HRが終わってすぐの放課後にも似た喧騒が学校を取り巻いている。だが、そこにある雰囲気は決定的に違う。熱に浮かされたような、物悲しいような、祭が終わる間際の空気が騒いでいる生徒たちの間に流れていた。
 笑っている者がいる。泣いて友人の肩に縋りついている者もいる。誰も彼もが名残惜しげで、それでいてもう既にここには居場所がない事を知っている。
 やがて否が応にも立ち去らねばならない事を知りながら、それでも生徒として最後の時間を惜しんでいるのだ。


 まあ、そんな感慨に浸る余裕も無い人も居たりするのだが。


「冗談じゃないわよ、もう最悪ッ」

 と、その筆頭格であろう美坂香里が、机に突っ伏して呻いている。
 彼女の目が潤んでいる理由も、他のクラスメイトとはだいぶかけ離れているようで。
「目を覚ましたら卒業式終わってたなんて、あり!?」

 まあ、そういう訳である。
 さもありなん。


 遅刻してきた名雪と頭部同士を衝突させて気絶してしまった香里。ようやく意識を取り戻し、突然途切れている記憶に混乱しながらキョロキョロと辺りを見回した彼女が見たものは、普段の授業時と同じようにぽややんとした顔で卒業証書を生徒達に渡している担任の石橋だったのだから。
 しかも、石橋は状況が理解できずに茫然としている香里の前まで来ると。

「ああ、やっと起きたか。はいこれ、美坂の分な。卒業おめでとさん」

 と、宿題のプリントでも渡すみたいな調子で卒業証書の入った筒を置いて教壇へと戻っていった。
 薄情な教師である。

「え? あれ? 式は?」

 それでも理解を拒んでいた香里に、証書を渡され自分の席に戻る途中のクラスメイトがにこやかに一言。

「もう済んだわよ」
「…………え゛」

 固まる香里に、そのクラスメイトは一片の曇りも無い笑顔のままポムと肩を叩いて邪気無くこう述べると、去っていった。

「よく熟睡してたわよ〜」

 普通は気絶と言う。

 クラスメイトも薄情であった。



 結局、香里が真っ白になってる間に最後のHRも終わり、解散。そんな訳で、皆が別れを名残惜しんで談笑している最中、独り香里だけがへこみまくっているのである。聞けば気絶したまま担ぎ上げられて卒業式場へと入場したのだとか。まあ、あれだけの醜態を学校外の父兄にまで晒してしまえば、落ちこむのも仕方あるまい。

「別に、美坂そんなにヘコむ事ないじゃん。どうせ起きてても退屈なだけなんだし」
「そうだよ、途中から寝るか最初から寝るかの違いだけだよ」

 全然落ちこんでないのも二人いたが。

「誰の所為だと思ってるのよ、まったく」

 ぱんつ見られたのを思いだし、顔を上げていられなくなってまたも突っ伏する。
 少し顔をずらし、恨めしげに見上げながら愚痴る。

「だいたい……あんたたち、もうちょっと感傷みたいなものは無いわけ?」
「わたし、もう涙でぐしょぐしょだよ〜」
「それは欠伸でしょうが」
「そうとも言うね」

 はわわ〜と大きくあけた口を手で隠し、ハンカチで目元を拭う名雪。一見すれば、口元を抑えて涙を堪えている構図にも見えないことはない。

「俺はそんなに感傷とかないかな」

 机に腰掛け、足をぶらつかせながら北川が笑う。

「どうやら進学しても美坂チームは健在しそうだし」
「一緒の大学だもんね、みんな」
「単に地元に残るんだったらあそこしかなかっただけでしょ」
「あそこしかなかったってほど悪い所じゃないだろう」
「そりゃあ、ね」

 北物見帝国大学――この街から数駅ほど電車を乗り継いだ場所にある、佐祐理や舞たちが進学した学校だ。
 この地方でもかなり規模として大きい大学であり、わざわざ無理をして帝都や関西に出なくてもいいだけの有益な勉学を修められる学校であるのは確かだ。様々な理由から入院手術などの費用の大半が控除されていたとはいえ、長年の栞の病は確実に美坂家の家計を圧迫していた。なるべくなら地元を選ぶ方が良かったし、香里としても無理をして上京したりするほどの魅力も理由も見出せなかった。となれば、北物見に不満などあるはずもない。

「卒業、か。貴方たちはそう言うけど、でも、あたしは結構感慨…あるのよね」

 香里は頬杖をついて、教室の匂いを記憶に焼き付ける。
 もしかしたら……いや、かなり高い確率で自分はこの学校を卒業する前に去っていたのだと香里は思っている。栞が死病に冒されていると知った時から、心の何処かでずっと自分がここに居る事に耐えられないだろうと思っていたから。勿論それは感傷で、もし本当に栞が亡くなっていたとしても、本当にこの学校を去っていたかどうかは正直分からないけれど。
 だが、兎にも角にも我が妹はしぶとくも死の淵から這い上がり、元気に(留年したけれど)この学校へと通っている。そして、自分は結局最後までこの学校に通いとおしてしまったわけだ。寂しさよりも何よりも、今は不思議さに戸惑いすら感じている。
 それが美坂香里の卒業への感慨。

「感慨かぁ」

 目を閉じて五感で学校を感じているかのような香里の姿に、名雪も目を閉じて思い描いてみる。一部の独自な進路へと進んだ人は別として、仲の良かった友達の多くが同じ大学に進むので、それほど別れの寂しさと言うものは感じない。だが、この学校と言う空間で同じ時を過ごす事がないのだと思うと、名雪はやはり胸が詰まるのだ。
 学校と言うそれ自体にはそもそも何の意味もない場所に実感を与えてくれるのは、時間や空間の『共有』だ。卒業は、その『共有』の終了を意味する。もはや二度と戻らぬ時の区切り。ここにいる人たちと同じ授業を受けることはもう無く、自分がこの学校の運動場でウェアに身を包んで陸上のタイムを競う事もない。
 恋人とお弁当を突付き合う事も無く、いつもの4人でAランチを食べる事もなく、この学校からの帰りにゲームセンターで遊んだり、イチゴサンデーを食べる事もないのだ。
 そう考えると、数え切れないくらいの何かがこの日を境に失われる事に気付かされる。
 それはつまりお別れで、やはり別れは寂しいことなのだと名雪は思う。

「幾ら楽しくても、いつかは終わっちゃうんだね」
「あたしたちが生きてる世界は、そういう世界ですからね」

 でも、と言いかけた香里の台詞を取るように、北川が能天気に続けた。

「なに、終わらないものもあるさ。変わらないもんもな。新しく出会えるものも……って、ドラマなんかじゃこう言うんだろ?」
「今時ドラマでもそんなクサい台詞使わないよ〜」
「ありゃま、そうですか」
「栞が好きそうな台詞ではあるけどね」

 肌が痒くなっちゃうわ、と香里はクスリと笑った。

「よう、お三方。そろそろ俺、先に失礼するわ」

 他のクラスメイトと喋っていた斉藤が、鞄を肩に引っ掛け、香里たちに声を掛ける。

「あれ? もう帰るのか?」
「うん、ちょっとな」
「そっか。んじゃまた電話するわ」
「おうよ。あーっと相沢はまだ生徒会室なの?」
「うん、まだ後始末が残ってるみたい」

 そっかーと残念そうに頷き、それじゃと斉藤は右手をあげて教室を出ていった。

「斉藤君って、映像関係の専門学校なんだよね」
「そうなの?」
「あいつ、映画か演劇業界が志望だからな。映研だったし、文化祭の時も監督で張りきってただろ? 凄いよなあ、実際そっちに行っちゃうんだもん」

 香里が仰ぎ見た北川の横顔は、何処か眩しげで。

「北川君も将来は文筆家、とか思ってるわけ?」
「は? なっ、なんで?」
「だって……」

 香里の言葉を遮るように名雪がハシッと両手を合わせる。

「そう言えば北川君も文化祭の時、シナリオ書いてたもんね」
「そりゃ…他に書くやつがいなかっただけで――別に」
「じゃあ、あの部屋にあったのは何なのかしら?」

 瞬間、背後を取られた忍者のように跳びあがり、一瞬にして並ぶ机をなぎ倒しながら3m近くも跳び退る北川。

「なっ、ななな」

 顔色を赤から黒まで色彩鮮やかに点滅させながら、腰を引かした北川は冷や汗を垂らしつつ引きつった笑顔を浮かべた。

「みさ、美坂、もももしかして、見た?」
「見たわ」

 完膚なきまでに言い切られ、「ぎゃぁぁぁぁ!!」と断末魔の悲鳴を上げて七転八倒する北川君。

「え? え? それって何の事?」
「えっとね」
「うわぁぁぁぁ、タンマ、ちょっと待って、お願い、美坂様、プリーズ」

 恥も外聞も無く懇願してくる北川に、香里は「ちょ、離れなさい、わかった、わかったから」と顔を赤らめながら、しがみついてくる北川の顔を押しのけた。

「えーっ、香里、教えてよ〜」
「し、仕方ないでしょ。これだけ恥ずかしがってるんだから」

 これまた縋りついておねだりしてくる名雪を振り払いながらコホンと咳払いして、がっくりと膝を着いて笑ってしまうほど赤くなった顔を覆い「あたしもうお婿にいけないッ」と悶えているを横目で見て、ボソリと言う。

「それに、折角握った弱みなんだから有効に使わないと」
「……香里、お主も悪よのう」
「女はそうやって強く生きていくものなのよ。あんたもそうでしょうが、名雪さん」
「まあ……嗜みだね」
「お前ら、あんまりおっかない事ばっかり言ってると、俺達マジ泣くぞ、こら」
「あっ、祐一」

 何時の間にか戻ってきていた祐一が、二人の会話を聞いていたのか、首を竦めながらかったるそうに歩いてくる。

「用事終わったの?」

 終わった終わったと祐一は億劫そうに両手を挙げる。

「そもそも用事っつーか、天野に説教されてたんだけどな。まあ、やっと解放された。あっ、そうだ。下に秋子さん見かけたぞ。それと香里んとこのお袋さんと栞も居た。栞もなあ、折角学校休みなんだから遊んでればいいのに」
「この後、みんなで買い物に行く予定なのよ。その後、お父さんと合流して晩御飯は外食ってね。うちはなかなか家族揃って出かける暇がないから」
「ほう、そうなんだ」
「まあ、一度帰って着替えないといけないけど」

 紫紺の袴を摘み上げ、「これ、着替えるの面倒なのよね」と小さく愚痴った香里は、表情を切り替え、「さて」と椅子から立ち上がった。

「それじゃあ、そろそろ下に降りる?」
「だな」
「そうだね。ほら、北川君」
「あうあう」

 まだ悶えている北川の背中を名雪が揺り、引っ張り起こした。





「うちは外食とかしないね」
「秋子さんが料理作るの好きだからなあ」
「偶には休んで外で食べようって発想にならないんだね、きっと」
「これで料理が不味かったら、お前らも大変なんだろうけどな」
「美味しいんだものね。はっきり言って羨ましいわ」

 昇降口へと向かいながらさして普段と変わりの無いお喋りに興じていた四人。
 上履きから靴に履き返る段になって、香里が「ああ、そうだった」と声をあげた。

「北川君、この後暇? お父さんから、あなたも誘えって言われてるんだけど」
「あっ、そうなの? いや、ありがたいんだけど――」
「なんだ、遠慮するなよ。縮緬雑魚とタクアンくらい好きなだけ食べていいんだぜ」
「誘っておいてそんなものしか食べさせないわけないでしょ!!」
「ぐはっ」

 ポカリと祐一の後頭部を叩き、プラプラと手首を振りながら顔を向ける。

「なにか用事でもあるの?」
「いや、うちも家族が来てるんだ。だから、な」

 と、北川は照れたように笑う。

「あれ? 北川君のご両親って確か……」
「ああ、伯父さんと伯母さんなんだけど」
「え? 功刀さん、来てるの?」

 驚いて立ち止まった香里に、知ってるの? と小首を傾げる名雪。
 香里は複雑な笑みを浮かべて首をすくめると、「若くて美人よ」と笑った。
 それを聞いて、興味津々に目を輝かせる輩が一人。

「若くて美人なおばさんか。秋子さんとどっちが美人だ?」
「相沢、お前なあ」
「そもそもタイプが違うわよ」

 呆れた様子の北川たちに、名雪が不思議そうに目を瞬く。

「タイプって?」
「そうね……百聞は一見に如かずじゃないかしら?」

 会ったら分かるわよ。そう言って、香里は先に立ち校舎の外に出る。
 正門前のエントランスでは、生徒たちのグループに加えて親同士のグループも点在しており、随分と賑やかだ。

「うわっ、ごちゃごちゃだな」

 混雑振りに北川が根を上げる。
丁度教室で喋っていた生徒たちが外に出る混雑のピークと重なったらしい。待っていればすぐに人込みは減るだろうが、これでは誰かを探すのは難しいだろう。
 香里が少し中庭の方に退避しようかと提案しようとした瞬間、にゅっと伸びてきた手が、むんずと北川の跳ね毛を掴んだ。

「みっけた〜、そして捕獲や」
「あだ、あだだだだだっ!」

 そのまま面白半分に引っこ抜こうとされては、さすがの北川もたまらない。
 引っ張られるまま爪先立ちになり、半分泣きそうになりながら悲鳴を上げた。

「わー、ダメだよ、それ抜いちゃうと北川君が真っ直ぐに歩けなくなっちゃう!」
「あはははは、それで狭いところを通れなくなるわけか。それは是非見てみたいぞ」
「……あんたたち。馬鹿ばかり言ってると真性の馬鹿になるわよ」

 やれやれとばかりに腰に手を当て首を振る香里。
 だが北川からすれば、美坂も暢気に論評してないで止めてくれ、てなもんだ。

「こら、なにをやっとるんか、ドアホ」
「あぎゃっ」

 ゴチンとイイ音が鳴り、ようやく解放された北川はよろめきながらつんのめる。
 頭を抑えながら振りかえれば、案の状知った顔が頭を抱えて蹲っており、その後ろでは拳骨を固めた巌のような初老の男性がへの字を結んでいた。

「あたたた、抜けるかと思った。おっちゃん、サンキュ」

 癖ッ毛の根元を抑えながら感謝の念を表す北川。だが、目を白黒させて唸っている背後の人を見て、一筋汗を垂らして思わず男に訴える。

「あーでも、あんまり叩きすぎない方がいいと思うんだけど。いい加減、ヤバそう。頭の形、変わってくるんじゃないか?」

 呼ばれ、男の顔がにんまりと和らぐ。そうすると強面が見るからに人の良さそうな顔へと変わり、祐一達にもそれが北川の親族なのだと分かった。余り似てない顔立ちなのだが、妙に笑った顔がそっくりなのだ。

「この程度で凹むかいな、この頑丈な女が。しかし潤坊、お前……羽織袴全然似合わんなあ」

 カカカと大笑し、彼は祐一たちに向き直ると丁寧に頭を下げた。

「潤のお友達さんですな。伯父の北川です。うちの甥っ子がお世話になっとります」
「あ、いや、それほどでも。大変お世話してます」

 男の貫禄に圧倒されていた祐一は慌ててペコペコと頭を下げ、コソコソと北川に耳打ちした。

(す、凄いな。お前、ヤクザの甥っ子だったのか)
「……相沢、お前な、アホな事言ってるとしょっ引かれるぞ」
「なに?」
「北川君の伯父さま、確か警察の人よ」
「……げっ」

 香里に囁かれ、見るからに逃げ腰になる祐一。なんぞ、疚しいことでもあるのだろうか。

「あたたた、叩かれ過ぎて最近ボケが進行してきた感じがする」
「安心せい。お前は会ったときから既にボケてた」
「それもそうやなぁ」

 納得するなよと皆が思う中、のんびりと、蹲っていた彼女が立ち上がる。
 さっきは丁度北川が壁になって、跳ねっ毛を掴んで遊んでいたその人物を良く見ていなかった祐一と名雪は目を丸くした。
 紺色のパンツスーツを着こなした女性。しかも、脚がスラリと長く背も女性としてはかなり高い。やや赤茶けた色をした髪を高い位置で結んでおり、一見すると時代劇に出てくるような男装した女サムライのような印象。加えて鋭角で構成された顔貌はかなり整っており、誰が見ても美人だと評するだろう造作だった。
 だが、それはどうしようもなくただの第一印象。一秒経過する事に、最初のイメージが崩れ去っていく。何故ならば、とにかく草臥れているのだ、雰囲気が。
 トロンと覇気の無い目つきに、起伏の乏しい表情。やる気の無い仕草に、だらしの無い立ち姿勢。そして、気怠げに口端に挟まれた萎びた煙草。
 凛然としている、などと最初に思ってしまったのが恥ずかしくなってしまうくらいにかったるそうであった。
 なるほど、これは確かに水瀬秋子とはタイプが違うと大いに納得する名雪と祐一。
 柔らかさを帯びた容姿と雰囲気を見せながら、その実、内面にはかなりキリッと締まったものを持つ秋子と目の前の女性は、同じ若若しくて美人と括るべき人材ながら、確かにタイプが違うとしか言いようが無い。
 その自堕落美人はいまいち焦点の合っていない目で順繰りに甥っ子の同級生を見回し、香里に辿り着いたところでパチパチと目を瞬いた。

「あ、綺麗な方や。おひさ」
「うっ、功刀さん。その区別の仕方はちょっと」

 笑っているのかいないのかよく分かり難い薄っぺらい表情で手を振られ、香里の顔が引き攣る。

「なんや、功刀。知ってる子か?」
「前に話したやん。潤が二股かけてる姉妹のお姉さん」
「ちょっと待てぇッ! 二股なんか掛けてない!」
「違います!!」

 平然と無茶苦茶言う功刀に、北川と香里が悲鳴を上げる。

「……内緒やったっけ?」
「そもそも事実と違うって言ってるの!」
「ごめんな、悪気はなかってん」
「人の話を聞いてくださいッ!」

 わかったわかったと頷き、だるそうに振り返った功刀は良人に言った。

「本人たちもこう言ってるんやし、此処は二人を信頼して今だけは目を瞑ったってぇな」

 完膚なきまでに聞く耳持たない功刀であった。

「うぎゃぁぁ、おっちゃん、あんたも旦那ならこの人ちゃんと教育してくれよぉ!」
「……無茶言うなや」
「……薄笑い浮かべて遠いところ見ながらそんな事言わないでください、北川君の伯父様。お願いですから」

 なにやら挫折しそうな香里であった。

「北川もいろいろ苦労してるんだな」
「祐一、そこはかとなくうれしそうだね」
「同じ身内に悩まされる仲間を発見したんだから嬉しいに決まってるじゃないか」
「わたし、お母さんがお母さんで良かった」

 最近以前とはいささか違うニュアンスで、そんな風に思うことの多い名雪であった。






「ほいでな、おっちゃん何時功刀ちゃんと離婚するの? って聞いてくんねん。別に目の前で喧嘩とかしてへんねんで」
「ぽかぽか私の頭叩いてたやん」
「それはそれやがな。んで、なんで離婚せなあかんねや? って訊いたらこのマセ餓鬼、まだ小学校上がったばっかりや言うのにえらい真面目な顔しくさって、おっちゃんが別れてくれないと、ボクがちゅーがくせーになった時に結婚できないじゃないか、この中年親父! ってめっちゃ叱りおんねん。なんで中年親父! なんて言われなあかんねんちう話や。その前に中学生じゃまだ結婚できへん、言うに、聞かへん聞かへん」
「……北川君、功刀さんが初恋だったのねぇ、ふぅん」
「モテモテやってん」
「あはははははははははっ、恥ずかしいなあ、おい。僕、ちゅーがくせいになったらけっこんするぅ」
「北川君、かわいい〜」
「にゃぁぁぁぁ、やめれぇぇぇ!」

 次々と連発で炸裂する北川伯父による北川潤の面白可笑しい暴露話の絨毯爆撃。
 そこに情状酌量やら武士の情けなどという言葉はかけらも見当たらず、肉親ならではの残酷さを存分に発揮しながら、軽妙な話術と合わせて玉葱の皮を剥くように北川の恥ずかしい過去が無残に晒されていく。
 そろそろいい加減北川の精神面が再起不能になりそうになった頃、

「あっ、お母さん」

 視界の端に母親の姿を見つけ、名雪が大声を張り上げながら長い袖をはためかせながら手を振った。
 その声が聞こえたのだろう。別の方向へと歩いていた水瀬秋子が、此方を振り返り、少し安堵したような微笑を見せて歩いてくる。ハンドバッグを片手に品の良い薄桃色を基調としたスーツ姿の叔母の姿は祐一も初めて見るもので、こうして見ると何処となく良い所のお嬢さんに見えなくもない。同じような容姿でどうしてこうも違うかな、と祐一は自分の母を思い出しいささかゲンナリとしたものを覚えた。きっと自分の母が同じものを着ても、どこか場違いで周囲から浮き上がってしまうだろう。実際、三者面談や授業参観の時などそうだったし。

「香里ちゃん、北川さん。ご卒業おめでとう」

 開口一番、まず二人に祝辞を送る秋子。改まった挨拶に死に掛けていた北川は少々慌てて、香里の方は落ち着いたもので頭を下げる。

「それで……」
「ああ、こっちはオレの伯父と伯母なんです。今日、わざわざ大坂の方から来てくれたんすよ。別に来なくても良かったのに。ってか来るな、そして喋るな!」
「来ない訳にはいかんやろ。況してや喋らんわけにはいかんやろう」
「おい、おっちゃん」

 青筋立てて微笑む甥を無視して、哲平は秋子に頭を下げた。

「私は北川哲平と申します、こっちは私の妻で」
「……功刀です」
「まあ、これはご丁寧に。水瀬秋子です」

 と、此処から今学校各所で見受けられるような親同士の会話へと入っていく。

 いつも潤がお世話になっていたみたいで、ホンマにすみません。いえいえ、此方こそ甥子さんには色々と助けてもらう事も。こいつもいらん事しいやから、えらい迷惑ばっかり掛けとるちゃいますか? まさか、とんでもないですよ。とってもいい子で――。

 秋子たちが子供たちの介在する余地の無い会話へと終始し出したのを見計らって、子供たちは少しだけ間を空けて自分たちの御喋りに興じ始める。ここらへんは何時の時代、どの場所でも見受けられる光景だ。



「まあ保護者言うても碌に何もしてやれてないですからなあ。せめて卒業式ぐらいには顔出さんとと思いまして。本人にしたら迷惑なんでしょうが、あははは」
「そんな事はないでしょう。さっきの潤君は嬉しそうに見えましたよ」
「ははっ、そうですか?」
「あの、ところで……」

 自嘲と照れが混じった笑みを浮かべる哲平の後ろで、手持ち無沙汰にしている功刀に秋子は向き直った。
 積極的な社交性などまるで無い功刀は、端から会話を夫に押し付けて傍観を決め込んでいたのだが、直接話しかけられては対応しない訳にはいかない。結婚する以前に哲平の住処に転がり込んで以来、その程度の躾はされていた。
 それでもあまりやる気の見られない態度で「なんでしょうか」という類の台詞を喋ると、秋子はしばらくマジマジと功刀の顔を見つめて言った。

「クヌギさん、と仰られましたよね?」
「はぁ」
「あの、失礼ですけど、ご結婚なさる以前は九十九埼、という苗字ではありませんでしたか?」
「――っ!?」

 と、驚いたような顔をしたのは哲平の方で、当の功刀はといえば眠そうな目をパチパチと瞬くばかりであまり反応は無い。

「えーっと、何処かでお会いしましたっけ? すんません、あんまり人の顔とか覚えられへん方なんで」

 暢気と言えば暢気な台詞に、秋子は思わずと言った風に肩を震わせて笑った。

「その惚けた反応、やっぱり功刀ちゃんだわ。そういう所は変わってないんですね。私のこと、覚えていませんか? もう十九年も前になってしまいますけど」
「十九年前?」

 十九年前と言えば、功刀はまだ十四歳。哲平とも知り合う前だ。その頃はと言えば壊滅的に対人能力が欠けていた時期だから、知り合いなど今でも親友をやってくれている郁浪菰乃(旧姓:瀧斑)くらいで……。あ、いや、十九年前は確かあのとんでもなく大変だった事件があった年だから――

「あの頃はまだ、神室姓だったんですけれど」

 ガキリ、と錆付いた功刀の記憶回路が繋がった。

「思い出した。カレーちゃうのになんでかめっちゃ辛いビーフシチュー、作ってくれはったおねーさんや!」
「あうっ」

 想像だにしない方向からの一撃に、思わずよろめく秋子であった。




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