「では行ってきます、美汐姉さん」

 夜半にも関わらず太陽のように晴々とした笑顔。ニコちゃんマークを容易に連想できるような表情をした天野小太郎は、玄関まで見送りにきてくれた従姉に一夜の別れを告げた。そこに、家に残る従姉を心配する気持ちなどビフィズス菌ほども見当たらない。何しろ本人はこの世の春を謳歌しながら幸せ一杯夢がモリモリ、というオーラを撒き散らすので手一杯なのだからして。
 一瞬、殺意すら感じてしまった天野美汐だった。

「こ、小太郎」

 血を吐くようにこの薄情者の名を呼んだ。
 なにがでは行ってきますだ、誰が好き好んで見送りになど来るものか。本心を言わせて貰えば、殺してでも引き止めたいところなのだ。こやつが外泊してしまえば、和巳兄さんと今晩二人っきりになってしまう。幾らなんでもあんなアドバイスを澄から貰った当日に一夜を二人きりで明かす羽目に陥るなんて、出来すぎもいいところだ。もしかして澄に謀られたのだろうか、小太郎も一枚噛んでいるのだろうかと真剣に疑っている。無論、本当に偶然なのだが、今の美汐にはそんなこと信じられるはずも無い。
 絶望を感じながら、美汐は縋るような目で小太郎を見つめた。あらん限りの祈りを込めて、いかないでください、と訴える。

「あー、またそんな目で見て。大丈夫です、秋子さんにはご迷惑はおかけしませんから」

 完膚なきまでに通じてなかった。この従弟とはまるで心が通い合っていなかった事が判明。
 一瞬、本気で殺してやろうかとすら思う。だってほら、殺人事件が起これば警察が来てくれてこの家にあの人と二人っきり、なんてことにもならずに済むし。
 包丁、包丁はどこでしょう?

「それでは、おやすみなさい、美汐姉さん」

 間一髪、美汐の殺意が本物になる前に、小太郎が話を打ち切った。

「は、はい。あ、秋子さんによろしくお伝えください」

 待ちなさい、私を置いていかないでっ、と口走るより早く、勝手に口が当り障りの無い言葉を紡ぐ。この期に及んで本音をいえないかわいそうな女、天野美汐。

「わかりました、では」

 ガラガラと引き戸が開き、ピシャンと前途を塞ぐかのように閉ざされた。同時に視界が暗くなり、美汐はヘナヘナと膝から崩れ落ちた。
 どうしようどうしようどうしよう。グルグルグルグル頭の中で慄きが回る回る。

「ふ、二人っきり。一晩、兄さんと二人っきり」

 台所で火にかけてあったヤカンが沸騰してシューと鳴っている。だが、美汐はその音が自分の顔から吹き出ている音だと錯覚した。
 一つ屋根の下に年頃の男と女が二人きり。澄の所為だ。あの女が変な助言を口にするから、妙に意識してしまっている。和巳兄さんと二人きりなんていつものことだったのに。
 でも、

「もう、三年前とは違う、のですよ」

 うめきを飲み込むようにして、美汐は現実を口にした。
 そう、もう自分は子供ではないのだ。ただ大事にされるだけの、与えられるだけの子供ではないし、私も子供のままではいたくない。

「…………うう」

 それはわかっている、わかってるけど、心の準備というものだってあるじゃないか。まさか今日の今日でこんな機会が訪れてしまうなんて。

「こんな事なら帰る前に新しい下着を買っておくんでした、って違います!!」

 頭を抱えてイヤイヤと首を振る少女。
 待て待て待て待ちなさい私。落ち着いて考えなさい。そうです、確か新しい下着なら先週青と白のストライプのものを――――

「ではなくて!!」

 玄関先で四つん這いになりながらハァハァと喘いでる少女・美汐。傍目にはかなり危ない人になっているが、本人とても真剣です。

「平常心です、平常心ですよ、美汐。そうです、今日の今日ではまだ心の準備が整っていません。こんな心持では殿方に恥を掻かせるだけではありませんか。そうです、急いては事を仕損じるとも…………こと、事とはこの場合あのことですよね、し、仕損じるってその、そんな露骨な、あからさまに私……あうあう」

 湯あたりしたみたく顔中真っ赤なうえに目がバッテンになってます。
 そのまま左右にふらーりふらーりと上半身を揺らしていた美汐だったが、突如ビョンと勢い良く立ち上がり、平静を取り戻した風を装いながら自分に言い聞かせるように嘯いた。

「そうですね、やはり残念ですが今日は見送る事としましょう、そうしましょう」
「みーちゃん、おーいみーちゃん」
「ひあぁぁぁっ!?」

 いきなり肩を叩かれ、美汐は幽霊に抱きつかれた月宮あゆのような悲鳴をあげて飛び上がった。仰天のあまり失神しそうになっりそうになるところを必死に抜けかけた魂を慌てて引っ掴み、脳内から半ばデリートされかかった言語機能をなんとか再生しつつ振り返った。

「な、なななんですか、和巳兄さん?」
「んあ? ああ」

 なんだか様子のおかしい美汐に、和巳はどうしたんやろうと少し口篭もった。
 言葉を濁す和巳のどこか切羽詰ったケモノのような表情に(――錯覚です、意識過剰です)、美汐はハッと和巳のしようとしていることを悟った。

 ま、まさか、兄さん! そんな、玄関で!? い、いけません、二人きりになった途端、こんなこんな。幾ら我慢できないからといってこんなところで。ああ、ですがですが、

「に、にに兄さん、わわ私は。にっ、兄さんがどうしてもと仰るのでしたらっ美汐は、いい如何様にも好きなようになさってくださって構いませんっ!! ああでもその前にせめて沐浴だけはっ」
「いや、コーヒー入れて欲しかってんけど、別に今すぐどうしても欲しいってわけやないし、みーちゃんがそういうなら先にお風呂入ってくるよ?」

 ギューッと目を閉じたまま胸の前で腕を組んで身を強張らせている少女(――ちょっと顎を上向け気味にして押し倒され待ち)に目を白黒させてコーヒー一杯に何事かと大混乱を来たしながら、それでも律儀に応じるところなど御門和巳、涙ぐましい優しさであった。

「こ、こーひーですか?」

 な、なんだ、コーヒーですか、そうですか。
 ドッと力が抜けてへたりこむ美汐に、和巳は自分がなんかしたのかと焦る。

「な、なんかまずかった?」
「い、いえ、なにもまずくはありません。あ、そそれでしたら今すぐ淹れますから、少し待っていてください。お、お風呂は別に急がなくてけっこうですから!」

 シュタッとバネ仕掛けの人形のように一礼し、美汐は恥ずかしい勘違いをしてしまった自分を誤魔化すように慌ただしくその場から立ち去っていった。

「ふぅ……みーちゃん、やっぱまだ……」

 辛そうに和巳は美汐の背を見送る。あんなに情緒を乱して、やはりまだまだ美汐の心に刻まれた傷はジクジクと膿んで彼女を苛んでいるのだろう。自分に出来る事は傍にいてやることだけなんだろうか。だが、自分が傍に居ては、美汐は心穏やかではいられまい。悩むべきは、自分が傍にいなくても、彼女は同じように苦しむであろう事だ。

「アンビバレンツってやつやな」

 深々と重い重いためいきをつく和巳であった。
 むろん、この気のいい兄ちゃんには、

「あ、あああ、私という女はなにをなにを。はしたない、下品です、はしたなすぎます、何を妄想してるのですか私の、私のあほーーっ」

 とまあ美汐ちゃんがキッチンで、イスの背凭れに額をゴツゴツとぶつけながら反省というか恥辱に悶えてるなんてこと、想像の埒外なのは言わずもがなである。














 天野美汐の風呂は短い。普段の彼女の入浴時間は年頃の女性にあるまじき短さで、カラスの行水と言われても仕方の無いものだった。これは美汐に風呂を楽しむという発想がない為であろう。単に身を清めるという理由以上のものを入浴に求めていない美汐に言わせれば、長風呂など時間の浪費に過ぎないのだそうだ。美しさを保つためのケアに汲々とする女性に喧嘩を売るかのような言い分である。
 その美汐が、今日に限っては浴室に篭もってから一時間以上も出てきていなかった。理由は勿論、美汐が若さに感けて時間の浪費と蔑んできた、お肌と髪の手入れである。本人から言わせれば、これも普段と同じく身を清めているだけだというところかもしれないが、念の入れようが違っていた。
 シャワーで洗い流された泡の下からは、磨きに磨き上げられた――ちょっと擦りすぎて赤くなってる――玉のお肌が現れる。その言動から最近からかいではなく、本気でおばさん臭いと周囲から言われ始めている美汐であったが、少なくとも身体に関してはおばさんくさいという評価は的外れであると一目見れば誰しもが納得するだろう。少女らしい柔らかさと均整の取れた肉の締まりが両立している肢体の質感。触れる水分を玉として弾いていく瑞々しい肌。ボリュームには欠けるものの、柔らかくも美しいラインを描いてそのふくらみを主張しているお椀型の胸。そこだけ見れば野外を駆け回る活動的な少女を連想させるキュっと締まったお尻。手折れてしまえそうなほど細い柳腰。
 湯気の奥に楚々と佇むその裸身は、触れることを躊躇ってしまうような穢れなき清純さを感じさせる、少女そのもの。だが、湯の温もりに頬を染め、物憂げに朱唇を引き締めている美汐の表情が、女の色香を漂わせている。禁忌を犯すことへの躊躇いを吹き飛ばしてしまうであろう匂いたつような艶を、美汐は己の気付かぬうちに醸し出していた。

「……はあ」

 だが、美汐の口からこぼれるのは憂鬱げなため息だ。
 己に対して深刻な不信感を抱いている今の美汐には、自分の心根ばかりか肌の色艶、身体のメリハリまで色あせて見えているようだ。はたして、このような見映えのしない身体に、兄さんは手をつける気になるのだろうか、と深刻な疑問を抱いてしまっている。
 そんな自分に美汐は自嘲を覚えた。なんでしょう、普通の女の子のような悩みを抱いて。そんな夢を見るような浮ついた気持ちで抱かれる事が出来るなら、最初から何も悩んでいない。

「……ばかですね。ただ好きな人に抱かれたい、それでいいはずなのに」

 それが一番いいはずなのに。許されない罪を犯してしまった私は、素直に幸せを受け入れる心の余裕を持てずに居る。常にまた、間違いを犯してしまうのではと怖れている。兄さんが傍に居てくれるという幸せを、私は噛み締める事も出来ないまま、また自分の愚かの所為で失ってしまうのではという恐怖に置き換えてしまっている。
 抱かれれば、私は安心できるのだろうか。
 抱かれる事で、私はあの人を引き止められると思っているのだろうか。
 それとも、これは贖罪? 兄さんに負わせてしまった傷をせめて慰めるために抱かれるというの?
 どれも愚かな理由だ。兄さんはちゃんと約束してくれた。もう離れないと。その言葉を信じられないまま抱かれても、安心なんか出来るはずが無い。
 贖罪というのもまた虫唾が走る理由付けだ。彼は私を愛してくれているというのに、そんな理由で身体を捧げても喜ばれるはずがない。贖罪とは、罪を犯してしまった相手に少しでも心安らいでもらおうというせめてもの償いではないのか。これでは結局、自分ばかりが楽になろうとしているだけだ。

「ダメです、これでは」

 私は難しく考えすぎる、と美汐は俯いた前髪からポタポタと滴る雫をじっと見つめながら自問する。
 しかも、結論を出したくないかのように、思考は堂々巡りだ。

「……くっ、いい加減腹を据えなさい、天野美汐!!」

 洗面器に溜めた冷水を一気に頭から被り、美汐は自分の頬を叩いた。

「逃げ口上ばかりグダグダと。けっきょく、貴女は臆病風に吹かれているだけではないですか!」

 もっとシンプルになれ、そう澄は言いたかったのではないのか?
 頭で分かってはいても、心が縮こまってどうしようもない事がある。それを解きほぐすには、ときに何も考えずに本能に身を委ねるという手段もあるのではと、そう言うことではないのか。

「この身も心もあの人のものと、とっくの昔に思い定めたではありませんか。怯える必要など何処にも無い」

 よし、と下腹に力を入れる。美汐の中で、覚悟が決まった。

「兄さん、私にお返し出来るものは、今はこれだけだから……」

 震える手を唇からのどへ、胸へ、脇腹へと這わせ、美汐は大きく息をつくと、身体に纏う水滴を弾き飛ばすように立ち上がり、篭もっていた最後の岩戸を後にした。





 ―――― 一方その頃のカズミにーちゃん。


「うがぁぁぁぁぁ!! なんでボタンがこない沢山あるんやーっ! こないだまでAとBだけやったやないかーっ!!」

 最新3D格闘ゲームにて5度目の瞬殺を喰らった自機を前に、ゲームのコントローラーを振り回しながら怒鳴り散らしていた。ちょい半泣き。こないだって何時だよ。

「くっそーっ、お前はスペラ○カーの主人公かっちゅうねん! いい気になりやーって、アーバ○チャンピオンなら負けへんねんぞ、こらーっ!!」

 コンピューター相手に言う台詞ではない。

「ああもうストレス溜まるなあ……そうや!! みーちゃんに相手してもらおう、そやそや、みーちゃん相手やったら勝てるやないか。やっぱゲームは勝たんとおもろないしなあ、ケケケケケ、みーちゃんごめんなー、これもオレらのぎこちない雰囲気を解きほぐすためのコミュニケーションなんやでー、くけけけけけけ」

 ファミコンのファの字も知らないであろう愛しい少女をいたぶる未来図を脳裏に描きながら、高笑いをはじめる和巳であった。何気に最低な男である。







 ―――― 13分後。


「…………なんでやーーーーーーっ!!!」



 ―――― 17分後。


「…………あべしーーーーーーっ!!?」



 ―――― 28分後。


「…………うわぁぁぁぁぁぁん、みーちゃんのあほーーーーーーっ!!!」


 アホはおまえだ。





















「…………あぅぅ」

 例えば、突然明日この世界が滅亡してしまうと知ってしまったような、もしくは月に一度のお肉の特売日(29日)をすっかり忘れてしまっていたかのような、ともかく奈落のように落ち込んだ美汐の姿がキッチンのテーブルにあった。
 なにしろリアルに顔の上半分に縦線が入ったまま表情が笑みに固まってるくらいだから、よほど落ち込んでいるらしい。頭を抱えてテーブルに突っ伏している彼女の周囲に、さながら鬱々という漢字が物質化して漂っている雰囲気である。

「……私の馬鹿、私の馬鹿、私のアホウ、スカタン、馬糞ウニ」

 目も虚ろだ。ところで馬糞ウニってなんだ、馬糞ウニって。
 だが彼女が落ち込んでいるのも仕方ないと言えば仕方ない。一世一代の覚悟を決め、気合を入れて(応急勝負パンツ、白青ストライプもばっちり着用)風呂からあがった美汐を待っていたのは、ドタドタと廊下を走ってくる兄さまで。なにがどうしてか、ゲームでお相手つかまつる事になり…………。
 結果から述べよう。
 ゲームソフト数八種目、総計三十二戦…………オールパーフェクトゲームもしくは一方的圧勝であった。もちろん、勝ったのは美汐さん。
 和巳は見苦しい捨て台詞を残し、鼻水垂らして泣きながら自分の部屋へと逃げていった。現在立てこもりならぬ引き篭もりの真っ最中である。
 残されたのは勝利の高揚に火照った顔色を見る見る青ざめさせていく、つい三十分前までめくるめく真夏の初夜を夢想していた女が一人。歴史の一ページに書き加えたいほど見事な本末転倒。後の祭り。

「つい出来心なんです、悪気はなかったのです、指が、指が勝手に……ううぅ」

 突っ伏してピクピク痙攣しながらうわ言のように繰り返してる美汐。内容が万引きで捕まったおばさんめいているのは気にしない方向で。
 しかし、自業自得と言えば自業自得だ。花、持たせてやれよ、と思わないでもない。まさにこれから操を捧げようと心に決めた相手をゲームでこてんぱんに叩きのめした挙句に泣かせてどうする。
 普通なら相手に失礼だろうがなんだろうが、多少は手加減をして然るべきはず。まあ、そういう融通が利かないのが美汐らしいというか、精神的に参っていてもゲーマー魂だけは失われていなかったと言うべきか。

「ひぅっ、ひぅっ、ひっ、ふぇっ、ふっ…………ふふっ、ふふふふははははははははははははっ!」

 あ、壊れた。





 そのまま笑ったり泣いたり小太郎が大事に置いていたお饅頭をやけ食いしてみたりと、悄然と打ちひしがれていれば、いつの間にか時刻は深夜をとっくに回り、家の中はしんと静まり返っていた。和巳は部屋に閉じこもったままだ。そのまま眠ってしまったのだろうか。いまさら和巳に迫る気にはさすがになれず、美汐はトボトボと自室へと戻り、頭から布団に潜り込んだ。いつもなら姿勢正しく睡眠とは斯くあるべしと言わんばかりの体勢で眠る美汐であったが、今日ばかりは枕を抱き抱えながら丸くなって、頭の天辺まで掛け布団を被っていた。外から見ると、布団の真中が小さくこんもりと膨らんでいて、サイズを気にしなければ猫がシーツにもぐりこんでいるかのようにも窺える。

「……兄さん」

 弾むように高鳴っていた心は今は重く、滾りに滾らせていた熱い思いが抜け落ちた胸はぽっかりとした空虚感に苛まれ、いつまで経っても眠気は忍び寄ってこない。炯々と脳裏を巡る後悔の光跡に喘ぎを覚え、息苦しさを堪えるように美汐はギュッと枕を抱き寄せた。
 なんだか段々泣けてくる。自分の間抜けさ加減もさることながら、とにかく今の境遇が情けなくて情けなくて。これも一つの空回りなのだろうか。やり直しの聞かない、誤ってはいけない重要な事態を前にする度に、間違ってしまう天野美汐。こんな時に限って、上手くやれた試しがない。そして間違うたびに、誰かを傷つけ、迷惑を掛けてしまう。
 孤独だった。いつも傍には大切な人が居てくれるのに、美汐は孤独から逃れらずにいる。寂しい、と美汐は思った。一度思い浮かべてしまえば、それは津波のように有無を言わせず押し寄せてきた。背筋が凍りつくほどに、心が寂しさに覆われていた。

「兄さん兄さん兄さん兄さん、いやです私は、こんなの、寂しい…………」

 溢れてくるものを押し留めるように、顔を枕に押し付ける。洟を啜る。だめだ、耐えられない。
 プツン、と何処かで紐が切れる音がした。建前、意地、プライド、懼れ。そんな自分を護ってきた鎧が、バラバラと落ちていく。
 野晒しに捨て置かれた行き倒れの死体が起き上がるように、枕を抱き抱えたまま、美汐はのそりと立ち上がった。そのまま、ふらふらと歩き出す。
 このまま独りでいることが、とてつもなく怖かった。
 今宵は風が肌寒かった。気のせいかもしれない。いつも通り真夏の夜らしく蒸し暑いのかもしれない。だが、夏物である水色の星柄パジャマに美汐は薄物故の涼しさではなく、季節違いの衣服を身に着けてしまったかのような薄ら寒さを感じていた。





『……兄さん、もうお休みになられましたか?』
「みーちゃん?」

 ド素人と侮っていた相手にギタギタにされたショックから立ち直れず、書机に向かって三時間強、背中に張られると口調が絶対「今晩の夕食は兄しゃまの好きな鯖の煮付けなのれす」という感じで拙く舌ったらずになってしまうという劣悪非道な呪いの札を怨念に任せて延々と量産していた和巳は、襖の向こうからの消え入りそうな美汐の声を聞きとめ、顔をあげた。夢中になっていたので時間の経過がわからなくなっていたらしい。柱にかけてある古びた時計に目をやると、既に午前一時に差しかかろうという時刻になっていた。
 さすがに根を詰めて呪符を二百枚ほども造れば、スッキリとして気分も晴れる。多少気まずいものを感じながらも、和巳は遺恨を感じさせない明るい口振りで美汐に声を掛けた。

「起きとるけど、こんな時間にどないしたん?」

 一拍ほどの沈黙が降りる。そして、そろそろと窺うように襖が開く。枕を抱えたまま立ち尽くすように俯いた美汐がそこにいた。

「……みーちゃん?」
「兄さん、あの……」

 充血した目を誤魔化すように伏せながら、最後のよすがに縋るように少女は声を絞り出した。

「今夜は、独りで居たくないんです。独りでは、寝れなくて。だから、私…………」

 ヒュっと思わず息を呑む。
 言った、とうとう言った。遂にルビコンを渡ってしまった。
 決定的な一歩を自ら踏み出したという事実に慄き、美汐はそれ以上目を開けていられず伏せていた目蓋をギュッと閉じた。
 和巳はおもむろに唯一の光源だった机上灯の明かりを消した。目蓋の裏まで届いていた光が失われ、視界は完全に闇へと落ちた。そして、奥で立ち上がる気配。二歩、畳の上を歩く音が聞こえ、三歩目で敷いてあった布団を踏みしめるくぐもった音へと変わった。そして布団を捲り、上に座り込む衣擦れの音。

「おいで、みーちゃん」

 身体の芯まで温もるような優しい声。美汐は震える目蓋をゆっくりと押し上げ、恐る恐る和巳の部屋に足を踏み入れると、差し出された彼の手を取った。割れ物の陶器の上へと腰を下ろすかのようにゆっくり、ゆっくりと膝を付く。どうしても顔をあげられず、ギュッと枕を抱き締めたまま正座している美汐の肩に、和巳の手が置かれた。
 神経がまるで剥き出しになったかのように肩に手を置かれただけで背筋が痺れ、美汐は唇を戦慄かせながら面持ちをあげ、潤んだ瞳を和巳に向けた。

「……にい、さん」
「んー、もう一枚布団持ってくるのも面倒やし。せっかくやから一緒に寝るか?」
「はい、美汐は和巳兄さんの思うとおりにしていただ……いて……え?」

 キョトンと目を見開く。意識の齟齬を感じてうろたえる美汐の目に、算段をつけるかのように顎に手を当てて斜め上の方を見ている和巳の横顔が薄闇越しに映った。
 ふっ、と緊張感のない和巳の顔が美汐の方に向く。ビクッと身体を震わせた美汐の様子に気付いた風もなく、彼はあっけらかんと口にした。

「ちょう狭いけど、ええやんな」
「それは、まったく構わないのですが……あの」
「ほうかほうか、よかった」

 そう言うと、コテンと横になる和巳。自分だけじっと寝ている和巳の横に腰掛けているわけにもいかず、美汐は静々と布団の端の方に横になった。と、枕を抱えたままだったのを思い出し、いそいそと頭の下に押しやる。

「…………」

 ええっと、これはいったい…………。
 夏用の薄い掛け布団を口許まで引っ張りあげ、しばらくぼんやりと天井を見つめていた美汐は、混乱をきたしたまま、和巳の方を窺った。咄嗟に、声をあげそうになる。横を向いたすぐ間近に、えらく楽しそう、というより嬉しそう(?)な和巳の締まりの無い笑顔があったのだ。

「ほんま久しぶりやな、こういうの」

 屈託なく和巳が独りごちる。聞き流すわけにもいかず、それ以上に何の事か気になって、美汐は視線に疑問符を浮かべて見せた。和巳はくすぐったそうに目を細めた。

「いやな、みーちゃんが小さい頃、何度かこんな風に独りじゃねむれへん言うて枕抱えてオレんとこ来たことあったんよ。それ思い出してな。覚えてへん?」
「お、覚えていません、そんなこと。本当ですか?」
「ほんまやって。みーちゃん、あの頃から頑張り屋っちゅうか意地っ張りっちゅうか、全然オレの事頼りにしてなかったやろ? お袋さん亡くしたばっかりやっちゅうのに」

 確かに必要以上に甘えまいとはしていたけど、頼りにしてないなんてそんな事は絶対なかったのだが、話を混ぜっ返していては前に進まないので、先を促がす。

「でも、みーちゃん、怖い夢見た時はさすがに我慢出来へんかってんやろな。丁度、さっきのみーちゃんみたいなしょぼくれた顔して部屋にくんねん。それがめっちゃ可愛いてなあ」
「に、兄さん」

 当人が前にいるというのに、可愛いなんて臆面もなく言わないで欲しい。
 幼児期の頃と今の自分を一緒くたにされてしまったことが、腹立たしいというよりも顔が赤くなるほど気恥ずかしくて、美汐は鼻先まで布団の中へと潜り込んだ。そんな美汐の頭に、大きな手が添えられ、指を絡ませるように髪を梳き出した。
 その手つきに邪まな意志はどこにもなく、まるでただ髪の感触を楽しんでいるかのように無邪気でしかなく。

「あ、あの……兄さん?」
「んな元気ない顔しいなや、ヤな夢でも見たんか?」
「別に、夢なんて……」

 言いながら、そう言えば確かに昔こんなやり取りをしたような記憶がぼんやりと浮かび上がる。そう、あの頃の小さな私も、今みたいに不貞腐れたように、怖い夢なんて見ていないと言い張っていた。そしてそんな私に、この人は優しく囁いてくれるのだ。

「我慢なんかせんでええで。オレがおるからな」

 キュッと心臓が締め付けられたような気がした。思わず擦り寄るようにして、美汐は和巳の胸へ額を押し当てた。
 頭を撫でていてくれた手が、背中に回される。美汐は全身から濯ぎ落とされるかのように強張りが抜け落ちていくのを感じた。なんて、温かい腕の中。魂にこびりついていた不安というカサブタが、氷のように溶けていく。

「なーんも怖い事なんかないよ。もう、オレはどこにも行かへんから」
「はい、はい」

 僅かに溢れた涙を見られたくなくて、美汐は和巳のシャツの裾を両手で掴み、顔を埋めた。どうしてこの人は、こんなにも優しすぎるんだろう。澄の言う通りだ、私は大切にされ過ぎている。過保護にされ過ぎている。だけど、この心地よい温かさはあまりにも甘美すぎて……。

 ああ、どうやら、本当にただ一緒に寝て欲しいと私が来たと思われてしまったらしい。自分の決意も覚悟もまったく気付いて貰えなかった悔しさが胸に灯ったが、すぐに力を失い蕩けていった。諦めが心を覆い、一抹の怒りが意地を張るように蕩けた悔しさの残骸の中から存在を主張する。だがそれ以上に安らぎが満ちていく。軋みつづける今の自分の心では、彼の穏やかな鼓動と包み込むような腕の大きさは、麻薬のように逆らえない。

「んじゃ、おやすみ、みーちゃん」
「おやすみなさい、兄さん」

 疲れていたのだろうか、すぐに寝息が聞こえ出す。美汐も、ここしばらく一度も得られずにいた心の平穏を覚えながら目蓋を閉じた。
 ごめんなさい。ただ与えてもらうばかりで、まだ何も購えていない私の不明を詫びながら。いずれすぐにでも、この人に私の全部を貰ってもらおう。この人になら、私はすべてを捧げられる。
 でも今宵だけは、このまま優しさの中に眠らせてください。

「よい、夢を」

 彼の見る良き夢に、自分の姿があることを願いながら。
 少女は眠りへと落ちていった。




















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