美坂栞がはじめて旅行というものを経験したのは、まだ小学校にあがるまえの事だ。
 関東にあるサファリパークへと行ったのだという。その記憶はない。あまりにも幼すぎた所為だ。その時のものかもしれない景色の断片や会話の切れ端が記憶の何処かにあるとしても、認識できなければ無いのと何も変わらない。
 二年後の小学二年生の夏、近場の海に、泊りがけで遊びに行こうという計画はあったものの、それも果たされることも無く終わった。小児喘息の悪化が原因だった。
 それ以降、栞が遠出する機会は皆無になった。

 鳥籠の中で囀る鳥は、大空へと翔び出したいといつも願っているのだという。でも、それはきっと大嘘だ。
 生まれたときから鳥籠の中に居た鳥は、青い空なんかに興味を持っていない。縁のないものに、関わりの持てないものに関心は抱けない。怖いのではない。どうでもいいのだ。鳥籠で生まれた鳥は、鳥籠を出たいと思う事はあっても、空を飛びたいなんて思ってはいない。
 だから、栞も旅行なんかに行きたいと思ったことはなかった。
 ただ、少しの間だけでも普通に、学校に通えれば。
 それだけが栞の望みで。目の前の切実な願いで。

 だから、学校が休みになる度に家族で旅行に行けるなんて思っても見なかったし、旅行がこんなにも心浮き立つものだなんて考えたこともなかった。


「おおおおおお、た、大変です、これはいったいどうしたらいいんでしょう。種類がひぃふぅみぃよぉ……うひぃぃ、なんと十四種類も!? まさに駅弁ハーレムですよ、潤さん!」
「は、ハーレムってあんた」
「選り取りミドリ♪ どーれーにしーよおっかな……って、選べるわけないじゃないですかぁ! というわけで販売員のおばさん、とりあえず全種類くださ、あぎゃ!?」
「栞ちゃん、あなたはちょっと引っ込んでいなさい、そして口を噤んで黙りなさい。願わくば眼も鼻も耳も噤みなさい。なんなら鞄に詰めて上の棚に押し込んでもいいんだけれど、そっちの方がよろしいかしら?」
「いえ、よろしくないです、お母様。黙ります、眼も瞑ります、耳も塞ぎます。でもお鼻はちょっと無理じゃないかなーって、えへへへ」
「お父さん、私のハンドバッグにポケットティッシュがあるから取ってちょうだい」
「ああ、うん。これか?」
「はい、それそれ。じゃあ、そのティッシュ。丸めて栞ちゃんの鼻の穴に詰め込んであげてくださいな」
「……沙織さん、それ呼吸はどうするんだ?」
「栞、皮膚呼吸は出来るわよね?」
「出来るけどそれ死んじゃうぅ!!」


 少なくともこんな風に、新幹線の車内でどの駅弁を食べようかしらんと迷ってしまう自分、なんて呑気な妄想は抱いたことさえなかったし、あまつさえその所為で母親にいびり殺されかけるなんて想像だにしていなかったわけで。
 背景お姉ちゃん、お元気ですか? 最近思うんですけど、お母さんって性格悪くないですか? 昔のあの優しかったお母さんは何処へいってしまったのでしょうか。教えてプリーズ!

「うん、まあそうだな。やはり性格の方は母親似じゃないか。最近とみにそう思うようになったな」
「はぁ、やっぱそうっすか。二人とも性格がちょっと」
「ふふっ、栞も沙織さんに似て可愛い性格になったものだなあ」
「……え゛?」

 窓側の座席で、むずがる子供に苦い薬を飲ませる母親のごとく毅然とかつ柔らかな態度で、娘の鼻の穴に丸めたティッシュを突っ込もうとしている美坂沙織と、フガフガと抵抗する栞を横目に、母と娘の遺伝性について論じ合う北川潤と美坂英悟であった。 見解は大幅に違うようだが。

「あのー、お弁当」

 車内販売員のおばちゃん、置いてけぼり。





「あーっ、潤さん見てください、あれ富士山じゃないんですか?」
「そーだねー」
「あっ、爆発した! どっかーん!」
「なにぃ!?」
「勿論嘘です」
「栞、箸を振り回さないの」
「はーい」

 母に窘められ、栞はチョロっと舌を出して見せ、膝の上に置いた釜飯弁当へと意識を戻す。
 でもすぐに窓の外へと顔を向け、その視線は遙か遠方にそびえる霊峰へと釘付けになった。

「富士山、綺麗ですねえ。噴火したのって二十年くらい前なんでしょ。形、崩れてないし、全然そんな風には見えないな」
「そーだねー」

 手元の中華弁当に熱中していた北川だったが、エビチリを頬張りながらも顔を上げて窓の外を眺める。

「潤さん、前は大坂に行くのに新幹線使ってたんですよね。富士山も見慣れてますか」
「いやー、オレいつも寝てたから、実はあんまり見たことないんだよね」

 席も反対側ってのが多かったしさ、と言って北川はいっとき箸を止めて遠方に眼を凝らした。
 その隙を見逃さず、栞の箸が素早く唸り、北川のお弁当からシューマイを掠め取る。

「ぬわっ、なにしやがる!」
「私のお弁当、シューマイ入ってないんですよー」
「釜飯なんだから当たり前でしょうが、って返せ!」
「代わりにレンコンあげますよー」
「そんなもん要らん!」

 要ろうが要るまいが北川の文句をあっさり無視してレンコンを放り込み、栞の箸は次なる獲物を狙う。

「お父さんお父さん、その香り卵ちょうだい」
「卵はコレステロールが高いからダメだ」

 相変わらずの眠そうな眼をして竹篭に入った弁当に舌鼓を打っていた父は、伸びてくる娘の箸からススッと器を逃がした。

「ううっ、お父さんのケチ。キライ」
「ぐあっ」

 パパはせいしんてきだめーじを食らった。

「栞ちゃん、おじさん落ち込んじゃったぞ」
「私には卵をくれないお父さんなんていません」
「毎度何気にキツいな、あーたは」
「ああ、でもそこがまた可愛いのだ」
「じゅ、重症だな、この人」

 落ち込みながら光悦に浸るという器用な感情表現を見せている目の前のおっさんに、北川は頬を引き攣らせた。
 特殊な趣向に親バカが加わるといささか始末に終えない人品になってしまうらしい。
 何気に北川もMッ気には事欠かないので、栞と付き合い続けてたら将来こうなってしまったのだろうかと、少々恐れ慄く北川であった。

「潤くん、あなた妙な想像してなぁい?」

 上機嫌に鯛めしを突いていた沙織は、にこやかな表情のまま小首を傾げた。

「いえ、滅相もないです、おばさん」
「私、この人のこと別に苛めた覚えはないわよ」

 嘘をつけ。

「そ、そういえば栞ちゃん、新幹線ははじめてなんだっけ?」

 慌てて話題を変えた北川だったが、さっきからもう浮かれっぱなしな栞は素直に声を弾ませる。

「はい、はじめてですよ。というか、列車の旅というのもはじめてです」
「そういえばそうね。去年の夏と冬に旅行に行ったときは車だったし」
「こういうのもいいですよね。駅弁美味しいし」
「値段は高いがな」
「ううっ、すんません、弁当代出してもらっちゃって」

 恐縮する北川に、要らないこと言いやがってという辛辣な妻子の視線を浴び、眼を泳がせる美坂パパ。

「いいのよ。強引にお誘いしたのはこっちなのに、潤くんたちの旅費はそっちで持ってもらっちゃったんだから。これぐらいは出させなさいな」
「そうですよ。今更お弁当くらいで畏まらないでください」
「そうだな、1000円もしたなんて気にせんでいい。1000円もなんて」
「あうぅ」

 ますます畏まる北川に、 死ぬかいっぺん、という殺意溢れる妻子の視線にさらされて、急遽寝た振りをする美坂パパ。眼を瞑ったままなおも弁当を食べ続けるのは器用というかさすが図太いというか。

「いや、でも良かったんすか。オレだけじゃなくってウチのチビまで。折角の家族旅行なのに」
「お姉ちゃんいないのに家族旅行も何もないですよ、まったく」
「旅費はむこうのご両親に出していただいているしね。旅行はたくさんの方が楽しいわ。薫くん、中学生だったわね、やっぱり潤くんみたいに可愛いの?」
「オレみたいって。オレ別にかわいくは……はぁ。母親似っすから造作は華奢っすけど。可愛くはないっすよ、特に性格生意気だし」
「それは楽しみ。昔から男の子欲しかったんだけど、潤くんは素直で礼儀正しいし、あんまり張り合いなかったのよねえ」

 一瞬その笑んだ瞳の奥に蛇にも似た光を感じて、北川は冷や汗を垂らした。

「なんにせよ、栞に近づくようなら潰すだけだな」

 ふっふっふ、とほくそえむ美坂パパ。
 その笑みの奥に本気と書いてマジな光を見出して、北川はやっぱり栞ちゃんと別れたのは正解だったかも、との見解を深めた。
 もし栞との関係が本物の恋愛へと発展していたら、その時点で命はなかったかもしれない。

「お父さん、向こうは中学生なんだから、バカなことしないでね」

 そろそろ溺愛が鬱陶しくなってきた頃なのだろう。嘆息混じりに栞が零す。

「そうよ。親バカも大概にしないと。変なことしたら締めますからね」

 ナチュラルに締めるという言葉が出てくるあたり、この人も非常に香里の母親らしいと言えば母親らしかった。






§  §  §  §  §







 東京−新大阪間は新幹線のぞみで二時間半。北川たちが住む街から一旦東京に出るまでには二時間以上掛かるので、電車に乗っている時間は合計五時間近く掛かる計算になる。勿論、乗換えや徒歩による移動時間も計算しなくてはいけないのだが、東京駅では大坂に行き慣れている北川が居たお陰で、乗り換えに迷うこともなくスムーズに新幹線に乗車できたので、殆ど余計な時間は掛からずに済んだ。
 新大阪駅に新幹線が到着したのは二時四〇分のことである。そして、現在の時刻は午後三時十五分。
 付け加えるなら、栞の現在位置は北大坂の地下のどこか。

「……どこかって、どこ?」

 左を見て、右を見る。人、人、人、前後左右に世界最速と噂される忙しない歩調で行きかう人の群れ。
 上を見る。あまり高くはないものの、決して背の高くない栞には絶対に届かない地下街の天井。
 下を見る。お世辞にも綺麗とはいえない薄汚れた床と、無数の前後する足足足の数々。
 当然のように、前後左右に上下斜め、どこを見ても両親の姿も北川の姿も見当たらない。
 東京砂漠ならぬ大坂ジャングルに取り残された美坂栞17歳。

 栞は濁流に飲まれる木の葉のように人の流れに翻弄された挙句にたどり着いた階段の脇に呆然と佇み、やがてポムと手を叩いた。

「ああ、なるほど、これが噂の迷子ってものなんだ」

 ………………。

「17にもなって迷子ですかーっ!?」

 幾つになっても子供心を忘れない、将来が楽しみな少女シオリであった。








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