夏はシャワーだけで済ますという傾向が近年増えているのだという。嘆かわしい、それは断固として過ちだと主張したい。体に蓄積される疲労は寒い冬よりも暑い夏の方がしつこく根深い。だからこそ、夏こそ湯船に浸かって疲労を拭うべきなのだ。

「……あかん、ちょう逆上せたかな」

 とはいえ、浸かりすぎは逆効果である。
 風呂上りにしては爽快さに欠ける面持ちで、北川薫は脱衣所の鏡の前で髪にドライヤーを当てていた。母親と違ってわりと外面を気にする性格なので、普段なら適当に吹くだけで済ます髪を丹念に梳かしてみたりなんかする。無駄だった。癖っ毛の所為で収まりの悪い髪の毛はちっとも言う事を聞かずにツンツンと跳ねてしまう。
 しばし恨めしげに鏡の中の自分を睨み、北川薫は格好をつけるのを諦めた。

 他人の家の風呂というのは、どうにも居心地が悪いものだ。かといってカラスの行水で済ましてしまっては、変に家の人に気を遣わせてしまうのでは思い、もう少しもう少しと粘っている間に長風呂になってしまった。何くれとなく損を被るところなぞ、父親に良く似ている。

「お風呂いただきましたー」

 居間を覗くと香里が独り、ぼんやりとテレビを眺めていた。だが、番組に見入っているのではなさそうだった。何か物思いに耽っているのか、テレビの光彩を映しこむ瞳はピクリとも動かず硝子球のように押し黙っている。だが、薫の声にふっと色が戻り、薫の方へと首が向いた。

「あら、随分ゆっくりだったわね。暖まった?」
「うん」
「香里、お風呂開いたのなら先に入ってちょうだい」

 キッチンの方で洗い物をしていた美坂母からお声が掛かる。

「はいはい」

 香里はチャンネルを手繰り寄せてテレビを消すと、お尻に敷いていたクッションをソファーに放り投げながら立ち上がった。

「あ、あのさ」
「ん、なに、薫くん」

 ナチュラルのそれを無視する美坂母娘に、もしかしたら気にする自分の方が間違ってるのかと深刻に悩みながら、それでも自分まで無視するのは申し訳ないような気がして、薫は恐る恐る縁側のガラス戸を指差した。

「ええの、おじさんあのままで」

 ガラス戸の外にはヤモリのように中年の親父が張り付いていた。
 物凄い形相で薫の方を睨んでいる。あらゆる意味で怖い。

「あらあら、薫くんは気にしなくていいのよ」

 タオルで手を拭きながらキッチンから現れた美坂沙織がニコニコと薫に微笑みかけながらガラス戸の方に歩いていき、笑顔のままガシンッ、と美坂父の張り付いているガラス戸を蹴飛ばす。キャインキャインと啼きながら、美坂父は庭に設置された粗末なテントの中に逃げ込んでいった。

「…………ね、ねえちゃん」
「はぁ、自業自得よ」

 あれが自分の父親かという絶望感を感じさせるやり切れなさそうな溜息を零しながら、でも辛辣に美坂香里は言い捨てた。
 母親の逆鱗に触れた父の末路であった。
 まあ確かに、路頭に迷う薫に対して、
「くくく、どうしても我が家に泊まりたいというのなら、泊めてもかまわないぞ。ただし、軒を潜るのは許さん。庭だ、お前みたいな小僧、庭で充分だ。沙織さん、ほら、物置に古いテントがあっただろう。穴の開いた雨が降るとびしょぬれになるやつだ。あれを貸してあげなさい。寝袋? 娘と同じ屋根の下に入ろうなどという身の程知らずには地べたで充分だろう!」
 などと哄笑しながら言うような輩にはまさに自業自得な末路と言ってよかろう。
 だいたいそんな邪悪な本心丸出しの発言を、薫を猫可愛がりしている沙織の前で堂々と言うのだからどうかしている。これで会社では「冷静にして沈着」「才気迸る」「英国紳士」「知略湧き出るが如し」「気遣いと人徳の人」として上司部下得意先下請けを問わず慕われ頼みにされているのだから、人間とは複雑怪奇なものである。
 栞が度々見せる後先を丸で考えてなさそうな頭の悪い言動は、多分父親似なのだろう。

 根が優しいというか小心者の北川潤なら、ここで美坂沙織に英悟パパのことを取り成すのだろうが、根が結構ツンドラな北川薫は「気にはしたんやし、もうええか」と、内心ご愁傷様ですと呟くだけでそれ以上特に何か言い添えることもしなかった。何気に酷いやつである。

 さて、どうしよか。けっこう疲れたし。

 風呂に入るまで、沙織や香里、姦しい女性陣にアクセル全開で付き合わされた薫は心身ともに疲労が蓄積しているのを感じていた。慣れない列車の旅をしてきたというのもある。風呂でそれが拭えればよかったのだが、上記したようにあんまり効果はなかったみたいで。眠気はまだなかったものの、さすがにまたテンションの高そうな沙織ママさんのおしゃべりに付き合うのは辛そうなので、早々に宛がわれた自室に引っ込む事にした。

「そういや、栞どうしたんやろ」

 自分より先に風呂に入ったはずなのだが、姿が見えない。自分の部屋に戻ったのだろうか。一瞬、覗いてみようかと思ってしまった自分を薫はぶん殴りたくなった。構って欲しいみたいやないか、みっともない。ええやないか、五月蝿い思いせんでええねんから。
 ガシガシと赤っぽい髪を掻きまわし、こびりつく思いを振り切るように階段を駆け上がった薫は、自分が寝泊りする事になった客間の和室の扉を無造作に開けた。
 部屋の中では美坂栞が人のカバンに抱え込み、ごそごそと中身をあさっていた。

「って、こらなにしとんやっ!!」
「うん、なんか面白いものないかなーと思って」

 悪びれもしない栞。

「何もないじゃない。薫くーん、君つまんない。着替えばっかりだよ。あ、薫くん、もうブリーフは卒業したんだね、大人ー?」
「か、勝手に漁るなや! や、やめろやボケ、人のトランクス被るな!!」

 カバンの中から下着を取り出してケタケタと笑う栞を慌てて取り押さえようとした薫は、いまさらのように栞の格好に気付いてギョッと固まった。
 胡座を掻いた上にカバンを抱えていたから不覚にも気付かなかったがこの女、タンクトップ一枚引っ掛けただけで、パンツ一丁やないか!!

「おま、おまえ、なんちゅうかっこしとんねん!!」

 悲鳴をあげて飛び退いた薫を見て、栞の片眉がピクリと跳ね上がった。ニタァ、と口端が吊り上っていくのとは裏腹に、口調だけは不思議そうに小首を傾げる。

「ん? なにかおかしいかな?」

 なんて言いながらわざとらしく乗っけていたカバンを頭の上に掲げて自分の姿を見下ろしてみたりする栞。かばんで隠れていたパンツが露わになる。パンツの柄は青と白の縞々だった。おまけにブラもしてないらしい。両腕を挙げた拍子にタンクトップが突っ張り、胸の形がくっきり浮き出る。

「いつもと一緒の格好だけど」
「ず、ズボンかなんか穿けよ!」
「えー、暑いじゃない。これ、涼しいんだよ。私、体が弱いから冷房も苦手なんだよね、だから薄着でもしないとやってられないの」

 もっともらしい言い草だが、台詞と顔つきが一致していない。前脚で鼠を押さえつけてさあどうして遊ぼうかと舌なめずりする満腹の猫のような邪悪な表情だ。だが、必死に顔を背けている薫には分からない。必死どころか健気ですらある。そこでマジマジと見てしまう祐一や小太郎のような図太さ、チラチラと横目で窺ってしまう北川潤や御門和巳のような狡っからさがあればまだ良かったのだが、元が生真面目な上に年頃の男の子特有の潔癖さと気恥ずかしさで真っ赤になった薫は、横目で見るような事もせずひたすらに目を背けた。その反応こそ栞の思う壺である。
 頭の回転が速く性格もちと陰険入ってて口まで達者な薫と真っ向から立ち向かえば、歯が立たないとは言わないまでも痛み分け付近で終わってしまうのは先日の旅行の際に思い知っている。
 あのこまっしゃくれた口を塞ぎ、抵抗らしい抵抗も出来ないままあのクソ餓鬼を屈服させるにはどうしたらいいか。簡単である。弱点を突くのだ。そりゃもう無慈悲に残虐に冷酷非常に突きまくるのだ。そして栞は薫の決定的な弱点を遂に発見したのだった。

 くくくっ、ズバリこのウブでシャイなお子ちゃまは女性が苦手、特に色気に弱いのだ!

「だか、だからって、普通男のいる前でそんなかっこするんかよ、恥ずかしがるやろうが、普通」

 ちょい逆切れ気味に薫が怒鳴る。一瞬視線が栞を向いて、すぐに慌ててまた逸らされる。見ると石になってしまうか死んでしまうとでも言いたげな反応だ。だが汚いものを前にしたような態度ではないので不快ではない。というより涙目半泣きなのがまた愛い愛い。
 恥ずかしいかと言われると……取り立てて恥ずかしくも何ともない栞であった。なのでこう答える。

「べつにー」

 相手がちゃんとした男ならそりゃ恥ずかしい。実のところ、これが夏場の普段の格好というのは紛れもない事実なのだが、男に見られればそりゃ恥ずかしい。当たり前だ。結局兄貴分としてしか見れなくて異性として恋愛対象に出来なかった北川潤が相手であっても多分恥ずかしいだろう。美坂栞はこれでも純真な女の子だ。でも子供相手に恥ずかしいもなにもない。昼間裸を見られたときだって驚きはしたし気まずいものは感じたから思わず殴ろうとはしたものの、恥ずかしいとは思わなかった。

「まあ恥ずかしがって欲しいなら、もうちょっと頑張って大人になりなよ。二年は早いね薫くん、ふっふっふ」
「くっ……」

 プライドを傷つけられたのだろう。怒りの赤が照れの赤を押しのけ、薫は栞を睨みつけた。
 ほうほう、まだ逆らう気力がありますか。こうなったら徹底的に分からせてあげましょうかねえ、この場で偉いのが誰なのかを。
 栞の表情がギタリ、と捕食対象を見つけた猫科の猛獣のものへと変化する。

「おやまあなんですか、なにか文句でもあるのかなあ、男の子」
「あ、あほんだら、オレはお前なんか――」
「ほれほれ」

 顔からボンと蒸気を吹き出し引っくり返る北川薫。
 いったい何が行われたかは想像にお任せします!!

「やっ、やめっ」
「うふふふふ、どうですかぁ、これでもまだなにか言いたいのかなぁ?」
「―――ッ! ――――ッ!」
「あ、こら逃げるな。とりゃっ、よっ、ほいっとくりゃ」
「―――ッ!! ――――ッ!!」
「けけけ、ほら観念しなさい。んー? ほれほれどうだどうだ、降参しないとこうですよ〜、ぐりぐりぐり〜」
「―――――ッ!! ――――ッ!!」

 身の毛もよだつ悪夢のようにおぞましい拷問であった。
 正視するを耐えかねる惨状から、薫の声なき悲鳴がこだまして、やがてか細く消えていく。
 それはもう、筆舌尽くし難いはしたなさであった。あまりにはしたなすぎて描写が不可能なほどである。時代が時代ならPTAに発禁喰らいそうだ。人呼んであぶないルナ先生。

 十分後、座布団三枚重ねた上に胡座をかいて、パタパタと扇子を仰ぎながら呵々と大笑する栞の脇に、背を丸めた正座させられている薫の姿があった。そのツンツン頭には何故かさっき栞が引っ張り出して遊んでいたトランクスが被せられている。屈辱であった。栞、まさに完全勝利の様相であった。
 どうでもいいが、パンツ一丁で胡座はいい加減おやめなさい。

「わっはっは、思い知ったか。これに懲りたらもう私には逆らわないことね。でないと死にますよ……なんちってなんちって」
「…………」

 サウナに長時間入りすぎた減量中のボクサーのような憔悴し切った様子の薫は普段のように言い返してこなかった。ぐぅの音も出ないほど参ったらしい。
 ここでプツンと理性が切れて逆に襲ってしまう、という状態にならずにひたすら本能のままにアワアワと逃げ惑っているところなぞ、やはりお子様だったというか性格というか。とにかく弱点というのは正解らしい。栞の目もあながち節穴ではないのかもしれない。
 ちなみに、一応明言しておきますけど、これは立派なセクハラ(・・・・)です。

「さて、無事小生意気な小僧さんを屈服させることに成功したところで――」
「うー、うー」

 大いに反論したい薫であったが、唸り声しか出てこない。頭の中はパンツ縞パンむにゅふにょぽよんでまだ一杯なのである。怒りに回せる余計な血圧は残っていない、気を抜けばすぐさまオーバーヒートしてぶっ倒れる。しかも鼻血付きで。
 薫が大人しいのをいい事に(大人しくさせたのは栞なのだから当たり前だが)、床の間に立てかけてある長大な布の包みに手を伸ばす。

「気になってたんですけど、これなんですか薫くん。わっ、なんかすっごく重いんだけど」
「…………」
「中、見ていいかな」
「あかん」
「あー、暑いなー、上脱いじゃおっかなー」
「わーっわーっ、わかった、わかったから逆立ちするなーっ!」

 えい、えい、と掛け声をかけながら壁の前に手をついて畳を蹴り出した栞を慌てて制止する。ちなみに栞は逆立ちが出来ません。不器用な少女ですから。
 美坂家の壁に穴があく危機を未然に防いだ功労者北川薫は、危険領域まで捲くれ上がったタンクトップを火の掛けられたヤカンのような顔で直し、ヤケクソのように布を縛っていた赤い結紐を解いて栞に手渡した。見ていい触っていいの無言の意思表示だ。
 ホクホク顔で受け取った栞は、布から中身を抜き出し、ほぅ、と目を見開いた。

「す、すっごーい、えっ、ええ!? うわぁ、これって日本刀じゃない」

 重いはずだ。中から出てきたのは質実剛健とした拵えの見事な日本刀だった。
 栞は取り落としそうになりながら、刀を包んでいた紺布を抜き取った。黒漆を掛けた柄と鞘に手を沿え、ため息をつきながら目を眇める。

「抜くなや、危ないねんから」
「うん、わかった」
「とか聞き分けのいい返事しながら当たり前に抜こうとするな!!」

 泡を食って止めに掛かってくる薫から体を捩って刀が取り返されるのを防ぎながら、栞は不満そうに唇を尖らせた。

「いいじゃない、べつにー」
「あぶないねんて、特にお前みたいな鈍くさいのが持ったら」
「なによー、鈍チンなのは薫くんも同じじゃないの。それとも、抜いたら血を吸いたくなる妖刀とかいうんじゃないでしょうね」
「功刀の指料やないんやから、そんな呪いはついてねえよ」

 いまなにかさらりと不穏な言葉を聴いた気がしたが、触れるとヤバそうなので聞き流す。

「香取と鹿島の祭文で血祓祭礼を施してあるって言ってたから、普通のやつとはちょっと違うねんけどな」
「……???」

 なんにもわかってなさそうな顔で目を瞬くので、薫は眉間にしわを寄せながら噛み砕いた表現に言い直した。

「魔法で強化してるからちょっと頑丈になってんの」
「ああ、そういうことですか、なるほどなるほど!」

 分かってくれたらしい。これでわからなかったらアホウだが。
 振り回さないからと薫を言い包め、渋々と許可をいただいた栞は、舌なめずりするような面持ちで刀の鯉口を切った。これで私もサムライデビューだ(?)

「おおっ」

 歓声をあげるが実は何が凄いのかよくわからない。分からないけれどなんだか凄いという気分にさせられるのだからやっぱりすごいのだろう。
 注意されるまでもない、これは慎重に扱わなければならないものだと素人の栞にも抜いただけで実感した。無言の迫力、静寂の覇気。模擬刀などには決して出せない威圧感。戦うために鍛えられた本物の刀だ。

「ねえねえ、これって高いんでしょ」
「さぁ、値段なんか知らんわ。昔、功刀が実家からかっぱらってきたもんの一本らしいけど」
「高いよ、これ絶対高いと思うよ。ムラマサだよ、きっと。ほら、有名な刀であるでしょ、ムラマサ。それともマサムネ?」

 興奮の鼻息荒く、目をキラキラさせながらうっとりと火焔のような刃紋を眺める栞。目の輝きが段々と$型になっていってるのは気のせいか。

「正宗は知らんけど、村正なら脇差が家に何本かあったかなあ。でも、それはちゃうよ。えーっと、拝一刀の指料と同じヤツ」

 子供時代に病院暮らしが長いと何かとご老人方とも知り合う機会が多いこともある。栞もその分に漏れず、同年代の少女より多少は時代劇に詳しい。

「ああ、子連れ狼?」

 と、すぐに名前が出てくる。

「うん、それ。あと、三匹が斬るとかいう時代劇の変なあだ名の……」
「タコ? は、刀使ってなかったっけ。千石さんでしょ、千石さん。本名は久慈慎之介」
「そんな名前やったっけ。見たことないから知らんのやけど。ともかく、有名人が使ってるんやからけっこう有名なんちゃう?」
「ムラマサじゃないの?」
「だからちゃうって。なんやったかな、ドレミファのど、どど、ど、同田貫。ああこれや、思い出した。同田貫正国や」

 一銘を【同田貫正国】、もしくは【同田貫上野介】。
 肥後の刀工同田貫派の祖・正国の一品で、あの斬ってなんぼ殺してなんぼの戦国時代に良く斬れ頑丈、八人斬っても大丈夫♪ と持て囃された豪刀である。ただ、同田貫といえば本来なら二尺五寸はある大刀が一般的なのだが、栞の手の中にあるものは肥後拵を着せていて、70センチ弱――二尺強ほどの長さしかなかった。
 だがこの一刀、もはや妖魔神刀の域にまで達している九十九埼秘伝の四振りには及ばないものの、【綿(わた)()り正国】、もしくは【(わた)()り】という血生臭い名で九十九埼家に伝わっていたそれなりに結構な名刀なのである。勿論、功刀から「とりあえずこれ使っとき」と新しい歯ブラシを渡されるみたいな適当さで刀を持たされた薫はそういう物騒な由来も価値も何もまるで知らない。

「……知らないなー、聞いたことないよ」

 そして価値も何も分からないのは少女栞も同等なのだ。もしくは同レベルとも言う。

「……どうせ村正と正宗しか知らんのちゃうん」
「えへへー」

 笑って威嚇する栞。抜き身を持ちながらそういう笑い方をされるとちょっと怖い。

「うう、それにしても重たいなあ。腕が疲れてきた」
「いい加減返せよ」
「なによ、偉そうに、と言いたいところだけど」

 今日はもう勘弁してあげます、と存外素直に刀を返した。もうちょっとごねられると思っていたので、受け取った薫は拍子抜けしながら手馴れた手付きで鞘に納める。

「それにしてもさぁ」

 畳の上にうつ伏せに寝転がり、頬杖をつきながら再び刀を布に包んでいく薫の手元を眺めていた栞がポツリと呟いた。不信が混じった声音に薫は手を止める。

「根本のところで疑問なんだけど。君、なんでそんなもの持ち歩いてるの?」
「それは……」

 栞に視線を向けた薫は、栞の緩んだタンクトップの襟元の奥をまともに覗いてしまい、バネ仕掛けの人形のようにそっぽを向いた。一瞬キョトンとした栞は、原因を知って苦笑しながら体勢を変えて座りなおした。内心、ほんとにこの子ウブだなあ、と呆れている。別に見たけりゃ見ればいいのに、なんてことを他人事のように思ったりもする。だが、少年はそういった邪まな心の動きをどうしても認められないらしい。それも栞に対しては特に。ある意味立派な意地っ張りだ。
 だがここで、案外可愛いですねえ、なんて考えてる栞も大概無神経なのだ。年上以上の男性には実体以上に少女らしさ・女らしさを強調したがる向きのある栞であったが、異性と認識しない相手には自分が女だという意識がとことん無頓着になる面があった。薫に対してまったくと言っていいほど恥じらいを感じていないのがその証拠だ。薫からすればたまったものではない。
 先ほどと違ってからかうという意図をまったく持たないくせに、平然と大股開きで座り込み、足の裏をくっつけて両手で押えるという寛いだ、でも下着一枚ではあまりに危険な格好を何の気もなしく無防備にしてしまうところなぞ、本当に始末に終えない。
 時折、気を許した人間に呆れるほど無防備になる所は姉の香里にもあったが、栞のはそれ以上だった。
 まともに顔をあげることも出来ないまま、それでも涙ぐましい努力で平静を装いつつ(全然装えてないけど)薫は話の先を続けた。

「この間の旅行の後から功刀に力の使い方とか教わっとんのや。剣術もその一環。ま、剣術らしい剣術はまだ全然教えてやねんけどな、とにかく何処に行くときでも持っといて手に馴染ませろって功刀が」
「ふーん、それで旅行先まで持ってきたんだ。なんだか野球とかバスケットの選手みたいだね、手に馴染ませろって……効果あるの?」

 かなり疑わしそうな言い方だった。内心、ボールじゃないんだからどうなんやろ、と同意見だった薫はコメントを返さず目を泳がせた。

「でも、どうして?」
「なにが?」

 じっとしていられない子供でもあるまいのに、今度は膝を立てた三角座りに居住まいを直し、膝に顎を乗っけながら栞は不思議そうに刀から薫の目へと視線を移す。

「薫くん、あんまりあの力、好きじゃなさそうだったのに。どうして急に使い方を習おうなんて思ったのかな、って。なにもしなくても、段々と普通に暮らすには支障なくなってきてたんでしょ?」
「………………」

 薫は先程までとはまったく別の意味で栞と顔を合わせられなくなり、そっぽを向いたままごにょごにょと曖昧に言葉を濁した。そんなこと、恥ずかしくて面と向かって言えたもんじゃない。
 あの無意味で苦痛なだけのはずだったあの力で、栞を助けられたのが嬉しかったから(・・・・・・・・・・・・・・・・) だなんて理由を、シャイな薫が当人に堂々と言えるはずもなかった。

「あー、なんか怪しいなあ。ちょっと、ほら、白状しろー」
「べつに理由なんかないわっ、あ、暑いねんからくっついてくるなっ」
「そこで黙り込むってことは面白い理由があるんでしょ、ほらほらほら、観念して吐けー」
「だ、だからくっつくなーっ! わっ、わっ、や、やめ」
「くくくっ、よいではないかよいではないか」
「ひゃっ、こ、こらボケ、ふざけ、ちょ、し、栞ーっ!」
「…………なにやってるの、あんたたち」

 ハッと動きを止めてドアを振り返る栞と薫。ドアの前には風呂上りらしいサッパリとした様子とは裏腹の、胡乱げに目つきを半眼にした美坂香里が立っていた。
 背筋に冷や汗が流れるのを感じながら、栞は自分達の有り様を改めて確認した。
 うつ伏せになってズリズリと逃げようとしている薫の腰にドッカと腰掛け、パジャマのズボンを脱がそうとしているパンツ一丁の自分。

 だいぴんーちです♪

「いや、あのお姉ちゃん、これはね」
「たすけてー、香里ねえちゃーん!! 栞がセクハラしてくるんやー」

 ここぞとばかりに助けを求める北川薫。栞にはハッキリと薫の目がざまあみやがれと歪んだのがわかった。機を逃さない生意気な賢しらさ、敵を陥れるには他人を煽動するのも躊躇わない悪辣さ。まさに美坂栞が天敵と認めた北川薫の本領発揮であった。
 とはいえ、薫は嘘など一言も言ってない。

「……栞、あなた」
「や、やだなあお姉ちゃん、ただのスキンシップですよ、スキンシップ。ほら、良く言うじゃないですか、本日もサービスサービス♪ 90分二万円ぽっきり! とかと、か…………え、えぅぅ」

 動揺してたせいで言葉の選択を間違ったらしい。香里の顔が見事に引き攣る。

「こ……の、娘はぁぁ。ちょっとこっちにきなさい、栞! ごめんね、薫くん、ちゃんとこの子には言って聞かせるから」
「い、いやーっ!! げふっ、お、おねえじゃん、ぐ、ぐびがじまる、え゛ぅぅぅ」

 むんずと襟首を掴まれ文字通り引き摺られながら退場していく栞を、薫は笑顔で見送っ…………れなかった。だからパンツ丸出して足をバタバタさせないでください、お願い。





 ちなみに、翌日から栞はちゃんと家の中でもスカートを穿くようになった。香里の教育は即効性らしい。
 ただ、無防備なのは相変わらずだったので、美坂家に滞在する間、薫少年の苦悩は続く。








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