「疲れたぁ」

 疲労困憊。
 今の状態は控えめに言ってもそんな感じ。
 北川薫は列車のドアに身体を預けながら、深々と息をついた。
 けど、まあ。
 悪い気分じゃない疲労感。

「おばさん、容赦なかったもんな」

 思い返し、薫は苦笑めいた一言を漏らす。

 早朝の出来事は、二人だけの秘密。
 と、そうは問屋が卸さなかった。
 何しろ、二人とも擦り傷塗れ、土塗れ。何かあったのかと問い詰められるのは当然といえば当然の流れ。下手に誤魔化して何もなかったとするには無理が有りすぎるので、早く目が覚めたので二人して展望台に散歩に行ったんだけれど、柵が壊れて危うく落ちそうになって派手にスッ転んだ。とりあえずそういう話にした。さすがに本当に落ちたのだと言ってしまうと話がややこしくなってしまうので、それは伏せておいたけど。
 展望台を管理していた旅館側は、柵が老朽化していたのを認識していながら放置していたらしく、平謝り。
 幾らか包んで渡そうとしていたようだったが、美坂のおじさんおばさんは丁寧に断っていた。ちょっと尊敬した。何しろうちの功刀だったら、絶対「えへへへ」とか笑いながら「くれる、のなら遠慮なくいただきます、ごちそうさま」とか言って貰ってそうだし。
 代わりといっては何なのだろうが、朝食は度肝を抜かれるほど豪華で、食べたこともないデザートもたくさん着いていた。旅館側も何も無しで送り出すわけには行かなかったらしい。
 尤も、栞は「なんでアイスがないんでしょう、うむむ」と不満そうに唸っていたけれど。
 勿論、薫には文句があるはずもなく、ありがたく頂いたのであった。

 朝食を終えた後、薫たちは旅館をチェックアウトし、一路神戸へと向かった。目的はまあ旅行で来たのだから、当然のように観光。薫の疲労困憊の原因は、まあここからだ。

 徹底的だった。
 そりゃもう好きだった男を初めてデートに誘えた女の子のように徹底的に引っ張りまわしてくれた。
 容赦の欠片もなかった。
 例えるなら、独り除け者にされたおじさんに、物凄い目で睨まれるくらいに。
 ありゃ、いつか排除しなければならない敵を見る目だった。かなり怖かった。物事に動じなさそうな物腰をしている癖に、なにげに大人げのないところのある人だと思う。
 ともかく、おじさんにそんな目で睨まれるくらいに、沙織おばさんに構われっぱなしの一日だった。実のところ、薫は同年代の女の子よりおばさんの方が扱い慣れている。あまり自慢できない人生模様だが。
 ともかくそんな訳で、けっこう薫としては楽しく過ごせた一日だった。疲れたのは疲れたけれど、あくまで純粋に肉体的なもので、精神的には負担もなく。いや、確かに肉体的には疲労困憊させられるまで疲れさせられたのだけれど。
 あのおばさん、栞の母親とは思えないくらい体力有り余ってるし。

 ちなみに栞は潤ちゃんにべったり。ぎゃーぎゃーうるさいのに絡まれなかったので清々した。あれに付きまとわれてたら、精神的にもへたばっていただろう。
 それにしても栞のやつ、ああも露骨に自分と話す時と態度が違うのはどうかと思う。まるで可愛らしい女の子みたいに潤ちゃんに甘えっ放しで…………。

「……擬態や」

 普段の凶暴さとのギャップに眩暈がする。
 化けすぎ。これだから女は嫌だ。わけわかんねえ。

「……はぁ、オレの目も節穴やよなあ」

 北川薫は深い自嘲と共に、ドア横の手すりにコツンと頭をぶつけた。

 あの噴水の前で、あいつを偶然見かけたとき。
 ベンチに腰掛け、険しい顔で地面を睨みつけているあいつを。
 まったく、一体全体どうしてまた。
 すっげー綺麗な女性(ひと)だ、なんて思ってしまったのか。

 写真で見たときとはまるで違う印象に思えたのだ。
 険しい面差しは思慮深く知的さが抑え切れずに滲み出しているように見え、揺るがない視線は森のような静けさと泰然さ、意思の強さを垣間見たような気がした。
 これまで自分が知っていた女性という生物は全部紛い物で、この人こそが本物の女の人なんだとさえ思った。

 アホである。

 よくもまあ、そこまで見当違いに血迷ったものだ。気が違ってたに違いない。あの瞬間の自分の脳みそを刳り貫いてホルマリン漬けにして飾りたいくらい。
 アホ脳です、とプレートに刻んでやる。
 いや、あの瞬間に戻れるのなら、ぜったい自分の頭を散弾銃で吹き飛ばしてるので、原型は残るまいが。
 ちくしょう、ダメだ、恥ずかしくて死ぬ。情けなくて気が狂いそう。
 これはもう一生誰にも言えない、北川薫人生最悪の勘違いだ。

 ああ、死ぬほど心臓をバクバクさせながら、決死の思いで話し掛けたあのアホさ加減を思い出すと、ガラスに頭を突っ込みたくなる。
 舞い上がって、一瞬にしてバベルタワーくらいの高さまで積み上げた幻想は、それはもう巨大ハンマーで最上階から一気にペチャンコにされるくらいの勢いで叩き潰された。
 ほんと、どこが思慮深く知的で物静かで鷹揚で意思の強い綺麗な大人の女性なんだか。
 その実態たるや、短慮で考えなしでギャーギャー煩くて短気で頑固なちんちくりん。
 物の見事に正反対。
 一体全体、どう見間違えたらそんな風に錯覚できたんだ?
 そりゃ、こっちが勝手に錯覚しただけなのだけれど。
 トラウマだ。
 一生残る傷跡なのだ。


 気が付くと、地元の駅に到着し、ドアが閉まろうとしていた。
 どうやら壁に寄りかかったままウトウトしていたらしい。慌てて飛び降りる。
 ホームに立つ駅員にジロリと睨みつけられた。
 ペコペコと軽く頭を下げて、改札へと逃げ出す。

「ふぅ、やっと着いた。しんど」

 言ってから後悔する。北川薫の中では、しんど、めんど、ねむ、の三言は禁句なのだ。
 母親の口癖であるそれらを自分が口にするなど、ある種の屈辱。
 強く自戒しながら、改札を潜る。
 そのまま帰途に着こうとして、ふと薫は気まぐれに足を止め、ぼんやりと駅の改札を振り返った。
 皆と別れたのも改札口で。何となくその時のことを思い出した。





「いつも行ってばっかりだったしな、偶には遊びに来いよ」

 独りでも来れるよな、と笑う北川潤。ヘラヘラと何だか頼りなさそうな雰囲気な人だけど、薫にとっては小さい頃から頼りになる兄貴分だった。
 尤も、頼りになるばかりじゃなくて、トラブルメーカーなのか要らん騒ぎに無理やり巻き込んでくれたりもしたけれど。挙句に、後始末を押し付けられたり。
 ……「頼りになる」の部分は着脱可能にしておこう。
 もしかしたら、向こうからは頼りになる弟分だと思われてるのかもしれない。
 まあでも、面白くて飽きない人だし、尊敬もしてる。
 普通、親戚だとしてもこれくらい歳が離れてたら付き合いもそれなりの距離が出てくるはずなのに、同格の相手として構ってくれるのも嬉しい。遊びに来い、という言葉だって建前じゃなくて本心からなのがまた、年齢に似合わず老成してるというか、人好きする性格なんだか。

「うん、行くわ」
「その時にはうちにも顔を出してね」

 沙織が名残押しそうな、というかもの欲しそうな顔をしながら、言う。
 彼女の後ろでは美坂パパが「さっさと去ね」と言わんばかりの顔と仕草をしていた。

「うん、はい、じゃあその時は遠慮なく」

 断れと言わんばかりの視線をなんとか受け流しながら、ありがたく招待を受けた。
 そのまま「さようなら」と別れても良かったのだが、さすがにそういう訳にもいかず。
 薫は一人離れたところでむくれている栞の許へと恐る恐る足を伸ばす。

 旅行中事ある毎に怒っていた栞だったけれど、今回のは最後にして極めつけだった。
 目が据わってるし。
 アイスクリームショップに立ち寄ったときに「バニラなんてお子様なんばっかり食ってるから乳臭いんや」と言ってしまったのが拙かったようだ。
 栞本人は馬鹿にしても、バニラだけは馬鹿にしてはいけない。
 これ教訓。

「あー、あのさ、もう帰るんやけど」
「じゃあ帰れ」

 取り付く島も無し。
 ムカッとくるが、薫も北川一族の男子における遺伝技能『苦労症』を備えているので、それなりに堪えどころの判断と忍耐力は心得てる。
 ここはぐっと我慢し、プイとそっぽを向いている栞に辛抱強く話し掛けた。

「今朝のあれ、や」
「…………」
「初めてだったんだ」
「……なにが?」

 不機嫌そうにしながらも、なんとか振り向いてくれた栞に、素っ気無く言う。

「なんかの役に立ったんが。けっこうな、これ嬉しかったりするんよ。嫌なもんでしかなかったけど、持ってて良かったなあ、て」
「……ふ、ふぅん」
「やから、その…………ありがとな」
「…………」

 無言でマジマジと俯いて視線を逸らす薫の顔を見つめていた栞は、はぁ、と右手で半面を覆いながら大きく息を吐いた。
 二人の間に積み上げていた壁を一払いするような溜息で、フッと雰囲気が軽くなる。
 栞はなおも不機嫌そうに唇を尖らせながら、腕を組む。

「あのねっ、この場合お礼をいうのは君じゃなくて私なんだけど。あーもう、そんな風に言われちゃったら私が馬鹿みたいじゃない」
「あ、うん、そうかな」
「そうなの。もう、やだなあ。やっぱり君、嫌いだよ。すーーっごく癪に触る」

 そんなこと言われても、どうしろというのか。
 人間面向かって嫌いだといわれることは滅多にない。これまでみたいに口喧嘩の勢いで言われたのなら、そのまま言い返せばいいんだろうけど、なにやら真剣に指摘するみたいに言われてしまっては、どう対応していいか分からない。
 薫は言葉もなく、目を白黒させた。

 そんな薫の様子に、栞は顰めていた顔をプッと風船に穴をあけたみたく緩め、「でもね」と口ずさんだ。
 小悪魔みたいな面差しで、平然と口にする。

「あの時の君、なかなか格好良かったよ」
「……へ?」

 一瞬何を言われたのか理解が出来ず、頭が真っ白になった。
 真っ白になったそこに、真っ赤な血が雪崩れ込む。
 あっという間に顔面が真っ赤になってしまった。

「あはははは、照れてますよこの子。かっわいい」

 腹を抱えて笑い転げる美坂栞。

「なっ、そんなんちゃうわっ!」
「はいはい、じゃあそういうことで」
「なにがそういうことやねん」
「さあ、なんだろうね」

 真っ赤になって突っかかってくる薫の勢いをひらりと透かし、栞はポンポンと彼の頭に手を置いた。

「格好良かったのは本当だよ」
「―――ッ!」

 顔が茹蛸のようになったのがわかった。
 熱さが伝わる前に、慌てて飛び退る。

「も、もう、行くから」

 これ以上ここに居たら、頭がどうにかなってしまいそうで、慌てて逃げ出しに掛かる。
 栞はかすかに頷き、幼い少女のようにはにかんだ。

「そっか。バイバイ、遊びに来たら、また相手してあげてもいいよ」

 最後に足を止め、気持ちを立て直す。
 精一杯口許を歪め、薫は栞に向かって言い放った。

「それはこっちの台詞や。もう無駄やろうけど、次会うときにはちょっとは色気増やしとけよ」
「く、くぁぁっ、余計なお世話だーっ!! 最後までむかつくぅぅっ!!」

 カバンを振り上げる栞から逃げ出し、北川や美坂の両親に別れの挨拶をして、改札を潜る。
 悔しげに拳を振り回している栞にあっかんべーをして、北川薫は初めての旅を終えたのだった。






「ただいまー」

 中に声を響かせながら、玄関の引き戸を開ける。灯りがついているので、誰か帰っているのだろう。荷物を持ったまま、台所を覗くと。

「あ、ほかえひ」

 ボサボサ頭の母親が、冷蔵庫を漁っていた。

「……なに咥えてんだ?」
「? まよねーず」
「やめろ」
「……欲しいん?」
「要るか!! 御飯作るから、やめろ」
「ん」

 大人しくキャップを締めてマヨネーズを冷蔵庫に直す母。
 代わりにケチャップを取り出してじっと見つめているのを、頭を叩いてやめさせる。
 頼むからつまみ食いするにしても、ちゃんと食べ物を食べて欲しい。ときどきこの人はこんな風に、とりあえず腹を壊さなければいいや、と無差別に物を口にする事があるので油断ならない。野生化しても生きていけるに違いない。これでそこそこ料理が出来るのだから、仕込んだ親父は凄いと思う。尊敬。
 と、放っておくと今度は生卵に手を出しそうな気配。急いで、献立を算段する。
 疲れた身体を押して、薫はありあわせのもので調理を開始した。
 とりあえずスパゲティーなど。

 ミートソースの缶を開けながら、薫はぼけーと息子が料理する様子を眺めている功刀に訊ねた。

「仕事どうだったんだ? 功刀が出張ったからには大変やったんやろ?」

 実は北川功刀は警察官だったりする。バッチだってちゃんと保有している(持ち歩くことは皆無に近いが)。
 ところが、その所属となるとこれが謎。夫である北川哲平の公安八課どころか、府警に身を置いているのでもないらしい。哲平が言うには内務省直属だとかなんとか。結局詳しく教えては貰えずじまい。
 恐るべきことに功刀本人も知らないらしい。あまりのいい加減さに、薫はこの件で功刀と大喧嘩をやらかした経緯がある。
 ともかく、功刀の身分が警察官にあたるのは確かなようだ(しかも警部)
 そのくせ、仕事らしい仕事は殆どせず、オマケに給料もあんまり貰っていないのだけれど。
 その功刀が出張るケースは、殆ど哲平の身辺警護に限られている。
 それは同時に、課長である哲平にまで危険が及ぶ可能性があるケース。即ち、大物の術師や物の怪の捕り物がある場合だった。

「いや、今回は楽やった。こないだ入った新人が腕利きやったから」
「ああ、この間ウチに来た子連れの人?」
「そう。あの子。強かったよ。お陰で楽できた」
「……楽やったん功刀だけ違うの?」
「当然」
「…………」

 頭痛を堪えながら、選り分けたスパゲティー2皿を自分と功刀の前に置く。

「それで、父さんは?」
「事後処理。夜中には帰ってくるって言ってた」
「そっか。なんか作っておいた方がええかな」
「そうやね。お願い」
「……いや、なんでオレが? 功刀がやれよ」
「えー」
「これでも疲れてんだからな、オレ。すぐ寝るんだからな」
「しゃあないなあ」

 面倒そうに呟きながら、功刀はスパゲティーを口にした。
 自堕落で無気力な外見からすれば実に意外なのだが、功刀の食事風景はなかなか気品がある。高級フランス料理店に出入りしてもなんらおかしくないレベルなのだ。
 上品にフォークを駆使し、まったくの無音でスパゲティーを片していく。
 一方の薫は、まあ一般庶民レベル。ミートソースを飛ばさないように四苦八苦しながら食べている。

「で、旅行どうやった?」
「ん、楽しかった」
「そうか、潤は元気やった?」
「相変わらず」
「栞ちゃん可愛かった?」
「全然可愛くなかった」
「そうかぁ、可愛かったかぁ。ええなあ、栞ちゃん欲しいなあ」
「……人の話聞けよ、おい」
「後で美坂さんにお礼の電話せなあかんなぁ」

 そういうの苦手なんやけど、栞ちゃんのお母さんとっつき易いから助かるなあ、とブツブツ呟いて、フォークをクルクルと動かす母親の様子を視界の端に収めながら、薫は黙々とスパゲティーを口に運んだ。正直、おなかはまだそんなに減っていなかったので、あまり箸は進まない。
 だからというわけでもないけれど。
 フォークを口に運ぶのを一旦止めて、薫はポツリと口を開いた。

「なあ、今日や、勾玉外してん」
「ふぅん」

 功刀はさして驚いた風もなく、相槌を打った。彼女のそういう反応の鈍さには慣れているので、息子は気にした風も無く先を続ける。

「栞が崖から落ちたん、助けてん」
「おお、それは偉い。褒めてあげる」
「……別にいい」
「小遣いあげよう」
「……貰っとく」

 貰えるものは貰っておく主義の北川薫であった。

「それでな、ちょっと相談あるんやけど」
「ほう、それは珍しい」

 文句なら気が遠くなるほど言われたことはあるものの、息子に相談を持ちかけられた事などとんと記憶に無い功刀は、さすがに興味深げに目を見開いて手を止めた。

「言うてみ」
「この力、ちょっとは使えるようになりたい」
「……ほう」

 心なしか、功刀から茫洋とした気配が薄まる。

「なんでまた。嫌いやったんやろ、その力。それは薫を苦しませるだけのもの、と違うかったん?」
「うん、嫌いやった。でも、役に立ってん。栞のこと、助けられてん。
 今日、初めて、持ってて良かったって思った。
 オレさ、母さんから貰ったもの、受け入れるだけで一杯一杯で、それ以上のこと考えたこともなかったんだよな。せっかく貰ったのに、厄介だって思うだけだった。それって、やっぱり勿体無いやん。ちょっとでも使えるようになっておけばさ、今日みたいないざって時、役に立つやろ?
 いや、役に立つとか本当はそんなんじゃなくって」

 そこから先は、言えなかった。
 言える筈がない。
 母親が自分を生んでくれたことを、分けてくれたその力を邪魔者扱いではなく自分のものにするで、肯定して見せたい、だなんて。
 口が裂けても言える訳がない。

 功刀は小さく頷くと、相変わらず一見何を考えているか分からない表情で、

「そうか、もっと栞ちゃんにええところ見せたくなったんか」

 などと見当違いも甚だしい暴言をぶちまけた。

「あ、あほかっ! そんなん違うわ!!」
「分かった。哲さんは嫌な顔するやろうけど、ちょっとは使えるようにしたる」
「え? ほんまか!?」

 本当に使えるようになるかは正直怪しいと思っていたので、驚きに激昂が吹き飛んだ。
 功刀はあっさりと「いけるよ」と言う。

「なに、頻繁にセーフティラインを超える力を使ってたら、身体が馴染んでくる。そしたら、まあある程度の出力までなら術式の発動に耐えられるようになってくるわ。もう術式の存在そのものに対する拒絶は峠を越えてるし、大丈夫やろ。問題は馴染むまでに身体が壊れて死んでまうやろうって事やけど」
「あ、あかんやん!」
「なに、解決法は簡単。術式に順応し出すまで耐えれる身体を作ること。つまりまず、その貧相な身体を鍛えろ、基礎体力をつけろ、や」

 最後の一口をペロリと平らげ、功刀はぼんやりとした物腰の奥に仕舞われていた、陰惨で嗜虐的な本性を刹那その目の光に垣間見せた。

「メニュー作ったるわ。覚悟はしときな」
「…………」

 もしかして、早まった?
 冷たい汗が流れるのを自覚する北川薫であった。











§  §  §  §  §











 鍵を差し込む。捻ろうとして気付く違和感。

「……開いてる?」

 北川潤は不思議そうに小首を傾げた。
 ウチに出入りする連中はこの連休、軒並み出かけているはずなのに。相沢と水瀬かとも思うが、自宅に邪魔者がいないというのにわざわざこっちに居を移す必要もないだろう。

「春日かな。あいつ、夕方か朝方しか来ないと思ってたんだけど」

 時刻はもう日が変わろうかという頃。
 一応泥棒という可能性もあるので、慎重にドアを開ける。そっと音を立てないように玄関を覗くと、三和土に女物のパンプスが置かれていた。

「……?」

 廊下の奥からは電灯の光が漏れてきている。奥の部屋といえばキッチンだ。
 北川は意を決し、声をあげた。

「ただいまー。誰かいるのか?」

 途端、バタバタとキッチンからスリッパの音が聞こえだした。と、ドアがガチャンと開いて、顔が覗いた。

「ごめんなさい、ちょっとお邪魔してる」
「美坂?」
「あー、その、おかえり」

 ははは、と悪戯を見つかったみたいに笑っていたのは、よそ行きの服の上にエプロンをした美坂香里だった。





「ごめんね、ちょっとお腹空いちゃって、勝手に台所使っちゃってたの」
「あ、いや、そりゃいいんだけど」

 荷物を部屋に置いた北川は、キッチンのチェア―に腰を下ろし、少々唖然としながら鼻歌を歌いながら焼きソバを作っている香里の後姿を眺めていた。

「夕食、食べ損なっちゃって。もうお腹ペコペコなのよ。あっ、折角だし北川くんもどう? というか、食べなさい」
「命令形!? はぁ、まあちょっと腹も空いてるし。じゃあオレも」
「はい、了解」

 楽しげにニコリと微笑み、炒めていた野菜を増量する。最初から待っていたかのようにまな板の上に切られた野菜があったのは何故だろう。
 北川はぼんやりと台所に立つ香里の姿に視線を奪われた。鼻歌を歌いながらフライパンを操る彼女の口許には火のついていない煙草が咥えられている。
 煙草、吸うようになったのだろうか。

「あのさ」
「ん? なに」

 自分の声が頭にワンと響く。それでようやく北川は我に返った。
 ちょっと待て、なに当然みたいに受け入れてんだ?  これは、おかしい。どうして美坂が此処にいる?

「美坂、確か帰って来るの明日じゃなかったっけ? しかもなんで自分の家じゃなくてウチにいるんだ?」
「…………」

 鼻歌が止まる。麺の上に撒かれたソースがフライパンの熱にジャッと美味しそうな音を掻き鳴らした。
 ソースの匂いが北川の許まで漂ってくる。香里は手早く皿を用意して、二人分を選り分けると、両手にそれを持って北川の対面に腰を下ろした。

「はい、出来上がり」
「あ、サンキュ」

 箸とともに受け取る。
 受け取って、自分の前に焼きそばを置き、どうしたものかと北川は焼きそばと香里の顔を交互に見やった。香里はと言えば、焼きそばに手をつけるでもなく、深々と背もたれに身体を預け、ばつの悪そうな顔をして前髪を掻きあげた姿勢のまま、固まっている。

「あのね」

 不意に、彫像がいきなり喋ったみたく、香里が口を開いた。

「格好悪い話なんだけど」
「はぁ」

 それで踏ん切りがついたのだろう。香里はバンと両手をテーブルに叩き付け、グッと身を乗り出し、厳めしい顔をして、

「彼氏と喧嘩して別れて、途中で帰ってきちゃったのよ」

 なんてことを口にした。
 ぽかん、と呆気に取られる北川潤。

「はぁ…………って、別れたぁ!?」

 香里、ドスンと上げた腰を音を立てて落とし、ふんぞり返って鼻を鳴らす。

「別れたのよ!」
「な、なんでまた」
「そ、それは……」

 視線が泳ぐ。なにかゴニョゴニョと口篭もった後、彼女は小さな声で、

「あの人、キスが下手なのよ」

 と、どうしたらいいのか分からないことを口走ってくれたりして。

「わ、わけわかんないよ、それじゃあ」
「なによ、なにか文句でもあるのかしら。北川くんには関係ないでしょ」
「そりゃ、関係はないけど……」

 そういう言い方はないんじゃないか、とポツリと漏らす。
 香里は一瞬後悔したように目を細めると、きっぱりとした口調で「ごめん、今のはあたしが考えなしだった」と謝ってくれた。
 そんな風に謝られては、北川としても嫌な顔は出来るはずもなく。

「いや、別にオレ、相手のやつは良く知らないし、美坂が別れたっていうんなら別にいいんだけどさ。あの……もうキッパリ別れたのか? 喧嘩して頭にきてるだけで、またよりを戻すとか」
「いいえ、それはないわ。もう完全に関係は切ってきた。あの人はあたしには合わなかった。そういうこと」

 淡々とした口調に、知らず気圧される。
 どうやら、彼女の中ではもう完全に決着がついてしまっているらしい。
 だから、北川はしどろもどろになりながらも、思うところを素直に告げた。

「……そっか。うん、まあ、合わないやつとダラダラ付き合ってても縺れるばっかりだもんな。いいんじゃないの」
「…………」

 その事に関しては、もう二人ともそれ以上話題にはしなかった。
 焼きそばをつつきながら、自然に話は北川の方の旅行のことになり、盛り上がる。
 気が付けば、皿はとっくに空になり、もう一時間以上も話し込んでしまっていた。

「それでさ、親父さん形勢がもうオレの勝ちに決まりそうになった途端、将棋盤ひっくり返すんだぜ。それで「あっ、しまった。手が滑った」って真面目な顔して言うんだもん。溜まらんぜ」
「あちゃー、お父さん相変わらず大人げないんだから」

 可笑しそうに肩を揺らして笑っていた香里は、ふと思い出したように自分のカバンを手繰り寄せ、中から一冊の雑誌を取り出した。

「そうだ、北川くん、これ知ってる?」

 そう言って、ページを開いて北川に手渡す。

「なにこれ。文芸雑誌か? …………って、なに? 新人賞?」
「そう。ねぇ、これ出さない?」
「え?」

 目を丸くして驚く北川に、香里は真剣な眼差しで、ページのある場所を指差した。

「ほら、賞金1000万よ。これだけあればみんなで贅沢できるわ」
「……金目当てかよ」

 しかも、なんか山分け決定みたいな口振りだし。

「あのなあ、こんなの無理に決まってるだろ。まだ宝くじの方が当たるって」
「そうかしら。あたしはあなたの作品、けっこう好きなんだけど」
「…………」

 息が詰まる。顔が赤くなる。
 思い出した。こいつ、隙を見ては人が気分転換に書いていたものを勝手に読んでいたんだった。
 一瞬茫然としていた北川は、我に返るや慌てて手を振り回す。

「いや、でも無理だって。そんな甘いもんじゃねえよ」
「いいじゃない、ダメで元々で」

 そう軽く言い、香里はかすかにはにかみながら、頬杖をついて、北川の顔を見つめた。

「それにね。最近の北川くん、なにかぼけっとして腑抜けてるじゃない」
「ふ、ふぬ」
「北川くんがそんなだと、なにか見てて苛々してくるのよね。だから、ちょっとは気合入れて何かに向かって見なさいよ」

 別に賞を取れと言ってるのではないのだ、と囁き、ふわりと香里は笑った。
 ちょっと、その笑顔は胸に来た。グサッとナイフみたいに刺さった。

「オレ、そんなにだらけてたかな?」
「ええ、しゃきっとしろって殴り飛ばしたくなるくらい」
「…………」

 天井を仰ぐ。しばらくそうやって頭をからっぽにした。
 カチリ、と外れていた何かが噛み合わさる、そんな音が聞こえた気がした。

「……別にさ、賞なんか取るつもりないぞ。物書きになるつもりもないからな」
「ええ」
「賞金も取るつもりないぜ」
「却下、それは頑張りなさい」
「おい」
「色々欲しいものがあるのよねえ。栞も前に高そうなカタログ、睨めっこしてたし」
「ちょっと待て」

 冗談よ、とクスクス笑いながら、とても冗談とは思えない光が目に宿っている美坂香里。
 これは本気だ。

「賞金の使い道については異論はあるけど、まあどうせやることもないし、やってみっか」
「……ええ、やってみなさいな」

 正直、ありがたかったし、嬉しかった。
 彼氏がいたっていうのに、自分なんかの事をちゃんと彼女は気に掛けてくれていたのだということが。
 彼氏と別れたばかりで精神的に参ってるだろう時に、こんな風に自分のことを心配してくれたことが。
 そこまで友達として気を回してくれたっていうのに、無下にできるはずがない。

「さんきゅ、美坂」

 薄く目を閉じ、大した事ないわよ、と彼女は首を横に振った。


「さて、いい加減遅くなっちまったな。家まで送ってくよ」
「ええっと、そのことなんだけど」

 椅子から立ち上がり、ジャケットを羽織ろうとした北川に、香里は言いにくそうに言葉を濁すと。

「お願い、北川くん。今日は此処に泊めてくれないかしら」
「……な、なに?」

 片目を閉じて、お願いと手を合わせる彼女に、愕然と目を剥く。

「いや、それは……なんで?」
「だって……格好悪いじゃない。彼氏と別れて途中で帰ってきたなんて。栞やお母さんに何言われるか分かったものじゃないし。そっちの旅行蹴って自分の都合を優先したのに」
「それは、うーん」
「だから、ね。お願い」

 お願いと言われても。
 北川は途方に暮れた。
 いくら家族にも似た近しい友人とはいえ、女性と一つ屋根の下というのはちょっとどうなんだろう。前に風邪を引いた時に泊まってもらったことはあったけれど、あれは栞と二人でだ。二人きりと言うのは…………。
 北川は柱に掛けられた時計を見上げた。時刻は既に午前一時を回っている。
 頭の中に立ち込めるモヤモヤを振り払い、北川は香里に向き直った。

「仕方ないなあ。分かったよ、客間に布団出すから」
「ありがと。恩にきるわ」
「へいへい。寝間着は持ってるんだよな。旅行先から直接来たんなら」
「ええ、持ってるわ」

 香里の声を背にして、北川は寝床を用意すべく、キッチンを後にした。
 参ったなあ、今晩はちょっと寝れないかも。

「やれやれ」

 頭を掻きながら出て行く北川潤の背中を、美坂香里はじっと見詰めていた。
 北川は彼女を振り返らなかった。その時の彼女の目を、見ることはなかった。だから、気付くはずもなかった。
 今にも暴れ出しそうな感情の渦を、無機質な鉛の箱に無理やり押し込めている、そんないびつな眸の光に。









 午前三時。
 北川潤の家は、灯火も消え去り、シンと静まり返っていた。
 今晩は寝れないはずの北川の部屋からも、すやすやと幸せそうな寝息が聞こえてくる。
 あれだけ心臓をドキドキさせながら、床についた途端あっさりと眠れる辺り、けっこう大物なのかもしれない。
 そして美坂香里は―――

「…………」

 北川の部屋の前にいた。
 ドアに背を預け、膝を抱え込み、石像のように身動ぎもせず、じっと座り込んでいた。
 もう、一時間以上もこうしている。
 こうして、北川の寝息に耳を凝らしている。

「この距離が、あたしたちの距離」

 言い聞かせるように、彼女はポツリと口にした。
 ドアを隔てた、この距離が、最良の二人の距離。自分が望みえる、一番近しい距離。
 これ以上は近づいてはいけない。ドアを開けて中に入ってはいけない。
 彼と今の関係を続けたいのなら、これ以上を望んではいけない。
 あたしの本性を知られてしまう近さまで、近づいてはいけないのだ、と香里は強く強く、息が出来なくなるほど強く、血が通わなくなるほど強く、自らを戒める。

 知られれば、きっと嫌われてしまうから。あまりにも醜い本性は、きっと彼を遠ざけてしまうから。
 なにより、知られたくない。絶対に、自分のおぞましさを知られたくない。
 生々しい情念。異性を愛するということは、自分の尤も生々しい部分を曝け出し、ぶつけるということ。自分の尤も汚い部分をぶつけるということだ。

「耐えられるはず、ないじゃない」

 その汚さは、自分が何より知っている。思い知らされている。
 もしそんなものを見せ付けて、彼が手の届かない場所に言ってしまえば、それはきっと美坂香里を崩壊させる。彼に拒絶されれば、美坂香里は壊れてしまう。
 気付いた時には手遅れだった。
 自分の醜さを突きつけられたその時に、同時に、美坂香里は彼のことがもうどうしようもないくらいに大切になってしまっていたのだと思い知らされた。
 失えば、壊れてしまうくらいに心奪われていたのだと、知ってしまった。


 美坂香里は、破綻していた。
 彼女は、もう自分の思考がもう支離滅裂になってしまっている事に気付いていない。

 臆病者の優等生は、失わないために距離を取ることにしたのだ。
 友人のままなら、彼と今のままでずっと居られると。
 他に恋人を作り、その人を愛するようになれれば、彼に愛されたいという欲望を抑える事が出来るはずと。

 その考え方は、図らずも妹である栞のものと似通っていたかもしれない。
 だが同時に、決定的に違ってもいた。
 その差違は、やがて破綻と言う形で露呈することとなる。


 香里は、膝に顔を埋めたまま、恐る恐る下腹部に指を這わせた。
 まだじんわりと痛みが残るその場所に。

 初めて交際したその男は、お世辞抜きに気のいい男だった。心地よい正義感の持ち主で、快活で、笑いの絶えない青年だった。ただ、少しばかり他人の気持ちに気を配れないだけの。
 気を配れないといっても、それは些細なものだ。きっと、相手が甲斐甲斐しいタイプの女性なら、気にもしなかっただろう。
 だが、香里はダメだった。
 付き合っているうちに、男の言動の端々が癇に障るようになっていった。
 どうしてこの程度の事を分かってくれないのだろう。どうして嫌がってるのだと分かってくれないのだろう。なんでそんな台詞を平気で口に出来るのだろう。
 やること為すこと、引っかかってしまうようになった。
 そんな自分が、癇に障ってしまう自分が嫌だった。
 また一つ自覚に加わる、狭量という醜さ。

 男との旅行は、香里なりの最後の決意だった。
 此処でダメなら、この人と自分は合わなかったと諦めるだけだと。
 身体を重ねれば、この人のことを心底から愛せるようになれるかもしれない。
 そして、旅先のホテルで、抱かれた。

 結論から言うと、最悪だった。
 痛いわ気持ち悪いわ気色悪いわ、我慢ならなかった。

 挙句、痛みを訴えているのに、二回目を強引に求められ、我慢の限界をぶち切った。
 問答無用で男を部屋から蹴り出し、翌朝今まで積もり積もったものを全部吐き出し、完膚なきまでに関係を断絶した上で、旅先からこの街に戻ってきた。

 彼とは合わなかった。それだけだ。
 それだけのお話。





 寝静まった家の中に、かすかに湿った音が響いている。
 深夜の底冷えに肩を震わせ、彼の寝息に耳を澄ませながら、彼女は内なる熱に吐息を漏らす。

 総てを終えた後、彼女は自分の汚さに、少しだけ泣いた。













§  §  §  §  §









 ――― 一週間後


「香里ちゃん、彼氏と別れたんだって?」

 そう切り出されたのは、三月からはじめていたバイトの帰り、仕事場の先輩からちょっと寄って行かないかと誘われたファーストフード店での事だった。

「ええ、まあ」

 飲んでいた拙いアイスコーヒーを置き、小さく頷く。
 別れ方が派手だった所為だろうか。周りには早々に別れた事実が伝わっているようだった。
 三つ年上のその先輩は、気弱げな顔に引き攣ったような緊張を浮かべていた。

「あのさ、別れたそうそうこんな事を言うのはちょっと不謹慎だと思うんだけど」
「はぁ、なんですか?」

 仕事場では生真面目で気のつく事で知られるその先輩は、意を決したように唇を舐めると、ちょっと肩の力を抜こうよと言いたくなるような雰囲気の中、口を開いた。

「もし良かったらで、いいんだけど。俺とさ。付き合ってくれない……かな、と。その言いたいんだけど」
「…………」

 言ったぞ、という達成感と、言ってしまった、という途方に暮れた感がない混ぜになっている表情で、ふうと大きく息を吐く彼。
 突然の申し出に少し呆気に取られていた香里は、その様子にフッと力を抜き、微笑を浮かべた。




 そして彼女はまた彷徨い始める。
 自縄自縛の迷路の中を。

 在りもしない出口を探して。




第七幕 ≪幸せの在り処≫ 終幕




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