こうして旅の途につこうとしている今、思うことがある。
 もしかしたら、自分は道を踏み外したんじゃないだろうか、なんてことを。

「……もしかしたら、じゃないぞ。まったく」

 OK,分かっている。もう、もしかしたらなどと悠長な疑問を挟む余地なく、途方もなく踏み外してしまったのは明々白々なのだ、これが。
 空港の吹き抜けロビーの二階で営業しているオープンカフェ。半分までに減ったグレープフルーツジュースのグラスを吊り下げるように掴んで意味もなく揺らしながら、久瀬俊平は何とも云えないため息を零した。

「やれやれ」

 つい最近まで、幽霊どころか占いですら信じていなかった自分が、選りにもよって魔法使いになろうと云うのだ。馬鹿げているといえばこれほど馬鹿げた話もない。
 一年前の自分との格差に眩暈すら覚える。
 何しろ、その魔法使いになろうという理由が、密かに好意を抱いている女性がなろうとしているから自分も、という昔の久瀬がならば嫌悪と軽蔑をもって罵倒しかねない軽薄かつ主体性の欠片も無い理由なのだから。
 いや、昔でなくても今だって、自分の事でなかったなら同じような反応を示しただろう。
 カラカラと氷がグラスにぶつかる音が、涼しげに響いている。
 その音色に耳を傾けながら、自分は変わったのだろうかと久瀬は自問した。

「……そんなつもりはないんだがな」

 実際、高校時代の自身を思い出してみると、理知的ぶって感情的だったり、規律や倫理を重視する癖に自分に対してだけは甘く利己的だったりと、今とあまり変わってない気がする。
 結論――つまり、昔から自分はこういう人間だったのだ。

「……うう」

 少しへこむ久瀬俊平だった。



§  §  §  §  §




 除霊士、退魔師。拝み屋。祓い屋。
 これから久瀬たち三人がなろうとしているのは、そういう、霊障の除去や魔術・妖魔による犯罪への対処を請け負う、職業としての魔法使いだ。れっきとした収入目的の特殊技能保持者になるのが目的であり、生き方として魔術師や魔女と呼ばれる者を志しているわけではない。
 もし渡英の目的が、魔術の神秘を探求するためなどの理由だったなら、久瀬はこの道を選ばなかっただろう。興味が無いとは云わないが、どうにも理解の範疇外になってしまう。さすがに腰が引けてしまっただろう。生憎と、未知に自分から飛び込むような度胸の持ち主ではないのだから。
 単にスキルを身に付けるというある種身も蓋もない即物的な理由だったからこそ、柔軟性にあふれるとは云い難い常識的思考の所持者である久瀬でも、受け入れる事が出来たのだと云えるのかもしれない。

 佐祐理と舞の英国留学への同行を打診されて以後、久瀬は彼なりに手を尽くしてオカルトと呼ばれる世界を調べていた。驚いたのが、思いの他苦労なく情報を入手できたことだ。
 公然ではない。だが、決してそちら側の情報を一般人に知られぬように完全封殺しているわけではないとでも云ったらいいのか。久瀬が思っていたより、あちらと此方の境界は隔絶している訳でもないようだった。
 確かに身近の例を鑑みれば、その感触が勘違いではないと思える。
 例えば、天野美汐などは普通に学生をこなし、同時に退魔師としての仕事もこなしている。二つの世界での生活を両立させていると言ってもいい。特別、厳重に退魔師としての自分を隠している風でもなかった。
 況して真琴を見ればさらに如実だ。彼女は人間にあらず妖怪――妖狐だ。にも拘らず、普通に女子高生として高校に通い、将来保育士を目指している。
 それは、久瀬の思い描いていたような『光と闇が相容れぬ世界』といった印象とは、それこそ相容れなかった。
 もしかしたら、世間の人々は知らない振りをしているだけなのかもしれない、と久瀬は考える。魔術や幽霊、妖怪といった幻想世界に属するものの実在を。
 そういえば、自分のように幽霊も超能力の存在を微塵も信じていない人間は、世間では珍しい方だったような気がする。

 無論、どんな世界にも踏み込んではいけない領域はあるだろう。底の見えない暗闇の部分はあるだろう。だが、別段それはオカルトサイドに限った話でもない。普遍的に在りうる話なのだ。
 これから自分達が進もうとしている道は、安易な気持ちで踏み込んではいけない場所なのだろう。だが、決して自分のような常人が触れてはいけない領域という訳でもないのだ。

「単に、普通よりは珍しい技能だと考えれば、気も楽になるか」

 そう呟いて、久瀬は氷だけになったグラスをぞんざいにテーブルに置いた。
 実際は、気楽に、とは行かないのは久瀬も充分に理解している。何しろ、危険と隣合わせの職業だ。比喩ではなく命に関わる仕事と云える。油断すれば、そして未熟であれば簡単に落命しかねない。
 だからこそ、遠くイギリスくんだりまで留学という形で赴くのだともいえる。

 何故、大英帝国なのか。
 わざわざ外国に行かなくても、日本というこの列状諸島は世界でも有数の魔道国家だ。多種多様の魔術系統が存在並存し、普遍的に高位精霊が神として各地に祭られ、また人以外の幻想生物が数多く社会に溶け込んでいる。魔術を学ぶ環境として見劣りするものではない。無理に渡航しなくても、国内で充分技能は習得できるはず――――とは、そう簡単にはいかないのが実際の話、実情なのだそうだ。
 日本を含め、世界中に存在する退魔師は凡そ三種類に大別できる。
 公的機関に属する者、在野の組織・集団に属する者、個人もしくは少人数によるグループ単位で活動する者。
 そもそも退魔技能を習得するためには、誰かからそのスキルを教授されなければならない。だが、これが難しい。
 一番手っ取り早いのが何れかの魔術組織に自身も属するという方法だが、魔道呪術に関して全くの素人である自分達では門前払いが関の山。上手く所属できたとしてもそう簡単に退魔道の専門知識を教えてもらえるとは限らない。末端の構成員として使い走りばかりさせられる可能性が高い。
 当然だ。彼らは教育機関ではない。大方の組織では(それが伝統技能であるが故に)自前の術者を幼少時から育成している。わざわざ歳のいった素人を集めて育て上げるには時間と経費が掛かりすぎ、そもそも血族単位である事も多いこの手の組織は、好んで外部から人を集めたがらない場合が少なくないのだ。
 また運良く教育を与えられて術者になれたとしても、それはそれで問題がある。
 組織としては、経費と時間を掛けた以上、そう簡単に組織の支配下から離れる事を許すわけにはいかない。拘束の緩い組織だとしても、それなりの期間は組織の一員として働かねばならない事になる。また、その組織が古来から伝えてきた秘伝をそう簡単に外部へと持ち出されてはかなわないという考え方もあろう。
 つまり、組織に所属した途端に自由が利かなくなり、二進も三進も行かなくなるという訳だ。

 だからと言って、フリーで活動している人に弟子入りするというのもそう簡単な話ではない。彼らはフリーで活動している以上、自分の力のみで飯を食っていかなくてはならないわけで、役立たずでしかない弟子をわざわざ抱えて後進の育成に励むような奇特な人物は珍しいのだそうだ。
 また、名選手が名コーチになれるとは限らないというスポーツなどの通説はこの業界でも同様。退魔能力と指導能力は別物であり、ちゃんと教えられるかはやってみなければ分からないというお粗末さが罷り通っている。弟子を取るという意欲が合っても、お粗末な教え方出来ないのであれば、弟子になった方はたまったものではない。
 条件は厳しかったのだ。

 此処で、天野愁衛が登場する。
 身近に存在する唯一の(実際はそうでもないのだが)古参の退魔師として、佐祐理から何度も相談を受けていた愁衛は、彼女の意志が固いと知ると、ある男を紹介する事にした。
 佐祐理自身は当初は愁衛本人に指導を乞う腹積もりだったようだが、これに関しては愁衛は素気無く拒否している。一応、彼も天野宗家という陰陽道系組織の一員である事や、彼自身の指導が些か教範的過ぎて即席で素人を一人前の退魔師に仕立てるのは困難と――娘への指導の経験から――考えていたのが主因であった。



「ジョン・ディー記念大学校東洋隠秘学臨時講師、か」

 教えられた相手の肩書きを反芻し、久瀬は顔を顰めた。
 ジョン・ディー記念大学。表向きにはその存在を伏せられている、英国国立図書館の裏側に存在する大英帝国の王立魔道教育機関なのだそうだ。
 RWIS=王立魔法院諜報部(ロイヤル・ウィザードリィ・インテリジェンス・サーヴィス)王室魔道諜報官(ライオン・ハーツ)の多くがこの学校の出身者であり――と云われても久瀬にはRWISがそもそもどういうものか良く解らなかったが――、また欧州各国の公的魔道機関に人材を輩出しているというその筋では有名な学校らしい。これから久瀬たちが師事することになる人物は、この学校に乞われて臨時講師をしているという。
 久瀬たちも表向きはロンドン大学に留学、実際はこの学校に在籍する事になっている。
 ただ、門戸が開かれてるとはいえ、此処も英国の公的機関である事には変わりなく、またあくまで学問としての魔術を修める側面が強いため、久瀬たちの退魔技能を得るという目的とこの学校の実情はそぐわない。あくまで在学は書類上で、実際はその男――【群青色】と呼ばれる魔術師個人に師事するのだという。
 愁衛いわく、短期間で実践的な退魔術のノウハウを教え込む指導力は折り紙付きの人物なのだそうだ。なんでも、以前に素質はあるものの素人同然だった姉妹を半年で現場に出せるまでに鍛え上げた実績があるのだとか。
 三年も師事すれば、もし才能が無い場合でも使えるようにしてくれるよ、と愁衛氏は最後にそんな風なそこはかとなく無責任ぽいコメントで締めくくってくれた。

「……不安だ。今更だが」

 手首に巻いた時計に目をやりながら、久瀬は誰とはなく独りごちた。
 そろそろ搭乗手続きを終えなければいけない時間になっていた。だが、佐祐理たちの姿はまだ見えない。既に佐祐理本人から自宅でトラブルがあったのを電話で伝え聞いているので、焦るようなことはなかった。本人は間に合わせると言っていたが、どう考えても無理な話なのは解っていたし、次の便をキャンセル待ちするしかないと割り切っている。
 さて、いい加減カフェで時間を潰すのにも飽きてきたし、佐祐理と舞が到着するまでの時間をどうしようか、と何気なく視線をカフェの外へと向けた途端。
 ―――ガバッ、と。

「ヤッホー!」

 小麦色の髪を、まだ見慣れないショートに揃えた少女が、肩越しに抱きついてきた。
 久瀬はずれた眼鏡を押し上げながら、少女を振りほどいて視線を上から下まで往復させる。

「な、なんだ、お前、真琴、どうして此処にいるんだ?」
「どうしてって、見送りに決まってるじゃないのよぅ」

 余所行きなのだろう。淡い色合いのお洒落なワンピース姿の水瀬真琴が、昨日の送別会で見送りに行くって云ったじゃないのよぅ、と唇を尖らせている。
 その眼の奥にある僅かな逡巡、そして必死にかき消そうとしている強張りを久瀬は見つけた。送別会の時はまだぎこちなかった接し方を、懸命に以前のものに戻そうとしている。
 彼女の努力を無にしないよう、久瀬は普段通りに言葉を返した。

「記憶に無い」
「なによそれー」
「お前一人か?」
「そんな訳ないじゃないのよぅ」

 そう言って、真琴は肩から下げたポシェットを開けると、中から猫を取り出した。

「……にゃぁ」

 ぐったりと一声鳴いた猫を差し出しながら、得意げに胸をそらす真琴。

「ほら、ぴろも一緒よ」
「…………」

 久瀬とぴろはしばし一言もなく見つめあい、やがて、

「なぁ」

 と、ぴろは久瀬に向かって、何処か諦観が混じった鳴き声を零した。

「ま・こ・とぉぉぉ」
「あ、あうううう」

 突然、背後から伸びてきた二つの拳が、グリグリと真琴のこめかみを締め上げ始める。

「お前なぁ、ぴろは連れてきちゃダメって云っただろうが。しかも、そんな小さなポシェットなんかに押し込めてッ」
「だ、だってぇ」
「にゃぁにゃぁ」
「にゃあにゃあじゃないぞ、ぴろ。お前も偶にはちゃんと嫌だと云え。お前がそんな風に甘いから真琴も加減を知らなくなるんだ」
「に、にゃぁ」
「うん、分かってくれたか。これからは厳しく接してやってくれ」
「にゃっ」
「……相沢、猫と喋るな、猫と」

 現れたと思ったら、まじめな顔をして猫と会話をしている相沢祐一の姿に、久瀬は頭痛を感じて額を抑えた。
 ふと、嫌な想像が脳裏を駆け巡る。

「……まさか、君、本当に猫の言葉が分かるとは云わないだろうな?」
「いや、生憎と日本語しかヒアリングもリーディングもスピーキングも出来ないぞ」

 誇らしげに鼻を膨らませる相沢祐一。
 英語はどうした、と思いつつ、さらに問う。

「じゃあ今のやり取りはなんだ」
「……うむ、何となく通じ合ってる気がしたもの勝ちだな。なんていうか、言葉と種族の壁を超えた同志?」
「あう?」
「相沢、日本語も勉強しなおせ」
「なぜだ?」

 心底不思議そうな顔をしている祐一から顔を背け、久瀬は疲れの篭ったため息を吐いた。






「なんだ、佐祐理さんたち遅刻かよ」

 まだ到着していないと聞いて、祐一はあちゃーと大げさに顔を覆った。

「出発前から波乱万丈ですね」
「いや、まあ」

 にこにこと返答しがたいコメントを投じてくださったのは水瀬秋子さん。その隣では、娘の名雪がうんうんと唸りながらデザートを選んでおり、挟んで向かい側の席ではさっさと注文を終えたあゆが、興味深げにカフェのウェイトレスの仕事模様を観察していた。
 そして、結局ぴろをポシェットに収納してしまった真琴(案外ぴろには居心地がいいらしい。自分からパシェットの中へと潜り込んでいた。そんな馬鹿な)。
 水瀬家一同揃い踏みである。
 曰く、自分達の見送りついでに家族でドライブ&ショッピング+珍しく外食なのだそうだ。本当は見送りの方がついでで間違いないだろう。

「しかし、免許を取って早々、こんな所まで遠出するとは無謀だな、君は」
「……秋子さんに運転させるよりマシだろう?」

 ボソリとご本人には聞こえないように小声で呟く祐一。この春休みの間に免許を取ったばかりの青葉マークのドライバーにそこまで言わすとは、と同乗経験は無いものの、久瀬はゾクリと背筋を震わせて秋子さんの笑んだ横顔を盗み見た。
 この穏やかな女性が一旦ハンドルを握れば、暴走族顔負けの乱暴な運転で公道を阿鼻叫喚へと陥れるというのだから、人間見た目で判断できないというのも同感だった。

「まあ練習がてらってやつだよ。これでも結構上手いんだぞ」
「ふんっ」
「……なんで鼻で笑うかね、あんたは」
「特に意味は無いね」

 此方の気分を逆なでするような言い草に、ピクリと祐一の顔の筋肉が痙攣する。

「なんだ、そりゃ。無意味にむかつくやつだな、ほんとに」
「当然だ。君が不快を抱くように対応しているんだからな」
「なんでだよ」
「なんとなく、そうしたい気分だったからに決まってるじゃないか。少しは想像力というものを行使したまえ」
「生憎とあんたみたいなフナムシ的な思考パターンを想像するなんて真似は、健全な人間様の俺にはちょっと無理だ。ゾウリムシかインキンタムシにでもならないと無理だろうな、あはははは」
「ほう、既にサナダムシか悪玉コレステロール程度にまで脳細胞が劣化しているというのに応用力のない男だな、ふっふっふ」

 特に理由もなくいがみ合い出す二人を、あゆが不思議そうに見やる。

「なんだかあの二人って何も無い時はいつもああやってるね」
「仲がいいんだよ」
「波長が合うのよ、きっと」

 それぞれ微妙に食い違ったコメントを残す名雪と真琴。
 普通に言葉面だけ聞くと、名雪さんの方が好意的なんだけどなあ、とあゆは笑顔の後ろで冷や汗を垂らした。

「そろそろ搭乗手続きの締め切りですけど、宜しいんですか、久瀬さん」

 ニコニコと俯瞰的に子供達の様子を見物していた秋子が、腕時計を嵌めた手首を顔の許に寄せて云う。

「連れがまだ到着してない以上、しかた――」

 と、久瀬の発言を遮るようにして、何やら空港の正面入り口の方からどよめきが伝わってくる。
 なんだ、と祐一が立ち上がりかけたその時、劈く悲鳴のようなブレーキ音がその場に居た人間達の鼓膜を蹴飛ばした。

「う、うぐぅぅ、じ、事故だぁぁ!」
「事故って交通事故ぉ!?」
『うなー』
「でも、ぶつかった音はしなかったよ。って今猫の声が……?」

 慌てふためくあゆと真琴に対して、動じた様子もない名雪が宥めたりキョロキョロと猫の姿を探したり。

「と、とにかく見に行ってみよう」
「そうだな」

 野次馬根性丸出しの祐一と興味本位でなく何事があったのか把握しようという久瀬が席を立った。

「あら、誰か入ってきましたよ」

 座席から階下を覗いていた秋子さんが下に降りようとしていた二人に聞こえるように声を出す。見れば、玄関口に集まりだしていた人垣が、慄くように二つに割れ、その間をヨロヨロと墓から甦り立てのゾンビのような足取りで誰かが歩いてくる。
 ピョンピョンと髪が四方八方に跳ねている。何があったのかという乱れ方をした黒髪の女性は、ロビーに入った所でベチャと電源が切れたみたいにして倒れた。
 見事な大の字。

「あうー、あれって」
「……舞だな」
「……川澄だな」

 寝起きのような真琴の声に、魂の抜けたような二人の男の呟きが重なった。

『あれ〜、どうしたの舞?』

 そして、聞こえてくる不思議と良く通る邪気の無い声。パタパタと小走りにロビーへと現れる小柄な人影。

『まいー、まいってば、こんな所で寝てたら他の人に迷惑だよ。もう、お母様も舞もなんで道端で寝ちゃうの〜?』

 どこからかフル回転するエンジン音と何台ものパトカーのサイレンによる重奏が聞こえてきたような気がした。




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