口許が寂しいと、煙草を咥える人が居る。ニコチンの摂取ばかりが目的でないのは、禁煙中に代わりのものを咥えようとする人が少なからずいる事からも明らかだ。それはきっと、幼き頃の名残なのだ。母の胸に抱かれてミルクを飲んでいた頃の。指を咥え、煙草を咥え、爪楊枝を咥え、人は本能の名残を慰める。
 ならばきっと、人が眠るとき何かを腕に抱き締める事に安らぎを感じる事もまた、幼き頃に自分を守り慈しむ存在にしがみついていた頃の名残と言えないだろうか。本能の求めと言えないだろうか。
 ふと、そんなことを思ったのは、いつだっただろう…………。






 意識が眠りの奥から浮かび上がってくる。天野美汐は目覚めと眠りの境目の夢心地から、小鳥の囀る音色を聞いた。心地よい微睡みに、ポカリと浮いた意識がまた眠りの園へと沈もうとする。それを引き止めたのは、胸にそそる奇妙にくすぐったい感覚だった。
 焦点が合うようにして、意識が覚醒していく。まだ起きてるとは断言しにくい半覚醒の状態のまま、美汐は薄めを開けて胸元を見下ろした。

「…………………………ッッッ!!」

 あまりに仰天しすぎたのが逆に幸いした。意識は頭から冷水を被ったように覚醒したものの、身体はカチコチに固まり、喉は完全に封鎖されて声も出ない。美汐は一旦目を閉じて深呼吸をすると、もう一度恐る恐る瞼を開いた。

「…………………………ッッッ!!」

 二度目にも関わらず、まったく同じ事を繰り返してしまった。
 に、にいさ、にいさん、ななななななにをしてるんですかーっ!!
 まずは弁護から述べよう。なにをしてるんですかーっ、と内心で絶叫してる美汐だが、まずなにかしたのはどちらかというと美汐の方だった。なにしろ抱き枕のように寝ている和巳の頭を胸に抱き締めているのだからして、その件に関しては和巳には罪は無い。思いっきり和巳の顔に胸を押し当ててるのは美汐だし、ブラジャーを着けずに寝床に偲んできたのは美汐当人の所業だ。
 問題はここからだった。美汐は和巳の頭を抱いた状態のまま動くに動けず、背筋をぞわぞわっと駆け巡る得体の知れない感覚に悲鳴を噛み殺す。朝日が差し込む和巳の寝室に聞こえる音は、外からの小鳥のさえずりと、本当に微かなちゅぅちゅぅという音だけだった。
 ここまで長々と前振りをしておいてなんだが、端的に説明しよう。
 寝ぼけた和巳が、パジャマ越しにだが美汐の胸の先端にしゃぶりついてちゅーちゅーと吸っていた。

「んにゃー」

 時折可愛い寝息を立てたりなんかしつつ、ちゅぱちゅぱとしゃぶったまま離そうとしない。本当に眠っているのかと疑いたくなるが、寝ている和巳と寝た振りをしている和巳とでは全然様子が違うので、美汐の知る限り完全に寝入っている様子だった。
 ど、どどどどどどど。
 どうしましょう、と心の中で思うことも侭ならず、頭ん中はどの字で埋め尽くされていく。美汐さん大混乱。飛び起きてしまえばよかったものの、一旦間を外してしまう動くに動けず、それどころか胸から徐々に甘い痺れが意識へと忍び寄ってくる。
 お、起こさないと。いえ、ですが起こしたら起こしたでここ困ったことになりそうな。あっあっ、歯が当たって。か、噛むのはなし、なしですってば。ひえええええええ。
 段々と与えられる刺激が洒落にならないものに変わってき出し、美汐は何とか和巳の口を引き離そうと抱き締めていた腕を――頭の下にある腕を抜くのは無理なので、上の方だけ――離して身を捩った。

「ん……と……あ……ちょ……えっ……む、ぎゅ――――っ!!?」

 完全に逆効果だった。美汐は身を捩って離れようと向かい合わせになっていた身体を仰向けに倒した所、和巳が釣られてゴロンと……。
 ちょ、ちょちょちょちょちょ、いやああああああ、待って待って待って今の無し、やり直しを要求します!!
 ボンと脳天から蒸気が吹き上がり、目はグルグル渦巻きと化した美汐の上に、和巳が乗ってしまっていた。それも、つられてズルリと上に倒れこんだ拍子に和巳の腕が美汐のパジャマを引っ掛けて。
 緩んでいたのか元々外れかかっていたのか、パジャマの胸元の釦は盛大に外れ捲くり、引っ張られたパジャマはズルリと肩から剥がれ落ち、美汐の実はそれなりに成長している83センチの胸が見事に曝け出されてしまっていた。

「みーちゃ、ふにひひひ」

 よほど幸せな夢でも見ているのだろう。緩みきった寝顔と寝言を漏らしながら、和巳が美汐の裸の胸に顔を埋めてスリスリと擦りつける。おまけに何か勘違いしたのか「あーん、かぷ」と胸に噛み付いてきやがった。

「――――ッ!!!!」

 まるで感電した人みたいに、美汐の手足が突っ張って痙攣した。
 やっ、そんな舐めまわされては私っ、だめです、い、いけません、あーうーっ!?
 内面的には艶っぽい反応をしている美汐だったが、外から見ると引っくり返った蛙のようにピクピク痙攣して目を回しているみたいで、ちょっとアレな姿であった。
 微妙にちょっと嬉しいような気もするけど、このまま目を覚まされると恥ずかしい所ではない事態に、美汐は耳まで真っ赤に染まった顔を引き攣らせながらなんとか和巳を起こさないまま拘束から逃れようとするものの、無意識に逃げようとする抱き枕を手繰り寄せようとしたのか、和巳の腕がズリズリと離れていく美汐の腰を掴まえた。訂正、腰ではなくパジャマのズボンのウエストを掴まえていた。
 ちょ、う、嘘でしょ、兄さん!? や、やだ、ストップ、ストップです、引っ張らないでくださいーーっ! 見えます、見えちゃいますからっ、いやぁぁぁぁ。
 ズリズリと美汐のズボンを引き摺り下ろそうとする和巳と、必死に引っ張りあげて防御する美汐の壮絶な攻防が始まった。
 繰り返すが、和巳は完全に眠っている。あれでけっこうシャイな性格なので、寝たふりしながらこんな真似を出来る男ではない。
 とはいえ、完全に寝ぼけながら女の子をペリペリと剥いていく所など、あらゆる意味で並の男ではなかった。剥かれる方はたまったものではないが。幾ら前夜覚悟を決めたとは言え、これはあんまりと言えばあんまりである。起きているならまだしも、寝ぼけた相手に身包み剥がれるというのはなんだか自分が情けなくなってくる。
 だが、さすがにズボンを引っ張る和巳の指に、ショーツまで引っかかっているのに気付いた日には、美汐も声を出さずにはいられなかった。

「に、兄さん、そそそれだけは勘弁してくださいぃぃぃ!!」
「んあっ?」

 劈くような大声にすら目を覚まさないほど和巳は寝起きは悪くなかった。だが、目を擦りながら緩慢に身体を起こす和巳に対して、美汐の挙動は親の目からエロ本を隠す男児の動きを遥かに上回る電光石火の素早さだった。
 飛び起き――つもりだ――重たい瞼を抉じ開けた和巳の見たものは、何故か身体の前でタオルケットを広げている変な美汐さんだった。

「お、おはようございます、兄さん」
「あ、ん、おはよう…………あの、みーちゃん?」
「なんでしょう」
「……どったの、それ?」
「タオルケットですか? これなら、寝汗を掻いたので、洗おうかと思いまして」
「……はぁ」

 それはいいのだけれど、どうしてさっきから広げっぱなしなのだろう。訊ねたいところだったが、なんだか美汐の目が縋るように潤んでいるので訊くに訊けない和巳兄さんであった。

「それでは、私は先に失礼します。朝食は今から用意しますので、しばらくしたら台所の方にお出でください」
「お、おう、了解や」
「では」

 何故だか妙に安堵したように吐息をついて、美汐はタオルケットを身体の前で広げたまま立ち上がろうとした。途端、足に何かが絡みついたようによろめき、ズベッと前へと倒れこむ。

「だ、大丈夫かみーちゃん!? なに鈍臭いことしとんのや、鼻打ったんちゃうか、ちょう見せて……みぃ……」
「あた、たた。大丈夫です、顔は打ちませんでした……から……え……」

 場が痛いほど凍っていた。あんぐりと呆けている和巳の顔に、目を瞬いた美汐の顔からさーっと血の気が引いていく。ちょっと涙目で自分の格好を見下ろした美汐は……壊れた。
 カクカクと機械的な動作で膝まで摺り降ろされたショーツとズボンを引っ張りあげ、全開に開いて肩から摺り落ちていた上着のパジャマのボタンを下から留めると、頭に花畑が咲いたようなスカスカの笑顔で、
「では、ごきげんよー」
 と一礼して、天野美汐はフラフラと夢遊病者のような足取りで去っていった。
 唖然と美汐を見送ってしばらく固まっていた和巳は、思いっきり見てしまった美汐の成熟した裸の残影に顔を赤らめ、それから意外だと言わんばかりにしみじみと呟いたのであった。

「……みーちゃんてば、あないにパジャマ脱げてまうほど寝相悪なってたんか。困ったもんやなあ」

 色々な意味で酷い男であった。







「る〜るる〜るるるる〜るる〜…………ひっくひっく、うぇぇぇん、ひっぐ……る〜るるる〜」

 まだ朝日が昇って間もない時間にも関わらず、黄昏ソングの聞こえてくる天野家の朝であった。









  §   §   §   §   §









 気まずい朝食となってしまった。空気がぎこちないのは昨日までもそうだったのだが、和巳が無闇に明るく振舞う事で幾分なりともそうした空気は解消されていたのだが、さすがに今日ははしゃぐのは拙い気がして和巳も大人しく黙々と箸を動かしている。
 やあ、みーちゃんもオレがいない間に育ったなぁ、はっはっはっ……なんてことをほざいた日には一体どういう有り様になってしまうやら。
 和巳は向かいに座って同じように黙々と朝食をとっている美汐を上目に窺った。
 暗く澱んだ空気を背景にして、顔の上半分に縦線が入り虚ろな眼をしながら機械的に箸を動かしている少女がいた。名付けるなら『天野・なんかもうだめ・美汐』と言った感じの状態だ。
 めっちゃ落ちこんどるし。
 まあ年頃の女の子があんな寝相を見せてしまったら落ち込むのは当然だろうが、それにしてもここまでヘコむだろうか。いや、普段から潔癖なほど身の回りをきちんとしている美汐からすれば重大な失態だったのかもしれない。況してや今は精神的に弱っている時だ。ダメージがいつもより根深く刻まれてしまったとしてもおかしくはない。
 こういう場合はなにかフォローしてあげた方がいいのだろうか。それとも寝相の悪さについて注意してあげるべきか。いや、本人が嫌というほど分っているだろうし、それをわざわざ言い募るのもどうだろう。やはりここは「みーちゃん、見ん間におっぱい大きくなったなぁ、あはははは」とでも笑い飛ばしてみたりとかした方がいいか? 笑い話にしてしまった方が話も深刻にならずに済むし。いや、しかしこの娘は生真面目だから笑ってしまうと余計に気にしてしまうかもしれない。特に今は自分に対して自信を失っているわけだし。

「……ふむ」

 不意に、自嘲を覚えた。出汁巻き卵を一口に頬張り、口許に浮かんだ笑みを誤魔化す。
 落ち込んでいる美汐には悪いが、こうして美汐について色々と頭を悩ませている事を自分が楽しいと思っていることに、何の脈絡も無く気付いてしまったのだ。美汐のことで悩んで、美汐がどう考えるかに想像を巡らし、自分の行動に対して美汐がどういった反応を示し、どんな思いを抱くのか。当の彼女を前にして彼女のことばかりを考えているという状況は、気付くのが今更だが、酷く、心が弾んでいる。美汐の状態がマイナスベクトルへと転がっているため、なんとなく自分も元気を無くしているような気になっていたが、奥底の方では違っていたのだと、今朝のどちらかというとあまり深刻に思えないアクシデントのお陰で気付いてしまった。
 もちろん、落ち込んでいる美汐のことは心配だ。同じ美汐のことについて悩むにしても、もっと明るくて下らない事で頭を悩ます方がいいに決まっている。
 だが、長らく離れて顔も見ることもなかった少女の様子を間近に見ながら、こうしてこの娘の事ばかりで思考能力を埋め尽くすと言うのは、なんとも得体の知れない幸福感を抱いてしまう。

「……なるほど」
「……なん、ですか?」

 独り言にもふむだの、なるほどなど口走られては、へこんでいても無視できなかったらしい。虚ろな目のまま顔をあげ、どこか怯えたような声で美汐が窺う。
 いや、と和巳は照れを覚えてはにかんだ。ちょっと迷い、まあ迷う事でもないかと口にする。

「ちょいな、自分がみーちゃんのことほんまに好っきゃねんなぁ、という事実を再確認して噛み締めとってん」
「…………」

 美汐は虚ろだった目をゆっくりと見開き、カチリとスイッチが入ったかと思うほど鮮やかに青白かった顔色を朱に染めると、和巳の柔らかな視線から逃れるように俯いた。
 しばらくじっと固まったまま手元を見つめていた美汐は、顔をあげないまま食事を再開した。苦笑をこぼし、和巳も美汐の作った食事に舌鼓を打つ行為を再開する。
 不意に美汐が声を発したのは、彼女が食事を終えて食器を片付け、流しの水を止めた体勢で動かなくなり、20秒ほど経った後のことだった。

「兄さん」
「ん?」
「私は…………」

 既に先に食事を終えてお茶を啜りながら新聞に目を通していた和巳が顔をあげると、美汐のやや腫れぼったいように見える双眸と視線がぶつかった。和巳は少し驚き、眉根を寄せる。

「私には……魅力がありませんか?」
「……へ?」
「……ご、めんなさい。詰まらないことを訊きました。忘れてください」

 さっと身を翻し、足早に立ち去っていく美汐の背中を和巳はポカンと見送った。
 一瞬視線が交錯したとき、美汐の目尻に浮かんでいた、小さな雫。怒りでも、哀しみでも、嘆きでもない、小さな小さな心細さが結晶となったような、そんな涙の雫が、和巳の心に焼き付いていた。






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