「佐祐理、用意できた?」
「あ、うん、ちょっと待って」

 廊下の向こうから舞が促してくる。曖昧に応え、佐祐理はもう一度腰掛けたベッドに手を当て、そっと滑らせる。
 僅かに小物の類が並ぶだけで随分と殺風景になってしまった部屋。といっても、倉田家の自室は一年前に舞と暮らし始めた時に引き払ったようなものだったから、殺風景なのは当然で……。

「……はぁ」

 三月末日。今日、倉田佐祐理は我が家を後にする。一年前も、佐祐理は舞と二人で暮らすために家を出た。ただ、その時とは少し気分が違っている。あの頃は、この家に愛着なんて何もなくて、ただ寝床としての意味しか感じていなかったように思う。弟は既に亡く、母は去り、残った父も代議士という立場上、あまり家には帰ってこない。家族のいない家。

「……ん」

 いや、今考えると父はあれでかなり無理をして自分に顔を見せていたのかもしれない。仕事柄、何ヶ月も帰宅しなくてもおかしくは無いのだから。そう思うと、今更ながら父に感謝と無性に愛しさを感じる。色々と錯誤やすれ違いがこれまであって、きっとこれからもあり続けるだろうけれど、私は父の事が好きなんだろうな、と佐祐理はその思いをはっきりとした言葉にして胸に刻んだ。
 我が家。そう、今なら確かな実感とともにそう言える。舞と暮らしていたアパートを引き払ってからの一週間、荷物の大半を英国へと送った後、向こうへ旅立つまでの僅かな期間を、佐祐理は新しい家族とこの家で過ごしてきた。
 不思議なものだ。住む人が増えるだけで、その人たちを大好きだというだけで、こんなにも家の中に差し込む光の量が違うのだから。こんなにも、ただの木と漆喰の箱に過ぎなかった家に、愛着が湧くのだから。

「佐祐理?」

 何時までも部屋から出てこない佐祐理を訝った舞が、顔を覗かせる。

「どうしたの?」
「うん、ちょっと後悔してたんだ」
「?」
「もうちょっと留学遅らせてもよかったかなって」
「どうして?」
「だって、もう少し、舞や佐奈子お母様とこの家で暮らしてみるのも楽しそうだったんだもの」

 晴れて倉田佐奈子になった舞の母と、倉田恵三の夫婦は、佐祐理が想像していたよりも遥かにさっぱりした関係のようだった。愛し合う夫婦というよりも、仲の良い友人、パートナーといった風情で。
 ただ、関係が醒めているようなことはなかった。傍から見ている此方まで楽しくなってきてしまうような明るさで繋がっている。父の表情に前よりも柔らかな笑みと余裕が垣間見えるようになったのは佐奈子という女性の人柄のお陰だろう。彼女は、佐祐理に対しても妙に母親ぶるような事もなく、かといって遠慮をするでもなく自然体で接してくる。
 舞と一緒くたに、ワシャワシャと髪の毛をかき混ぜるみたいな可愛がられ方をされるのは初めての経験で、それがどうにもくすぐったくて、でも無性に嬉しくて、楽しくて。

「佐祐理は、楽しかった?」
「うん、この一週間、あっという間だった」
「……そう」

 動きの乏しい舞の顔に、心なしか子供のような笑みが浮かんだ気がした。それを見て、彼女もまた自分と同じ気持ちだったのだと、佐祐理は感じた。同じ思いの共有。それはこんなにも心地の良いものなのか。

「さてと、何時までもぐずってられないね」
「うん……表でお母さんが待ってる」
「了解♪」

 手荷物を入れたバッグを手に取り、佐祐理は部屋を後にすると、既に手荷物は車に積んでしまっている舞に続いて玄関を潜った。
 ガレージでは白のセダンがエンジンを吹かしている。佐奈子の愛車だ。当の佐奈子は乗用車の屋根にぐったりと顎を乗せていた。昨日、皆に集まってもらって行った送別会で一番はしゃいでいたのが彼女だった。随分と飲んでいたので、二日酔いなのかもしれない。ちょっと心配である。
 母のところに小走りに駆け寄っていく舞を追いかけ、だが佐祐理は忘れ物を思い出したように立ち止まると、クルリと振り返り、小さくささやいた。

「いってきます」

 父にそう告げたことはある。家で働くお手伝いさんなどにそう挨拶したことはある。
 だが、家に向かって言ったのは初めてだった。心から口にしたのは初めてだった。

「いってきますね」

 多分、初めて帰りたいと思えるようになった我が家にそう告げて、倉田佐祐理は背を向ける。
 春風が、そっと旅立つ少女の背を押した。







「荷物全部積んだわねぇ。忘れ物はないぃ?」

 運転席のシートに腰掛けた佐奈子が、後部座席の二人の娘に確認する。

「あ、あの、佐奈子お母様」
「う〜ん?」
「大丈夫ですか?」
「……なにが〜?」
「なにがって」

 妙に間延びした口調。その何処にも普段のはきはきとした佐奈子の面影は何処にも見受けられない。
 緩慢な動作。死んだ魚のような目。死せるオフィーリアのような青褪めた顔色。眼の下のくっきり浮かんだ黒い隈。傍目には動く死体のようにも見えなくもない。
 死体は地獄から響くような声で云った。

「あは、はっは、絶好調よ〜」
「お、お母さん?」

 微妙に瞳孔が開いてるような気がしないでもない母の目を見て、舞のこめかみが引き攣った。

「だいっじょぅぅぶっ。折角の娘達の門出なんだから、二日酔いなんかでへばってられないわよ。おっしゃー……うぇっぷ」
「あ、あの佐奈子お母様、やっぱり――」

 凄絶な笑みを浮かべて佐祐理の上ずった制止を無視、というか気づきもせずに、佐奈子はシートベルトを締めてハンドブレーキをおろした。

「でわ、レッツゴー!」


 ――――ブルルゥン、ゴン、メキョメキョ、プシュー!


 白のセダンは出発して僅か3秒で左にヨレて門柱に激突し、フロント部分を豪快にへこませた挙句に蒸気を吹き上げながら停車した。

「…………」
「…………」
「…………到着!!」
「してません!!」











 川澄舞は、ちょっとだけ傾いた門柱に座り込んでスヤスヤと眠り始めてしまった佐奈子の脇に屈んで、ぼんやりと家の前を行ったり来たりしている佐祐理の姿を眺めていた。

「時間がーっ、時間がーっ」

 腕時計を見る。出発予定時刻から既に一時間が経過していた。レッカーを呼んだりと事故の後処理にばたついているうちに、こんな時間だ。まだ敷地内での激突だったお陰で警察のお世話は何とか勘弁してもらえた。外の電信柱にでもぶつけていたら、今日の出発は取りやめになっていたかもしれない。そう考えるとラッキーだったのだ、うん。

「まーにーあーわーなーいー」

 佐祐理は随分と楽しそうだ。
 舞はどんな事態でも楽しむ心を失わないというのはイイ事だと思うのであった…………現実逃避中の川澄舞。

「舞ぃ、どうしよう。搭乗手続き間に合わないよぉ」
「……なるようになる」
「そんな投げやりなぁ」

 と、云われても、空港まで車で飛ばしても一時間半。三十分程度の余裕を見ての出発時間だったのに、その猶予も三十分オーヴァーしているのだ。

「……どうにもならない」
「ふぇ、云ってることがさっきと違う〜」
「大胆な柔軟さと云って欲しい」
「そういう台詞はお父様と同じ業種の方々だけで充分です!」

 地方空港から関空に飛び、そこから国際線に乗り換えてイギリスへ、という予定だったのだが、このままだとどうやら無理らしい。

「キャンセル待ち」

 するしかないのではないか?

「でも……」

 少し沈んだ顔になる佐祐理。

「俊平さんに怒られちゃう」

 ……やれやれ。
 軽くそっぽを向いて呟く。

「大丈夫、俊平は怒らない」
「そう、かな」
「泣きそうなほど厭味を言われるだけ」
「……それは、ちょっと」

 安堵していいのか困っていいのか分からない曖昧な微笑を浮かべ、佐祐理は道の向こうを見つめる。
 そんな親友の横顔を、舞は上目に見やった。
 最近、本人がいない場合に限ってだが、佐祐理は妙に弱気だ。
 当人を前にすれば以前のように生真面目な彼を振り回し、困らせて楽しんでいる。そこに彼の顔色を伺う様子はまるでない。なのに、彼がいない場所では、自分のしてる事をさっぱり覚えていないかのように、自分の言動に対して彼がどう思うかに臆病な態度を示す。しかも、弱気になってる自覚がない。
 二重人格とまでは行かないけれど、本人でも気づいていない部分で分裂しているような気がするのだ。
 別に悪いとは云わない。そういう事じゃなくて……。

「……佐祐理」
「ん? 呼んだ?」
「……ううん」

 なんだかちょっと、悔しいような気がするだけなのだ。
 胸に微かに凝った澱を崩すように、舞は小さく、本当に小さくため息を吐いた。
 そしてギョッと身を竦める。眠り扱けてると思っていた佐奈子が、片目をパチリとあけて娘の顔をじっと見つめていた。

「うふふ」
「……なに?」
「いや、面白い顔するようになった、ってね」
「…………」
「くっくっく、可愛いなあもう」

 心なしか顔に朱を散らして、舞は顔を背けた。
 その眼が、少し見開かれる。

「来た」
「え? あ、来た来ました、タクシー!」

 街路を曲がって、タクシーが姿を見せる。
 貸切の札が見えた。佐祐理が電話で呼んだタクシーに違いないだろう。
 手を振る佐祐理とまだふらついている母親を抱き起こす舞の前へと、タクシーは心地よい駆動音を響かせて滑り込んできた。







「一時間で空港まで行けませんか!?」

 ドアを開けた途端飛び込んできた乗客の切羽詰った叫びに、だが目付きの鋭い壮年の運転手は表情一つ変えず、バックミラー越しに問い返した。

「お急ぎか?」
「はい! 物凄く!! お願いします!」

 その剣幕に軽く数秒黙考した運転手は、渋みのある落ち着き払った声で静かに、だが断固とした口調で告げた。

「45分でお届けしよう」
「本当ですか!?」
「問題ない」

 ちなみに、通常は空港まで一時間半掛かる。
 
 佐祐理は跳ねるように車内に突っ込んでいた上半身を引っこ抜くと、満面に喜色を浮かべて、トランクに荷物を詰め込んでいた舞に万歳三唱。

「舞っ、間に合うって!」
「……え?」

 物理的に在りえない台詞の内容にポカンとする舞を後部座席に引き摺り込み、まだグロッキー状態の義母を蹴飛ばすように押し込め、佐祐理は助手席へと飛び乗った。

「では、お願いします!!」
「……え?」
「う、あえ? なに? どうし――」
「了解した。飛ばすので何処かに掴っているように」
「と、飛ばすってってってえええええええええ」
「――――ッッッッ!!?」
「あはーーーっ!」

 ギュルルルルと今まで乗用車に乗って聞いたことの無いような音が足元から聞こえたかと思った瞬間、突然急激なGが舞と佐奈子を座席へと押し付けた。

「ひょえええええええ!」
「――っ! ――っ! ――っ!」
「あははーーーっ!」

 在りえない速度で後方へと流れていく近所の景色。
 法定速度を軽く三倍ほど無視して、タクシーは三者三様の歓声を残しながら、倉田家の門前から走り去っていった。



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