静まり返った空間にカツカツと硬質な足音だけが響いていた。足音は一つ。よどみないそのリズムは、自然とその足元の主の心を表しているかのようだった。そして、嘆息を零すように足音が立ち止まる。
 期を同じくて静謐を破り捨てたのは、一つの雄叫びだった。猛った叫びは閉じた空間の中で反響を繰り返し、徐々にその数を増していく。幾重にも絡み合う咆哮は、既に一つではなく無数へと転じていた。逃げ惑う獲物を追い立てるための、高揚と血への興奮に満ちた獣の群れの嬌声は、やがて足音の主を囲むように展開し、そして消え去った。
 獣は、獲物を襲う際には声は立てない。必要がないのだ。彼らが咆哮を必要とするのは獲物を怯えさせ、判断を過たせる追跡の際。そして己を害する力を持つ『敵』と戦うときだ。
 押し殺した呼気のみを供として、彼らは静かに速やかに、立ち尽くしている獲物に襲い掛かった。

 再び獣たちの猛り狂った雄叫びが飛び交ったのは、それから僅かに数拍後のことだった。





 地面を引き摺っていたのは、柄が1メートル50センチに達し、刃に至っては60センチ近くも張り出した長大にして巨大な大鎌だった。鎌の持ち主である少女はその重量によろけながらも反動をつけて大鎌を肩へと担ぎ上げる。ふう、と吐息し、彼女はエメラルドの冷たい双眸を遥か天頂、高さにして10メートルはあろうかという洞穴の天井へと向けた。

「無意味に高いですね」

 それとも、高いなりの理由があるのだろうか。少女は天井の様子に目を眇める。自然の洞穴に特有の凹凸はそこには見られない。綺麗なアーチを描いているのが見て取れる。凹凸が少ないのは材質の良く分からない壁や床も同様だ。
 彼女――リーエ・リーフェンシュタールが佇んでいるその場所は、丁度四車線の道路がすっぽり嵌りそうな横幅を持つ巨大な洞穴らしき場所だった。壁自体が仄かに青白い光を発しており、遠方までは見通せないものの50メートルほど先までは視界が開けている。手元となれば随分明るい。
 いったいどこに送り込まれたものやら。
 なんにせよ、穏当な目論見ではないのでしょうね。それとも、これをして穏当と主張しようほどかの道化の魔王とやらは人格が破綻しているのでしょうか。

「……そちらの方がありそうですね。いい迷惑です」

 リーエ・リーフェンシュタールは面倒そうに口許を歪め、視線を周囲の足元へと落とした。
 控えめにいっても血なまぐさい惨状が、彼女の周りには現出していた。
 彼女の四方には、胴体や首を寸断された2足歩行の犬のような赤黒い毛皮に覆われた怪物の死骸が血と臓物をぶちまけ、湯気をあげて転がっている。無論、この光景を作り出したのはその漆黒のゴシックドレスにも外套にも返り血一つ残していないこの可憐な少女だ。
 この怪物、外見的にはコボルトと呼ばれる妖精種に似ているが、襲い掛かってきた彼らにあったのは狂猛な獣性のみで、本来のコボルトの持つ知性も陽気さもどこにも見られなかった。それどころか、肉体的な能力なども劣っているように見える。棍棒や剣のような武器を振りかざしている個体も見受けられるが、あれなら自前の牙と爪の方が威力があるだろう、さして脅威にも思えない。

「とは言え、これだけ集まられると……」

 まあ厄介と言えなくもない。
 敵意と殺意の漲った唸り声の唱和をさすがに無視しきれなくなり、少女は仕方なさそうに顔をあげた。逃げられないように周囲をグルリと囲ったコボルトもどきの群れ。ざっと数えて40匹。どんな弱者でも寄り集まればその数自体が力となる。
 先陣を切って襲い掛かった同族を瞬く間に裁断され、彼女が逃げ惑うだけの無力な獲物でないと理解したのだろう。隙を伺うようにリーエを囲んでいたコボルトもどきたちだったが、段々と攻撃を手控えさせている警戒心を殺意が上回ってきているのが傍目にも伝わってくる。

「まだ来ますか? 身の程を知らないと死にますよ」

 言ってから、無駄かとリーエは思い直した。何を言っても自然の獣に言い聞かせる程度にも伝わらない気がする。敵意、殺意、そうした色濃い暴性を過剰なほど撒き散らしているわりに、この不可解な怪物たちは動物らしい気配を感じない。リーエは自分が狼の群れというよりスズメバチの群れに囲まれているような感覚を受けていた。
 虫のような、か……ふむ、もしかしたらあながちズレた感想ではないかもしれませんね。

「魔法生物でしょうか。それもあまり出来が良いものではなさそうですね」

 小ばかにされたのを理解したわけではなかろう。だがそれは風船に突き刺した針となり、膨れ上がった殺意が弾けた。
 吠声を呼応させ、リーエの左右から様子を伺っていたコボルトもどき4匹が、一斉にリーエ目掛けて飛び掛った。まずは此方を引きずり倒し、圧し掛かって身動きを封じて抵抗を出来なくし、あとはゆっくりトドメをさして食い殺そうという牙を持つものの狩猟のセオリー。四方から踊りかかってくるコボルトもどきを鷹揚に眺め回し、少女は大鎌の刃がついた方を下に向けると、石突をトンと床に打ち立てた。
 四肢に噛み付き、小さな獲物を引きづり倒そうとしたもどきの牙が空を切る。目標を見失って無様に衝突した4体のもどきの頭上に、垂直に飛び上がったリーエ・リーフェンシュタールが浮いていた。漆黒の外套と蒼褪めた黒色のフレアスカートがふわりと浮き上がり小柄な肢体が落下を始めたところで、赤い靴がコボルトもどきの頭を踏み台にして蹴り飛ばす。
 黒いとんがり帽子から流れ出した金色の流体が、虚空に弧を描いた。地面に突き立てた大鎌を支点にしての伸身宙返り。そして弧が頂点を過ぎて降下に移ったところでリーエは大鎌を握りなおし、

「――――よいしょ」

 それは円運動の慣性を生かしたにしても、体躯に見合わぬ凄まじい怪力だった。大鎌が背負い投げの要領で地面から引っこ抜かれるようにして振り抜かれる。丁度、刃の上で縺れ合っていた4匹のコボルトもどきは鎌の刃に引っ掛けられ、縺れ合ったまま首を、顔面を、肩から胸部をそれぞれ見事に裁断され、血飛沫を噴き上げながら絶命する。
 肉片と血の糸を纏わせながら振りぬかれた大鎌は、そのまま柄の端にリーエの体躯を付属物のようにぶら下げたまま振り回した。
 下は自分が落ちてくるのを待っているコボルトもどきの群れの只中だ。リーエは遠心力に逆らわず、むしろ回転に身を任せる。距離と間合いは把握済み。リーエを柄の端にぶら下げたまま一回転した大鎌は、図ったように目の前に現れた洞穴の壁にガツンと刃を突き立て停止。
 まさにその瞬間、リーエ・リーフェンシュタールの歌声が淡々と疾る。
「【ズィンゲンザルク】、形状(アイネン・フォルム)鎮魂曲(レキュイエム・ザンザ)解除(アォフヘーベン)

 ガラスが粉々に砕けたと聞き違うような旋律が轟いた。壁に突き立っていた大鎌の刃が無数の光の破片となって飛散。先端に暗い黄金色の宝玉を残した長大な柄だけがリーエの手元に残される。
 遠心力の残されていたリーエの体躯はそのまま鎌が突き立った壁のさらに上方目掛けて浮き上がった。まるで地面に着地するかのように壁に足を掛けた少女は、己が握る相棒『ズィンゲンザルク』へ語りかける。
「【ズィンゲンザルク】、形状選択(アイン・ノイエス・フォルム・ヴァール)追走曲(カノン・ヘレバルデ)』」

 柄の先端にぽかりと浮いた宝玉が光を放ち、その表面に『Einverstanden!』の文字が浮かび上がった。
 途端、振りかざした柄の先端に、先ほど飛び散った刃の破片が時計を巻き戻したように収束、同時に柄全体も仄かな光に包まれる。だが瞬く間に再構成されていく『ズィンゲンザルク』のその形状は大鎌ではなく――――

『Vollendung♪』

 宝玉に文字が浮き出た途端、リーエの両腕に凄まじい重量が掛かった。瞬く間に消費される慣性浮力がかき消される直前に、少女は壁を赤い靴で蹴り飛ばす。急降下吶喊! リーエ・リーフェンシュタールは手にした得物――超重斧槍(オーヴァーヘヴィー・ハルバード)『ズィンゲンザルク』を眼下に群れるコボルトもどきどもの真ん中に叩き落した。火砲の着弾さながらの爆音が轟き、砂礫と石片と肉片が入り混じった瀑布が噴き上がる。
 着弾点付近のコボルトはのきなみ体躯のどこかを破壊されながら吹き飛ばされ、密集空間にぽっかりと隙間が拓いた。そこに少女はヒラリと降り立つ。外套とスカートを優雅に翻し、とんがり帽子が飛ばないように手で押さえながら床へと降り立った金と漆黒に彩られた少女は、僅かにそのエメラルドの双眸を物憂げに細めただけで、着地したその踏み足を休ませず、己が質量を軽く超過しているはずの『ズィンゲンザルク』を引き摺ったまま走り出す。そしてそのまま、勢いをつけて前に立ち塞がる怪物たちの壁に目掛けてハルバードを振り回した。
 面白いように3体のコボルトが身体をバラバラにしながら飛び散った。
 振り回したハルバードに逆に振り回されながら、リーエはたたらを踏む足を僅かに踏ん張り、超重量の刃が暴れまわろうとする方向を修正。勢いはまるで殺されずに斧槍は回転し、今度は後ろから追いすがってきた怪物どもを軽々と薙ぎ払い、元の数の倍以上の肉塊へと変えて辺りにばら撒いた。

「っとっと」

 コボルトもどきの包囲を文字通り粉砕して突破したリーエ・リーフェンシュタールは、慣性モーメントにつんのめりながらなんとか転倒を堪えて立ち止まる。やれやれと外れかかったとんがり帽子を被りなおしながら、竜巻が通ったあとのような自分の進路を振り返る。
 攻撃という範疇を通り越してもはや大破壊そのものだった少女の猛威に逃げ惑っていたコボルトもどきたちが、回転が収まったのを見て我に返ったように踵を返し、自分に向かって怒号をあげながら走り出している。
 その光景を視野に収め、【リトル・バヨネット】は恐ろしく凄絶な失笑を口端に捧げた。

「どうしてでしょうね。いつだって、屠殺されようという子豚たちは悲劇というよりも喜劇に見えてしまう。その末路に哀れよりもうんざりとした失笑を覚えてしまう。そんな私はおかしいですか、人として」

 答えはいずこからも返らず、少女は興を殺がれたように表情を作り物めいた無に溶かし、ハルバードを前方に翳した。
「【ズィンゲンザルク】、形状(アイネン・フォルム)追走曲(カノン・ヘレバルデ)解除(アォフヘーベン)――形状選択(アイン・ノイエス・フォルム・ヴァール)夢想曲(トロイメライ・ヘクセライシュターブ)』」
『Einwilligung!』

 宝玉に文字が写り、光が弾けた。掲げ持ったハルバードの穂が再び飛散、そしてすぐさま飛び散った光礫は巻き戻り、今度は宝玉を間の空間に宿し無数の円環と角を浮かべた杖へと再構成される。
 そして少女は虐殺の開始を宣告した。

「――――Anfang Arie.」

魔導法杖(ウィザードリィ・スタッフ)『ズィンゲンザルク』――起動詠唱開始とともに、かの魔杖の先端部を構成する金色の円環たちが急速に回転を始め、側面に展開していた三つある白銀の尖角が先端へと滑るように移動した。
来たれ(コンム・ドッホ・シュネル)夢見る風の精(トロィメン・エアリエル)陽気なるまれびとたちよ(フレーリッヒ・ガステ)既に宴は佳境なり(アイネ・フェルトマール・デン・ショーン・ヘーエプンクト・コンメン)疾くと疾くと舞い踊らん(シュネル・シュネル・タンツェン)

 円環の回転が高音を掻き鳴らし高速化。回転速度が一定値を突破するごとに光彩と音が弾け飛び、魔杖を芯にして幾重もの輝く魔法陣が次々と誕生していく。唸りを上げて回転する円環と緩やかに回る魔法陣。リーエは円舞のステップを振舞うように優雅にその場でターンを決め、魔杖を怪物の群れに向けて構えた。
「――――歌え小さなシルフィード(ウォーアトラーゲン・エアリエル)私の囀る棺と共に(ツザンメン・ミット・マイン・ズィンゲンザルク)

 円環たちの回転が、魔力の臨界到達と同時に急停止。代わりに魔杖の尖端を構成する三つの白銀尖角がドリルのように回転を始め、緩やかに回っていた12の魔法陣が次々と先端部へと滑り出し、魔杖の射線に多重魔法陣による円筒形のゲートを展開。
 途端、足元から光粉をまぶした突風が吹き上がり、ズィンゲンザルクの宝玉が恒星の如く光の津波を迸らせた。
 吹き飛ばされたとんがり帽子が中空へと舞い上がる。
 雄叫びも、魔力の唸りも、風の喚きも退けて。響く、静かなアリアの歌声。
 開放。

「――――気まぐれなりしつむじ風(ヴィルキュリーヒ・ヴィルベルヴィント)
















 ここは優しい戦場だ、とリーエ・リーフェンシュタールは詰まらない感慨を抱いた。
 踏みしめる大地は固く、流れる空気は生温い。いずこからともなく銃弾が飛んでくることもなく、理不尽な命令に無謀を強要される事もない。敵を殺す事ではなく自らが生き残る事のみを目的と出来る。実に単純で明快な優しい戦場。
 だが、それでも此処は戦場には変わりはない。敵がいる。自らを殺そうと殺意を滾らせ襲いかかってくる敵がいる。血が流れ、臓物がぶちまけられ、悲鳴が戦慄き、怒号が飛び交い、敵意の雨が浴びせられ、懇願も哀切も無視されて、逃げ惑い、追い立てられ……。
 殺されるか、殺すのか。

「まだ、早いでしょうに」

 ふと口に出た思いに、リーエは目を伏せた。此処に放り込まれた直後に現れた劉偉狼のヴィジョンが説明した内容が真実ならば、あの粗末なる妹弟弟子たちもまた、このダンジョンのどこかに放り出されているという。あまりにいきなりだ。なんの覚悟も決まっていないだろうに。
 だが、と思い直さずにはいられなかった。こんな現実を経験するにはまだ早い、などと思うのは間違いないのだ、きっと。血の匂いを嗅ぐのに、己が手を血で汚すのに早いも遅いもない。彼らにとって、それがたった今だとして何の不都合もないのだ。何故なら彼らの選んだ道こそは、全てとは言わずともその少なからざる部分が死と血と暴力と理不尽の論理によって成り立っているのだ。既にもう、彼らは足を踏み入れてしまっている。その時点で、彼らに文句を言う権利はない。
 さあ、あの穢れを知らない子供たちは、この徹頭徹尾無慈悲なロジックで構成され、生死の境界の希薄さを突きつけられ続けるであろうこの場所で、いったいどんな現実を見るのだろう。

 魔杖の放熱口から噴出していた蒸気が弱まり、程なく途切れた。思索に篭っていた意識が現実へと帰り、リーエは短く呪文を口ずさむ。変形していた長杖がガチャガチャと音を立てながら元の形に戻っていき、手元に引き戻されると同時に光芒に包まれ20センチほどの短杖(ワンド )へと姿を変える。
 外套を翻し、腰のベルトに短杖を差した少女は、フワフワと上から落ちてきた尖がり帽子を捕まえ、そのまま頭に乗せずに胸に当てると、スカートの裾を摘みながらちょこんと一礼して見せた。
 一斉に、ビチャビチャと盛大な拍手が響く。
 それは、天高く舞い上げられ、真空の渦によって細かく解体されてしまった25匹のコボルトもどきの、血と肉片の雨によるスタンディングオベーション。
 当然のようにアンコールを求める歓声はあがることもなく、リーエは未練なく踵を返した。
 あまり気が乗らないが、仮にも後輩。見捨てるわけにもいくまい。探さなくては。
 尤も、まだ生きているとは限らないが。

「遺体だと持ち帰りが大変なので、なるべくなら生きていて欲しいものですね」

 いや、綺麗に食べられてしまっている可能性もありますか。肉食の怪物も多そうですしね。

「食べて美味しい方々とは思えませんけどね。だとすれば悪食なことです」

 嘆息を零し、帽子の鍔を触ってズレそうになる位置を直しながら、リーエは頭の中に地図を描きながら歩くスピードを速めた。

















§   §   §   §   §














 気がつけば、いつも独りだった。
 孤独な獣は、己が孤独であることを知らずにいる。それが神が与えたもうた彼らへの救い。彼らは耐える術を知っているから孤独で居るのではない。孤独であることを知らないから平静で居られるのだ。気付いてしまえば、知ってしまえば、もう耐えられない。耐性の出来ていない心は赤ん坊と何も変わらず、寂しさに立ちすくみすすり泣く事しか出来ない。
 かつての私がそれだった。
 孤独を知らない孤独な獣。いや、私の場合は知らないのではなく忘れていたというべきか。寂しさを我慢できずに己に嘘を付き大切な多くを忘れ去り、自ら孤独へと逃げ出してしまった私には、孤独を知らない獣と同じく心は幼い子供のままで。孤独の意味を思い出した当初は、唐突に孤独の記憶がフラッシュバックとなって心を覆い、いきなり泣き出してしまうこともしばしばだった。
 そんな私が泣きじゃくったまま震えて動けなくなる事もなかったのは、常に周りに佐祐理が、誰かが居てくれたからだ。私が孤独ではないのだと、繰り返し丹念に私に身を以って言い聞かせてくれたからだ。
 私は強くなったのではない。ただ、周りが優しかっただけなのだ。
 そんな弱いままの私は、今闇の中に独りポツンと佇んでいた。
 四方は闇。私だけがここに居る。
 あまりの事に呆然として、誰かを探して走り出す気力も湧き立たず、ただ呆然と左右を見渡した。ものの見事になにも見えない。まったき闇。宇宙飛行士になるにはこうした何も見えない闇の中に何時間もいなければならない訓練があるそうだけれど、だとしたら私はきっと宇宙飛行士にはなれないな、と埒もなく納得した。
 怖いなんてものじゃなかった。闇は無だ。無という現象そのものになって、私を食いつぶしていく。己の姿すらも見えない闇の中では、私は肉を失い心だけの存在になってしまったかのようで。護る外壁が失われて転がりだしてしまった剥き身の心は、容赦なく無という現象に食いつぶされていくのだ。消えてしまう。私が消えてしまう。消えて消えて消えて消えて――
 ただ、風の吹く音だけがビュービューと聞こえてる。

「誰か、いないの?」

 縋るように私は呼びかけた。声は風に吹き消され、己の耳にも届かない。なのに、まるで声に乗って願いが届いたかのように、幾つも幾つも人影が私の周囲に現れた。知っている人、仲の良い人。友達。
 祐一、名雪、真琴、あゆ、秋子さん、栞、香里、潤、美汐、小太郎。
 お母さん、倉田のおじさん。
 声を掛けようとして思いとどまる。みんながみんな、私に背を向けていた。背を向けたまま、楽しそうに談笑している。私なんて見向きもせずに。私なんて、最初から居ない人のように。
 なるほど、私の肉は消えてしまって、転がりだした私の心は、それも無によって食いつぶされて。
 私はもう、いないのだ。
 なんて、孤独。誰もいないのではなくて、私がいない。自分がいないなんて、これ以上の孤独はないだろう。
 まいったなあ、と思わず無い口で呟いた。これは夢だ。しかも陳腐なほどありふれた夢。だけど、なるほど、これは堪える。夢だと自覚しながらも、心にズシンと重たく響く。蝋燭の火が消えるように、みんなの姿が消えていき、その度にズシンと闇が重みを増して私を押し潰そうとギシギシと軋んでいった。
 満員電車のドアから押し出されるように、消えてしまっていた私が闇の中に押し出され、取り残される。闇の中にぽっかりと私の姿だけが浮かんでいた。キリキリと心が悲鳴をあげる。我慢できず、堪えていた涙があふれてしまう。立ち尽くしていることにすら耐え切れず、私は力を失い崩れ落ちた。項垂れ、背中を丸め、呻くように綺麗ではない嗚咽を吐いて、私は私を憐れむ。
 誰からも置いていかれて、独りぼっちにされてしまった。なんて可哀想な私。
 そんな風に自分を慰める自分に、私が抱いたのは嫌悪だった。これは、弱い私だ。弱い川澄舞だ。認められない。こんな私は認められない。これじゃあ、昔と変わらない。

「大丈夫、舞?」
「無様だな、川澄」

 ハッと私は顔をあげた。心配そうな佐祐理と、呆れている俊平が私の前に立っていた。心が歓喜の色に満ち、私は立ち上がろうとして身体が動かないことに気付いてしまう。何百年も蹲っていたように、身体が石になっていた。辛うじて、右手だけが動く。
 私は助けを求め、二人を見上げた。佐祐理は笑顔で、俊平は仕方なさそうに手を差し出す。
 私は嬉しくて石になった瞳からポロポロと涙をこぼしながら手を伸ばし――――

 固まった。

 差し出された二本の腕。動く私の手は一つ。私はいったい、どちらの手をとればいいのか。
 どうでもいいはずの選択を、私は何故かとてつもなく重要なもののように感じてしまう。
 佐祐理の手か、俊平の手か。
 私の選択は、きっとなにか大切なものを破滅させる。

「わ、私」
「どうしたの、舞?」
「どうした、早くしろ」

 不思議そうに、二人は私に促してくる。だけど、私は選べない。選べない。
 口をぱくぱくと動かして、私は嫌だ嫌だと首を振る。困ったように佐祐理と俊平は顔を見合わせた。

「じゃあ仕方ないですね」
「お前がそれを選ぶなら仕方がない」

 そういって、二人は――

 私に向かって差し出した手を、互いに繋いだ。
 石になった私の心が、ピシリと音を立ててひび割れた。

「さようなら」
「ではな」

 沈痛にそういい残し、二人は繋いだ手を絡め、腕を組み、身体を寄せ合い私に背を向ける。
 ボロボロと端から破片になって壊れていく私を残して、佐祐理と俊平は立ち去っていく。遠ざかっていく。消えていく。
 私を置いて。


 ああ、もう。まったく、本当になんて陳腐な夢だ。


「バカ、みたい」

 もらした言葉は、長く湖底に沈んでいた死体のように腐っていた。
 川澄舞は涙も浮かんでいない眼を袖で擦り、肺に溜まった息を吐く。触感が戻り、澱んだ濃い空気が肺へと流れ込んできて、舞は意識を覚醒させた。眠って、いたのか。
 夢、夢だ。あれは夢だ。しかも、詰まらない夢。この胸に抱いている不安と懊悩を形にするならば、もう少し独創性が欲しいと思う。ありきたりにもほどがある。夢さえも貧相だなんて、まるで自分そのものが陳腐で成り立っているかのようではないか。

「私はもう、孤独なんかじゃない」

 言い聞かせるように口にしたそれは、下手な役者の棒読みのせりふのように白々しく聞こえた。
 腕を投げ出し、大の字になって薄暗い岩の天井を見上げる。此処は、どこだろう。首を起こすのも億劫で、舞は視線だけを左右に揺らした。飛び込んできたのは、折り曲げた右膝に腕を乗せ、その二の腕に口許を埋めて何処とは無い虚空を見据えている劉偉狼の横顔だった。
 まだ、夢うつつだったのだろう。舞は自分が寝ていた理由にも、この男が傍にいた理由にも疑問を抱かず、ただ、いつか感じた想いをよぎらせた。
 その青年の、笑みとも途方に暮れてるとも取れる曖昧な表情は、大切な何かが欠け落ちてしまったかのようで。似ているのだ。あの夜の学校で、廊下の窓硝子にぼんやりと映っていたとある少女の横顔に。

「なにを……探してるの?」

 驚いたように彼は顔を上げ、此方を見た。

「一緒に、探してあげようか?」
「君は…………」

 一瞬、感情が欠落した奈落のような目で、舞の差し出した手を見つめた偉狼は、噛み締めるように口許に微笑を湛え、首を横に振った。

「ありがと、でも遠慮するさネ。君にはオレの探し物は見つけられないヨ」
「そんなことは、ないと思う」
「自意識過剰で言ってるわけじゃないんだヨ、舞」

 偉狼はそう言ってまだ何か言いたげな舞を制し、クスリと笑ってそれにと言い添える。

「オレの手伝いをする前に、まず君には探すものがあるんじゃないのかィ」
「……わ、たし?」
「おやおや、まだ寝ぼけてるのかィ?」

 横たわったままパチクリと目を瞬いた舞は、次の瞬間身体に掛けられていた毛布を跳ね飛ばして飛び起きた。

「佐祐理っ! 俊平っ!」
「はい、正解」

 パチパチと道化師が拍手する。動転しかけた意識が、その音で正気に引き戻された。叫びだそうとした喉を押し殺し、舞は自分が居る場所を見渡した。四方を発光する岩に囲まれた、高級ホテルの一室程度の空間。自分が寝かされていたのは隅にある岩棚の上だったらしい。

「私は……」

 いったい自分がどうしてこんな場所に一人でいるのかを思い出そうと、舞は額に掌を押し付けた。
 佐祐理と俊平、そしてリーエとリュカを伴って、廃棄された古城の除霊に訪れて、それで城の中はわけのわからない空間に繋がっていて……。そうだ、私たちは偉狼の作り出した黒い泉の中に引きずり込まれて、意識を失ってしまったんだ。

「図太いというか寝つきがいいというか。良く寝てたよン」

 もう次の日の朝さね、と舞に腕時計を見ろと自分の手首を指で叩いてみせ、偉狼はカラカラと笑った。

「佐祐理たちはどこ!?」
「そうだねェ。多分、まだ18階あたりだと思うよん」
「18階?」

 戸惑い、鸚鵡返しに問い返す。ちょっと待って、と先走ろうとする自分の思考を舞は押し留めた。
 肝心なことを思い出す。今、自分がいる此処はどこだ?

「ウェイラン、ここは――」
「昨日言ったじゃないのサ。道化師の不思議なダンジョンだヨ。700階層を越える深度を誇り、古今東西の魔術師が廃棄していった魔法生物や魔獣が五万と蔓延る現代のクノッソス迷宮さネ。絶賛一般公開中だよん、入り口は一ヶ月単位で世界各地に転移させてるから入ってくる人は稀だけどねん」

 得意げに語るウェイランを制し、舞は唸った。

「そんなことはどうでもいい」
「あらま」
「危険な場所なの?」

 道化師は答えず、実に楽しそうに口端を吊り上げた。舞は重ねて問う。

「佐祐理は、リーエたちと一緒なの?」
「いいや。これも言ったよねぃ、あの人形のお嬢さんとリュクセンティナはだいぶ下のほうに放り込んだってサ。リーフェンシュタール嬢は60階あたり。リュクセンティナは500階あたりだヨ」
「じゃあ佐祐理と俊平は」
「そう、二人きりだ」

 なんてことだ。なんてことだ。
 鈍痛が頭の奥で蠢いた。
 奥歯が軋む。舞は噴出しかけた感情の津波を噛み殺し、枕元に畳まれていた上着と剣を引っ掴むと出口と思しき方へと早足で歩き出す。

「おやおや、そんなに慌てちゃって、どこに行くんだィ?」
「佐祐理たちの所に決まってる」
「どうして?」

 どうして、って。
 あまりといえばあまりの問いかけに、舞は思わず足を止め、笑いを噛み殺しているかのような偉狼を振り返った。そんなバカな質問にかかずらっている場合ではないというのに、何故か彼の言葉を無視できない。

「そんなの、佐祐理たちが心配だから……なに?」

 偉狼が気の利いた冗句を聞いたように肩を揺らしたのを見て、舞はムッと眉間にしわを寄せた。なにが可笑しい。何も変な事は言っていない。怪物がうようよしているといったのはウェイランじゃないか。そんな危険な場所に佐祐理と俊平が二人きりで放り出されているのだ。たった二人で、二人きりで。心配に決まっているじゃないか。すぐに駆けつけないとと思うのは間違いか? なにも間違っては居ない。どこにも不思議な点はない。なにが可笑しい。なにか笑えるのか?
 血を吐くように憎悪に塗れた感情が溢れ出してくる。止め処なく溢れ出してくる。
 舞は目尻が戦慄くのを自覚した。おかしい、のかもしれない、とふと頭の片隅が囁く。これは……さすがにちょっと、変だ。感情が、制御できない。気持ちがささくれ立っている。苛立ちが収まらない。いやそんな事はない。なにも変じゃない。当然じゃないか。こんな事態に巻き込んでくれたこの男に対して、怒りを感じるのは。こんな場所で佐祐理たちと離れ離れになってしまった状況に苛立ちを感じるのは。
 当然なのに。
 道化師は正しく怒り、正しく苛立っているはずの川澄舞に、まるで入念に押し隠していた秘め事を暴いて突きつけるかのように口許を隠して問い掛けてきたのだ。

「ねぇ、舞。君が心配しているのは、いったい何に対してなんだィ?」
「………え?」
「こんな危険な場所に、彼と彼女が二人きり。ああ、心配だ、心配だ。いや、まったくそのとおり」

 だけど、と詠うように道化師は口ずさむ。

「舞は彼らの身が危険だから心配しているのかィ? それとも――」

 舞は、全身が総毛立つ。表情の乏しいその美貌が蒼白へと塗り替えられていく少女を下から覗きこむように、劉偉狼は舞に笑いかけ、容赦なくそのナイフを突き立てた。

「彼と彼女が二人きりである事そのものを、心配しているのかィ?」
「――――ッ!!」

 視界が殴打されたかのようにブレる。焼け付くような痛みが胸の奥で火を灯した。
 違う、と唇が動く。喉は、意志に答えず空気を震わそうとはしなかった。意識だけがキョトンと固まってしまった自分の肉体を見下ろしていた。無意識の領域が狼狽をきたしていた。まるで隠し事を言い当てられたように、図星を突かれたように、身体は喉を詰まらせ発汗を催している。
 待って。それじゃあ。という事は、私は心の奥底で、本当にそんな下卑びた事に拘泥していたということ?
 この尋常ではない焦燥と苛立ちの原因が、そんな理由だというの?

「そんな……」

 否定しようとして、自己否定を良しとしない己が心がそれを拒絶した。例え、その量がただの一抹だったとしても、比例にして百分の一だったとしても。自分の心には確かにそうした気持ちがあったのだと、頭にくるほど潔い川澄舞の矜持が私にその事実を突きつける。
 動揺に泳いだ視線が劉偉狼の微笑を捉える。
 君にとっての悪魔。
 かつて、彼が自分に向かって言った言葉が脳裏を過ぎった。

「悪魔って」

 そういう意味、だったというの?
 悪魔が暴くのは、その人の心の闇。悪魔の囁きはその人の秘めたる欲望。
 劉偉狼は私の負を曝け出す悪魔だと、そう言うつもりだというのか。

「まさか、これは……」

 唐突に舞は悟った。自分達を此処に引き摺り込むときに、ウェイランが口にした私たちが本当の危険を経験していない云々は建前だ。もしそれが本音なら、私と佐祐理たちを離れ離れにするのは可笑しい。私と佐祐理と俊平は、三人でチームを作っている。その三人を分けてしまって実戦も何もない。
 この男の本当の目論みは――――私と、佐祐理と俊平を分け隔てる事そのもの。そして促がすつもりなのだ。私たちの関係の変化を。

「そうなれば、私は……」
「おや、聡明なことさね。もう気付いたんだ。察しが良いうえに早い。それに、君は自分を偽らないんだねェ。君の親友なら気付いても気付かなかった事にしてしまいそうなものだけど。都合が悪いからねィ」

 紛れもない感嘆をまぶして、ウェイランは首肯した。目聡く自分の漏らした言葉の断片から瞳に浮かんだ理解の色を見抜いたのだろう。

「これはきっかけだヨ、舞。ここはぬるま湯だけれど、それでも本当の意味で君達が初めて経験する実戦の場さネ。それも何の心構えもなく放り込まれた窮地さネ。受ける精神的ストレスは尋常じゃない。心は際限なく正直になり、同時に嘘吐きになる。腹が据わるか、それとも弱気になるか。いずれにしても、普通を装うのは難しい。普段のままではいられないだろうネ」
「…………」

 不思議と、ウェイランに対して憎悪を覚えなかった。憎めば負けだと自覚していたのかもしれない。自分の見たくないものを目の前に突きつけ、自分が逃げ腰になっていた現実に向けて、有無を言わせず背を突き飛ばすこの男を憎んでしまえば、それは気持ちが楽だろう。抑えがたい感情の擾乱の捌け口になり、今自分を蝕み始めている、このジクジクと膿むような痛みから逃れられる。
 でもそれは、自分の弱さを認められない事。堕落への第一歩。恐らく、それこそが彼が再三再四口にする川澄舞に望む事。
 でも川澄舞は多分、そんな自分がとてつもなく嫌で。それ以上に、彼のおかしな望みを叶えてやるなんて事が気に食わなくて仕方ないのだ。

「ウェイラン」
「なにかな、舞」

 憎悪は覚えなかった。だが、だからと言って今までのように好感めいたものを抱いていられるほど、川澄舞は無神経ではいられない。
 恨みがましい目つきで、吐き捨てる。

「お前、嫌いだ」
「くっくくく、そりゃどうも。まっ、今はそれで満足しておくヨ。で、やっぱり探しに行くのかィ?」

 君の大切なものを。
 言外に嘲るような響きを感じ、舞はまとわりつく蜘蛛の巣を振り払うように言った。

「……行く」
「お邪魔虫になるんじゃないの?」

 心に釘が突き刺さる。
 二人が危ないのは変わらない。だから急いで合流しないと。そう言おうとして、舞は口を噤んだ。
 今、答えるべきはそんなおためごかしの言葉じゃない。私にしか言えない、私のための私の言葉を、私はここで、私に向かって言わないと。
 そう己に向かって牙を剥き、舞は愉快そうにしているウェイランに決然と呟いた。

「私は二人と合流する。二人だけじゃ危ないから。二人を守りたいから。二人だけで居させたくないから。邪魔をしたいから。逃げたくないから。諦めたくないから。だから、二人を探す!」

 本音だ。全部嘘偽りないほんとの気持ち。
 佐祐理が、俊平を好きなのを知っている。俊平が、佐祐理を好きなのを知っている。でも、だからといって譲れない。なにもせずに諦めるなんてしたくない。たとえそれが、親友との対立を意味しているのだとしても。自分にそもそも勝ち目がないのだとしても。
 自分に嘘をつくのは、己の心を引き裂いてしまったあの一度で、もうたくさんなんだ。

「……行く。邪魔しないで」

 それ以上言葉を必要とせず、舞は剣を握り直すと、打ち付けるような荒い足取りで岩室の出口へと歩き出した。

「邪魔なんてしないヨ」

 残念とも満足ともつかない曖昧な顔をして、道化師は舞の背を追い、目を細めた。

「これからが楽しいのに、そんな詰まらない事、するわけないじゃなィのサ」









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