北川薫、生年月日1987年12月16日生まれ。13歳。現在、中学二年生。
警察官の父北川哲平とその妻功刀の間に生まれた一人息子。
スタスタと姿勢良く傍らを歩く少年の横顔を眺め、栞はプロフィールを反芻した。
今年で14歳という年頃の少年としては小柄な方で、線も細い。ただ、ひ弱という印象は見当たらない。薄いながらも意思の強そうな口許と、目尻にスゥと切れ込むような眼差しがそう見せるのだろうか。
良く見れば顔の造作には功刀の面影が色濃く出ている。やや赤茶けた色の、収まりの悪い髪の毛なども母譲りなんだろう。
「なんよ、さっきから人の顔をジロジロと」
「薫くんって母親似だよね」
「……よく言われる」
「どうしたの? 嫌そうな顔して」
何故か憮然となった薫は、「別に」と言い捨て、ずれたリュックを背負いなおした。
「男の子はね、母親に似てるって言われるのは好きじゃないのよ」
女系一族で男の子とは接点が無いくせに、訳知り顔に栞に解説する美坂母。
「はぁ、そういうものなんだ」
「いや、別にそういうわけじゃ。母親に似てる言われるんが嫌なんじゃなくて、功刀に似てるのが嫌っていうか」
ぶちぶちと愚痴とも言い訳とも着かない台詞を零す。そんな薫に向かって、山間を通り抜けていく強風が吹き寄せた。
「ああっ」
風は、彼が被っていたキャップを通りすがりにかっぱらうかのように吹き飛ばした。
キャップは慌てて伸ばした薫の手をすり抜け、クルクルと回転して栞の胸へと飛び込んでくる。
「わわっ、と」
運動神経の良くないなりに、なんとかキャップを抱きとめた。
安堵の息をついて顔をあげると、手を伸ばした格好のまま感謝すべきか憎まれ口を叩くか迷って変な顔になっている薫と目があう。
「はい」
栞は躊躇いもせず友好的な笑顔でキャップを差し出した。
「……ありがと」
そんな風に応じられては薫としても、他に口の聞きようがない。憮然としたままだが、ちゃんとお礼を言って、薫はキャップを受け取ろうとした。
ヒョイと差し出した帽子が横にずれる。受け取ろうとした手が空を切る。
所在を無くした手がわきわきと宙を掻き毟った。
「……て、てめえ」
薫は口許を痙攣させて、ヒラヒラと揺らされるキャップ目掛けて右手を振り回す。ヒラリとキャップは強襲を躱して上方へと舞い上がった。
頭上にキャップを掲げて、少女曰く、
「薫くん、鈍いねぇ」
少年の口許の痙攣がこめかみにまで伝播する。
「ああ、早く受け取ってくれないかな。手が疲れちゃうー」
いつの間にかその顔に浮かんでいた友好的な笑みは、邪悪なものへと取って代わっていた。帽子は頭上多角に掲げられたまま、小馬鹿にした動きでクルクルと回転する。
お前は子供かというような嫌がらせだが、女性としても小柄な方の栞としては、小さい頃からやられたことは数知れずだというのに、やったことと言えばこれが皆無。そう、人間、自分がやられたことは誰か他の相手にやってみたくなるものなのだ。
自分よりチビな相手が目の前にいて、しかも、そいつは小生意気で小憎たらしく良心がまったく痛まない相手と来た。
やらいでか。
「くくくっ、オチビちゃんじゃ届かないかー」
「…………」
得意げに帽子を振る栞に、だが薫は嘲笑うかのようなニヒルな笑みを浮かべてみせた。
「?」
余裕めいた態度に不信と疑問が生じる。栞が動きを止めた瞬間、薫は頭上の帽子には見向きもせず、むんずと栞の胸を両手で鷲づかみにしていた。
――むぎゅ。
「……ぎゃあああああ!」
あんまり女の子らしくない叫び声をあげながら、胸を庇って仰け反る栞を横目に、薫は彼女の放り出したキャップを、軽くジャンプしてキャッチした。
そしてチラリと栞を横目で一瞥し、哀れむように首を振って、深々と落胆の溜息をこぼした。
「全然あらへん」
――――ブチ
「な、なななな何をぬかしますか、このチビジャリぃぃ!!」
「貧乳貧乳。乳量が貧しくて涙を誘いますー」
「歌にして解説するなーっ!!」
山間を流れる清流を懐に抱く温泉街。その緩やかな坂道となっている街道を、少年と少女が全力疾走で駆け上っていく。
「……ガキだ」
その背中を見送った北川は、この上なく端的に現状の二人を言い表し、げんなりとなった。
美坂夫婦は殊更、栞と薫の諍いに口を出すつもりはないらしい。背後から聞こえてくる完全に傍観者に回ったコメントに、北川はこの旅行中、どうやら自分が二人の面倒をまとめて見なければならないらしいと、遅まきながら悟るのだった。
「オレってもしかして子守り?」
梅田の地下街で迷子になり、ようやく薫のお陰で北川潤と合流したあの後、栞は戻ってきた両親にこっ酷く叱られた。
尤も、叱っていたのはもっぱら母沙織で、父親の方は良かった良かったと頭を撫でるやら抱きつくばかりであったのだが。
どちらが栞にとって苦痛だったかは、言わずもがなであろう。
栞が憤懣やるせなかったのは、その後の展開だ。
腹が立つことに、北川薫は栞の両親に対しては、同年代の若者が尻尾を巻いて逃げ出すような見事な礼儀正しい態度で挨拶してみせたのだ。
栞は唖然とし、愕然とし、目を丸くして自分の正気を疑った。
あの小憎たらしい台詞が濁流のように噴き出した口から、良家のお坊ちゃんのような言葉が流れ出したときには、実際卒倒しかけた。
北川潤曰く、あいつの親父さん、礼儀についてはめちゃくちゃ厳しいからなあ、なのだそうだ。
だがちょっと待って欲しい。だとすれば、彼より五つも年上の、しかも女性である自分に対するあの傍若無人、非礼で無礼な態度の数々はなんなのか。
頭にきた栞は、実に可愛げに満ち溢れた仕草と会話で両親と談笑している薫のお尻に蹴りを食らわした。
爪先蹴りだった。
生憎と、いきなり理不尽な攻撃を受けてよそ行きの顔をしていられるほど、薫も大人ではない。
当然のように掴みかからんばかりの低レベルな罵倒の応酬になった。
元気な男の子が好きだと公言して憚らない美坂母は、あらまあと口では驚きつつも面白そうに見物に回り、栞に近づく男は敵だと公言して憚らない美坂父は、どうやらこの少年が栞と相性が悪そうなのを見て取り、「なんだ、会ったそうそう仲が悪いじゃないか」と嬉しそうにのたまうばかりで止める素振りも見せない。
お陰で残った北川が貧乏くじを引かされて、間に入って「まあまあ」と仲裁する始末。
この時点で北川のお守役は決定していたと言える。
「はぁはぁはぁ、た、体力ないなあ、栞」
「き、君だって全然ないじゃない」
「おーい、二人とも早く来ないと置いてくぞー」
足取り重く、大きく遅れている二人の前方で、北川が手招きしている。
坂道で全力疾走してしまった所為で、完全にバテてしまった栞と薫は、二分と経たず両親たちに追い抜かれてしまった。なんとか足を引きずってノロノロと後ろから付いていっているものの、上り坂はキツくて今にも座り込んでしまいそう、という状態だ。
「まだつかないのー?」
恨みがましく栞は大声で嘆く。
実際は駅を降りて五分と歩いていないのだが、疲れたものはしようがない。
周囲は山に覆われ、傍らには耳にも心地よいせせらぎが流れている。常緑と雅な街並みという風景は、決して見ていて飽きるものではなかったが、生憎と今の栞と薫には辺りを眺めながら歩くといった余裕は残されていなかった。ただ、思いの他多い車の量が、鬱陶しい。
「ああ見えた。おじさん、旅館ってあれっすよね」
北川が指差す先には近代的な建築でありながら古雅な外観をした建物が聳え立っている。
美坂父は木彫りの看板に目を凝らし、予約してある旅館だと確認する。
「ほら、貴方達、ゴールはすぐそこよ。頑張りなさい」
笑いながら沙織が声援を送る。栞と薫は顔を見合わせると、最後の力を振り絞り、張り合うように坂を登りはじめた。
「つきましたー」
「とうちゃーく」
現金なもので、着いた途端に元気が復活した年少組。苦笑する北川を追い抜いて旅館の玄関へと小走りに掛けて行く。
ドアマンに促され、自動に回転しているドアを潜った二人は、小さくだが歓声をあげた。
屋号には旅館と銘打っているものの、実際は観光ホテルなのだろう。ロビーを潜るとそこは洋風の豪奢な内装で、栞はうっとりと表情を弛緩させて、広々とした空間を見回した。
壁面は一面ガラス張りで、天井からは本物のシャンデリアがぶら下がり、ゆったりとしたスペースに幾つかの美術品を配置してある。上品な静寂に包まれた空間は、そこに十数名の宿泊客が寛ぎ、雑談しているにも関わらず、その喋り声すら雅の一部へと変換してしまっているようだった。ガラス壁の向こうには日本庭園風の中庭が広がっていて、その向こうには深緑に包まれた山の連なりが一望できるようになっているのも、雰囲気に一役買っている。
「へぇー」
と、傍らで同じような顔をして目を輝かせている薫を発見した。
思わずマジマジと見つめていると、視線に気付いて薫は一転表情を照れの混じった渋面に変えた。
「なんだよ」
「あ、うん。なんだかこういう所初めて来たみたいな反応だなーって思っちゃって」
「……やって、初めてやし」
「はい?」
「こんなホテル入るの初めてやの。小学校の修学旅行ってボロイ旅館やったし」
二人の会話を聞きとがめた沙織が、間に入ってくる。
「薫くん、ご家族でこういう所に泊まったことないの?」
単刀直入な問いかけに、薫は僅かに気後れを感じて怯んだ。
初めて顔を合わせたときから、薫はこの美坂沙織がどうも苦手に感じていた。もちろん、嫌というわけではない。ただ、薫には一人、まったく頭の上がらない人物がいるのだが、
母の親友であるその人に栞の母親は何処と無く雰囲気が似ているのだ。
この手のどこか油断ならない人物に対して、薫は常に一つのことを心がけている。
ひたすら従順にあるべし。
「オレ、修学旅行と遠足以外の旅行って初めてなんや」
「あらまあ」
薫は仕草に初々しさを演出しつつよそよそしさを感じさせない砕けた調子で、恥ずかしそうに事実を素直に告白した。
「親父が警察なん知ってるでしょ。やっぱ忙しいんよ。あー、でもその所為やなくて、オレ、よう熱出してもうてたから」
「こいつ、こう見えて昔はかなり身体弱かったんですよ」
と、北川が従弟の頭に手を置きながら説明した。
「今では殆ど健康体なんすけどね。前は良く寝込んでたもんなあ」
「なにか病気をしてたんですか?」
「いや、別にこれって病気に罹ってたわけじゃなかったんだけど、なあ」
「ん」
曖昧に頷いておく。
確かに従兄の言う通り重篤な病気を患っていたのではない。だが、彼が聞かされていた単に身体が弱かった、というような話とは、実際はまた違っていた。
無論、わざわざその事実を此処で明らかにする必要な何一つない。
と、不意に頬を添えられる手。
顔をあげると沙織の顔が間近にあった。
「今はもう大丈夫なの?」
「あ……はい」
「そう」
微かに頷き、「よかった」と沙織は柔らかく微笑んだ。
心底からの気遣いと安堵から生まれた微笑だというのが、訳も無く伝わってくる、そんな笑み。
思わずぼぅっと見惚れてしまう。
「なーに真っ赤になってるんですかねぇ、この子は」
栞のからかいの声に、薫はハッと我に返った。自分でもはっきり自覚できるほど顔が熱い。さらに赤面の度を強くした薫は気恥ずかしさにうろたえながら、誤魔化すように、
「う、うるさいなあ」
「あははは、照れてる照れてる」
「くぅっ」
有効な反撃を思いつけず、薫は無言で栞のお尻を蹴っ飛ばした。
「あいたっ! こ、こらぁ、女の子のお尻蹴っ飛ばすとはどういう了見ですか!」
「胸だけやなくてケツも小さいな、栞」
「こ、このセクハラ小僧っ!」
喚きながら追いかけっこを再会する二人。
北川は頭を抱えた。
「薫はともかく栞ちゃんまで」
「こらっ、貴方達、中でギャアギャア騒がない!」
パンと濡れたタオルで打つかのような一声に、栞と薫は背筋を鉄棒を突っ込まれたかのように直立して静止した。
「おお、さすが」
北川は尊敬と畏れの入り混じった目で沙織を見上げた。
普段は穏やかな物腰で、時折子どもじみた稚気を垣間見せる姿は次女の方に良く似ているのだが、厳しい態度や事態を取りまとめようとする時、誰かを叱ったり注意したりする時は、実に長女の方とそっくりになる。
なるほど、香里は母のこういう一面を受け継いだわけだ。
「おい、鍵貰ってきたぞ」
フロントに行っていた美坂父が戻ってくる。
「おつかれさま。じゃあ行ってみましょうか」
「「はーい」」
ニコリと怖い笑顔で笑いかけられ、栞と薫の返事が重なった。
思わず睨みあって、バチバチと視線に火花を散らせる。
「ぷん。ほら、潤さん一緒に行きましょ―」
「あ、ちょっと、引っ張ると危ない」
栞は北川の腕に自分の腕を絡めると、引きずるように北川を引っ張って歩き出した。
どう見ても仲の良い兄妹にしか見えないそれを目の当たりにして、薫は複雑な顔をする。
「どうしたの、薫君」
「ううん、なんでもない」
薫の表情を見咎めた沙織に慌てて首を振り、少年は小走りに先を行く二人を追いかけだした。
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