地域情報誌というものは、記事に興味がなければ読んでいてもとことん退屈で詰まらない。まあ、それは別段情報誌に限らず雑誌全般に当てはまる事だろうが。
 一通り花火大会に関する特集に目を通したところで字面を追う気力すらも失った物部澄は、此花春日が買ってきたその雑誌をテーブルの上に投げ出し、代わりにチェック柄のクッションを胸に抱き締め、口許をふかふかな生地へと埋めた。
 春日が高校に入ると同時に一人暮らししているマンションは、もう二年半にもなろうかというのにどうしてか未だに生活感が感じられない。箪笥にテレビ、ビデオ、ソファー、テーブルにベッドなどきっちり揃えられた家具、壁掛けや水色の明るい色のカーテン、部屋の各所に散在する生活雑貨、一見すればそこに生活感が感じられないという澄の感想は不可解とすら言えよう。だが、澄は思うのだ。ここにある生活感はモデルハウスかドラマのセットのような偽物だと。
 どうしてそう思うのかは澄にも分からない。ただ、無性に寂しいのだ。この物部澄が寂しさなんてものを感じるなんて馬鹿げているけど。

「澄ーお待たせ、出来たよ。ボンゴレボンゴレ」

 パスタを持った大皿を、エプロンをした春日が危なっかしい足取りで運んでくる。澄は柔らかい笑みを目元に浮かべて彼を出迎えた。

「どう? けっこう自信作なんだけど」
「……70点ね」
「くぁー、微妙だね。ギリギリ合格点?」
「そんなところね」
「ふむ、澄を満足させるのは難しいよ。料理でもそれ以外でもねー」
「……それ以外ってなに?」
「えへへー♪」

 精進精進と呟きながら、春日はフォークをクルクルと回している。回しすぎて繭のようになったパスタをあーんと大口を開けて飲み込んだ。行儀の悪い食べ方だが、春日がすると妙に愛嬌があって微笑ましい。無意識に手を止めて春日の食べっぷりに目を細めていた澄に、不意に春日が目線を手元に落としたまま世間話のように話し掛けてきた。

「澄、今日も帰らないの?」

 澄は食事の手を再開し、春日から視線を外してから答える。

「ええ」
「……あのさ、あんまりあたしの家、入り浸ってると澄のご両親、心配しないかな」
「なにを……」

 フォークの切っ先が皿に当たり、予期せず甲高い音が響く。だが澄の声音は平静のまま、淡々と、

「なにをいまさらなことを言っているの?」
「うん……そうだね、いまさらだね」

 澄が自宅にあまり帰らずに春日の部屋に入り浸るようになってもう二年以上になる。いまさらだ。本当にいまさらだ。

「どうかしたの、春日。随分とそんなこと言わなかったのに」
「ううん、別に。ちょっと思っただけだから」
「……ウチの親になんか言われたの?」
「違う違う、それは澄の思い過ごし」

 にぱーっと笑って女の子のような少年は澄の疑念を否定した。
 一応それで納得してみせ、澄は食事に注意を戻す。だが、意識は常に春日から離れない。
 この部屋に、春日の住処に入り浸るようになったのはいつからだったか。一年の夏休み、多分それぐらいからだったと思う。それまでも学校の帰りに寄ることは連日だったが、彼が此処に暮らし始めて一ヶ月経っても二ヶ月経っても、どうしてかこの部屋に此花春日という色を感じることがなかった。どれほど家具や生活雑貨が空間を埋めても、四方をコンクリートの壁に覆われた冷たい空間という印象を拭えなかった。我慢出来なくなったのは、夏休みに入り学校がなくなろうというとき。物部澄は耐え切れなくなったのだ。春日が、あの太陽のように明るい春日が、夜一人でポツンと空虚に蹲っている想像に。それはただの妄想、思い込みだったのかもしれない。春日は寂しさなんか全然平気だったのかもしれない。だが、時折春日が酷い鬱状態に陥る事を、それが彼の本当の顔の一つだと知っていた澄には、自分の恐怖が単なる妄想だと振り払う事が出来なかった。
 そしてその時物部澄は、自分があの男らしさの欠片も無い女男に尋常でなく、いっそ狂的とすら表現できそうなほど心奪われている事を知ったのだ。
 結局、一年の夏休み。物部澄はおよそ三十日に渡って春日の部屋に入り浸ったまま自宅には帰らなかった。昼夜を問わず春日の傍から離れなかった。
 それまで恋人同士といっても手を繋ぐことすらも儘ならなかった二人の関係が、随分と爛れた熱っぽいものに進んだのもその時だ。
 その後、この件で澄は、元々仲が良いとは決していえなかった両親との関係を修復不可能なところまで破壊してしまっている。今でも春日がそのことについて悩んでいることを知っているが、澄は両親との壊れた関係を回復されるつもりはなかった。奴らは、決して言ってはならないことを言った。許せるものか。

「澄、ごめんね。変なこと言って」

 酷く沈んだ春日の声に、濁った怒りの念に囚われていた澄は意識を引き戻された。

「ごめんって、別にあんたが謝ることじゃないじゃない」
「うん、でも」

 対面に腰掛けていた春日は、食事の手を止めて立ち上がると、澄の背後に回りこみ、首に手を回して少女を抱きしめた。小柄な春日だけれど、こうすると澄をすっぽりと包むように抱きしめられる。

「澄に怖い顔をさせちゃった。ごめんね、もう言わないからそんな顔、澄はしないで。哀しくなるよ、あたし」
「…………」

 澄は沈黙したまま胸に回された春日の華奢な手に自分のそれを添えた。どうしてだろう、うなじがチリチリと逆立つ。暖かな春日の温もりを打ち消すように、胸の奥からゾクゾクと悪寒のようなものが這い登ってくる。喉が、ゴクンと激しく鳴った。


 ――愛シテル


 明滅する意識。瞬間、体中の血管が沸騰したような灼熱が駆け巡り、どうしようもないくらい激烈な飢餓感が脳天を貫いた。
 気がつくと、背後から抱きしめていた春日を、逆に床へと押し倒し、その小柄な体の上にのしかかっていた。

「どうしたの? 澄」

 春日はちょっと驚いたように、でも余裕を失わずに愉快そうな光を双眸にたたえながら下から澄を見上げていた。自分の目が血走っているのが分かる。瞳孔が収縮し、呼吸が狭まり、血圧が爆発しているのがわかる。


 ――コイツヲ、愛シテル(タベテシマイタイ)


「あらま、珍しいね、澄がそんな積極的なんて。いつもは子猫みたいなのに」
「ごめん、なんか分からないんだけど……我慢、出来そうに無い」

 ヘタに我慢しようものなら、本当に――コ※シテ、バ※※ラニシテ、※ッテシマイソウだ。
 おかしい。何かがおかしい。頭の中で、得体の知れない何かが――嗤っている。うるさい、うるさい、うるさいっ!!
 哄笑に、春日の楽しそうなクスクス笑いが重なった。

「いいよ、今日は澄の好きなようにして。えへへ、手篭め手篭め。初めての頃みたいだ」
「……春日」

 皮を剥ぐように、組み伏せた小さな生き物から余分なものを毟り取っていく。熱い、火で炙られてるみたいに熱い。気が狂いそうだ。噛み付くように、澄は白い首筋に唇を這わせた。小さな生き物はか細く哀れな悲鳴をあげる。その鳴き声に歓喜し欲情し激しく情念が煮えていく。呼吸を荒げながら身体に纏わりついて仕方の無い邪魔な衣を引き剥がす。

「うあ、かはっ、あ、あああっ!!」

 くねらせた腰を落とした瞬間、澄は確かに獲物を貪る己を感じた。喰らえ、喰らえ、喰らい尽くせと身体に巣食ったしたたる闇が哄笑していた。

「あっ、ああああっ、あああああああああああ!!」

 頤を反らし、天に向かって顎を開き、女は本能のままに咆哮した。

 何度満たされてもなお、飢えと渇きを忘れられない。
 それは獣の、歓喜と慟哭と。














§  §  §  §  §















 ―――― 帝都


 千代田には森がある。
 狐狸や猪が暮らし、幾多の鳥が住処とし、無数の魑魅魍魎がたゆたう森が。
 一千と二百万もの人間が蠢く都会の只中に、その森は実在した。

 異界である。




 涼しいものだ。
 離れへの小道の途でふと立ち止まり、手入れの行き届いた庭の向こうに黒々と佇む森の偉容に目を配りながら、彼女は熱帯夜の続く東京とは思えぬこの場所の薄ら寒さに思いを馳せた。
 そう、薄ら寒さだ。木に覆われたが故の涼しさだけではない、神域を満たす清浄を自分の存在が濁らせてしまっているかのような畏れが、寒さとなって身を縛ろうとする。
 足音すらも恐れ多く、忍ばせながら小道を辿れば、その先にはポッカリと拓けた地があり、こじんまりとした平屋が鎮座していた。周囲を森に囲まれている所為か、一見庵のようにも見えるが良く見ると端々に人の住まう生活臭が感じられる普通の一戸建てだ。
 此処に来てあれを見ると妙な安心感を感じるな、と苦笑しながら、まだ明りの灯っている玄関に立ち、彼女は名乗りをあげた。

「陰陽頭・朽木静那でございます。主上におわしましてはもうご就寝あそばされましたでしょうか」

 はーい、と奥から鈴を転がすような声が聞こえ、パタパタと足音が近づいてくる。ドアを開けて顔を覗かせたのは女官の五十鈴だった。

「ご連絡は承っております。桜子さまは応接室にてお待ちですわ」

 無言で頷いて応じ、朽木は五十鈴のあとに続いた。通された応接間には、薄い夜着の上に淡い色のカーディガンを羽織った少女が湯気の立ち上るティーカップを両手に添えて膝の上に置き、瞑目していた。

「夜分遅くに申し訳ありません、陛下」
「構いません、申し述べなさい」
「勅許を、賜りたく」

 その言葉に、少女は瞳をゆっくりと開き、水鏡のような透明な双眸を朽木に据えた。
 心に一抹の穢れでもあれば耐えられずに膝を折ってしまいたくなる眼差しだ。だが、朽木は怯むことなく押し殺した声で告げた。

「征夷八色を、繰り出します」
「八旗を?」

 しばし少女は沈黙すると、ティーカップを置き、扉の前に控えたままの朽木に座るよう促がした。

「このような時間に貴女自らが出向き、八旗の出陣を求めるとは、一刻を争う事態なのですか?」

 言外にそのような報告は届いていないと疑問を呈され、朽木は厳しい顔つきを緩めぬまま眉間に皺を寄せた。

「先日、邑紙(ムラカミ)家の下部組織が内部分裂を起こしたことは覚えておいででしょうか」
山浦(ヤマウラ)衆、でしたね」

 少女は微かに首を上下させ、記憶を辿るように膝の上に置いた手を重ねなおした。

 邑紙家と言えば武を以って魔を退ける戦守部七本槍家の一柱だ。国家中枢に深く根を張る七本槍家に邑紙も違わず、陸軍筋に多く人材を派遣していることでも知られる。山浦衆は直接的な武力を好む七本槍の系統には珍しく、西洋魔術を積極的に取り入れた邑紙家の懐刀として知られていた。その山浦衆が先日、構成員の半数近い離反者を出したのだ。それだけなら神祇省を中心とする当局が動く事態でもなかったのだが、問題は彼らの離反内容が非常に危険な意図に基づくものであったということだった。
 人間唯一主義、もしくは異種廃絶主義。つまり人間以外の知的存在を敵視し根絶するを善とする、現在の妖魔精霊との融和共存を是とする日本国にとっては危険すぎる思想を、彼らは堂々と掲げて組織より離反していったのだ。
 過去、欧州大陸で幻想種の多くが現実世界から各々が造りだした隔離空間へと退避せざるを得なくなった聖伐闘争や魔女狩りなどの著名な例を引くまでもなく、異物を拒もうとする人間の心理は常に時代の大勢として異種族との軋轢を生み続けていた。それは現代に至っても決して失われることなく、国家の中枢にも拭われることなくこびりついている。ましてや妖魔や魑魅魍魎と常日頃から剣を交える立場にある退魔を生業とする者たちの間に、こうした思想が根付いているのはどこにも不思議たる理由は存在しない。だが、内心本音はどうあれ、国家機関やそれに類する規模の退魔集団に属する者たちは、本来そうした思想を露骨に表に出すものはいない。国家の方針はあくまで融和であり、またこの国では妖たるものたちは厳然と力ある存在として各地に勢力を誇っているからだ。中には皇室や政府中枢、社会そのものに対して影響力を持つものたちも少なからず居る。そうした状況下であからさまな本心を高らかにのたまうのは賢い所業ではないと、誰もが理解している。
 それでありながら、いやだからこそ、国家そのものだけのみならず妖種たちをも敵に回しかねない思想を振りかざして、所属する組織を離反する者たちが現れたという事態は異様であり、また危険であったのだ。

「神祇としては事態を穏便に収めるつもりだったのですが、どうやらそういう訳にもいかなくなりました。拠点は既に突き止めてあります。我々としては即時に制圧に取り掛かるべしとの方針を固めました」
「即時に、ですか。穏やかではありませんね。彼らはいったいなにを仕出かそうとしたのですか?」
「詳細はまだ掴めておりません」

 それまで淡々と静聴するだけだった少女の表情が、不可解そうに揺れた。少女の知る限り、朽木静那は慎重居士に属する人品の持ち主だ。だが、詳細も掴まぬうちからろくな話し合いも経ずに制圧に掛かろうという攻撃的な性急さは彼女の方針からはかけ離れている。どういうことなのか、少女が抱きかけた疑念は次の朽木の一言によって払拭された。

「物部を……」

 瞠目する少女に向かって、頭に白いものが混じり始めている陰陽頭は厳粛な口振りで言い放った。

「彼奴ら、物部を起こす心算です」
「……平国之剣。かの【神剣】ですか。なるほど、本当に穏やかではありませんね」

 少女は年齢にそぐわぬ厳しい顔つきとなり、透明な視線を眇めた。
 明治七年、奈良県石上神宮の禁足地よりの剣の出土に端を発する幾度かの忌み事。
 それら過去の惨劇を思えば、朽木静那と言えども巧遅より拙速を尊ばざるを得ないのも無理はない。
 なにより、あれは所詮は俗世の柵に囚われている七本槍などに触れさせて良いものではない。槍家の直属、また警察や軍の部隊に任せず皇家直参を使おうという朽木の判断は彼女の立場では妥当なものだ。

「わかりました。八旗の先触れ、許しましょう。ですが陰陽頭」
「なんでしょう」
「剣はまだ顕現していないのでしょう? 離反者の捕縛のみならば衛士衆で充分ではないのですか?」

 むしろ拠点の急襲制圧なら、軍隊として組織訓練されている御陵衛士隊の方が適しているということぐらい、少女にもすぐに分かる論理だ。だが、陰陽頭は抑揚の無い声音で静かに言い切った。

「万全を期すためでございます」

 だがその返答に少女は満足しなかった。

「……陰陽頭、彼らを唆し、後背に附いたは何者ですか?」

 重ねて問い掛けられた朽木は、無表情を維持できず今度こそ顔色を失った。

「それは……」
「そもそも槍家のものが寄り代より離れ、布都御霊などという大それたものに手を出そうという事自体がおかしい。後ろにそれなりのものが付いていなければ為しえず、また為そうとも思わぬことでしょう。この画策、ナニモノが為したことですか?」

 本来ならばわざわざ聞かずに置き、臣下に任せるべき事柄であっただろう。だが少女には、主として知るべき事柄を知らぬままのうのうと護られるを良しとしない気概があった。
 瞑目したまま口を噤んでいた朽木は、やがて己の不明を恥じるように頭を垂れた。

「恐れ入ります」
「頭を下げる必要はありません、朽木。差し出がましい真似をしているのはわたしの方なのですから」

 朽木はゆるゆると首を振った。我らのところで留め置き片付けるべき事柄、心を痛められるような情報をお聞かせしたくはないというこの思いを間違っているとは思わないが、それでも訊ねられれば答えるのが己の責務だ。

「確証はございません。ですが、諸々の状況から恐らくは――――緑龍会」

 その名前を聞いた少女の双眸に、翳りが過ぎった。

「緑龍会、あの昭和の亡霊が……。先年のFARGO壊滅で勢力を失ったと思い込んでいました」
「FARGOは所詮、会の研究組織の一つに過ぎません。彼奴らの根は思いのほか深く、広い。生半に根絶できるものではありません。彼らが背後についている以上、離反者たちも以前のままと考えては危険です」
「ゆえに、万全を期すということですか」
「はい」
「なるほど、よくわかりました」

 涼やかに囁き、少女は肩にかけたカーディガンを胸元に引き寄せながら音も無く立ち上がった。
 話はこれで打ち切りというサインだった。

「頼みます、良きに計らいください」
「御意」

 深々と頭を下げて、応接間を辞していった当代の陰陽頭の気配が屋内より消え去ったのを確認し、佇んだまま身動ぎもせずに森のざわめきに耳を傾けていた少女は苦しそうに肺に溜まった空気を吐いた。

「憂鬱そうですねえ、桜子さま」

 すっかり冷めた紅茶のお代わりを携えて現れた女官は、主の不景気そうな面差しを見て、暢気そうにのたまった。
 あっけらかんとしたその口振りに、少女はカップを受け取りながら少しムッとした。

「懸案は山積する一方、これで憂鬱にならないでいられるほど楽天家ではないわ。五十鈴、私はこれでもまだうら若き娘なのよ。国の舵取りに胸を痛めるのも責務でしょうけど、度というものがあるでしょう。挙句に今度は物部、しかも後ろには緑龍会。槍家も互いを牽制し合って肝心なときには役立たず。朽木をはじめ皆は良くやってくれていますが、頭が痛いわ」
「そういう時はね桜子さま、さっさと布団を被って寝てしまうのが良いんですよ」

 立ったまま一息にカップの中身を飲み干した少女は、身も蓋もない女官の言い様に、陰陽頭を前にしていた時のような透明な眼差しなど欠片も残っていない胡散臭そうな目つきで発言の主を睨み、放り出すようにカップを女官に預け、踵を返しながら投げやりに言い放った。

「今日は休みます、それでいいのね五十鈴」
「はい♪」






 五十鈴に送り出され、先刻通ってきた小道を行きがかりと同じように足音を顰めながら帰っていた朽木静那は、強張ったままのこめかみの手を当て揉み解した。

「ふぅ、主が聡いとやり難くて敵わないわ」
「ふーん、大変ね陰陽頭さんも。でもさぁ、愚物よりマシじゃないのかしら?」

 気配も何も無い所から不意に奔放そうな声が飛んでくる。やや低めのハスキーボイスだ。静那は驚いた様子もなく歩調を緩め、声の主が闇の奥から姿を現し傍らに添うのを待って言った。

「それはその通りだが、お前に言われると腹が立つわ、何故か」
「……それはこっちの台詞なんだけど」

 梢の隙間から月が差し込み、隣を歩く者の姿が青い光に浮かび上がる。麗人がそこにいた。顎の尖った端正な面差し、それでいて鋭利さよりも柔らかい余裕を感じさせる仄かな微笑が絶えず浮かんでいる。青々とした艶やかで癖の無いストレートの漆黒の髪が踊るように腰のあたりで揺れていた。全体を革の上下で包んだその身は槍のように細く、葦のようなしなやかを見て取れる。街を歩けば男女の区別なく十人に七人は思わず振り返ってしまいそうな妖艶な色気に満ち満ちている。
 横目に飄々と歩くそれを見やり、密かに朽木は舌打ちした。まったく、何度見ても忌々しい。これで来年は五十に差し掛かろうという自分とさほど変わらぬ年齢だというのだ……いや、それはまだいい。何より腹立たしいのは、コレが性別で分類するなら男に属している(・・・・・・・)という事実だ。
 巷ではバイセクシャルというそうだが、旧いタイプの人間である朽木にはオカマとしか理解できない。そのオカマが選りにもよって我ら神祇が切り札たる八旗総頭の一人とは。しかも腕が立ち、頭も切れ、融通も利く飛びっきり有能な人材だなんて、気に入らないったらありゃしない。
 むろん、老練なる陰陽頭は本心などおくびにも出さず、傍らの男(女?)に語りかけた。

「勅許は賜ったわ、紫極旗総頭 月城漣。状況はどうなっています?」
「状況ね、はいはい。黄綬旗は既に全員現地に向かってるわ。私の紫旗と白旗はメンバー集結を待って今夜中に出立予定」
「作戦決行は?」
「予定通りならば明朝よ。それにしても三旗もが一堂に集うなんて何時以来かしら、気張ったものね朽木殿」
「万全を期すためよ」

 女の固い声に月城漣は肩を竦めた。良く耳をそばだてても、男のものか女のものか分からない心地よいハスキーボイスが独りごちるように呟く。

「ま、神剣なんてものの顕現を考えればそれでも心もとないくらいよね。まったく、くーちゃんの手でも借りたいところだわ」
「くーちゃん?」
「云うなれば現代の神剣さまよ」
「ふん、錆びた斬刃(ラスティ・ブレイド)のことか。そう言えば、彼女もお前と同じ【Dominate Fifth】だったわね。だがあれは槍家の者だ、今回は介入させるわけにはいかない」
「へいへい、私たちでなんとか出来るように頑張るわ」
「お前たちでどうにか出来なければ、あとは総力戦よ。本当に、明治の御門家の二の舞だけは御免だわ、そこのところ、良く弁えて頂戴」
「確かに、ゾッとしないわね。山浦の連中がまだ剣の顕現に成功してなきゃいいんだけど」

 げんなりと首を竦めた漣だったが、ふと隣を歩いていたはずの朽木が立ち止まっていることに気づき、肩越しに表情の無い陰陽頭を振り返った。

「月城漣、分かっているわね」
「……ええ、気は乗らないけどね」

 不機嫌そうに顔を背ける女装の麗人に向かって、言い聞かせるように女は冷酷に告げた。

「状況如何によっては物部の末裔(すえ)、顕現前であろうと抹殺しなさい、厳命よ」

 朽木からは、背を向けたままの彼の表情は窺えない。だから、脳裏に浮かんだ光景は、ただの想像に過ぎない。過ぎないはずなのに、朽木にはそれが現実のような錯覚を覚えた。この男を気に入らないゆえの妄念だろうか。死人のように冴え冴えと冷え凝った背中の向こうに浮かぶ顔が、哄笑に歪んでいるなどという想像は。

「御用命とあらば、如何様にも」

 抑揚の無い彼の声には、清水に濯がれてしまったかのように感情の一欠けらも窺えなかった。







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