人の姿を象るという事は、すなわち人としての(サガ)をも有するようになるのだという。模するのではなく変じる。変化するということの本当の意味はそこにあるのだと、美汐は言っていた。
 食器や家具の器物でも人に化ければ会話をし、刃物で傷つけられれば赤い血を流す柔らかい体となるように。狐や猫といったケモノでも、人に化ければ人と同じ食べ物を食することが出来、人との間に子供すらもうけることが出来てしまうように。
 程度の差はあれど、何らかの形で変じた存在の属性を帯びる、それがこの世の理なのだと、妖狐として人界で生きていく自分に、美汐がそう説いたのを、真琴は思い出していた。
 そうでも思わないと気恥ずかしくてたまらない。
 うん、そうだ。これも人に化けてる妖怪の逃れられないサガってやつなのだ。

 熱気の篭もった空気の中、うつ伏せに布団の感触を感じながら、真琴は尻尾で裸の背中をさわさわと撫でまわした。

 年がら年中発情期って、人間の典型的な特徴だし。

「……はぁ」

 艶かしい吐息を吐きながら、真琴は伏せていた目蓋を薄っすらと開いた。体の芯に溜まった熱がまだ火照っていてひどく気だるい。隣で寝そべった小太郎が弄ぶように髪の毛を梳く、その手付きは心地よく、もうしばらくこのままで居るのもいいかなという気分だったが、それよりも喉を刺すような渇きの方が上回った。妙にフワフワして上手く力の入らない両手でなんとか身体を支え、よいしょと立ち上がる。

「真琴さん?」
「水、飲んでくる」

 目に掛かった前髪を掻き揚げながら、真琴は床に散らばった自分の服を目で追った。四方八方に脱ぎ散らかされている服や下着。二人してお互いにひん剥くようにして脱がせたものだから、ひどい有り様だ。

「……ま、いいか。誰も居ないんだし」

 もう下着を身に着けるのも面倒で、真琴はそのままの格好で部屋を出た。廊下に出るとひんやりとした空気が素肌を撫でていく。元々空き部屋だった真琴の部屋には一年以上過ぎた今でも冷房は設置されておらず、扇風機しか置いていない。暑さ寒さに対して無神経なほど強い真琴には扇風機さえあれば充分なのだ。
 だが、窓も開けずに締め切った部屋で先ほどまでのような事をしていてはさすがにキツいものがある。だからといって、窓を開けるというわけにもいかないし。ともかく、お陰で部屋の中は随分と蒸れた状態になっていたらしい。本当なら真夏の茹だった気温のはずの廊下の空気は、気だるい火照りに悩まされていた真琴にはまさに涼風のようなものだった。

「これならお姉ちゃんの部屋でも使わせてもらうんだった」

 後の処理が面倒なので、実行するつもりはさすがにないが、冷房があるという理由だけじゃなく姉の部屋でこっそりとするというのは何やらゾクゾクするものがあって、妙にそそられる。

「……あほらし」

 汗で張り付いた髪を掻き揚げながら、真琴は階段を降りて無人のキッチンに忍び込んだ。何も身に付けていない裸の所為か、無意識に足音を忍ばせてしまい、何となく忍び込んだと言うフレーズを使ってしまいたくなってしまう。住み慣れた家の中を素っ裸で歩き回ることに、どうにもドキドキしてしまう真琴であった。もしかしたら変な性癖でもあるのかも、と首を捻ってしまう。
 真琴は冷蔵庫の中から良く冷えた麦茶の入ったビンを取り出し、食器棚から出してきたコップに注ごうとしてはたと留まった。自分の格好を見下ろして、折角だし、と思い直す。そのまま真琴はコップに注がずに、ビンから直接麦茶をあおった。服を濡らす心配をしなくて済むから、多少ワイルドに。コクコクと喉が鳴るのと同時に、口端からこぼれた麦茶が顎から喉を伝って落ちていく。
 突然背後から抱きつかれたのは、丁度プハァと息継ぎをした瞬間だった。
 思わずビンを落っことしそうになり、悲鳴混じりに叱り飛ばす。

「こ、こらぁ、驚かさないでよぅ」
「まあまあ」

 肩に顎を乗せて耳を擽るように宥めながら、小太郎は伝ってきた麦茶でほんのりと濡れている真琴の胸を背後から鷲掴みにしてくる。真琴は悲鳴を噛み殺しながら反射的に身体を屈めようとしたが、胸と腹を抱き抱えられているため、前屈みになっただけだった。
 素肌と素肌が直接密着する。小太郎も裸だ。

「ちょ、ちょっとコタロウ」
「ねえ真琴さん、ここでしません?」
「こ、ここで?」
「みんなでご飯を食べる場所です。興奮するでしょう」
「あ、あんたね」

 小太郎と付き合いはじめた真琴にとってあまりにも予想外だったのは、この少年のスケベさ具合だった。普段の彼の印象は初心そうですらあったのに。それに若さに任せてがっついてくるならまだ分かるのだが、明らかに手馴れている風なのだ。雰囲気の作り方から此方の心理の揺さぶり方、ポイントの突き方、実際の床での手練手管。翻弄されるばかりで主導権などまるで取れない。Hモードに入った小太郎の前では、真琴は小娘同然でしかなかった。

「あぅぅ、あんたがこんなエッチだなんて思わな、くぅっ、かったわよぅ」
「くくっ、そういう真琴さんだって充分エッチですよ。今だって、誘ってたでしょう」
「さ、そってなんか」
「そうなんですか? わざと零しながら水を飲んで。綺麗で、色っぽかったですよ。思わず襲ってしまうくらい」
「ば、ばかぁ」

 まさぐる小太郎の手に身体を戦慄かせながら、潤んだ目を真琴はギュッと瞑った。本当に、このスケベめ。そうだ、考えてみたらこいつが初心そうだなんて自分の思い込みでしかなかったのかもしれない。思い出してみろ、この男と来たら人の尻尾を追い掛け回してたくせに、妙に他の女の子にも愛想が良かったじゃないか。こういうやつは、世間ではプレイボーイ気質というんじゃなかったか? それなら、この妙に慣れた雰囲気も理解できる。

「こ、たろう。あんた、あたしの前に何人の女と付き合ってたのよぅ」
「んー? 教えて欲しいんですか?」
「…………」

 どうやら何人どころでなさそうな様子に、言葉に詰まってしまった真琴のうなじに唇を這わせながら、小太郎は甘く甘く囁いた。

「愚問ですよ、真琴さん。以前何人と付き合っていようと、それはどうでもいいことです。だって、これからの僕にはもう貴女だけなんですから」
「気障な、台詞っ。気障すぎて虫唾が走るわよぅ」
「えー、それはいけませんねえ。じゃあ、気持ちよくしてあげます」
「えっ、ま、て、きゃっ。んんっ、わかったから――――」
「そこに、そう手をついて。いきま――――」

『ただいま』

 ガチャリと玄関のドアが開く音。そして、帰宅を告げるあの人の声。
 冷蔵庫のドアに両手をついてギュっと目を閉じて受け入れる体勢をとっていた真琴と、その彼女に覆い被さってまさに事をなそうとしていた小太郎は、喉から心臓が飛び出そうなほど仰天し、全身を総毛立たせながら声にならない悲鳴をあげて飛び上がった。

(ちょ、ちょちょ、どうして秋子さん帰ってくるんですかっ! 今日は遅いはずでしょう!?)
(しし知らないわよ、あたしが聞きたいわよっ! どどどどどうしよう、やばいやばいやばいやばい)
(こんなカッコウ見られたら拙いですって。へ、部屋に戻らないと)
(無理よう! 二階にあがるには玄関を通るしか)
「………………」

 冷蔵庫の前に蹲って、顔を突きつけあいながら小声で言い争っていた真琴と小太郎は、誰かが息を呑む気配を感じて、恐る恐る顔をあげた。
 玄関から一直線に来たらしい、買い物袋をぶらさげた水瀬家の家主が、目を丸くして裸の二人を見下ろしていた。

「あ、あのですね、秋子さん――」
「ここ、これはその、あの」
「…………真琴、それに小太郎くん、とりあえず服を着ていらっしゃい」
「「……はい」」

 驚いていた秋子が、徐々に眉を顰めながら何時になくピシャリとした口調で指示を下したのを聞いて、真琴と小太郎は観念してガックリと項垂れた。








 五分後、リビングにて向かい合って腰掛ける秋子と真琴・小太郎の姿があった。
 無言である。とてつもなく気まずい沈黙がリビングに凝っていた。
 居たたまれなくなり、真琴がヘラヘラと笑いながら話題を振る。

「お母さん、今日は早かったのね」
「ええ、思ってたより仕事が早く片付いたの……拙かったかしら?」
「うぇ……あ、ぅぅ、そんなことは」

 大変拙ぅございました。
 顔色を赤やら白やらに点滅させながら揃って縮こまる二人を見て、秋子は溜息をつきながら仕方なさそうに肩を落とした。

「二人とも、いつからそんな関係になっていたの?」
「ついこの間。まだ、一週間も経ってないです」
「……そう」

 真摯な口調で答える小太郎に頷きながら、秋子は困ったように頬に手を当てた。

「あの、ごめんなさい、お母さん」
「……どうして謝るの?」
「それは、その。ちゃんと報告してなかったし。それに、台所でああいう事をするのは、拙かったなあ、って」
「……そうね」

 シュンとした真琴の言葉に、ようやく秋子はその顔にいつもの微笑を浮かべた。やや微苦笑じみていたが。

「好きな人同士が身体を重ねる事は悪いことではないと思うわ。でも、まだ日の高いうちからするのはどうかしら」
「でも……夜だとみんながいるんだし」

 そうね、と今度ははっきりとした苦笑を浮かべ、でも、と秋子は続けた。

「やっぱり節度は考えるべきだと思うの。若いからこそなおさらね」
「すみません。元々は僕が強引に」
「そ、そうなのよ。コタローが強引に」
「え?」
「なによ」
「……いやまあ、はあ」

 事実だけに何もいえなかったらしい。情けない顔になってしまった小太郎を見て、秋子は頬を緩めた。

「ともかく真琴も小太郎くんも、あまりはめを外さないように」

 どうやらそれで放免と思しき口振りに、ピョコンと耳を立てながら真琴は顔をあげて素っ頓狂な声を飛ばした。

「え? お母さん、それだけ?」
「はい、それだけ。二人がどう付き合うかは二人の責任です。私が口を出すことではないわ。避妊はしてるんでしょう?」
「は、はい、それは勿論」

 慌てて答える小太郎に、それは結構、と頷く秋子。

「もっと怒られるかと思った」

 本当にそう思ってたのだろう。拍子抜けしたように真琴は緊張に凝り固まっていた全身から力を抜いた。

「本当ならもう少しお小言を言うべきなのかもしれないけれどね。でも、私もあまり人の事を言えた身ではないもの」
「……どういう意味?」

 困惑を浮かべる二人に、秋子は内緒話をするように小声になって二人に告げた。

「私も昔を思い出すとさっきの貴方たちとあまり変わらなかった、と言うことよ」
「「え、ええ!?」」
「あらあら」

 二人の驚きっぷりが面白かったのだろう。秋子はコロコロと少女のように笑いながら告白した。

「羽目を外しすぎたその証拠、というわけではないけれど、私が名雪を産んだのは18のときなのよ」
「じゅ、」
「十八、ですか」

 真琴は絶句しながら小太郎と顔を見合わせた。それが本当なら母上は丁度今の娘と同じ年齢で彼女を産んだことになる。

「ということは、今秋子さんの年齢はさんじゅ…………」
「あらあら」

 背骨に氷の杭を打たれるような寒気に襲われ、小太郎はそれ以上口にするのを我慢した。
 人間分かっていても言葉にしてはならない事と言うものがあるのです。

「そういえば、あたしお母さんの旦那さん、名雪のパパのこと全然知らない。どんな人だったの?」
「そうね」

 不思議とこの家では話題にならなかった名雪の父親。これまで気にした事はなかったものの、不意に出くわしたその男に関係ある話に異様に興味を覚え、真琴は先ほどまでの萎縮ぶりが嘘のように目を輝かせて身を乗り出した。真琴が水瀬家の娘である以上、その人は真琴にとっても父親になる、そういった意識があったのかもしれない。
 秋子はやや目を伏せて、懐かしむように沈思した。

「大らかな人だったわ。のんびりしたところは名雪によく似ている。優しいところも」

 小太郎と真琴は、黙って秋子を見守った。今の彼女の表情は、娘にとてもよく似ていた。祐一を見ているときの名雪の顔だ、と真琴は思う。その表情だけで彼女がその人のことをどう思っているか、伝わるには充分だった。この人は、名雪の父親をとても愛していたのだろう。いや、過去形ではなく、今もなお。
 その人は今はどうなったのか、そう問い質そうとして真琴は思いなおし口を噤んだ。それはなにか、秋子にとって触れてはならない領域のような、そんな予感が過ぎったのだ。
 自分のあまり公言できない過去を匂わせてしまったからか、秋子は少し頬を赤く染めながら、話を切り上げるようにして立ち上がった。

「さあ、そろそろ晩御飯の準備をはじめましょうか。そうだ、小太郎くん、貴方も食べていきますか?」
「え? えっと」

 問われて小太郎は考え込んだ。チラリと真琴を窺うと、いいんじゃないの、と素っ気無く眼が語っている。躊躇を生んでいるのは美汐のことだった。今の彼女を和巳と二人きりにして大丈夫だろうか。

「まあいいか」

 一度二人きりにしてみるのもいいかもしれない。考えてみれば、和巳が帰って来て以来あの二人が本当の意味で二人きりになる機会はなかったはず。もしかしたら刺激になっていい方に作用するかも……悪い方に作用する可能性もなきにしもあらずだが。それは考えても仕方ないだろう。どう転ぶにしても、結局は本人たちの問題なのだから。

「それじゃあ、ご相伴に預からせてください」
「はい、じゃあ小太郎くんの分も用意するわね」
「あ、あたしも手伝う」
「そう、お願いしようかしら」

 すっかり元通り、いつもの雰囲気に戻ってキッチンへと出て行く二人を見送り、まだ緊張の解けきっていなかった小太郎は深く深く息を吐き出して、体の力を抜き去った。
 そして指を組んでそこに顎を乗せながら、残念そうに呟く。

「はぁ、惜しかったなあ。さっきの真琴さん、可愛かったのに残念。んんん、よしっ、今度外で誘ってみよう――」

 あまり反省はしていないご様子である。












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