湯治に来たとは言わないが。
 でも、やはり温泉宿に来たからには、温泉に入るものだろう。
 それが温泉に対する礼儀でもあるし、極論すればしきたりだとも言える。
 だいたい、此処まで来て温泉に入らないと言うのは本末転倒ではないか。いったい何をしに来たという話になる。

「っていうか、入らないと損だろうが。せっかく高い宿泊費払ってるのに」
「別に入らへんとは言うてへんやん。ただ、温泉なんて爺むさいなあ言うただけやろ」
「かーっ、これだからガキは趣きってもんが分かっちゃいねえ」

 脱衣場で、衣服を脱ぎながら、北川はしたり顔で高説を垂れる。

「温泉ってのはな、日本の文化だぞ、文化。若者が文化を大事にしないでどうするよ。自然を愛でるように、古い寺や神社を拝観するかのように温泉は味わうべきなのだよ、少年」
「わけわかんねーよ」
「女子大生のネエちゃんの間でだって温泉旅行は流行りなんだぜ」
「一緒に入りたいんなら混浴の温泉行きぃや」

 付き合ってらんねえ、とタオルで前を隠し、さっさと風呂へと向かう従弟の態度に、北川は寂しげに、

「つれないなあ」

 と、呟いた。





 温泉は露天ではないものの、大きなガラス張りの壁からは山の雄大な自然が一望できる作りになっている。なかなか威風の立つ、檜仕立ての風呂であった。
 その濛々と湯気立ち込める風呂場では今、ワンワンと少年の悲痛な叫びが反響している。

「あちーっ、あちーっ! あついわぁぁ!」
「当たり前だろうが。温泉だぞ、温泉。温泉は熱いんだよ」

 北川の言う通り、温泉とは熱いものだ。稀にぬるま湯というところもあるが、大概は家の風呂より格段に熱い。

「んんなん言われたって熱いんは熱いんやぁ!」

 お湯の熱さも確かめず、湯浴みすらもせずに湯船に飛び込んだのだから、自業自得だ。北川は一片の同情も垣間見せず、言い放った。

「ちったー我慢しろ。そんなだからガキだガキだ言われるんだぜ」
「あかん、我慢できん」
「って、こら逃げるな。もうちょっと辛抱してりゃ気持ちよくなってくるって」

 さっさと湯からあがろうとする薫の頭を、北川は上から両手で押さえつける。

「あぎゃぁぁ、や、やめれーっ、オレ、猫舌やねんてぇ」
「猫舌とお湯の熱さとなんの関係があるんだ?」
「うあーうあー」
「大丈夫大丈夫、段々慣れてくるって。そろそろマシになってきただろ?」
「うーうー」

 唸り声をあげて不満を表明するものの、言われた通り慣れてきたのも確かで、薫は湯船から逃亡を図るのを諦めて、ズブズブと顔の下半分を湯に沈めた。
 抵抗が途切れたので、北川もタオルを頭に乗っけて、湯船の縁に背中を預け寛いだ様子で身体を伸ばす。

「やっぱり足伸ばせるのって良いよなあ。家の風呂じゃ無理だし」
「……」

 同意は返って来ない。横顔を見れば、面白くなさそうにそっぽを向いていた。
 言われた通り、熱さにも慣れて来て心地よくなってきたので、むくれているのだろう。
 相変わらず素直じゃない。
 北川は気心の知れた相手のあまりにもそれらしい態度に、寛ぎを感じながら、話し掛けた。

「なぁ、薫よぉ」
「なんよ」
「栞ちゃんとさ、もっと仲良くしろよー」
「いやや」
「即答かよっ」
「しゃあないやん。オレ、あいつ、嫌いやもん」
「……ふうん」
「な、なんだよ。ニヤニヤ笑ってさ」

 ムスッとなって横目で睨みつけてくる薫に、北川は口許を歪ませたまま、頭に乗せたタオルを顔にずらして視線を遮った。

「いや、だってさ」

 クククッと喉を鳴らす。

「お前って本当に嫌いな奴相手だと、全然喋らないじゃん」
「――――ッ」
「喋らないどころか完璧に無視するしな。それか、お前なんか喋る価値もないって顔して冷笑しやがるし」
「お、オレ、そんなことしとった?」
「してたしてた。何年か前か、お前んところ遊びに行った時見たもん。お前、自覚あるのかないのか知らないけど、けっこうエグい性格してるぜ」
「そ、そんなの、その時だけかもしれへんやん」
「いや、功刀ちゃんもそうだって言ってたし」
「く、功刀のやろう。ペラペラと」

 憤っているのか恥ずかしいのか、薫は八つ当たりのように肩をいきりたたせた。

「まあ、オレとしちゃあ、余計な面倒さえ押し付けられないなら、それでいいんだけどな。栞ちゃんもけっこう楽しんでるみたいだし」
「なに言うとん。怒っとったやん」
「あの子がああいう風に怒ってるときは機嫌がいいんだよ」

 あっけらかんと言われ、薫は唖然として目を剥いた。

「な、なんやねん、それ」
「愉快な子だろ」
「わけわかんねー」

 率直な見解に北川はケラケラと笑い声を立てた。
 そのまま、上機嫌に鼻歌を口ずさみはじめる。音程の外れた、決して耳障りが良いとは言えない旋律だ。それでも、音が反響する風呂場の中でなら、何とか聞けたものになるのだから不思議なものだ。

「なあ、潤ちゃん」
「んー」

 檜造りの縁に組んだ腕の上に顎を乗せてぼんやりと鼻歌を聞き流していた薫は、ふと気が緩んだように呟いた。北川は鼻歌を止めないまま、閉じていた瞼の片方を半分開けた。

「潤ちゃん、栞と付き合ってたんやろ?」
「付き合ってたぞー」
「なんで別れたん?」

 そうだなあ、と応じながら北川は濡らしたタオルで顔を拭った。

「ってか別れたんじゃなくて、フられたんだけどな、オレ」
「……フられたんや」
「薫、お前今、すっげー憐れみの目で見ただろ、おい」
「やって、フられたんやろ?」

 有効な反論を思いつけず、北川はお湯の中にブクブクと沈殿した。

「なんで潤ちゃん、フられたん?」
「ぷはーっ、あ? なんだって?」
「なんで潤ちゃん、フられたん、って」

 浮かび上がってきた北川に、もう一度繰り返す。
 額に張り付いた前髪を両手で撫で付けながら、北川は露骨に嫌そうな顔をした。

「お前、キツいことズケズケ聞くな」
「親父が警察やもん」
「尋問はお得意ってか。むしろそういう容赦ないところは功刀ちゃんっぽいけどな」
「だから功刀と似てるって言うなや。傷つくわー」
「微妙なお年頃だな。思春期か?」
「関係ないわい」

 むくれる薫に、北川は彼とその母親の複雑な関係を思い浮かべ、口許を緩めた。
 自分の母親を呼び捨てにしていることからも、周囲からは功刀と薫の母子は仲が悪いのではと勘繰られがちだ。実際、薫の口から出る母親の話は文句ばかりだし、近隣の住人は頻繁に二人の口喧嘩――と言っても薫一人が一方的に怒鳴っているだけだが――を耳にしている。
 薫本人でさえも自分が母親のことを嫌っているのだと思い込んでいる節がある。が、北川から言わせればお笑いだ。北川は、これほど自分の両親に誇りを持ち、尊敬を抱いている子どもを他に知らない。
 逆にそれだけ敬慕しているからこそ、功刀にこれだけ反発を抱いているのだろう。と言うのが、この母子を一番間近で見てきた功刀の親友である――北川も色々とお世話になってる人でもある――郁浪菰乃という女性の見解だった。
 何しろ、普段の功刀ときたら目を覆いたくなるほどの無気力と自堕落が混合して結晶化したような存在だ。誰だって自分が尊敬してやまない相手のそんな姿を見せられて愉快では居られないだろう。それをそれこそ毎日目の当たりにさせられるのだ。ただでさえ潔癖な思春期真っ盛り。現実を鷹揚に受け止める余裕がない時期だ。母親の自堕落さに、を通り越して、母親そのものに我慢が出来なくなってるのも仕方ないところだろう、云々云々。
 つまり薫くんの反抗期をどうにかしはりたいのなら、まず功刀のバカをなんとかするべきなんですよ、おじ様。あのバカを、無気力バカを、どうしようもない真性バカをっ、もっと真人間にしない限りどうしようもないに決まっとるやないですか! と、今更どうやっても無理なことを拳を振り上げて力説する菰乃小母さんと、相談したはいいが自分の妻をバカバカと連呼された挙句、無理難題をもって切り返されて困り果てる叔父の姿を、偶々遊びに来ていて目の当たりにした北川は、随分と良く覚えていた。何しろ、あの叔父が言葉も返せず頭も上がらないという姿を見るのは滅多ないことだっただけに。
 誰があの家の真の実力者なのかという話はともかく、菰乃の薫に関する見解は、まともな反抗期を迎える前に両の親を無くした北川にも、なるほど得心の行くものであり、端から見ていた立場としても同感を得られるものだった。
「もっとシャキッとしろやぁ!」というのが、日頃の功刀に向けられる薫の嘆きと憤りの入り混じった口癖だ。それこそが、彼の一番まっさらな心情を物語っているんだろうな、と北川は思っている。

「えーっと、話なんだったけ。オレがなんでフられたか?」
「そう」

 北川は顎を摩りながら、湯気が上っていく先を目で追いながら、頭を巡らす。
 そこで、ふと思い至る。

「……なんでオレがそんなことお前に語らにゃいかんのだ?」
「え、いいじゃん、それぐらい」
「うわーっ、軽く言い切りやがったな、こら。あのな、フられたんだぜ、言わば失恋といっても過言ではありませんのよ。それをなんで好き好んでお前みたいなガキに語らないといけないんだよ。恥ずいじゃないか」
「いいじゃん、照れんなよ」
「あーうるせうるせ。頼むから聞くな。これでもまたけっこうショック引きずってるんだって」
「なんだよ、繊細ぶっちゃってさ。ケチ」
「お、お前もいい加減むかつくよな。ん? あーっ、さてはお前」
「な、なにさ」
「ケケケ、さては薫、お前栞ちゃんに気でもあるんだろ」
「あ、アホか! そんなんあるわけないやろ」
「おおっ、反応が妖しいなあ」
「……オレ、もうあがるからな」
「栞ちゃん、可愛いもんなー」
「オレはあんなガキっぽい女趣味ちゃうわっ。オレが好きなんは、年上の優しい、あとおっぱいの大きいお姉さんやの、あほー!」

 負け惜しみじみた台詞を残し、薫は憤然と肩を怒らせて洗い場の方へと消えていった。

「年上の優しいおっぱいお姉さんだと? 贅沢すぎだろ、それ。特におっぱい」

 北川は小さくうめきながら腕を組んだ。

 そういや、栞ちゃんってそんな小さかったかなあ。

「……小さいか」

 去年の夏の水着姿を見た分には、まあ、残念ながら。
 自己申告では「大きくなってますよっ」と度々聞いていたものの、詳細なサイズは教えてもらった覚えがない。

「背伸びしたい年頃なんだなあ、うんうん」

 ちょっとズレた感想を述べつつ、もらい泣きに咽ぶ北川であった。





「へっぷくしゅん! あ、あれ?」

 とっぷりとお湯に浸かり、身体の芯まで暖まっているはずが、何故かくしゃみが出てしまい、クエスチョンマークを乱発する栞。

「おや、風邪かい?」
「あっ、違います違います。きっと誰かが私の美貌を噂してたんですよ」

 途端、お風呂で一緒になって、これまで談笑していた七十歳前後の品の良いお婆さんは、洒落の利いた冗談を聞いたみたいに、コロコロと笑った。

「あらまああらまあ、そうなんそうなん。いやいや、そうかもしれんねえ。お嬢ちゃん、小学生にしたら大人っぽい美人やもんねえ」

 ピシッと栞の笑顔にひび割れが走る。

「あ、あの、私小学生じゃないんですけどぉ」
「いややわぁ冗談よぅ、おばあちゃんやからって女の子の歳間違うほどボケてへんて。小学校なんてもう去年ぐらいには卒業しとるもんねえ」

 いやー、バアちゃん、小学校は6年も前に卒業したっすよ、とすっぱり言ってはバアちゃんあんたボケてるぜ、と言ってるようなものなので、さすがに口には出来ずに、栞は鳥取砂丘も斯くやの乾いた笑い声を掻き鳴らした。
 胸も背丈も小さくても、美坂栞17歳。気配りまで中学生並みとは言わせまい。

「胸、小さくないもん」

 そこは見解の別れるところである。








「潤ちゃんてやぁ」
「んだよ」
「浴衣似合わんね」
「くぁ、そうかぁ? 羽織袴のときもそんなこと言われたよな。もしかしてオレって和服似合わない?」
「なんかすんげぇ違和感ありあり」

 風呂上り、定番なのだが、二人は洋装から浴衣へと着替えていた。青を基調とした清涼感のある風情の浴衣だ。
 不思議と着こなしが様になっている薫に比して、北川潤の方は和服そのものと相性が悪いのか、薫の言の通り浴衣姿に妙な違和感が付きまとっている。

「あ、今あがりですか?」

 同じく女湯の方に入っていた栞が、頭から湯気でも出しているのではないかと思うような、ぬくぬくとした様相で、手提げ袋を片手に現れる。
 此方もちゃんと浴衣姿だ。男衆とは違って桃色の生地。風呂上りの仄かに上気した顔を綻ばせ、栞は「どうですか?」と二人の前で浴衣の袖をはためかせながら、クルリと一回転してみせた。

「おう、いいんじゃないの?」
「うん、色気が全然ないところが特に」

 ゼンマイの切れた人形のように、栞は回転途中に停止した。

「なあ栞やぁ、普通風呂上りの浴衣姿言うたらどんなやつでもちょっとは色気出るもんやのに、なんでそんな完璧にないん?」
「ほ、本気で不思議そうに聞くなぁぁ!」

 栞がキャノンシュートを蹴るような勢いで振り上げた足から放たれたスリッパが、見事に薫の鼻っ柱に直撃した。
 顔にスリッパを貼り付けたまま、蹈鞴を踏んで仰け反る薫。

「おお、ナイスシュート」

 思わず北川は拍手を打った。
 震える手で薫はスリッパを引き剥がす。そのまま掴んだスリッパを地面に叩きつけて絶叫した。

「な、なにすんだぎゃーっ!」

 怒りのあまり語尾が無茶苦茶になってる絶叫に、だが栞も怯む様子を微塵も見せず、髪の毛を逆立てながらガンをクレ返した。

「黙らっしゃい、この暴言垂れ流し小僧! ああああ、もういい加減頭キタっ、この赤毛子ザル! シメてやるから其処になおりなさい!」
「へん、やってみやがれやこの貧乳猿っ。せいぜい無い胸の前でシンバル叩きながらほざいとれ! 猿っぽくてお似合いやぞ!」
「キィィィ! 殺す、殺して黙らせる! 黙らして埋めてやる!」
「ほざけっ、お前の墓穴にしたるわ!」

 遂に取っ組み合いまではじめてしまった二人に、北川は沈痛な溜息をこぼした。

「あのなあ、二人とも」
「このっこのっ、鼻毛くらい処理しとけ、この下品女!」
「ちゃんとしてます! そういう君だって口が臭いんじゃない!?」
「おおい」
「毎日歯ぁ磨いとるわ、ぼけ! 歯槽膿漏だらけの栞と違ってなぁ」
「し、歯槽膿漏ですって!? ありとあらゆるお医者さまに罹ったのが自慢のこの私が唯一罹ったことがないのが歯医者と知ってほざきますかっ、この口はぁぁ!」
「ほが!! ほが、へげげぐふごごご!」
「ふふっ、思い知ったって、へにゃッ!? ほにゃ、やめにゃしゃほがががが!?」
「いい加減にせい!」
「ほがっ!?」
「へにゃ!?」

 耳を傾けすらされず、さすがに忍耐の糸が切れた北川は、硬く握り絞めた拳骨を二人の頭に叩き落した。
 片や敵の口蓋にスリッパを突っ込み、片や敵の鼻の穴を両手の指を使って左右に押し広げるという、お互い道義的ボーダーラインの瀬戸際を鬩ぎ合うような凶悪な攻撃手段の応酬を繰り広げていた栞と薫であったが、さすがに加減なしの鉄拳に悲鳴と思しき奇声をあげて蹲った。

「ほがほがっ、ううっ、ペッペッ、うげっ汚ねぇ」
「あたたた、酷いじゃないですか、いきなり殴るだなんて」
「美坂がいないんだ、オレが代わり勤めるっきゃないだろ」

 熱心に説教する様子でもなく、やる気なさげに北川は軽く肩を竦める。

「そういう代わりは要らないですよぅ」
「だったら怒られないようにしなさい。羽目外しすぎだっての。自分の家じゃないんだから」
「ううっ、ご、ごめんなさい。反省しますから許してくださいよぅ。チッ、君の所為で怒られたじゃない」
「お、お前、取り繕おういう気ゼロやな」

 いっそ清々しいくらいの露骨な態度の切り替えに、薫は怒りや呆れを通り越して畏れを抱いたようだった。

「ほれ、さっさと広間行こうぜ。もうそろそろ夕食の準備終わってる頃だ」
「はーい。仕方ない、決着はまた後で付けてやることにします。首を洗って待ってなさいよ」
「けっ、望むところや」
「穏便になー」

 首を掻っ切る仕草をしたり、中指を突き立てたりしている、危ない二人組みに、もう迷惑被らなければそれでいいやと言いたげな投げやりな口振りで、北川は首を竦めた。







「夕御飯、とっても美味しかったですねー。蟹さんあんなに食べたの初めてです。と、言うわけで」

 濡れたタオルをパンと張るかのような口調で、美坂栞は告げた。

「覚悟しなさい、北川薫くん!」
「いや、なにがどう「と、言うわけで」なん?」
「最期の晩餐は済みましたね、という確認事項だよ」
「……栞って、実は何も考えないで行き当たりばったりで喋っとるやろ」
「……ち、違うよ。えっと……無心の境地?」
「境地って、なんか極めたん?」
「えー、バニラアイスなどを少々」
「わ、わけわかんねー」

 母親が母親なので変な人には慣れているつもりの薫であったが、如何せん世間は広い。
 大いに怯んだ薫を見て、理由は何でアレ相手の隙を見出した栞は、ここぞとばかりに逸れかけていた話の流れを強引に引き戻す。

「とにかく、一度私達ははっきり白黒つけるべきなの! 真剣勝負で全力を振り絞り、血と汗と涙を流して激闘を繰り広げ、そしてお互いの実力を認め合って友情を結ぶんだよ! その上でちゃっかり私が勝って、薫くんを絶対服従の下僕にしちゃったりした挙句無理難題を吹っかけられて薫くんが泣いて謝る様をうっとりと堪能するトゥルーハッピーエンド! おーけー!?」
「ちょ、ちょう待って、最後が変やったぞ。なんや無茶無茶おかしかったぞ!」
「と、言うわけで、此処で勝負だ。ゲームセンター!」
「ぜ、全然聞く気なし?」
「よーし、とつにゅー」
「わっわわわっ、引っ張るな、転ぶぅぅ、脱げるぅぅ、えっちぃぃ」

 浴衣の裾を引っ張られ、薫はよろめきながらホテル内に設置してあるゲームコーナーへと引きずり込まれていった。

「時に薫くん」
「んだよ」
「君の得意なゲームってなあに?」
「得意なの? うーん、小遣い少ないからあんまゲーセンいかないし。あっ、踊るやつはすっげー得意だぜ。友達の家で最新版のあったからやっとってん」
「じゃあ、それは無しということで」
「うん、無しということでっておい!」

 美坂栞。座右の銘は唯我独尊。



 大概の宿泊施設には備わっているゲームコーナーだが、勿論所によってその傾向や充実度は様々だ。このホテルでは、標準的な街のゲームセンターに類した筐体を並べているようだった。さすがに若者の溜まり場となる盛り場のゲーセンのような煙草臭さもなければ、うるさいBGMも流れていない。そもそも、使用するのは宿泊客ばかりだから、利用客も疎らだ。

「英悟さん、ほらクレーンゲーム」
「……沙織さん、なにかな、その期待してる目は」
「ほらっ、ゲームセンターなんて行けるものじゃないんだし、ね」
「うーん、仕方ないな。一回だけだぞ」

 さり気なくいい雰囲気を醸し出してる夫妻には遠慮して、北川は先に来ているはずの栞と薫を探し回った。さほど広い場所ではないので、すぐに発見する。二人の姿は、レーシングゲームの筐体の中にあった。

「やってるやってる。どれどれ」

 二人の間から画面を覗き込んだ北川は呆気に取られた。

「なにやってんだ、お前ら?」
「じ、潤さん、邪魔しないでください! 集中力が乱れちゃうじゃないですか!」

 と、いたく真剣なご様子で叱責する栞なのだが、そのマシンと言えば時速80キロで走行中。普通の路上ならそこそこの速度だが、これはF1タイプのレーシングマシーンが順位を争うゲームであって、時速80キロというのは超安全運転だ。しかもカーブに差し掛かると急速に速度が低下し、慎重に慎重を重ねたライン取りでカーブを曲がっていく。

「ふうっ、カーブ終わり。では、次はアクセルを踏んで加速っと」

 いちいち手順を確認してから次の行動に移行する栞であった。
 一方の薫はと言うと、北川に構う余裕すらなく血走った目で画面を睨みつけ、激しく左右にハンドルを切りまくっている。

「それ、どこ走ってるんだ?」
「わ、わかんねーっ! まっすぐ走らんねん、これっ!」

 栞と違ってスピードは出ているものの、此方は気持ちいいくらいに全く路上を走っていなかった。なんとか舗装されたルートへと戻ろうとしている努力は良く分かるのだが。

「ああっ、またはみ出してもーた!」
「はみ出したというか、道路横切ったようにしか見えなかったんだけど」

 はみ出す云々と言えるほど道路の上を走っていない。
 ハンドル操作の感覚が全然掴めていないのだろう。マシンは砂利上を蛇行し続け、時折逆走を交えつつ、右往左往していた。全然前に進んでない。

「栞ちゃん、もうちょっとスピード出したら?」
「こ、これ以上出したら曲がれません!」
「いや、曲がれるって」
「違うんです。これ以上速くしちゃうと私の腕が固まっちゃうんです。ついでに足も!」

 と、言ってる間に集中力が散漫になったのか、カーブを曲がらずに直進したあげくブレーキも掛けずにアクセルを踏み込んだまま壁に激突する栞のマシン。

「あああああ!」
「のわぁぁ、いきなり前に出てくんなぁぁ!」

 直後、ロード外を我が物顔で暴走していた薫のマシンが栞のマシンの側面に激突、炎上した。

「あああれぇぇぇぇ!」
「ほんぎゃぁぁぁぁ!」
「……二人とも、幾らなんでも鈍臭すぎだろ、それ」

 第一回戦、レーシングゲーム。
 双方、大破リタイアで引き分け。





「ふふふっ、人呼んで光線銃のしおりと呼んでください」
「くくくっ、警察一族を舐めんなや」
「栞ちゃん、その日本語変だぞと突っ込んだりしながら、んじゃ、第二回戦、ガンシューティングはじめー」

 バンバンバンバンバンバンバン―――銃声。
 ウワアアアアア―――断末魔。
 ティリッティッティッティティン―――BGM。
 画面に浮かび上がる文字―――ゲームオーヴァー

「はやっ!!」
「えぅぅ、死んじゃいました」
「あかん、このゲーム難易度高すぎや!」
「……い、一分持たず」

 第二回戦、ガンシューティング。
 双方、一人も倒せずゼロ点で引き分け。





「さあ、これがラストバトル。可哀想だけど薫くん、この勝負貰ったよ」

 腕まくりをして小鼻を膨らませる栞が持つのは、おなじみ対モグラ掃討特化型クラッシュハンマー(プラスチック製)だ。

「なにしろ地元では、もぐら叩きで美坂栞に勝てる者はこれまで、そしてこれからも存在しないだろうと言われたほどの腕前!」
「そうなん?」
「いや、初耳だ」
「ウキィィ! 潤さんっ! 前にゲームセンターの店員のお兄さんが太鼓判押してくれてたじゃないですか!」
「ああ、そういえば」

 いやでも、あれって確か。
 君ほどの芸術的下手くそに匹敵するやつなんて、これまで見たことがないしこれからも見ることはないだろう、という意味ではなかっただろうか。

「とりゃあああ」
「あたたたたた」

 と、気が付けば、既にラストバトルは幕を開けている。二人の小柄な少年少女は、互いに競うように奇声をあげながら、その声から連想される動きの、せいぜい十分の一がいいところのトロくさい動きで、出入りするモグラの頭を追いかけていた。追いかけるだけで追いついていないけど。目測誤って穴とは別のところばかり叩いてるし。
 まさに互角の展開。

「匹敵する奴、居たよ」

 居ました。
 得点は未だ両者とも僅かに二点。このゲーム筐体の開発者が見たら卒倒しそうな奇跡的な数値だ。

「ああっ、くそ、逃げるなっ!」

 薫が激昂しながらハンマーを大きく振り被る。それが偶然、栞のこめかみに直撃し、今まさに三匹目のモグラを叩き潰そうとしていた彼女のハンマーが空を切る。
 その瞬間、核地雷を踏んづけたような硬直と沈黙が駆け抜けた。

「ウキィィィィ!」

 ぶち切れた少女は、もぐらを叩くはずのハンマーを鞘から刀を抜くかのように振り被り、あらん限りの力を込めて、もぐらではなく少年の頭へと振り下ろした。

「な、なにすんねん!」

 辛うじて自分のハンマーで一撃を受け止め、青ざめた顔で抗議する。

「なによ! そっちがそのつもりなら、こっちだって黙ってないんだから!」
「そ、それはこっちの台詞やっ。やったろうやんけ!」

 鼻を大きく膨らませ、敢然と受けて立つ意思を表明した薫は、勢い良く受け止めていた栞のハンマーを撥ね上げた。
 二人は一旦一歩引いて間合いを開け、互いの頭目掛けてハンマーを振り回す。
 軽やかに弧を描いたハンマーは、二人の中間点で激突した。衝撃が二人の手に走る。
 握力に少々難のある二人の手から、二本のハンマーがすっぽ抜けた。

「あっ」
「あっ」

 絡まる二本のハンマーが吹き飛んだ先には。

「おお?」

 思わず顔を手で覆った二人の耳には、生々しい激突音と哀れな悲鳴が飛び込んできた。

「…………」
「…………」

 手を退け、惨状を確認し、二人は引き攣った顔同士を突きつけあう。
 戦いには犠牲がつきものだ。だが、犠牲を前にして、人は悲しみに打ちひしがれる。戦いの悲惨さを知る。そして、人間は悲しみを乗り越えて成長する生物なのだ。
 栞と薫は、そして、どちらからともなく、手を握り合った。

「と、とりあえず仲直りということで」
「う、うん。喧嘩はほどほどにしとこう、しとこう」
「そういうわけですから、潤さん、私達のことは心配せず、安らかにお眠りください…………出来れば、起きる時には記憶を無くしてたりする方向で」
「潤ちゃんの身体を張った尊い犠牲、オレ、忘れへんからね…………とりあえず明日の朝くらいまでは」
「ほらほら、栞ってば見てみなさい。ぬいぐるみがこんなにたくさん。お父さん、すごく上手いのよ……あら、潤くんどうしたの?」

 腕一杯にぬいぐるみを抱えてほくほく顔で現れた美坂沙織は、うつ伏せに突っ伏したまま動かない北川潤と、両手を握り締めてブンブン上下に振り回している栞と薫を交互に見やり、不思議そうに小首を傾げた。





第七幕目次へ





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