「っい、あ……あ」
「――?」

 北川薫はまさに金縛りという現象に陥っていた。ド肝を抜かれていたと言ってもいい。従兄の部屋を訪れたつもりが、中からはっきり美人といって差し支えのない女性が応対に出てきたのだ。本来ならここまで驚く必要はないのかもしれないが、内心薫はあの従兄は女性関係に対しては甲斐性なしだと思い込んでいたのと、薫本人がいささか妙齢の女性が苦手という面が作用して、薫の頭から一瞬、思考処理能力がダウンした。
 まともに声も出せないまま、見開いた目だけがオロオロと現れた女性の姿を映しこむ。
 偶然にも位置的にまともに胸の谷間が目に入った。相手が子供だと思っているからなのか、ドアに寄りかかった女性は自分の無防備な体勢に頓着した様子もなく、動転している北川薫の姿を不思議そうに見やりながら、気怠げに髪をかきあげた。その腕を下ろした拍子に、キャミソールの肩紐がズレ落ちる。

「す、すみません、部屋間違えました!」

 カァーっと顔に血が昇り、薫は思わずそう声を張り上げながらクルリと右に回れをした。

「ちょっと待ちなさい」
「ぐえ!」

 逃げ出そうとした薫の襟首がグイと掴まれ引き戻される。
 寝起きなのだろうか。腫れぼったい目で欠伸をかみ殺した女性は、目をしょぼつかせながら首を絞められ目を白黒させている薫の顔を覗き込む。

「この部屋は北川潤という人の部屋よ。本当に間違い?」
「え……あ、合ってます」
「ああ、そう。ごめんなさいね、びっくりさせちゃったみたいで」

 寝起き特有の不機嫌そうな顔が、ちょっと苦笑を塗した微笑みに変わる。それだけの変化で、どこか刺々しかった印象が柔らかなものへと一変した。遥か年上に思えたこの人が、恐らく従兄と大して変わらない年齢なのだと気づく。

「……きみ、そういえばどこかで見た顔なのよね。何処だったかしら」
「お、オレ、潤ちゃんの従弟で――」
「ああ、そうだ。かおるくん、薫くんね、そうでしょう?」
「う、うん」

 慌てて頷くと、尻餅をついたままだった薫に彼女は手を差し伸べて、何処か悪戯っぽいものを宿しながらニコリと笑った。引っ張り起こして貰いながら、ふとどこかで見たような笑顔だな、と思う。そんな薫の疑問を晴らすように彼女は明朗とした口振りで薫に告げた。

「ゴールデンウィーク、うちの家族、主に妹がお世話になったみたい。ありがとう」
「いもうと?」
「栞の姉、美坂香里よ。よろしくね」

 繋いだ手の先でスルリとまた肩紐がズレ落ちて、薫の顔が赤く火照った。









「まあお上がりなさいな、ってあたしが言うのもおかしいんだけど」

 香里に促され、薫は従兄の部屋にお邪魔した。少し戸惑う。以前来た時と違って雑然とした空気を感じたのだ。前は一部の部屋を除いてどこか空気が停滞していた覚えがあるのだが、今は隅々にまで生活感が染み込んでいるような印象を感じる。見たこともない家具やらが増えているからだろうか。

「あのっ、お姉さんなんで潤ちゃんちに……」

 明らかに慣れた様子で従兄の部屋を闊歩する香里。どう見ても馴染んでいる。まるで自分の家のようではないか。自分が呼び鈴を鳴らすまでここで寝ていたみたいだし、もしかして……。

「え? ああ、ちょっと独りで時間潰したかったから部屋借りてたんだけど、いつの間にか寝ちゃってたみたいで。家だと栞がうるさいものだからっと、薫くん、麦茶でいいかしら? 喉渇いてるわよね、外バカみたいに蒸し暑いんだから、まったく」

 薫が聞きたかった内容とは微妙にずれた答えが返ってくる。口振りからして彼女がこの部屋に出入りするのは何ら当たり前のことらしい。とりあえず太陽に蒸し焼きにされて喉がカラカラなのは確かだったので、疑問は脇に置いて注いでもらった冷え切った麦茶を一気に呷った。

「ぷはーっ、生き返る!」
「もう一杯くらい飲んでおきなさい。この気象だと自分が思ってるより水分持ってかれてるわよ」
「うん、いただきます」
「それにしても薫くん、どうしたの?」

 冷たい麦茶に身も心も潤され、恍惚に浸っていた薫は香里の奇妙な疑問符にキョトンとなった。
 どうしたの、とはなんだ、いったい?

「どうしたって……遊びに来たんやけど」
「遊びに?」

 虚を突かれたように香里は鸚鵡返しに繰り返し、目を瞬いた。
 いや、遊びに来たって、それ以外に理由はないだろうに。それなのに、香里は予想もしていなかった事を言われたかのような反応をしめしている。
 おかしい。なにか変だ。自分のこの人の間に、なにか決定的な齟齬でもあるような……。

「あの、お姉さん。ところで潤ちゃんは?」
「北川くん? 北川くんならいないけど」
「出かけてるん?」
「薫くん、もしかして知らないで来たの?」

 ……なにを?

「北川くんなら昨日からサークル合宿に行ってるのよ。向こう一週間は帰ってこないわ」
「……は?」

 左手を腰に当てて右手をヒラヒラさせながら香里は言った。薫はポカンと口をあけて、そのヒラヒラと揺れる手の指を目で追う。そうするうちに、言葉が頭に染み込んできた。
 一週間は帰ってこないわ……帰ってこない?
 え? それって……え、ええ?

「い、いないんか、潤ちゃん!?」

 な、なんでーっ!?

「あらま、本当に知らなかったの? 馬鹿ねえ、先方に確かめずに遊びに来るなんて」

 愕然と固まってしまった薫に、香里は呆れたように腕を組んだ。冗談ではない。功刀ならともかく、自分はそんな先方の都合も聞かずにこんな遠い所まで来てしまうような無計画な真似なんてするものか。だいたい――

「そんなん! 潤ちゃんが遊びに来いって」
「……北川くんが? まさか。彼、いい加減に見えるけど、そんな無責任な真似――」

 するとは思わないんだけど、と眉根を寄せた香里を見上げる。ぐちゃぐちゃに混乱しかけた頭がすっと冷えた。この人の言う通りだ。あれで従兄は几帳面だし、親戚を家に呼んでおきながら連絡も入れずにキャンプに行ってしまうような事は絶対にしない。でも、じゃあこの状況はいった…………。

「…………」
「どうしたの、薫くん。突然頭抱えちゃって」
「へ、へへへ、だいたいわかった」

 14歳とは思えない悲壮と諦観の入り混じった引きつった笑みを浮かべながら立ち上がる薫に、香里は思わず腰が引けた。フラフラとした足取りで据え置きの電話に向かう薫の後を慌てて追う。薫は無言で受話器を取り、電話帳も見ずに番号をプッシュした。なんとなく薫の耳元に耳を近づけてしまう香里。三回ほどのコールの後、ガチャリと電話が繋がる。

「あ、オレ。薫やけど、いま――」

 話しかけようとする薫を遮るように、香里も聞いた事のある女性の飄々とした声が聞こえてくる。

「ただいま夫婦水入らずでハワイに出かけております。ハワイです。わいはー。8月10日までおりません。それでも御用のある方はしゃあないのでピーという電子音の後にお名前とご用件を――」
「やっぱりきさまかっ、くっくくく功刀ぃぃぃーーーーーっ!!!」











 同時刻  太平洋上空



「あろは〜あろは〜あろはおえーおえおえおえ」
「やる気なさそうにおえおえ言うなっ、気持ち悪くなるやろ」
「哲さん、飛行機あかんかったっけ?」
「ちゃうわい」

 関空から飛び立った旅客機のビジネスクラスは夏休みをハワイで過ごそうと言う旅行客で埋め尽くされている。当然、北川功刀と哲平の夫婦もそのなかの一組だ。滅多に休みの、それも長期休暇など取る事の叶わない仕事柄、哲平がこのように海外旅行に出かけられるなど定年に至るまでもうあり得ないだろう。その貴重な休みをハワイで過ごせるのは、捜査一課時代の部下であり現在も家族ぐるみで付き合いのある郁浪夫婦の計らいだった。特にハワイに幻想を持たない哲平であったが、その好意はありがたい限りである。

「しかし、薫には悪いことしたなあ」
「なにが?」
「なにがって、お前」

 やれやれ、と哲平は隣の席で足を投げ出してくつろいでいる妻を見やった。妻、妻か。傍目に夫婦と見えるのだろうか、自分たちは。年齢的には親娘といっても過言ではないというのに。
 功刀は背もたれを傾けた座席の上で体を此方に向けると、節くれだった哲平の指に自分のそれを絡めて頬に添えた。

「お、おいおい」
「ん、ふふ、そんな照れんと」
「お前なあ」
「偶にはこうやって、哲さんには思い出して貰わな」
「なにをや」

 緩みきった表情で手のひらの感触を楽しんでいた功刀は、恐らくは自分にしか見せない艶めいた視線で喉元から頬を伝って目蓋までをじっとりと舐めすさり、猫のように喉を鳴らした。

「私が、哲さんのオンナやーいうこと」

 曲者ぞろいの人外どもを一手に纏める強面課長のはずの男の顔が、焼き栗をそのまま飲み込んだような顔になる。長い長い沈黙のあと、ようやくカラカラの喉を振るわせることに成功した。

「……………………あほう」
「なんでそこでアカなるんかなあ。ええ歳したオッサンがこの程度で照れてどうすん」
「あ、あんなあ。歳食った方がそういうんは恥ずかしいんじゃ」
「そうなん?」
「そうやの」

 功刀から手を振り解き、わざとらしく腕組みをしてフンと鼻を鳴らす哲平に、功刀はホケーっと考え込むと、すぐに何か思いついたらしく、哲平の服の袖を引っ張って言った。

「じゃあ哲さんのオンナはやめにして、父娘プレイしよか、父娘プレイ」
「ぶっ!!」
「ハワイ居る間、ずっとパパーって呼ぶわ、パパー。あ、お義父さんの方がええ?」
「ぷ、プレイってなんや、プレイって、功刀お前な――」
「功刀、大きくなったらパパのお嫁さんになるー、ってなってもうたがな実際、あ痛だっ」

 絶対鉄球を握りこんでるとご近所で評判のグーパンチを脳天に落とされ、功刀は座席の上で転げまわった。

「いたいー、なぐったー」
「なぐるわ、ぼけ」

 いたいいたい、と自分の頭を摩る姿はとても中学生になる息子を持つ母親には見えない。まるで子供だ。昔とちっとも変わらない。そう、それこそが問題なのだ、と哲平は苦虫を噛み潰したような顔をして動揺を繕った。分かっていて痛いところを楽しそうにチクチクと突いてくる功刀の悪趣味さには勘弁してくれと言いたくなる。
 この女と結婚してはや十四年。二人の間には子供まで生まれ、その子供が中学生にまでなっているというのに、自分は未だこの女のことを自分の妻というよりも手の掛かる娘という目で見てしまっている(息子の薫が功刀の事を母親と言うよりも歳の離れた姉のように接している原因の一端に、自分のこのような功刀への接し方がある事は間違いない)。
 実際、彼女を引き取って最初の一年は本気で養女とするつもりだったのだ。それも紆余曲折あった末に(あれは一種の脅迫だったと今なお哲平は信じている)父と娘ではなく夫と妻という関係になったのだが、一旦固着した父娘としての気分は変化せずにいる。哲平が罪悪感や自己嫌悪を感じるのは、自分が功刀を娘のように思ったまま女としても愛していることだった。
 世間一般には、自分の娘に欲情する父親はただの変態を通り越して異常者と呼ばれる。
 現実には自分と功刀は何ら他者に憚る事の無い夫婦なのだから気にする事はないのだろうが、妻を抱くときのあの背筋に氷水を注がれたようなゾクゾクする背徳感と興奮、いけない事をしているという後ろめたさは、普通の夫婦が感じるものではあるまい。

「うー、哲さん、好きなくせに」
「うっさい、どあほ」

 そういう哲平の心理を全部心得ているのだから、この女は性質が悪いのだ。無気力で人畜無害の振りをして、本当に性格が悪い。根は悪女なのだ。でなければ、寝床の中でたびたびならず、人の後ろめたさを擽るような睦言を囁くなんて真似をするものか。組み敷いた下で女の顔から娘の顔を覗かせたりなど絶対しない。本当に性質が悪い。

「好きなくせにー、スケベ親父」
「もっぺんドツクぞ」
「ほんま、生真面目なんやから。旅行先でくらい開けっ広げでええやん。折角薫も追い払ったのに」

 私が海外旅行なんて面倒なもん行く気満々な理由くらい察して欲しいわ、と拗ねだす功刀。

「はぁ、あれやな。私らもそろそろ倦怠期?」
「そういうのはな、まともな夫婦がなるもんや。お前みたいなんが嫁で倦怠期なんかなるか」
「うわ、のろけられた」
「嘆いとんねや」

 素っ気無い哲平の言い草をサラリと流し、功刀は顎に手を当ててふにゃふにゃと首肯する。

「まあ父親と娘じゃ倦怠期なんかならんもんね。娘が嫌がらん限り」
「あー、もうわかった、わかったから」
「これでもなぁ、家じゃ気ぃ使っとんよ」
「はいはい、好きなだけじゃれ付いてこい。構ったるから」
「うん」

 緩んだ顔に嬉しそうな感情が色濃く混じる。それは十代の少女のような笑みだった。
 こうやって甘えさせてしまうのは、やはり彼女を娘のように思っているのか、それとも単に子供の眼のない事で自分も浮かれているのか。まあどっちでもええか、と哲平はそれ以上の思考を放棄した。なんにせよ、彼女はまだまだ実年齢以上に若く、男は40歳や50歳で枯れるものではないのだ、これが。

「そういや、薫は潤のところにやったんやろ?」
「そうやよ。薫、喜んどったわ」

 真顔で事実とは言いがたい発言をする功刀。おまけに、薫には自分たちがハワイに行くなんて一言も言ってないし。

「どうせお前のことやから、潤に連絡したんもギリギリなってからやろ。いきなりで潤には悪いことしたんちゃうかな」
「あ」
「…………なんや『あ』って。今、長年の経験からくる物凄い悪い予感がしてんけど」
「いや、大したことやないねん」

 浮き輪に乗って波間にプカプカ揺られているかのような長閑な表情で、功刀は言った。

「そういや、潤になんも連絡してなかったなーて。そんだけ。あれ? 哲さん、そのグーはなに? グー」

 太平洋上空1万メートルに、本日二度目の拳骨音が炸裂した。










「なんやねん、ほんまに」

 あらん限りの罵詈雑言を留守電に叩き込んだ薫であったが、電話を切った途端気が抜けたように電話台に寄りかかって項垂れてしまった。途方に暮れる。さあこれからどうしよう。大坂まで帰るだけの交通費くらいは持ち合わせているが、帰っても自宅は無人だ。別に功刀はいなくてもいいのだが、金が無い。預金通帳はあるかもしれないが暗証番号を知らない。金がないとモノが喰えない。二人が帰ってくるまで水だけで過ごせというのか。

「で、どうするの?」
「どうするって……どうしよう」

 その場に屈んで頬杖をつきながら面白そうに経緯を見守っていた香里が、完全に他人事といった様子で訊ねた。
 言葉に詰まる。どうすればいいのか教えて欲しいのはこっちの方だ。薫はなんだかもう泣きたくなってきた。

「ああ、そんな顔しないの。仕方ないわね」

 ポンと両膝を叩いて腰をあげた香里は気安い手つきで項垂れる薫の頭に手を置いた。

「折角遊びに来たのにこのまま帰っちゃうのも詰まらないでしょ? ウチに来なさいな」
「ウチって、お姉さんの?」
「誰も居ない此処に置いておく訳にもいかないし。それに、ウチの家族は全員知ってるでしょ?」
「う、うん」
「お母さんなんか君のこと、随分気に入ってたみたいだから、きっと喜ぶわ」

 魅力的な提案だった。遠路遥々やってきて、そのまますぐに帰ってしまうなんて幾らなんでもあんまりだったし。それに、美坂家の人は全然知らないというわけじゃないし。

「う……で、でもや」
「どうしたの?」

 目が泳ぐ。

「栞、いるんやろ?」
「居るわよ。それがどうかしたの?」
「…………いや、べつに」

 気まずそうに黙ってしまった少年に、香里はふーんと薄ら笑いを浮かべた。
 そういや栞はこの子とは相性が悪かったと仕切りに主張していたっけ。その割りに楽しそうだったから実際は逆なんだろうと思っていたんだけど。この子のこの態度、本当に栞が苦手なのか。いやそれとも。
 どちらにせよ面白い。丁度また彼氏と別れて滅入ってたところだ。鬱憤晴らしに付き合ってくれそうな北川くんも名雪もいないし、どうしようかと思ってたところ。気晴らしにはもってこいだ。

「ちょっと待ってて。このままじゃ外に出られないから、着替えてくるわ」
「え、や、え、あのオレ――」
「なに、薫くん?」
「いや、なにやなくて」
「来るわよね?」

 にっこりと香里が笑う。ああ、確かにこの人、栞のお姉さんだ、と薫はガクガクと頷きながら実感した。




<< >>

章目次へ





inserted by FC2 system