以前、秋子さんがこんな風に言っていた。
 料理というものは自分の為に作るのと他人の為に作るのとでは、集中力も熱意も発想も違ってきてしまうものだ、とそんな類のことを。
 料理が出来るといっても長らくただ自分が食べるためのみに、言わば事務的にその腕を使ってきた北川潤にとって、彼女の言葉は納得できるとしても実感の伴わないものだった。
 それが何となくだが解かるようになったのは、大学に進学してからだろう。あれやこれやの理由をつけて自分の部屋を溜まり場にする連中にせがまれて料理を振舞うのは面倒ではあったものの、今までに無い楽しさを感じるようになっていた。
 半ば無理やりだったとはいえ、祐一の誘いに応じてしまったのはそういう理由もあるのだろう。
 とりあえず、昼食に作ったカレーはおおむね満足できる出来であり、評判も上々で、北川は口では文句を言いながらも内心はそこそこ上機嫌といった趣で片付けに取り掛かっていた。
 同好会の連中は食後の運動だ、とか言って全員どこかに言ってしまった。本当なら野球の練習をしてるのだろうが、あの連中のノリは野球の練習と言いつつサッカーやバスケに興じるタイプだ。真面目に練習してるかは怪しい。

「ちょっとは手伝って欲しいよな」

 さすがに14人分もの後片付けは大変で、北川は幾分拗ねの混じった泣き言を漏らした。飲食店のバイトなら食器洗い機という強力な助っ人が大抵あるものだが、キャンプ地にそんなものはない。それどころか誰も洗剤を持ってきていなかったので――分かってたら自分が用意してきたのに――油汚れを落とすのにかなり苦労しそうだった。
 流石に上機嫌さも萎えてきてげんなりとなる。

「あのー、手伝いましょーか?」

 何処から取り掛かるか。とりあえず一まとめにした汚れた食器と料理器具の山を前に溜息をついていた北川の背中に、妙におっとりした声が掛けられた。

「んえ? えーっと、たしか」
「谷本ですー」

 見るからに大らかそうな笑顔で彼女は名乗った。北川と同じ一回生。女性にしては大柄で北川とは5センチも違わないだろう身長。広いおでこが特徴的な、どこかおっとりしたところが名雪に雰囲気の似た、見た目可愛らしいタイプの女性だった。事前に全員と顔合わせをしていたのと、前期の間に学校で祐一たちにくっついて何度かサークルを覗いて会員の顔は覚えていたので、すぐに名前が合致する。

「ああ、谷本さん」
「涼子でいいですよー」
「…………」
「あれ〜、どうしました? 目がウルウルしてますよ」
「いや、初対面の女の子に名前で呼んでいいって言われたの初めてだったから、なんか感動しちゃって」
「そうなんですかー。じゃ、名前で呼んでいいのは無しということでー。谷本って呼んでください」
「何故にーーっ!?」

 ガァーーン、とショックに泣きそうになる北川。せっかくの感動が倍返しで台無しであった。

「あはは、冗談ですよー。涼子でいいです、涼子で」
「そ、そう? じゃあ、涼子ちゃんで」

 そう言うと、涼子は笑顔を顰め、少し不満そうにやや腰を落として、下から覗きこむように北川を窺った。

「な、なに?」
「いえー、北川くんってヘタレだなーって思ってー」
「ガァーーーッン!?」
「まあいいです。涼子ちゃんで構いません。ちゃん呼ばわりって馴れ馴れしくってあまり好きじゃないんですけどー、北川くんはそういうっぽい感じの人じゃないので、悪い気分じゃありませんしー」
「……そ、そうですか。言外にヘタレと言われてるような気もするんだけど」
「えへへー」
「否定してよ!」
「えー、わたしヘタレっぽい人、嫌いじゃありませんよー。むしろグッドです」

 明らかに悪気なさそうな口振りに、北川は喜ぶべきか悲しむべきか頭を悩ませた。

「じゃ、じゃあ涼子ちゃんって呼ぶね」
「はいー」
「オレは潤でいいよ」
「嫌ですー」
「…………」

 笑顔で即答だった。

「ほら、北川くん、早く取り掛からないと片付きませんよー。始めませんかー」
「…………おろろ〜ん」


 なんだか無性に泣き崩れたい気分のまま、片付けに取り掛かる。始めると、のんびりとした印象と異なって、涼子の手付きはテキパキと迅速だった。その無駄の無いスムーズな動きを見て、北川はようやく彼女がチームでショートストップを守っているのを思い出した。素早く内野を駆け回る姿と今の彼女の言動が上手く合致しなかった為に思い出せなかったらしい。

「あのさ、涼子ちゃん」
「なんですかー?」

 気付くのが遅すぎたような気もするが、北川は遅まきながら生まれた疑問を涼子に問うた。

「練習の方はどうしたの?」
「えーっとですねー、足腰を鍛えるためと称して皆さん辺りを探検しに行ってますー。軟式野球探検隊です」

 謎の部隊名であった。

「い、いいのか? あの部長、怒らないの?」
「大丈夫ですよー、琴夜先輩はあれで単純な人ですから、騙くらかすのはチョロいんですー」
「…………」

 これまた気がつくのが遅かったような気もするが、この人、人畜無害な笑顔と口振りとは裏腹に、実際の言動はかなり危険なのではなかろうか。
 少しばかり慄きを感じながら、北川は隣に屈んで食器を手際よく洗っていく涼子を横目で窺った。
 底の見えなさそうな人だが、鼻筋がくっきりしていて唇も小さく、可愛いのは確かだ。水瀬や美坂のような目を引く美人タイプではないものの、異性同性の区別無く好かれるタイプの顔立ちだ。あくまで見た目の印象だけの話だけど。

「どうしましたー、北川くん。さっきからこっちの方ばかり見ていて手元が疎かになってますよー」
「あう、悪い」
「何か顔についてましたかー? むぅ、それともおでこが広いなーとか思ってたのではないでしょうねー。もしそうならとても気にしてるので怒りますよー。激怒です」
「ち、違う違う。いや、あのさ。どうして涼子ちゃん、残って手伝ってくれるのかなと思ってさ。他のみんなは遊びに行ってるのに」

 慌てて言い繕ったが、実際訊きたかったことでもある。すると、何故か涼子はえっへんと胸を張った。思わず唾を飲む。紺色のシャツに盛り上がった二つの丘は、北川の記憶と照合するに川澄舞に匹敵する巨大さであった。

「谷本涼子は面倒な後片付けを一人に押し付けて良しとするような不良少女ではないのです、えっへん」
「そ、そうなんだ。そりゃどうも、ありがとう」

 ともかくも親切で善良な女の子らしい。慌てて目線をボリュームのある胸から外して、北川は鍋を擦る作業を再開した。

「むぅ、今ので納得しちゃいましたかー」
「え? なに?」
「北川くん、北川くん」

 そう呼びかけてトントンと北川の肩を叩き、谷本涼子はニヒヒと自分ではニヒルさを醸し出してるつもりなのだろう、悪戯っぽい笑顔を浮かべ、こっそりと耳元に口を寄せて囁いた。

「ちょっとは自惚れてもいいですよー」
「……へ?」
「さー、どんどん片しちゃいましょー」
「???」









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