「うーんっと」

 大きく伸びをするだけで、しっとりと纏わりついていた眠気は吹き飛んだ。今朝はゆっくりと遅くまで眠れたためか、すっきりと起きられたあゆだった。元々寝起きが抜群な方だと言う理由もあろうが。
 洗面所で顔を洗ったあゆは、着替えは後回しにしてパジャマ姿のまま先に朝食を取ろうと台所へと向かった。数ある秋子特製のオリジナルジャムのバリエーションに思いを馳せる。さて、今日はどれをつけて食べようか。
 あゆが来た当初は和食の割り合いが多かった水瀬家の朝食だが、最近は殆どパン食一辺倒になっている。多少未練はあるものの、朝から五人分の和風朝食を用意する労力を理解しているあゆには、家主である秋子さんに朝の和食をリクエストするという発想は浮かばなかった。
 居候の遠慮というよりも、単純に良くも悪くも謙虚な娘なのだ。
 冷蔵庫にはサラダが入ってたね。あとは目玉焼きかスクランブルエッグか、タマゴ料理を一品添えようかなどと案を練りながらキッチンに入ったあゆは、先客がいるのを見つけた。
 スラックスに濃いブルーのTシャツ姿の天野小太郎と、黒のタンクトップにカットジーンズという健康的な大胆さを前面に押し出した格好をした真琴が、テーブルについて顔を突き合わせている。朝ご飯を食べているのかと思いきや、彼女らの前にはコーヒーカップがあるだけで料理は並んでいない。それどころか、小太郎がテーブルの上に身を乗り出して真琴に顔を寄せている。
 うわっ、朝からキスなんか。またいちゃついてぇ。
 不快には思わなかったものの、やれやれと嘆息を零しかけたあゆだったが、すぐにそれが勘違いだと認めた。顔は寄せているものの、キスをかわしているのではないらしい。いちゃついている時特有の甘ったるい口調ではない何か説明するような口振りで小太郎は真琴に何かを告げていた。それを受けて真琴がふむふむと頷いている。と、あゆに気付いた真琴が顔をあげて手を挙げた。

「あれ? あゆ、おはよう。なによ、とっくに出てたと思ってた。今日は遅刻?」

 時刻は既に8時半を回って9時になろうとしている。普段のあゆならとっくに雪村の所でクルクルと独楽鼠よろしく駆けずり回っている時間だ。

「今日は遅出なの。朝ご飯食べたら行くけどね……ってあの、真琴ちゃんどうしたの? マスクなんかして。風邪?」

 目を丸くしたあゆの指摘に、真琴はいやまあなによ、と意味のない言葉をごにょごにょと吐く。表情もいつもみたく溌剌と変えているのかもしれないが、顔の下半分を覆った白いマスクがそれを隠してしまっていた。それにしても、大きなマスクだ。

「真琴さん、折角ですし試してみたらどうです?」
「そーねー」
「試すって、なにを?」

 人の悪そうな笑みを浮かべて真琴に何か促がしている小太郎に、あゆはなんだかイヤァな予感を覚えて口端を引き攣らせた。あゆの警戒を見て、真琴がビビんないでよと苦笑を浮かべたような気配を見せた。繰り返すがマスクをしてるので表情が見えない。何となく目元の動きや微妙な気配でどんな顔をしてるのかは分かるのだが、いつもはっきりとした感情の動きを見せる真琴にこんな風に一枚ヴェールを被されると、なんだか凄く似ている全くの別人を前にしているような妙な感覚を覚えるあゆだった。
 真琴は飄々とした口調であゆに説明してくれた。

「学園祭か宴会なんかでネタにつかえないかなーって小太郎に教えてもらって練習してたのよ」
「はぁ……芸かなんか?」
「そんな感じ。ちょっと相手してよ、あゆ」
「まあいいけど、なにすればいいの?」
「簡単簡単、今からあたしがする質問に答えてくれればいいだけだから」
「質問? ……なんか変な質問じゃないよね。イヤラシイのとか」
「違うわよ」

 なんか最近人のこと偏見の目で見てるわね、と不服そうに呟いて、真琴は簡単な質問だからと告げた。別に答えるに吝かではない。変な質問なら答えなければすむ話だ。あゆはちょいと警戒を保ちながらもいいよと言った。

「じゃあいくわよ」

 あゆは思わず「えっ」と声をあげていた。椅子に座っていたはずの真琴が、いつの間にかぬら〜りとした動きであゆの目前に現れていたのだ。武術の奥義に無拍子というものがあり、予備動作の無い動きに攻撃を受けた相手はまるで途中のコマがごっそり切り抜かれたように見えてしまう、というのがあるそうなのだが、真琴の現れっぷりはまさにそんな印象だった。
 単に真琴の行動を想像もしていなかったあゆが、意表を突かれただけとも言うが。
 無意識に仰け反るあゆにググッと顔を近づけ、真琴は無垢な子供のように小首を傾げてこう言った。

「あたしきれい?」

 一瞬言葉に詰まるあゆ。シンプルすぎる質問に、逆にどう受け止めればいいか戸惑ってしまった。
 真琴が綺麗かと問われれば、万感を込めて頷ける。同居人の名雪を始め、美人美少女に知り合いの多いあゆだったが、現状はともかくとして素材そのもので見るならば、真琴はもしかしたらモノが違うかもしれないとすら思っていた。女の勘だ。そして同じ女なら無意識か有意識かは別にして、真琴を知る者は皆密かに察しているのではなかろうか。
 同じ条件で同じように究極的にまで女を磨き切った時、知りうる女性の中で恐らく真琴だけが『傾城・傾国』という域に達しているということを。
 まあ、勿論玉というものは磨かなければ光るものではないし、素材というものは往々にして浪費されたまま無為に失われてしまう代物だ。そもそも女性が尋常でない美貌を得るには尋常でない努力が必要なもの。そして真琴はその手の努力に熱心と言う方ではない。そんな筆舌しがたい美人になれるかは祐一が将来、本格フランス料理の三ツ星シェフに匹敵する料理の腕前を持つようになるぐらいありえないだろうとはあゆも思っていた。とはいえ、つい一昔前に比べると真琴と言う少女が最近はとみに綺麗になってきたとはあゆを含め、真琴に対してアイロニーな言を絶やさない祐一ですら認める事実だ。このままいけば、傾城の美女とは言わずとも、随分な美人にはなるだろうなと予想している。
 近い将来、同じ家に住む女性でありながら秋子に名雪、そして真琴に挟まれて一人並み以下じゃ肩身が狭くなりそう、と想像して微苦笑を浮かべる事もある月宮あゆは、シンプルな質問の意図をシンプルに受け止める事にして、一片の曇りも無い口調で言い切った。

「うん、綺麗だと思うよ」

 わりと万感を込めてあゆは答えたのだが、真琴は特に感動したようすもなく、何故かクックックと押し殺したような笑い声を漏らしながら肩を揺らした。
 背中にうなぎを放り込まれたような凄絶な悪寒があゆを襲った。

「ほーんーとぅ?」

 快活な真琴とは思えない粘り気のある声、そしてドロンと澱んでいながら炯炯と輝く瞳があゆを絡み取る。ゾワゾワゾワっと背筋が縮みあがった。本能的に後退ろうとしたあゆの腕をハシッと掴み、真琴はペロンとマスクを剥ぎ取った。

「これでも、きーれーいー?」
「ま、まこっ!? うっ……うぐぅっ、うぐっ、うぐーーーーっ!?」

 マスクの下から現れた真琴の顔は、殆どが耳まで裂けた真っ赤な大口で占められていた。その口がビキビキビキと肉を引き千切る音と共にあゆの頭を一口に齧れるほどに開かれる。

「ぎーれーいー?」
「うぐぅうううううううううううううう!!?? ぐふっ」

 大口の中でグネグネと蠢いていた蛇のように長い舌にベロンと鼻を舐められて、月宮あゆは泡を吹いて失神した。

「あっ……やば。ちょっとあゆ大丈夫、ってだめだこりゃ」
「あー、真琴さんやりすぎー」
「あうぅ、白目剥いちゃった。っちゃぁ、あゆには刺激強すぎたか」

 ボワワンとコミカルな音をさせて真琴の頭が煙に包まれる。薄れる煙の下から現れた真琴の顔は、口裂け女から元の可愛い女の子へと戻っていた。
 ケラケラと無責任丸出しで笑い声を立てながら小太郎が寄ってくる。

「のっぺら坊の方が良かったんじゃないですか?」
「この真琴さまともあろうものが、貉の真似なんか出来るわけ無いでしょうが。まっ、どっちにしろあゆの末路は同じだろうしさ」

 おーい大丈夫かー、と真琴につつかれている泡を吹いて引っくり返ったあゆに憐れみの視線を落としながら「あーあ、可哀想に」と嘯く小太郎。

「おーい。やれっつったのあんたでしょうが」
「そんな過去もあったですねえ。改竄の余地がありますが」

 遠い目をしてそっぽを向く小太郎に、こいつ絶対将来痛い目見るな、と確信する真琴であった。

「それにしても、だいぶ上手くなりましたね、化けるの」
「身体の一部、それも見映えだけの時間限定よぅ。別人だの人間以外に化けるのはまだまだ先が長そうだわね」

 小太郎に褒められて悪い気はしないものの、あんまり変化の術の習得に熱心でもない真琴は淡々と述懐したが、当事者ではない小太郎の方が何故か熱意満々に声を弾ませる。

「なに、真琴さんならそうは時間かかりませんよ。頑張ってください! ゆくゆくはブロンド美女とかラテン美女とか中華風美女とか大和撫子とかアイドル系美少女とかモデル系美人とか巨乳美女とか貧乳美少女とかつり目系少女とか垂れ目系少女とか、色々化けれるようになりますって!」

 拳を握って力説する小太郎の熱弁を、段々と目つきを半眼へと移行させながら聞いていた真琴は、胡乱そうな表情のまま、声だけは親しげに、

「……それだけ色々化けられたら、Hするにしても選り取りみどりねぇ、小太郎」
「はははは、もう想像するだけでムラムラきちゃいますよー。もう楽しみで楽しみで……あれ?」
「妙に熱心に教えてくれると思ったらそれが目的かぁっ!!」
「わっ、わぁぁぁ、ごめんなさ――ぐぼぉっ」

 一片の容赦も無く鳩尾だった。しかもコークスクリュー。昏倒しているあゆの傍らで、腹を抑えて蹲ったままピクピクとしか動かなくなった恋人の姿に、腕組みしながら拗ねたように口を尖らせる真琴であった。

「なによ、暇さえあればベタベタ触ってくるくせに。今のあたしじゃ満足できないってわけ?」
「ふ、不満があるわけないじゃないですかぁ。ただの男の浪漫ですよぅ」
「うるさい、黙れっ。あたし傷ついたっ! 今度ヤる時はそんな言葉二度と吐けないくらいまで絞り尽くしてやる! それでもほざくならちょん切って黙らせてやるんだから、鋏で!」
「ひっひぃぃ」

 切られると脅されて平静でいられる男は少ない。怯える小太郎に尚も言い募ろうとした真琴だったが、不意に自分の携帯電話の鳴る音が響いたため、罵声を飲み込む。舌打ちしてお仕置きを中断すると、最近バイト代で購入した新しいシルバーメタリックのやたらとスタイリッシュなデザインの携帯を手にとる。
 画面に表示された通話相手は美坂栞となっていた。
 真琴は携帯を操作しながら小太郎に命じる。

「あゆを起こしてあげて。朝ご飯食べてる時間なくなっちゃうから」
「ふいい、了解です」
「続きはあとでね」
「うひぃぃ」

 ホッと安堵を見せた小太郎に釘を打ち、真琴は栞の電話を繋げた。

「もしもし、栞?」
『おっはよー、真琴ちゃん。元気? 暑いね? 暑くない? 私は暑いよ、たまんねーっ! もうすぐ九時だけどちゃんと起きてた? 夏休みだからって寝すぎは良くないよ。そして私は6時にはもう起きてましたーっ! ラジオ体操も完了済みだい♪』

 いきなりの甲高いマシンガントークに思わず携帯を耳から遠ざけてしまった真琴。
 朝っぱらからテンション高い小娘であった。
 この手のテンションは乗り遅れると置いてかれるものである。

「あ、あー、うー」
『なになに? あーうー? あーっ、さては今まで寝てたな寝ぼすけめっ。寝る子は育つってのは嘘なんだからさっさと起きれっ! なに? なんで嘘かって? ベッド生活云十年の私と八年間寝っぱなしのあゆさんの成長具合を見ればわかりましょうわかりましょう、こんちくしょーーっ!! 舐めんなっ、私だって成長ぐらいしてますんですからねっ! にゃろぅ、脱いでやる、そうまで言うなら脱いでやる!』
「し、栞、あんたもしかして酔っ払ってる?」
『いや、全然素面です。ってか、止めてよ、真琴ちゃん。私、やばい薬キメちゃってる人みたいじゃない』

 真琴はげんなりした。この娘と来たら、己ですら自分のテンションに歯止めをかけられないときた。かんべんしてくれ。

「自分で止まんなさい。人に頼るな」
『善処します。あ、それでさ。今日、暇? 遊びにいかない?』
「今日? 別にいいわよぅ、特に予定ないし。で、なんかプランあるの?」
『実は潤さんの従弟って子が来てるんだけど、行き違いでさ。ほら、潤さん、祐一さんたちに連れてかれていないじゃない。だからウチに泊まってるんだけど、折角だから友達集めて一緒に遊ぼうかなって思って』
「ふーん、いいんじゃないの? 一子とかも呼ぶんでしょ? そういや夏休み入ってからあんま集まってなかったし」
『オーケーオーケー。あっ、あゆさんは……仕事だよね』
「うん、みたい」
『じゃ、あゆさんはまた今度誘おう。じゃあ真琴ちゃん、小太郎くんと美汐さんにも連絡しといてくれない?』
「美汐? う……ん、それはいいけど」

 応じながらも言葉を濁した真琴の様子には気付かなかったようだ。栞は『じゃあまた追って連絡するね』と言い残し、真琴の返事を待たずにさっさと通話を切ってしまっていた。

「……美汐、かあ」

 来る、だろうか? いや、とりあえず誘うだけ誘ってみよう、と真琴は思った。ついでに声を掛けるならまず和巳の方だな、と頭を捻る。和巳が一緒なら今の美汐も来るかもしれない。

「今の美汐に必要なのは気晴らしよねぇ。みんなで思いっきり遊びまわるのって、案外いい案かも」

 と、独りごちていた真琴に突然、目を覚ましたあゆが半泣きで食って掛かってきた。

「まぁことちゃぁん! なにするのさ、いきなりひどいよぉ! ボクがお化け苦手だって知ってるくせに残虐非道だよ! 虐めっ子だよ!」
「知ってるからやるんでしょうが。分ってないわねぇ。それにあゆあゆ。文句はいいけど、早く朝ご飯食べないと時間ないんじゃないの?」
「うぐっ!? わっ、ほんとだ、わっわっ、朝食朝食」
「はいはい、今パン焼いてますから〜」

 慌てふためくあゆを笑いながら、頭の中では和巳になんて電話しようか思案に耽る真琴だった。










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