ビルの五階ほどの高さ。それが、栞が投げ出された高度だった。
 フワリ、と体が宙に浮くような感覚とは逆さまに、肉体は情け容赦なく下方へと引きずり込まれていく。
 約15メートル程度の高度など、激突まで一瞬だ。ほんの一秒の猶予があるかどうか。それほどの刹那。恐怖を感じる暇すらない。
 それでも、栞はそのほんの僅かな猶予を使って、薫の身体を抱き寄せようとした。自分が下敷きになれば、この高さなら助かるかもしれない。言語としてそう考えたのではなく、無意識の選択と反射的な動作だった。
 相手が歳下であること。この結果の責任は自分にあること。薫は自分を助けようとして巻き込まれたこと。諸々の理由が選択と動作の下地だった。
 いや、そんな理由なんてなくても彼女は同じように動いただろう。美坂栞という少女は、恐怖に心を塗りつぶされながら、絶望に身体を凍らされながら、それでもなお最後の一線、限界の向こう側で、欠片諦めようとしない渋とさと躊躇わない肝の太さを持つ人だった。
 そして、その渋とさと覚悟を、必要とあらば他人のために使える少女だった。
 目前の死と戦い続け、勝利した者ゆえの強さだったのかもしれない。
 だが、ただの少女が空中に放り出されてやれることには、どうしようもない限界がある。
 ただでさえ、薫は腰にしがみついていたのだから、彼を抱き寄せようにも手が届かない。そもそも、支点となるべきものが何も無い空中では、意外なほど身体を動かすことは侭ならない。
 栞は、僅かに身を捩り、ただそれだけの挙動で総ての猶予を消費し尽くした。
 何も出来なかったと理解する暇すらも、やはりなかった。
 怒涛のように上へと流れゆく周囲の景色が途切れた。

急々如律令・戒解(ゲッカイ)ッッ!!」

 ―――ドンッ

 衝撃に全身が揺れた。
 腹腔を中心に内臓がひしゃげたような苦痛が波紋のように広がる。
 そして――――



「……あ、れ?」

 それだけだった。
 栞は呆けたように噛み締めていた口を開く。
 思いの他痛みは少ない。衝撃も小さい。頭はクラクラしているが、多分意識ははっきりしている。口の中にじわりと血の味が広がってくるが、それは激しく上下に頭が揺れた所為で舌の先を少し噛んでしまったからだ。大した傷ではない。
 はて、あの高さから落ちてこの程度の怪我で済むのだろうか。それとも、まさか死んでしまったのか?
 いや、死んだにしては、胸の苦しさと身体の痛みが消えてくれない。それに痛いといっても、以前じゃれ合っていた真琴にタックルを喰らってしまった際に感じた程度の代物なのだ。死とはこの程度の痛みで済むものではない。
 同じ理由で、死んではいないものの死にそうな怪我を負った、という事もないようだと気付く。そういう場合、とてつもなく痛いか逆に綺麗さっぱり何も感じないそうだし。
 そんな風に不思議に思っていた時間は、ほんの数瞬。恐らく落下していた時間とさほど変わらなかっただろう。
 栞は肝心なことを思い出した。
 一緒に落ちたあのバカはどうなった?
 思わず閉じてしまっていた目を見開く。

「薫くっ……うっきゃぁぁぁーー!」

 大声を張り上げようとした口で、絶叫。
 目を開けた途端、誰かの肩越しに覗く視界一杯に飛び込んできたのが、見る見る巨大化してくる10tトラック。

「トラックーーっ!」
「くぅっ」

 苦しげな吐息が耳朶のすぐ傍で吐かれた。
 場にそぐわないくすぐったさに身を竦ませる。
 な、なになに?
 そこでようやく、栞は自分が誰かに抱き止められいるのだと理解した。それどころか、首に手を回してしがみついてさえいた。
 誰かって……誰だか決まってるじゃない!
 この場に自分以外がいるとすれば、それはたった一人しかいない。しかも、抱かれている自分より抱いている方が明らかに小柄ともなれば決定的だ。
 か、薫くん!? なんで? どうして? ってかどうなったの?
 車道の真中で、僅かに片膝を地面に着いている北川薫。
 栞は、彼の腕の中にいた。
 良く分からないが、どうやら自分か薫のお陰で助かったらしい。でも、いったいどうやって!?
 いや、今はそれどころじゃない。そんな場合じゃない。トラックが―――!
 栞は混乱したまま、咄嗟に薫の顔を見ようとして、栞は肩に押し付けていた顔を、ガバッと離した。
 その途端だった。
 今度は落ちたときのフワリと浮かぶような感覚とは真逆に、ガクンと下に無理やり引っ張られる感覚。
 上方への急加速。

「ふわっ」

 首がガクッと振られ、視界が下を向く。

「――――ッ!!」

 目を疑った。正気も疑った。きっと、まだ自分は布団の中で寝ていて、薫と連れ立って散歩に行くところから全部夢だったのだと思いたくなるくらいに、その光景は馬鹿げていた。

「ひえええ!」
「あほっ、口閉じてろ。舌噛むやろ!」

 信じがたいことに、薫は突っ込んできたトラックの屋根へと飛び上がり、走行中であるはずのそれを踏み台代わりに蹴り飛ばし、さらに上へと跳躍する。
 しかも、自分を抱き抱えたままでだ。

「な、なんですかこれはーっ!?」
「み、耳元で叫ぶな!」

 抱き抱えられて空を跳ぶ。
 なんとまあ、得難い体験といえば体験だけど。
 このフワフワとした感覚たるや、夢は夢でも悪夢のようだった。
 だが、それもすぐに終わってしまった。
 さすがに一気に崖の上にまで跳躍は出来なかったのか、薫は崖からはりだしていた柵を掴む。栞はと言えば、腰に手を回して、抱き寄せる形へと抱き直されていた。栞も慌てて改めて薫の首に手を回しなおす。
 これが薫の方が背丈が大きければ様になるのだろうが、抱き寄せられている栞の方が大きいものだから、栞が無理やりしがみついているようにしか見えず、いささか格好は宜しくない。

「っ……怪我、ない?」
「え? あ、だい、大丈夫、だと」

 マラソンを走り終えた直後のような薫の疲れ果てた声調に気付かぬまま、栞は目を白黒させてコクコクと首を上下させた。その際、足元の方を見てしまい、あうあうと言葉にならない喘ぎを漏らす。慌てて下を見ないように薫の首にしがみ付き直した栞は、そこで異様なものを目にした。
 薫の首筋に翡翠色のものがめり込んでいる。それは何だか勾玉のように見えた。
 なにこれ?
 勾玉のような硬質の欠片が、まるで池の水面から顔を覗かせる庭石のように首の皮膚から迫り出しているのだ。不気味だったのは、皮膚には裂けたようすもなく、それどころか、何の違和感も無く勾玉と接合しているように見えたことだった。少なくとも、落下の衝撃で小石がめり込んだようには見えない。
 こんなもの、さっきまでなかったのに、と目を凝らし、思い出す。丁度、この場所に、勾玉みたいな形をした痣があったのを。
 どういうこと?
 疑念が浮かぶ。だが、次の瞬間目にしたものに、栞はギョッと息を呑んだ。
 気のせいか。
 勾玉が内側からさらに迫り出したように見えたのだ。

「か、かおるく」
「待って、さ、先に上にあげるから」
「あ、う、うん。て、どうやっ…って、うそぉぉ!!」

 薫はあろうことか、軽く壁面を蹴ると、片手だけの力で栞を抱えたまま崖の上へと飛び上がった。

「ひえええ!」

 体操競技の鉄棒さながらに振り回された。
 グルリと巡る視界。その端っこに崖上の地面が見えた。着地しようかという瞬間 、何故か腰を掴んでいた薫の腕が緩む。

「なっ、なんで離すのぉぉぉ!?」

 着地する前に手を離されれば、それ相応の結果が訪れる。
 放り出された栞は、さすがに勢い自体はだいぶ削がれていたものの、展望台へと滑り込む羽目になった。
 ゴロゴロと横転した挙句、パタリとうつ伏せに栞は止まった。
 しばらく、文字通り土を舐めた状態で、大の字に突っ伏する。

「えぅぅ」

 アクション女優にだけはなるまいと誓った。
 自分には絶対向いてない。
 さすがにいつまでも倒れているわけにもいかず、ゾンビのようにフラフラと立ち上がる。
 服は土と埃塗れ。鼻先と膝頭が擦り剥いていて、凄惨な姿……と言えなくもない無残は無残な格好だ。

「痛ッ、イタタタ。えぅぅ、落ちたときより登った時のほうが怪我が酷いってなに?」

 沁みる鼻先を押さえ、涙目になりながら口走る。
 言ってから、凍りついた。
 そうだ、あれだけの高さから落ちたというのに、怪我一つなかったなんて。

「……う、くっ」

 栞は自分が口にしたことの異常さに薄ら寒さを感じて、首を振った。
 それに登ったって、なんだそれは。下からここまで15メートルはあったっていうのに。
 自分は絶対、此処にいるはずがないのだ。
 走ってくるトラックを踏み台にして、ビルの五階くらいはあろうかって高さまで飛び上がった?
 しかも、私を抱えて?
 いや、それ以前にあの高さから落ちて何事もないというのがありえない。空中で私を掴まえて、その挙句抱いたまま着地した? どういう運動能力だ、それは。いや、これはもうどう考えても人間の運動能力云々のレベルじゃない。
 いったい、何がどうなってるの?

「あー、もうわけわかんない!! ちょっと、コラ薫くん、今のなに? どうやったの? なにかの魔法? 怒らないからちゃっちゃと―――」
「――うっ……げほ」

 ――――ビシャッ!

「教えな…………ッ!? 薫くん!!」

 苦しげなうめき。何か液状のものがぶちまけられる音。聞いた途端、いい具合に煮え立っていた栞の脳髄が一気に凍えた。栞にとっては昔から嫌になるほど聞いた音、発した音だったから、何が起こったのかすぐに判った。
 何度も繰り返される苦痛の混じった喘ぎ、揺り返すように吐瀉音が続く。

「なんで!?」

 木の根元に崩れ落ちるように寄りかかりながら、薫は激しく嘔吐していた。地面にぶちまけられた吐瀉物は、半分以上がどす黒い赤に染まっていた。
 血だ。
 血相を変えて駆け寄る栞の目に、彼の首筋から勾玉が剥がれ、地面に転がり落ちるのが映った。

「ちょっ、どうしたっていうの!!」

 声に誘われるように顔をあげようとし、薫はそれすら出来ずにフラリと横に崩れ落ちた。地面に激突する前に、滑り込むようにして頭を抱き止める。触れた途端、ゾッとした。反射的に離してしまいそうになる。焼け焦げたフライパンの表面を素手で触ってしまった時のような反応。薫の身体は異様な熱に包まれていた。まるで細胞の一つ一つが沸騰しているかのように。
 グッと息を飲み込み、抱き上げる。
 顔を覗き込んだ栞は、絶句した。
 薫の顔色は紫を通り越して、もうどす黒くなっている。目は焦点を失い、虚ろ。半開きになった口からは、苦しげに紫紺に染まった舌がダランと覗いている。

「う、あ、ら、、らいじょうぶ」
「だ、大丈夫なわけないでしょ! なっ、なっ」

 恐怖に包まれる。どう見てもこれは死に行こうとしている者の症状だ。
 まさか落下の際にどこか怪我をしたのか? いや、そんな様子はなかった。外傷もパッと見には見当たらない。
 焦る栞の脳裏を過ぎったのは、ついさっき薫と交わした会話の内容だ。
 さっき彼は何と言った? 死に瀕するほどの病。良化はしている。だが、完治はしていない。
 するものではないと……。

「くっ」

 動揺を無理やりねじ伏せる。こういう場合に必要なのは冷静さだ。幸いにも発作の類には慣れている。そりゃ、発作だの倒れたりだのしていたのは自分であって、他人を見るのは初めてと言っても良いかもしれないけれど。それでも、泣きながら立ち尽くすような真似だけはせずに済む。

「常備薬は? こういう場合に服用する薬は携帯してないの?」

 もはや詰問と言っても可笑しくない口調で問い質す。
 苦しげな息の下から、

「そ、んなんは……」
「ないか。そうだよね」

 病気の事を口にした際の彼の口調には、それらしきニュアンスは含まれていなかった。それに、発作の危険があるなら、事前に先方からその事についての説明があっただろう。
 栞は迅速に、どうするべきかの判断を下した。

「待ってて、今旅館まで戻ってお医者様を呼んでくるから」

 言って、薫を横向きに寝かせ、膝を浮かせる。
 体力の無い自分ではこの子を抱えていては下に降りるにも大変な時間が掛かる。独りなら全速力で駆け下りれば5分と掛からないだろうから、そちらの方が断然速い。

「そのまま動かないでじっとしてるんだよ。なるべく仰向けにはならないで。万が一意識を失った状態でまた嘔吐したら喉を詰まらせるかもしれないから。いいね」

 口早に言い聞かせ、栞は立ち上がり、そのまま駆け出そうと、

「――――ッ!?」

 出来なかった。立ち上がろうとした拍子に、腕を掴まれていた。

「ダメ、や」
「離しなさい! 心細いだろうけど我慢して、急がないと――」
「違う、んよ。医者はあかん。お医者さんに見せて、も意味がない。これ、病気、ちゃうんや」
「……え?」

 病気じゃない?
 面食らう。面食らった拍子にまた膝を着いてしまっていた。
 そんな栞に、薫は笑みを作ってみせる。

「だいじょう、ぶ。ほんま、大丈夫、なんよ。ちょっと体がびっくりしただけ。じっとしてたら、治まる。元に静まるか、ら」
「そんな、だって」

 信用してしまっていいのか?
 強がっているだけじゃないのか。意地を張っているだけじゃないのか。
 似合わない笑い方に、不安が渦巻く。
 そうだ。
 栞は強く唇を噛み締めた。

「ばか」

 似合わないったらありゃしない。そんな、人を安心させようとして無理に作った笑みなんか、君にはひどく似合わない。
 瀬戸際に立たされるほど、切羽詰るほど、素直じゃない態度で、からかうような口調で、不貞腐れた顔で、大丈夫って言ってるじゃないか、と、
 この聞き分けの無い女の感情を逆撫でしてみせるのが君みたいな子なんだと思ってたのに。

 栞は口を結び、頬に手を当てた。ルージュを引くように自分の表情をなぞる。
 自分の馬鹿みたいに強張りきった顔が、触るに連れて露になった。
 ああ、なんだ。こりゃダメだ。
 つまり、この子に似合わない真似をさせてしまうほど、
 私は酷い顔をしてしまっていたのか。
 冷静なつもりでいたけれど、こんな状態のこの子に気を使わせてしまうほど、情けない見てくれを晒していたのか。
 まったく、本当に情けない。幾ら次から次に想像だにしない事態に襲われたからと言って涙を流している場合じゃないでしょう、不甲斐無いぞ、美坂栞。
 呼吸を引き締め、気持ちを改めるようにゴシゴシと滂沱と溢れていた涙を拭う栞を薄目に見ながら、薫は大きく「ほう」と息の塊を吐いた。

「30分」
「え?」

 辛そうに唾を飲み込み、薫は途切れた言葉を再開した。

「多分、30分くらい寝てまう、と思う、けど。っん、ふぅ、それでも、と通りに治まるんや。これは、そういうもんやねん。一分も超えて(・・・)ないし、大丈夫、大丈夫」
「薫くん」
「ごめん、ちょっとだけ、休ませて。ああ、そうや。勾玉、拾っといて。あとで、いるんや」

 それだけ言い残すと、本当にあっさりと、拍子抜けするくらいに穏やかに、小柄な少年は目を閉じて、寝息を立て始めた。

「あ、ちょっと……」

 顔に触れかけ、途中でやめた。
 改めて、様子を窺う。
 最初の頃より明らかに顔色は元の肌色へと戻りつつあった。毒々しい紫にまで染まっていた唇も、赤みを取り戻していた。呼吸も落ち着いている。
 確かに、回復していっているように見えた。

「――ああ、もう!」

 なんだか急に。
 頭にきた。

 なんだって、この子はこんな状況でさえ、ふざけたことを口走るんだろう。
 血を吐いて倒れたっていうのに、医者に見せるな、だなんて。
 寝てたら治る、だなんて。
 無茶苦茶なことを言って、それをムリヤリ押し付けて。
 素人の勝手な判断がどれだけ危険か分かってる私が、自分の身体は自分が一番良く分かってるなんて言葉がどれだけ戯言か理解しているこの私が。
 そんなこと、聞けるわけないでしょうに。
 頭にくる。

 ギリギリと奥歯が軋る。
 分かってる。
 ええ、分かってますよ。
 それよりも何よりも頭にくるのは。
 その勝手な言い分をもう受け入れようと決めてしまっている自分なわけで。

「もう知らないんだから、勝手にしろ」

 恨みがましく零しながら、栞は転がっている勾玉を拾い上げ、膨れっ面のまま、汗に濡れた薫の額を指で弾いた。








§  §  §  §  §








 壊れていく。

 焼け焦げる神経。
 悲鳴をあげる臓物。
 戦慄く筋肉。

 壊れて、なくなるのだと思っていた。
 それが理だったのだ。
 生き残れたのは僥倖だ。
 そう、少年は誰に言われるともなく身に染みて実感していた。
 だからこそ、その僥倖以上を求めようとは微塵も考えていなかった。

 今日、この日までは。

 自分を殺す害毒の意味しか持ちえなかったものを、初めて自分の意志で利用した日。
 内臓を直接掻き混ぜられるような苦痛にまみれ、火で炙られるような熱に苛まれ、それでも。
 それでも。





 深い深い海の底。光も届かぬ深淵から浮かび上がってくる。
 ゆらりゆらり
 意識が光を帯びていく。
 思ったよりもずっと澱みの無い爽やかな目覚め。
 かすかに喉を鳴らしながら、瞼を開く。

「…………おはよ」
「うわっ!」

 ビビった。

「なんで悲鳴をあげるかな、この子は」

 真上からじっと覗き込んでいる栞の顔は、ムスッとしかめられている。
 そんな事言われても。
 目を開けたらいきなり間近に人の顔があったりしたら、驚くに決まってるじゃないか。
 まだ少し身体を起こすには億劫で、横たえたまま訊ねる。

「……どのぐらい寝てた?」
「えーと、10分くらいかな」

 腕時計に目をやり、答える栞。
 どうやら予告した時間は大袈裟に見積もりすぎたようだ。

「身体、大丈夫?」
「あ、うん。ちょっと筋肉がピリピリしとるけど、他はもう」

 全部の臓器がでんぐり返るような吐き気ももうさっぱりとない。
 と、ようやく自分の格好に気付く。
 どうやら、寝かされているのはベンチの上。そして頭は膝の上。
 所謂一つの膝枕。

「栞」
「なに? どこかまだ具合悪いの?」

 薫はしばし重たげに口を紡ぐと、沈痛な面持ちで栞に告げた。

「お前、もうちょっと肉つけろよな」
「?」
「木の根っこが頭の下敷かれてるんか思うたわ。ちょっと硬すぎ――」

 ゴツン、と本当に硬い拳が、額へと落とされる。
 火花が散った。
 言葉も出せず額を押さえる薫の耳に、フンと勇ましい鼻息が聞こえた。

「ったくもう、減らず口ばっかりなんだから。まあそれだけ叩ければ大丈夫だね」

 憤りに彩られた口振りにも安堵が滲む。
 額を押さえ涙目になりながらも、薫は「へへ」と口許を緩めた。
 なんとはなしの気恥ずかしさ。

「それにしても君ってばまったくもう」
「な、なんだよ」

 なんだか「文句大有りだぞ」と主張している唸り声だ。

「もう、死ぬほどびっくりしたんだからね。いきなり血を吐いて倒れるわ、ぴょーんて跳んじゃうわ、柵が壊れて崖から転げ落ちるわ!」
「いや、最後オレ関係ないし」
「なによ、私の責任だって言うの?」
「そ、そんなん言うてへんやん」

 もう、ご機嫌は斜めどころか直滑降なご様子。
「子供のくせに言い訳するなー」てそれは幾らなんでも無茶苦茶な。

「ふんっ。まあ、追求する前に、はい、これ。要るんでしょ?」
「へ?」

 薫が身体を起こし、ベンチに座りなおすと、傍らに腰掛け直した栞は、ポケットから昏倒する前に拾っておいてくれと頼んであったあの勾玉を取り出した

「あ、ああ、サンキュ」
「それ、なんなの? 見間違いじゃなかったら、それ君の首から出てきたんだけど」

 薫の手のひらの上に勾玉を握った手を置いたまま、栞は酷く難しい顔をする。異常を現実として受け止めようとしている顔だ。
 薫は恐る恐る訊ねた。

「……見たん?」
「見た」

 そうか、と残念そうに嘆息する。

「見たからには殺すしかないな」
「ふーん、そうなんだ」
「そうやねん」
「…………」
「…………」
「って、なんですとーっ!!」
「嘘に決まってるやん、あほか」

 ――――ゴツン

「痛い、ほんま痛い。星が出た。マジ見えた」
「うるさい。あんまりふざけてるとこっちが殺すからね」
「ひでえ」

 二度目の鉄槌、さすがに脳にダイレクトにきた。
 栞はプラプラと殴った手を振りながら、。

「あのね話を戻すけど、その勾玉、普通じゃないよね」
「…………」

 答えあぐねている少年に、栞は少々躊躇いながら。

「うーん、あのね、友達に、えーと何て言ったかな。種類は忘れちゃったけど魔法使いの子がいるの。もしかして、それもそっち関係?」

 少年はちょっと驚いたように目を丸くした。

「へー、栞って友達おったんや」
「待てぃ、そっちを突っ込むか!」
「じょ、冗談やん。拳は引っ込めてください、ごめんなさい。
 うーん、でもそれやったら話早いか。オレも詳しくは知らんけど、多分そっち系のもんやと思う。知り合いの兄ちゃんに着けて貰ったもんやねんけど、その兄ちゃん、なんでも陰陽師らしいし」

 言いながら、少年は勾玉を首筋に当てる。すると勾玉は沈むように首の中へと潜り込んでいった。代わりにぼんやりと勾玉の形をした痣が浮かび上がる。

「わわっ、入っちゃった!」

 出てくるからには入るものだとは分かっていたものの、目の前で見せられると驚いてしまう。
 おまけにちょっと気持ち悪い。

「そ、それなんなの?」
「勾玉」
「誰が見たまま言えって言ったのよ!」
「注文多いわ」
「そういう問題じゃない!」

 怒鳴ると、薫は「うるさいなあ」と耳を塞ぐジェスチャーを見せた。
 カチンときた。
 辛うじて嵌め込んでいた蓋が外れた。
 気がつけば、金切り声で怒鳴っていた。

「はぐらかさないでよっ!」
「なんだよ、そんな大声で怒鳴ら……」

 言い返そうとして薫は栞を睨みつけ、ハッと息を詰まらせた。
 決まり悪げに顔をそむける。

「ほんと、びっくりしたんだからね。ちゃんと、説明ぐらいしなさいよ。でないと、私は……」

 少女は大きく見開いた眼一杯に溜めてしまった涙を落とさぬように、グイと拭い、洟を啜った。
 不覚にも感情が制御できなくなっていた。
 この子が血を吐いて倒れたとき、本当に心臓が凍りつきそうになったのだ。怖かった。とてつもなく怖かった。自分が死ぬかもしれないと思うことは、それはそれでとても怖かったけれど。他人のそれは、また全然違った。
 自分のことなら幾らでも我慢できる。でも、これはたまらない。本当にたまらなかった。
 代わって耐えることも、癒すことも、何も出来ずただ見守るしかないというのは。
 本当に、たまらない。

「封やねん」
「……え?」

 唐突な一言。
 目を瞬くと、少年は鼻をゴシゴシと擦り、口の中を気持ち悪そうにモゴモゴと動かしながら、先を続けた。

「この勾玉はな、言うたら安全装置やねん。一定の値を無意識に超えてまわんようにするための。安全装置言うより、目安みたいなもんかもね。自分で超えよう思うたら、すぐ外れるし」
「一定の値……って」
「最初から説明した方が早いか」

 そう言って首を傾ける。しばらくじっと栞の顔を見つめると、薫はポケットに手を突っ込み、ポケットティッシュを取り出した。

「?」
「その前に、洟拭いときいや。垂れたまんまやと汚いし」
「―――ッ!!」

 ――ゴツン!

「……なんで殴られんのかなぁ」
「うるさい。君がデリカシー足んないのが悪いの!」








§  §  §  §  §








「功刀な、あれ改造人間やねん」
「…………」

 ちゃんと栞の納得できるように説明する。
 そう約束しての開口一番がそれだった。
 栞はチーンと洟をかむと、丸めたティッシュとどうしたものかと周囲を見回し、ベンチの脇に屑篭を発見、それ目掛けて投擲した。
 ナイスイン。
 ガッツポーズを決める栞を、薫は半眼で見上げた。

「……聞いてんの?」
「え? ああ、聞いてるよ。功刀さんは実は悪の組織に生み出された怪人だったんだけど、洗脳手術を受ける前に脱出して正義の味方になったんでしょ。やっぱり変身するわけ?」
「……変身もせえへんし、あのエゴイストが正義の味方のはずないやん。てか、真面目に聞かへんのやったら、もう話さんで。オレ、説明とか苦手やから嫌やのに」
「え、真面目な話だったの、それ」

 本気で驚いている栞に、薫はげんなりとなった。
 まあ、そりゃそう思われるのは仕方ないんだろうけどさ。

「真面目やよ。まあええわ。話戻すよ。
 栞は魔術の存在は知ってるんやったよね。ほんなら退魔師って知ってる? 文字通り、魔を退ける職業。
 うちの母方の実家はそれの大家やねん。尤も、元は武家やから魔術はあんまり使わん退魔法やねんけどな。淀の九十九埼いうたら、けっこう有名らしい。んで、功刀はそこで生み出された」
「ふーん……生み出された?」

 そこは普通「生まれた」じゃないのかと、栞は戸惑う。薫は首を振った。

「言うたやろ、功刀は改造人間やって。強化人間云うた方がええんかな。分け方分からんから適当やけど。
 あいつな、まだ胎児の状態の頃から魔術的に肉体改造されとってん。とんでもない数と種類の術式――魔法のプログラムやな――を組み込んだんや。身体を決定的に変質させるには、生まれてくる前でないとあかんねんて。人体が形成されていく状態で術式を組み込むことで、それらの術式をそもそも備わっていた機能なんやと錯覚させるとかなんとか」
「……なに、それ」

 少女は眼を見開き、唾を飲み込んだ。
 先ほどの彼の云った改造人間云々は、比喩などではなく、正真正銘そのままの意味だというのを理解して。

「なんで、そんなこと」
「化け物みたいに強い『人間』を作りたかったんやってさ」
「冗談でしょ。そんなこと、出来るの?」

 出来へんよ、と薫は当然のことのように言った。

「え?」
「出来るわけないやん。現に、功刀以外は全部失敗して死んでもうたんやって。そう聞いた」
「――――ッ!」
「本来なら絶対成功する見込みのない計画やったらしい。
 組み込んだプログラムの量も強さも、人間の身体が耐えられるようなもんやなかったんやと。成長してから同じことをやっても、余計に拒絶反応とかあるらしくてあかんかってんけど、やからって生まれる前の胎児やもんな。大人の身体が耐えられんのにそりゃあかんよ。成功するはずがない。
 それがなんでか功刀にだけは上手いこと定着してもうたんや。偶然中の偶然。ほんまの偶々。言ってもうたら、マグレや、と功刀本人は言うてた。
 ともかく、偶然でもなんでも、功刀は生き残った。生き残ったどころか、組み込んだ術式全部が正常に稼動した」
「全部?」
「そう、全部。ほんまに強いんやで、あいつ。その筋でも有名人らしいし」

 栞の脳裏に、北川家のマンションで、カーペットの上をゴロゴロと自堕落にだらしなく転がっていた功刀の姿が思い出される。
 おまけに「だるー」「ねむー」「めんどー」とうめいてる声まで聞こえてくる。

「……あれが?」

 うちの姉のほうが強そうなんですが。
 栞の疑問符に、少年はしみじみといった仕草で頷いた。

「わかるわー。信じられへんというより、理不尽やもんな、なんか」
「う、むー」
「まあともかくや。功刀は九十九埼の計画の唯一の成功作として誕生した。したんやけど、なんか色々あったらしくて、家を飛び出したらしい。今でも九十九埼の家とはうち、疎遠やわ。昔は疎遠どころか絶縁やったらしいねんけどね。
 んで、親父と出会って結婚した。いや親父と出会ったから家出たんやったかな。まあどっちでもええねんけど。
 それで本題や」
「本題、ですか?」

 栞は首を傾げた。そういえば何でこんな話をしてるのかと云うと、先ほどの一連の出来事の説明を自分が強く求めたからだった。そうだそうだ、衝撃的な内容に思わず忘れかけていた。
 しかし、今までの情報でだいたい薫の異常な身体能力の理由は想像できる。単純に、母親からの遺伝なのだろう。
 薫の言うとおりならば北川功刀という人は、人間離れした御仁だ。だとすれば、その血を引いている薫がその能力を……いや、待て?
 だとすれば、あの苦しみようはいったいなんだ? 何故あんな内側から破壊されているかのような七転八倒の苦悶を。それに、普段の薫くんは自分と同程度の身体能力しか…………。

「あっ」

 唐突に。
 功刀以外は全員死んでしまったのだと云う薫の言葉が脳裏をよぎった。

「まさか、拒絶反応?」

 ポツリ、と呟いた一言に、少年は目を丸くした。

「なんで?」
「あ、単なる推測だったんだけど」

 伊達に病院を第二の居住地とはしていない。
 これでも様々な症状の入院患者を見て来たし、自然と色々な知識を身につけてきた。
 考える材料さえあれば、何となくどういう状態か連想くらいはできる。
 薫は、思ったより頭の回転速いんやなあ、といささか失礼な感想を漏らし、

「ぶっちゃけその通りや。功刀に組み込まれた術式はもう功刀と分離できへん血肉神経そのものやってん。それはもう功刀そのものの要素の一つや。当然、子供にも受け継がれる。オレん中にはあいつと同じ種類と出力の術式がインストールされてる。
 でもな、それはあくまで功刀という個体に偶然適合できた、そもそもは人間に組み込めんデタラメな代物やん。そんなん、功刀っぽいけど、功刀ではない人間、つまりオレに対してどういう態度取る思う?
 拒絶や。拒絶拒絶拒絶。そこまで嫌がらんでもええやん、と思うほど暴れまくってくれたわ。
 規格の合わん本体にインストールされたプログラムみたいなもんや。プログラム自体がうまく動かんどころか、本体まで一緒に止まってまう。動かんだけやったらまだマシや。ヘタしたら本体をぶっ壊してしまいそうになる。
 ほんま、何度も死に掛けた。事あるごとに死にそうになった。生まれてこの方死にかけっぱなしやったわ。綱渡り人生やもん、笑ってまうわ」

 栞は言葉もない。いや、栞だからこそ言葉を口にしなかったのかもしれない。
 軽く口にするそれが、どれほど凄絶な道だったのか、栞も辿った道のりだ。理解は出来る。
 だが、抱いたものは同情ではない。共感でもなかった。
 ただそうであった過去というだけの事実。それ以上の意味もなく、それ以下の価値もない。
 単なる事実。ただそれだけ。
 誠実に、ただ事実だけを何も抱かず受け取るだけ。

「ただ綱をなんとか渡ってるうちに、身体の方が慣れてきたんや。8歳くらいがピークやったかな。それから年々楽になっていったわ。功刀の世代みたいに外部から植えられたんやなくて、ほんまに親から受け継いだんが良かったらしい。
 人間の身体ってスゴイよな。それがどれだけ猛毒やろうと、耐えてさえいれば慣れてくる。
 今ではもう、殆ど日常生活に支障なくなってしもうたもん。でもね、それはあくまで今の身体の強さが許す範囲でや。
 あの勾玉はさっきも言うた通り安全装置や。無意識に力を込めすぎたり、反射的に術式に頼ってしまわんようにするストッパーやねん。
 なにしろ、許容する範囲を超えて術式の作動を強めてまうと、身体が悲鳴を上げてまう。適合し切れてへん所が耐え切れんで、壊れていく。あっ、さっきは時間的に一分ちょいしかボーダー超えてへんし、ちょお身体がびっくりしただけやよ。今はもう、よっぽど無茶苦茶なことせえへん限り、休んどったら元の状態に落ち着くねん」
「…………」
「栞?」

 反応のない栞の様子を、怪訝そうに窺う薫。
 栞は無意識に唇に手をやり、指で摘んだ。強く、挟む。

「つまり」

 そういうことですか。
 いや、薄々は分かっていた。というか、理屈なんか分からなくたって、いきなりあの場面で倒れられたら誰だってその因果関係は察せる。
 誰がどう考えたって、北川薫が血を吐き悶え苦しんだ原因は、美坂栞にあるんだってことくらい。
 自分が間抜けにも崖から転げ落ちさえしなければ、彼が無理をする必要なんてなかったんだって。
 なるだけ考えないようにして何とか気を張っていたけれど。
 こうもはっきりと原因が分かってしまえば、もうダメだ。
 全然ダメだ。
 ガクン、と元気のバロメーターが奈落に落ちる。ガス欠みたいに笑えなくなる。
 ちょっと顔をあげられない。
 散々皆に迷惑を掛け通して、だからもう誰にも迷惑をかけたくないはず美坂栞が、自分よりも小さな子に血反吐を吐かせるような塗炭の苦しみを味わわせてしまったのだ。これが落ち込まずにいられようか。

「ごめん。ほんとごめんね。私の所為で」

 消え去りそうな声で、栞は薫に謝った。さらに何かを云おうとして、声を詰まらせる。
 こういうとき、何を云うべきか思いつかない。何度繰り返しても、慣れることが出来ない。うまく、対処できない。
 だから、栞は無言で肩を震わせて、

「まったくやっ、ほんま!」
「………ふえ?」

 フン、と鼻が鳴らされる。
 真っ赤に顔を紅潮させ、隣に座った少年は憤然と、

「栞ねーちゃん、あんだけやめろやめろ云うてんのに全然聞く耳持たへんねんもん!
 お陰で朝から口の中が気持ち悪くて仕方ないわ。早く口の中漱ぎたい。ちうか、全部栞の所為やぞ、まったく。反省してる? てか反省しろ。お前無茶苦茶やりすぎ。ほんまに年上か? 頭ん中空っぽやろ。考えなさすぎやで。ほんま久々やで、あんな痛いわ辛いわキツいわなんつーのは。あーもう最悪やっ!」

 ガーッ、と捲くし立てる薫くん。
 お、おやぁ? けっこうマジで怒ってるみたいな〜。

「…………」

 思わず呆気に取られてしまう栞。
 思ってたのとは違う反応に、薫は怒り心頭といった表情を不思議そうなものに変じて、キョトンと目を瞬いた。

「……なんよ? ぼけーとして」
「いやー、もうちょっとこう「あほ、別にお前の所為なんかやないわい」とかいう素っ気無くも優しい台詞を心なしか期待してたんですが」
「…………お前が悪いのになんでそんなあほなこと言わなあかんの?」

 憮然とジト目で睨む北川薫。
 あいや、ご尤も。
 なんだけど。
 そんな風に云われると、ムカっとくるようなこないような。
 と言いますか、納得出来かねると言いましょうか。
 素直に落ち込んでるのがどうにも腹立たしくなってきたような。
 カッツィーンとくるじゃないか、と言いましょうか。

「は、反省はしてるけどさ。柵がいきなり壊れるなんて不可抗力だよ。わ、私ばっかりが悪いってのはどんなものかと」
「なっ、ねーちゃん全然反省しとらんやないかい! 成長せえへんのは胸だけちゃうんか!」
「な、ななななんだとー!?」
「な、なんやねん。文句あるんか、ペチャパイっ」
「あるに決まってるでしょうがーっ、誰がペチャパイだーっ!!」

 ギャアギャアと口論が始まる。いや、口論じゃなくて口喧嘩か。
 まだ眠っていた鳥たちが、あまりのうるささに逃げるように飛び立っていく。
 思いつく限りの雑言を唾を飛ばして口にしながら、栞は少年の優しさをジッと噛み締めていた。
 彼の優しさは北川潤の包み込むようなそれとは違い、無作為で無遠慮で気遣いもない乱暴な代物だ。素直さなんて欠片もない。
 でも、根っこは一緒なんだと思う。
 甘やかしてはくれないけれど、彼のそれは、潤さんと同じように心地いい。
 意地悪だけれど、温かいのだと。

 いや、この乙女に対する失礼千万罵詈雑言は絶対断固許すまじなんですが。





 はぁはぁといい加減二人が息切れした頃には、もう時刻は7時に針を合わせようとしていた。

「ああっ、もうすぐ朝ごはんの時間ちゃうん!?」
「ちっ、もうそんな時間ですか。仕方ない、今はこれくらいにしておいてあげます」
「……まだやるつもりなん?」
「さて、じゃあ旅館に戻ろ」
「なあ、ジュースくらい奢れよ。なんか飲みたい」
「仕方ないなあ。ふむ、光栄に思いなよ。私って奢られ専門だから、飲食物を奢るのって君が初めてなのでした」
「……お前、ほんとは友達おらへんやろ」

 少し休めば元に戻るという薫の言い分は、どうやら誇張でもなんでもないようだった。
 気を配って様子を窺っていたものの、遊歩道を下る彼の足取りは充分しっかりしていた。

 旅館の建物が見えてきた頃。不意に薫がポツンと口走った。

「功刀な、ほんまは子供産んだらあかん言われとってん」
「――?」
「功刀の中の術式は、ほんま偶然に偶然を重ねた奇跡のようなバランスで機能してる。そんな中にや、別の生き物をお腹の中に入れてみ。ヘタしたらバランスが狂って術式が功刀という器に嵌らなくなってまう。障害が残るか、最悪死んでまう。そう止められてたんやって。
 もし無理をして産んだとしても、子供がちゃんと育つ可能性が少ないことも最初から分かってた。
 それでもあいつは、周囲の反対押し切って、オレを産んだんや。苦しんで苦しんで苦しんでのた打ち回って、オレを産んだ」

 二人の足が止まる。
 真横に立つ栞へと向けた少年の顔は、年相応の幼さで。

「そうやって生まれたオレは、どうしたらええんかな?」

 初めて見た、それは縋るような眼差し。
 どうして、そんな事を自分なんかに訊ねたのかは分からない。

「功刀に、なにをすればええんかな」

 答えを求められたのではないのだろう。ただ、誰かに聞いてみたかっただけなのだと。
 でも、それでも美坂栞はその問いに答えるべきであり、君の心を確かに聞いたと、示さなければならなかった。

「それは、君が決めることだと思うよ。君が、思うとおりに決めればいい」
「…………」

 少年は、当然とも言うべきその言葉に、恥じるように顔を仄かに赤くしながら、無言で小さく頷いた。
 既に、答えはあるのだ。明確なカタチになるものではないのだとしても。自覚の中にないのだとしても。
 少年は無意識に後押しを欲しただけ。栞もまた、彼の気持ちの実在を確かめさせてあげただけ。


 テクテクと先を歩く少年の後姿を眺めながら、栞は思う。
 彼と同じような疑問を、栞も抱えていた。
 両親に対して、姉に対して、自分は何をすればいいのだろう、という。
 なんとなく、それは生涯確固としたカタチになりえないものだと理解している。カタチにしてしまえば、それを成した後に消えてしまう。家族という間柄で、それは無粋というものだ。
 だから、確固としたカタチになることなく、それは常に其処にあり続ける。その時に応じた姿を垣間見せながら。

 差し当たって、自分が家族に対してどうすればいいのか。
 死なないことだと、栞は信じている。とりあえずは、それが一番重要だ。常に死を家族に提示してきた自分には。
 そして、遠からぬ未来に、再び死との対決を控えている自分にとっては。

「まあ、負ける気はしないんだけど」

 不治の病という必死でさえ、こうやって打ち勝てたのだ。
 たかがその余禄のような代物に、負ける気なんて欠片もしない。
 幸せな日々は途方もない現実感と共に栞を包み込んでいる。
 未来は途切れる気配など微塵も見せず、先の先まで続いている。
 まるで怖くはない。さっぱり怯えを感じない。全然死の予感なんて無い。
 これから歩いていく先に、ちょっとした塀があるような程度のことだ。
 こちとら、準備万端、覚悟完了。肝も据えたし、腕が鳴る。
 立ち塞がったところで、蹴り壊してやるだけのことなのだ。

「薫くん」
「あん?」
「これから先さ、自分が死んじゃう姿って想像できる?」
「んー、出来ないな。一番ヤバいところは越えちゃったもん。もう怖いもんなんかねー」
「あはは、そうだよねー、うんうん。死の淵から甦った私たちは無敵だー」
「……栞ねーちゃん、頭、大丈夫か?」

 本気で心配そうに、顔の前で手を振られる。
 失礼な。
 栞はポカンと薫の額を小突いてやった。

 まったく、今日は朝から大騒ぎだ。疲れた疲れた。

「さあ、朝ごはんだーっ。その前に朝風呂入るぞー!」
「……おー」

 元気少女とげんなり少年は、足取りも軽やかだったりお疲れ気味だったりしながら、朝の喧騒が湧き出した旅館の中へと戻っていった。





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