七月の末日に降った雨が変わり目だったのだろう。
 八月に入るや否や、ややも涼しい風と熱気を和らげる雲に覆われていた大気は真夏のそれへと一変した。
 実に八月らしい眩しいくらいの晴天が続く。
 日本の真夏の晴天下に過ごしやすさを期待するのは、南極でバカンスと洒落込もうというくらい無謀が過ぎる。というわけで、この北国の地にも太陽の殺意がダイレクトに感じられる季節、本格的な夏が訪れたのだった。
 なにか地上に怨みでもあるのか太陽。
 ――猛暑である。

















 ――真夏における憩いの場を提供するばかりで忙しいったらありゃしない二人の場合




 猛暑といわれてもあんまり実感ないんだよね。
 と、月宮あゆは冷房の効いた屋内に篭もっているものしか吐けないであろう言葉を心の中で呟く。
 汗だくになって店に逃げ込んでくるお客に対応しながら、今朝テレビの情報番組で言っていた今年の夏は例年よりも三度近く気温が高い云々という話を思い出す。
 だが、一日の大半を喫茶店の店内で過ごす月宮あゆが酷暑を実感するのは、朝と夜の通勤時間だけだ。幸いにして北国としての意地なのか、ヒートアイランド現象の渦中にある大都市と比べて早朝と夜半は気温28度を下回っている。元々元気だけが取り柄なのさの月宮あゆは暑さ寒さには強い方なので、その程度ではまったく堪える事もない。お陰さまで仕事の忙しさは別として、月宮あゆは夏を快適に過ごしていた。

 唐突だが、喫茶雪村では季節によってユニフォームが変更される。
 と言っても、この夏からの企画なのだが。
 年がら年中同じ衣裳だと客も飽きてしまうだろう、と店長の雪村要が言い出したのがきっかけだったのだが、あゆは客が飽きるのではなくて雪村本人が飽きてきたのではないかと疑っている。以前、雪村と一緒に服を買いに行った事があったのだが(ぶっちゃけデートだ)、例の不機嫌そうな顔をしながら実に楽しそうにあれこれと服を選んでくれたのだ。名雪や真琴達と買い物に行く時より時間が掛かったのだから推して察するべし。多分、この人、女の子に色んな衣裳を着せて観賞するのが好きなんじゃないだろうか。
 ともあれ、雪村が知人のデザイナー(女性だ、しかも美人)と相談して仕立てた夏用の制服はあゆも気に入っている。肩の出るノースリーブの爽やかなスカイブルーの燕尾のシャツにライトな赤のネクタイをキュッとしめ、二の腕から手の甲に掛けてシャツと同じ色の袖を装着。下は紺色のパリッとしたパンツスーツという出で立ちだ。ウェイトレスの制服としては破格かもしれないけれど、茹だる夏を吹き飛ばすような颯爽とした溌剌さを見る人に印象付けるのではないだろうか。評判としては、むしろ男性より女性に好評のようだったけれど。

「ふう」

 真夏日に突入してからこっち、涼み目的で訪れる客が倍増して朝からてんてこ舞いな所為か、出ない汗を拭う格好でもしたくなってくる。忙しいったらありゃしない。

「新規バイト、募集しておいた方が良かったかなあ」

 いまさらながら愚痴ってしまう。実は先月の段階で雪村は客入りの増加を見越して新しいアルバイトを雇うつもりだったのだが、それを反対したのがあゆ当人であったのだ。理由は可愛いものだ。
 せっかく二人きりで店をやってるんだから、他の人に入ってこられて邪魔されたくないんだよ。
 私情が入りまくってると言うなかれ。なにしろ、まだ付き合い始めて間もない新鮮ピチピチのカップルなのだ。二人きりの時間を出来るだけたくさん確保したいと思うのはまあ当然と言えば当然だろう。
 だが、今にして思うと色ボケした頭の悪い考え方でしかなかったと一ヶ月前の自分を呪いたくなる。
 幾ら二人きりだとしても、これだけ忙しいと雪村と喋る余裕も無い。客が空いて休憩出来る時間が作れても、文字通り休憩して身体を休めるのが精一杯で色恋沙汰に現を抜かしている暇なんてまるでなかった。
 雪村は「君がそう言うのであれば従うとしよう」と屈託無くあゆの意見を通してくれたのだが、もしかしたらこうなる事は予見していたのかもしれない。あれで仕事に関してはなかなか甘えを許してくれない厳しい人でもあるのだ。まあ、あゆとしても自分で主張した結果である以上、根を上げるつもりは毛頭無かったけれども。
 それでも、せっかくの夏なんだから、それも付き合い初めて最初の夏なんだから、二人っきりで過ごしたいと思うのは決して突飛じゃないはずだ。だって、月宮あゆはこれでもまだ十代の女の子なのだから。
 二日か三日、お店を休んで何処かに遊びに行けたらなあ、なんて埒もない事を考えてしまう。この時期は一年でもかきいれどきの季節だから、休むなんてとんでもないって事ぐらいは弁えているのだけど、それでも海とかプールとか川とか湖とかに行って、要さんと泳いだり潜ったり流されたり沈んだりしたいなあ、なんて想像を掻き立てる。そうそう、この間、名雪さんたちと一緒に買った水着、あれで要さんを魅了したりなんかしちゃったりして。「あゆ、素敵な水着だよ。君がとても色っぽくみえる」とかとか言っちゃったり言われちゃったり…………しないかぁ、しないよねえ、だって要さんだもんなあ。
 せいぜい、「ふむ、あゆ君。なかなか素敵な水着だな。まるで君が色っぽいかのように錯覚できる」ってな感じかな、要さんだと。ああ、最近理解出来るようになってきちゃってるよ、ボク。末期だね、末期。

「うぐぅ」

 呻いたのが聞こえてしまったのか、雪村が手を止めて声を掛けてきた。

「どうした、あゆ君。今日のうぐぅは世知辛い世の中に草臥れながら菩提樹の根元でタバコを一服している悟りを開いたお釈迦様のようなうぐぅだぞ」
「意味わかんないよ、要さん」
「夏だからな」
「会話をしようよ、要さん」
「その前に仕事だ、あゆ君」
「うぐぅ、その通りかもしれないけどなんかむかつく」

 うぐうぐ言いながらせっせと働くうちにようやく引っ切り無しだった客足も途絶えてくる。カウンター奥の腰掛に倒れこんだあゆは雪村の入れてくれたフルーツオレを一気に半分まで飲み干し一息ついた。
 残った半分をちびちびとコップを傾けて舐めながら、あゆはベーコンを炒めている店主を上目に眺める。この斜め後ろぐらいのアングルから雪村が料理をしている姿を見るのが、あゆにとっては仕事の合間のちょっとした楽しみだ。元々姿勢のいい人だけど、調理場に立っている時の雪村は何時もよりもさらにスッと背筋が伸びた佇まいになって、カッコいいなあ、なんてにへら〜と頬が緩んできてしまう。
 いい気分になったのを幸いに、思い切ってあゆは心に温めていた提案を口にした。

「要さん、今度のお休み、暇かな」
「ん? 今度の休み? ふむ、その日は確か学生時代の友人の知人にとある超能力開発セミナーに体験参加してみないかと誘われて――」
「とりあえずそれは断って」

 頭痛を抑えながらあゆは雪村を制止した。フライパンを振るう手を止めて心底不思議そうにあゆを見やる雪村。

「……どうしてだ?」
「そんなの、あからさまにどっかの怪しげな団体の入信窓口じゃないか!!」
「だが、念動力が使えるようになるらしいんだぞ?」

 使えるようになるか、んなもん!

「だいたい喫茶店のマスターがそんなもの使えるようになってどうするのさ!!」

 良くぞ聞いてくれたと言わんばかりに、雪村は神経質そうな細い眉を得意げに戦慄かせ、

「決まっている。もしもの際に「ふっ、こんなこともあろうかと私は念動力を習得していたのだ」という台詞を吐いて危機を回避する為だ」
「だから喫茶店のマスターに念動力が必要になるピンチなんてこないって!!」

 がぁーーっ! と噛み付かんばかりの勢いのあゆを、雪村はさっと手を翳し「いや」と遮った。

「そうとは言い切れまい。例えば君がいつものように「うぐぅ」と悲鳴をあげながら料理の載ったお盆を引っ繰り返したりした際などには念動力は非常に役に立つ、いや、むしろ必須技能というべきなのかもしれない」
「うぐっ」
「君を雇いつづける以上、いつかな習得せねばならない技能なのではないだろうか。我が店の財政的に」

 グサグサグサ、と鋭利な刃物が背中やら額やら心臓やらにいい具合に突き刺さりよろめくあゆ。
 財政的にとか経済的にとか金銭的にとか言われるとあゆに反論の術は無い。あゆは呼吸困難に喘ぎながら、なんとか言い募った。

「わ、分かった、分かったから。ボク、もっと頑張って失敗減らすようにするから、とにかくそれは断って」
「ふむ、まあ君がそうまで言うのなら仕方ないが……なにかその日に俺に用でもあるのか?」

 心臓を押さえて呼吸を整えていたあゆは、気を取り直して照れくさそうにはにかみながら、心に温めていた提案を口にした。

「あ、うん、あの、ね……デートいかない?」
「デートか。ふむ、分かった。構わないぞ」
「ほんと!」
「さっそく知人に連絡して、セミナーの参加人数を二人に――」
「違うぅぅ!!」

 涙目になって壁をガンガン叩くあゆの肩に手を置いて、雪村は頼もしげに言った。

「なに、心配するな、念動力だけでなくちゃんと君が転ぶ際に頭を打たないように空中浮揚を習得できるコースを頼んで――」
「うぐぅぅぅ!!」
「む、それも気に入らないのか。それならば仕方ないが……あゆ君はヨガの方が良かったか?」
「ヨガも超能力も自己啓発も霊能力も興味ないよ!! なんで折角の休みにデートでそんな所にいかないといけないんだよ。デートだよ、デート! もっとデートな所がいいの!」
「では喫茶店でお茶でもどうだろう?」
「わぁ、素敵だね、ってここがその喫茶店じゃないか!」
「うむ、その通りだ」
「得意げに胸を張られてボクはいったいどうしたらいいのか分からないよ!」
「そういう時はあゆ君、君の場合は頭を両手で抱えて涙目になりながら「うぐぅ」と叫べばいいのだ」
「うぐぅぅぅ!!」

 言われた通りに頭を抱え、涙目になりながらうぐぅと叫ぶあゆの姿に、雪村は満足そうに顎に手を置きうなずいた。

「うむ、見事にオチがついた」
「だから訳わかんないって言ってるじゃないのさ!!」













 ――茹だる暑さに落ち込む男と、真夏なのに熱々になりきれない男女の場合




「なんや楽しそうにしとるなあ」
「いつもの事だから気にしない方がいいわよぅ」
「いつもかいな」

 心なしか羨ましそうに店員たちの楽しげな様子を遠くに眺める御門和巳に、真琴は肘で隣に座っている小太郎のわき腹をつつく。

「美汐、ずっとあんななの?」
「ええ、ずっとあんなです。よくありませんね」
「そっか」

 まだあの事件があってから数日と経っていないのだ。仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが、鬱陶しいくらいに明るいはずのこの男が元気をなくしている様子は見ているのが辛い。今日だって本当ならここに居るのは自分たちではなくて美汐であるべきはずなのだ。だが美汐には、和巳はこの街久しぶりなんだから、案内がてら一緒に見て回ったらどうだ、という真琴たちの提案を俯いて首を振る事で断られてしまった。
 別段、美汐が和巳を避けているわけではない。家では甲斐甲斐しいくらいに和巳の身の回りの世話をしているのだという。距離を掴みあぐねているんですよ、という小太郎の言葉は間違っていないのだろう。
 あれだけの事を仕出かしてしまった事への自責の念は、美汐から笑顔を奪い、深い負い目を負わせている。傍に居て欲しいと願いながら、その願い通りに和巳に傍に居てもらう事に痛切な罪悪感と自己嫌悪を抱いているのだ。お陰で美汐の和巳への接し方ときたら主人の不興を買うのを恐れる気弱な召使のようにオドオドとしていて、普段のあの泰然とした姿どころか口煩さすらも影を潜めてしまっている。否という言葉を知らないかのように従順な美汐の姿は、本来の彼女の姿を知るものからすれば悪夢のようなものだ。
 和巳はなんとか家でも何時もどおりに明るく振舞ってはいるものの、そんな美汐を見ているのはやはり辛いのだろう。まだ、自分さえこなければ、と思う部分が確実に心の一部を占めているのだ。美汐のいない場所では和巳の陽気に影が差し、明るさに綻びが伺えてしまっている。

「ねえ和巳」
「ん、なんやマコっちゃん」
「あんたまで元気なくすとさ、美汐もいつまで経っても元の調子取り戻せないだろうからさ。しんどいだろうけど……」
「うん、わーとるよ」

 そう言って笑ってみせる和巳に、真琴は痛ましさを感じると同時に、これ以上自分が余計な事を言う必要はないんだろう、という実感を抱いた。
 美汐に対しての優しさが結晶したかのような、そんな笑顔を見せられては、そう感じずにはいられない。美汐を幸せにするのは間違いなくこの人以外の何者でもないのだから。
 空気を変えるように、小太郎が追加注文を頼んだ。

「あゆさーん、こっちイチゴサンデー追加お願いしまーす」
「あ、はーい」
「イチゴサンデー?」

 どんなんやったかな、とメニューを覗き込む和巳に、小太郎は澄まして告げた。

「当店のオススメメニューです。甘いの好きでしたよね?」
「そうなの?」

 疑問符をつきつけながらも、いやおかしくはないかと思い直す。和巳のキャラクターから言って甘いもの好きというのは結構似合ってるんではなかろうか。

「卵料理と甘いものには眼が無いんですよ、ね?」
「ふっ、これでも女の子しかおらん店に堂々と独りで突撃できる男やで、任せぃ」

 似合ってるという以前にバカだった。

「なにを任せるんだか。あんた、かなり恥ずかしい男だったのねぇ」
「失敬な。コンビニでエロ本を買うのが趣味な女の子に恥ずかしいとか言われたないなあ」
「なっ!?」

 そ、そうなんですか、と愕然と身を乗り出す小太郎の顔面を張っ倒して押し退け、真琴は顔を真っ赤にしながら和巳に詰め寄った。

「なんで知ってるのよ!」
「ええっ!? ほんとなんですか!?」

 思わず誤解させるような失言を発してしまい、小太郎の愕然が仰天へと変わる。

「祐ちゃんに聞いたでぇ。まあ、最近は女の子でもそういうの買うのは別におかしないと思わんでもないけど――」
「ち、ちが、あれは昔一度祐一にだまされただけで趣味とかそんなんじゃ」
「真琴さん! 不肖天野小太郎、好きな女の子の趣味をとやかく言うような狭量な男ではありません。今度からは僕も一緒に付き合いますから、真琴さん、これからは堂々と――」
「あんたちょっと黙れ!」
「はぐっ」

 お待たせしましたー、とイチゴサンデーをテーブルに運んできたあゆは、お絞りを小太郎の口に突っ込んでゲシゲシと蹴りを食らわしている真琴、という惨状を目の当たりにして「またか」とため息をこぼした。

「ちょっと真琴ちゃん、お店の中で暴れないで!」
「おー、これが噂のイチゴサンデーかいな。美味しそうやなあ。ウェイトレスのお嬢ちゃん、オレ御門和巳言うねん、よろしくなあ。それでお嬢ちゃん名前なんて言うん? あ、実は知ってんねん、月宮あゆ言うんやろ、綺麗な名前やねー。まこっちゃんに先に話は聞いててんけど、ほんまちんまいなあ、中学生か思た。ところでマスターとはええ仲なん? 職場恋愛? ちなみにオレみーちゃんこと天野美汐のステディ(仮)やねんけど、今度一緒に映画でもいかへん?」
「は、はあ、は? へ? ほ? うぐぅ?」
「ちょ、待てこら和巳っ、なにいきなりあゆ口説いてんのよ!」
「いや、マコっちゃんが元気出せ言うから元気出して何時もどおり見境無く女の人に粉かけてみようかと」
「そういう出し方はするなーっ!!」

 ギャァギャァと喚き散らす真琴と彼女を無視してヘラヘラと此方に手を振る和巳、椅子に突っ伏したまま動かない小太郎たち。まあ今は丁度他にお客もいないし、無駄な体力を此処で浪費するのもバカらしいからとあゆはその場から早々に退散した。ふう、とカウンターの横に付いたあゆは、ふと雪村がもう磨き終わったはずのグラスをまた熱心に磨いているのに気づいた。束の間その違和感に首を傾げて、あっと顔を綻ばせる。そしてにんまりとほくそえみ、あゆは雪村に話しかけた。

「ねえねえ、要さん」
「……なんだ」
「ちょっとムッとしてるでしょ」
「…………」

 答えは無言。
 あゆは何事もなかったかのようにクルリと雪村に背を向けてカウンターの椅子に腰掛け、トロトロに崩れていく相好を隠しながら、取り澄ました声を繕って小声で雪村に話しかけた。

「この間さ、水着、新しいの買ったんだ」

 長い長い沈黙のあと、ボソリと不機嫌そうな声が聞こえた。

「……次の休み、プールにでも行くか」
「うん♪」












 ――夏の眩さに喧嘩を売るかのように暗い女と、夏だろうと冬だろうと冷ややかな女の場合




 人付き合いはお世辞にも良くないはずだ。孤立こそしていないものの、学校の中でも唯我独尊に過ごしているためか浮き気味なのは自覚しているし、むしろ自分からそう仕向けている面だってある。鬱陶しいくらい深い付き合いなんて春日一人で十分、というか恋人一人分であたしの対人容量はいっぱいいっぱいなのだ。だから、あたし――物部澄の対外評価は良くてサバサバしている、一般的には冷たい、無関心というのが相場だ。
 なのに、なぜか他人から頼られたり、相談事や悩みを聞かされる羽目になる事が妙に多い。なんでだろう、と春日に訪ねてみた事もあるけど、あいつってば「そりゃ澄がズバズバと言いたいこと言ってくれるからじゃないの?」って、それじゃあまるであたしが無神経みたいじゃないか。そりゃ他人に気を使うなんて気苦労は御免こうむる主義だけど。
 だったら悩み相談なんて断ればいいじゃないか、と言われそうだが、これでもあたしは評判ほど冷たい女ではないのだ、これでも。悲壮な顔をしながら相談があるんですけど、なんて詰め寄られて、イヤ、帰れ、失せろ、散れ、などという単語を並べられるほど厚顔になれない。
 暑いは鬱陶しいわ面倒だわ、ろくなもんじゃないんだけど。

「あの……」
「はいはい、聞いてるわよ」

 露骨に嫌そうに反応する物部澄に、天野美汐はシュンと肩を落として普段より小さく見える体をさらに縮ませながら、か細い声音で中断していた話の続きを再開する。
 所は商店街の丁度喫茶雪村とは東西対称というべき在所で営業している甘味処『鳥羽流華院』。鳥羽明美という女性店長が経営する甘味処で、甘いもの好きの間では和のトバルカイン、洋のユキムラと呼ばれ人気を二分しているという。
 いつもの通り、雪村の方で話すのかと思いきや、呼び出された店は華院の方だったのには疑問を覚えたが、なるほどこの美汐の様子を見せられればユキムラの方へは行き難かろうと納得したものだ。それほど天野美汐の落ち込みようは酷かった。誰だコイツ、と澄が真剣に眼をしばたいたのは紛れも無い事実だ。高校一年の初めの頃も酷いといえば酷かったが、あの時はまだ他人を寄せ付けようとしない殻とも棘とも言える硬い意志めいたものを秘めていた。どれほど凝り固まったものだとしても、それは一種の強さではあったはずだ。それが今の彼女と来たら、なんだ一体この有様はと呆れる他なかった。裸で砂漠に捨てられたかのような弱々しい頼りなさ。話を聞くうちに彼女がこうなってしまった理由は納得できたものの、やはり鬱陶しい事には変わりない。あの天野美汐でさえ、自分というものを何一つ信じられなくなってしまえばこうなってしまうという事なのか。

「ふん、まあ、それだけ徹底的にやったってんなら、あんたがそうなるのも分からなくはないんだけど」
「…………」
「いや、むしろ見直したわ、天野。あんたもやる時はやるのね」
「……澄」
「でもあんたはそれが許せないわけか。鬱陶しいわね」
「…………」

 押し黙ってしまった美汐に、澄はあくびをかみ殺しながら訪ねた。

「それで、具体的に相談って何よ」
「私は、和巳兄さんに、どうすればいいのでしょう」

 どうすれば、って何をよ、いったい。
 澄は口をへの字に曲げて言い捨てた。

「知るか、そんなの。どうすればいい、ってつまりどうしたいのよ、あんたは」
「私は……以前のように兄さんと接したい、と……」
「じゃあそうすれば?」
「それが出来れば、わざわざ貴女に足労を求める事もなかったのですが」

 幾らぞんざいに対応してもまるで反発が返ってこずに、それどころかさらに消沈の度を深める美汐には、さすがの澄も気まずそうに腕を組むしかなかった。

「このままではいけない、というのは分かっているのです。今の私では、兄さんに気を遣わせるばかりで。でも、今の私は何をするにしても、自分のしようとしている事が正しいのか、それ以前にまともなのかさえ信用出来ないんです。怖くて、たまらない」

 今こうして貴女に相談している事すらとんでもない間違いなのではないかと恐ろしいのだ、と呟く美汐。ああ、ほんとにテンパってるわねえ、と澄は思う。仰る通り、こいつはとんでもない間違いよ天野。
 美汐が正気なら、間違っても自分に相談しようとは思うまい。藁にも縋るという気持ちなのかもしれないが、自分は藁ではなくどちらかというと鮫だ。藁は浮きとしては役立たずでも噛み付きはしない。
 他に誰かいなかったのかしら、と自嘲するも、考えてみると確かに他にいないような気がする。彼女が一番頼りにしているらしい和巳とやらは当事者だし、小太郎や真琴も美汐の被害者だ。美汐の性格では臆面なく相談できるわけがない。父親にはなんだかんだと言いつつ好きな相手との関係についての話なのだから持ち掛けにくかろう。美坂栞? アレに相談するのは自殺行為だ。自分が鮫だとすると、あれは船のスクリューに近い。この手の人間関係の相談について意外と頼りになりそうな水瀬名雪はと言うと、昨日から大学のサークル合宿で相方と一緒にこの街を離れている。どれほどの期間帰ってこないのかは知らないが、戻るまで待てないというのなら、確かに美汐がこんなヘヴィーな相談を持ちかけられる相手は自分しかいるまい。

「一度距離を置くって選択肢はないわけね」
「それだけは……」

 出来ない、と美汐はそこだけは意志も語気も強く言い切った。あの人と一緒にいたい、もう二度と離れたくない、その我が侭だけは譲れないのだと。
 悪くは無い。その手の偏執的とすら思える好意を、物部澄は嫌いではない。あの堅物の天野美汐がこんな恋愛を抱えているかと思うと小気味よくすらある。
 澄は残っていたわらび餅を時間を掛けて食べ切ると、その間身動ぎもせず俯いていた美汐にもったいぶるように口を開いた。

「あたしが思うに、その和巳って男、天野に優しすぎるわね」
「そう、でしょうか」

 優しいというよりむしろ意地悪なように思うのだけれど、と言う美汐を澄は一刀両断した。

「愚か者。そう思ってるならあんたはあんたでそれ甘やかされ過ぎだわ。壊れ物を扱うように大切に大切に扱われてるのを当然のように思ってる」
「そ、そんな……ことは」
「無いって言える? 私から見たら、過保護としか言いようがないわ。そんなに大事にしたけりゃ籠に締まって愛でてりゃいいのに。だいたいあんたも保護されてどうするのよ。その兄さんとやらは天野の保護者? 違うでしょう」
「…………」
「ビビッてないで、とにかくその兄さんとやらをしっかり捕まえておけばいいのよ。そうすりゃ、そのうち自信も戻るわ。愛されてるって実感があったら、女ってのは幾らでも図太くなれるし開き直れるものよ。例え自分がどんなにろくでもない女でもね」
「ですが……しっかり捕まえておけと言われても。今の私にどうやって……」

 傍にいるだけで和巳に辛い思いをさせてしまうような状態だからこそ、どうすればいいのかと相談しているというのに、捕まえておけなどと言われても。

「そんなこと、簡単でしょう」

 氷のような、とよく形容されるあの冷ややかな眼差しを突き立てられ、美汐は思わず身震いした。
 一旦、湯飲みを口にして間を置き、物部澄は泳げない人に人間はそもそも浮くものなのだ、と教えるかのような口振りで美汐に言った。

「抱かれればいいのよ、抱かれれば」
「…………?」

 一瞬、言葉の意味が理解できずに、美汐はポカンと眼をしばたいた。
 澄は興味が失せたように湯呑みを啜りながら、呆けている美汐にやる気なさそうに確認を求めた。

「まだヤッてないんでしょ?」
「ま、まだって、なにがですか?」

 チラリとこいつはバカか、といいたげな視線を投げかけられ、美汐の真っ白に漂白された意識に色彩が戻ってくる。途端、顔面が真っ赤に上気し、美汐は喘ぐように告げた。

「ま、まだです。そ、そんな、まだに決まってるではないですか」
「じゃあしなさい」

 絶句。

「あ、え、でも」
「でもじゃない、しなさい」
「だ、だって」
「うるさい、イイからヤれ」

 これ以上ないくらいきっぱりと言ってのけ、物部澄はあからさまに「あーようやくクソ面倒臭いお悩み相談が終わった終わった」とサッパリとした顔になり、完全に言葉を失ってパクパクと口を開いている美汐から興味を無くすと、店員を呼んで新たな注文を取り付けはじめた。

「ああ、そうだ天野――」

 いっそ子供作っちゃった方が早いんじゃないのか、ヤる時はナマでやんなさい、と余計以外のなにものでもない忠告を付け加えようとした澄は、突然脊髄に焼けた鉄杭が突き立てられたかのような灼熱感を感じて飛び上がった。

「お、お客様?」

 唐突に目を血走らせて立ち上がった澄に、注文を受け付けていた店員が目を白黒させる。体中から水分という水分が抜け落ちてしまったかのような渇きに喘ぎながら、澄は周囲に目を配った。

「天野、今なにか変な感じが……」

 しなかったか、と訊ねようとして、美汐が焦点の失せた目でブツブツと何か一生懸命呟いている姿を目にして舌打ちする。と、そうするうちに手当たり次第目に付く異物を叩き潰したくなるような渇望感は、あっさりと消え去っていった。
 なんでもない、と心配する店員に謝って、澄は首の後ろを抑えながら腰を下ろした。渋面を押し殺したまま、内心で首を傾げる。
 なんだったんだ、今の変な感じ。初めての感覚……いや、違う。似たような感覚をあたしは。春日……春日に。

 そこで澄は強引に思考を遮断し、湧きあがる疑念を捻じ伏せた。

「なんなのよ、まったく」
















「反応を見せた、な」
「間違いない。アレはモノノベだ」
「真なる物ノ部だ」
「最も古き神剣だ。見つけた」
「ついに見つけた」
「よくぞ残存していたものだ」

 クスクスと悦びが滲んだ声が交錯する。

「織姫をどうする?」
「サクヤヒメをどうする?」
「決まっている、予定通りだ」
「贄だ」
「真なる物ノ部とするための餌だ」
「では美味しく食していただこう」
「蜘蛛を食すなど、悪食よの」
「だがそれでこそモノノベよ」
「では、はじめよう」
「開始しよう」
「紐解きて、開くとしよう」


















 ――夏だ、キャンプだ、合宿だ! な人たちの場合




 皆さん、お忘れの向きもあろうかと存じますが、水瀬名雪と相沢祐一は、大学では軟式野球同好会に所属しているのでございます。

「同好会同士諸君、夏と言えば合宿ですわ! 特訓ですわ! ハッスルですわ!」

 夏合宿の名を借りたキャンプ大会が企画された原因は、軟式野球同好会会長柊琴夜のいつもの鶴の一声であった。【マドモアゼル釘バット】【不屈の(ドーントレス)ジャイロドリラー】【直情瞬転凶面殺】という数々の勇名で知られる柊会長に逆らえる人類は同好会には存在しない。敢えて言うなら無口で知られる副会長の柴崎丈臣が唯一柊会長を制止できる人物と言われているが、何しろ無口でニコニコしているだけの人なので、本当に柊会長を止められるのか真相はいまだ闇の中だ。第一祐一も名雪も柴崎の喋っている姿どころか声すらも聞いたことがない。
 少なくとも夏合宿だ、と意気込む柊琴夜を止める素振りを柴崎は見せず、八月の頭から軟式野球同好会は地元から車で二時間ほどの山奥にキャンプと相成ったのだった。
 北物見大学軟式野球同好会。去年できたばかりというそれは、会員数12名。うち女性が7名という構成。会長は熱血だが、どちらかというと勝ち負けよりも野球を楽しもうという気楽なサークルである。

「それはいいんだけどさ、あの……なんでオレがここにいるんだ? オレ、メンバーじゃないぞ?」
「……北川、いまさら何言ってるんだ?」

 夕食の下拵えをしていた北川がポツリと不思議そうに零した一言に、通りかかった祐一は熱でもあるのかと言いたげな顔をした。

「いや、だって」

 なんだか良く分からないうちに大変だ大変だと家に押しかけてきて連呼する祐一に荷物を纏めさせられ、ワゴン車を運転させられてキャンプ地まで移動した北川は、その後も自分が何故ここにいるのか分からないままに全員の荷解きをして、テントを張る指揮をとり、現在皆の夕食の下拵えに勤しんでいる。ちなみに今晩のメニューはキャンプらしくカレーライスだ。隠し味はオーソドックスに赤ワインと干し葡萄。

「……あれ?」

 やっぱり自分が此処にいる理由がよく分からない。

「まあ深く考えるな北川。ただ単にちょっと雑用係が足らなかっただけなんだから」
「…………なに?」
「あら、ここに居ましたのね、相沢君。もうすぐみんなで野球グラウンドを見に行きますから、どこかに行ってしまわないように」
「うぃっす、了解です会長」

 キャンプの進捗状況を見て回っていたのだろう。現れた柊は祐一に声を掛け、続いて食材の山を広げている北川に目をやった。思わず直立不動になって息を呑む北川。なにしろ相手は正真正銘の美人だ。肌はスポーツをしているとは思えないくらい白く、容貌は整い鼻筋が通っている。オマケに縦ロール! 北川潤十九年の人生で初めて見るマナ縦ロール。ぶっちゃけありえない髪型である。実際見せられるとあれだ、途方もない威圧感を感じる髪型だった。刺されそう。

「ご苦労様、北川君でしたわね。正直助かりましたわ、会員全員キャンプは初めてか幼い頃に行ったきりだと言うんですもの。そもそも人数が少ないものですから、雑用をこなしてくださる方がいらっしゃるのといないのでは同じ合宿でも内容が天と地の差になるところでしたわ」
「あ、あはは、そりゃどうも」
「では、よろしくお願いいたしますわ」
「ま、任せてください、はい」

 優雅に微笑んで一礼し、舗装されていないデコボコ道を滑るように歩き去っていく柊の姿を茫然と見送った北川は、茫然としたまま傍らの祐一の袖を引っ張った。

「す、すげーなー。ああいうお嬢様な人ってマジにいるんだなぁ」
「まあな」

 と、突然柊の消えた方向から凄まじい怒声が聞こえてくる。

「んだとぉ!? 川に遊びに行っただぁ!? ざけんじゃねえ、さっさと連れ戻してきやがれっ! さもねえとてめぇらからカッ飛ばすぞっ!」

 気の所為かその怒号はなんかほんのついさっき喋った人の声のような気がする、というか間違いなく柊さんのお声じゃないのかと思った北川はもう一度祐一の袖を引っ張った。

「……なに? あれ?」
「あん? 知らんのか? 結構有名だと思ってたけど。うちの会長、地はあっちだぞ」
「……え?」
「あんまり怒らせるなよ。金属バットってマジ痛いんだ、あれ」
「……え?」
「そういうわけだから、雑用ちゃんとやれよな。金属バットって、ほんとに痛いから」
「……え?」

 ポムポムと肩を叩き、祐一はすたこらさっさと立ち去っていった。

「え………ええ?」

 ポツンと一人残された北川は、やっぱり結局どうして自分がここに居るのか訳わからず、空気も清々しい山の中、ポカンと呆け続けるのであった。
 …………酷暑である。

















 ―――まだ夏休みも前半だというのに既に精神的に草臥れかけている少年の場合




「あちぃ」

 冷房の良く効いた駅のターミナルを出た途端、ムワッとした熱気に包まれて、北川薫は独創性の欠片もない独り言をこぼした。
 元来あまり愛想の良くない相貌が、さらに不貞腐れたものに変化していく。
 寒いしか取り得の無い北国の癖になんでこないに暑いねん。
 もう何度も夏に此処を訪れているからして、自分の考えている事が八つ当たりに過ぎない事ぐらいは分かっている。北国と避暑地はイコールではない。だが、暑いと人間、心がささくれ立つものなのだ。
 さっさとUターンしてターミナルの中へと駆け戻りたくなる欲求をなんとかねじ伏せ、濃緑のリュックと紺色の布に包んで朱色の紐で縛ってある棒状のものを抱えた少年は、炎天下をトボトボと歩き出した。
 従兄のマンションへの道順は覚えている。普段訪れる時はいつも功刀か父の車でだったので、列車でこの街に来るのは5年ぶりほどになるが、記憶力は確かな方だ。街並みは変わっているのだろうが、目印になる目立った建物や自然物はなくなっておらず、薫は戸惑いながらだが迷う事も無く従兄――北川潤の暮らしているマンションへと向かっていた。





 遊びに来いと言って来たのは、従兄の方からだった。塾の夏期講習から帰宅した薫は、夕食の支度もせずに人の買ってきたアイスの棒を咥えてクーラーの利いた居間でゴロゴロしている功刀に文句を言おうとして、その機先を制するように北川潤が家に遊びに来いと電話してきたと伝えられ、はたと首を傾げた。珍しい。いつもなら従兄は来る事の方がメインであり、遊びに来いと向こうから言って来たのは(こっちから行くと持ちかける事は侭在ったが)記憶する限り初めてじゃなかろうか。

「それって何時の話?」
「8月4日から、まあ一週間くらい」
「4日かぁ。夏期講習、あるんやけど」
「サボれば?」

 あっけらかんと言う母親を、薫はムッと睨みつけた。

「お金、もう払ってあんねんぞ」
「あんたの金違うやん」
「なに言うてんねん。俺の金違うから躊躇っとるんやないか」

 そもそも夏休みの夏期講習に参加したいと言ったのは薫の方なのだ。両親はといえば、父親は夏休みとは子供が遊び倒すものだと考える人間であったし、母親は子供に向かってああしろこうしろと言うのを心底面倒がる人間だった。その二人から夏期講習に行けなどという言葉が出てくるはずもない。つまりは夏期講習の参加費は、薫からお願いして出してもらったのだ。それなのに、自分から親に金を出させておきながら、それを無下にしてしまうのは気が咎める。

「お金出した本人がええ言うてるんやからええんと違うん?」
「よくないわい!」

 本気かどうかは分からないが、平然とこういう事を言ってくるのだから性質が悪い。

「気難しいやっちゃね。子供は親の言う事を聞いていればええんやとでも言いたなるわ」
「功刀の言う通りに何でもしてたらダメ人間になってまうやないか!」
「わぁ、素敵やね」
「どこが素敵やねん! しかも棒読みで言うな!」
「うるさい餓鬼やな、ちょっと黙られへんのか?」
「お前が黙れ!」
「…………」
「黙るな!」
「どっちやねん」
「黙るな喋るな寝るな食べるな!」
「どないせえっちゅうねん」
「自分で考えろ!」
「分かりませんでした」
「即答するな!」
「………………分かりませんでした」
「やからって間を入れたらええっちゅうもんでもないやろ!」

 何時もながら何やってんだろう、と虚しさに浸る。こいつを母親と呼ぶのは、まあ自分を産んだのは確かだから認めよう。でも、コレを保護者と呼ぶのは絶対に認めたくない。俺はコレに保護されているほど落ちぶれてはいないのだ。
 と、足元で仰向けに寝転がっていた功刀の姿が消えている。探すと居間の隅に置いてある電話の子機を握り締め、ピポパと口ずさみながら何処かに電話を掛けていた。

「あーもしもし? あのですねー、息子が苛めるんですけど。はい、言葉の暴力で……」

 薫は大股4歩で居間を縦断すると、功刀の手から無言で子機を取り上げた。

「ああ」

 意地悪な嫁に意地悪をされた気弱な姑のように哀しげに自分の手から子機を奪っていった薫を見上げる功刀。薫はこめかみに青筋を立てながら、なんとか声を荒げまいと感情を押し殺しつつ訊ねた。

「どこに電話かけてるんですか、お母さん」
「なんでも子供相談室」
「そ、それは子供が掛ける方やないか! 功刀は親の方やろ!」
「あ、そうか。じゃあ掛け直そう」
「掛け直すな!!」

 いつの間にか気がつかないうちに取り返されていた子機を、慌てて毟り取る。
 みのさんみのさん、と不穏な単語を連呼しながらしがみついてくる母親を押し返し、薫は子機の電源を切った。ついでに電池とバッテリーも抜いておく。

「ともかく、俺夏期講習があるから――」
「大丈夫よ」

 話を区切ろうとした薫を遮って、功刀は咥えていたアイスの棒をプッと吐いた。木枯らし紋次郎の長爪楊枝の如く飛んだアイスの棒は、綺麗に部屋の対角に置いてあるゴミ箱に落下した。

「塾の方にはお前が帰る前にしばらく休むって連絡しておいたから」
「…………く、功刀ぃ!!」




 思い出すたびにクラクラと眩暈がする。間違っても暑さの所為ではない。だって電車の中でもアレの事を考えた途端クラクラきたし。あの女、誰かなんとかして欲しい、マジで。
 北川薫の不幸はこの身体の不自由云々よりも、あの女が母親だという現実その一点に集約されるのだと薫は信じていた。

「っと、此処やったっけ」

 一応、自宅で書いてきた地図と照らし合わせて、そこが北川潤の住むマンションだと確認する。記憶とも照合、うん合ってる合ってる。

「オレも一人暮らししたいなあ」

 エレベーターに乗りながら溜息混じりに独りごちる。親を亡くして独りで暮らしている従兄にこんな事は言えないけれど、やはり羨ましいという気持ちがある。というか、一度で言いから功刀から離れて暮らしてみたい。

「いや、そう考えたら今回のこれ、幸いかも」

 理由や期間の短さはどうあれ、功刀から離れて暮らせるのだ。しかも尊敬する従兄の所で。何故かいつもなら従兄の様子を見るのも兼ねて一緒に来るはずの功刀が、自分独りを行かせたのを少し不思議に思っていたのだが、これはラッキーと考えた方がいいんじゃないだろうか。

「だよな。ってかオレももうちょっと前向きに生きんと」

 まだ14歳なんだから、友人や教師からお前って老成してるよな、とか、北川君は達観しすぎじゃないのか、などと言われて嬉しいなどと思うわけがないのだ、これが。

「よし、前向き前向き、明るく行こうやん」

 ようやく夏休みに旅行する少年らしいウキウキとした調子になって、薫は従兄の部屋の呼び鈴を鳴らした。

「はーい」

 ガチャ、と扉が開かれる。だが、顔を覗かせたのはあのちょっと童顔気味の従兄の顔ではなく、キャミソールにホットパンツという薄着姿の見知らぬ大人の女性であった。

「…………」
「あら、どちらさま?」

 なんだか無性に泣きたくなってくる北川薫14歳の夏であった。










  ――イギリスだって北半球なんだから日本と同様夏なんだ夏真っ盛りなんだ、な人々の場合




 日本よりも高緯度に位置する大英帝国は夏となっても肌寒さを感じる地域の方が多い。とはいえ、イギリスに海で泳ぐというレジャーがないのかというとそんなはずもなく、此処ボーンマスは英国でも有数の海水浴場として知られていた。

「それはそのとおりですが、だからと言って我々は泳ぎに来たのではないんですよ」

 延々と続く美しい砂浜と背後にポツポツと点在する古城の影が一望出来る海岸沿いの堤防の上。
 こめかみに青筋を立てながら、久瀬俊平は同行者どもを怒鳴りつけた。

「どうして揃いも揃って既に水着なんですかっ!」
「あははーっ!」
「いや、あははーではなくて」

 げんなりと久瀬は同行者を順繰りに眺める。夏の眩い日差しに負けないぐらいの眩い光景が目の前には広がっている、不本意ながら。
 チェック模様のビキニ姿の倉田佐祐理、背中と脇の部分が大胆に開いた白いワンピースの川澄舞。正直言って二人ともかなり際どい。そして下着じゃないのかそれは、と疑いたくなる黒いレースのセパレートを来たリーエ・リーフェンシュタール。最後に、頭に麦わら帽子を深々と被せ、アイスを咥えてやる気なさそうに突っ立っている真っ赤な水着を着こなしたリュクセンティナ・リンフェーフ。全員上着は羽織っているものの、その下は健康的な肌を晒した水着姿だ。
 だが今回、このボーンマスに来たのは除霊研修の為である。しかも、師である祐馬と奈津子が立ち会わない初めての実地研修だ。間違っても遊びに来たわけではない。

「でも俊平さん。先生は適当に遊んできていいぞって言ってましたよ」
「……バカンス」
「それは研修が終わった後でしょう。今からバカンス気分でどうするんだ!」
「もう、折角俊平さんを誘惑しようと大胆な水着選んだのにねー、舞」
「……ん、反応が失礼」

 ひそひそと顔をつき合わせて愚痴る佐祐理と舞。聞こえるように言っているのがあからさまに当てつけっぽい。

「魅惑的な女性ばかりに囲まれていながらその反応。つまり水着では物足りないので脱げ、と言うのですね、久瀬俊平」

 いきなしとんでもない事を決定口調で口にするのは当たり前だがリーエ・リーフェンシュタールだ。

「……脱いだ方がいいの?」
「えー、恥ずかしいですよー」
「日本語ではこういう人物をムッツリスケベと言うのだそうですね」

 絶句している久瀬にトテトテと近づき、リーエは厳かに久瀬を指差して告げた。

「このムッツリスケベ」
「か、勝手に人をスケベ呼ばわりするなーっ!!」
「……逆ギレ?」
「違ぁうっ!」
「わかりました。そうまで仰るのなら佐祐理脱ぎます!」

 ギュと拳を握って気合を入れ、羽織った上着に手を突っ込んで背中のトップスの紐のところでゴソゴソしだす佐祐理さん。

「うわぁぁ、何を言ってるんですか、脱がんでよろしい!!」

 慌てて止めようとした久瀬の顔に、佐祐理はさっと背中から抜き放ったものを突きつけた。

「わっわ、ちょっと待って……って、あれ?」

 ペタリ、と久瀬の顔に貼りついたのは佐祐理のトップスではなく、一枚のお札であった。引っぺがしてマジマジとお札を眺める。

『煩悩退散♪』

 キャラキャラとはしゃいで手を叩きながら佐祐理は硬直している久瀬の顔を下から覗き込んだ。

「あははーっ、冗談ですよ。えー、まさか期待しちゃいました?」
「してた」
「してましたね」

 即座に応じる舞とリーエ。

「あややー、困ったさんですねー、俊平さんは」
「……えっち」
「実録ムッツリスケベの生態として記録しておきましょう」
「…………うがぁぁぁ!!」


 暴れ出す眼鏡の青年に、キャッキャと騒ぎながら逃げ出す少女達。
 ボケーっとその様子を眺めながら、リュクセンティナはパタパタと手を仰いで風を送りながら退屈そうに欠伸を漏らした。

「あーあー、楽しそうでいいねえ、若い若い。ちくしょう、群青色の野郎、人に子供の引率なんぞ押し付けやがって、今度絶対たかってやる」

 夏の日差しにある意味相応しいかもしれない恨めしげな声を漏らし、舌打ちすると、赤毛の女は皆に「ほら、遊んでないでそろそろ行くぞー」と声を掛けた。
 今宵は打ち捨てられた古城にて幽霊退治だ。











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