「うむむむむ」

 メニューに首を突っ込んで唸り声をあげている恋人――そう、恋人だ――を、小太郎は手にしたグラスの氷をカラカラと鳴らしながらぼんやりと眺めていた。テーブルには千円札が二枚置いてある。和巳がもうちょい好きなもん食べてき、と置いていったお金だ。
 これのお陰でさっきから真琴のテンションが鰻上りになっている。

「ケーキ、やっぱりケーキよね。普段食べれないもんね。高いし。パフェだと食べ過ぎちゃったらお腹に来るんだから。ちょっと小太郎、あんたもう決めたの?」
「あ……頼むものですか? 決めましたよ」
「なんにしたの?」
「えっと、レアチーズケーキです」

 答えた途端、真琴は「はん」と鼻を鳴らし「レアチーズケーキ!」と親の仇のように叫んだ。

「レアチーズケーキですって、小太郎様はハイソでいらっしゃることね!」
「なぜお嬢様言語……なに怒ってるんですか」
「知らない、なんかムカついたの」
「だからなんでですか」
「だって、レアチーズケーキ!」
「なんかレアチーズケーキに怨みでもあるんですか?」
「ないけどっ、レアチーズケーキよ! レアレアレア!」

 なにやらレアに思うところがあるらしい。

「普通のチーズケーキに謝れ!」
「なにをですか、なにを」

 一頻り興奮し終えた真琴は、忙しなくピンと毛先の跳ねた小麦色の髪を小指に絡めて弄りながら、またメニューに首を突っ込んだ。真剣な目つきでどれも美味しそうに撮影してある写真を丹念に吟味する。
 結局迷いに迷った末にあゆを呼び寄せガトーショコラを注文した真琴は、一仕事終えたと言わんばかりに気の抜けたようすで背凭れに身体を預けた。
 ちょっとだらしない姿勢でチュルチュルとストローを吸う真琴に、小太郎は「そこまで気合入れなくてもいいのに」と笑った。
 少女は悪かったわね、とちょっと拗ねたように目を逸らす。

「女の子なんだから仕方ないでしょ」
「そういうものですか」
「そういうものなの!」

 そうキッパリと言い切って胸を張ったくせに、真琴はふと不安そうに小太郎を窺った。

「……もしかして、こういうのって子供っぽい?」
「そんなことないですよ。知り合いの女性の人も、デザートの類に目が無い人って多かったですし」
「…………ふーん」
「あ、真琴さんより年上の人ですよ。二十歳とか二十四歳とか」
「…………」
「怒りました?」

 ムッツリと押し黙ってしまった真琴だったが、屈託無く笑顔を崩さない小太郎の姿に、肩の力が抜けたようにため息を落とした。
 なんて嫌なやつだ。此方がどう反応するかわかってて、わざとそういう事を言う。
 二人の距離が重なるぐらいに近づいてからようやく気がついた。こいつ、恋愛の相手としてかなり手強い。

「上等よぅ」
「はい? なんか言いました?」
「別に。そうだ、ねえ、小太郎。美汐だったらこういう場合なに頼むかな?」
「抹茶ケーキですね」

 小太郎はメニューも見ずに即答した。

「そうよねえ……でも、それって偏見入ってない?」

 真琴は頬杖をついてタンタントトンと指でテーブルを小気味よく弾きながら小首を傾げた。
 確かに美汐といえば、すぐさまそういうイメージが浮かぶが。それこそイメージが先行しすぎてやしないだろうか。美汐といえばおばさんくさい、と決め付けてしまっているような気がする。

「美汐なら抹茶ケーキって出来すぎよぅ。ベタベタね、ベタベタ」
「でも美汐さん、この間うちで抹茶ケーキ食べてたよ」
「わっ!? び、びっくりした。いきなり現れないでよ、あゆ」

 注文の品――ガトーショコラとレアチーズケーキを運んできたあゆは、手際よく二人の前にケーキ皿を並べながら鈴を転がすように言う。

「いつもいつもってわけじゃないけどね。一人でお茶飲みに来たときは比較的頼むことが多いよ。口当たりが上品なんだって」

 うんうんと頷いて同意しながら小太郎も付け加える。

「美汐姉さん、小学校の頃から抹茶ケーキとか好きだったんですよ。親戚で集まった時なんか、デザートが出されてもいっつもそういうのばっかり選んでましたもん。デザートだけじゃなくて普通の食事でも、子供が好きなお子様ランチに乗ってるようなハンバーグとかスパゲティとかそういうものより、塩じゃけとかお漬物とか田楽とか山葵和えとかが大好きで、みんなからはあの子は渋いなあって昔ッから評判で」
「……み、美汐」

 真琴は額を抑えて項垂れてしまった。天野美汐、子供の頃からの筋金入りだったか。

「小さい頃からなんだ、凄いよね。ボク、山葵和えなんて未だに食べられないよ」
「ふん、お子様ね」
「……真琴ちゃんだって食べれないくせに」
「し、仕方ないでしょ! あたし、鼻が敏感なの。あんなツーンってくるものなんて生物学的に食べられないんだから!」
「えー、美味しいですよ、山葵和え」
「……小太郎、まさかあんたも美汐の同類?」
「ち、違いますよ! 心外だなあ」

 あゆはあははと乾いた笑いを浮かべた。美汐も散々な言われようだ。

「じゃあ、ごゆっくりどうぞ」
「言われなくてもゆっくりしてくもん。ほら、邪魔邪魔、あっちいけ」
「はいはい、お邪魔しました」

 羽虫のように追い払われ、ちょっとむっとしながらも、ペコペコと頭を下げる小太郎にヒラヒラと笑顔で手を振って、あゆは颯爽と仕事場へと戻っていった。

「もう、真琴さん、あんな言い方しなくてもいいじゃないですか」
「あうぅ、うるさいなあ」

 顔をひそめて注意してくる小太郎。真琴は不貞腐れたようにフォークでショコラをつつきながら上目に小太郎を一瞥した。

「小太郎、あんたホントに余裕タップリよね」

 むかつく、とはき捨てるように真琴は零した。
 虚を突かれたように目をしばたいて、小太郎は余裕? と首を傾げた。

「余裕って、なにがですか?」
「あたしは……」

 なにか言いかけて、真琴は口を噤んだ。なにか葛藤するように黙り込んだ真琴は、二呼吸ほどの沈黙のあと、口に出すこと自体が完全な敗北だとでも言うかのように悔しげに、彼女は俯きながら囁いた。

「あんたと二人っきりになると、あたし馬鹿みたいにドキドキしちゃってるのに、こたろーってば全然平気そうなんだもん」

 小太郎の口許でガキッと鈍い音が鳴った。丁度口に持っていっていたフォークを思いっきり噛んでしまったのだ。小太郎は自分が金属製のフォークに噛み付いているのも理解しないまま、目を見開いて固まっていた。

「あーもう、やだな。この間まで全然そんなことなかったのに。これじゃああたしが、あんたに一方的にべた惚れしてるみたいじゃないのよぅ」

 真琴は本当に忸怩たる思いでこぼしているかのようだった。そして恨めしげに上目に小太郎を睨む。

「あのさ、なんでこんな言わなくてもいい恥ずかしい馬鹿みたいなこと、わざわざ言ってると思う?」
「わかりません」

 嘘をついた。真琴の口からその答えを聞いてみたかった。

「あたしね、小太郎の事、マジに好きみたいなのよ。うん、いつの間にって自分でも呆然としちゃうんだけど。ちょっとどうなのって思うくらい好きになってるみたい。こんなあからさまに、あたし口が裂けても言いたくないのに」
「じゃあ、どうしてわざわざ言うんですか?」
「わかるでしょ」

 真琴は不貞腐れたように告げた。

「嫌だし言いたくないのに、それでもこの気持ち、抑えきれなくてさ、どうしてもちゃんと伝えたくて、分かって欲しくてたまらなくなるときがあるって」

 そして、彼女はそれまでの仄かに居丈高だった雰囲気から一転、不安そうに顔をひそめ、ポツリと囁いた。

「ねぇ、一緒にいて浮かれてるのってあたしだけかな?」
「……ぁ」

 その瞬間、冗談ではなく小太郎は心臓が胸を突き破ったかと思った。巨大なハンマーで頭をガツンと殴られたような気分。こんなとてつもない衝撃に見舞われたのは、三度目だ。一度目は初めて彼女と出会ったとき。二度目は彼女から初めてキスをされ、この上なく辛辣に罵倒されたとき。
 そしてこの三度目。
 何度もキスをした。エッチだってさせてもらった。事実上、恋人といっていい関係になれた。
 それでも、小太郎が本当に真琴が自分を好きになってくれたのだと初めて実感したのは、まさにこの瞬間だった。

「小太郎、なんだかいつもと一緒なんだもん。でも、当然か。あんたは前から何も変わってないもんね」
「横、行っていいですか?」
「え? 横ってここ? 別にいいけど」

 和巳が立ち去ったあと、真琴の正面側に座りなおしていた小太郎は、なんなの、と訝しげな真琴に意味深に笑いかけ、小太郎は残っていたケーキを頬張りながら、いそいそと真琴の隣に回りこんだ。

「な、なに?」
「ここって隅っこだから、死角になってるんですよね」
「はぁ?」

 真琴の顰めようとした眉が、ビクンと震えた。ノースリーブのシャツからむき出しになっている肩に、小太郎のTシャツの肩口が押し付けられるように触れた。そのまま小太郎の手がするすると背中に回され、腰を抱かれる。

「ちょ、ちょちょ!?」
「ん? なんですか?」
「てっ、手、手」
「手がどうしたんですか?」

 憎たらしくも何事も起こってないかのような口調で咎めをいなされる。そのくせ、笑みには邪まなものがはっきりと混じっていた。
 腰にモゾモゾとした感触が走り、真琴は「うひゃぁ」と悲鳴をあげた。

「手、手の動きがエロいのよ!」
「えへへ」
「照れながらズボンに指突っ込むな!」

 小太郎は無意識に逃れようと仰け反る真琴の首筋に顔を寄せてスンスンと鼻を鳴らしながら、真琴の履いているハーフパンツに指を引っ掛け、ジリジリとずらしはじめた。

「こ、こらぁ、まずいわよぅ、こんなところで」

 真っ赤になりながら真琴は近づいてくる小太郎の顔を手で押し返しつつ、挙動不審にカウンターの方をチラチラと窺った。最初に小太郎が言った通り、ちょうどこの位置はカウンターからも外からも死角になってはいる。が、そういう問題ではない。

「大丈夫ですって。単なるちょっとした恋人同士のスキンシップなんですから」
「や、やりすぎだってばぁ」
「真琴さんが悪いんですよ」

 手を押し退け、顔を背けられたのを幸いと髪を梳いて現れた耳を甘噛みしながら囁く。

「あんな可愛いこと、素のままで言っちゃうなんて反則です」
「な、なによ、可愛いことって、そんなこと言って、ひぁっ」

 耳たぶを齧られた。ゾクゾクと全身を駆け巡った甘い痺れに真琴の身体からヘナヘナと力が抜けていく。

「ここ、弱いんですよね」
「そんなの知らない……ってば」
「間違いないです、この間散々確かめましたから」
「――――っっ!!」

 この間とやらがどの事か、否応無く察して真琴は恥ずかしさに頭のなかが真っ白になる。自分は兎に角夢中で何がなんだったのかなんてあまりよく覚えていない。でも、頭は覚えていなくても身体の方はちゃんと覚えているらしい。現に、反応を示して色々いえないところが大変な事になり始めている。

「こ、たろう、ダメ、あぅぅ」
「ほら、大きな声出しちゃいけないですよ、真琴さん。聞こえちゃいます」
「あ、ぅぅ」
「髪、いい匂いです。真琴さんはお日様の匂いがしますね」

 真琴は口を噤んだままフルフルと首を振った。上気した顔が非難と期待の入り混じった目で小太郎を睨む。

「あ、あんた、手馴れ……ん、すぎ」
「そうですか? そんなつもりはないんですけど」
「嘘つけっ、そ、その自分だけ、よ、余裕タップリって感じの顔が、腹立つのっ」
「そうでもないですよ。これでも興奮して頭わやくちゃになってますし」

 とてもそうは思えない涼やかな口調で囁きながら、小太郎はズレて肌の露出した真琴のお尻の割れ目らへんに手をやって軽くポンポンと尾テイ骨のらへんを指で叩く。途端、ポンとくぐもった音をさせて夏毛となってスッキリとした毛並みとなった狐の尻尾が現れた。
 小太郎は躊躇いも無く尻尾を手梳き、根元らへんを軽くキュッと握り締める。

「――っっっ!!!」

 感電したのではと見紛うほどに、真琴の全身が激しく痙攣した。

「狐怪って大体尻尾が性感帯って場合が多いんですよね。しかもかなり敏感で」
「あっあっあっ」
「この間は試せなかったんですよね、それが心残りで心残りで」
「こた、こたろ、こたろ」

 ブルブルと震えながら真琴の手が宙をもがく。尻尾を軟く揉みしだきながら、声もまともに出せずに喘ぐ真琴の頬に手を添え、半分開いた唇を塞いだ。堰を切ったように真琴の舌が割り入ってくるのを優しく受け止め、一緒に踊る。約十秒ほど息もせずに続いたキス。トロンとなった目で小太郎の顔を見上げながら、真琴は小さく呟いた。

「あぅぅ、ケーキの味」
「美味しかったですか?」
「うん」
「じゃあもう一回どうです?」
「あぅ、する」

 程よく膨らんだ胸に手を宛がっても真琴は刹那睫毛を震わせただけで嫌がらず、幼子が寝入ってしまう瞬間のように、トロリと目蓋を下ろした。完全にOKのサイン。こうなってしまえばもう頂くしかない。これまでの女性経験でも真琴相手にしか感じた事の無い酩酊感に酔っ払いながら、小太郎は尻尾を握っていた手で肩を抱き寄せ、そのまま一気に――――。

「こ、ここコラぁぁぁぁぁ!!」

 裏返った怒鳴り声とともにブゥンと唸りをあげてアルミ製のお盆が振り下ろされた。
 バゴ、という盛大に濁音が盛り込まれた生々しい激突音。

「………………」

 目から火花が出る、あれは事実だ。今、本当に出たし。見えたし。
 あまりに痛すぎて悲鳴すらもあげられず、小太郎は頭を抱えて蹲った。その頭上で、ひしゃげて用を成さなくなったお盆を振り回しながら絶叫する少女が一人。

「おお、お店の中で、いきなり何はじめてるんだよぉぉっ!!」
「説明しよう。ナニだな」
「要さんは引っ込んでて!!」

 かつて見たことがないほど目尻を吊り上げ捲くっているあゆの剣幕に、雪村はすごすごと頭を引っ込めた。

「ほ、他にお客がいなかったからいいものの、やっていいことと悪いことがあるでしょう! この店はそういう事をする場所じゃないんだから!」
「補足しよう。休憩するという側面から照らし合わせると、実は一緒だ」
「要さんは黙ってて!!」

 未だかつてありえないほど目が逆立っているあゆの剣幕に、雪村はシュタっと頭を引っ込めた。

「あ、ぅぅ、悪かったわよぅ」

 でもそんなに怒らなくても、と真琴はいそいそと服の乱れを直しつつ、上気した顔で不満そうに唇を尖らせた。
 
「うぐぅぅ! 怒るよ、怒るに決まってるよ。当然でしょ、決まってるじゃないか!」
「……あぅ、つまり……あゆ、溜まってるの?」
「――――っ!!」

 真琴のために弁明すると、彼女にはまったくなんの悪気もなかった。これっぽっちもなかった。それはもう単純以上のなにものでもない単純な疑問でしかなかった。尤も、悪気があろうがなかろうがあゆの逆鱗に触れたという意味では変わりないのだが。

「うぐぅぅぅぅっ、出てけぇぇぇぇぇ!!」
「またどうぞ。代金はツケておくから」

 こんな状況になってもなお普段と全く変わらぬ調子の雪村の声に送られながら、真琴とまだ悶絶したままの小太郎は、比喩ではなく文字通りに店の外に蹴り出された。
 突き放すようなカウベルの音色と、不信そうに遠巻きに見ながら通り過ぎていく通行人の視線にさらされながら、フライパンの上のように焼け焦げたアスファルトに転がって真っ青な空を仰ぎ見ながら、真琴は同情するように独りごちた。

「……あぅぅ、やっぱ溜まってるんだ。あゆも大変ねぇ」
「そ、そうかなあ?」

 摩る手の下ででっかいコブが出来ているのを確かめて涙目になりながら、小太郎は真琴とは別の意味であゆに同情を覚えた。
 勝手に欲求不満扱いされたら、そりゃ怒りますよ真琴さん。

「それにしても、こたろーのせいで追い出されちゃったじゃない」
「僕の所為ですか?」
「どう考えてもあんたのせいじゃない。時と場合を考えなさいよね、このケダモノ」

 立ち上がってパンパンとお尻をはたきながら文句を言ってくる真琴だったが、そこに怒りの気配はない。

「獣って、真琴さんだって本性は獣のくせに」
「あたしはケダモノじゃなくてケモノ!」
「意味同じじゃないですか」
「あうっ、分かってるくせに屁理屈こねるなっ」
「はーい」
「ったく、ほら、行くわよ」

 フンと威勢良く鼻を鳴らし、ズカズカと歩き出す真琴を小太郎は慌てて追いかけた。

「行くってどこですか?」
「ウチ。今、誰もいないから」

 一瞬立ち止まり、追いついてきた小太郎の手を掴まえて、引っ張るように再び歩き出しながら、彼女はぶっきらぼうに小太郎に言った。

「さっきの続き、するんでしょ?」

 もちろん、小太郎に断る所以などあるはずがなかった。

「そりゃもう! 任せてください♪」
「……ばか」








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