風薫る。
何処から生まれた言葉かは分からないが、五月という時候の素晴らしさを表現する言葉として、これほどのものはないだろう。
自宅のマンションのエレベーターを降りると同時に吹き寄せてきた風に、北川潤は眼を細めた。暦はまだ四月の末日。風薫ると唄うにはまだ少し早いかもしれない。それに、此処は北国だから、まだ風も冬の名残を垣間見せ、未だ冷え冷えとしたものをたたえている。北川もまた、着古されたフライトジャケットを上着として羽織っていた。
それでも。
この風は今の彼には颯々としたものに感じられた。
「…………」
5階の自分の部屋の前に立った北川は、内ポケットに入れてある鍵に手をやりかけ、思い直したようにそのままドアノブへと手をかけた。ノブはなんら逆らうことなくグルリと回る。
案の定、鍵は閉まっていなかった。
「ただいまー」
「んー」
奥からは上の空ともお愛想ともつかない返事が戻ってくる。北川は一旦台所に入り、そこで買い物袋を置いて、冷蔵庫や棚に適当に買ってきたものを閉まっていった。五分程度で作業を終え、ペタペタとスリッパを鳴らしながら自室へと向かう。
ドアを開けると、一人の少女が我が物顔で部屋の真ん中に寝そべっていた。傍らにはスナック菓子。手元には昨日北川が買ったばかりの漫画の単行本。そして周りには漫画雑誌が散らばっている。
ここ一、二ヶ月では珍しくもなくなってしまった光景だが、北川は何となく溜息を漏らした。
「まーた散らかして」
彼女は漫画から一瞬たりとも眼を離さずに、
「いいじゃない。片付けるの栞でしょ」
「あのねえ、大概はオレが自分でやってますってば」
げんなりと主張する北川に、彼女――水瀬真琴はふーんと鼻を鳴らした。
「まあそれが当然よねえ、自分の部屋なんだし」
「だから、人様の部屋を散らかしたまんまにすんなっ、とオレは言いたいのよ、真琴ちゃん」
「自分の部屋散らかしたら自分で片付けなくちゃいけないじゃないのよう」
ようやく顔をあげ、真琴は頬をぶー、と膨らまして不満を表明した。
いっそ清々しいまでの我侭な言い分だった。
北川は脱力してガックリと首を垂れる。その姿勢のまま半眼になって、
「そういう事言ってるから美汐ちゃんにみっちりお説教くらうんだぜ」
「ううっ」
「あと、相沢にもきっちり報告してやる」
「や、やめてよぅ。祐一ってば乙女の頭をかぼちゃみたいにポカスカ殴るんだから」
「だったら読んだ本は元の場所に仕舞う。お菓子はこぼさない。わかった?」
「……はーい」
不承不承といった感じの返事。それでも約束さえさせればちゃんと守る子なのでそれで満足する。約束をさせるのそのものが案外難しいのだが。
北川は鞄を放り置くと、ジャケットをクローゼットに仕舞いながら訊ねた。
「飲み物なんか出そーか?」
「んー、ジュースちょーだい」
「ジュースねえ。なんかあったっけ」
「ミックスジュース残ってたわよぅ、ニンジンの」
「ああ、そうだっけか」
他人の家の冷蔵庫を開けるのは一番失礼な行為とは良く言うが、この北川家ではもう平然と罷り通ってしまっている。主に北川が全然気にしない所為なのだけれど。
キッチンに取って返し、食器棚から適当なコップを掘り出しながら、北川はここ数ヶ月でなんだか変な風になってきた自宅の様子に思いを馳せた。
春休みくらいからだろうか。いつの間にか北川のマンションは知り合いの溜まり場か寄り合い所みたいになってきている。最初は美坂姉妹だけがこの家を我が物顔に出入りしていたのだが、それが段々と他のやつらにまで拡大してしまったのだ。
今では北川が家にいない時でも、勝手に部屋に入って我が物顔でいる始末。
「……みんなオレんちの合鍵持ってるんだもんなあ」
しかも知らないうちに。
美汐ちゃんまで持ってるし。
相沢さんに渡されたんですけどどうしたらいいんでしょう、とか困った顔して聞かれたときは、こちらがどうしたらいいか聞きたかったです。
まあ別にどうもしないんだけど。
あんまりプライバシーとか気にしない方なものですから、実際皆が出入りするのは気にならないし。。
「ほれ、いれてきたぞー」
「うーん、そこ置いといて」
「……ほんとに我が物顔だよな、おい」
零すなよ、と注意を促してからコップを真琴の傍らに置き、自分の分を片手に持ちながら北川はベッドの縁に腰掛けた。
その横に、身体を起こした真琴がベッドの縁に背を預ける形で座りなおす。
膝頭に漫画を乗っけて、ページを捲りながらチビチビとジュースを舐める、そんな真琴の綺麗な旋毛をぼんやりと眺めながら、北川は今日の真琴のように、誰かしらが転がってるのが当たり前の空気になってしまった我が家の現状に思いを馳せた。
例えば一昨日の夜とか――――
§ § § § §
「北川くん、お茶のおかわり欲しいんだけど」
「……あのさ」
「えへへ、それでね。道入ったところに大きい化粧品屋さんが出来ててね」
「先に言っとくけど、買ってやらんぞ」
「……えーっと」
「北川くん、まだ?」
「あ、俺もお茶」
「あっあっ、北川くん、わたしも」
「……了解」
リビングのテーブルを囲んでの団欒、というにはあまりにも好き勝手に寛いでいる面々だった。
テレビの正面に堂々と腰を据え、茶菓子を摘みながら番組に没頭している元カノの姉とか。
いつの間にか上がり込んでて、ソファーの上でイチャイチャしてやがる親友のカップルとか。
なんか知らんがいそいそと脇で急須にお湯を注いでいる部屋の主。つまり自分とか。
高校の時にだって友人が出入りする事は珍しくもなかったし、大学生ともなれば一人暮らしの男の家なんぞ、部屋の主の意向関係無しに知人友人の溜まり場になるという話は聞かないではなかったが。
なんかちとそういうのとは違うくないか、これ?
「美坂さ」
「なによ」
相沢夫婦の方はもう言うだけ無駄なので無視して、北川は湯飲みと煎餅をテーブルに置きながら、香里に上目を向けた。
「テレビぐらい家で見れ」
香里はソファーにダランと背を預けたまま、気だるげに答えた。
「だって、家のテレビ、栞に占領されてるんだもの」
「……録画しとけばいいじゃん」
「いやよ、バラエティなんて生で見ないと醒めるじゃない」
録画してまで見るもんじゃないし、と言いながら、煎餅を齧る。
バリバリバリ。
破片を零さないのはさすがだ。これが水瀬家の次女となるとその惨状たるや押して知るべし。あの娘、うちを自分の部屋と勘違いしてるんじゃないだろうか。
「ドラマならうちで栞が見てるから、見たいなら行けば?」
「いや、別にいい」
生憎とサスペンス劇場には興味がない。
「……このお茶、渋いわ」
「出がらしですから」
§ § § § §
と、まあ。
なんかもう、皆さん他人の家とか別の家というより母屋と離れの違い程度にしか思っていないご様子で。
「あ、そうだ。ねえ、あれ買ってないの、あれ」
「あれって、前に言ってた少女漫画?」
唐突に、読んでいた漫画本を床に置き、真琴が首を捻りながら北川を見上げた。
どうやら手元のそれは読んでしまったらしい。ベッドを上に放ってあったTV情報誌を拾い上げて捲っていた北川は、反応鈍く視線を虚空にさまよわせる。
そんな仕草に、真琴は非難がましく口を尖らせた。
「買ってないのぉ」
「なんでオレが少女漫画買わなくちゃならないんだ?」
「あうー、けっこう好きなくせに」
北川は何とも言えない表情を浮かべると、仕方なさそうに首筋を掌でニ、三度叩き、机の横に放り投げてあった鞄を手繰り寄せ、中から未開封の紙包みを取り出して、そのまま真琴に手渡した。
「ほい」
「えへへー、なんだやっぱりあるんじゃないの」
嬉しそうに紙包みを破り、漫画を取り出した真琴は至福の表情で表紙と裏表紙のイラストを舐めまわすように眺めた。
笑顔が消える。漫画を持つ手がプルプルと震え出す。
真琴は漫画をメンコのようにベッドの布団へと叩き付けて怒鳴った。
「エロ漫画じゃないのよ、これぇぇぇ!!」
北川は生暖かい笑みを浮かべて優しく言った。
「持って帰っていいぜ、それ」
「持って帰るかぁっ!」
せっかく気を利かせてやったのになぜか激昂する真琴に、北川は頭をかきながら新しい紙包みを鞄から取り出した。
「はい、こっちね」
「はぁはぁ、あ、あるんなら最初から出しなさいよぅ!」
「強盗の台詞だな、それ。あ、そっちの漫画、相沢に頼まれてたやつだから、ちゃんと持って帰って――」
「帰らない!!」
感情の切り替えの早い真琴は、怒鳴ったもののすぐにいきり立ってた機嫌をよろしくして、さっきまで読んでいた漫画を本棚に直してから、元の場所に座りなおして新刊を読み始める。
北川は何気なく壁側の本棚を見やった。この家にある殆どの書籍は、今は書斎となっている元父親の部屋へと仕舞ってあるのだが、漫画や良く使う一般書や資料などはこの部屋の二つある本棚に分けて置いてある。
百冊近くの漫画が並べられている本棚。実のところ、この本棚の漫画本の五分の一近くは、今日みたく真琴にせがまれ買ってきたものだ。北川としては自分も読みたいものだったから買ってくるのだけれど、美汐などには甘やかさないでくれと窘められたり、祐一には呆れられたりしている。
付け加えると、この本棚に並んでいる漫画のさらに五分の一は真琴本人が買ってきたものだったりする。自分の部屋に置いておけなくなったけれど処分はしたくないものを持ってきては並べていくのだ。この娘、この部屋を自分の書庫か何かと勘違いしている節がある。
ただ、そんな風に勘違いしているのは真琴だけではない。
家に置いておくとお母さんに勝手に食べられるからと、冷凍庫に勝手にアイスを詰め込んでいたりする栞やら。美汐姉さんに見つかっちゃったんです、助けてー、とエロ本をクローゼットの奥に積んでいく小太郎とか。人が買ってきた新作ゲームを、一週間と経たず此方が知らない合間に全クリアして、意気揚揚と全クリデータを置いていきやがる謎のゲーマー(容疑者:此花春日)など。
まあこいつらに限らず、出入りしている誰も彼もが似たようなもので、人の家を人の家とも思っていないのは共通しているようだった。
嫌というわけではない。人が嫌がってることを厚顔無恥に続ける連中ではないのだから、自分でも気づかないうちに嫌がってるってこともないのだろう。だからといって別段嬉しがってるわけでもない。自分の家を好き勝手されるなんてこと、喜ぶようなことでもないわけで。
嫌でもなく喜ぶでもなく。
「それだけ自然になっちまったか」
「ん? なんの話?」
「別に。独り言だよ」
「…………ふぅん」
しばらく、会話らしい会話は途切れた。部屋に北川が再生した洋楽アルバムのアップテンポな音楽が流れる中、真琴は漫画の没頭し、北川も真琴のスナック菓子を摘みながら雑誌のページを捲る。
十分ほどが過ぎた頃、真琴が堪能したと言わんばかりの表情で漫画のページを閉じて、伸びをした。
「読んだんならこっちにパス」
「はい、面白かったわよ」
「そかそか」
北川は雑誌をラックに放り込むと、真琴から新刊を受け取り、読み始める。
一方、することのなくなった真琴は時計を見上げ、なにやらぶつぶつと言いながらお菓子の袋に手を突っ込み、北川に話し掛けた。
「ねえねえ」
「んー?」
「あんたってさ、大学で部活とか入んないの?」
「部活ってサークルか? 入ってないけど、なんで?」
「うーん」
曖昧に声を漏らし、しばらく何を言ったらいいか迷うように菓子を咥えて沈黙する。
その沈黙に焦れたのか、真琴は重ねるように言った。
「名雪と祐一、入ったでしょ」
「ああ、あの二人。入ってるな」
結局何処のサークルにも所属しなかった自分と美坂と違って。
「一緒にやろうって名雪たちに誘われたんでしょ? なんで入んなかったの?」
「オレ、運動部って苦手なの」
「運動部って……遊びみたいなのって聞いたわよぅ」
「まあ、そうなんだろうけどさ」
水瀬名雪と相沢祐一。この二人は大学入学すぐに、とあるサークルに勧誘を受けてそのまま其処に入ってしまっていた。
なんでも、足元に転がってきたボールを名雪が拾って投げ返したところ、
『貴女、そのしなやかでムダのないフォーム、素晴らしいですわ、美しいですわ、合格ですわ。私たちのサークルに入りませんこと? っていうか入りやがれ、この野郎』
見初められたらしい。
サークルの名前は草野球愛好会。どこぞのお嬢様風だかヤンキーだか些か判別し難い女性の三回生が代表という男女混合の小規模な運動系サークル、と言うか7人しかメンバーがいなかったらしく、小規模以前に活動不能状態のサークルだったわけで。どうしても最低二人の新メンバーが欲しかったらしい。話によると名雪たちのほかにも新入生を二人確保したらしいから、現在メンバーは11名というわけだ。
活動内容の方は気楽に楽しむがモットーらしく、体育会系のノリは少ないらしい。でなければオマケとはいえ祐一は入ろうとしなかっただろう。
週に何回か練習して、月に二回ほど試合をやる。相手は町内会のチームとか土建屋さんのチームとか、女子大のチームなど。名実ともに草野球。既に名雪たちも
一度試合に出ているらしかった。名雪はセンターで先発七番。俊足堅守の期待の新人らしい。祐一はスーパーサブ。現時点の代打の切り札だそうだ。野手の控えはたった一人という事実にはもちろん眼を瞑って。
まあ、野球経験が学校の体育の授業以外皆無で、入ったばかりだから打つ方はともかく守る方が全然ダメな以上、先発出場させにくいという理由もあるから、仕方ないといえば仕方ない。素人でも守れそうな外野は俊足の名雪とクリーンナップを勤める強打者二人がいるので変わるわけにはいかないし。というわけで、代打か一塁手&応援団長+スコアラーが祐一の分担だ。
「けっこう楽しそうよぅ」
「そーみたいね」
「あうぅ、やる気ない返事」
素っ気無い北川の態度に、真琴は拗ねたように唇を尖らせる。
しばらくムスッと漫画を読んでいる北川の横顔を眺めていた真琴だったが、やがてボソッとこぼすように言った。
「祐一も言ってたんだけどさ」
「何を?」
「あんたって、最近ほんとやる気なくない?」
「そーか?」
「そうよ」
北川は漫画から顔をあげると、眉間にしわを寄せてみせた。
「そーかなあ」
「誘ったらちゃんと付き合うし、遊んでても前と変わらないけど、高校の時のもっと率先してバカやったり何かおっぱじめるみたいなはっちゃけた雰囲気がなくなった気がするって、祐一が」
北川は思わず唸った。
はて、自分はそんな人間だっただろうか。皆を牽引して舞台を引っ掻き回すようなタイプだっただろうか。
分からない。そう言われればそんな気もするが、違うような気もする。
だが、なんにせよ。
「あんまり自分から何もする気しないんだよな、最近」
「腑抜けてるわよぅ、それ」
「きっと受験が終わったという虚脱感が遅れて来ているのです?」
「なんで疑問系?」
「いや、言い切るには確信がないから」
無自覚な五月病モドキなのかもしれない。受験が終わった当初は開放感に浸っていたものの、それも段々と希薄になっている。気がつけば、目的も無くダラダラと毎日を過ごしている。
いや、ダラダラというとなんかダメ人間みたいなので、まったりと日々を過ごしていると表現を変えてみよう。
まったりと平穏な毎日の中に生きる北川潤。うん、なんか平和だ。
「そうか。つまりはオレもとうとう騒乱を好むアナーキストから穏やかな生活を望む一小市民へと生まれ変わることに成功したのだ!」
「……あう?」
なんか勝手に納得して満足しているらしいのだが、真琴にはよく分からない。とりあえずバカっぽいのは前と変わっていないのは理解した。
「何言ってるかさっぱりだけど、暇なのよねぇ?」
「暇だけど、暇を楽しんでるの、まったりと。退屈だとか暇を持て余してるってこともないしなあ」
「ふーん。香里みたいに誰かと付き合ったりもしないの?」
何気なく、真琴が口にした一言に、北川は息を止め、大げさに首を振って勘弁してくれと言った。
「しばらくはカノジョはいらね」
「なによ、それぇ」
「栞ちゃんで大失敗やらかしただろ。あれでちょっとトラウマー」
「トラウマって?」
「無邪気に聞き返しやがって。つまりね、自己不信、じゃなくて自信喪失ってやつか? 腰引けてるんだよ、またやっちまうんじゃないかって」
真琴は呆れたように「弱気だー」と揶揄した。
「弱気にもなるぜ。LIKEとLOVEの区別ついてなかったなんて、小学生じゃねえんだぞ、恥ずかしい」
「ふーん、そりゃ栞とはまあ仕方なかったんだろうけどさ」
ベッドの縁にもたれかかり、真琴は腕枕に顔を横たえると、下から北川の顔を見上げながら、珍しく淡々とした口調になって、
「ほんとに好きになるなんて、付き合いはじめてからでもいいんじゃないの? 親しくならないと相手のことなんか分からないんだから。香里なんかは、そう考えてるんでしょぅ?」
「……美坂、ね」
北川は何となく胃の腑に鉛を飲み込んだような重さを感じて、息を吐いた。
美坂香里。彼女には今、付き合ってる男がいる。
「あいつは、あいつだろ」
付き合ってみなければ、相手のことは分からない。そう言ったのは、新歓コンパで知り合った学部の先輩と交際をはじめた時の彼女の台詞だ。
そりゃそうだ。仰る通り。実際付き合ってみないと、相手が自分に合うかなんてなかなか分かるものじゃない。カレシカノジョの関係になってから、相手を好きになることだってあるはずだ。いや、今時、付き合いはじめるのには、そっちの理屈の奴の方が多いのだろう。
でも、
「オレは、好きでもない娘と付き合うのって……あー、無理っぽい」
「あはは、奥手よねぇ」
「うるせ。だいたいそういう真琴ちゃんだって、小太郎のやつと付き合ってないじゃないか」
「あたしは、あいつのことはちゃんと分かってるもん。だから付き合わないの」
「……なんだそりゃ?」
「ビギナーには難しすぎる論理かもねぇ」
「び、ビギナー」
北川はショックを受けた。でも反論は浮かんでこない。
最近の真琴には、何か懐の深さのようなものがある。少なくとも男女関係については自分などでは及びもつかないんじゃないかというこなれた雰囲気があった。確かに、今の彼女からすれば自分はビギナーかも、と思わされるような雰囲気が。
「ああもう、この話は終わり」
真琴相手にこういう話には不毛だ。別に真琴以外でも不毛だが。
「なによそれー。あんたもカノジョの一人でも作ればやる気戻るんじゃないかってこのあたしが気を使ってあげてるのに」
「はいはい、ありがとなー」
「あうー、その言い方むかつく」
牙をむいて不満を表明し、真琴はだらけた仕草でベッドの縁から離れた。というよりずり落ちた。
そのまま床に寝そべってゴロゴロと転がっている真琴。
こういうところはまだまだ女の子というより子どもっぽい。
「ああ、そうだ。真琴ちゃん、ゴールデンウィークはどうするんだ?」
「ゴールデンウィーク?」
仰向けに大の字になったところで停止し、鸚鵡返しに聞き返してくる。
「家族でどっか行くのか?」
「ううん、秋子さんが仕事だから家族では無理なの。でも、美汐パパがキャンプに連れてってくれるのよぅ」
嬉しそうに笑って、美汐と一緒に行くのだと詳細を述べる真琴。
「小太郎は?」
「……荷物もち」
そこだけ何だか不本意そうに告げる。
一応彼もちゃんと同行させて貰えるらしい。
「相沢と水瀬も一緒なのか?」
「祐一? ううん、あの二人はお留守番。ッていうか休み中あの二人、家に残るのが自分達だけだからってずっとイチャイチャしてるつもりなのよぅ」
「は? 二人だけって秋子さんと月宮もいないのか」
「秋子さんは仕事で出張。あゆはね」
いきなり語尾だけねっとりとした口調になり、真琴はにんまりと相好を崩した。
「あたしと秋子さんがいない間、てんちょーのところに外泊なのよぅ」
北川はばね仕掛けの人形みたく上半身を起こした。
「マジ!?」
「マジもマジ、大マジなの。あゆは祐一と名雪が二人きりにしてあげるためだー、なんて言ってたけど……うふふふ」
「うはーっ」
「うはーっ、なのよぅ」
顔を真っ赤にして言い訳を口にするあゆの様子を、真琴は面白可笑しく形態模写で表現し、二人はケタケタと笑い転げた。
月宮あゆと雪村要がそういう関係になったのは北川も知っていたが、店ではあまり以前と変わった様子を見つけられなかったので、大して進展していないのかと思っていたが、どうしてどうして。
「てんちょーって意外と隅に置けないのよねぇ」
「意外だ。すっげー意外だぜ」
「……二人してなに笑い転げてるんですか?」
と、其処にいきなり降ってくる北川でも真琴でもない声。
北川が戸口の方に目をやると、きょとんと不思議そうな顔をして天野小太郎が部屋を覗き込んでいた。またぞろ勝手に入ってきたらしい。まあ、笑い転げていたのでチャイムや彼の声を聞き逃したのかもしれないが。
そしてビシッとその小太郎に指を突きつけてしかめっ面になる真琴。
「こたろー、あんた遅刻よ!」
「え、えー!? だってまだ約束の三分前」
「あうー! 何言ってるのよぅ。なにごとも五分前が当然でしょう!」
「真琴ちゃん、あんた厳しいねえ。ってか、オレんちは待ち合わせ場所かよ」
「なに言ってるのよぅ、いまさら」
「確かに今更だけど」
呆れて何も言えなくなってる北川に、何を勘違いしたのか、相好をだらしなく緩めて、小太郎が告白した。
「実はいまからデートなんですよー!」
誰がそんなことを聴きたいと言った?
「あーうるさい、さっさと行け」
邪険に手を振る北川をきっぱり無視して、小太郎はデートの詳細を語り出す。
「駅前に新しく出来たペットショップをちょっと覗いてみようかと」
「……それってあたしにとっては微妙なチョイスなんだけど」
「だから解説はいいからさっさと行ってください。お願いします」
誰も自分の家で他人のお惚気話なんざ聞きたくないっちゅーの。
「はいはい、いわれなくても行くわよぅ。じゃあまたねー、こら前塞ぐな、さっさと出なさいよぅ」
「わわっ、お、お邪魔しましたー」
実際このあとの予定が詰まってるのか、真琴は手荷物を掴むと、小太郎を蹴っ飛ばしながら縺れ合うように家を出て行った。
「慌ただしいなあ、ったく」
言ってから、北川は苦笑を覚えた。どちらかと言えば、自分だって慌ただしいタイプの人間だったはずなのに。
確かに最近、気が抜けている。
北川は、改めてそのことを自覚した。
まったりとしているのも本当だが、虚脱気味というのも本当だ。良かれ悪しかれ高校時代の受験生という立場、いやカリキュラムに縛られた学生生活というものは、目標というものを与えてくれていたのだろう。今はなんだかあやふやだ。試験も講義もある。遊ぶのだって楽しいし、やりたいこともないわけではない。
それでも、なんだか自分の密度が希薄になってしまったような、そんな気分。
そのとき。
ガチャ、とドアが音を立てて開いた。
真琴の残したコップをキッチンに戻しに行こうとしていた北川は、その音と外から吹き込む風に、後ろを振り返る。
「よう、美坂。今帰りか」
「ああ、いたわね。ええ、学校からの帰りよ」
北川の姿を認め、玄関に入ってきた彼女は、ほつれた髪をかきあげながら、目を細めた。
其処には、高校時代とは少し変わった美坂香里が立っていた。
やや染められて色素が薄くなった髪の毛。高校の頃よりも力の入った装い。センスのいい着こなし。派手ではないもののポイントを引き締めている着けピアスやネックレスといったアクセサリー類。そして、薄くだが化粧が施され、彼女の魅力を引き立たせている。
はっきり言って綺麗だった。
とはいえ、変わったのは外見だけで、つまりは女子大生らしく気合を入れてお洒落をするようになったと言えばそれまでなのだろう。
内面の方は前と特に変わったところはない。
自分と相沢のくだらない行動に対する呆れたような突っ込みも、美坂チームとしての付き合い方も、前と何も変わっていない。疎遠どころか、前よりも距離感は近いくらいだ。だけど、近くなった分、彼女はそれを特別なものと区切って大切にする代わりに、他の付き合いと分けて扱うようになっていた。
「悪いんだけど、カバン預かってくれる?」
「出かけるのか?」
「ええ、駅前に車回してくれるみたいだから、そこで待ち合わせなのよ」
「デートか?」
「まあね」
香里は、ずっしりと教科書や参考書の類がつまったバッグを北川に手渡しながら、はにかんだ。
北川の自宅は、駅と香里の家の間にある所為か、こんな風に休憩所や預かり所めいた使い方をされることは珍しくない。
「今日、うちに寄るんでしょ? 晩御飯はいらないって伝えておいてくれないかしら」
「別に構わんけど。あんまり遅くなるとおじさん怒るぞ」
「日が変わる前には帰るわ」
少し苦笑を滲ませてかすかに肩を竦ませる香里に、北川は小さく頷いた。そして、軽くその場で雑談をしながら、思う。自分達のこの関係はなんなんだろうな、などと。
以前、北川は香里に聞いたことがある。
こんな風に他の男の家に気楽に出入りして、彼氏は嫌がらないのかと。
すると香里は鼻で笑うかのような口調で、あっさりこう言ったものだ。
『あのね、別にあなたとあたしは全然そういう関係じゃないでしょう? なのに、とやかく言われる筋合いはないわよ。いちいちそんな事にまで口を挟んでくるぐらい狭量な人なら、付き合うのをやめるわ。つまりあたしには合わないってことでしょ、それって』
男から言わせれば、その言い分はキツいと思ったものだ。北川だって、付き合ってる相手が頻繁に他の男の家に出入りしていれば、我慢できないだろう。例え、それが親友よりも家族みたいな関係だったとしてもだ。
だが、来るなと香里に告げる勇気は、北川にはなかった。
香里のことを思えば、そう告げるのがいいのだろう。だけど、それは今の自分と彼女の関係を完全に断ち切ってしまうように思えて、どうしても言う気にはなれなかった。
結局のところ、自分は美坂が全然知らないやつと付き合いだしたのが気に食わないのだ、と北川は開き直ったように思った。
自分とはまったく関わりのない人間と付き合うことで、なんだか、身近に居る人が自分から遠ざかってしまったみたいな気がして。勿論、それは錯覚だ。現にこうして彼女とは前と同じかそれ以上に近しいと言える間柄のままなのだから。
でも、だからこそ、来るなと言えば、本当に遠くの人になってしまうと、どこかで確信しているのだ。
この得難いであろう気安い近しさが、反転して完全な疎遠になってしまうのだ、と。
これは、多分妹や姉に彼氏が出来た時と同じような気持ちなのだろう。でも、自分と彼女とは血の繋がりはない。単に家族ぐるみの関係というだけなのだ。だから、どれほど近しかろうと切れてしまえば何の関係もなくなる間柄に過ぎない。
北川は香里の彼氏という男と喋ったこともないし、香里の方もそちらの付き合いと、北川や祐一の方の付き合いを完全に分けて扱っている。北川にとってはありがたい話だが、そんな一線を引いた状態がいつまでも続くとは正直思えない。
いったい美坂チームはどうなるのだろう。こんなにも密接な関係なのに、決して強固とは思えない。どこかひょんなことで全部崩れてしまいそうな脆さを感じてしまっている。漠然とした不安が靄のように北川を覆っている。
環境が新しくなって、自分は神経が過敏になっているのだろうか。そんな自嘲めいたものを北川は胸の奥に宿した。
「じゃあよろしくね、北川くん」
「あっ、あのさ美坂」
「ん、なに?」
出て行こうとした香里を呼び止め、北川は口篭もった。半開きになったドアから、ひんやりとした空気が流れてきて、頬を撫でていく。
「ゴールデンウィーク、やっぱり一緒に行かないのか」
「……約束、してあるしね」
視線を外に向け、香里は淡々と呟く。
「栞には散々厭味言われたわ」
「怒ってたからな、栞ちゃん」
「でも、まあ決まったことだし」
肩を竦め、香里は首を北川に向けると、昔どおりの知的な中に稚気をまぶした笑顔をひらめかせ、
「あなたの従弟くんには是非会ってみたかったんだけどね。また今度会わせなさいよ」
「別に面白い奴じゃないぜ」
「それは直接会ってみなきゃ分からないでしょ。さて、そろそろ行くわ。っと、遅れそう」
「あ、うん。いってらっしゃい」
ヒラヒラと手を振って美坂香里はドアを開けた。風がいっそう強くなる。たなびく髪の毛を耳元に手をやって押さえながら、一瞥を残して、彼女は歩き去っていった。
ドアが閉まる。同時に遠ざかる硬質の靴音も聞こえなくなった。
「…………ふう」
何となく溜息を漏らし、手にかかる重さに香里のかばんをぶらさげていたままなのを思い出して、北川は自分の部屋に踵を返した。
旅行の準備、そろそろはじめるか。
ゴールデンウィーク、北川潤は美坂一家のお誘いを受けて、一緒に関西の温泉へと旅行に行くことになっていた。紆余曲折の結果、従弟の北川薫をオマケに加えることになりつつ。
当初は美坂と北川の二家族でということで話は進んでいたのだが、仕事の関係で北川哲平と功刀が行けなくなり、とはいえ折角なので薫だけでも参加になったという次第。
そして――――
美坂香里は最初から不参加と決まっていた。
彼氏とその友人グループと旅行に行くのだという。
五月まで、もう日はあまりない。
第七幕目次へ