「まったく、あの子達ときたら」

 晴れがましさの欠片も無く、苛立たしげにぶつくさと独りごちているのは美坂香里。
 その衣装は普段のワンピースの制服姿ではなく、大正の風雅香しい紫紺の袴姿だ。

「なんで、最後の最後に遅刻するのよ!」

 毒づく香里。
 それもそのはず。そろそろ教室を出て卒業式の行われる講堂へと向かわなければならない時間だと言うのに、教室には相沢祐一と水瀬名雪の姿は見当たらない。完全に遅刻だった。

「さて、どうしようか。どうしたらいいと思う?」
「石橋先生、どうしてあたしの方を見て言うんですか、そんな事」

 壮年のどこか暢気そうな教師はぽややんと言った。

「チームのメンバーの管理はちゃんとリーダーがしておいてくれんとなぁ」

 そうだそうだ、と担任に同調してブーイングを撒き散らすクラスメイトに、ポニーに括った香里の頭からブチッと何かが切れる音が響く。

「だから、勝手に美坂チームなんて名前つけて、人の事リーダーなんかに祭り上げるんじゃないわよ、あんたたち!」
「うわぁぁ、美坂さんが暴れ出したぞ!」
「最後の最後に積もり積もった鬱憤が破裂したのよ!」
「でも、香里ってそんなに鬱憤溜めてたかしら。会長の天野ちゃんならともかく」
「じゃあ、今日は生理なんじゃないの? それとも週に一度のアバレタイムとか。それとも今日が最後だから本性を露わにしたとか」
「そこ、黙りなさいっ!!」
「きゃぁぁー」
「うあぁぁ」

 大騒ぎ。

「おい、北川っ、お前、美坂係だろ! はやく止めろ」
「こら、斉藤。誰が美坂係だ、誰が」

 文句を言いながらも仕方ねぇなぁと、美坂タイフーンの中心へと平然と近づいていく北川。
 羽織袴姿で裾に手を隠してヒョコヒョコと歩いていく姿は、どこぞの遊び人のようにしか見えない。
 去年、香里が羽織袴は彼には似合わないと評していたが、在る意味似合っていると言ってもいいのかもしれない。卒業式に似合うかといえば首を傾げざるを得ないのだが。

「おい、美坂。ちょっと落ちつけって」
「なによ!」
「あひゃ」

 軽く肩を押さえようとした北川だったが、過剰反応した香里が勢い良く振りかえった拍子にポニーに結った髪の毛がピシャンと北川の顔面に炸裂した。鞭の如くしなった髪は丁度北川の目に直撃し、痛みと驚きで北川はよろめき自分の袴を踏みつけた。

「わったった」

 当然のようにバランスを崩す北川。アタフタと掴まるものを探す手が、丁度目の前にあったものを握り締めた。
 そして、シュルシュルと綺麗に解かれる香里の袴の紐。
 ベチャンと倒れた北川の後頭部にフワリと上から布が舞い降りる。アイタタとぶつけた鼻面を擦りながら、北川は頭に被さった布を除けて身体を起こした。

「なんだ、これ?」

 パチパチと膝の上に乗っている紫紺の布を見て目を瞬く。ふと気付くと、周囲は奇妙なほどの静けさに包まれていた。さながら空気が凍りついたような。どうしたんだと顔を上げた北川は、この妙な空気の理由にようやく気がついた。
 何となく諦観を覚えつつにこやかにのたまう。

「ああ、それってちゃんとパンツ履いてるんだ」

 香里は無言のまま足元に落ちた袴を引き上げると、手馴れた手付きで紐を結びなおした。
 そのまま、香里はむんずと北川の襟元を掴むと、乾いた笑顔で何か言おうとした北川の顔面に、無言のまま涙目で拳を叩きこんだ。
 仰向けにぶっ倒れる北川。ハッと周囲のクラスメイトたちが我に返った時にはすでに香里は倒れた北川の上に圧し掛かってマウントポディションを取っており、無言のまま作業のように拳を叩き込み続けていた。

「うあぁぁ、美坂さん、ストップストップ!」
「北川君が死んじゃう!」
「か、香里怖いぃぃ」
「せ、先生、止めてください」
「さて、いい加減相沢と水瀬を待ってるわけにもいかないな。みんな、そろそろ行くぞ」
「ああっ、石橋のやつ、現実逃避してやがるっ!」

 幸い上衣は丈が長いのと幾重にも重ね着してあるため、アングル的に下まで見えたのは真下に居た北川だけなのだが、どうやら何も耳には入らないらしく、クラスメイトが言っても何の反応も無い。既に北川が悲鳴すらも上げなくなってしまっているのにも気がつかない。ただ、無言涙目のまま機械的に反復作業を続けている。
 羽交い締めにして止めようとするクラスメイトを振り払い、あくまで北川を抹殺し様とし続ける香里。北川の命を救ったのは一匹の猫だった。
 かすかに開いた引き戸から入ってきた一匹のブチ猫が、いきなり香里めがけて掛けだし、何を思ったか――

「にゃー」

 ヒラリと飛翔するや、

「うにゃ」

 香里の顔へとベチャリとしがみつく。
 それと当時に、ガラピシャン! と叩き壊さん勢いで開かれる引き戸。現れたるは、血走った目で仁王立つ紫紺の袴姿の乙女水瀬名雪18歳。

「ぴろさん、見つけたぁぁぁ!」

 その血眼が香里の顔にしがみつく猫を捉えるや、陸上部で鍛えたそのダッシュ力を如何無く発揮して、猫へと飛びかかった。
 それを見計らったかのように、ヒラリと香里の鼻面を後ろ足で蹴って前転の要領で香里の頭を飛び越える猫。

 ――――ゴキン

 着地の音もさせずに教室の床に猫が降り立ったと同時に、凄まじく堅い激突音が轟くのであった。



「はっひっはっはっ、ふー、いるいる。間に合ったかぁ」

 少し遅れて、息せき切って相沢祐一が現れる。その足元を、悠然と尻尾を左右に振りながらピロシキが通りぬけていく。

「ぴろ、サンキュ。お前が名雪引っ張ってくれたお陰でなんとか間に合った」
「うにゃ」

 ピンと尻尾を立て一声鳴くと、一匹の猫は威風堂々と立ち去っていった。

「あの猫、なんかこっちの話分かってるみたいだな」

 普段はそんな素振りを見せないのだが、時折こんな風に言葉を理解しているみたいな行動を示すのだ、あの猫は。

「さてと……で、何事だ、こりゃ」

 何と言い訳しようかと考えながら教室に入った祐一は、内部の惨状にあんぐりと口を開いた。
 名状し難い有り様で大の字にひっくり返っている北川と、その上で額に赤い痕を残して折り重なって目を回している香里と名雪。そして、周囲を囲みながら異様な沈黙を守っているクラスメイトと「やぁ、やっと来たな」と丸で何事も起こってないかのように言う石橋教諭。
 一体、俺が到着するまでの間に何が……。

「……相沢、頼むから最後の最後まで騒ぎを起こすのはやめてくれ」
「お、俺か? 俺が悪いのか? 俺なのか?」

 心労が濃く浮き出た斉藤に肩を叩かれ、祐一は混乱した。

「さて、全員揃ったな。じゃあ、みんな講堂に行くぞ」
「先生、この三人はどうするんですか?」
「誰か運んでやれ。椅子に座らせておけば、寝てても起きてても大して変わらんだろう」

 教師とは思えない言い草の石橋の台詞に、それもそうかと香里と北川を担ぎ上げるクラスメイトたち。

「おい、相沢。水瀬はお前が運べよな」
「あ、おう。って、そいつら保健室に連れて行かなくていいのかよ!?」
「なんで?」

 特殊メイクさながらの顔になってる北川と、口を半開きにして白目を剥いている香里はクラスメイトたちによってマネキン人形のように運び去られていった。
 ぽつねんと独り教室に残される祐一。

「……時々この学校って不条理だ」

 何だか寂しそうに呟いて、気絶している名雪を抱え上げて皆の後を追う祐一であった。







 その十五分後、卒業生入場の際に一部のクラスで数名ほどが背負われたり担がれたりしながら入場するという光景が見られたが、一部の来賓と父兄に混乱が見られた程度で、式は恙無く開始されるのであった。





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