ボーっと助手席から眺める真っ黒な夜の海。車窓に流れる代わり映えのしない夜景を、舞は何気に楽しんでいた。動き出せば紫電迅雷俊敏極まる川澄舞だが、普段はむしろジーッと同じところに突っ立ってたり、ボーっと変わらない光景を眺めたりするのが好きな性質だったりする。放って置けば一晩中だって学校の壁のシミを眺めながら過ごせるくらいだ。動物園などに連れて行ったら一週間ぶっ続けでコアラの檻の前に居座って飽きないに違いない。エルフの血でも混じってるのだろう。
 結局、昼間は海水浴場で遊んでしまった魔法使い見習い4人組+引率お姉さん。独り荷物番をさせられる羽目になった久瀬御大は生来のジャパニーズビジネスマン気質が災いしたかいたく不満そうであったが、除霊退魔のお仕事は古今東西真夜中からと決まっているのである。仕事は仕事、遊びは遊び、メリハリは魔術師と言えど大事、とは女性陣の主張だ。
 というわけで、遊んだ分はそれ相応に働かねばならないのが常。日が暮れ、夜の帳が降りたここボーンマス。観光地なだけあって商業地近辺は夜更けになっても賑やかなものだが、一度不夜城を離れれば閑静を通り越した冴え冴えとした真夜が広がっている。
 目的地に向けて、舞たちの乗ったライトバン(レンタル)は海岸線に伸びる街道を直走っていた。ちなみに運転は久瀬だ。安全快適そのものである。

「ふぇ、リーエさん、ご姉妹がいらっしゃったんですか?」

 リュカが付き添いに加わっているとはいえ、事実上初めての自分たちだけで行う除霊研修。だというのに、後部座席ではリラックスし切ったお喋りが続いている。そんな後部座席の歓談に加わらず、夜景の鑑賞にキャパシティーの大半を費やしていた舞だったが、耳に飛び込んできた佐祐理の台詞はさすがに素通りしていかなかった。

「おや、知らなかったのかい?」

 快調に話題を振りまいていたリュカが、佐祐理の反応にちょっと驚いた様子を見せ、件のリーエをうかがった。煩そうにリュカと佐祐理のお喋りを聞いているだけだったリーエだが、視線で問われ、仕方なさそうに口を開く。

「姉妹と呼ぶには抵抗があるのですが、周囲からそのように関連付けられる者たちならば三名、現存しています」
「……現存?」

 骨董品じゃあるまいし、変な言い方だ。リーエの独特の言い回しは時々理解しがたいことがある。
 なんにせよ、リーエの姉妹とやらに興味を引かれた舞は、背もたれ越しに首を捻り、後部座席に顔を覗かせた。

「リュカは会ったことあるの?」
「一番下の娘にはチラッとね。上の二人とは生憎と面識はないよ」
「リーエさん、三女なんですか?」

 舞とリュカの会話から姉妹の構成を読み取った佐祐理が話を振られるのを嫌がっているのを承知の上でまたリーエに訊ねる。

「エリザベス・マーチに例えられることもありました」

 それが答えだと言わんばかりに素っ気無く言い放って、膝に置いた三角帽子のとんがりを整えなおす。

「……はぁ、ベスですか。リーエさんが。はぁ」

 名状しがたい顔でモゴモゴと口の中で転がす佐祐理。彼女の反応も意に介さず、リーエは飄々と、

「ジョンブルも稀に的確な比喩を操るということでしょう」
「皮肉だったんじゃないの?」

 呆れたリュカの一言は完膚なきまでに無視された。
 エリザベス・マーチとは女流小説家ルイザ・メイ・オルコットが1868年に執筆した自伝的小説『若草物語(原題:Little Women)』に描かれるマーチ四姉妹の三女に当たる女性だ。物静かで気高く、他人を喜ばすことを至上の喜びとする、ピアノと音楽をこよなく愛した優しくも儚い少女であったベスは、病弱な身の上から作中、若くしてこの世を去っていく。
 はたして、リーエ・リーフェンシュタールの頭のてっぺんから足のつま先まで眺めつくしても、エリザベスのべの字も見当たらない。
 イギリス人という人種はとかく皮肉のきいた冗談を血肉としているような人達なので、リュカの言う通りなんだろうな、と思いながらも、佐祐理はそれを理解していながらいけしゃあしゃあと自身をベスと評して平然としているリーエの臆面の無さに感心する。
 しかし、エリザベス・マーチをリーエ・リーフェンシュタールになぞらえるのなら、メグやジョー、末の妹のエイミーに当たるリーエの姉妹はどういう人達になってしまうのか。

「リーエさん、他の姉妹の方々はどんな人達なんですかー?」

 そんな質問を予期していなかったのか、リーエは少し驚いたように目を瞬き、顎に手を添えて数秒ほど黙考に耽ると、敢えて云うならと前置きして切り出した。

「上から愚鈍、虫けら、キ○ガイ、といったところでしょうか。仮にも姉妹ですので好意的な意見になってしまいますが」
「…………あはは〜」

 佐祐理はちょっと泣きそうな顔になってリュカに救いを求めた。

「仲、悪いんですか?」
「い、いやあ。聞く限りは、そうでもないはずなんだけど」

 笑みを引き攣らせながら首を傾げるリュカ。とはいえ、仲のいい姉妹だという話も聞いた事は無いのも確かだったので違うとも言い切れず言葉を濁してしまった。
 元々、件の四姉妹――エルダ・クリューゲリッツ/フリーダ・ライチェ/リーエ・リーフェンシュタール/レネオノール・ライプツィッヒ・レルゲンら4名の関係は、一般的に連想する姉妹と称される関係と一線を画しているのだから、普通の姉妹仲に当てはめて考える方が間違っているのかもしれない。

「そろそろお喋りは終わりにしておけ。到着するぞ」

 ライトバンの運転に集中していた、というより女性陣の姦しい会話に関わるのを避けていた久瀬が皆に注意を促がした。海岸線を走る車の左側に小高く聳える丘の上に、月明かりに照らされた古城らしき影が見えはじめていた。








「さて、じゃあもう一度今夜のミッションのおさらいをしておくわね」

 全員注目、とパンパンと手を叩くリュクセンティナ・リンフェーフ。毎度お馴染みエキセントリックな紅蓮のスーツに身を固めた彼女の今日のポイントはワインレッドのスカーフだとか。全身真っ赤なもんだからアクセントもクソも無いように見えるのだが、それは言わぬが華なのだろう。
 錆びの浮いた古城の鉄門を背後にして、リュカは両手を腰に当てるとグルリと半円に集った研修生たちの顔を見渡した。うん、程よい緊張の浮かんだイイ顔だ。

「現場はごらんの通り、薔薇戦争当時の古城を改装した元観光ホテル。14年前に経営不振から潰れて、現状は見事に廃墟。かの名高き幽霊城のウォーリック城ってほどじゃないんだけど、大昔から騒霊現象でそこそこ有名だった霊場なんだわ。ホテルが潰れたのも、ポルターガイストが原因で宿泊客に死者が出てしまったからだそうよ。吹っ飛んできた銀皿が偶々運悪く頚動脈をスパッ、てな感じで殺人というより過失致死って感じだったそうだけど、そもそも心霊現象を売りにしていた上に、実際それまでに何人もけが人出していながらちゃんと除霊嘆願出してなかったってんだから経営責任自業自得よね。
 そんなこんなでホテルが潰れた後、自治体からの要請で何度か除霊はしたんだけど、場所が悪いのか西北西3キロのところを通ってるレイラインの影響なのか、何度祓っても3,4年立つと元の木阿弥に戻っちゃうのよ。ヘタに清めすぎて雑霊が近づかないように封鎖しちゃうと、逆に周辺地域に悪影響が出かねないって調査で判明してね。霊障の緩衝地として何年かに一度、大掃除みたくして集まった雑霊を祓うのみに抑えてるの。でも、そんな面倒で実りの無い詰まんない仕事、誰もやりたがらないのよね。ギャラも悪いし。んだもんで、あんたたちみたいな見習いの研修施設扱いにしてるわけ。まっ、それにしてもきついばっかで人気ない所なんだけどね。それでもあんたたちみたいな外国人に回してくれる仕事なんてろくなものないんだからこれでもマシよマシ。あれであんたらの師匠は色々苦労してるんだからちゃんと尊敬してやんなさいよ」

 ああ、あたしってば今すごく良い事言ったんじゃない? やるじゃんあたし♪ とでも言いたげにうっとりと目を細めて感慨に浸っているリュカに向けて、黒尽くめの少女がしみじみと感想を述べた。

「そのキツくて面倒な仕事のさらに面倒で疲れるだけの監督役を関係ない立場でありながら一方的に押し付けられたくせに、フロイライン・リュクセンティナも人のいいことです」

 ピシリ、と空気に皹が入る。

「…………う、うっさいわーっ!! わっ、わっ、わーってるわよ、んなことはっ! 畜生、群青色め〜。あんたたち、あんな下種野郎を尊敬なんかすんじゃないわよ!」
「あのー、さっきと言ってる事違うんですけど」
「忘れたんでしょう」

 悔しそうに地団太を踏むリュカを救い難いものを見る目で見やりながら、久瀬はやれやれと首を振った。

「ああもううるさいうるさい。あんたら、ごちゃごちゃ言うのは勝手だけど、肝心の準備はちゃんと整えてるんでしょうね!」
「整えたからここに集まっているのですが」

 冷淡を通り越して「いいから死ねよバカ」と言ってるのと殆ど変わらんのじゃなかろうかというる冷ややかな声音でリーエが応じる。
 驚いたのは久瀬だった。

「な……リーフェンシュタール。君は、その格好で現場に赴くつもりなのか?」

 てっきり何時もの奇行の果てのコスプレかなにかかと思い込んでいた久瀬は、こめかみを引き攣らせながらリーエに訊ねる。
 先っぽの折れた三角帽子に黒い外套を纏い、身長ほどもある大鎌を担ぐという魔女と死神のハイブリッド紛いな衣装を着こなしたリーエは、平然と表情も変えずに返答した。

「なにか問題でも?」
「いや、重ねて問うが、その格好には何か意味があるのか?」
「まったくありませんがなにか?」
「…………」

 コスプレか何かではなくコスプレそのものらしい。ちなみに外套の下はいつも通りの黒色ゴスロリだ。首から掛けたアンチクロスがローブの合わせ目から覗いており、闇夜にも良く映えている。
 それ以上突っ込めば薮蛇、労多くして益なき事といい加減久瀬も心得ている。追及の手をあっさり放棄すると、久瀬は残る同行二人組みの方に意識を傾けた。
 彼女らの服装はあくまでフォーマル。佐祐理はクリームのチノパンに無地の白い長袖シャツの上からポケットが沢山備えてあるベストを羽織っている。舞は黒いスリムジーンズにダークグレイのタンクトップ、その上にダークグリーンの薄手のジャケット、と洒落っ気よりも動きやすさを基調とした衣裳だ。魔術師と名乗るには面白くない格好ではある。ちなみに久瀬はスラックスに薄いブルーのワイシャツ、ダークグレイのジャケットとこういう場にはあまり似合わない堅苦しい格好だった。

「真似しようなどとは考えていないでしょうね、佐祐理さん」
「はぇ!? どうしてわか……じゃなくて、なんのことでしょう」

 目が泳ぎまくってる佐祐理嬢。良からぬ影響を受けかけていたらしい。元々がミーハーな理由で魔法使いになりたいと思うに至った倉田佐祐理だ。白と黒でプリティ・キュアー、なんてこともやりかねない。その場合、マズ間違いなく黒い方を宛がわれそうな川澄舞は、我関せずと言った様子で背中に背負った剣の抜き具合を確かめていた。
 ものは古びた西洋長剣。長きに渡り舞とともに夜を戦ったあの愛剣である。
 舞は頼もしい相棒を心なしかうっとりとした表情で月に翳し、佐祐理に仕込まれたお決まりの台詞を棒読みした。

「……ハラキリマルめ、今宵も血に飢えておるわ」

 思わずつんのめる久瀬俊平二十歳前。

「か、川澄ぃ、その名前はやめろと言っただろうが」

 どうして? と心底不思議そうに振り返る川澄舞。
 剣に名前を付けてやれと舞に云ったのは師・祐馬だ。銘打つとは固有の存在を確立することであり、祈念の込められた真名を得ることで道具は世界から立脚し、霊験を際限なく高め、魔性を帯びて力を宿すことが叶うようになるのだという。この剣は共に暗黒の夜を駆け抜けた同胞であり、我が身の分身とも云うべき朋友。川澄舞は、胎を痛めた我が子を名づけるように頭を悩まし、剣の名を考え抜いたのだ。

「……腹切り丸。一生懸命考えた」
「だからどうして一生懸命考えてそんな名前になるんだ!?」
「……割腹丸の方が良かった?」
「意味が変わっていない!」
「あははーっ、舞、俊平さんは西洋剣じゃ日本刀みたいに切腹できないってそう云いたいんだよ」
「違います!」
「剣の種類の問題じゃない。切腹は覚悟と心意気」

 静々と諭すように、だが熱の篭った言葉で心得を語る川澄舞。

「頼むからそういうことを真剣に語らんでくれ」

 虚脱感に苛まれながらも、律儀に嗜めてしまうのは久瀬という男の長所でもあり短所でもあるのだろう。

「どっちにしろ、もう名づけてしまった。変更は出来ない」

 云いながら久瀬に剣身を掲げてみせる。ラクガキのようなへたくそな字で『ハラキリマル〜』と銘が刻まれていた。

「どうして語尾、伸ばしてるの?」

 頭の悪そうなイメージと違い、実に約十四ヶ国語の読み書きが自在だったりするリュクセンティナが不思議そうにルの後の波打ち線を指差した。舞は良くぞ聞いてくれたと言わんばかりにおもむろに頷くと、何故か地面にハラキリマルを突き立て、タタタタと十メートルほど距離を置いた。そして、掌底を天に打ち出すように右手を勢い良く掲げると、高らかに――というには明らかに気合と覇気が足らないが――叫んだ。

「ハラキリマル〜っ!」

 ペットの犬を呼ぶみたいな声が響いた途端、地面に突き立てられていた剣が霧散消失。次の瞬間、掲げた舞の右手の中に現れ収まっていた。パチパチパチ、と拍手してるのは佐祐理さん。
 タタタタ、と何事もなかったように皆のもとに戻ってきて舞が一言。

「ん、伸ばした方が呼びやすい」
「あ……そう」

 としか答えようの無いリュカであった。
 あんまり興味なさそうにしていたリーエが鼻で嗤うように久瀬に告げた。

「アポーツ・コントラクトを既に履行しているのでは、確かに名称の変更は難しいですね。もうその名称は真名となっていますから」
「…………」

 アポーツ、即ち『物体引き寄せ』とも呼ばれる力は世間的には超能力に類されているが、洋の東西を問わず魔術体系にも同様の効果を得る術式は存在している。とはいえ、インチキ霊媒が見世物でやるような、好きなものを好き勝手に引き寄せるなどという都合のいいものではない。術者は事前に引き寄せたい物品と契約を結び、空間距離を無視させ遍在化させるラインを帰結することで、ようやく当該物を引き寄せることが可能になる。
 ところが、この術は著名なわりに習得が困難な術式としても知られている。その便利さから魔術を学ぶ者は大概この術に手を出すのだが、術式作用を顕現出来る者は万に一人の割合だとされている。どうやら努力云々が介在できない資質の有無に左右されるらしい。しかも、術式を習得できた者でも契約を結べる物品は大概が一つか二つ。よほど資質に恵まれた者でも二桁には至らないとされている。
 ……されているはずなのだが、どの分野にも常識を踏み外す既知外に至ってしまう者が突然変異のように出現してしまうものらしい。中には並のアポーツ遣いとは桁が四つほども違う、七万五千四百十七ものマテリアルと契約を結んだなどというアポーツマスターも魔術史上には存在している。
 幸いにして稀少とも云えるアポーツの才を有していた川澄舞だが、残念ながらというか当然と云うべきか、上記のアポーツマスター……【兵器庫(The Arsenal)】【武装する魔女(ヴァッフェン・ヘクセ)】【砲煙弾雨・多重奏(パラダイスバラージ・アンサンブル)】などと物騒な渾名で呼ばれた術師のように何万ものマテリアルと契約を結べたはずもなく、現状のところ彼女が『ハラキリマル』と呼んでいる剣のみが契約マテリアルだ。
 それでも、好きなときに手元に得物を呼び寄せられるというのはなかなか心強いものだ。実戦では図らずも武器を手放してしまうことも珍しくはない。

「良く考えてみると、舞のアポーツを使えばいつでも自由にハイジャックできますねー」
「……おお」
「佐祐理さん、物騒なセリフを吐かないでください! 川澄もそれは気づかなかったみたいに手を打つな!」

 嗜めたり怒鳴ったり、青年も忙しい限りだ。

「いちいち相手してて疲れないのかね、あの兄さんは」
「あれが性分のようですから、呼吸するのとさして変わりないのではないですか」
「あっそう」

 好意的に解釈すれば、あれも彼らなりの安定した形なのかもしれない。リュカはやる気なさそうに首を竦めた。

「ま、あたしにゃどうでもいいことだけどね。おーい、準備が済んでるんならそろそろ行くよ。愚図愚図してたら夜が明けちまう」





 錆びのせいかなかなか開かない鉄門を、堪え性のないリュカが蹴り破り、後で直さないといけないんじゃないのか、と後ろを振り返ってばかりの久瀬を佐祐理と舞が引っ張りながら、一行は手入れのされていない荒れ果てた庭を抜けて城の奥の門の前へと到達した。

「気をつけなさいよ。基本的にはポルターガイストだけのはずだけど、偶に凶悪な悪霊やら怪物が迷い込んでることもあるみたいだから」
「はい、気をつけます」

 気合の入った返事をよこしてきたのは佐祐理だけだったが、舞も久瀬も真剣な顔をして頷く。なんにせよ、師匠の立ち会わない初めての自分たちだけでの本番だ。リュクセンティナが付いているので実質は変わらないかもしれないが、気分は違ってくる。
 目前の巨大な城門、ではなくその脇にある人間サイズの通用門をリュカが開け、一行はロビーに続いているはずの門を潜った。

「っと、ライトライト」

 中は当然のように光源もなく真っ暗で、リュカが久瀬から手渡された強力なハンディライトのスイッチを入れ、辺りを照らそうとしている。皆の注意がそちらに集まっている中で、一人舞だけが首を後ろに捻り、不信そうに自分たちが通ってきた扉を見つめていた。
 そんな舞の様子に気づいた佐祐理が、親友に顔を寄せる。

「どうしたの、舞」
「う……ん、佐祐理、なにか、変じゃなかった?」
「なにが?」
「門を潜ったとき、妙な感覚がした……ような」
「妙な感覚?」
「リュクセンティナ、妙ではありませんか?」

 二人の小声のやり取りと重なって、同じ単語がリーエの口から飛び出した。驚いて顔をあげた二人だったが、どうやらリーエが捉えた違和感は舞のそれとは違うらしい。金髪の小娘は表情の乏しい面差しに僅かな影を落として、しきりと周囲に目を配っている。

「はぁ? なにが妙なの?」
「気づきませんか。空気の対流、音声の反響から推察するに城の外観から想定される屋内構造よりも、この空間は大きすぎます。リュクセンティナ、ライトを」
「ああ、はいはい」

 ようやく点灯したライトを掲げる。その途端、暗闇に閉ざされていた空間が一気に光に満たされた。

「ぬお!?」

 思わず自分のハンディライトをマジマジと見るリュカ。もちろんそれじゃない。フロアに設置してある電灯に一斉に火が入ったのだ。この城には現在、電気は通電していないというのにだ。
 視界を閉ざす暗がりは取り払われ、煌々と輝くシャンデリアの連なりが、舞たちのいるフロアを光の下に晒していた。

「えっと……ここって」
「……ホテルのロビーじゃなかったのか、ここは」
「あれー、そのはずなんだけど」

 リュカは暢気に城の図面をポケットから引っ張り出してきて覗き込もうとしている。どうやら入り口を間違えたのではと思っているのか。彼女なりに動揺しているらしい。勝手に通電していないはずの場所に電灯が灯った時点でそんな図面を覗いてる場合ではない。
 スルスルと音もなくハラキリマルを抜いた舞が、低く呟いた。

「こんな場所、この城にはなかったはず」

 中世の宮殿に迷い込んでしまったかのような、そこは華やかな装飾に彩られた巨大な空間だった。天井からは目も眩むような輝きを撒き散らすクリスタルのシャンデリアが幾つも釣り下がり、遥か頭上を覆っている天井は勇壮な絵画がパノラマのように描かれている。壁には20近い数の巨大なアーチ型の鏡がはめ込まれ、黄金の燭台が70メートル以上はあろうかという反対側の奥まで無数に並んでいた。十年以上も廃墟となっている城には、あまりに不釣合いな絢爛豪華さ。毎夜のようにドレスでめかし込んだ貴族たちが舞踏会を開いていたかのような華やかな気配が濃密に立ち込めている。それだけに、今のガランと物音一つしない静けさは不気味以外のなにものでもなかった。

「ここ、見覚えがありますよ」

 笑顔を顰めて、キョトキョトと何か確かめるように突如広がったこの空間の随所を見回していた佐祐理がポツンと呟く。

「ええ、間違いないです。子供の頃に一度お父様に連れられてきた事が……でも、そんなはずは」
「ちょっと、もったいぶってないで言って頂戴よ。どこだって」

 不測の事態を迎えて、逆にどこか不遜な雰囲気を濃くし始めているリュカにせっつかれ、佐祐理は躊躇いながらもその名を口にした。

「ベルサイユ宮殿……鏡の回廊」

 その瞬間、佐祐理の言葉がスイッチであったかのように、ワ――――ンッ! と、回廊の空間が揺れた。

「なにか来ます」

 翠眼を面倒そうに眇めて、リーエが天井の方を仰いだ。
 佐祐理の言うとおり此処がベルサイユの鏡の回廊ならば、ル・ブランの手によって描かれたフランドル帰属戦争とオランダ戦争の装飾画なのであろう天井部が戦慄いた。視認できた波紋は三つ、波一つない湖面に石を投げたときのように発生する。
 次の瞬間そこから三つの銀塊が唸りを上げて落ちてきた。

「ふぇ、鎧!?」

 佐祐理の目が大きく見開かれ、久瀬の顔面が引き攣った。
 何もない空間から突如落下してきた銀の塊は、全板金製の西洋甲冑。長大な両刃の剣を胸の前に掲げた甲冑は、直立不動のまま爆弾のような激突音を響かせて床へと着地した。

「なんで、あんなものが出てくるんだ!」

 青年の悲鳴に、精神的外傷を感じさせるひび割れが見られたのも無理はない。
 動く鎧、久瀬俊平が此方の世界に最初に足を突っ込んでしまった事件で、散々な目に合わされた代物だ。
 王に礼するように胸前に剣を立てた板金鎧三体は、7メートルはあろうかという高所から落ちてきたにも関わらず、小揺るぎもせずに動き出し、ガチャガチャと全身を鳴らしながら横隊に並び、シンクロしているかのような乱れの無い動きで一斉に剣を振りかぶった。
 身構える舞、そして佐祐理と久瀬。
 鎧たちが横隊突撃を開始しようと右足を踏み出した、そのとき、

 ド――――グゥワンッ!! と、大砲の音と聞き違う音とともに、中央に居た鎧が久瀬たちの視界から消し飛んだ。
 否、正確にはおよそ十メートル後方、高度にして三メートルの中空を、くの字になって飛んでいた。
 代わりに、立ち止まった鎧二体の間には、パイルバンカーの如く背面突蹴を決めた赤毛の女が――。

「なっ?」

 眼鏡の青年が目を剥く。自分の声を聞くに及んで、ようやく真ん中の鎧がリュカの蹴りに吹っ飛んだのだと理解した。しかも、地面と水平どころか槍投げさながらに斜め上方目掛けてだ。
 今の今に至るまで、リーエ以外の三人はリュカの挙動をまったく察知していなかった。

「っと」

 えらく軽い掛け声とともに、フワリと赤が宙に浮く。浮いた途端、ギュンと真紅が独楽のように渦巻いた。

「イィィヤッ!」

 振り返ろうと身体の向きを変えかけていた左側の鎧の胸部に、メキャとくすんだ音を立ててリュカの蹴りがめり込む。今度は水平だった。金属バットでフルスイングされたテニスボールさながらに鎧は吹き飛び、壮麗な意匠の施された柱に頭から激突、柱を粉々に破壊して瓦礫の山に埋め尽くされる。偶然か、まったく同時に、空中に吹っ飛ばされていた鎧も床に激突してバラバラになって散乱した。
 派手な轟音を背景に、リュクセンティナは螺旋を描いて着地する。そこに、残った最後の一体が、彼女めがけて掲げた剣を唸らせる。重量感に満ち満ちた、人の頭蓋などスイカのようにかち割る剛撃。だが仮にも怪盗を自称する女にとっては、重さは充分だとしても欠伸の出そうなトロくささ。リュカはスルリと鎧の懐に潜り込み、片手で柄を抑えるのみで封殺した。そのまま空いた手の方でむんずと兜と胸冑の継ぎ目を掴む。

「えい!」

 えい、である。お前は小学生か。
 久瀬たち三人は、そんな締まらない掛け声一つで、着込んだ人間がまともに歩行する事すらも苦労するという板金鎧がプラスチックの玩具のように無造作にぶん投げられるという馬鹿げた光景を目の当たりにした。
 クルクルと派手に回転しながら放物線を描いた甲冑は、アーチ状の天井の裾にぶち当たり、これまたグワッシャーンと派手な音を立てながらバラバラになって床へと降り注いだ。

「すご――」

 驚嘆感動を通り越して、佐祐理たちは思わず呆れてしまった。魔術の世界に足を踏み入れてから、常識の範疇に留まらない出来事には慣れたつもりだったが、幾らなんでもこれは非常識という以前になんか身も蓋もない。
 リュカはと言えば、自分に向けられる視線に気付いた風も無く、パンパンと手をはたきながら不思議そうに首を傾げていた。

「っかしいな。リーエ、こんなやつら出るって話だったっけ? この娘たちが相手するにはちょっと危ないでしょ」
「リュクセンティナ、話を聞いていなかったのですか。ここは我々が訪れる予定だった幽霊城とは違います」
「え? ごめん、あいつらが急に出てきたから聞いてなかった。なに? もしかしてあたし入る場所間違えたとか!? ちょ、ちょっと待ってよ、あたしゃナツコと違って方向音痴じゃないぞ!」

 どうやら未だ、基本的に事態を分かっていないらしい。

「……まだ来る」
「え? あっ!! あのー、お取り込み中のところすみませんけど、なんかまたゾロゾロ出てきましたよー」

 リーエとリュカがとんちんかんな問答を繰り返している間に、壁に設置された17面のアーチ型の鏡の中から、先ほどと同じ鎧たちがガキョンガキョンと足音を響かせながら現れだした。
 肩越しに首を捻って確認したリュカは、埃の溜まったテレビの裏側を覗いた潔癖症のような顔になって首を戻した。

「……なにがどうなってるわけ? こんなの聞いてないんだけど」
「ですから、ここは目的地とは違う場所だとさっきから言っているではないですか、恐竜以下ですか貴女は」
「違う場所ってどういう事よ。車運転してたの久瀬ちゃんでしょ。あの子が間違えたっての? そんなはずないわよ、ルートはあたしもちゃんと確認したし、城の外観やなんやも資料にあった写真と一緒だったんだか……」

 リュカは言葉を詰まらせた。ようやく自分の誤解に気づいたのだ。

「異界化作用? んにゃ、それなら扉を潜った途端に厭でも分かるわ。じゃあまったく別の空間に連結されてたの? それとも隔離空間に引きずりこまれた? どっちにしてもあたしが全然気づかなかったって、そんなバカな」

 本来、リュクセンティナは――いや、リュクセンティナの種族はというべきだろう――並の魔術師より遥かに空間の変容に敏感だ。人間が真夏の屋外から冷房の良く効いた屋内に入った際に感じる差異、いやそれどころか大気中から水中に飛び込んだ際に感じるであろう差異と同様のレベルで、微妙な空間の偏差を察知することが出来る。彼女らの種族の飛行原理がまさに空間の偏差を利用しているためである。だから、扉の向こうが異界化していたり、別の空間に位相連結されていたりすればすぐに気づくはずなのだ。ところがリュカは今回、まるでその違和感を感じていなかった。リーエたちと話が噛み合っていなかったのは――リュカだけが事態の異常性に鈍感だったのはその所為だ。ある意味視覚情報よりも皮膚感覚の方を信奉しているリュクセンティナにしてみれば、見た目が違っていても此処が目的地の城の内部ではないと疑う理由がなかったのだ。気づけば無防備にこんな場所に入り込んでしまうこともなかっただろう。

「なんてこったい」

 リュカの顔がスッと青ざめる。逆に言えば、リュカの感覚を完全に誤魔化せるレベルでまったく別の空間を繋いでみせるような魔術師が現状に関与していることになる。この手の空間系術式に他と隔絶した階梯まで到達しているのが東洋魔術、それも仙術系統だ。リュカの知る限り、現欧州全土でこれほどの精緻な位相差術式を操るであろう仙術遣いは二人しかいない。一人はここにいるはずがないことが分かっている。だとすれば、これは残るもう一人の……

 はっきり言おう――――事態は最悪であり状況は最低だ。

「舞、入ってきたところから出れる!?」
「無理」

 間髪入れず答えが返ってきた。
 既に脱出が可能かを確かめていた舞は、開けたドアの向こうに嵌めていた指貫グローブを放り入れて、そのグローブが反射したかのように此方側に戻ってくるのを見せて首を振った。

「ループ状態になってる」
「くそっ、案の定かいッ」
「リュカさん、前! 鎧が」

 鏡から出てきた鎧たちが方陣形を組み、剣を掲げ、凱歌の代わりに甲冑を軋らせ地響きを立てながら前進を開始する。
 佐祐理の警告にリュカは「そういえばそういうのもいたわね」と意識の慮外に置いていた当面の障害に向き直った。だが視線は前進してくる鎧の集団を素通りして、壁面にはめ込まれている鏡の方に投げかけられる。案の定、鏡の中には回廊に出て行こうとしている更なる鎧たちの姿が映っていた。

「湧いてこられたら限がないっての。リーエ・リーフェンシュタールっ、どっかに転送術式の触媒があるはずだ。見つけて破壊――」

 みなまで言わせず、乾いた火薬の爆ぜる音が回廊に響く。数は三射。その全てが壁際に並んでいた彫刻の一つの頭部に炸裂し、騎士の上半身を模していた彫刻は間抜けな首無しと成り果てた。同時に甲冑の姿を映していた鏡が扉を閉ざしたように漆黒に染まる。
 その小さな手に収めるには大きすぎる『H&KMk23』――所謂『ソーコム・ピストル』を軽やかにローブの下のホルスターにおさめ、金髪の少女はそっけなくリュカに告げた。

「破壊しました」

 この女、最初から触媒に気付いてやがったな。だったら素直に最初から壊せよ、捻くれもんがっ。
 噛み付きそうな顔で睨んできたリュカに、リーエは纏わりつく犬を追い払うようにヒラヒラと手を振って言った。

「余所見をしていないでさっさと片付けてください」
「だぁぁ、わーってるわよ!」

 ブワッと一番リュカから離れていた佐祐理が蹈鞴を踏んで仰け反るほどの業火が吹き上がる。押し寄せる凄まじい熱波に素肌を晒している頭部を庇った佐祐理たちが次に見た光景は、足元から吹き上がった爆炎によって四散しながら吹き飛んだ甲冑群の末路であった。

「こんな木偶けしかけた程度であたしをどうにか出来ると思ってンのかっ。ナメるのも大概にしなさいよ、道化師ずれがっ!」
『ナメちゃいないさ、リュクセンティナ。ちょっとした座興と確認さネ』

 どこからともなく響いてきた声に、リュカの双眸が獰猛な光を宿した。

「やっぱりこれは貴様の仕業かっ、リュウウェイ――――」

 その名を、彼女は最後まで言い切ることが叶わなかった。

「ガッ!?」

 突如足元から噴出した真っ黒な闇を固めて造ったような無数の手によって、猛き火焔のごとき女は悲鳴すら発する間も無く、床に生まれていた無明の水溜りの中に引きずり込まれた。
 染み込むように消えていく黒い水溜りに向かって、親しみすら篭もった声が飛ぶ。

『悪いねィ、リュクセンティナ。やはり君は強大すぎるのよん。君が一緒だとゲームバランスが崩れるんだよねィ」
「なっ!?」
「りゅ、リュカさん!!」
『それから君も退場だヨ、人形のお嬢さん』

 ピクっとリーエの片眉が跳ね上がる。その場を飛び退こうとして、リーエは既に自分が膝まで滴る闇に包み込まれていることを知った。

「さて、どなたかは存じ上げませんが、ただの魔術師見習いが過大評価されたものです」
『あはははは、謙虚だね。でもダメだよン。君と彼らを同列に扱うわけにもいくまいサ。なんせキャリアが全然違うもの、SS戦闘団(カンプフグルッペ)ラインの乙女(ライントホター)』最後の四体。いや、それともRWIS備品番号M−95 通称【リトル・バヨネット】、此方で呼んだ方がいいかィ?』
「…………チッ」

 こちらの素性は全部把握済みということですか。

「女性の過去を論う男は嫌われますよ」
『そりゃ失礼』
「それから私は今のリーエ・リーフェンシュタールの名が気に入っています。私を呼ぶときはそちらでお願いしたいところですね」
『了解。覚えとくヨ、フロイライン・リーフェンシュタール』
「素直で良い心がけです」

 リーエは足を絡めとる闇を取り払おうと手にしていた鎌の柄を振りかざす。だが、リーエが自由を取り戻すよりも、闇色をした手の群れが金髪の少女を引きずり込むほうが早かった。トプン、と水深の深い水場に重い石を投げ込んだときのような音を残し、リーエ・リーフェンシュタールの姿は見えなくなった。

「リーエ!」
「リーフェンシュタールっ! くそっ」

 くそっ、なにがどうなってるんだ。
 久瀬は血の気を失いながら、呆気に取られている佐祐理の肩を引き寄せ訴えかける。

「離れないでください佐祐理さん。川澄、お前もこっちに来い。気をつけろ、なにが起こるか分からんぞ」

 気をつけろといいながら、久瀬は自分のその言葉の無力さを痛感していた。リュカとリーエがあれほどなす術も無く地面に飲み込まれてしまったのだ、素人に毛が生えたような自分達が幾ら気をつけたところでどうしようというのか。まったく対応策を思いつけない自分を久瀬は小声で罵った。
 浴室の中を反響するように、からからと楽しげに声が笑う。

『まあそんなに構えないでヨ、お三方。あの二人は此処とは別の所に放り込んだだけで危害は加えてないヨン、だから安心しなってばサ』

 分かったものか、と久瀬は唇をひん曲げる。何者ともつかない相手にこんな場所に放り込まれて、易々と信用する馬鹿がどこにいる。
 いや待て。何者ともつかない?
 久瀬はそこでようやく自分の胸に引っかかっている違和感に気付いた。
 僕は……この声の主を知っていないか?

「どういうつもりなの、ウェイラン!」

 久瀬と、そして佐祐理もが、頭を殴られたかのように突如声を張り上げた舞を振り返った。
 知っているのか、この声の主を!?
 舞は明らかに怒っている様子だった。だが、久瀬や佐祐理が感じているような怖れや緊張はあまり感じられない、どこか知り合いの子供に立ちの悪い悪戯を仕掛けられたみたいな怒り方だ。

「ちゃんと出てきて説明してっ。でないと、二度と口をきいてあげないから」
「ま、まい〜?」
「川澄、お前なにを」

 二度と口を聞かないって、子供の喧嘩じゃないんだぞ!?
 面食らった久瀬が舞を咎めようとした途端、

『ええ!? やっ、ちょっと待ってヨ。それって本気?』

 それまで声に満ちていた、此方の不安を掻き立てる得体の知れない不気味さが掻き消える。
 慌てだした声は、もうなんというか浮ついた情けないトーンへと一気に下落してしまった。
 舞は低い声で姿の見えない相手に告げた。

「私は怒ってる」
『ま、参ったねィ。まさかそういう脅迫のされ方をされるとは思わなかったヨ。でもねぇ舞、別に君に口をきいて貰えなくても困ることはないんだけどねィ……』
「私は怒ってる」

 口をへの字に曲げて舞は同じ言葉を繰り返した。

『わ、わかりましたよゥ。出て行きますよゥ、出てきゃいいんでしょ。あーもう、なんか色々台無しさネ。君が相手だと調子狂うなァ』

 一番手前の鏡の中から、その男は現れた。
 渋々といった風に頭を掻きながら姿を見せたその男は、針のような細い目をした、一見人懐っこいようにも見える薄笑いを貼り付けた東洋人だった。
 その姿を見た瞬間、久瀬と佐祐理はあっと声をあげた。

「お前は!」
「貴方はたしか」

 どうして今まで忘れてしまっていたのか。まるで暗幕を取り払ったかのように、その男のことが脳裏に思い出されていく。

「劉偉狼、貴様!!」
「あー、ほら直接顔を合わせちゃったから暗示が解けちゃったじゃないの。ま、別にいいんだけどねン」

 ひょいと肩を竦めて見せた道化師だったが、すぐにそのヘラヘラとした薄ら笑いを引き攣らせる羽目になった。いきなり爪先と耳元を掠めるほどの距離に銃弾を叩き込まれたのだ。

「……はずれた」

 不本意そうに硝煙を立ち昇らせているガバメントに視線を落として首を傾げる舞。

「ははっ、は、はずれたじゃないってばさ。いきなりなにすんの!?」
「ん、なんだか調子に乗ってるからちょっとお仕置きしようと思って」
「舞さん舞さん、お仕置きって君、当たってたらどうすんのヨ」
「……え。当たると拙かったの?」
「当たり前です。今のオレ、生身生身。当たり所悪かったら死ぬに決まってるさネ! っていうか、未だかつてこれほど死を身近に感じたことはなかったですヨ」
「でもウェイランだし」
「ウェイランだしって……君ってばオレのことゴキブリとかゾンビかなんかと勘違いしてないかィ?」
「……似たようなものかと。いつも湧いて出てくるし」
「おおい!」

 劉偉狼の笑みを強張らせるというどんな魔術師や怪物でも出来なかったことを物凄くナチュラルにやってのけた舞は、少し小首を傾げて考え込むと、とりあえず左手に持っていた剣を背中に背負っていた鞘に仕舞い、銃は後ろ手にまわしてペコリと頭をさげた。

「危ない真似をしてごめんなさい」
「……どうしよう、なんか謝られちゃったヨ?」
「いや、僕に聞かれても」

 困る久瀬であった。
 ちゃんと謝った舞の方は、すっきりしたように息をつくと、仕切りなおしとばかりに道化師に向けて銃を構えた。

「どういうつもりなのか云わないと、撃つ」
「舞さん舞さん〜、そういう台詞を撃った後に言うのは反則じゃないでスか」
「私は気にしない」
「気にしてくださいヨ」
「私は謝ったんだから、ウェイランも気にしないで」
「うわっ、すっげー自分勝手」
「大丈夫、他の人には私は謙虚」
「やー、オレは特別扱いですかァ…………全然嬉しくないのは何故?」

 あの道化師に一歩も引けと取らずにやり取りをしている親友の姿に、佐祐理は胸の前で手を組んで目を潤ませた。

「ああ、舞がなんだか逞しくなってますよ、俊平さん。頼もしいです」
「…………そ、そうですか?」

 道化師と同じく舞の勇姿に全然嬉しくも無い久瀬であった。

「ここはどこ、ウェイラン。リーエたちをどこにやったの? いったい私たちをどうするつもり」
「はいはい、説明しますします。ここはですねィ、宝貝の中さネ」
「ぱおぺい?」
「仙人が使うという魔術装具のことです」

 鸚鵡返しに繰り返した佐祐理に久瀬が注釈する。

「知ってるなら話が早いねィ。此処は内部にオレが創った擬似世界が内包されてる宝貝の、まあロビーって所だねィ。リュクセンティナと元人形のお嬢さんはこの世界の最下層あたりに送り込んでおいた。君たちと一緒だと、ゲームバランスが崩れちゃうからサ」
「ゲームバランスだと?」
「さっきも同じような事を言っていましたね、どういう意味ですか?」

 道化師はにやにやと笑うだけで佐祐理の質問には答えず、代わりにこんな事を口にした。

「君達は、【群青色】と呼ばれる師父の指導に欠けているものがなんであるか分かっているかィ」
「欠けているもの、ですか?」
「……品位か?」

 道化師は腹を抱えて爆笑した。

「こういう状況下で真面目な顔をしてそういうこと言える君のこと、結構好きだよン」

 久瀬は心底嫌そうな顔をして劉偉狼をにらみつけた。

「そう怒らないでよねィ。まあ品位のあるなしは退魔師になるにはどうでもいいことさネ。人としては大事なことかもしれないけどねィ」
「じゃあなんなの。欠けているものって」

 劉偉狼は、意を得たり、とばかりに鋭く告げた。

「危険さネ」
「…………」

 舞たち三人の空気が固くなる。気がついた様子も無く浮ついているとすら云える口振りで彼は続けた。

「彼は君達の安全に異常なほど気を配っているみたいさネ。あのリュクセンティナ・リンフェーフが付き添ってるって意味、わかってるかィ? オマケに同じ生徒とはいえリーフェンシュタール嬢まで一緒だヨ。さっきみたいな甲冑どころか、人狼だのトロールだのが束になって襲ってきても君達は傷一つ負わないだろうねィ」

 でも、と口ずさんだ偉狼の口元は、それこそ道化師のようにニタリと歪む。

「それで君達の技量はどれほどあがるんだろうか。安全装置を何重にもかけた命の危険がまるでないぬるま湯ばかり繰り返しても、それじゃあ相応、それなりにしか腕はあがらない。この世界は想像以上に非情で過酷さネ。そんな悠長なことで生き残っていけるのかィ?」
「それは……」

 動揺を露わにしてなにかを言いかけた佐祐理を、久瀬が遮った。

「僕たちはまだ基礎を習得している段階だ。安全に気を配るのは当然だろう。だいたい、命のリスクを負うにはまだ未熟すぎる。こういう事は順を追って段階を踏むのが正しい道筋だ。急ぎすぎるべきではない」
「なるほどなるほど。OK,君のいう事は正論さネ。でも、敢えて反論を言わせてもらうとねィ」

 道化師はケタケタと笑う己の顔を右手で覆い、楽しくて仕方ないと言わんばかりに左手を振り上げ、愉悦の声を弾ませた。

「――それじゃあのんびりし過ぎててオレが、この劉偉狼ちゃんが退屈なのさネ!!」
「なっ!?」
「きゃっ!?」

 偉狼が高らかに叫ぶと同時に、闇色の液体が足元から吹き上がり、久瀬と佐祐理を一気に飲み込む。

「佐祐理っ、俊平っ! ウェイラン、なにを――」
「ゲームさ。ゲームさネ。文字通りのねィ。ただ、仮想現実じゃないのでご注意を」

 偉狼を制止するか、直接自分で二人を助けるか、舞は迷い、不意に訪れた脚部にねっとりと絡みつく感触に、そのどちらもが不可能になったと知った。一瞬で闇が手にまで這い上がり、握っていたガバメントがポロリと落ちる。銃は床で跳ねる事もなく、滲んだ黒い泉の中に沈んでいった。
 痙攣したまま虚空を掴もうとする舞の手に、ふわりと劉の手が添えられた。

「舞、川澄舞。こんなにも無垢で綺麗でありながら強靭でしなやかな心の持ち主。君のような人に逢ったのは初めてなのさネ。オレには弱い心を手折るような趣味はないけれど、君のような心が自ら堕落していく姿は興味あるのヨ。いや、正確にはその瀬戸際で必死に抗う輝きと翳りに、というべきかしらん」
「うぇい、らん?」
「オレは何も直接手をくださない。ただ舞台を整え、悪魔は耳元で囁くのみさネ。選ぶのはいつだって当人サ。今日に限らず、それはずっと忘れずにいることだねィ。さて、じゃあゲームスタートだ。タイトルは道化師の不思議なダンジョン。脱出めざしてがんばろー。あ、コンテニューは勿論なしだから死なないように気をつけてねん♪」

 手の甲に口付けを残し、ヒラヒラと手を振るにこやかな劉偉狼の姿を最後に、舞の意識はプツンと途切れた。














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