大坂北川家では、朝食の用意は薫の分担だった。理由は単純。母親が寝過ごすから。
 家族でちゃんと相談して決めたわけではなく、半ばなし崩しに常態化してしまった役割なので、薫としては不満タラタラなのだった。だが、文句を言いながらも毎日ちゃんと家族全員分の朝食を整えているところに、彼の律儀さが窺える。
 ともかく、その所為で、薫の朝は早い。別に目覚ましをかけていなくても、自然に目が覚める。自宅ではないからか、今日は一段と早く目が覚めてしまった。
 午前6時。
 隣の布団では、まだ従兄が「すぴーすぴー」と不思議な寝息を立てている。
 起こさないように布団から抜け出す。寝直し出来ない体質なのだ。
 背を伸ばしながら洗面所に向かう。蛇口を捻り、冷え切った水で顔を洗った。一気にさっぱりした気分になる。
 さて、これからどうしようか。

「潤ちゃん、まだ寝てるしな」

 このまま部屋に居てもすることがないし、ゴソゴソしていたら起こしてしまいそうだ。薫は、外に出ることにして、着替えを手に取った。寝間着代わりにしていた浴衣を脱ぎ、続いて下着を――――。

 ―――カチャ

「おはよーございまーす。起きてますかー? 起きてませんよね、寝てますよね。くくくっ、寝顔拝けー…………ん?」
「…………」

 開けっ放しにしていた洗面所のドアを挟んで、忍び足で入ってきた栞と、丁度脱いだトランクスを足から抜こうとしていた薫の視線が交錯した。
 キョトンと丸くなっていた栞の目の焦点が、少年の股間へと移り、しばらくして顔の方へと帰還する。

「…………」
「…………」

 にへら、と少女の顔が締まりのない笑みへと緩んだ。
 と思うや、グッと力強く親指を立てた。

「…………」
「……お邪魔しました〜」

 栞は、そのままスルスルと滑るように廊下へとフェイドアウト。後には片足をあげたまま硬直した薫が残される。

「…………ぐすっ」

 涙ぐむ。
 人はいつまでも、綺麗なままではいられないのだと知った少年であった。







 着替えを終えて、部屋を出ると、廊下には栞が所在なさげに待っていた。
 薫が出てくるのを見て、ばつが悪そうに小さく手を振る。

「あ、ははは、薫くん、おはよー」
「…………えっち」

 顔を赤らめ、恨めしげに上目で睨まれながらそんなことを言われ、栞は「ぱこーん」と顎を打ち抜かれたみたいに仰け反った。
 それでも辛うじて踏みとどまり、
「や、やだなー、不可抗力だよ、不可抗力」
「……見た」
「だ、大丈夫だよ、中学生にしたら立派だと思うし、って私だって見たの初めてなんだもん、だから断言できないけど、可愛いと思うよ、うんうん。もうドキドキ! じゃなくてじゃなくて」
「……ぐすっ」
「わっわっ、泣かないでーっ! ごめん、私が悪かった、謝るから」
「だれが……泣いてんねん」

 と、言いつつも言葉に力が無い。
 キュッと唇を引き結ぶ姿は涙をグッとこらえているようにしか見えない。どうやら本当にショックだったらしい。
 栞は途方に暮れた。
 昨日散々思い知らされた生意気で小憎たらしい姿からはかけ離れた反応に、頭を抱える。
 これじゃあ純情で傷つき易い繊細な男の子を手酷く苛めてしまったみたいではないか。

「もういい」

 洟を啜り、薫はトボトボと栞に背を向けて歩き始めた。

「ちょ、ちょっと、待って」

 慌てて後を追う。
 追いかけてしまったものの、どう声を掛けていいのか分からず、オロオロとあとに付いていく栞。
 薫の斜め後ろを歩きながら、栞は頭を悩ませた。
 会った初めからこの子とは何も考えずポンポンと言葉を交わしていたから――喧嘩していたと も言う――改まって言葉を探すと上手く見つからない。
 そこはかとなく落ち込んでいる様が透けて見える薫の背中を見ながら思いあぐねているうちに、なにやら段々と腹が立ってきた。
 卑怯じゃないか。今までふてぶてしさばっかり見せつけてくれてた癖に、そんな可愛い顔を、見せるなんて。
 なんだか自分がとてつもなく悪いことをしてしまったみたいに思わされる。
 そりゃ、悪いのはノックもせずに鍵を開けてこっそり忍び込んだこっちなんだけど。

「薫くんってば」
「…………」
「ごめんなさいって、おーい聞いてますかー?」

 ピタリ、と薫が足を止める。

「聞いてる」

 振り返り、正面に向き直る。でも、顔は合わせないまま、苛立たしげに、

「もうええって言ってるやろ。なんやねん、しつこいぞ」
「そんなふうに怒らないでよ」
「別に、怒ってない」
「落ち込んでるし」
「誰が」
「だって、突っかかって来ないじゃない」
「……それは」

 口篭もる。言われてようやく、薫は自分がかなりヘコんでいるのだと自覚した。
 たかが裸を見られたくらいで、何をショック受けてるのか。女の子じゃあるまいに。

「その、こう言うのって変だけどね。これじゃあ調子出ないよ」
「…………」
「ねっ、謝るから。元気出して、ていうのはおかしいか。気を取り直して欲しいな」

 薫は呆気に取られて、思いの他真面目な顔をしている栞を見上げた。
 拗ねてる子どもなんか放っておけば良いものを。なにを真剣になって機嫌を取ってるのだろう。参ったな、と薫は良い意味でへこまされた気分になった。
 これじゃあ、オレ、ほんとにガキじゃん。

「子ども扱いされても文句言えねーや」
「え? なにか言った?」

 耳聡く、口の中でこぼした独り言を聞きとがめ、キョトンとする栞に、敢えて厳しいしかめっ面をしてみせる。

「栞。悪い、思うてるんか?」
「え、あー、うん、思ってるよ」
「めっちゃ恥ずかしかってんぞ」
「あー、ごめんなさい」
「見られたん、初めてやってんからな」
「私も見たの初めてだよ、うん」

 そういう問題ではない。

「傷ついた」
「うん」
「もう立ち直れんくらいズタズタや」
「それは言い過ぎ」

 きっぱり否定するところは否定する栞。

「まあ、本気で悪い思うてるみたいやし」

 大仰に薫は腕を組んで見せた。
 その態度や口調にご機嫌の軟化の兆しを感じ取り、栞は内心ヤレヤレと額を拭った。ご機嫌取りなんて誰が好き好んでやるものか、と言いたいのだが、薫があんな調子だと居心地が悪いのも確かだったのだ。
 私がヘソを曲げて拗ねてしまったり、くだらないことで落ち込んでしまった時、お姉ちゃんや潤さんも、こんな気持ちで私のことを宥めていたのだろうか。そう考えるといろいろ複雑ではある。
 それにしても意外だった。どうやら自分は、この子と険悪に角を突き合わせることが嫌いではないらしい。
 けっこう楽しんでいた自分に気付く。
 生来のお転婆を、こんな風に曝け出してしまえる相手が、これまでいなかったからなのか。病弱な頃は、そもそもそんな元気も友達もなかったし、高校生となった今では友人と言えばもういい加減子供っぽさを厭う女性ばかりだ。気兼ねなく言い争うにしても、それなりの上品さと巧緻を混ぜ合わせなければならない。年上である姉達では、どうしてもただの甘えや我が侭になってしまう。
 何も考えず条件反射で、もしくは頭を空っぽにしてポンポンと言葉を投げつけられる相手と言うのは貴重なのかもしれない。況してや、その応酬となる相手ともなれば。
 ん? なんでそんな相手、ありがたがるかって?
 そんなの、別に難しい話じゃない。


「しゃあない。これで許したるわ」
「えっ? きゃっ!」

 想いに耽っている隙を突かれた。
 薫の手がプリーツスカートの端を掴み、思いっきり捲りあげる。

「うわっ、栞の癖になんや色っぽいパン――」
「この、エロガキッ!」

 情け容赦ない拳を、少年の頭に落とした。鐘をついたような良い音が鳴る。目から火花を飛ばしながら、薫はよろめいて頭を押さえて蹲った。

「なっ、なんだよ。パンツくらいで怒るなよ。こっちは裸見られたんだぞ」
「だからってスカートを捲っていいって事にはなりません!」
「ええやん、そんくらい。栞にしてはなかなかセンスのいいパンツやと、アタッ、イテテテ」
「はいはい、そろそろいい加減にしないと絞めちゃうよー」
「ごめん、ごめんなさい。痛いっ、耳引っ張るのはなしっ! 痛いっ、ほんま痛い!」

 引っ張りあげていた耳を離し、栞は腰に手を当てる。先ほどとはまた少し違う恨めしげな涙目で見上げてくる薫に、彼女はにぃ、と微笑み、ぴん、とその額を指で弾いた。
 驚き、額を押さえながら目を白黒させる男の子を見ながら、思うのだ。

 なんでそんな相手、ありがたがるかって?
 そんなの、別に難しい話じゃない。
 シンプルな話。
 すっきりするからだ。気分がまっさらになるからだ。
 活力が湧く。元気が出る。鬱屈したものが吹き飛ぶ。
 頭を空っぽにして怒れるからだ。馬鹿を丸出しにして笑えるからだ。
 ストレスを発散できると言えば、身も蓋もないけれど。

「ふふっ」
「な、なんだよ、気持ち悪いな」
「なーんでもなーいよ」

 機嫌良さげにニヤニヤと笑う栞に、男の子は訳の分からないまま不貞腐れたように顔を顰めた。
 別に機嫌を損ねたのではない。
 あっさりと、彼女の意図通りに元の態度に戻してしまったことが、何やらいまさらだが、急に照れ臭くなったのだ。
 そんな彼の態度に、栞は笑みを深くする。
 なんだ、余裕を持ってちゃんと観察してみれば、それは意外と分かりやすい感情表現じゃないか。
 栞にも、薫が照れているのが分かった。

「くくくっ、可愛いじゃない」
「……は?」

 今、何か面妖な台詞を聞いたような。

「よし、薫くん」
「な、なななに?」
「散歩行こう」
「へ?」

 混乱したまま、薫は手を掴まれ、引っ張られ出す。

「朝食までまだ時間がだいぶあるし、みんな寝てるから部屋にも戻れないじゃない。だから散歩」
「ど、どこ行くんだよ」
「昨日の夜、旅館の裏に遊歩道があるって聞いたの。ちょっとした展望台があるみたい。すぐそこだからちょっと行ってみようよ」
「朝からか?」
「朝だからだよ」

 当たり前でしょ?
 そう言って何の衒いもなく笑って見せられ、薫は一瞬息を詰まらせ、仕方なさげに大人しく手を引かれるままになった。







 すぐそこ、という栞の台詞は間違ってはいなかった。間違ってはいなかったが、その語感から素直に抱くイメージにはほど遠いものがあった。
 人がようやく行き違える程度の幅の、あまり整備されていない山道を、この辺りでは遊歩道というらしい。確かに距離的には短いものかもしれないが、角度はなかなか大したものだった。延々と続く階段を登っていくようなものだ。
 15分ほど掛けて、二人はようやく展望台へと辿り着いた。肩で大きく上下させながら、足りない酸素を一杯に肺へと送り込む。山地特有の透き通った冷たい空気が流れ込んできた。

「ぷはーっ、良い空気。美味しい」
「ちかれた〜」
「この程度でなにを情けない。元気が足らんぞー、男の子っ!」
「途中でへばってオレに背中押させたんは誰やねん」
「……えぅ?」
「おまえ、やっぱむかつく」

 ガルルル、と牙を剥く薫から、トコトコと軽やかに逃げ出し、栞は小さくも山林から切り開かれ、ちゃんとした広場になっている展望台に足を踏み入れた。
 登ってきた遊歩道を含め、三方は鬱蒼とした緑に包まれ、もう一方が崖になっていて、そこから山麓の雄大さが一望できるようになっていた。幾つもの峰が連なり、山間に流れる清流が遠く望める。
 まるで雲が空から降りてきたかのように立ち込める乳白色の朝靄が、どこか幻想的に緑を彩っていた。

「あちゃ、カメラ持ってきたら良かったかな」
「そんなん、目に焼き付けとけばええやん。カメラなんかいらんわ」
「おおっ、薫くんの癖になかなか良いこと言うね」
「……微妙に馬鹿にしてる?」
「してないしてない」

 二人は、柵にもたれて、しばらくボゥと遠く高く広々とした景色を眺めた。

「ああっ、しまったなあ」
「なに?」

 不意に声をあげた栞に、怪訝そうに目を向ける。栞はペロっと舌を出して、だが心底勿体無そうに目を細めた。

「うん、良い絵が描けそうだったのに」
「……絵?」
「仕方ないか。嵩張るから持ってこれるはずないし。うーん、後で思い出して描くというのも私の記憶力じゃ無理っぽいか」

 独りごちる栞に向かって、薫は素っ頓狂な声をあげた。

「栞って絵、描くの!?」
「……そのチンパンジーがシェイクスピアをタイプしたって聞いたみたいな言い方は、どういう意味?」

 目の笑ってない笑顔で威嚇し、年下の男の子を黙らせる。ここらへんのスキルは姉譲り。
 まあほどほどで許してやり、栞はクルリと踵を返すと、設置してある丸木の長椅子にフワリと腰を下ろした。

「絵はね、ちょっと嗜んでるのです、これが。殆ど我流だけどね。ちょっとした趣味でしょ」
「人は見かけに寄らんねんね」

 隣に腰掛けながら、薫がからかい口調で喉を鳴らした。ツンと頤を逸らせる栞。なにかポーズを取っているつもりらしい。

「何を言うかな。見るからに芸術家的風貌を備えてるっぽいじゃない、私って」
「鏡見れ、鏡」
「チッ、ちょっとくらいおべんちゃら使ってくれてもいいのに」

 さすがに自分で芸術家的外見を擁していると自惚れてはいないようだった。

「でも、なんで絵なん? あれってけっこう面倒やろ」
「別に絵じゃなくても、この世に面倒でないものなんてないと思うけど」

 そう言うと、薫は凄く嫌そうな顔をした。

「どうしたの?」
「いや、もう何もかもめんどくさいって生き方してるやつが身近にいるのを思い出してもうて」
「……?」
「ええねん、こっちの話や。でもや、絵を描くいうたら、色々道具もいるし、何かするにしたかてかなり面倒な部類やろ?」
「そうでもないよ。本格的なものでなくていいなら、画用紙とクレヨンさえあれば場所も気にせず描けるんだから」
「それやったら、ただのお絵描きやん」
「そうだね。でも、最初はお絵描きだったんだ。しかも、夢中になってた。他にやれることもなかったからなんだけどね」

 背を逸らし、朝日に白く照りかえる雲が点々と散らばる空を仰いで、薄く目を細める。

「いつの間にか道具まで買って貰って、描くようになってたよ。こっそり外に出て、色んなものを描いたっけ。技法なんて何も知らないから、今思うと無茶苦茶に好き勝手描いてたなあ」

 そこで、薫が「ああ」と声をあげる。

「そういや、潤ちゃんに聞いたことあったわ。忘れとった。あれやろ、めっちゃ下手くそやったんやろ?」

 明け透けな物言いに、ムッとする。

「……違うよ。稚拙ながらも常識に囚われない前衛的で革新的な画法であって、下手じゃないんだから。下手じゃないもん。というか、それ潤さんが言ってたの?」
「あ、うん」
「……クッ、ククク、今度また買い物に付き合って貰うことにしましょう。あれこれ欲しいものがあったんだよねー」

 どうやら地雷を踏んでしまったらしい。
 ごめんな、潤ちゃん。と、薫は内心で両手を合わした。
 それにしても、他にやれることもなかったから、か。
 内容と裏腹の、何の気張りもないさらっとした物言いは、実際に体験してきた者でなければなかなか出来ないものだ。そのさり気なさに、逆に薫は栞のこれまでの厳しい人生を垣間見た気がした。多分、自分も過去を同じような口振りで話すのだろうから。

「栞、ずっと病気してたんやろ?」
「そうだけど。いきなりだね」
「うん、実はさ。ずっと前から会ったら聞いてみたいこと、あってん」
「……私に?」

 吹き薙ぐ山の荒々しい風が、少年の収まりの悪い赤茶けた髪をかき乱していく。
 初めて見る薫の神妙な横顔を、栞は髪を押さえながらじっと見つめた。

「ずっと前からって、この旅行を企画する前から、だよね」
「功刀とか潤ちゃんからお前のこと聞いたときから」
「はあ」
「自分と同じような境遇の奴って、知ってる奴で居らんかったからさ。こういうこと、聞ける相手っておらんかってん」

 話の趣旨が読めずにキョトンとしている栞を、薫はスッと仰ぎ見た。
 どこか年齢よりも幼くて、濁りの無い飢えのようなものを滲ませた瞳。

「栞はさ、自分の親、恨んだことある?」
「……え?」
「だからさ、なんでこんな風に産んだんやー、て」

 これはまた、いきなり。
 重たいじゃない。
 栞は沈黙し、正直に困惑を顔に貼り付けて、手持ち無沙汰に髪を撫でつけた。
 どう答えたものか、すぐには言葉が生まれず、相手の真剣さに迂闊な物言いをすることも憚られ、栞は仕切りなおすように答えを保留して、問い直す。

「あのさ、薫くん。同じような境遇って」
「ああ、うん。あのな、あれよ」
「うん?」
「大きくなれるか分からん、てやつ」

 ギョッと髪を弄っていた手が跳ねあがり、目を見張る。

「……マジっすか?」
「うん、マジ」

 そういえば、行きがけにそれっぽい話をしていたっけ。
 いや、しかし。まさか、そんなレベルだったのか。

「それ、今はもう大丈夫なの?」
「うーん、まあ多分」
「多分って、そんな曖昧な」
「しゃあないやん。完治とかが当てはまらん話やねん。年々良化してて、もう大体大丈夫みたいとかなんとか」
「……わかんないよ、それじゃあ」
「説明、苦手や」

 苦手な科目で教師に指名されたみたく、少年は首を縮めて頭を掻いた。

「ふぅん」

 まあ大丈夫と言ってるのだから大丈夫なのだろう。無闇に気にしてもこればかりはどうしようもない。
 しかし、同時に彼がなんでこんな事を聞きたがったのか分かるような気がした。なるほど、こんな質問に彼が求める視点から答えられる相手なんて滅多にいないだろう。さすがに何故こんなこと、他の人はどう思うのかを知りたいのか。それは分からない。自分があまり気にせずに通り過ごしてしまったもの、もしくは乗り越え忘れてしまったものに、彼は今引っかかっている所なのかも知れない。

「えーっと、恨んだとか恨んでないとかの話だったよね」
「うん」
「そーだねー」

 栞も薫と一緒であまり説明が得意な方ではない。話を上手く纏めるのが苦手というべきか。
 でもまあいいか、と栞は開き直った。
 別に論理明快な説諭を聞きたがっているわけじゃないんだし。
 少女は、あっけらかんと昨日見たドラマの感想を言うみたいな口振りで、喋り出した。

「恨んだかと聞かれたら、それは恨んだよ。恨んだ恨んだ。こっちだって聖人じゃないもの。それどころか、まだ二十歳にもなってない子供だよ。恨んじゃうよ、そりゃ」
「……それ、直接親に言ったこと、ある?」

 ふむ、と唇に手を当て、きっぱりと告げる。

「それは、無い。言ったことはないよ」
「……どうして?」
「うーん、そうだね。意地、かな」

 疑問符を浮かべる少年に、栞は昔やってしまった悪戯を告白するみたいな顔をして見せた。

「意地だよ。意地っ張りの意地。子供なりに、そういう考えってただの八つ当たりって分かってるじゃない。でも、内心そう思わなきゃやってられない面ってあるでしょ。自分でも情けないなあって思うけど。でも、思わずにはいられないって。だからといって、それを面向かって言っちゃうのってね……なんかこう、負けっぽいでしょ?」
「……はあ」
「それを言っちゃあお終いよ、みたいな。なけなしの、薄っぺらなプライドのお話。いや、見栄って言ったらいいのかなあ」

 少女はブラブラと足を揺らしながら、「うーん」と背筋を伸ばす。「プハーッ」と息を抜き、そのまま勢いに任せて立ち上がった。そして、柵のところまで歩き、クルリと振り返って背を預けて、薫に笑いかける。

「だから、両親に気を使ってたわけじゃないんだ。いや、まったく使ってなかったってことはないよ。でも、そういうんじゃなくて、やっぱり自分に対しての意地、だったんだと思うんだ……えっと、分かる?」
「……ん、なんとなく」
「そっか。いや、こうして考えると、なんか我が侭だねえ。ほら、よく、ドラマとかドキュメントとかで、家族が子供の正直な気持ちを聞きたいって言う場面あるじゃない。苦しいはずなのに聞き分けばかり良くて文句一つ言わなくて、それが辛いんです、本音を話して欲しいんです、とか」
「うん、あるね」
「ああいうの見てると、お母さんやお姉ちゃん達は、正直に黒い気持ち吐いて貰いたかったのかなあ、って考えちゃうよ。でもねぇ、私としてはそういうのやっぱり我慢ならないの。うん、言わせて貰うなら、見栄くらい張らせろーってね」
「家族なのにか?」
「捻くれものの君になら分かるでしょ、人間なんて意地張ってなんぼの生き物だってさ。譲りたくない一線ってあるよ、やっぱり。どんなに自分がダメで嫌な人間って分かっててもさ、せめてこれくらいはしないでおけるんだぞって意地は。こんな自分だけは嫌だってラインは。家族とか、関係ないよ。自分の問題。だから、我が侭」

 そう言って、パチンと栞は顔の前で手を合わせた。

「だから、直接言ったことはありません。まあ、内心は、畜生なんてこんな身体に産んだんですか、恨んでやるー、でも八つ当たりだし言い掛かりだし、ごめんねお母さんお父さんこんなこと思っちゃって、全然悪くないのにごめんなさい。迷惑掛けてごめんなさい。でもこうなったのは私の所為じゃないのに。なんで私ばっかり。こんな私の面倒みてくれてありがとう。でも、やっぱり恨めしい、でも恨む言われはない、グルグルグルグル。とまあ、こんな風にグチャグチャだったけどね」

 照れたように、恥じるように、開き直るかのように、彼女は肩を竦めて口許をひん曲げた。

「あー、良く考えたら、こんな話したの初めてだ」
「悪い」
「謝られても困るなあ。別に嫌じゃないし。で、なにか参考になりましたか?」
「……分からん」
「ふふっ、正直で宜しい。」
「そもそも、別に悩んでたとかそんなんちゃうし」
「あー、分かる分かる。ただ、聞いてみたかったってことでしょ。あるよねー、そういうこと。好奇心とはちょっと違う気もするけど」

 さて、と話に区切りがついたのを見計らい、栞はステップを踏んで柵から離れた。
 腕にはめた時計を見ると、もうすぐ針は6時30分を指そうとしている。

「そろそろ帰ろうか。朝御飯の前にお風呂入りたいし。ちょっと汗かいちゃったもんね」
「また入るんか? 昨日、ゲーセンの帰りにも入ってたやん」
「当然でしょ。君は百数えるまで出ちゃいけませんとか怒られる風呂嫌いのお子様ですか。温泉に来たんだから、それはもう馬鹿みたいに入るのが常識でしょう」
「馬鹿みたいじゃなくて、馬鹿やん」
「朝風呂朝風呂♪」
「って聞いとらんし」

 義務のようにツッコミを入れ、足取りも軽やかに遊歩道の方へと向かう栞のあとについて歩き出す。が、すぐにその行き足は止められてしまった。前を歩いていたはずの栞が、急に立ち止まったかと思うや、キョロキョロと辺りを見回しだしたのだ。

「どったの?」
「なにか聞こえない? 鳥の鳴き声」
「鳥くらいおるやろ」
「そうじゃなくて」

 仕方なく耳を澄ましてみる。確かに小鳥の鳴き声のようなものが聞こえるが、別に何がおかしいというわけでもなく。
 いや、あれ?

「あ、栞」

 栞の視線が固定され、次の瞬間首を向けた方向へと足早に駆け出す。元来た方、開けて崖になっている場所の、樹木が覆い茂っている山林との境目の方だ。
 この場で待っているわけにも行かずに追いかける。栞は柵の近くに生えている木の根元へと屈みこんでいた。

「なんだよ、なにか見つけた?」
「見つけちゃった。ほら」

 そう言って、栞は両手の上に乗せたものを掲げてみせた。

「……うわ」

 ピヨピヨと健気に鳴いているその小さな塊は、どう見てもまだ翼をはためかせることすら出来ない鳥の雛。
 なるほど、本来上の方から聞こえるはずの小鳥の声が、地面から聞こえていたから違和感を感じたのか。
 咄嗟に上を見上げて目を凝らすと、すぐに鳥の巣らしきものを見つけることが出来た。

「落ちちゃったみたい」
「だね」
「戻せるかな」

 鳥の巣が乗っている枝は、自分達の背丈ではとてもじゃないが届く高さではない。薫は登れないかと幹の周りを回って調べてみたが、凹凸がなく滑りやすい樹皮で、登るに必要なとっかかりを見つけられなかった。

「あかん、ちょっと無理っぽい」
「あ、ほら、この柵」

 木を見上げながら頭を抱えた薫の裾が、クイクイと引っ張られた。振り向くと、栞が崖からの落下防止用に設置してある柵を、小鼻を膨らませて指差している。

「これに登ったら、ちょうど巣のところに届きそう」
「あ、あほか!」

 薫は顔色を変えて怒鳴った。

「あ、危ないやんか」
「大丈夫だよ。ほら、柵の縁、こんなに広いし」

 ポンポンと鉄製の柵を叩く。確かに、靴の縦幅とは言わないが、柵の厚みは15センチくらいはあった。登ってさえしまえば、平均台よりよほど安定して立てるだろう。
 でも、

「風も強いやん。ほんま、危ないって」

 薫は柵から身を乗り出し、下を覗いてゾッと声を震わせた。
 下には小さく車道が見える。ビルの五階はありそうな高さだ。万が一足を踏み外せば、どうなるやら。

「でも……」
「…………」

 二人の視線が、彼女の手の上にチョコンと乗っている生き物へと集まり、動けなくなる。
 薫は観念したように大きく息を吐いた。

「わーったよ。オレが登る」
「さすがは薫くん。良く言いました」

 出来のいい弟を見るような眼で、栞はにこりと笑った。

「でも、登るのは私ね」
「……はっ!? なに言ってんだよ、あほか?」
「だって、君だと多分、全然届かないよ」

 チッチッチ、と人差し指を左右に振り、そのまま柵と枝の間の空間を指差す。思わず薫は押し黙った。彼女の言う通り、自分の身長では柵に乗っても枝まで手が届かない。

「私でギリギリぐらいだね。そういうわけで、私が登りまーす」
「ま、待て、ほんま危ないって」
「大丈夫。薫くん、下から足、掴んでてよ。あ、ほら、そこの大きな石を足元に置いて乗ったら、腰のらへんで腕を回せるよ。うん、腰を抱き抱える感じで。それだったら、もしバランス崩しても薫くんが支えてくれるでしょ」
「うう」

 頭の中で吟味する。確かに、下から腰を抱いていたら、バランスを崩したり、足を踏み外しても支えられるだろう。
 薫は渋々承諾した。

 雛を胸のポケットに入れ、お世辞にも軽やかとは言いがたい動作で、栞は柵へとよじ登る。薫は引きずってきた踏み石を柵の下へと転がし、設置した。ぐらつかず、上手く平面になってる石だ。その上に乗って危なっかしい栞を冷や汗を掻きながら見守った。立ち上がるまでが一番危険だ。ちょっとでもバランスを崩したら、此方側に自分ごと引きずり倒すつもりだった。
 自分などよりよほど切羽詰った形相をしている薫を視界の端に見つけ、思わずクスクスと笑いながら、栞はなんとか柵の上へと立ち上がる。

「っと、いいよ、支えて。あ、やっぱりギリギリだ」

 許可が出るや、薫は栞の腰に手を回し、絶対落ちないようにしっかりと抱き締めた。
 二人が、この体勢がいかに危険か気付いたのは、間抜けにもようやく此処に至ってからだった。

「…………」
「…………」
「うぷぷ、耳まで真っ赤だよ、男の子。いやはや、困ったね、この格好」
「う、うるさい」
「顔とか変な風に動かしたら、あとで酷いですよ」
「動かすか!」
「あと、息とか吹きかけない」
「するか!」
「舐めるとか匂いを嗅ぐとかスカートの中に顔を突っ込むとか」
「変なこと言っとらんで、早くせいや!」

 怒鳴っていると言うよりも悲鳴に近い叫びだった。
 腰にしがみつかれ、下腹部に顔を押し付けられながら、栞はポリポリと頬を掻いた。
 うーん、本来なら悲鳴をあげるべき立場はこっちなんだけど。

「ともかく離さないでね」
「あーうー」
「すぐ終わるから、それまで堪能してて」
「あほかっ、黙れ、はよせい!」

 真っ赤になって喚き散らす薫をからかいながら、栞は身体を一杯に伸ばし、枝の上の巣へと手を伸ばす。あとちょっと。

「いけるか?」
「もうちょい。ごめん、ほんとにしっかり持ってて。ちょっと爪先立ちになるから」

 腰に回された手に力が込められるのを感じながら、そろそろと踵を浮かせる。指先が巣にかかる。あとほんの少し。
 最後、僅かに投げるよう雛を浮かせる。転がるようにして、雛は巣の中に入った。

「やった!」

 ――――バキン!

「バキン?」

 異様な金属音が響いた。まるで折れるような。
 グラリ、と視界が大きく巡る。緑が遠のき、空が目の前に広がった。
 手が宙を掻く。頭が真っ白に染まる中、反射的に足元の方へと目が行った。愕然とする。
 根元からポッキリと、笑ってしまうほど盛大に、自分が足場にしていた柵が折れて崖のほうへと倒れてようとしている。

 う、うそでしょーっ!?

 体が、宙に投げ出されようとしていた。
 あちゃー、と力ない吐息がこぼれた。
 こりゃダメだ、と頭の中の冷静な部分が、対処を投げ出す。これは落ちる。そして、多分死んじゃう。高さは前もってちゃんと確かめてある。運が良くなければアウトな高さだった。いや、けっこう運はある方かもしれないので、もしかしたら死なずに済むかもしれないけど、あー、多分ダメだろう。ちょっと高望みしすぎだ。
 参ったな、と泣きそうになる。
 不治の病から奇跡のように生還しておきながら、こんな馬鹿げたことで死んでしまうなんて。世の中って結局こういうものなんだろうか。どんなに劇的な形で死から逃れても、生きている以上は結局詰まらないことで死んじゃうのが普通なのだろうか。
 だとしたら。
 私は結局は、遠からず死んでしまったのだろうか。
 可能性ゼロの病気から生還出来たのに、失敗の可能性が二割しかない手術で死んでしまっていたのだろうか。
 意味の無いIFだ。この場で死んでも生き残っても、意味の見出せないくだらないIF。
 と、不意に自由落下へと至るはずの不可思議な浮遊感が、奇妙なゆがみをみせた。
 拡散していた意識の焦点が、収束する。

 柵が壊れたのを見た時など問題にならないほどの激しさで、頭が軋んだ。

 なにやってるの、この馬鹿ぁぁぁァツ!

 腰をガッチリと掴む腕の強さは、まったく緩んでいなかった。
 薫は腰にしがみついたままだった。必死に、背中の方へと引きずり倒そうとしている。
 無理な話だ。柵に寄りかかって栞のことを支えていたのだ。すでに重心は前へと持っていかれている。もう取り返しはつかない。
 離せ、と栞は思った。
 自分を放して、そう空いた手を急いで横に伸ばせば、壊れていない方の柵を掴める。落ちずに済む。済むのに。

「は、離しなさいっ!」
「―――やだ!」

 腹が立つほどこれまで通りに、北川薫は美坂栞の言うことなんかこれっぽっちも聞いてはくれなかった。

「ばっ―――」

 罵倒が言葉になる前に、すべてはもう取り返しがつかなくなった。
 倒れゆく柵と栞の靴の接触面がなくなった。
 薫の足が地面から浮かぶ。
 完全無欠の浮遊感が二人を包んだ。


 自由落下が、開始された。




第七幕目次へ





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