まったりとした空気の流れる夕食後のリビング。テレビからの音だけが鳴っていて、特に会話らしい会話はないのだが、そこに不自然な緊張も無関心からくる空虚さも見られない。
 その場にいるのは三人だった。寛いだ様子で寝そべりながらテレビを見ている真琴。今評判のエッセイを膝において読み耽っている秋子さん、それほど面白くないのか字面を追う目がちょっと眠そうだ。それから、チラチラとテレビの方に視線をやりながら爪の手入れをしているあゆ。小太郎の姿は見当たらない。彼は一旦自宅へと戻っている。着替えと真琴に頼まれて買ってあった漫画雑誌を取りに行っているのだ。
 三人それぞれ思い思いの行為に耽っている。賑やかな水瀬家とはいえ、いつだって談笑しているわけでもない。同じ場所に集まっていても、誰も何も喋らないことなど珍しくもない。だが、それで間が持たなくなることも無いということこそ、この家の面々が成熟した家族になりきっている証拠なのだろう。居心地の良い沈黙、とでも言うのだろうか。何も言わなくちゃ、何かしなくちゃ、何か主張しなちゃ、そんな風に確かめなくても自分の居場所を見失わないという安心感。それが皆に根付いている。
 だから、今日もいつも通り穏やかな沈黙がリビングを覆っていた……はずなのだが。
 どうやら今日に限ってはちと様相が違っている模様。何故か妙にギスギスしたものがまったりとした空気に混じっているようだった。
 うなじに感じるピリピリとした空気に耐え切れなくなった真琴が、うんざりした様子で身を起こす。そしてこのピリピリの発生源とも言うべき少女の方へと向き直った。

「あゆー、あんたまだ怒ってるの?」
「べつに。怒ってるわけじゃないよ」

 確かに怒っているというより不貞腐れてるといった風情で爪を磨いているあゆ。内心はどうあれ、その手つきは丁寧だった。爪の手入れは接客業に就いて以来の習慣だ。プロである以上、身嗜みにはそれなりに気を使わなくてはならないと、あゆの柄ではないものの欠かさず続けている。
 眠たそうにしていた秋子さんがフッと顔をあげ、二人を見比べる。

「あら、真琴、なにかしたの?」
「あぅぅ、した……っていうか、未遂というか」

 気まずそうに口篭もる真琴の代わりに、口を尖らせたあゆが答えた。

「小太郎くんと来てたんだけど、お店の中でいきなりえ、えっちぃこと始めちゃったんだよ、もう信じられないよ」
「わ、悪かったわよ」

 昼間に家の中での乱行を見つかっているため、秋子の前では分が悪い。色々文句はあったものの、呆れている秋子の視線に素直に謝罪の言葉を口にした。だがあゆはその程度では気が済まないらしい。面と向かってはそれ以上言わないものの、機嫌が直った様子も無く仏頂面のまま爪を手入れを再開した。その態度になんとなくカチンと来る。

「なによ、謝ってるじゃない。あゆ、あんたちょっとしつこいわよ」
「む、しつこいってなんだよ……」

 キッと顔をあげるあゆ。
 真琴はふんと鼻を鳴らした。

「ネチネチいつまでも引っかかってんじゃないって言ってるのよ、気分悪いじゃない」
「なんだよ、その言い草。悪いのは真琴ちゃんでしょ」
「だからって当てつけでそんな不景気な顔見せ付けないでよね。陰険って言うのよぅ、そういうのは」
「い、いんけ……」

 あらあら、と秋子は膝の上のエッセイ本のページを閉じ、テーブルの上に置いた。代わりに麦茶の入った湯呑みを口許に宛がい、険悪な空気に陥った二人を比べ見る。
 ここは親として止めるべきか見守るべきか。なにぶん、こういう状況はあまり経験がないので少し迷う。元々、長らく子供は名雪一人で姉妹喧嘩などなかったし、娘が三人になってからも喧嘩自体は珍しくなかったが、こんな険悪な空気になるものは珍しい、というか初めてだった。この手の案件は初回こそ慎重に扱わなければならない。
 なので今後の参考とするために今回は見物を決め込む事にした。

「二人とも、ファイト、よ」
「…………」
「…………」

 茶菓子に置いてある煎餅を片手に、グッと両手を拳に握る秋子。思いっきり他人事の観戦モードの母に思わず顔を見合わせる真琴とあゆ。張りつめていた空気がゴムの切れたパンツのようにプツンと緩む。なんだか馬鹿らしくなって気が削がれてしまった二人であった。さすがに、見物されながら喧嘩を続けるほど頭に血は昇っていない。落ち着けば自分のみっともなさが自覚できるレベルだ。

「ごめん、言い過ぎた」
「うん、ボクもちょっと大人げなかったよ、ごめん」

 矛を収めて謝りあう娘達に、秋子は「まあ」と残念そうに零しながら煎餅の端を齧っている。

「……秋子さん、なに期待してたの?」
「あら、期待ってなんのことですか?」
「惚けてるし」

 敬愛する母であるが、時々何を考えているか分からなくて怖いなあ、と真琴は思う。

「真琴ちゃん、でもね」

 とりあえず秋子は脇に置いておいて、あゆは会話を継続した。

「営業中にああいう事されるとほんと困るんだよ」
「うーん、ごめん」
「びっくりしたんだから。お客様にカップルは多いけど、あんな事しはじめたの真琴ちゃんたちが初めてなんだからね」
「えっ、そうなの」
「ほんとだよ。祐一くんと名雪さんだってしないよ」

 祐一達を引き合いにだして力説するあゆ。あゆの中では祐一達はこういうケースで例に出す一番手らしい。彼らに対するあゆの認識の在りようが知れる。

「あぅぅ」

 さすがに恥じ入る真琴。まだまだ人間生活の経験浅い、世知に疎い物の怪少女ではあるものの、だからといって周りの目なぞまるで気にしない無恥ではない。無邪気ではあるが、同時に気高い娘でもあるのだ。恥知らずではありえない。
 場所を弁えずに度を越したはしたない真似をしかけた自覚はあったので、それを指摘されると弱かった。

「とにかく悪かったわよ。もうしないから」
「分かってくれればいいんだよ」

 フッと爪に息を吹きかけ、気を取り直したようにようやく真琴に視線を向けてあゆは笑った。

「でもさあ、言い訳じゃないんだけど」

 寝転がったまま足をブラブラと揺らしながら、真琴は顎を乗せていたクッションで口許を隠し、虚空を眺める。

「あたし、付き合うの初めてだからいまいち加減がわかんないのよね。持ってる漫画、あんまり参考になんないし」
「ならないの?」
「現実と虚構は違うのよぅ……と言いたいところなんだけど、それ以前にさ、小太郎みたいなヤツ出てこないんだもん。参考になんかならないわよ」

 真琴の所有する漫画の大半は浪漫あふれる少女漫画だ。一昔前の人間関係ギトギトな少女漫画ならともかく、真琴が好む夢見る乙女がメインの漫画に、小太郎のような生々しいエロ助は登場しない、存在自体許されない。

「お陰でなーんか、小太郎に手綱握られちゃってるのよね」
「へぇ、そうなんだ」

 普段の二人の姿からは想像できない吐露に、意外の念に打たれるあゆ。

「あいつも浮かれてるのかして暇さえあればガッついてくるし。あ、ぅ、その、嫌じゃないんだけどさ。付き合い始めてまだ一週間も経ってないし、こう盛り上がってる部分ってあると思うのよぅ。わりとあいつって動じないで飄々としてるところあるからさ、あんな風に浮ついてるのを見せられるとちょっと可愛いなあとか思っちゃってさ」
「うんうん」

 なんだか惚気話になってきたなあ、と思いながら相槌を打つあゆ。視界の端では楽しそうに秋子さんが目を輝かして煎餅を齧ってる。名雪にはそういう話をしてもらえないので嬉しいのかもしれない。

「だけど、いつまでもこんな調子じゃ拙いとは思うのよねえ。でさ、あゆあゆ」
「あゆあゆはやめてってもういいけど……なんだよ?」

 反射的に抗議しそうになる口を閉じて、先を促がす。真琴は特にからかうといった風ではなく、至極真面目な口振りでこう言った。

「あんたたちってさ、普段どうしてるの? 参考までに聞きたいんだけど」
「ぼ、ボクたち?」
「名雪姉と祐一とじゃあんまり参考になんないのよね」
「確かに同居していると、色々違ってくるわね」
「あぅ」

 脇から注釈を付け加えてきた秋子にその通りだと真琴は頷く。

「一子は独り身で全然対象外だし、木乃歌はガードが堅くて彼氏の実態すらわかんないし、お澄はあれ多分参考にしちゃいけないケースだろうし。あゆしかいないのよぅ、ぶっちゃけ」
「う、うぐぅ、そんな事言われても」

 あゆは大いにうろたえた。
 普段どうしてるなんて聞かれても、在るがまましか答えようが無い。
 とりあえず頭に浮かんだ事をそらんじていく。

「要さんと普段なにしてるって、殆ど仕事だし。そう、だね。終わった後、ちょっと一緒にお茶したり、ご飯ご馳走になったりはするかな。お休みの日には、で、デートとかもするよ。映画が多いかな。あと、ドライブ行ったり、博物館なんかも割りあい良く行くかな。あんまり博物館とか興味なかったんだけど、要さんって博識だしあれで説明物凄く面白いんだよね。無自覚にウェットに富んでるっていうか、無意識にユーモアが混じってるっていうか」
「いや、そうじゃなくて」

 興が乗ってきたところだったのに、真琴のウンザリした口振りの制止が入った。

「そうじゃないって、なにがそうじゃないの」
「あたしが聞いてるのはそういうことじゃなくて、えっちはどうしてるかってことよぅ」

 あゆは「ひぐっ」と喉を鳴らした。こめかみが引き攣る。小憎らしいことに、真琴と来たら真顔だ。照れもしていない。真面目に訊いているらしい。これでははぐらかしようがなかった。

「う、ぐ、そ、それはその……そういうプライヴェートなことを聞くのは、如何なものかと」
「別に具体的な中身を聞こうって言ってるんじゃないんだから。週に何回くらいしてるかとか、主にどこでやってるかとか、どういう時にえっちする流れになっちゃうとかそういうことよ」

 充分具体的である。
 うぐうぐとうめきながら顔色を赤くしたり青くしたりと点滅させるあゆ。見るからに進退窮まった様子に真琴は訝しそうに眉根を顰めた。はて、そんなに答えにくい質問だったっけ? そりゃあゆと来たら見るからに生々しい話には耐性なさそうだけど、そこまでお餅を喉に詰まらせたみたいな顔しなくても――

「…………だ、だよ」
「え?」

 ボソっと不意に出た言葉を聞き逃し、真琴は思わず聞き返した。スイッチが入る。動力に火が灯ったロボットのように顔をあげたあゆが、ヤケクソのように声を張り上げた。

「ボク、まだそんなことしてないもん!!」
「……………………………………なにぃーーーーっ!!!」

 窓ガラスがビリビリと震えるような怒号であった。びっくりしてケホケホ咽てる秋子さん。
 ともかくテーブルを引っ繰り返すかのような勢いで立ち上がった真琴はしばらく腹話術の人形のように口をパクパクさせていたと思いきや、突然あゆの方へと身を乗り出してバシンとテーブルに両手を付き、

「なにぃーーーーーーーー!!!」

 それはもう聞いた。

「なぁぁぁんですってぇぇぇぇっぇぇっぇぇぇ!!」

 ちうかうるさい。

「真琴、ご近所迷惑ですよ」
「あ、あぅぅ、ごめんなさい」

 ようやく咳が止まった秋子が真琴に注意を促した。穏やかな中にチクリと「いい加減やめないと……」という針が混入されてるっぽい秋子の一言に冷や水をぶっかけられ、真琴はすごすごと怒号の鉾を収めた。
 アラレちゃんさながらの音波攻撃に、気絶した虫のようにコテンと引っくり返っていたあゆだったが、なんとかよろめきながら身を起こす。

「び、びっくりした」
「びっくりしたのはこっちよぅ!」

 鉾は収めたものの驚愕に端を発した特に理由の無い怒りはまだ収まってない様子で、真琴は微妙に激昂しながらあゆに再度詰め寄った。

「あんたたち、まだすることしてなかったわけ!?」
「き、清い交際だもん。ぷ、プルトニウム・ラブ?」
「プラトニックラブですよ、あゆちゃん」
「そう、それ。プラトーンラブ」
「あんた、わざと間違ってるでしょ」
「うぐぅ」

 半眼の真琴に指摘され、すすーと目をそらすあゆ。

「だいたいあんた、五月の連休のときマスターの所に泊まってきたんでしょ?」
「そ、それは」
「あゆ、浮かれ捲くってたじゃない。連休前に鼻の穴膨らましてニヤニヤしてたのあたし覚えてるんだからね」
「は、鼻の穴なんか膨らましてないもん!」
「でも、前日から緊張で硬くなっていたわね」
「秋子さん!!」
「あら、ごめんなさい」

 口許を手で隠しながらクスクスと微笑む秋子さん。謝ってはいるが前言は取り消すつもりないようである。

「ったく、普通男の家に三日も四日も外泊して手ぶらで帰ってくる? 情けないっ!」
「うぐぅ、手ぶらって……」
「あんたも女だったらバシッと決めなさいよ、バシッと!」
「それ、普通男に言う台詞なんじゃ……」
「今の時代に男も女もあるかーっ!!」

 ガラガラドッシャーン、と背景に落雷大嵐を喚かせながら仁王立ちするお狐さま。

「マスターもマスターよ! 女を家に連れ込んどいて何もしないなんて、あいつはヘタレかーっ!!」
「うぐぅ、ヘタレだったらまだいいんだよ」

 激昂してる真琴に生気でも吸われたかのように小さくなりながら、あゆは膝を抱えた。
 ああ見えて雪村要の恋愛に対するフットワークが軽快な方ではないことをあゆは知っている。何事にも動じないオンマイロードな人間と見られがちだが、あれは単に普通の人とは価値観や感覚がズレているだけで決して図太いわけでも痛痒を知らないというわけでもないのだ。本当はむしろ繊細ともいうべき人なのだと、彼を意識し始めた際の件からあゆは考えている。その意味では、真琴のヘタレ発言もあながち間違ってないかもしれない。
 ただ、今回のケースは恐らくそれが原因ではない。ヘタレさが原因ならまだ良かったのだ。というのも、そもそも雪村要には、端っから頭の片隅にもあゆをどうこうしようという考えがなかったっぽいのだ。
 月宮あゆという女は、自分では認識していないがいざとなると肝が据わって大胆すぎるほど大胆になれるタイプだ。もし、雪村に多少なりとも邪まな気持ちはあったなら、気合の入っていたあゆはそこを突いて押し切ってしまっていただろう。ところが、雪村と来たら泊まりに来たあゆに対していつも通りの自然な態度を崩す事無く、あの独特のペースに巻き込んでくるものだから、あゆもいつの間にか普段どおりに夕食をご馳走になって、ちょっと懐っこい談笑に明け暮れ、促がされるままお風呂を頂いて、そのまま用意された寝床に付き、翌朝爽やかな起床を果たしてしまっていた。自分が昨日、どんな一世一代の覚悟をして泊まりに来たのか途中から完璧に忘れてしまっていて、洗面所の鏡に、シャコシャコと歯を磨いている寝ぼけた自分の顔が映ってるのを見てようやく何しに来たのか思い出したのだから始末に負えない。
 それから三日間、連休が終わるまで何事も無く過ごしてしまったあゆであった。
 それじゃあ本当に何の含みもなしに泊まりに来ただけじゃないかと言われそうだが、仕方ないのだ。幾ら大胆になれるとは言っても、その気のない相手を誘惑するなんて真似が出来るほどあゆは女が出来てないのだから。
 元々性的な事柄にはそれほど欲求を覚えない性質らしく、雪村の態度に失望を覚えるようなことはなかったものの、ちょっとした肩透かしを喰らっている気分くらいは持っている。別に物足りないとかエッチしたいとは思わないのだが、自分には女としての魅力が欠けているんじゃないかという不安はあった。本当は女として見られていないんじゃないかという……。

「それはないと思うわ、あゆちゃん」

 ポツリと吐露した不安を、即座に封じたのは秋子だった。

「雪村さんは誰よりもあゆちゃんの事を女性として扱ってると思うの」
「そう? あのマスター、なに考えてるかいまいち分かんないんだけど」
「あゆちゃんにプレゼントした洋服やアクセサリーを見れば分かります」

 えっ、と真琴は驚いた。

「なに? あゆってばそんなプレゼント貰ってたの? 見たことないわよぅ」
「え、や、その……」
「うふふ、デートのときしか身に着けないものね」

 あゆは真っ赤になって押し黙った。雪村に買ってもらった衣服や装飾品は、どれも大人ッぽすぎて自分にはそぐわないとあゆは思っていた。だから、なるべく知り合いには見つからないようにしていた。特に祐一や真琴には。あんなもの着ているところを見られたら、絶対笑われてからかい倒される。デートに着ていくのも本当は恥ずかしくてたまらなかったのだが、買ってもらった張本人に見せて欲しいと頼まれては断れず、三回に一回は我慢して着ていっている。もちろん、水瀬家に着て帰るような間抜けな事はせず、一旦店のように寄って着替えてから帰ってるから誰も知らないはずだったのだが、秋子さんにはどこかで見られていたらしい。

「ちょっと、なによそれずるいじゃない。今度見せなさいよ」
「や、やだよ、絶対嫌だからね」
「ケチケチするなー」
「絶対真琴ちゃん笑うもん! いーやーだー!」

 本気で嫌がるあゆあゆに、こいつは面白そうだとあゆの「馬子にも衣装」姿を想像しながら祐一にも教えてやろうとニヤニヤいやらしい笑みを浮かべる真琴であったが、もし実物を見たなら彼女のあゆに対する認識は革命を起こしていただろう。自分にあまり自信をもてないタイプの所為か、本人に自覚はないが、雪村仕様のよそ行き月宮は大いに大したものなのだ。

 実のところ、一見での印象に囚われず余計な予断を挟まない雪村の見立てとセンスは、祐一や小太郎では及びもつかないほど抜群だったりする。
 だが、問題は雪村のセンス云々ではない。何度か実物を目にしている秋子から言わせれば、どんなにセンスがあろうともあんなコーディネイトはあゆを子ども扱いしていたら絶対出来るものではないのだ。

 嫌がるあゆを真琴が追い詰めていると、チャイムが鳴って、玄関から「戻りましたー」と小太郎の声が飛んできた。

「あ、来やがったわね」

 乱暴な口振りとは裏腹に、真琴が弾むような足取りでリビングを飛び出していく。解放されたあゆは安堵の吐息をつきながら、少しだけ羨ましそうに春真っ盛りの真琴の残像を目で追った。

「あゆちゃん、雪村さんの態度が不満?」

 真琴が場を外すのを見計らっていたのだろうか。秋子は不意にそんなことを口ずさんできた。虚を突かれて一寸言葉を失ったあゆは、首を捻った。どうだろう。自分は彼に不満を感じているのだろうか。

「そんなことは……ないと思うよ。不満は感じた事ないかな。でも、不満はないけど、ちょっとだけ不安かも」

 大事にされているという確信はある。心底から必要とされている確信もある。ただ、愛されているかどうかの確信はない。分からない。
 正直にそのことを口にすると、秋子はいつもとは少しだけ雰囲気の違う微笑を浮かべた。あゆにはそれがどこか羨望を含んでいるように見えた。錯覚だろうか。

「恋愛のやり方や愛情の表現の仕方は、多分人の数だけ違うのでしょうね。誰もが分かりやすい形でそれを表すわけじゃないんだわ、きっと」
「要さんも、そうなの?」
「さあ、それはわかりません。だって、私はあゆちゃんほど雪村さんのことは知らないんですから」
「うぐぅ」

 答えをはぐらかされたような気がして、不満そうにうめいたあゆに、秋子はクスクスと訊ねた。

「あゆちゃんは、本当は愛されてる確信なんて必要としていないのでしょう?」
「え? ど、どうしてそんな風に思うの?」
「ただなんとなく、ですよ」

 そう言って、秋子は話を締めくくった。廊下から小太郎を伴った真琴の戻ってくる気配。
 ただなんとなく、その言葉とは正反対の事実を問い詰めるかのような確信を声音に感じて、あゆは不思議に思う。まるで、嫉妬されてるみたいだ、と。
 真琴がリビングの扉を開けるまでの僅かな間、秋子はオルゴールの旋律に耳を傾けるかのように、小首を傾げて目蓋を閉じていた。














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