「へっぶっ」

 クシャミと一緒に歯磨き粉が飛んで行く。とりとめもなく、新幹線級の速度でくしゃみは発射されるという話を祐一は思い出した。はて、その新幹線とはこだまのことなのか、それともひかりか、もしくはのぞみ? いったいどれのことなんだろう。最近は東海道以外にも新幹線があって名前が良く分からない。そういえば、俺が生まれた頃からもうすぐ開通とか言っていたリニアモーターカーはいつになったら開通するんだ?
 歯ブラシをじっと見つめながら思考が果てしなく遠くまで旅立っている相沢祐一。
 山の中のキャンプ場の朝は、8月にも関わらずTシャツ一枚では薄ら寒さを感じるほどだった。幸いにしてくしゃみが連発する気配もなく、祐一は疑問を抱いたまま歯ブラシを咥え直してシャコシャコと歯磨きを再開した。

「おはようございますー。風邪ですかー?」

 朝っぱらから暢気そうな挨拶に、祐一は歯ブラシを咥えたまま顔をあげた。広いおでこが特徴的な、背丈の高い女が首にタオルを引っ掛けてテクテクと歩いてくる。谷本涼子だ。
 ジャージのズボンに白いTシャツ姿の涼子に祐一は「ふがふが」と挨拶を返す。

「なに言ってるかわかんないです」

 歯磨きしてるんだから仕方なかろう。
 言いたい事は伝わったらしく、涼子はそれ以上何も言わずに祐一の隣に陣取り、コンクリート造りの洗い場の蛇口を捻った。
 彼女が顔を洗っている間に口を濯ぎ、歯ブラシセットを片付ける。やることのなくなった祐一は、ジャブジャブとおっとりとした女性と言う印象の割りには豪快に顔を洗っている涼子を、終わるのを待ちがてら何とはなしに観察した。男らしく、自然と胸に視線を向ける。祐一は顎に手を当ててフムフムと首肯した。
 デカイなぁ。舞並みにあるんじゃないか?
 背丈がある方なので何とも言い難いが、白いTシャツを押し上げている膨らみは見慣れた名雪のそれに匹敵するか、あるいは上回っているように窺えた。

「……なーにを、みてるんですか、相沢くん」
「やあ、おはよう谷本くん」

 祐一は爽やかに挨拶を決めた。磨きたての歯をキランと光らせる。
 にこりと微笑み、涼子は冷ややかに告げた。

「おぞましいのでそういうのは、やめてくださいねー」
「ぐはっ、そこまで言うか」
「鳥肌がたちました。ぞわぞわー」
「むぅ、自信あったんだがな。歯が命。これ、惚れたりしない?」

 指をピストル型にして顎に手を当て、歯を見せて笑うポーズを取っている祐一に、涼子は平坦な笑みを浮かべた。

「朝から気色悪いので勘弁してください」
「ぐはっ、気色悪いとまで言いますか」
「少なくとも直前にすけべそーな顔して人のおっぱい見てたりしなければ、格好いいですよーとお愛想の拍手くらいはしてあげたかもしれませんねー」

 ニヤリと返され、痛いところを突かれた祐一は「あちゃっ」と首を竦めて降参した。

「うむ、そりゃごもっともな話で。ごめんなさい」
「まあ男の人が此処に目が行くのは仕方が無い面もあろうかと思うので、許して差し上げます。でも、あんまり他の女の人に目をやってると、名雪さん怒りますよ?」
「あいつが一緒にいる時に目移りするほど女にだらしなくはないよ。小心者なんだな、これでも」

 苦笑混じりに返されて、涼子はそうですか、と心なしか羨ましそうに微笑んだ。

「ところでー、北川くんはいずこですかねぇ?」

 タオルを首に掛け直し、彼女はキョロキョロと水場の周囲を見渡した。

「見当たらないんですけど」
「なんだ、なにか北川に用事があるのか?」
「用事は特にないのですが、朝の挨拶をと思いまして」
「おはようなんざ、わざわざ探して言うもんでもなかろうに。朝飯の時に嫌でも顔合わせるんだから」
「はぁ、まあそうなんですが」

 曖昧に笑って言葉を濁した涼子に、祐一は怪訝そうに目を眇めた。

「まあどうしてもしたいってんなら止めはしないけどな。あー、北川だったらそっちの小道の奥に小川あっただろ。あそこで果物とジュース冷やしてあったらしくて、それ取りに行ってるぞ」
「独りでですか?」
「手伝おうかって言ったんだけどな。要らんとさ」
「そうですか」

 涼子は垂れ下がるタオルを弄りながら、迷ったように口を噤む。それを見て、祐一は「ふーん」と鼻を鳴らした。どうしようかと迷うものの、まあいかと素っ気無い調子で言い添える。

「別に手伝いに行っても嫌な顔はしないと思うぞ」
「え? やー、べつにそんなつもりは、あははは」
「そう? それならそれでいいんだが」
「あ、ああ、ええっと」

 曖昧に笑う涼子の反応に、あっさりと祐一は引き下がった。元よりちょっとした親切心以上の感情はない。その素っ気無い対応が、逆に涼子の躊躇いを刺激したようだった。目を泳がせていた彼女は照れたようにはにかみ、

「じゃあそのー、今は暇ですし、散歩がてらちょっとだけ見に行ってみます」
「ふーん、そう」

 相槌を打つだけ打って、ヒラヒラと手を振ってその場を離れようとした祐一に、反対方向に足早に歩き出していた涼子が「ああ、そうでした」と立ち止まり、声を投げかけた。

「相沢くん、名雪さんを起こしておいてくれませんか。彼女、全然起きる気配がなくって」
「あー、名雪か。あれを忘れてた。ん、了解。起こしとくよ」
「お願いしますねー、では」

 鼻歌でも歌いだしそうな足取りで去っていく涼子の背に一瞥投げかけ、祐一は元来た道へと戻り出した。女性陣のテントが設営してあるのはキャンプ場でも男連中のテントがある場所より奥の山側だ。祐一は歯磨きセットを自分のテントに放り込むと、そのままの足で女性陣のテントへと向かった。

「おはようございます」

 濃緑のテントの前で柔軟運動をしている派手な頭の女性を見つけ、声を掛ける。氷屋千歳は身体を動かすのを止めないまま首だけ祐一に向け、「よう」とぞんざいに挨拶を返してきた。その鼻先にはいつもの黒い太縁眼鏡は乗っていない。眼鏡を掛けていない彼女を初めて見た祐一は、彼女があの野暮ったい眼鏡を手放さない理由がなんとなくわかった気がした。

「なんだ、人の顔をジロジロと」
「ああ、いや。すんません」

 素顔の彼女は綺麗というよりもむしろ刺々しい顔立ちで、苛立ちを堪えているような雰囲気を湛えていた。3ヶ月強の付き合いで彼女の人となりを知っている祐一ですら、何となく怯みを覚えてしまうほどだ。

「千歳さん、いつも掛けてる眼鏡って伊達ですか?」
「あ? ああ、あれか。度は入っていないから伊達眼鏡と呼ぶんだろうな。弟に貰ったものなんだが、曰く姉貴でもまともに人付き合いが出来るようになる魔法の眼鏡なんだそうだ。当初は馬鹿にするなと本気で怒ったんだが」

 体操をやめてふうと大きく息を吐いた千歳は、傍の岩棚に置いてあった眼鏡を手にとり、鼻に乗っける。それだけで、刺々しい雰囲気は随分と和み、無差別攻撃的な空気が霧散してしまった。
 とっつきの悪そうな感触はまだ残っているものの、人を寄せ付けない雰囲気は拭われている。
 眼鏡一つで印象が変わるものだと祐一は感心した。

「いや、それ似合ってますよ。今、実感しました」
「今まではそうは思っていなかったわけか。まあ確かに、ファッション的にはどうかと思うのだけどね。折角弟が見繕ってくれたものだしな」

 それは本音のようだが、同時に素直に気に入ってもいるらしい。そんな気配を声音に滲ませてコメントすると、千歳は黄色いテントを指差した。

「今、琴夜が水瀬を起こそうと奮闘している最中だ。起こしに来たのなら急いだ方がいいんじゃないか? そろそろぶち切れ出すぞ、あいつ」
「げげっ、そりゃ拙い。とばっちりがこっちまで来る」

 半ば本気であせった顔になる祐一。
 琴夜が癇癪を起こした際の八つ当たり対象に選ばれるのは大概祐一なのだ。女性陣だけでなく、気にしがちな繊細を持っていたり、まともに受け止めてしまう生真面目なタイプの男には当り散らさないのを見るに、相手は選んでいるらしい。それはそれで好感を持てなくないが、吸収材扱いされる祐一とすれば幾ら堪えない性格とはいえなるべくならば勘弁して欲しいのは他人と変わらない。
 忠告をくれた千歳に礼をいい、祐一は名雪がいる黄色いテントに頭を突っ込んだ。
 そのままの体勢でしばしマジマジと中の様子を眺めてしまう。
 丁度、琴夜が寝ぼけた名雪に押し倒されて泣きそうになっているところだった。

「……すまん、邪魔した」
「あ、こら、何事もなかったかのように出て行こうとしないでくださいましっ。助けてぇーっ!」
「うにゅー」
「いや、取り込み中みたいだし、出直します。ごゆっくりどうぞ〜」
「てめえこれの恋人だろうが、なんとかしてちょうだいーっ!」
「そう言われてもなあ。ああ、これが図らずも恋人の浮気現場に踏み込んでしまった気分というヤツか」
「恐らく全く違いますわ、その気分とやらはっ。いいから、ごちゃごちゃ言ってないで引き剥がして、うひゃあ」

 首筋から鎖骨にかけてをベロンと舐められ、琴夜は引っくり返った声で悲鳴をあげた。
 もうちょっと見ていたい気分だったが、これ以上放っておくと会長に消えない心の傷が刻まれそうだったので、祐一は仕方なく琴夜に覆い被さっている名雪を後ろから羽交い絞めにし、引っぺがした。

「お、覚えてらっしゃい。うわぁぁぁぁん」

 自由になった途端、多重竜巻型ヘアーの女は泣きながら一目散にテントから飛び出して行ってしまった。

「なぜに憎めない小悪党風の捨て台詞なんだ?」

 将来は悪の組織の女幹部にでもなりたい人なのだろうか、あの人は。
 まあ飛び出していった会長のことは正直別にどうでもいいので、さてこいつを起こさないと、と祐一は改めて寝呆けている恋人の様子を見直した。寝姿を見て、呆れる。
 ……こいつ、よく見たらキャンプでもパジャマ着込んでるのかよ。
 普通は女性でもこういう場では、起きてすぐ動けるジャージやスパッツにトレーナーやTシャツで眠るものだと思っていたが、名雪は毎日家で見るのと同じ猫の足跡模様のパジャマ姿だ。
 枕が変わると眠れないならぬ、パジャマが変わると眠れないタイプなのだろうか。聞いたこともないが。

「おおい、名雪、いい加減起きろー」
「う、うー、にゅー、祐一の頭にヒマワリが咲いちゃった〜」

 祐一の呼びかけに応え、名雪は苦悶に満ちた表情で掻き毟るように腕を動かしながら寝言を漏らした。

「咲いとらん咲いとらん」
「違うよ、ゆういちー。ポップコーンはヒマワリの種じゃなくてとうもろこしなんだから、生やすならとうもろこしなのに〜」
「いったいなんの夢を見とるんだ、お前は」
「ああ、まこと、違うからってヒマワリ引っこ抜いちゃだめー。祐一の脳が、脳が〜」

 どうやら名雪の夢の中では自分は大変なことになっているらしい。他人の夢の中の自分とは言え、このまま見過ごしては忍びない。仕方なく祐一は強硬手段その七を取る事にした。
 羽交い絞めにしたまま名雪をうつ伏せに寝かせ、背中に座り込み、そのまま彼女の顎に両手を回して引っこ抜くように後ろに逸らす!

「にゅぐへ〜〜」

 奇怪な鳴き声とともに名雪は激しく地面をタップした。

「目ぇ覚ましたかぁ?」
「ざめたがら、ざめてるがら」

 それが寝言かちゃんと目を覚ましての言葉かを見極めてから、祐一は名雪を解放した。べちゃりと睡眠とは別の意味で倒れこみ、名雪はケホケホと苦しそうに咳を繰り返した。

「ううっ、朝起きるのが命がけって間違ってるよ〜」
「お前が変な夢を見てるのが悪いんだ」
「なに? またわたしなんか言ってた?」

 覚えてないのか喉を摩りながら疑問符を目に浮かべる。

「俺の脳みそを引きずり出してどうのこうのと言ってたぞ」
「……悪趣味だよ、それ」
「実は猟奇趣味とかないだろうな、お前」
「あるわけないでしょ」

 軽蔑混じりに言い捨て、名雪は眠気を払うように頭を振りながら深々と溜息をついた。

「人の趣味を詮索する前に、自分の恋人に対する扱いを考えて欲しいよ。もうちょっと優しい起こし方できないのかなあ。わたしが持たないよ」
「優しい起こし方っつってもな。テントの外に人がいるのにそういうのは出来んだろう、恥ずかしい」

 想像して照れたのか、むくれたように顔を背ける恋人の情けない様子を見て機嫌を直したのか、名雪はクスクスと肩を揺らした。

「わたしはちょっとぐらいなら見られてもいいんだけどなあ。祐一くんはシャイですねえ」
「シャイじゃねえ。単にまともなの」

 負け惜しみに聞こえてしまうのが情けない。本気でむくれた気分になってきた祐一はそのままさっさとテントを出ようと膝を立てて立ち上がりかけた。

「あっ、祐一もう行っちゃうの? 着替え手伝ってよー」
「あのなあ、外に人がいるって言っとろうが」
「……ドキドキしない?」
「……ばかたれ」

 ちょっとドキドキしました。フラフラと座りなおしてしまいそうになるのを堪え、ニヤニヤ笑っている名雪の額にピシャリと平手を食らわす。

「もう……、卒業式の時は大胆だったのに」
「あれは人がいないと思ってたからだ」
「なんだ、そうだったの。やれやれ、お姉さんはがっかりですよ」
「お前なあ」
「じゃあキスだけ。これは拒否権なしだよ」
「……ん、うーん」

 目を閉じて頤を逸らす名雪に、祐一は躊躇いながらもサッとテントの入り口を確認し、名雪の唇に自分のそれを口付けた。

「さっさと着替えろよ。外で待ってるから」

 名雪はペロリと唇を舐めながら、

「うん、了解。急ぐね。あっ、遅いと思ったら覗いて確認してもいいよ」
「んなわざとらしい真似はせん!」

 からかわれている事を自覚しながら、上手く切り返せないまま祐一は足を踏み鳴らしながら名雪のテントから出て行った。

「覗いていいって言ってるのに」

 苦笑をこぼしながら名雪はパジャマのボタンに手を掛けた。いつもだと此方が嫌がっても覗いて来そうなものだが、祐一はあれで意外と人の目を気にする所があった。周りはいちゃついてるのを見せつけてると思っているようだが、あれはどちらかというとおふざけに近い。本当の意味で祐一が甘えてくるのは二人きりの時だけだ。家族の前ですら自制している。真琴などはいつも見せつけるな鬱陶しいとブーブー文句を言っているが、祐一が自分やあゆに充分気を使っているのをあの娘はちゃんと分っているのだろうか。
 自宅でもそうなのだから、まだ付き合いの浅い面々が一緒の此処では、普段よりきっぱり線引きを敷いているようだ。その徹底具合を見るに、以前祐一が言っていた、自分は人付き合いが苦手だというのは冗談ではなく案外本当なのかもしれない。

「わたしとしては所構わずいちゃいちゃしたいのが本音なんだけどね」

 まあ照れてる祐一もからかわれてむくれている祐一も可愛いので、名雪としては不満を抱くほどではなかったが。
 起きぬけこそアレだったが、祐一とのやり取りで上機嫌になった名雪は、鼻歌混じりにさっさとパジャマを脱ぎ捨てて、ショーツだけの半裸になった。ブラは相変わらず寝ているときはしていない。名雪は、ブラを取り出そうとリュックの前に屈みこんだ。その時だ、視界の端を黒い影がスッと横切る。

「ん?」

 咄嗟に影を目で追ってしまう。無視するのも気持ち悪く、リュックの後ろへと隠れてしまった影の正体を見ようと身を乗り出した名雪は、金縛りにあったように硬直した。
 影がむくりと頭をもたげる。
 少女の腕ほどもある巨大なムカデが、うねうねかさかさと地球外生命体的怪異な動きで蠢いていた。

「きっ、きゃあああああああ!」

 握っていたブラを放り投げ、悲鳴を迸らせながら名雪はテントから逃げ出した。

「どうしたっ、なゆ……のわぁ!」

 紛うことなき本気の悲鳴を前にしては、覗かないと自分に誓ったのもスパンと忘れてしまうもの。慌ててテントに飛び込もうとした祐一だったが、それより早く名雪が踊りだしてきて、祐一の胸に激突した。危うく押し倒されそうになるのをなんとか堪え、必死にしがみついてくる名雪になにがあったのか訊ねようとした祐一は、彼女が殆ど裸同然なのに気付いて泡を喰った。

「おま、服着ろっ、服ぅー!」
「ダメダメダメ、入れない、中はダメー!」
「どうしたどうした」

 騒ぎを聞きつけた氷屋千歳や御子柴浅香が駆け寄ってくる。

「むか、ムカデが、でっかいムカ…………」

 祐一の胸にしがみついたままブンブンと腕を振ってテントを指し示そうとした名雪だったが、自分の指した方に顔を向けた途端、言葉を失い絶句した。愕然としている名雪に気づかなかった千歳たちはテントを覗き込んで「なんかいるか?」「うーん、いないのです」と口々に言い合っている。
 ただ独り、名雪を抱きしめていた祐一だけが彼女の不穏な仕草に気づいていた。

「どうした、名雪」
「なに、あれ?」

 名雪が凝視している方角がテントではなく、テントの向こう側、木々の奥に垣間見える一つ向こうの山であるのに気付いた祐一は、名雪の見ている方に目を向ける。一瞬、なにかが目に入った。なんだ、と目を凝らす。小規模の土砂崩れかと思うような幾筋もの黒っぽい流れが山肌を走ったような気がしたものの、目を瞬いた途端にそれらしきものは綺麗サッパリ消えてしまっていた。目を凝らしても、鬱蒼とした緑が山肌にはびこっているだけで特におかしいものは窺えない。山の中腹辺りに白い建物らしきものが見えているが、それも特別変ということもなく。

「……なんだ、今の?」
「祐一、見えたの?」
「見えたっつーか、なんか黒っぽいのが見えたような気のせいのような……」

 それを聞いた名雪は当惑したような顔になり俯いてしまった。

「なにか、見えたのか?」

 名雪の反応を見て取った祐一は、千歳たちに聞こえないよう声を潜めて囁きかけた。何度か遭遇した事件の為か、去年ぐらいから名雪が時折、普通の人が見ても気付かないものに気付いてしまう事があるようになってしまった事に思い至ったのだ。それでも、普段は「こんなの見えたよー」と珍しいものを見てしまったように言うだけだったために深刻視していなかったのだが。こうした過敏な反応は初めて見るだけに不安がつのる。
 名雪は曖昧に頷くと、頷いてから祐一の質問を理解したように早口に答えた。

「う、ん……あ、50センチくらいあるムカデが見えて。本物かと思ってびっくりしたんだけど、多分あれ妖怪さんの一種だと思う」
「ああ、そういうわけね」

 ホッとした。血相を変えて飛び出してきただけに、何事かと心配したのだが、別に危険な怪異に遭遇したわけでなく、単にムカデの姿に驚いただけだったのか。

「探したけどなにもいないぞ。水瀬はなにを見たって?」

 テント内を調べていた氷屋千歳が中から顔を出す。祐一は名雪を抱いたまま肩を竦めてみせた。

「でっかいムカデですって。まあ山の中ですからね。いないんならもう出ていっちゃったんじゃないですか?」
「ムカデか。虫は苦手なんだ、ゾッとする。見つからなくてよかった」

 ブルッと身体を震わせた千歳は、本気で嫌そうな顔をした。と、祐一の胸にしがみついたまま山の方を窺うように見つめていた名雪が、ぼそりと声を発した。

「あの、千歳先輩。向こうの山って何かあるんですか?」

 いきなり脈絡のない質問に戸惑った千歳だったが、名雪の指すほうを振り返り、何かを思い出したように「ああ」と声をあげた。

「あそこか。何かあるというと、中腹に建物が見えるだろう。あれぐらいのはずだぞ。確か、どっかの企業の研究施設だそうだ。製薬かなんかだったか。あの山全部が私有地らしくてな、去年も琴夜たちと此処にキャンプに来たんだが、琴夜が迷って入り込んでしまって随分と怒られていた」
「……そうですか」

 それだけ言うと、名雪は何か考え込むように口を噤んでしまった。何となく祐一も千歳も口を開く事を憚られてしまい、沈黙が流れる。そこに、千歳に続いてテントから這い出してきた浅香がキョトキョトと皆の顔を窺い、恐る恐る手を挙げた。

「あのっあのっ、名雪さん、裸のままなのですがいいのですか? もしかしてOKなのですか!?」
「……あ」

 今更のように自分がショーツ一枚しか見につけていない裸で屋外に飛び出し、祐一にしがみ付いているのを思い出し、名雪は顔を赤く染めた。

「ご、ごめんね、祐一」
「いや、まあ俺は構わないんだが」

 祐一は無意味に顔を空に向けて誤魔化している。

「当人同士がいいのなら野外プレイも構わんが、そのままだと風邪を引くぞ。早く服を来た方がいい」
「目の毒なのです」
「は、はい。お騒がせしましたー」

 ペコペコと謝り、胸を庇いながらテントの中に戻ろうとした名雪だったが、ふと思い直したように踵を返し、ぼーっと突っ立っている祐一の手を取る。

「またムカデが出たら怖いから、祐一も一緒に来て」
「なっ、ちょっと待て。そりゃ拙いというかなんというか」
「むー、男なんだからムカデなんか怖がらないでよ」
「いや、そういう事を言ってるんじゃなくて。千歳さん!」

 救いを求められた千歳はあっさりと言った。

「恋人同士、何を憚る? 琴夜がいればギャーギャー言うだろうが、幸い飛び出したままだ。まあ、ミーティングの時間になるまでには済ませるんだな」
「なにを済ませるんですか、なにを!」
「着替えだが、なにか他にあるのか?」

 しれっと言い放たれ、祐一は顔を強張らせた。

「こ、この女は」
「祐一、早く。ほんとに風邪引いちゃうよ」
「う、むぅ、わ、わかったから引っ張るな。言っておきますけど、な、なにもしませんからね」
「言い訳の多い人なのです」
「言い訳じゃねえ!」

 怒鳴り散らしながら祐一はテント内に引っ張り込まれた。

「言っておくが、居るだけだからな。なにもしないからな」
「しないの?」

 リュックが置いてある場所の裏側などを覗きながら、聞き返してくる名雪。祐一は憮然とがなりたてた。

「あいつら絶対外から聞き耳立ててるに決まってるだろ! そんな中でなにか出来るか!」
「あ、そう。んー、やっぱりもういないみたい」
「…………」

 どうやら名雪はムカデが怖いからという自身の発言以上の意図を本当に持っていなかったらしい。安堵の吐息をついている名雪に、祐一は自分の空回りを自覚し黙り込んだ。途端、それまで意識していなかった、見慣れているはずの名雪の乳房がたゆんたゆんと揺れているのが目に入り、露骨に動揺してしまう。

「……名雪さん、早く着替えてください。目の毒です」
「あっ、と。ごめんね、よくじょーしちゃった? ちょっと触る?」

 申し訳なさそうに首を傾げながら、乳房を下から持ち上げてみせる名雪。
 弾みでプリンのように揺れている双丘に祐一はふらふらーと手を伸ばしかけ、途中でハッと我に返り、ゴツンと名雪の頭を小突いた。

「触るかっ! さっさと服着ろ!」
「あいたっ、殴ったー。酷いよ、ただのちょっとした親切心だったのに」
「だから外から覗かれてるって言っただろうが。こらっ、外のヤツ、舌打ちするな!」
「もう……いけずー」

 ブーとブーイングしながら名雪は渋々着替えを再開した。チラリと横目で窺うと、祐一は腕組みに胡座を掻いて背中を向けてしまっている。そんなに意地を張らなくてもいいのにと思わないでもないが、それがまた祐一らしいといえばらしいわけで。

「なあ、名雪」
「なに?」
「さっき、何か見えたのか? ムカデじゃなくて……」

 外の気配はもうない。艶事はもう起こらないと見て千歳たちは自分達のテントに戻ったか、グラウンドの方に向かったのだろう。名雪はシャツを首に通しながらうーんと唸った。

「良く分かんないんだけど、向こうの山からね、精霊とか小さいおばけとかがわらわら逃げ出してるように見えたの。もしかしたらさっきこのテントに入ってきたムカデも、逃げ出してきたんじゃないのかなって思って。なにがあったか聞けたら良かったんだけど」

 でも虫のお化けって意思の疎通が出来ないんだよね、と思い出したように付け加える。

「あの黒い筋ってそうだったのか。でも、逃げ出すってのは尋常じゃないな。あの山になんかあるのか?」
「わかんないよ。もしかしたら逃げ出したとかじゃなくて、わたしたちが知らないだけで定期的な大移動イベントとかかもしれないし。ただ、わたしたちがいるここらへんは全然騒いでる風はなくて落ち着いてるみたいだし、あの山だけって感じなんだよね」

 しばらくの間、祐一は沈黙したまま考えに耽っているようだったが、やがて考えを纏めたのか口を開いた。

「とりあえず気をつけておくぐらいしかないだろうなあ。気をつけていざと言う時どうにかなるとも思えんが」
「一応、この付近が騒がしい感じがしたら言うよ。注意しておく」 「おう、頼む。しかし、変なもん見えるようになって大変だな、お前も」
「まあちょっとだけね。でも怖いものはそんなに見ないし、見ないでおこうって思ってたら見えないし。見えたり触れたりするものがちょっと増えただけで、そんな大変でもないよ」
「そういうもんか」

 祐一自身も偶にだが先ほどのようにそれらしきものが見える場合が現れており、名雪の言う事に納得しなくもない。実感できるほど見た経験もないので、それ以上は何も言えなかったが。
 曖昧に相槌を返した祐一は、そのまま何の気もなしに自分が彼女に背を向けていた理由をつい忘れて名雪の方へと振り返った。思わずブハッと吹き出してしまう。

「おま、なんちゅう格好をしとるんだ!」
「なにって着替えの途中だけど」

 飄々と答える名雪は、すでにトレーニングウェアのズボンも穿き終え、両手を後ろに回して髪を運動用のポニーテイルに結い出している。それだけなら何も文句はないのだが、何を考えているのかこの娘、首と袖を通した無地の白いTシャツを、胸に引っ掛けたままそのままにしていた。男なら首さえ通せばストンと落ちるシャツの裾も、名雪ほど前に張り出した胸を装備していると引っ掛かって落ちてこないものらしい。おまけにブラもまだしていないと来た。

「説明しよう。なんと水瀬さんはブラは最後につける主義だったのです、うにゅ」
「そ、そんな主義者だなんて聞いてないぞ」
「今日からだからね。今日だけかもしれないけど。あ、ごめん。もしかしてよくじょーした? 触りたいなら触ってもいいよ」

 祐一は額を抑えながらうめいた。

「名雪、もしかして誘ってる?」

 名雪は答えずに胸を露出したままテイルの結い具合を確かめるように首を振ると、腕に嵌めた時計に目をやり、集合時間まで10分だね、と呟いてニヤリと笑った。

「十分かぁ、ちょっと短すぎるねぇ」
「…………」

 祐一は唸りながら歯軋りすると、素早くテントの外に首だけ突き出し、辺りに誰もいないのを確かめる。そのままゆっくりと後退りして元の位置に戻ると、コホンと咳払いをしてみせた。

「じゃあ、ちょっと触るだけで……」
「うふふふ、祐一、チョロいよ」
「うるせっ」

 笑う名雪の頭のてっぺんに照れ隠しに拳骨をゴツンと落とし、祐一は名雪の背後に回りこんだ。
 そして背後から名雪の胸に手を宛がいながら、耳元に口を寄せ、不敵に囁いてみせる。

「パンツの換え、もちろん用意してるだろうな」
「うわっ、やる気だよこの人」
「おっまえが誘ったんだろうがっ。にゃろ、ひぃひぃ言わせてやる!」
「えへへー、でっきるかな、できるかな? あ、あと八分だよー」
「か、カウント付きなのかーっ!?」











  §   §   §   §   §














 ――同刻 野球同好会キャンプ地より北西4キロ
 ――赤名瀬山・土門製薬研究施設棟の50メートル下方山道脇

「何考えてるんだか。まったく」

 鬱蒼と生え聳える木々の合間を枝を踏み折り、月城漣(つきしろれん)はブツブツと益体もない愚痴を零しながら山道から外れた斜面を進んでいた。さながら良く整備された遊歩道を散歩するかのように歩いているように見えるが、そこは膝まである鬱蒼とした下草と乱雑に広葉樹が生え聳える20度近い急傾斜である事を思えば、彼が地味ながらも尋常でない体捌きをこなしているのが理解できるだろう。
 渓流のせせらぎにも似た涼やかにして端正な容姿に腰まで届く艶やかな黒髪も美しい、妖艶ともいえる美貌を誇る――男。ブルートパーズのピアスを両耳に嵌め、痩身を身体の線が浮き出るレザー製のパンツと大きく胸の開いた紫のシャツに包み、羽織ったレザージャケットには幾重にも銀製の鎖があしらわれている。首から下げられているのはアクアマリンをはめ込んだネックレス。同様に指に幾つも嵌められた指輪にもアクアマリンと思しき宝石が輝いていた。
 あまり趣味の良い派手さとはいえないファッションだが、不思議とこの男に掛かると調和の取れた不思議な気品と優美を見るものは感じてしまう。それ以上に、妖しい魅力に慄かされてしまうのだが。
 なんにせよ、人里離れた山奥を平然とこのような格好で闊歩するこの男を見て、彼がこの国でも最も殲滅的な魔術師の一人と数えられている人物と思うものは少ないだろう。


「あ、居た居た」

 邂逅地点に目的の人物を見つけ、漣は殆ど疾駆する速度にまで達していた歩みを緩めた。丸太のような腕を組み、大木が聳えるように佇んでいた偉丈夫は、早くから漣の気配に気付いていたのだろう、振り返りもせず「来たか、月城」とチェロに似た重厚感ある声音を響かせた。

「来たかじゃないわよ〜。いったい誰よ、物騒な殺気あからさまに撒き散らしたのは。山中の妖物が根こそぎ逃げ出しちゃったじゃないの」
「すまん、うちの紅葉だ」

 逆立った硬質の短髪を掻きあげながら、偉丈夫――黄旗頭・辰巳良弦は溜息混じりに謝った。漣はあからさまに舌打ちし、180センチ近くある自分よりさらに頭二つ分ほど上にある辰巳に向かってねめつけた。

「やっぱりあの娘か。ケモノ程度の知能しかないんだから、ちゃんとあんたが躾ておきなさいよね、良ちゃん」
「おいこらっ、だぁれがケモノ並みだとぉ? このオカマ野郎が舐めた口きいてんじゃねえよ」

 ドスの利いたがらの悪い罵声。ただしソプラノだ。辰巳のものでは当然無い。漣が頭上を見上げると、木の上から木の葉を撒き散らしながら黒い塊が落下してきた。クルクルとトンボを切って辰巳の肩に着地したそれは、凶暴そうな面構えをした13、4歳ぐらいの少女だった。肩で切りそろえられたおかっぱ頭、身に付けているのは真っ黒なセーラー服。それだけ見ると古式ゆかしい装いに見えなくもないが、履いている靴は最新モデルのバッシュなのが活発なイメージを醸し出している。
 突然現れた少女に、だが漣は驚いていなかった。近くにいると分かっていたからわざわざ聞こえるように言ったのだ。
 漣はオホホホと口許に手の甲を当てて、狂犬めいた少女の眼光を受け止めた。

「あらぁ、ごめんなさい。言い方間違えたわ、折紙紅葉。貴女、ケモノ並みじゃなくてケモノ以下だわ」
「んだと、こら!?」
「だってそうでしょうが。ケモノだって獲物を前に気配隠すくらいするでしょう。あれだけワラワラと小妖怪が逃げ出したら、上の連中に気付かれたかもしれないじゃない。そうしたら折角の奇襲が台無しだわよ」

 紅葉はキョトンと目を瞬くと、次の瞬間ゲラゲラと手で顔面を覆いながら爆笑した。

「ギャハハハハ、上等じゃねえか。奇襲なんてチンタラした真似最初から気に食わなかったんだよ。真正面から乗り込んでぶち殺そうぜ!」
「頭空っぽなの、あんた。それじゃあ一網打尽にできないじゃないの」

 笑みを引っ込め、少女は巨漢に肩で腰を屈めると、八重歯を剥きながら威嚇するように見上げてくる漣にガンをたれた。

「あほはてめえだ、オカマぁ。このオレが獲物をみすみす逃がすわけねえだろうが。全員残らず引き裂いて野犬の餌にしてやっからよお。びびって縮み上がる玉も持ってねえ玉無し野郎はガタガタ震えてすっこんでろ」
「あんたねえ、年頃の女の子が縮み上がるだの玉無しだの下品な言葉使うんじゃないの」
「うるせえ、てめえに説教されるいわれはねえ。ぶっ殺すぞ」

 ガルルル、と噛みつかんばかりに八重歯を剥いて唸る娘。漣はやれやれとこめかみに指を当てて嘆息した。

「処置無しだわ」
「話は、済んだ?」

 うなじを擽るように、その透き通るような声は紅葉と漣の険悪な空気を吹き攫った。
 さらに漣に向かって口汚い罵声を浴びせようとしていた紅葉は、声が聞こえた途端感電したように爪先から頭のてっぺんまで震え上がる。

「あはっ、紅葉、ちゃんだわ。紅葉ちゃ、ん、おひさしぶ――」

 名前を呼ばれた途端、少女はビクゥッと飛び上がり、声の主を振り返る間さえ惜しんで木の枝に跳ね上がって、姿を消してしまった。ぽかーんとそれを見送った声の主は、途方に暮れたように焦点の合わない目を瞬いた。

「あ……行っちゃ、った。はぁ、紅葉ちゃんにまた、逃げられ、た。どうして、私の相手は、して、くれないのかしら」
「貴女が怖いんでしょ、綾さん」

 苦笑をひらめかしながら、漣は現れた女性に説明してあげた。不思議そうに女は首を傾げ、やがて哀しげに「はぁ」と吐息をこぼす。
 漣の美貌を紫色の妖艶とするならば、女性のそれは純白の幻影だった。淡い桃色をあしらったノースリーブのワンピースに何故か靴を履かずに地面を踏みしめている白い素足。日本人にはない銀色の髪が陽光にキラキラと煌き、どこを見ているか分からない双眸と相まって、そのまま粒子となって消えてしまいそうな幻めいた印象を振りまいている。
 彼女もまた、八旗頭の一人。白蓮旗総頭を務める女流異能者――冴木綾だった。
 彼女を始め、他の総頭と逢うたびに疑いたくなるのだが、神祇のお偉方は、もしかしたら旗頭の人選をイメージカラーで選んでやしないか? 幾らなんでもそんなわけはなかろうが。

「怖い、かな? 怖い、人のつもりはない、んだけど。やっぱり、怖が、られているの、かしら。ああ、漣さんが、羨ま、しいわ。紅葉ちゃんに、あん、なに懐かれ、て」
「懐かれ……てるのかしらねえ、あれ」

 どちらかというと嫌われてるのかと思っていたが、意外と綾の見立てが合っているのかも知れない。

「本題に入ろう」

 話が一区切りするまで、一言も喋らず黙したまま微動だにしなかった辰巳良弦が二人を見下ろし、口を開いた。辰巳の惚れ惚れするようないい声に、もっとしゃべればいいのにと思いながら、蓮は頷いて同意を示す。

「状況は?」
「良い、報告が、一つ。さっきの紅葉ちゃ、んの悪ふざけ、幸い、上の人た、ちは、なにも気付かな、かったみたい」
「やれやれ。鈍いというかなんというか」
「でも、悪、い紅葉ちゃん、にはお仕置きは、して、おかないとね。うふ、ふふ」

 薄く微笑し抑揚なく笑い声を立てる綾の様子に、漣は冷や汗を掻きながら肘で辰巳の脇を突いた。

「良ちゃん、綾さんに捕まる前に紅葉ちゃん、先にあんたから叱っておきなさいよ」
「うむ、そうだな」

 二人のこそこそした会話に気付いた様子もなく、綾は笑い声を静めると、変わらぬ消え入りそうな口振りで先を続けた。

「それから、悪い、報告が、一つ。中、を索敵させた、ら、事前の情報よ、り人数が少な、かったの。霊気の動きを、過去に遡って探査してみ、たら。どうや、ら4日前、に此処を離、れた一団、が、あるの。今日に、至って、も戻っていないわ、ね。内部、でまた分裂があ、ったと考えてもい、いけれど、それよりも目的のも、のを確保に、向かったと思った方がい、いわね」
「どちらにしろ、一網打尽とはいかなくなったか」
「ふうん、今の今まで連中の動きを把握できてなかったなんて。完全に後手を踏んでるわね」

 面白くない。蓮はルージュをひいた唇を僅かに舌先で舐めた。
 槍家の一部門、しかも実働のみを職掌としている上に、さらに分裂までしている状況の山浦衆に、神祇や槍家に対して4日も先手を取れるだけの情報力(インテリジェンス・パワー)があったとは考えにくい。
 陰陽頭がああも強硬な態度に出た背景。恐らく物部のみが理由ではないのだろう。思ったよりもこれは裏で大きな動きがあるのかもしれない。

「人の、出入りも調べた、けど。四日前、に別れた、人員以外は、現在全員あの研究、施設にいる、みたい。私たちに、気付いて本拠を放棄、したのでは、なさ、そうよ」
「ふむ、じゃあ予定通りこのまま此処の制圧を敢行する事を提案するわ。出て行った連中の行く先の具体的な情報も抑えられるかもしれないし。どう、良ちゃん」

 紫・黄・白の三旗が集った中で、全旗に対する指揮権を与えられているのは彼、辰巳良弦だ。目許の涼やかな偉丈夫は、おもむろに頷いて漣の意見に同意を示すと、口を開いた。

「突入は黄旗と白旗で行う。月城は紫旗を率いて万が一結界が破られた際に敵を逃さないよう包囲を固めてくれ」
「あら、あたしたちに指を咥えて待ってろっていうの?」
「なら、代わるか?」
「うふふ、冗談よ。お預け喰らって歯噛みするほど血気盛んじゃないわ」

 軽く偉丈夫の胸板を叩いて微笑し、女のような男は艶やかな黒髪を払いつつ、綾に目配せを投げかけた。
 ミーティング終了のサインを受け取った冴木綾は小首を傾げ、

「隔離結界の、起動予定時刻は…………ええ、っと」
0820(マルハチフタマル)だ」

 詰まってしまった綾に、辰巳が助け舟を出す。巨漢を振り仰いでコクコクと頷き、

「時刻は、まるは、ちふたま、るだ、そうです……何時ですか、それ?」
「……八時二十分だ」
「ほお…………えっと。なのだ、そうで、す。結界の展開、と同時に攻撃を仕、掛けますので。それまでに、準備を整、えておいて、ください」
「はいはい、了解よ」
「で、は。私はこれで。ま、た、のちほど。ごきげ、んよう」

 不意につむじ風が舞い上がる。銀髪の女は空に向かって吹き上げた風に乗るようにして後ろにステップを踏むと、そのまま木漏れ日の隙間に溶け込むように姿を消した。

「じゃ、あたしも。ヘマしないようにね、良ちゃん」

 真面目に頷く巨漢に微笑を誘われながら、漣はその場を後にした。
 道すがら、さて紫旗のメンバーをどう配置するべきか、頭の中で事前の想定と現実のすり合わせを行いながら、部下が待機している場所に戻っていた途中、藪の向こうから良く知る気配が近づいてくるのを察知した。

「どうしたの、ふーちゃん」
「あ、居た。漣さん漣さん、微妙に大変ですよー」

 人の背丈ほどもある繁みを飛び越え、漣の前に直立着地を華麗に決めた二十歳前後の女が両手を振って捲くし立てる。亜麻色の長い髪を後ろで結わえ、正面から見るとカニみたいに見える形にし、両手足首に赤ん坊の拳ほどの大きさの鈴を幾つもつけたブレスレッドを装着した、道服めいた袂の豊かな白い服を着た女だ。不思議な事に、派手に両手を振り回していながら、手首につけた鈴は掠れた音の一つも奏でていない。

「微妙に大変って……大変なの、それ?」
「びみょーです。毎度おなじみ、綺咲ちゃんが行方不明」
「……またか」

 確かに微妙だ。けだるそうに前髪を掻き分け、漣は空っぽの財布を引っ繰り返して振ってみせるみたく手をヒラヒラさせ、

「直に戻ってくるでしょ。放っておきましょ。幸い、攻撃開始時間は予定より20分ほど遅くなったし」

 フラフラとすぐいなくなる子だが、予定している時間の前には必ず戻ってくる。たとえ、時間を告げていなくても必ず遅れず帰ってくるのだし、やきもきしても仕方ない。

「ああ、それとあたしたちは今回バックアップね。攻め方は黄色と白」
「あいやー、そですか。楽でよかったです。昼寝もできそですね」
「昼寝はさすがにしちゃだめよ、ふーちゃん」

 素直に喜ぶふーちゃんこと綿貫風花。彼女に限らず、紫旗の他の面々もおおむね同じような反応だろう。黄旗の折紙紅葉ほどとは言わないが、もうちょっとうちの連中にも血の気ってもんが欲しいと思う漣であった。











  §   §   §   §   §














 北川潤は困っていた。正確には困惑していた。原因は隣でレタスを剥いている女の子だ。
 谷本涼子というこの娘のことを、北川は良く知らない。祐一や名雪と会うために同好会に顔を出した際に、二言三言当り障りのない会話を交わしたぐらいだ。単純におしゃべりした量ならば、先輩である氷屋千歳の方が多かっただろう。接点らしきものは特になかったはずである。
 ところが、合宿が始まってからこっち、妙に頻繁に谷本涼子は話し掛けてくる。暇さえあればトコトコと近寄ってきて、喋りかけてくるのだ。
 ……どういうつもりなんだろう。
 これを機会に友達になろうというのなら、北川も大歓迎だった。北川も女友達は沢山居れば居るほど嬉しい類の安い男である。嫌なはずもない。そんなあまり褒められたものでもない下心を抜きにしても、丸みのあるおっとりさと縁側で日向ぼっこをするような陽気さ、そしてさらりと微量の毒が織り交ぜられた涼子との会話は、堅苦しさのない楽しいものだった。
 仲良くするのに、なんの差し障りもないはず。
 なのに、北川は胸に一抹の困惑がはっきりと自己を主張しているのを自覚させられていた。

「レタス終わりましたー」
「ああ、それじゃあ水切りして。あ、卵茹で終わってるか見てくれる?」
「はい、わかりました」

 北川の指示を聴いて手伝うのが本当に嬉しいのか、見るからに張り切っている様子は思わず北川も微笑を誘われるくらい微笑ましい。それなのに、どうしても彼女がはにかむ表情を、腕まくりする姿を、肩を寄せてものを訊ねてくる仕草を、心のそこから楽しいと思う端で――苦手だ――と、思う自分が居る。それが、とてつもなく不思議に思え、北川潤は困惑していた。

「……ねえねえ、北川くん」

 ゆで卵を剥き、ボールに入れてフォークで潰すという作業をしていた北川は、横から袖を引っ張られてマヨネーズを投入しようとする作業を中断した。

「どうしたの、涼子ちゃん」

 裾を引っ張っている当の彼女の顔は、北川を見ているのではなく二人が調理作業をしている木造テーブル越しの向こう側をじっと見つめていた。

「あれって……なんでしょうねー?」
「なにか居たの?」

 彼女が見ている方へとつられて視線を向けた北川は、何か居たのどころではないものが鎮座している事に気付いた。北川と涼子がいるのは右手に水道、左手に竈のある屋外の炊事場だ。その竈の並びの向こう側にある階段、そのまま進めばキャンプ場の駐車スペースに通じる小道に続いているそこに、一人の女の子が指を咥えてジーッと此方を見つめていた。10歳前後と思しき小さな子だ。年齢に加え、祭りの際に神輿を担ぐ人のような法被を着ているため性別は定かではないが、ピョコンと頭からツインテールが左右に飛び出しているのを見ると、女の子なのだろう。顔つきも可愛らしい。ヤブ睨みのような半眼なのが玉に瑕であったが。
 そんな女の子をあれ呼ばわりしてしまった涼子の気持ち、北川も分からないでもなかった。なにしろ、彼女が担いでいるものが異様だったからして。
 ジーッと此方を見つめている少女は、何故か晴天にも関わらず傘を差していた。
 明らかに130センチ前後の背丈である自分よりも全長面積ともに巨大であろう凄まじく大きい傘を――しかも真っ赤な番傘――、少女は平然と差していた。
 どう反応していいものか分からずに固まっている北川と涼子に対し、番傘少女は瞬きもさせずに半眼を二人にジーッを据え、頑ななまでに無言のまま――――

「くぅー」

 と、おなかを鳴らした。

「うわー、なんか喋らないまま物凄い自己主張してますよー!?」
「む、無視はできないな。視線が怖い」

 恐る恐る北川は少女に向かって話しかけた。

「え……と。君さ、腹減ってるのかい? サンドウィッチ作ってるんだけど、食べる?」

 少女は一拍ほど反応を示さず沈黙したが、ややもあっておもむろに小首を傾げながら口を開いた。

「朝ごはん抜きの綺咲は貴方のお誘いにグラリと心惹かれたの。ところが綺咲はレタスが食べられなかったの。苦悩する綺咲なの」

 視線を固定したまま、淡々としたコメントであった。

「……じゃ、じゃあレタス抜きは?」

 少女は目を丸くした。

「柔軟な発想に綺咲の悩みは一挙解決なの。貴方は天才なの。綺咲は手放しで褒めてあげるの」
「そ、そりゃどうも」
「でも綺咲はケチだから褒めても何もあげないの。我ながらいけずな子なの」
「いや、別になにも要らないし」

 少女は丸くした目を半眼に戻し、コクコクと頷きながらあくまで淡々とコメントした。

「殊勝な心掛けに再度感心する綺咲なの」

 口をポカンと開けていた涼子は、ハッと我に返るとグラグラと北川を揺さぶった。

「すごいですよ、なぞ少女ですよ、不思議少女ですよ。可愛いですよ。わたし、初めて生で見ました」
「お褒めに預かり光栄なの。でも、写真撮影はお断りしているの」

 微妙に得意げに見えるのは北川の錯覚だろうか。

「OK.ちょっと待っててな。今卵サンド作るから」

 少女はコクリと頷いて、クルクルと巨大な番傘を回転させた。分かりにくいが待ち遠しいらしい。
 興味津々といった風に傘を回している少女を観察していた涼子が、顰めた声を北川の耳元に口を寄せて囁いてくる。

「北川くん、何者でしょう、あの娘」
「さあ、近くの旅館の子かなんかじゃないか?」
「旅館?」
「だってあんな傘、ありそうなのって旅館とかしか思いつかん」
「ああ、そういえばー。旅館の庭なんかにああいうの偶に見ますねー」

 たとえ旅館にあるとして、あんな小さい子が持ち歩けるような重さの代物でない事実からは無意識に目を逸らす二人であった。
 とりあえず、黙っているのもなんなので、興が乗ったのか傘の回転がビュンビュンと高速と化している少女に話し掛けてみる。

「君、名前なんていうの?」
「綺咲の名前は秘密なの」
「キサキちゃんですかー、きれいな名前ですねー」

 傘の回転が止まり、少女は半眼を丸くした。

「――!? 秘密が既にバレバレなの!」
「いや、自分で言ってるし」
「それを言ったらおしまいなの。つっこみが早すぎるとボケるのにも一苦労な綺咲なの」

 やれやれといわんばかりに少女は丸くなった目を元の半眼に戻した。

 ……変な娘だ。
 ……変な子です。

 引き攣った笑顔を見合わせてしまう北川と涼子の二人であった。





「残念だったねえ、祐一♪」
「……なんだ、この切ない敗北感は」

 盛り上がりかけたところで時間切れとなり、名雪と祐一は仕度を整えてテントが設営されている敷地から、グラウンドに向かっていた。今朝は朝食をとる前にそこでミーティングを行い、さらに準備体操程度の軽い練習をすることになっている。
 ほろ酔いめいた上機嫌で、げんなりとしている祐一を引っ張り引っ張り山を下っていた名雪は、途中差し掛かった炊事場で北川がサンドウィッチと思しき大量の朝食を準備している姿を見つけた。

「おはよう、北川くん」
「おっ、水瀬か。起きたな、おはよう」

 軽く手を挙げて応えてくれた北川に頷いて応じた名雪だったが、彼の傍に涼子がいるのを見つけて「おや」と目を瞬いた。

「あ、名雪さん。おはようございます。相沢くん、ちゃんと起こしてくれたんですねー」
「おはよう。あれ、涼子ちゃん。まだこんな所にいたの?」
「はい? …………あっ、もう時間ですか!?」

 涼子は腕に嵌めた時計を見て、ペロリと舌を出した。どうやらすっかり朝の予定を忘れていたらしい。

「あちゃあ、しまった。ごめんなさい、すぐ行きます」
「うんうん、いっしょに行こう、涼子ちゃん」
「すみません……ところで、お二人もなんでこんなに遅いんですか?」

 涼子は手近なものを片付けながら、さっきから黙りっぱなしの祐一と、寝起きにしては妙に頬を火照らせている名雪を順繰りに眺め、ははんと口許をひん曲げた。

「朝っぱらからはどうかと思いますよー」
「なんのことかな、うにゅ?」

 しれっと白を切る名雪。なかなかの厚顔である。

「途中で抜けてごめんなさい、北川くん」
「ああ、いや。こっちこそ手伝わせちゃってごめんな」
「いえいえ、わたしから無理やりやらせてもらったことですからー。それじゃあ、綺咲ちゃんもバイバイですねー」

 キサキちゃん?
 手を振る涼子の目線を追って、名雪はようやくこの場にもう一人居ることに気づいたのだった。法被らしき珍しい格好をしたツインテールの少女が、北川の隣にちょこんと腰掛け、ハムハムと北川が先に作ったと思しきサンドウィッチを齧っている。
 涼子が立ち去ることに気づいた少女は、卵サンドに齧りついたままフルフルと小さく手を振った。

「どうしたんだ、この子?」
「いや、どうしたんだと言われてもなあ」

 ようやく口を開いた祐一に問われ、北川は返す言葉に詰まってしまった。説明のしようが無い。
 代わりになのか、モグモグと口を動かしていた少女がコクンと飲み干し、二人の会話に割って入ってきた。

「散歩をしてたらこのお兄さんに朝ごはんを恵んで貰ったの。綺咲は黙っていても貢がれてしまう罪な美少女なの。将来が末恐ろしいの」
「なるほど、まだ小さいのに可哀想になあ」

 祐一はたっぷりの憐れみを眼差しにこめて、少女の頭を撫で撫でしてあげた。

「……なんだか分からないけど沸々と怒りがこみ上げてくる綺咲なの」
「ま、まあまあ、これもあげるから落ち着いて」

 表情は半眼無愛想のままなものの、明らかにムッとなっている少女の様子に、北川が慌ててスライスした果物を挟んだフルーツサンドを手渡してあげる。少女はしばしじっと手の中に収まったサンドウィッチを睨んでいたが、やがてまた黙々と端っこから齧り始めた。

「むぅ、面白いな、この子」
「相沢、お前いいからさっさと行け。迷惑だ」
「なに!? 俺のどこが迷惑だというんだ!」
「存在自体」

 断定する北川。続いて名雪が腕組みしながらうんうんとうなづいて付け加える。

「祐一、デフォルトで子供の気持ち逆撫でする性格だもんね」
「デフォルトって……おい」
「あのー、時間ー」

 人にまだこんな所にいるのかと言っておいて一向に動こうとしない名雪たちに、先に行くに行けない涼子が困っていた。





「さて、時間も押し迫ってきたので、そろそろ行こうと綺咲は思うの」

 涼子たちを見送り、黙々と全員分の朝食を作っている北川の後ろで、これまた黙々と三切れ目となる卵サンドを齧っていた綺咲が、指を舐めながら椅子を立った。よっこらしょと脇に立てかけていた巨大な番傘を担ぎ上げる少女。

「お、もう行くのか?」
「これでも忙しい身なの」
「そうか。まあ、最近は子供の方が忙しいっていうしなあ」

 妙なことで納得している北川に、少女は現れて初めてだろう、子供らしい微笑を浮かべた。

「お世辞を言わない綺咲だけれど、おいしかったの」
「そりゃお粗末さま」
「お礼にこのエピソードを子々孫々に至るまで語り継いであげるの」
「いや、そこまでせんでいいですから」
「遠慮は無用なの。それじゃあさようならと言い残して、かっこよく颯爽と去っていく綺咲だったの」
「あ、こけるなよー」

 最後にパタパタと手を振って踵を返し、颯爽というには少々可愛らしすぎる駆け足で去っていく少女の後姿に、思わず声を投げかけてしまった北川だった。

「面白い子だなあ…………にしても、あの傘はいったいなんだったんだ?」

 軽々と持ち上げてたけど。いや、それ以前になんで番傘?
 ふと、少女が腰掛けていた切り株椅子の方へと目を向けた北川は、思わず目を丸くした。
 炊事棟の床はコンクリートに覆われているものの、すぐ後ろのテーブルサイドの床は加工された木製の板が敷き詰められている。
 その少女が傘を立てかけていた床の板が、丁度石突が着いていたであろう部分から、真っ二つにくの字になって割れていた。

「……腐ってたのか? 危ないなあ」

 あの子怪我しなかっただろうか。何も言ってなかったし大丈夫だろうと判じつつも、ちょっとだけ心配に思いながら割れた板の片づけに取り掛かる北川だった。







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