父親譲りの半眼気味の目つきの所為か、美坂香里と初めて出会う人は睨まれているか人品を吟味されているかのようでいささか気後れを感じることが多い。人当たりもどこか冷めているのでよく誤解もされる。だが実際の美坂香里はどちらかというと気さくな方であり、見映えと違ってあまり女を意識させずに異性でも気安く友達付き合いが出来る女性であった。尤も、外見かそれとも第一印象の所為か普通に友達付き合いしようと近づいてくる男は少なく色眼鏡で見られがちで、結果気を許して素顔を見せることの出来る男友達は案外少なかったりもするのだが。
 余談だが、この手のタイプの女性は恋愛に対しては酷く不器用、というのがパターンだったりする。
 ともかくも、香里は薫が北川潤の弟分であることと、妹から色々と話を聞いていたために、薫に親しみを感じていた所為か最初から気さくな面を彼に対して見せていた。本人を含め誰も気付いていないが、そういう時の香里は妹の栞ととてもよく似た雰囲気になっている。
 初めのうちは気後れしていた薫だったが、美坂家の道すがら香里と喋っているうちにすっかり懐いてしまい、「お姉さん」だった呼び方が到着する頃には「香里姉ちゃん」に変わっていた。歳相応の餓鬼っぽい言動のわりに、実際は殆ど他人に馴れ馴れしい態度を取らない薫としては、これはかなり珍しいことだった。

 波長が合うのかもしれない。ちょっと躁状態なのではと思うほど上機嫌に栞の近況を面白おかしく話してくれている香里に応じながら、薫はふと頭の隅で思った。以前、従兄に何気なく指摘されてから自覚したのだが、本当の自分はかなり冷めた人間らしいのだ。外面は厳しい父親の薫陶で礼儀正しい少年で罷り通っているが、内面では慇懃無礼というのか、あまり人を人とも思っていない側面がある。だが、香里と栞、この姉妹を前にすると、そういう側面がさっぱり拭い去られてしまうようだった。
 身近な人間や長く付き合って親しくなったような相手にしか抱けないこうした感覚を、初対面ですぐに抱いてしまったことに、薫は居心地の悪さと良さを、矛盾しているが同時に感じてしまっていた。

「それにしても、栞と全然違うよな、香里姉ちゃんって」

 香里の話に相槌を打ちながら、こっそりと横顔を盗み見る。美人で女らしくて優しげでハキハキしていて言葉の隅々から知性と聡明さが感じ取れる。喋り方は明瞭で声は涼やか、うるさいばかりの耳障りな喋り方とは遥かに縁遠い。また一方的に喋るだけでなく、聞き役に回って上手く話を振って会話を引き出してくれたりもする。
 子供っぽくて意地悪で傍若無人でギャーギャーうるさく常に一方的で人の話も意見も聞こうともしない栞と比べるのもおこがましい。よくもまあ姉妹でこれだけ出来が違ってくるものだ。
 と、そこまで考え、ふと薫は栞も自分と違って優秀な姉にコンプレックスを感じているのかもしれないと思った。もしかしたら人間として格が上の姉と比べられ続けたために、あんな風に捻じ曲がった人間になってしまったのかも。そうだ、そうに違いない。でなけりゃ、あそこまで歪んだ人間にはならないだろう。

「……ふん、ちょっとは気ぃ使ったらなあかんかな」

 寛大な気持ちになって鼻を膨らませた薫の耳に、香里の「あそこがあたしたちの家よ」という声が飛び込んでくる。彼女が指差す方には評するのが難しい周囲の並びとあまり変わりの無い普通の一戸建てが佇んでいた。

「大したところじゃないけど、どうぞあがって」
「おじゃましまーす」
「そこ、入ったところがリビングだから、とりあえず寛いでてちょうだい」

 と、靴を脱いでいる薫に言い残し、栞はいるのかしらと呟きながら香里は二階にあがっていった。不思議なもので炎天下を歩いている時はとまっていた汗が、動くのを止めた途端に噴き出てくる。バッグからタオルを取り出して額から流れる汗を拭きながら、薫は言われたとおりにリビングで待つことにした。ドアをくぐると明らかに外と内とでは気温が違っていた。

「ふああ」

 循環する冷たい空気に汗ばんだ肌が冷やされ、気持ちよさに思わず薫は両目を細めた。こいつは天国だ。旅路の疲れもあったので、遠慮なく寛ぐことにさせてもらい、薫は肩から提げていたバッグを放り出し、丁度冷房からの風が降りてくる位置のソファーに体を沈めた。
 それにしても、冷房がついてるということは家に誰かいるんだろうか。

「つけっ放しにして、勿体無い」

 思わずしみったれた言葉が口に出てしまった。所帯じみた部分を気にしてしまう自分の性格はあまり好きではないのだが、これも性分だ。というかこんな性格になってしまったのも全部功刀が悪い。あれがちゃんとしてないから子供の自分がしっかりしないと、という風になってしまうのだ、と薫は何時ものように母親への文句を内心で口ずさむ。
 こんなとき、ふと自分と栞を比べてしまう。せせこましい自分とは世界そのものが違う、栞の自由気侭な奔放さが少し羨ましく妬ましい。
 何だか栞を見てるとつい一言二言言いたくなる反発の原因が分かってしまいそうになって、慌てて薫は浮かびかけたそれをかき消した。それを認めることはいささか惨めな気持ちになりかねない。
 肝心の栞がリビングに入ってきたのは、丁度薫がギュッと目を閉じたときだった。

「はぁーーっ、すっずしいーっ。あれ、お姉ちゃん帰ってきたの? おかえり〜」

 暢気そうな栞の声とともに、わしゃわしゃと何か鬱蒼としたものをかき混ぜるような不思議な、だが聞きなれてるような気がする音が聞こえてきた。慌てて目を開け、栞に声を掛けようとした薫の喉は、栞の姿を見た途端、電気うなぎを丸呑みしたように痙攣して発するはずの音声を途切れさせた。
 あろうことか、栞は服を着ていなかった。
 服どころか下着の一枚も身に着けていなかった。
 いわゆる一つの生まれたままの姿であった。
 素っ裸である。

 シャワーを浴びてあがってきたところだったのだろう。栞は頭からバスタオルを被り、それで濡れた髪の毛を拭きながら、ペタペタと固まっている薫の前を横切っていく。バスタオルで視界が塞がれているために薫の存在には気付いていないらしい。そのまま栞はリビングの隅で無聊を囲っている扇風機の前にペタンと胡座を掻いて座り込むと、扇風機のスイッチを入れた。

「ひゃぁぁ、気持ちいい。シャワーのあとはこれが最高」

 仄かに火照った白い肌に冷房で冷やされた空気が風になって吹き付け、熱を奪っていく。被っていたタオルを剥ぎ取り、栞は頭を振った。湿った髪がバサリと音を立てて振り乱され、扇風機の風によってザワザワと後ろへとなびいていく。
 何気ないその仕草に、何故か素肌よりも栞の艶かしい女を感じて、薫は思わず唾を飲み込んだ。ゴクリと音が立つ。漂白されていた意識に、その音は耳元で鐘を鳴らすかのように響き渡り、硬化していた薫はようやく我に返った。

「おま、おまえ、栞、なななにやっとんやっ! ふ、服着ろよ、あほーっ!!」
「ふぇ?」

 糸目を波打たせたまま栞は横に首を向けた。波打っていた糸目が徐々に見開かれ、だらしなく開いていた口がさらにポカンと開かれる。

「……あれ? かお、るくん、だよね。え、あれ? なんで薫くんがウチにいるの?」
「い、いいから隠せや、それぇ!」

 真っ赤になって必死そうに顔を背けている薫を見て、ようやく栞は自分の格好を思い出した。

「うひゃぁ!」

 慌てふためき、栞は放り出していたバスタオルを引き寄せ、身体の前に宛がう。
 ホッと安堵の息をつくのも束の間、栞は一旦熱の引いたはずの顔をもう一度赤く火照らせつつ、窺うような目つきで薫に訊ねた。

「……見た?」
「…………」

 この上なく能弁な沈黙であった。

「えーっと…………」

 いまさら悲鳴をあげるにもタイミングを逸してしまい、栞は引き攣った笑みを繕いながら視線を泳がせ、丁度目にとまったクーラーのリモコンを手繰り寄せて握り締め、

「とりあえず頭打って忘れろーーーっ!!」
「やめぇい!!」

 顔をあげることも出来ずに俯いている薫の脳天目掛けてぶん投げようとしたところ、唸りを上げてぶっ飛んできたクッションが側頭部に炸裂。むぎゃっ、と悲鳴をあげて引っくり返った。

「えっ、しお……ぶっ!?」

 何事かと栞の方を見てしまった薫は、隠すところも隠さず引っくり返った栞の姿に亜音速でまた顔を背けた。
 一方、凶行に走ろうとした妹を間一髪制止することに成功した姉は、リビングの入り口で頭痛そうに額を押さえて呻き、一喝した。

「ったく、あんたはなにしてるの!!」
「ひ、ひどいよお姉ちゃん」
「いい加減素っ裸で家の中うろつくなってあれほど言ったのに、聞かないあんたが悪いのよ」
「いや、そうじゃなくてクッションをオーヴァースローでぶつけるのがひどいって――」
「いいからさっさと洗面所に戻って服を着てきなさい!!」
「うっ、ふぁぁい。ううっ、私か? 私が悪いんですか? 見られたのは私なのに〜」
「ごめんね、薫くん。汚いもの見せちゃって」
「えぅぅ、こんな汚いもの見せちゃってごめんなさい、って言うに事欠いて乙女の柔肌を汚いもの呼ばわりとは何事ですかーーっ!!」
「喚いてないでさっさと行く! いつまでも貧相な裸晒してるんじゃないの、はしたないわよ」
「ひ、貧相なんかじゃないもん!!」

 抗議しながらも、さすがに薫がいる前で裸のまま口論を続けるわけにも行かず、栞はパタパタと走ってリビングから出て行った。
 ようやくいなくなった気配に薫は安堵の吐息をつく。
 女性にはあまり免疫の無い薫には刺激的すぎるアクシデントだった。
 やれやれと疲れの混じった溜息をこぼしていた香里は、そんな薫の挙動を視界の端に見咎めて、思わずクスリと笑ってしまった。潔癖な少年特有の可愛らしさに悪戯心が擽られる。香里は赤らんだ顔を元に戻そうとやっきになっている薫の耳にこっそりと囁いてみた。

「ね、うちに来て良かったでしょう?」
「…………」

 また元の茹蛸のように赤い顔に戻って俯いてしまった少年の様子に、楽しげに肩を震わせる香里であった。










「というわけで、今日から薫くん、うちに泊まるから」

 一連の経緯を話して聞かせ、香里はさっきから不機嫌そうにむくれている栞の反応を窺った。彼女が不機嫌なのはやはり先ほど裸を見られてしまったからなのか、はたまた彼女が秘蔵していたアイスをお客様へのおもてなしの品として供出させられたからなのかは判別できない。多分後者だろう。前者ならもっとギャーギャー騒いでいるはずだ。まあ薫くんぐらいの年齢の男の子をちゃんとした異性と認識するか単なる子供と考えるかは人それぞれであろう。

「どうして薫くんが居るのかは分かったけど、うちの泊まるの?」
「北川くんの家に独りで置いておいたら可哀想でしょう?」
「ううん、全然まったく」

 キッパリと言い切る栞。言い切りながらどうして片目を可愛く瞑りながら親指立てているのかは不明。
 香里は無言で手刀を栞の頭に叩き込んだ。

「えぅ、ちょっとしたユーモアなのに」
「センスがないんとちゃうん」

 黙ってアイスを食べていた薫がぼそりと呟く。勿論、聞き逃さなかった栞は、ギロリと薫をねめつけた。

「ふん、ボケとツッコミしか能のない君に私のウェットにとんだイングランドなユーモアは理解できないんだ」

 チラリと上目で引き攣った笑みで睨んでくる栞を見やった薫は、すぐに手元に視線を戻し、シミジミとした口調で呟いた。

「……かわいそうに」
「なるほど、可哀想なのは薫くんじゃなくて栞の方だったね」
「なんですかそれはーっ!! っていうか可哀想の意味が違うーっ!!」
「頭がかわいそうに」
「言い直すなーっ!」

 バンバンバンとテーブルを叩きながら抗議する年上の少女に、薫は空になったアイスのカップを置くと、玩具屋の前でごねる子供に妥協する甘い父親のような口調で栞に告げた。

「わかったわかった。あんまりギャーギャー騒がれても耳障りやし、そこまで言うんやったらこの家に泊めてやってもええで、栞」
「ほんとに? わーっ、薫くんありがとーっ、ってここは私の家でしょうがーっ! だいたい泊めてあげてもいいっていうのは私が言う台詞ですっ!!」

 叫ぶ栞にうんと頷き、薫は姉の方に顔を向けた。

「やってさ。栞もOKみたいやし、折角やからお世話になってもええかな、香里姉ちゃん」
「ええ、大したところじゃないけど、ゆっくりしていってね」
「ええ!?」
「なんやねん。今、泊めてあげてもええ言うたやん」
「い、言ったけど……」

 本当ならもうちょっと苛めてから、可哀想にショボンとしている少年に仕方なく手を差し伸べてあげるという、此方の立場の絶対優位を知らしめるようなシチュエーションを考えていたというのに、どうして逆に馬鹿にしたような薄笑いを浮かべられてしまっているのだろうか。

「む、むかぁぁ」

 やっぱりこの子、むかつく。
 先ほどの薫の初心な反応を見て、ああこの子も初々しさが先に立つ純なお子様なんだ、とちょっとお姉さんらしく優しく接してあげようなんて考えていた寛大な気持ちが一気に吹き飛ぶ。
 実際優しく接していたかどうかは極めて怪しかったが、とにかく消し飛んだ。

「くくくっ、上等です。こっちにいる間中ちょっかいかけてやるんだから」

 うひひひひ、と自分の世界に入って笑っている栞に、薫はちょっとビビりながら我関せずと自分の分のアイスを食べている香里の裾を引っ張った。

「……か、香里姉ちゃん。栞、どうしたん、あれ?」
「ああ、気にしないで。よくある発作だから」
「ふ、ふーん、よ、よくあるんや。姉ちゃんも大変なんやな」
「ふぅ、そうなのよ」

 栞の奇行をネタにして、当人を忘れて話が盛り上がっていく香里と薫。
 そして完全に放置されていることにも気付かずに、童話に出てくる悪い魔女の婆さんのように不気味な含み笑いをし続けながら、小生意気な小僧が自分の前に跪くという妄想に耽る栞であった。









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