視するのも何なので、三分の一ほど飲んで見せた。

「うむ……まあ良かろう」
「は、はあ、どうも」
「そっちの娘は良い飲みっぷりじゃ。あっぱれ」

 此方は身体が水分補給を求めておったらしい。一気にコップ一杯のお冷を飲み干した睦美に少女は満足そうに裾から取り出した扇子を広げ、扇いで見せた。キョトンと目を瞬いていた睦美だったが、どうやら褒められてる事に気づいたらしい。急に得意げな態度になって「じゃあもう一杯、おかわり」と氷だけが残った空のコップを少女に向かって突き出した。
 ぴしゃり、と無遠慮に差し出された睦美の手を打つ少女。

「あいたっ!? な、なにすんの!?」
「たわけっ。うちは水はせるふさーびすじゃ。ちと歓待してやれば図に乗りおって。それ以上飲みたかったらば自分で汲むがよい」

 目を白黒させていた睦美の顔がガーッとつりあがる。

「な、なんだとーっ!? こらっ、チビ少女っ、お客に向かってその態度はなんなのよ。ちゃんと教育受けてんの!?」
「バカめ、妾のこのきゃらくたぁがこの店の売りなのじゃ。汝も年頃の娘なら「きゃーっ、この子可愛ーっ! げきぷりーっ!」などと意味不明な奇声の一つもあげてみせんか」
「なっなっなっ」

 無茶苦茶言ってるわねー。
 したり顔で無い胸を張って威張っているおかっぱ少女に、いっそ感心する郁未であった。
 少女はそれ以上言語機能に不具合をきたしてしまった睦美を弄るのに飽きたのか、チョコチョコと郁未の隣へと回り込んできてフムと腕組みをして下から見上げてきた。

「な、なに?」
「汝……いや、まあ良いか。なあ、汝、注文の品が出来るまでまだ時間があるのでな。その間妾がさーびすを受けてみんか?」
「サービス? なにかしてくれるの?」
「うむ。汝、今深刻な悩みがあろう。それに一筋の道を宛がってしんぜようぞ」
「え?」

 虚を突かれ、郁未は目を丸くした。咄嗟に思い浮かべたのは失踪した葉子のことだ。その見開いた目を覗き込み、なるほどと少女は首肯する。

「人を探しておるのか。仲間かえ? それは心配じゃのう。ちと待っておれ」
「ちょ、ちょっと待って」

 適当に口にしているにしてはあまりに此方の抱えている悩みをピンポイントに言い当てられ、さすがに郁未も混乱を来たした。呼び止めて問いただそうとしたものの、少女は振り向きもせずカウンターの奥に入ってしまう。と、思ったらすぐにタペストリーと思しき巻物を小脇に抱え、手には何かを握って出てくる。

「これを持っておれ」
「なにこれ……ダーツ?」

 一本のダーツの矢を郁未に持たせ、少女は店舗の奥に通じているドアに一枚のタペストリーを引っ掛けた。

「……睦美さん、あれ何に見える?」
「なにって……日本地図じゃない」

 タペストリーに描かれているのは、何をどう捻くれて見ようとしても日本地図としか表現できないものだった。

「これぞ妾がとあるばらえちー番組を参考にして編み出しただぁつ占いじゃ。投げ矢の刺さった地域に旅をすれば探し物が見つかるという寸法じゃ。ちなみに第一村人にはちゃんといんたびゅぅするんじゃぞ」
「わけわかんないんだけど」
「なに、その矢を投げれば良いだけじゃ。なにも難しゅうはなかろう」

 郁未は救いを求めて睦美を振り返る。睦美は我関せずと、先に出てきたかき氷に取り掛かっていた。

「な、投げればいいのよね」
「その通りじゃ。さっさと投げるが良い。あっ、言っておくがはずしたならば日本ではないと判断して次は世界地図に格上げするから気をつけるがよい。天竺だのめりけんだのにまで行きたくなかろう?」
「はいはい」

 外国に居るなら外れるのが普通じゃないのか? 行きたくなかろうって、それだと占いじゃないじゃない。
 これぞほんとの投げやりか。投げるのは矢だけども。まあ料理が出てくるまでの暇潰しと考えればいいか、と適当に手首のスナップを利かせてダーツを投じる。ダーツは緩い放物線を描いて列島のやや北の方の地域に突き刺さった。

「ほう、見事見事。どれどれ、どこにさ…………」

 ダーツの刺さった部位へと爪先立ちになって顔を近づけた少女の機嫌よさげな喋りが唐突に途切れた。どうしたの、と問いかけようと郁未が口を開こうとしたその瞬間、少女はむしりとるようにダーツをはがしてしまった。

「……えっと、ど、どこに刺さったの?」
「…………」

 返って来たのは妙に押し殺したような沈黙だった。此方に背を向けたまま何か考え込むように黙り込んでいた少女だったが、唐突にまたカウンターの奥へと駆け込んでいく。何がなんだかわからず、首を傾げるしかない郁未だったが、再び飛び出してきた少女の顔が極めて真面目に引き締められていたのを見て、こめかみに冷や汗が伝うのを感じた。
 い、いったいどうしたってのよ。

「汝、ちとこっちに来い」
「あー、はいはい。今度はなに?」

 テーブル席の方へ手招きされ、郁未は頭を掻きながらそちらに移動する。今度少女が持ち出してきたのは、20枚前後のカードだった。円か星を象るようにカードを五箇所に配していく少女に、

「それ、タロットカード?」
「否。あんなもの、今の世ではもう時代遅れなのじゃ。これはな、妾が独自に考案し製作したタマかぁどという霊験あらたかなありがたーい占術具じゃ」

 一枚だけ配する前のカードから絵柄を見せてくれる。
 郁未は無言で少女の頭をなでなでしてあげた。

「や、やめんか!? なっ、なんじゃその慰めるような手つきは!」
「大丈夫。絵の才能なんてなくっても人生やってけるから」
「じゃからなんじゃその慰めるような台詞は!?」
「気にしない気にしない」
「気になるわーっ!」

 下手くそ呼ばわりされたのは理解したらしい。そんなにおかしいかのう、と不服そうに絵柄を見て首を捻りながら少女はカードを配り終えた。

「ではこの五箇所に積んだ山から、パパッとめくるが良い。その山の中からならどのカードを抜いても良いぞ」
「じゃあパパッと」
「……ほんとにパパッとめくりおったな、こやつ」

 わざわざ奥から抜き出さず、全部山の一番上に配されていたカードを捲ってしまった郁未を、少女はなんとも言いがたい表情で上目に睨んだ。

「で、どんな運命が出てるの?」
「急くな急くな。今見じてしんぜる…………」

 タロットならある程度カードの持つ意味を知っている郁未ではあるが、この少女が作ったというカードは絵柄に込められた意味を想像する以前に何が描いてあるのかさっぱり理解できないので、めくったカードが何を暗示しているのか郁未にはさっぱり分からない。少女は難しい顔をしたまま、また黙りこんでしまった。

「ご注文のオムライス、できましたわ」
「あ、ちょっと待って。今――」
「いや、先に食して来るが良い。ちと、これは……んん、そうじゃな。汝が食べ終わるまでに纏めておこう」
「なに? 時間が掛かるの?」
「……ある意味、な」

 少女は俯いていた顔を斜めに傾け、笑っているような機嫌を損じたような複雑な顔を郁未に見せ、カウンター席に戻るように促した。


 オムライスはお勧めするだけあってなかなか美味しかった。味付けはどこか郷愁を誘われるもので、大正や昭和初期のハイカラな時代の洋食を郁未は連想した。

「ごちそうさま。美味しかったわ」

 穏やかな笑顔で女性店主は頭を下げた。

「……で、まだ食べてるの、睦美さん」

 隣の先輩刑事はカキ氷を全種類制覇するつもりなのか、既に4杯目のブルーサワーを掻き込んで、キーンとなった頭を抱えている。氷柱女のくせに痛くなるのか、頭。

「溜め食いー。外は灼熱地獄だからねー、ここで補給しておかないと溶ける」

 カキ氷を幾ら喰っても溶ける溶けないとは関係ないようにも思うが、別に自分が金を出すわけでもないのでそれ以上口を出すのはやめる。
 氷柱の先輩はいいとして、気になるのは……。
 郁未は丸椅子を回転させ、まだテーブル席で難しい顔をして虚空を睨んでいる少女の方へ身体を向けた。
 声を掛けようとした郁未の機先を制し、先に少女が口を開いた。

「正直言うとな、実はあまり良くない卦が出た」
「ふーん、そうなんだ」
「聞かずに去るのが汝にとって無難だと妾は思う」
「そういう風に言われると逆に気になるのよね、私って」

 捻くれておるな、と少女はようやく顔を郁未の方に向け、苦笑した。

「素直じゃないのよ。お陰で色々酷い目にもあったけどね。後悔も、まあしてないってのは嘘になるけど、でもこれが私かなって開き直ってる……その占い、当たるのね」

 霊力魔力の類はまるで感じないものの、郁未はこの少女がある種の本物であると感覚的に悟っていた。まあ、こんなけったいな喋り方をする娘が普通であるはずもないと言ってしまえばお終いだが。

「占いなど当たるも八卦、当たらぬも八卦よ。未来予知とはまた別の代物じゃからな」
「ふん、まっ占いなんて興味ないし、定義だの解釈だのはどうでもいいのよ。良いから聞かせて、私の探してる人、葉子さんの居場所、占いで出たんでしょ?」
「……やれやれ、この店に訪れたことそのものが縁と解釈するべきなのかのう。よかろう、教えるのは構わん。じゃが、先に忠告しておくぞえ。汝という人間は、心より知りたき事を知ろうとするほど、艱難辛苦を味わう運命にあるようじゃ。心当たりはないかの?」
「――っ!」

 知りたいと思えば思うほど、辛く苦しい未知を辿る、か。なるほど、心当たりなら、嫌というほどあった。

「それでも、汝は知ろうとするかえ?」
「…………」

 母親の事を知りたくて、潜り込んだFARGO教団での経験は、確かに気が狂いそうなほど苦しく辛いものだった。あそこから逃れた後も、平穏な暮らしははるか彼方に遠ざかり、過酷とも言える日々を過ごすはめになった。あれをもう一度となれば、躊躇を覚えざるを得ない。
 だが、と郁未は思うのだ。その辛苦の中で天沢郁未は多くの大切なものを手に入れた。苦痛と後悔の中に、確かに輝くものをこの心に、思い出に、そして腕の中に抱いたのだ。
 天沢郁未が心から願う知りたいという気持ちは、中途半端な好奇心から生じるような軽い気持ちではない。自分を偽れないほど強い意志から生まれる、郁未が郁未で居る為に必要不可欠な魂の部品なのだ。故にいつだって引き返せない。今回もそうだ。葉子の行方を知りたいと思うこの気持ちを、退けられる魂の余地は己の中の何処にもない。

「いいわ。教えて」
「……ふむ」

 少女はこの薄暗い店内で一瞬、まるで眩しい煌きに網膜を焼かれたかのように目を細め、満足そうに頷いた。
 そしてテーブル席に備え付けてあるペーパーナプキンを一枚引き抜くと、ペンを取り出しさらさらと何かを書き付け、郁未に手渡す。

「これは?」
「占いに出た街の住所じゃ。この街に行けば、お前の探している女と往き逢えるかもしらん。保証は出来んぞ」
「…………」
「ほー、住所って。最近の占いは随分細かいところまで教えてくれるのねー。ん? どうしたの、郁未」

 郁未は顔色を失わしめたまま、住所の書かれたナプキンを睦美に手渡した。
 そこに書かれていた文字列の意味を、最初睦美は馴染みのない日本のどこかの在所としか理解できなかった。これがどうかしたのか郁未に聞きなおそうと口を開きかけたとき、ふと記憶に引っ掛かるものを覚える。この住所、どっか覚えがあるような……それも、これはつい最近?

「……え? ちょ、っと待ってよ? えっええ? ね、ねえここって!!」

 口許を握りこんだ拳で覆い隠し、郁未は低い声で応えた。

「先週、私たちが出張したところよ」

 そして、自分と葉子の共通の知人達が居る街だ。
 これは、偶然なのか?

「偶然じゃよ、あくまで偶然の範疇だ。じゃから、あまり難しくは考えんことじゃな」
「……あなた」

 諌めるような言葉を発したのは、広げたカードをまとめている少女だった。

「なにを知っているの?」
「妾はこの世の多くを知り、それ以上の多くを知らぬ。そして妾は性根が歪んでおるのでな。例え知っておっても多くを語らん。故に、汝にとって妾はもう何も知らぬ小娘と変わらぬのじゃよ」
「……つまり、これ以上何も言うつもりはないってわけね」
「汝がそう解釈するのならそれで構わん」
「まあいいわ。此処に葉子さんがいるっていうならその情報だけで充分よ。ありがとう、助かったわ」

 颯爽と言い放ち、郁未はまだグラスの底に溜まった色水を引っ掻いている睦美の襟首を掴んで立たせながら、ふと思い立ったように店内を見渡した。不思議な、店だ。赤子の眠る揺り篭を思わせる安らぐ空気。時間の流れから隔離されているかのような穏やかさ。葉子のことで心は今すぐ飛び出したいと奮い立ち急いているというのに、同時にここから立ち去りがたいと思いあぐねる心がある。

「ねえ、この店ってなんなわけ? 私たちが休憩するのにこの店を選んだのもただの偶然なのかしら」
「ここは本当にただの喫茶店じゃよ。尤も、メニューにはないものを求めて訪れる者は遥か昔より絶えんがな。汝らがこの店の門を潜ったのは……そうじゃな、運命のお導きというやつであろう。求めよ、されば得られんというではないか。あれは至言じゃぞ。とはいえ、実際に得られる者は滅多におらん。さても、汝は不運であると同時に幸運にも恵まれているようじゃな。複雑なことじゃ」
「ふん、喜んでいいのか悲しんでいいのか、それこそ複雑なところよね、それって」

 微苦笑を浮かべ、郁未は首を振った。

「幸運があるだけいいんじゃないの? あたしなんて幸薄いから、ラッキーなんて思ったこと、アイスで当たり籤が出た時くらいだもん」
「身につまされるコメントありがと」

 遠い目をして経験談を語る睦美にヒラヒラと手を振って、郁未は微苦笑を浮かべた。
 女性店主に美味しかったわと感想を告げ、支払いを済ます。
 最後にもう一度、占いの礼を言おうと振り返った郁未に、カウンターにちょこんと腰掛けた少女が告げた。

「赤い月の娘よ、餞別にもう一つ忠告じゃ」
「え……今、赤い……って、それ――」

 息を呑み目を剥いた郁未だったが、それ以上言葉を出せずに硬直した。

「あ……れ?」

 唐突にビルの屋上から突き落とされたような浮遊感に全身が包まれた。トンネルに入ったみたく急に視野が狭くなり、店内の景色が、少女の姿が遥か彼方に遠のいていく。
 呆然と落ちていく郁未の頭の中に、託宣のような響きを持つ少女の囁きだけが頭の中にはっきりと響いた。

「汝が往く先には戦気が渦を巻いて立ち昇っておる。恐らく一波乱が待っておるぞ。心しておくが良い」

 バチンと閃光が弾ける。不意に冷房の効いた空間からキツい湿気の篭った熱気の中に放り出され、郁未はハッと我に返った。
 ジリジリと突き刺すような日差しと、ポツンと一匹だけ寂しげに鳴いているヒグラシの声。いつの間にか閉じていた目を開けた郁未は、稲荷社の前に立ち尽くしている自分に気付いた。隣を見ると、片手に財布を持ったまま挙動不審に辺りを見回している睦美の姿。

「こりゃ、キツネに化かされたかしらね」

 社の奥隣から赤レンガ造りの喫茶店の店構えが綺麗サッパリ消えてしまい、こじんまりした林がざわめいているのを見て、郁未は苦笑しながら額に浮かんだ汗を拭った。と、その手に一枚のペーパーナプキンを握り締めている事に気づく。
 なるほど、少なくとも白昼夢を見てたわけじゃないってことか。

「まっ、お金も払ったんだから夢じゃ困るんだけどね」
「おかね? ……あーーっ!! ちょ、ちょっと待てっ、お釣りまだ貰ってないわよ!? そりゃないべやーっ! あ、あたしの740円返せーーっ!!」

 お釣りを貰い損ねたらしい睦美が頭を抱えて喚いている。ご愁傷様である。
 郁未は手にしていたペーパーナプキンを広げ、もう一度そこに書かれた住所を眺めた。

「忠告か、ありがたく受け取っておくわよ……ふん、一波乱……一波乱ね」

 己を鼓舞するように口端を歪め、郁未は挑戦的に眦を決する。

「……上等じゃない。やってやるわよ」

 待ってて、葉子さん。何があったか知らないけど。

「私が今からあんたのところに行くからね」

 そして、私に黙って行方をくらましてしまった事を、喘ぎ声も出せなくなるまで謝らせてやる。

「よしっ、行くわよ睦美さん!」
「あぅ〜、あたしの小銭〜」









「赤い月の娘……どういう事ですか、御前さま」
「クレハも聞いたことぐらいはあるじゃろう。あの娘が【いんぶぃじぶるあーむず】――天沢郁未じゃよ」

 カウンターの上で胡座を掻いた少女が、自作カードを指先でクルクルと回している。

「そうでしたか。どおりで人間にしては変質が激しいと思いましたわ」
「あの娘ぐらいになると、もう半分近くは人間でなくなってるからのう」
「裏口から入ってきたのはその所為ですか?」
「いや……」

 指先から離れ、空中に浮遊しながら回転していたカードを摘み取り、愛でるように眺める少女の横顔は、寂しげとも懐かしげとも取れる微笑をたたえていた。

「気付かなんだか。微かにだがあの娘、妾と泰親どのの匂いをさせておったわ」

 これには驚いたように、洗い物をしていた女性店主が顔をあげる。

「お血筋でらっしゃいましたか?」
「いやいや、そうではない。殺生石じゃよ。あの娘本人ではないが、よほど身近な者――そうさな、触れ合う事の多い、恐らく情人か娘が持っておるのじゃろう。あれには妾と泰親どのの想念が色濃く残っておるからのぅ。それに反応して開けてもいない門が開いてしまったと考えれば納得もいく。さて、いったい誰が渡したやら」
「そうでしたか……ところで御前、そのカードは」
「ああ、これか。あの娘が引きおった札じゃ」

 先ほどから同じカードを所在なさげに玩んでいるのを疑問に感じた店主が尋ねたのを、少女は苦笑を浮かべて首を竦めて見せた。

「有り得ぬ再会。破綻と裏切り。別つ壁。汝の死……これだけはっきりと験の悪い卦が出られては、良い風に解釈して伝えようにも限界があるわ。お陰でついつい言いそびれてしまったわ」
「まあ……よろしいのですか?」
「さて、よろしいかと言われてものう……そう言えば知っておるか? ここしばらく千代田の森が騒がしい」

 カードを懐に収め、店主が入れたソーダー水を受け取って、カウンター席に座りなおし、少女は退屈しのぎの世間話のように喋りだす。

「耳に届いたところに寄れば鴇宮め、八旗まで動かしておる。それも三旗じゃ。小娘が張り切ったものよ」
「それは大事ですわね。複数旗が纏めて動くなどここ数年は無かったはず。何事が起こっていますの?」
「それが聞いて驚け。52年ぶりのフツノミタマ再顕現の危機だそうじゃ」
「まあ、それは大変」

 危機と口にしながら小気味よさそうですらある少女に合わせるように、暢気に両手を合わせて驚きを表現してみせるクレハ。

「しかも、裏では緑の龍が暗躍しておるらしい。鹿沼葉子と言うたか、もう一人の見えざる腕は。赤い月の娘の探し人。あれも再建しつつある例の組織に戻っておるらしいのう。しかも、今回の件に絡んでおる様子。さても俗世も面白いことになってきておるわ」
「……御前さま」

 呆れたように名前を呼ばれ、少女は「なんじゃ」と聞き返した。

「もしかして、あの方に教えて差し上げた住所。占いじゃなかったんですか?」
「アホか、汝は。あんな投げ矢と地図で人一人の居場所など分かってたまるか。偶々あの娘の探し人が現れそうな所を知っておったから、占いにかこつけて親切で教えてやったまでよ。だいたい、あの矢が刺さったのは佐渡ヶ島じゃぞ。慌てて抜いたわ」
「……では、カードの方は?」
「そちらは本当に占ってやったわ。汝も知っておろう。泰親どの仕込みの妾の占いの腕は。文字通り百発百中じゃ」
「当たるも八卦、当たらぬも八卦だったのでは?」
「…………」

 耳をふさいで聞こえない振りをする少女。

「はあ、御前さまがそういう態度をお取りになるのなら、それはそれで構いませんけど。百発百中ならば、天沢郁未さまは大変危うい事になるのでは?」

 言外にどうして場所を教えたのかを咎めるクレハに、少女はそ知らぬ振りで唇を尖らす。

「あの娘が知りたいと申す故、教えたまでじゃ。妾の知った事ではない……と、言いたい所じゃが、それでは無責任よのう。このまま占った通りに事象が転がるのなら、あの娘、多分死ぬしのう」

 空々しいと言えばあまりに空々しい口振りに、優しげな女性の面差しが曇った。

「……御前さま、貴女は」
「それに布都御霊じゃ。あれも人の手にのみ任せておくのは拙かろう。あやかしの守部たる妾としては、見過ごしには出来ん事態じゃ。なっ、なっ、紅葉。そうは思わんかえ?」
「もう、御前さまときたら。どうも妙に饒舌な上に説明的というか解説的なお話ばかりなさると思いましたら……」

 クレハは額を抑えながら横目で少女を見やった。まるで散歩用の綱を持って現れた飼い主を見るような犬みたいにキラキラした目で此方を見つめていた。尻尾が出てたならグルングルン振り回しているのだろう。
 反応が芳しくないのを悟った少女は、バタバタと両手を振り回し駄々を捏ね出す。丸っきり子供だ。

「うぬぬぬ、良いではないか良いではないか。最近暇で退屈してたのじゃ。折角面白そうな話が向こうから飛び込んできおったのに指を咥えて見過ごせというのかえ? ドンパチじゃぞ、ドンパチ。さぞ派手な騒ぎになろうな。そもそも妾は世の平穏に仇なす災いと騒乱を司るものであるゆえ、この手のいべんとを見逃すのは妾の役割としても良くないと思うのじゃ」
「その言い草だとただの野次馬にしか聞こえませんわね」
「なにか言ったかえ?」

 やれやれと頭を振り「いいえ、なーにも」と空惚ける。機嫌を損ねると長いのだ、この少女は。
 仕方なく文句は控えながらも、皮肉の一つでも言わないと気が済まず、クレハはねめつけるように薄目で少女を横目で見やりながら口を尖らせた。

「それにしても御前さま、ご自身が首を突っ込みたいが為に、あんな悪い卦が出ていると言うのに天沢郁未さまをあのようにご利用なさるとは、あんまりじゃございませんか?」
「なに、妾も偶には邪悪っぽい事をしておかんとありがたみが薄れるからのー」
「なんのありがたみですか」

 ああ言えばこう言うだ。
 深々と嘆息をこぼし、優しげな男装の麗人は腰に手を当て聞き分けのない子供を見るように唇をヘの字に曲げた。

「仕方ありません。ここは見て見ぬ振りをして差し上げます。私も久々に裏から直接お店に訪れてくださったお客様が御前様の所為で災禍に見舞われるのは心苦しいですし」
「おおっ、さすがはくれはじゃ!」
「ですがっ」

 飛びつかんばかりの少女に人指し指を突きつける。

「これだけはお約束ください。力は極力使わない事。それから事態に自分から首を突っ込まぬ事。いいですか、あくまで御前さまが私利私欲で利用した天沢さまの危機を回避するためのみに介入するよう心がけてください。貴女さまは本来それ相応の対価、代償に応じてのみ力を顕現すべき方なのをお忘れなきよう」
「えー、久方ぶりに山の一つでも吹き飛ばしたいぞえ……じょ、冗談じゃ。汝、妾の御先の分際で怖いぞえ」
「戯けた事を仰るからです」
「まあよい、久々の遠方への御幸じゃっ! わーい♪」
「わーい、って。子供ですか、貴女は」

 歳を考えろ、歳を。
 自分より遥かに年嵩な筈の少女の無邪気な喜びように、微笑ましさよりも頭痛と疲労感を感じる二条紅葉、七百と二十七歳であった。










「睦美さん、急いで。乗り遅れる!」
「真夏の……真昼に……全速力は……ちょっと……死ぬ」

 疲労困憊の睦美を引っ張り、JR上野駅構内をひた走る天沢郁未。今にも倒れそうな睦美に郁未は叱咤を飛ばした。

「文句言ってないで早く! だいたい睦美さんが秋葉原に寄って行くってごねなかったらこんなギリギリにならずに済んだのよ、自業自得でしょう!」
「そんなー。だって、頼まれてた買い物しないと梨玖姉に絞められる。ってか、南港に沈められちゃうよ〜」
「大坂で買えばいいでしょうが」
「あるの〜? 日本橋? 難波? 北新地? 三宮? あるかな〜? あってくれないと困る〜」
「あるある、あるからキリキリ走って!」
「く、くそー、他人事だと思ってからに」

 改札を抜け、ヒーヒーと悲痛に喘ぐ睦美を追いたて上越新幹線のホームへと駆け上がった郁未は目当ての列車を見つけた。と、同時に発車のベルが鳴り出す。

「うわっ、ヤバイ。睦美さん!」

 咄嗟に不可視の力を使って睦美を持ち上げ、「ギャーーッ!」という彼女の悲鳴を無視して閉まりかかってるドアに放り込む。

「ぐへっ!」

 見事、睦美は腰をドアに挟まれ、閉じかけていた列車のドアが再び開く。

「よしっ、ナイスよ、睦美さん」
「な……ないすじゃねえっぺやーっ!! なんばしよっとかーっ!!」
「睦美さん、訛りが別のとこと混じってる混じってる」
「ちょっとー、お客さん、駆け込み乗車は危険ですのでーっ!」
「あー、ごめんなさいごめんなさい。ほら、睦美さんも謝って」
「あちきが悪いんかーっ!?」

 眉を吊り上げて走ってくる駅員にペコペコ謝り、もうなんか心身ともにボロボロでグスグスと涙ぐみはじめてしまった睦美を引き摺り、郁未は上越新幹線に乗り込んだ。
 買った切符は自由席。夏休みだけあってそれなりに混んではいるものの、まだお盆には二週間以上あるためか、座れるスペースはあるようだった。とは言え、空いているのは一人分の席ばかり。こりゃ別れて座るか頼んで譲ってもらうかしかないかと思い巡らしたとき、丁度、向かい合わせの四人掛けの席が、女の子が一人腰掛けているだけでポッカリと三人分開いているのを見つけた。
 いじけている睦美を促がし、郁未は田舎の祖父母の家にでも遊びに行くのか独りきり座っている小学生くらいの背格好に見える女の子の様子を伺った。よそ行きの、ハイカラな藍色のリボンを結んだ白い帽子を目深に被り、身に纏うのは清楚な白いワンピース。荷物は小さな手提げカバン一つのようで、女の子の旅にしては意外と軽装だ。何か真剣に本を読んでいるので、なんだろうと目を凝らしたら雑誌だった。良く見ると足元にたくさん積み上げている。漫画かと思い、背表紙を見てみた。
 週間玉石、女性本人、週間郵便受け、サタデー等等。
 全部週刊誌。
 おじさんおばさん向けの週刊誌を真剣に読み耽ってる小学生。ちょっと関わるのヤダなー、と思いながらも、郁未は引き攣りを極力覆い隠した子供に親しみ易そうな笑顔を浮かべて話し掛ける。

「あの、ここお姉さんたち座っていいかな?」
「構わんぞ。と云うか、汝らの為に空けておいたのじゃから好きに座るが良い」
「……へ? あ、あれ?」
「まったく、出発時間になっても一向に乗ってこんからどうしようかと思ったぞ。このうすのろどもが」

 不平不満をたれながらも言葉の端々に楽しげな様子を伺わせる口振り。訳も分からず混乱する二人に、少女は被っていた帽子のつばを指先で摘み上げ、その素顔を覗かせた。

「あ、あっ、あんた喫茶店の!?」
「あーーっ、生意気小娘!!」
「ようやく気付いたか、たわけが」

 帽子を取り去り、幼くも壮麗な美貌を表に晒し、実に小僧たらしくつりあげてみせた少女は、面食らってる郁未と睦美の二人に向かい、高慢を絵に描いたような素晴らしい口振りで言い放った。

「最近はさぁびす業も痒い所まで手が届かんとすぐに淘汰されてしまうでな。占ったら占いっ放しというわけにもいかんのよ。つまりあふたぁさぁびすというヤツじゃな」
「ちょ、ちょちょ、な、なに、ど、どういうこと? え?」
「鈍いヤツじゃなあ。汝らがあまりにとろ臭そうで危うかったので、如来どもより心優しい妾が恐れ多くもちと手を貸してやろうと言ってるのじゃ。あ、言っておくがちっとだけじゃぞ。ちっとを通り越すと相応の代償を要求するが故に肝に銘じておくように。腕だの足だのが片方なくなるのは嫌じゃろう?」
「いや、急にそんな事言われても。だいたい、あなたいったい何者――」
「んな事は後回しよ! こら、小娘、お釣り返せ!!」

 郁未を押しのけ、少女に詰め寄ろうとする睦美の眉間に、投じられた雑誌の角が直撃した。

「おおう!?」
「たわけが。小娘呼ばわりはこれ以降は許さんから肝に命じるが良い。以後、タマちゃん♪ と敬愛を込めて呼ぶようのじゃぞ」
「なっ、なんじゃそりゃーーっ!?」
「いや、あの、ちょっと、私の話を――」
「くっくっくっ、愉快じゃ愉快じゃ。やはり旅と云うものは楽しいのう。特に列車の旅は初めて故、胸が少女のようにときめいておるわ。ほれ、汝ら、昼はもう喰ったかえ? 妾が買っておいた弁当がある故、遠慮せずどんどん食べるが良いぞ」
「あ、ありがとう。って、そうじゃなくて!」

 焼肉弁当を押し付けられてあたふたと慌てる郁未。完全にペースを持っていかれてしまっている。

「おのれ好き勝手仕切りやがって、ここはガツンと誰がご主人様か分からせないと!!」

 誰がご主人様か、誰が。
 興奮のあまりイカレた思想に毒されながら拳を握って再度少女に詰め寄ろうとする睦美。その彼女を、突然誰かが後ろから引きとめた。

「あの、お客様。ご購入いただいたお弁当の代金なのですが」
「って、どうしてあたしの肩を掴んであたしにそれを言うわけ、車内販売員さん!?」

 にっこりと微笑み、横幅の広い年配の女性販売員は、有無を言わせぬ静かな迫力を持って睦美に告げた。

「いえ、そちらのお嬢様がうるさく喚いているお客様の方が代金を払ってくださると」
「なんとーーっ!?」

 面白いほど混乱しきってる二人の姿に、大いにその御心を満足させたタマちゃん様。
 そして、内部の騒ぎを他所に列車は動き出す。その行く先の方角は北。
 幾多の絡まりあった思惑が、やがて集う彼の街に。


「おおっ、これがかの有名な釜飯弁当かえ!? おおっ、中華弁当もたいした品揃え。はてさて、これはどうしたものか。これではどれも上手そうじゃー。迷うのー、困ったのー♪ はー、幸せじゃのー♪」

 それはようござんした。










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