それは在りえない事なんだけど。
もし、祐一と名雪が別れてしまったとしたら。
二人はその後、どんな顔をして同じ家に暮らすつもりなんだろう。
多分、そんな事全然考えていないんだろうけど。
やっぱり、顔を合わさないように、どちらかが家を出て行くんだろうか。
「……はぁ」
気まずい。
空港のロビーである。佐祐理たち三人は何とか手続きに間に合い、今は飛行機への搭乗を待つばかり。佐祐理は、完全にグロッキーに入った佐奈子を介抱しながら、祐一名雪とお喋りしている。一応回復した舞も同様だ。そして、もう一人は……。
真琴はチラチラと二メートルほど間を開けて座っている久瀬の横顔を見やりながら、息苦しさにため息を吐いた。
小憎たらしいことに、久瀬の方はと言うと、いとも平静で澄ました顔。きっと、自分みたいな苦しい気持ちなんて全然ないんだろう。当然だ。あっちは此方の事なんてなんとも思っていなかったんだから。
栞は異常だと思う。何だって、別れた相手とあんなにベタベタと引っ付いていられるのか。自分なんかフられただけなのに、傍に居るだけで窒息しそうだ。胸が苦しくて仕方ないのに。
栞はおかしい。
「あうー」
友人に八つ当たりしながら、真琴は肩で揃えられた髪先を手持ち無沙汰に弄くっていた。
「ねぇ、真琴ちゃん。真琴ちゃんてば」
「…………」
「……む、無視?」
「あう? あれ、あゆ、いたの? なんかよう?」
最初からずっと真琴の横に座っていたあゆは、いささか傷ついたような顔をした。
「うぐぅ、別に用があるってわけじゃ」
「じゃあ、なによぅ」
「さっきから、なんだかずっと百面相してるから、どうしたのかなって」
「百面相?」
ペタペタと自分の顔を触った後、真琴は上目にあゆに訊ねた。
「してた?」
「うん、すっごく」
「あうー」
げんなりとなる真琴。
顔に出やすいこの性格に嫌気が差す。こういう時は、義母や義姉と本当に血が繋がっていたらな、なんて事を思ってしまう。そうしたら、もうちょっと素直の裏側みたいなものを備える事が出来たかもしれない。
真琴も女の子だ。単純で分かりやすいという魅力なんかよりも、もっと複雑怪奇な女としての魅力を持ち得たい。それに、それこそが自分とあの女の違いだったかもしれないじゃないか。彼が、自分ではなくあの人を選んだその理由が、魅力の違いだったのかもしれないじゃないか。
そんな簡単な理由ではない事は、久瀬本人の想いの吐露を聞いているのだから、真琴だって理解している。でも、それでもそんなことを考えてしまうのを止められない。止めるには、まだ時が経っていなさすぎる。
「なんか悩み? 良かったら、お姉さんに話してみなよ」
あゆが気負った様子でなんか云っている。何か変なマンガでも見たのだろうか。
「お子様に話しても仕方ない事よ」
あゆの頭がアッパーを喰らったみたいに仰け反った。
「お、お子様ってなんだよ。ぼ、ボクは真琴ちゃんより二つも年上なんだよ!」
「あたしが言ってるのは、精神年齢の話しよぅ」
「そ、それだったらなおさらだよ。ボクと真琴ちゃんじゃ5つは違うよ」
「はいはい、分かった分かった」
「……うぐぅ、あしらわれてしまった」
図らずも精神年齢の違いを自分で示してしまった形となり、真っ白に燃え尽きるあゆあゆ。
「それに、別に悩みじゃないの」
「……ほんとに?」
「うん」
だって、これはもう済んでしまったことなんだから。
あとは、自分の気持ちの整理だけ。それがなかなか終わらないから苦しいだけ。そう簡単に終われるような、中途半端じゃなかったから。
彼が、なかなか会えない場所に行ってしまうのを、真琴はさびしいと思うと同時にありがたいと思っていた。今は、距離を置いた方がいいだろうから。会えるのに、会いに行かないのは辛い。それに比べて、会えない方がまだ踏ん切りがつくだろう。その方が、きっと整理をつけられる。
「ねぇ」
「ん?」
「あゆは、好きな人、いる?」
「え? えっと、今は、いないけど」
「今は?」
意外に思い、真琴はぼんやりと遠くに据えていた視線を、傍らにチョコンと座る友達のような姉妹のような存在へと向けた。
彼女は遠くを見ていた。無意識にその視線の先を追う。
「…………ッ!?」
真琴は息を呑んで、傍らの、そう大人の顔をしている少女を見やった。
まいった。知らなかった。一年近くも一緒に暮らしていたのに、全然気づかなかった。そうだったのか。
真琴は何となく、どちらが本当にお子様なのかを思い知らされたような気がした。
「あうぅ」
自分には真似できない。そんな我慢は出来ないし、割り切りも出来ない。
どちらが良くてどちらが悪いというわけじゃないだろうけど。
でも、その苦しさはわかるような気がする。
「あゆって、ばかよね」
「う、うぐぅ、なんで馬鹿呼ばわり?」
「趣味が悪いのは名雪姉だけで充分なのに」
云いたい事が伝わったらしい。あゆは屈託なくはにかんで、首を竦めた。
「そう悪く云うものじゃないよ」
「ふぅん」
いささか納得しがたいものの、真琴は曖昧に相槌を打った。
「ねぇ、あゆはさ」
「なあに?」
「一緒にいて、辛くなかった?」
自分なら、ダメだ。あの人が自分以外の人と仲良くしているのを見ているのは、多分耐えられない。今はまだ、きっと逃げ出してしまうだろう。
あゆはキョトンと目を瞬き、クスリと笑うと、もう一度あの二人の方を見て、目を細めた。
「ボクは、辛くはなかったよ」
「……なんで?」
「そうだね。幸せだったからかな」
意味が良く、わからない。
「ボクはね、あの二人が幸せそうにしてるのを見るのが、好きだったから」
真琴は、少し眉を傾けた。
「……あたし、そんな真っ白な考え方、嫌だな」
真ッさらな、綺麗な仮面を無理やり被せているみたいで。
でも、あゆは照れたように首を振る。
「違うよ。真っ白なんかじゃない。これはね、もっとドロドロした気持ちなんだ」
「……あうぅ、わかんない」
「ボクだってちゃんと分かってるわけじゃないけどね。でも、そんな見てくれのいいものじゃないんだ。生々しいんだよ、これは」
淡々とそう言って、あゆは「もう区切りのついた気持ちだけどね」と付け加えた。
「ふぅん」と一息。
納得できたわけじゃないけれど、でも何となく、そういうものなんだと思った。
あゆはあゆ、そして自分は自分だ。違う人間が、同じ考え方をするはずがない。そして、あゆは気持ちの整理を終えていて、自分はまだだというのもあるんだろう。
理解できないことは、何もおかしいことではない。
そんな風に考える。自分もあゆみたいに思えたら良かったのにと羨ましく思う。
「ねぇ、あゆはもう他に好きな人が出来たってこと、ないの?」
真琴は、特に深い考えもなく、そんな事を訊ねた。未だどう扱っていいのか分からない小太郎の積極的なアプローチの事が脳裏をよぎったのだ。
まだフられた人への気持ちの整理がついてない段階で、好きだ好きだを連発されるのは妙な気分で。正直、真琴は困惑していた。何故か拒絶しきれず、だからといって受け入れるには抵抗があって。だって、相手は小太郎なんだから。
するとあゆは、
「もう、さっきも言ったでしょ。ボクには今はいな……い、って」
さっきと同じ事を繰り返そうとして、途中で妙な顔になって言葉を詰まらせた。
なんだか、喉に魚の小骨が刺さっているのに気づいたような顔をしている。
「あう?」
「え? えーっと」
しばらく疑問符を顔一面に浮かべていたあゆだったが、釈然としないながらも吹っ切るように繰り返した。
「だから、いないんだって」
「あう、べ、別にいなかったらそれでいいんだけど」
言い切りながら頻りに「んんー?」と首を捻っているあゆに不気味さを感じて、真琴はあうあうと首を上下させた。
そして、ロビーに佐祐理たちの乗る飛行機の、搭乗開始を告げるアナウンスが響いた。
「久瀬くん、二人のこと、お願いね」
青白い顔。紫に染まった唇、血走った目、赤く腫れ上がった瞼。鬼気迫った表情で、倉田佐奈子は久瀬の両手を掴んで二人の娘の事を久瀬に託している。
何だか死にかけている人に頼まれているような気分になって、久瀬は背中に冷たい汗を感じた。
実際は単に二日酔いと乗り物酔いが三乗しているだけなのだが、死にかけているという意味においてはさほど変わりはないと言える。
「ええ、はい、あの……努力します」
「あたしは……もう、ダメだから」
苦しげに微笑み、佐奈子は縺れる舌を必死に動かし、ギュッと久瀬の手を握り締めた。
「あたしの分まで、どうか、おね、がい…………ガク」
「ああ、ちょっと!?」
「くかぁ〜」
「…………」
久瀬は無表情に「お願いします」と苦笑している秋子に力尽きた佐奈子の身柄を預けた。
「……お母さん」
「あはは〜」
さっきまで散々泣きつかれていた舞と佐祐理が何とも云えない顔をして、その様子を眺めていた。
舞などは、もう少し湿り気のある旅立ちになるものだと考えていたものだから、何だか肩透かしを食らったような気分だった。ただ、考えてみれば此方の方がいいのかもしれない。寂しがり屋な自分がしっとりとした涙のお別れをしてしまったら、随分と引き摺ってしまっただろうから。
隣の佐祐理が、秋子さんと話し込みはじめる。
何やら込み入った話のようだったので、舞は邪魔にならないように、少しだけ距離を置いた。
その時、ふと舞の視界に、モジモジと祐一たちの影に隠れるようにしている真琴が映る。
どうしたのだろう。
舞は近くに居たあゆを招きよせて、訊ねた。
「ねえ、あゆ。真琴、どうしたの?」
「どうしたって、何のこと、舞さん」
「懐いてたのに、今日は全然」
「ああ」
あんなに久瀬に懐いていたのに、今日の真琴は彼に対して何だか変だ。とまあ、そんな風な意味合いを端的な舞の台詞から嗅ぎ取り、あゆは舞の耳元に口を寄せた。
「真琴ちゃんね、久瀬さんに告白して玉砕しちゃったんだって」
「――ッ!」
本当に? と目を見開く舞に、あゆはコクリと頷いた。
「けっこう前らしいんだけどね。やっぱりまだ、気まずいみたいだね、今日の様子じゃ」
「……そう」
衝撃に早まる鼓動を抑えるように、舞は胸に手を置いた。
「私は、真琴は小太郎が好きだと思ってた」
「うん、それはボクも。だから、聞いたときは意外だったよ。でも、おかしくはないと思うんだ」
どういうことだ、と眼で訊ねたら、あゆは小さく笑っていった。
「恋はいつだって唐突だ、ってね」
真琴の好きな漫画のタイトル。
「それまで何とも思っていなくても、ある日突然、急に何の前触れもなしに、その人のこと、好きになっちゃってたって、あるんじゃないかな」
「……そういうもの?」
舞には、そういう事は良く分からない。自信が無い。
あゆは、笑顔でこう云った。
「ロマンチストでしょ」
確かに。
もう一度、真琴を見る。彼女は何か、意を決したような顔をしていた。
そして、驚くまもなく、スタスタと久瀬の前へと小走りに近づいていく。
それを見た瞬間、何でそんな風に動けるんだろう、そう思った。先ほどの衝撃が、また同じ規模で胸を打った。物凄い敗北感のようなものを感じた。彼女は、私が怖くて出来ない事を易々とやってのけている。
彼女は、真琴は全然引かない。躊躇っても、立ち止まらない。今この瞬間も、苦しいであろう気持ちを蹴飛ばして、自分が正しいと思っている行動へと邁進している。
無鉄砲で考えなしで、でもすごく格好良かった。
舞は胸に当てた手を握った。早打つ鼓動が拳に伝わってくる。
眩しいものを見るように、舞は目を細めて真琴の姿を追った。
一つ、決め事を胸に刻む。
今までずっと、佐祐理の傍に居て、彼女を守るのだと、そう決めていた。だけど、それはただの行動の指針であって、魔法を学ぶための目的ではなかった。イギリスに行く私自身の目的を、私はまだ持っていなかった。
だから。
決めた。
あんな風になれるように、私は旅に出よう。あの真琴みたいな強さを身に着ける事を目的に、私はイギリスに行こう、と。
勇気を―――
舞は、この時初めて、歩き出す道の先に、自分自身だけのものを見出した。
久瀬は鞄を肩から提げ、立ち上がる。搭乗の時間だった。
だが、その前に。
「…………」
此方に向かって、小走りに駆けてくる少女がいる。
「……真琴」
その名に憂鬱を感じる自分。
今まで告白してきた女性に素気無く断りを入れた事は何度かあったし、付き合っていた女ににべなく別れを告げたことも幾度かある。だが、これほど心の底に重いものを引きずるのは初めてだった。
フッたことは後悔していない。他に好意を抱く女性がいるのに、その気持ちを受け入れるのは不誠実というものだ。今までだったなら、構わなかったかもしれない。拒まなかったかもしれない。これまでは、そんな風に適当に女と付き合ってきた。
だが、今回の相手は真琴だった。彼女に対して、中途半端でいい加減な態度など取れるはずがなかった。
「……ふふ」
思わず笑ってしまう。
本当に、何時からなのだろう。あの子のことを、こんなにも大切に、大事に思うようになったのは。
まったく、似合わない話じゃないか。この久瀬俊平が、他人を大事に思うなんて。そんな人間じゃないだろうに。本当に似合わない。
「結局ね、まだダメなの」
「何がだ?」
開口一番、突風のように彼女はそう云った。
「まだ、前みたいな好きには戻れてないの」
「…………」
そう云いながら、真琴は真っ直ぐに久瀬の顔を見上げていた。真っ直ぐすぎて、圧倒されるくらいに。
「でもね、俊兄が次に帰ってくる頃には、絶対に前の好きに戻しちゃうんだから」
「……ふん、まあ頑張れ」
「ちょっと、勘違いしないでよ。それってつまり、俊兄なんか見向きもしなくなっちゃうってことなんだからね。別に、頑張るとか、そんな俊兄のためみたいにやるんじゃないんだから!」
「……ククク」
「あーっ、なんで笑うのよぅ!」
口許を痙攣させて笑い出す久瀬に、真琴は柳眉を逆立てる。
「いや、けっこうなことじゃないか」
「あうー、なんかむかつく言い方」
ポカッと拗ねたように彼女は久瀬の脛を蹴っ飛ばした。
「覚えておきなさいよね。あたしはね、俊兄があっちに行っちゃってる間に、すっごくすっごくいい女になってやるんだから」
お前は今でも充分イイ女だと思う。そんな気障な台詞は封印し、久瀬は淡々と、
「そうか」
とだけ、子供の戯言を聞いてやってる大人のような表情で言い放った。
真琴は、そんな表情など何も気にせずに、笑ったような怒り顔で言い放つ。
「後悔させてやるんだからっ」
「……ふん」
「あー、鼻で笑ったぁ!」
「せいぜい頑張るがいいさ」
「あうーーっ、嫌味ったらしいすぎっ!」
ブンブンと真琴は右手を振り回してプンスカと怒る。久瀬は、薄く目を伏せて笑んだ。
やがて、腕の回転が止まる。
真琴は一瞬、唇を引き結び、目をギュッと閉じた。そして、ゆっくりと開く。
水瀬真琴は、今の彼女の母親に良く似たやわらかい微笑を湛えていた。
「じゃあね」
「ああ」
「……いってらっしゃい」
久瀬俊平は一度だけ、ポムと短くなった小麦色の髪に手をおき、そのフサフサの尻尾のような手触りを味わうと、真琴に背を向けた。
「佐祐理さん、川澄、そろそろ行きましょう」
同行者に声を掛け、久瀬は一度だけ真琴を振り返った。
ぞんざいに右手を挙げ、それでもう彼女のことは見なかった。
いってきますとは、最後まで云わなかった。
§ § § § §
「ねぇ、俊平さん」
伊丹にある関西国際空港を経由して、既に飛行機は欧州に向かって高高度を飛行している。
佐祐理は窓の外に広がる壮観な雲海の光景に見向きもせずに、読書に没頭している久瀬に声を掛けた。
ちょうど一段落ついて、飲み物に手を伸ばしているところだった久瀬は、なんですかと隣に顔を向ける。
「さっき、真琴さんとなにを話していたんですか?」
久瀬は、一瞬瞼を痙攣させ、だが何事もなかったかのようにドリンクで唇を濡らすと、素っ気無く云った。
「別に。大したことじゃありませんよ」
「そう……ですか」
きっぱりとそう云われては、それ以上突っ込みようもなく。佐祐理は複雑そうな顔をして、正面に顔を戻した。
久瀬は、そのまま手元の本へと意識を戻そうとしたが、いまいち集中力が戻らず、本を閉じて背筋を反らせた。
「ああ、そういえば、川澄」
「……?」
黙々と機内食を食べていた舞が、頬っぺたを膨らませたままキョトンと久瀬の方を見る。
「君は、あの剣はどうしたんだ? 置いてきたのか?」
舞はしばらく目を瞬いて考え込んでいたが、やがて思い出したのか、箸を置いて、
「めむままもむっま」
と、云った。
「……分からない」
「あの剣なら、梱包して送りましたよ。さすがに手荷物で持ち込むわけにもいきませんでしたから。いろいろと手続きは大変でしたけど」
ニコニコと人差し指を立てて、佐祐理嬢が丁寧に説明してくれる。
「やはり、あれを使うのか」
「まみもうままま」
相棒だから、と言いたいらしい。
久瀬は冷たい声で指摘した。
「口にものを入れたまま喋るな。マナーがなってない」
「…………」
尤もな話である。
舞はしばらく黙って考え込んでいたが、ゴクリと口のなかのものを飲み下して、
「ごめんなさい」
反省した。
イギリス到着まで13時間の空の旅。
まだまだ、退屈な時間が続く。
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